上 下
34 / 91
第一章 逆行したレティシア(幼少期)

34. レティシア、リュシアンの回帰を知る

しおりを挟む

 リュシアンが医務室を去った後、レティシアはアヌビスの勧めで、以前過呼吸を起こした時に運ばれた奥の部屋へと招かれた。
 窓の無い薄暗い部屋には薬草の香りが漂っている。

「まぁまぁ、そこにお掛けなさい」
「ありがとうございます」

 レティシアを椅子に腰掛けさせたアヌビスは、慣れた手付きでいつかのように、レティシアに温かい飲み物を淹れて手渡した。

「して、話とは何かの?」

 アヌビスの黄金色の瞳がレティシアを射抜く。アヌビス老人の前では、この世の全ての秘密が簡単に曝け出されてしまいそうだ。
 珍しく不思議な黄金色の瞳、吸い込まれそうなその虹彩の色合いを見ているうちに、レティシアは心が凪いでいくのを感じる。

「アヌビス様、私の身に起こった、とても不思議な話を聞いてくださいますか」
「ふぅむ、それは面白そうだ。是非話してみなさい」

 レティシアは自分の身に起こった話を全てアヌビスに語った。
 四歳のあの日、殺されたはずの自分が此処に回帰してきたという事実から始まり、過去にレティシアがどのような経緯で最期を迎える事になったのか。
 そして、同じ未来を辿らない為に此処に来て自分がして来た事を。

「なるほどのぅ。レティシア嬢は確かに回帰した。されども何故時を逆行したのかは自身でも分からないと?」
「ええ、勿論私にそんな力はありませんし、イリナ嬢に殺されてしまった私が、どうして過去に戻れたのかは分からないのです」
「ほぅ、そうかそうか」

 レティシアの話を穏やかに聞いていたアヌビスは、本人に聞けばどうやって回帰したのか判明するだろうと思っていたので、レティシア自身も分からないという意外な事実に内心驚いていた。
 やはり別の時空に存在したアヌビス自分は、以前に聞き及んでいた通り、リュシアンだけを逆行させたのだ。

「このような話、すぐには信じられないですよね」

 シュンとしたレティシアはアヌビスの反応が思ったより薄い事から、この現実離れした話を到底信じて貰えていないのだと考えた。
 子どもの考える空想だと思い、適当に話を合わせてくれているのでは無いかと。
 
「フォッ、フォッ、フォッ……。ワシがあまり驚かないから不安になったかの? いや、レティシア嬢の話は十分に信じとるよ」
「本当ですか⁉︎」
「勿論じゃ。未だ不可解な事はあるにせよ、確かに条件さえ揃えば、時を遡る事が可能な事は分かっておる。ワシはレティシア嬢が経験した事象を引き起こす為の考究をしておった事があっての」
「えっ⁉︎ アヌビス様が、ですか?」

 反対にレティシアを驚かせたアヌビスは、その黄金色の瞳を細めて笑う。
 笑うとなお一層皺だらけになる顔は、レティシアには何故か少し寂しげにも見えたのである。

「今のワシは何も成しておらん。しかしレティシア嬢が元いた場所でのワシは、どうやら殿下を此処へ送り込む事に成功したらしい」

 アヌビスの突然の告白に、レティシアはすぐにその意味を理解出来なかった。
 少しの間を置いて、やっとその意味を理解したレティシアはくしゃりと顔を歪めて、澄んだ紫色の瞳から次々と涙を溢した。

「リュシアン様は……いつから……?」
「レティシア嬢がこちらへ来たのは四歳の頃、宮殿で意識を無くしてここへ運ばれた時であろう? 殿下の魂が変わったのは、皇后陛下が死産なさる少し前じゃ」
「ソフィー様の……死産の前に……」
「ある時、突然人が変わったように大人びた口ぶりとなった殿下は、ワシに皇后陛下の命を助けろと言って来ての。半信半疑ながら、殿下の言う通りにした。宮殿を離れる予定を取り止め、陛下に何かあった時の為に備えたんじゃ。ただ……死産に関しては赤子の寿命じゃったから、どうする事も出来なんだ」
「それじゃあ……リュシアン様は……っ、ソフィー様の命を助ける為に……?」

