上 下
35 / 91
第一章 逆行したレティシア(幼少期)

35. アヌビスとの答え合わせ、レティシアは決意する

しおりを挟む

 ――「予想よりも治りが悪い。随分と痛々しい傷じゃ……。まさか本当にイリナ嬢がここまでするとはの。殿下があの石を使っていなければ即死じゃったろうに」

 ぼんやりした記憶、遠くから聞こえたのはアヌビスの声。背中は硬い石造りの床では無く、柔らかな寝台のような場所に寝かされているようだ。
 呼吸はしているようで、薬草のような匂いが鼻をつく。強く感じていた痛みや熱さよりも、そのうち段々と眠気が強くなってきた。

「どうだ? まだ意識は戻らないのか?」
「石を使った割には何故か傷の治りも悪く、まだまだ油断できませんな」
「だが、お前の言う通りに使ったぞ。何故傷の治りがこうも遅いんだ? 顔色も悪いし、呼吸も浅い気がするが」

 レティシアの頬を、冷たい手が撫でる感触がした。硬い剣だこのある手のひらは、そっと優しく輪郭をなぞる。
 それがあんまり心地が良くて、レティシアは抗えない眠気にもう身を委ねる事にする。
 
「ん? これはまずい。レティシア嬢! 戻って来なされ! 逝ってはならぬ!」
「どうした⁉︎」
「魂が、魂がレティシア嬢の器から抜け出して、消えようとしておる!」

 ガチャガチャと何かの器具がぶつかり合う音がする。
 頭上で言い合う二人の声が何故かひどく耳障りに聞こえて、レティシアは「もうやめて」と声を発したくなった。
 けれど自分の力では、もう指一本も動かせない。
 
「くそっ! アヌビス、どうにかしろ! レティー! レティー! 逝くな!」
「あぁ……ダメじゃ、もう……」
「諦めるな、アヌビス! 何とか……」
 
 そこから先は、レティシアの記憶に無い。恐らくその後にあの真っ暗な空間へと放り出されたのだ。

「私はあの時……すぐに死んではいなかったの?」
「何か、思い出したのかな?」
「何かの……石? を私に使ったと……。けれどもう手遅れだったようで……」

 あの時、刺されたレティシアはこの医務室のような匂いのする場所へ運ばれていた。
 そこにはアヌビスも居て、リュシアンはレティシアを救う為に手を尽くしたのだろう。
 
「ほぅ、恐らくその石はのぅ、一度だけ、どんな傷や病をも治す力を持つ物で、今のこの世界にはもうたった一個しか残っておらん大変貴重な物じゃ。今もワシが殿下にお守りがわりに手渡しておる」
「何故……? 私を助けようとしたの?」

 レティシアはてっきりリュシアンも自分の事を殺すつもりであの場に現れたのだと、ずっとそう思っていた。
 革命を起こしたのだ。あの場で血が流れるという事は覚悟していたのだろう。
 
 しかし父親であるベリル侯爵を庇い、レティシアがイリナに刺されたあの時、おおかたそれはリュシアンにとっても予想外の出来事だった。
 せいぜい捕縛、投獄し、しばし幽閉するつもりだったのかも知れないが、リュシアンにはレティシアを殺すつもりなど無かったのだろう。けれどそこに、イリナとリュシアンの思惑の違いがあったとしたら……。

 過去でレティシアはリュシアンからきちんと話を聞いていない。リュシアンがあの時どう思っていたのか、どうするつもりだったのかはその行動で予想するしか無い。
 
 あの時、愚かだとリュシアンはレティシアに言った。父親を庇って刺されるなど、愚かだと。
 
 しかしアヌビスに手渡されていたその不思議な石さえあれば、レティシアの命を助けられると信じていたのだとしたら?
 だからあの時イリナに知られぬよう、密かにそれを使った。イリナとリュシアンは強い信頼で結ばれた味方同士なのだと思っていたが、もしそれが違っていたのだとしたら?
 
