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第一章 逆行したレティシア(幼少期)

38. イリナとの再会、レティシアは出直す

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 宮殿の二階にある廊下を渡って鍛錬場に向かうレティシアは、ふと遥か遠くに見える景色に目を向ける。しばらく足を踏み入れていない皇太子宮の庭園の片隅に、目に沁みるような濃い紫色の色彩が広がっていた。

「ヒソップ……」

 そういえば以前にソフィー皇后の指導のもと刺繍したハンカチを、未だリュシアンに渡しそびれていた。
 図案はヒソップの花で、レティシアのイニシャルも刺してある。この国で自分のイニシャル入りのハンカチを贈ることは、相手に対する愛情を示す物であった。

「結局リュシアン様には渡せないままなのよね。こんな事になるならば、常に持参しておけば良かったわ」

 鍛錬場へはここからぐるりと遠回りに廊下を進まなければならない。それでもジェラン侯爵ら官僚が勤めている区域とは離れていた為に、レティシアは安心して歩く事が出来た。
 やはりあの侯爵の執拗な視線は、レティシアにとってひどく嫌悪感を抱くものであったので、いくら皇后付き女官に任命されたとしても、出来る限り会いたくは無い相手である。

 やっとの事で鍛錬場の近くまでやって来たレティシアは、今更になって緊張から手先が震えるのを自覚する。
 回帰したリュシアンの事情を知った今、何も恐れる事は無いのだと分かっていても、やはり強く拒絶されるのでは無いかという不安がむくむくと湧いてくるのだ。
 想い人に冷たく拒絶されるのは、やはりいつまで経っても慣れないものである。

「大丈夫、リュシアン様は私の事を嫌ってなどいないのだから」

 そう自分に言い聞かせて鍛錬場の入り口へと一歩を踏み出した時、突然後方から腕を引かれたレティシアは、小さく悲鳴を上げるとバランスを崩し、その場に尻もちをついた。

「いったぁ……」
「あら、ごめんなさい。貴女ってとても神経が図太いようだから、まさかそんなにか弱いとは思わなかったわ」
「貴女は……イリナ嬢?」

 振り返り自分の手を引いた相手を見上げると、逆光となって確認しづらいが、その声は決して忘れる事がないものだった。
 レティシアより三つ年上のイリナはまだ八歳。しかし小柄なレティシアと違ってスラリと手足が長い長身の彼女は、実年齢よりも大人びて見える。

「殿下に婚約破棄されたお可哀想な貴女が、このような場所に何の用かしら?」

 レティシアとリュシアンの婚約破棄についてイリナは、恐らく父親であるジェラン侯爵から話を聞いたのであろう。
 自信満々に顎をツンとするその表情は、八歳にして既に、他人を愚弄する事に慣れていた。

 唇をぎゅっと結んだレティシアは、すっと起き上がると何事も無かったかのようにドレスの汚れを払い、見事なカーテシーを披露する。
 イリナはその様子に目を見開いた。

「……ごきげんよう、イリナ嬢。リュシアン様にお話があるのです。イリナ嬢こそ、どうしてここへ?」
「ふぅん。てっきり転んで泣き喚くかと思ったけれど、案外気が強いのね。私は英雄ディーン様に師事しているのよ。先程までここで剣を習っていたの」

 よく見ればイリナの腰元には立派な剣が差してあり、レティシアはそれを見て過去に自分がイリナに刺された事をまざまざと思い出す。
 それだけで体の真ん中がひどく痛み、熱を持ち、呼吸が荒くなった。そのような身体の不調を必死に堪えながら、レティシアは平静を装い得意げなイリナに対峙する。
 これ以上この場で大きな揉め事にしないよう、相手を褒めてやり過ごすつもりで。

「英雄から直々に剣を学ぶなど、素晴らしい事ですわ。イリナ嬢は将来、女騎士になって帝国の為に活躍するおつもりなのですね。帝国の女騎士は希少ですもの。そうなればとても名誉な事だと思います」

 事実過去にイリナは女騎士となって、リュシアンの片腕として革命に参加していたのだから。

「私がこの帝国の為に女騎士になるですって? ふんっ! 貴女ってまだまだ子どもらしい考えしか出来ないのね。頭脳明晰とは聞いていたけれど、年相応ってとこかしら。まぁまだお子様だから、私がこうする目的が分からなくても仕方がない事よね。ふふっ……」

 口元に手を当て目を細めたイリナは、レティシアを見下ろしながら鼻で笑うと、満足したのかそれ以上何かしてくるという事は無かった。
 レティシアも、まさか「女騎士となりリュシアン様の補佐をして、将来の皇后の座を狙っているのですね」などとは言えないから、曖昧に微笑むにとどめた。

「あぁ、そうだわ。殿下は今日、ここへは終日いらっしゃらないそうよ」
「それはどうして……」
「さぁ? こちらが聞きたいわね。全く、そうならそうとディーン様も早く教えてくれればよかったのに。半日を無駄にしてしまったわ」

 イリナが嘘を吐いている可能性もあったが、その様子から見るにどうやらリュシアンが鍛錬場に居ないというのは本当のようだ。
 それに、イリナはそこから動く気配が無く、このままレティシアが鍛錬場へ向かえば「私が嘘を吐いているというのか」と怒りかねない。

 それならば皇太子宮へ向かおうかとも思ったが、流石に今日は宮殿に長居し過ぎている。これからまだ歩いて離れた皇太子宮に行くのは、五歳の身体には少々負担だった。
 仕方なくレティシアは日を改めることにする。せっかくならば今度は刺繍したハンカチを持参して、リュシアンに渡してから話せば良いと、そう自分に言い聞かせた。

 レティシアが去り際の挨拶をしてその場を後にすると、その背中を腕組みしてしばらくの間見張っていたイリナ。彼女はレティシアが戻って来ないのをしっかりと確認してから、自らも鍛錬場を離れ去った。

 
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