 嗚咽混じりの質問に、アヌビスは一言「殿下にとっての陛下はかけがえのない人じゃ」と言って頷いた。
 ただそれだけで、レティシアは過去にソフィー皇后を喪った時の辛さや、その後に変わってしまったリュシアンに対する色々な思いが一気に溢れ、堪えきれなくなった声を漏らし、涙を一層はらはらと流す。

「ただ、殿下が戻ったのはそれだけが理由では無いのだ。聞くところによると、寧ろ皇后陛下の死産前に戻られたのは奇跡的な偶然での。殿下が時を逆行した本来の目的はレティシア嬢……其方じゃよ」
「私……?」

 レティシアはアヌビスの口から出た言葉が、俄には信じられなかった。
 嫌われていた、憎まれていたはずのリュシアンが、まさか自分の為に過去へと逆行したのだという事を、受け入れるには突然過ぎたのだ。
 
「殿下から大体の事は聞いた。……というよりも全て吐き出させた。そしてワシは心から『愚か者』と殿下を叱った。しかし過去のワシがちゃあんと殿下のお側にずっと居たのなら、きちんと殿下を導いておったら、レティシア嬢に色々と辛い思いをさせる事は無かったやも知れん。すまなんだのぅ」
「そんな……私が……私が悪いのです。愚かで、弱くて……リュシアン様の気持ちを汲み取れなかったから」
「殿下も同じような事を言っておったわ。ワシが言うのもおかしい事じゃが、殿下とレティシア嬢の間には色々と誤解があるようでの」
「誤解……ですか?」
「ああ、恐らく多くの誤解が複雑に絡まっておる。それをちゃんと話せと言うておるのに、殿下は話し合うより先に行動してしまったんじゃ。レティシア嬢の命を今度こそ誰にも奪わせまいと、婚約破棄という方法で早めに遠ざける事を選んだ。ほんに不器用で自分勝手で、傍迷惑な男じゃ」

 突然遠ざけられ、婚約破棄を告げられ、レティシアはリュシアンに今世でも嫌われたのだと思っていた。
 
 過去の時だってリュシアンはレティシアにとって五つも年上で、まだ子どもだったレティシアにはとても大人びて見えたものだ。
 リュシアンは正しく、間違いなど犯さない。そのリュシアンに嫌われたのだとしたら、全て自分が悪いせいだと思い込んでいた節がある。

「リュシアン様はお心が強いのだと、決して過ちを犯したりしないのだと。私が勝手にそう思っていたのが、きっとそもそもの間違いだったのです。もっと……私が強く賢くあれば……」
「よいか、過去の事に関してはデビュタントを迎える前の、幼かったレティシア嬢のせいでは決して無い。そもそも、周りの大人達が悪いのじゃ。何故かは知らんが途中で行方不明になったという過去のワシも含めて、な」

 過去でアヌビスとほとんど関わりの無かったレティシアは、行方不明になったという話も初耳であった。
 それなのに、今のアヌビスはこうやって一番事情を分かってくれている。既に過去とは様々な事が違っているのだ。
 
「リュシアン様は、他に何とおっしゃってましたか? どうして私に何も話してくださらないのでしょう」
「ワシには其方の魂が本来の物では無いとすぐに分かったが、殿下はまだそれを知らん。単にこのままレティシア嬢に嫌われて、遠ざければ命を救えると思っておるのじゃろ。ほんに、阿呆じゃ」
「では、私が回帰した事を知っているのはアヌビス様だけなのですね? リュシアン様はご存知ないと」
「そうさの。だからまさかワシがレティシア嬢に、殿下も回帰していると言うことを話すとは思うとらんじゃろ。レティシア嬢がなぁんにも知らないと思って、一人で何とかしようとしとる。何なら『私は全て知っておりますよ』と、驚かしてみれば良い。いい気味じゃ」