 結果的にレティシアは死んでしまったが、何の因果か魂が時を超えて回帰した。

「リュシアン様は……私を元々助けるつもりだった?」
「そうさの、ワシが殿下から聞いた話によれば、そのおつもりだったようじゃ。まぁ、色々と予想外の事が起きたらしいが」
「やはり……ただ見殺しに……されたわけでは……無かったのね」

 リュシアンにそんなつもりは無かったのだ。それが分かっただけでも、レティシアにとっては非常に大きな救いであった。

「ふ……っ、うう……うっ、ううぅ」

 何とか声を押し殺そうとしても、次々と漏れ出る苦しげな嗚咽。レティシアは初めて知った事実に感情を制御しきれなくなる。

「大丈夫かの? ほらほら、そう泣くでない。もう涙も枯れ果て、脱水になってしまう」
 
 言いつつ慌ててハンカチを探していたアヌビスは、シワシワになったそれをやっと懐から出すと、レティシアに手渡した。
 
 老人アヌビスには何となく似合わぬ、可愛らしい青い鳥が刺繍されたハンカチには、「A.A.」とイニシャルも刺されてある。
 レティシアはアヌビスを大切に想う人が手渡した物なのだと思い、無闇に使わずそっと畳み直して返す。

「いやはや、しわくちゃですまんのぅ」
「いえ、私もハンカチは持っておりますから。ありがとうございます。可愛らしい小鳥の刺繍ですね」
「昔々の贈り物じゃ」

 そう言ったアヌビスは遥か遠くを見るようにして、その後レティシアの方へと笑顔を向けた。
 アヌビスの横顔が一瞬精悍な若者に見えた気がして、驚いたレティシアは二、三度瞬きをする。しかしやはり今目の前にいるのは歳を重ねた老人であった。

「今……」
「ん? 何じゃ?」
「いえ……。私、リュシアン様ときちんと話さなければなりませんね」

 その瞳にもう涙は浮かんでいない。レティシアの明るく強い決意が籠ったようにも聞こえる声に、アヌビスは大きく頷く。そしてパチリと片目を瞑ると、にっこり笑ってレティシアに告げた。

「せっかくやり直しの機会が与えられたのじゃから、どうか今度こそ、後悔のないように行動しなされ。出来る事ならワシも、やり直してみたいものじゃ」

 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

俺の婚約者は地味で陰気臭い女なはずだが、どうも違うらしい。

ミミリン
恋愛
ある世界の貴族である俺。婚約者のアリスはいつもボサボサの髪の毛とぶかぶかの制服を着ていて陰気な女だ。幼馴染のアンジェリカからは良くない話も聞いている。 俺と婚約していても話は続かないし、婚約者としての役目も担う気はないようだ。 そんな婚約者のアリスがある日、俺のメイドがふるまった紅茶を俺の目の前でわざとこぼし続けた。 こんな女とは婚約解消だ。 この日から俺とアリスの関係が少しずつ変わっていく。

【完結】愛され令嬢は、死に戻りに気付かない

かまり
恋愛
公爵令嬢エレナは、婚約者の王子と聖女に嵌められて処刑され、死に戻るが、 それを夢だと思い込んだエレナは考えなしに2度目を始めてしまう。 しかし、なぜかループ前とは違うことが起きるため、エレナはやはり夢だったと確信していたが、 結局2度目も王子と聖女に嵌められる最後を迎えてしまった。 3度目の死に戻りでエレナは聖女に勝てるのか? 聖女と婚約しようとした王子の目に、涙が見えた気がしたのはなぜなのか? そもそも、なぜ死に戻ることになったのか? そして、エレナを助けたいと思っているのは誰なのか… 色んな謎に包まれながらも、王子と幸せになるために諦めない、 そんなエレナの逆転勝利物語。

【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~

塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます! 2.23完結しました! ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。 相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。 ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。 幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。 好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。 そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。 それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……? 妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話 切なめ恋愛ファンタジー

【完結】名ばかりの妻を押しつけられた公女は、人生のやり直しを求めます。2度目は絶対に飼殺し妃ルートの回避に全力をつくします。

yukiwa (旧PN 雪花)
恋愛
*タイトル変更しました。(旧題 黄金竜の花嫁~飼殺し妃は遡る~) パウラ・ヘルムダールは、竜の血を継ぐ名門大公家の跡継ぎ公女。 この世を支配する黄金竜オーディに望まれて側室にされるが、その実態は正室の仕事を丸投げされてこなすだけの、名のみの妻だった。 しかもその名のみの妻、側室なのに選抜試験などと御大層なものがあって。生真面目パウラは手を抜くことを知らず、ついつい頑張ってなりたくもなかった側室に見事当選。 もう一人の側室候補エリーヌは、イケメン試験官と恋をしてさっさと選抜試験から引き揚げていた。 「やられた!」と後悔しても、後の祭り。仕方ないからパウラは丸投げされた仕事をこなし、こなして一生を終える。そしてご褒美にやり直しの転生を願った。 「二度と絶対、飼殺しの妃はごめんです」 そうして始まった2度目の人生、なんだか周りが騒がしい。 竜の血を継ぐ4人の青年(後に試験官になる)たちは、なぜだかみんなパウラに甘い。 後半、シリアス風味のハピエン。 3章からルート分岐します。 小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。 表紙画像はwaifulabsで作成していただきました。 https://waifulabs.com/

【完結】双子の伯爵令嬢とその許婚たちの物語

ひかり芽衣
恋愛
伯爵令嬢のリリカとキャサリンは二卵性双生児。生まれつき病弱でどんどん母似の美女へ成長するキャサリンを母は溺愛し、そんな母に父は何も言えない……。そんな家庭で育った父似のリリカは、とにかく自分に自信がない。幼い頃からの許婚である伯爵家長男ウィリアムが心の支えだ。しかしある日、ウィリアムに許婚の話をなかったことにして欲しいと言われ…… リリカとキャサリン、ウィリアム、キャサリンの許婚である公爵家次男のスターリン……彼らの物語を一緒に見守って下さると嬉しいです。 ⭐︎2023.4.24完結⭐︎ ※2024.2.8~追加・修正作業のため、2話以降を一旦非公開にしていました。  →2024.3.4再投稿。大幅に追加&修正をしたので、もしよければ読んでみて下さい(^^)

不憫な妹が可哀想だからと婚約破棄されましたが、私のことは可哀想だと思われなかったのですか?

木山楽斗
恋愛
子爵令嬢であるイルリアは、婚約者から婚約破棄された。 彼は、イルリアの妹が婚約破棄されたことに対してひどく心を痛めており、そんな彼女を救いたいと言っているのだ。 混乱するイルリアだったが、婚約者は妹と仲良くしている。 そんな二人に押し切られて、イルリアは引き下がらざるを得なかった。 当然イルリアは、婚約者と妹に対して腹を立てていた。 そんな彼女に声をかけてきたのは、公爵令息であるマグナードだった。 彼の助力を得ながら、イルリアは婚約者と妹に対する抗議を始めるのだった。 ※誤字脱字などの報告、本当にありがとうございます。いつも助かっています。

【完結】その溺愛は聞いてない! ~やり直しの二度目の人生は悪役令嬢なんてごめんです~

Rohdea
恋愛
私が最期に聞いた言葉、それは……「お前のような奴はまさに悪役令嬢だ!」でした。 第1王子、スチュアート殿下の婚約者として過ごしていた、 公爵令嬢のリーツェはある日、スチュアートから突然婚約破棄を告げられる。 その傍らには、最近スチュアートとの距離を縮めて彼と噂になっていた平民、ミリアンヌの姿が…… そして身に覚えのあるような無いような罪で投獄されたリーツェに待っていたのは、まさかの処刑処分で── そうして死んだはずのリーツェが目を覚ますと1年前に時が戻っていた! 理由は分からないけれど、やり直せるというのなら…… 同じ道を歩まず“悪役令嬢”と呼ばれる存在にならなければいい! そう決意し、過去の記憶を頼りに以前とは違う行動を取ろうとするリーツェ。 だけど、何故か過去と違う行動をする人が他にもいて─── あれ? 知らないわよ、こんなの……聞いてない!

義妹がすぐに被害者面をしてくるので、本当に被害者にしてあげましょう!

新野乃花(大舟)
恋愛
「フランツお兄様ぁ〜、またソフィアお姉様が私の事を…」「大丈夫だよエリーゼ、僕がちゃんと注意しておくからね」…これまでにこのような会話が、幾千回も繰り返されれきた。その度にソフィアは夫であるフランツから「エリーゼは繊細なんだから、言葉や態度には気をつけてくれと、何度も言っているだろう!!」と責められていた…。そしてついにソフィアが鬱気味になっていたある日の事、ソフィアの脳裏にあるアイディアが浮かんだのだった…! ※過去に投稿していた「孤独で虐げられる気弱令嬢は次期皇帝と出会い、溺愛を受け妃となる」のIFストーリーになります! ※カクヨムにも投稿しています!

処理中です...