 アヌビスはおどけたように肩をすくめてそう言ったが、レティシアは真面目な顔を崩さない。

「リュシアン様は……私が死ぬ未来を変えようと……? あの時……イリナ嬢が私を刺したのは、リュシアン様の指示では無かった?」
 
 今聞いた事をすぐに納得するにはあまりにも衝撃的である。ずっとそうだと思い込んできた事を、突然覆されたのだから。

「そのようじゃ。突然色々言われても困るじゃろうが、これは真の事。過去には色々と誤解があった。今に関しては殿下がレティシア嬢の回帰を知らぬから、自ら遠ざけようと一人で足掻いておる。あんなに辛そうな顔をしておきながら、好いた相手を自分から遠ざけるなどとカッコつけて笑えるがの」

 アヌビスはわざとリュシアンを貶めるような言い方をしているが、その表情にはしっかりと優しさが見える。
 まるで手のかかる自分の孫のように、リュシアンの事を心から思っているのだろうとレティシアには伝わった。

「リュシアン様は……不器用な方なのです」

 そこでレティシアはハッとする。リュシアンがレティシアと同じように此処に回帰したのだとしたら……。
 
「もしかしたら……もしかすると、リュシアン様は、あちらの人生ではどのような理由かで亡くなってしまわれたという事でしょうか?」

 そう考えるだけでズキンと心が痛んだレティシアは、ぎゅっと握った拳を胸に当て、急に真剣な眼差しになったアヌビスの返事を待った。

「レティシア嬢が彼方で逝去してからの事は、またいつか時が来れば殿下から全て聞けば良いと思う。しかし、その質問にだけは答えよう。殿下は民の為に帝国を平定した後、彼方のワシの力によって此方へ来なさった。その際には……レティシア嬢と同じく御命を犠牲になさったそうじゃ」

 やっぱり……と、レティシアは背筋が凍る思いがした。魂を彼方に残したまま此方へ来る事は出来ない。
 だとすれば、リュシアンは確かに一度命を落としたのだ。アヌビスの言う通りならば、それはレティシアの為に。

「リュシアン様……」

 それを思うだけで、レティシアは再び胸に鋭い衝撃を受けた。悲しくて、辛くて、痛ましい。
 レティシアはずっとリュシアンの事が好きだったのだ。子どもの頃から。嫌われても、遠ざけられても、ずっと。
 人を好きという気持ちは自分でどうにか出来るものでは無く、嫌いになった方が余程楽だと思ったとしても、感情を自身で制御する事は難しい。
 
 過去に、目の前でレティシアの命の灯火が消えようとした時、リュシアンの表情はどうだっただろうか。声は、どうだっただろう。
 どうしてかそれを今ここで思い出さねばならぬ気がして、レティシアは朧げに残っている記憶の欠片をかき集める。

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】 いいえ、あなたを愛した私が悪いのです

冬馬亮
恋愛
それは親切な申し出のつもりだった。 あなたを本当に愛していたから。 叶わぬ恋を嘆くあなたたちを助けてあげられると、そう信じていたから。 でも、余計なことだったみたい。 だって、私は殺されてしまったのですもの。 分かってるわ、あなたを愛してしまった私が悪いの。 だから、二度目の人生では、私はあなたを愛したりはしない。 あなたはどうか、あの人と幸せになって --- ※ R-18 は保険です。

私が死んで満足ですか?

マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。 ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。 全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。 書籍化にともない本編を引き下げいたしました

【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~

塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます! 2.23完結しました! ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。 相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。 ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。 幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。 好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。 そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。 それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……? 妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話 切なめ恋愛ファンタジー

婚約「解消」ではなく「破棄」ですか? いいでしょう、お受けしますよ?

ピコっぴ
恋愛
7歳の時から婚姻契約にある我が婚約者は、どんな努力をしても私に全く関心を見せなかった。 13歳の時、寄り添った夫婦になる事を諦めた。夜会のエスコートすらしてくれなくなったから。 16歳の現在、シャンパンゴールドの人形のような可愛らしい令嬢を伴って夜会に現れ、婚約破棄すると宣う婚約者。 そちらが歩み寄ろうともせず、無視を決め込んだ挙句に、王命での婚姻契約を一方的に「破棄」ですか? ただ素直に「解消」すればいいものを⋯⋯ 婚約者との関係を諦めていた私はともかく、まわりが怒り心頭、許してはくれないようです。 恋愛らしい恋愛小説が上手く書けず、試行錯誤中なのですが、一話あたり短めにしてあるので、サクッと読めるはず? デス🙇

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。

婚約破棄をされた悪役令嬢は、すべてを見捨てることにした

アルト
ファンタジー
今から七年前。 婚約者である王太子の都合により、ありもしない罪を着せられ、国外追放に処された一人の令嬢がいた。偽りの悪業の経歴を押し付けられ、人里に彼女の居場所はどこにもなかった。 そして彼女は、『魔の森』と呼ばれる魔窟へと足を踏み入れる。 そして現在。 『魔の森』に住まうとある女性を訪ねてとある集団が彼女の勧誘にと向かっていた。 彼らの正体は女神からの神託を受け、結成された魔王討伐パーティー。神託により指名された最後の一人の勧誘にと足を運んでいたのだが——。

選ばれたのは私以外でした 白い結婚、上等です!

凛蓮月
恋愛
【第16回恋愛小説大賞特別賞を頂き、書籍化されました。  紙、電子にて好評発売中です。よろしくお願いします(*ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾】 婚約者だった王太子は、聖女を選んだ。 王命で結婚した相手には、愛する人がいた。 お飾りの妻としている間に出会った人は、そもそも女を否定した。 ──私は選ばれない。 って思っていたら。 「改めてきみに求婚するよ」 そう言ってきたのは騎士団長。 きみの力が必要だ? 王都が不穏だから守らせてくれ? でもしばらくは白い結婚? ……分かりました、白い結婚、上等です! 【恋愛大賞(最終日確認)大賞pt別二位で終了できました。投票頂いた皆様、ありがとうございます(*ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾応援ありがとうございました!  ホトラン入り、エール、投票もありがとうございました!】 ※なんてあらすじですが、作者の脳内の魔法のある異世界のお話です。 ※ヒーローとの本格的な恋愛は、中盤くらいからです。 ※恋愛大賞参加作品なので、感想欄を開きます。 よろしければお寄せ下さい。当作品への感想は全て承認します。 ※登場人物への口撃は可ですが、他の読者様への口撃は作者からの吹き矢が飛んできます。ご注意下さい。 ※鋭い感想ありがとうございます。返信はネタバレしないよう気を付けます。すぐネタバレペロリーナが発動しそうになります(汗)

【完結】不誠実な旦那様、目が覚めたのでさよならです。

完菜
恋愛
 王都の端にある森の中に、ひっそりと誰かから隠れるようにしてログハウスが建っていた。 そこには素朴な雰囲気を持つ女性リリーと、金髪で天使のように愛らしい子供、そして中年の女性の三人が暮らしている。この三人どうやら訳ありだ。  ある日リリーは、ケガをした男性を森で見つける。本当は困るのだが、見捨てることもできずに手当をするために自分の家に連れて行くことに……。  その日を境に、何も変わらない日常に少しの変化が生まれる。その森で暮らしていたリリーには、大好きな人から言われる「愛している」という言葉が全てだった。  しかし、あることがきっかけで一瞬にしてその言葉が恐ろしいものに変わってしまう。人を愛するって何なのか? 愛されるって何なのか? リリーが紆余曲折を経て辿り着く愛の形。(全50話)

処理中です...