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第一章 逆行したレティシア(幼少期)

32. リュシアンの苦悩、すれ違う心(中編)

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 ――皇太子リュシアンが、帝国フォレスティエの歴史上稀に見る悪政を正す為、実の父であり時の皇帝であったムサ・デル・フォレスティエを討った日。

 遡ればソフィー皇后が儚くなった時、民の為の帝国を取り戻す為、リュシアンは革命を起こす事を決心した。
 民の為の帝国……それは母であるソフィー皇后の願いでもあったのだ。その上リュシアンは、寵姫カタリーナにうつつを抜かし、皇后をずっと裏切り続けた皇帝の事を、父としても心から憎んでいたのである。

 一方レティシアは幼い頃からソフィー皇后の事を慕い、ソフィー皇后の方もレティシアを我が娘のように可愛がっていた。
 それなのに、いつの頃からか皇帝やカタリーナと親しくするようになり、「リュシアン様も仲良くして欲しい」などと言う始末。

 リュシアンは、あれほど想っていたはずのレティシアの事が分からなくなった。

 そしてソフィー皇后が死産を原因としてこの世を儚んだ時、悲しみに暮れてはいたものの、その後も皇帝やカタリーナとの交流を嫌がらないレティシアを見て、このような結末を迎えさせた皇帝の事が憎くは無いのかと、大きな怒りを覚えたのだ。
 
 レティシアが自分と同じ気持ちでは無いのだという事が、その時はとにかく腹立たしくてならなかった。
 直接的では無いにしろ、皇后を死に追いやったのは皇帝とカタリーナだ。そのような相手の機嫌を取ったりして、悔しくは無いのか、と。

 それだけ、リュシアンは母の事を大切に思っていた。政略結婚で帝国の母となり、民を一番に思い寄り添ってきた皇后は、ずっとリュシアンの目標であったから。
 その反面、誰よりも帝国を思って公務に励んでいたその皇后を、出来の悪い皇帝は妬み、疎んでいた。
 
 だからこそ皇后が逝去して間もない頃、皇帝は寵姫カタリーナを次の皇后に仕立てようとしたのだ。
 長らく我慢を重ねて来た亡き母の気持ちを踏み躙るその行動に、リュシアンは憎悪を募らせる。

 その頃からだ。皇帝の忠臣であったはずのジェラン侯爵家がリュシアンに近付いてきたのは。

 悲しみと怒りに支配されたリュシアンは、帝国貴族の中でも力を持つジェラン侯爵家の協力のもと、邪な愛に溺れる皇帝を討ち、今の悪政に終止符を打つ事を決意した。
 
 この時、決して冷静でないリュシアンの声を聞き、制してくれる者が居ればまた未来は変わったのだろう。
 しかしリュシアンの剣の師であるディーンは先の任務により大怪我をして療養中であったし、幼い頃からリュシアンに知恵を授けてくれていた薬師のアヌビスは、ある時から行方不明となっていた。
 
 けれどリュシアンにとってこの復讐とも言える計画の代償であり搦め手は、婚約者であるレティシアだった。

 協力者であるジェラン侯爵というのは、帝国の民の為に自身を犠牲にしてでも皇帝へ反旗を翻すというような、ただの崇高な人物では無い。野心家で、狡猾で、手段を選ばない残虐さも持ち合わせていた。
 ジェラン侯爵には、皇帝交代ののちに自分の娘を帝国の母である皇后にするという大きな目的があったのである。

 リュシアンは初めからそれを知っていた。知りながらも、自分の復讐の為に上手く侯爵を使うつもりでいた。そして自分にはそれが出来るとこの時は信じて疑わなかったのである。
 
 リュシアンはイリナの事を、同じディーンを師として師事する、かけがえのない仲間だと思っていた。
 ディーンからの容赦なく厳しい鍛錬に、幼いうちから二人で励まし合って打ち込んできただけに、そこには自然と連帯感と信頼が生まれていた。
 師であるディーンでさえも、良かれと思って同じ年頃のイリナを将来はリュシアンの忠臣にするべく育てているつもりであったのだから。

 リュシアンが侯爵と協力関係になる事を了承した決め手は、その娘イリナが「自分は父親の大胆な野心を恐れ、憂いている」のだとリュシアンに吐露したから。
 いくらジェラン侯爵が将来の皇后の父となるべく動いたとしても、イリナ自身は皇后の座に興味など無く、師であるディーンのように皇族を守る騎士として生きたいと語っていた。
 そして父親にはどうか似合わない野心など忘れて目を覚まして欲しいと心から願っているのだと。

 リュシアンは、同じ師ディーンの弟子であるイリナのその言葉を信じた。あの厳しい鍛錬は、並大抵の心では乗り越えられない事を知っていたから。それほどまでに、イリナの騎士になるという夢は強いものだと思ったからだ。
 
 その時が来るまで、二人でジェラン侯爵を謀れば良いと提案してきたのはイリナからであった。
 革命の為には帝国貴族の中でも力を持つジェラン侯爵が必要だという事は分かっていたから、リュシアンはイリナの提案を呑んだ。

 そこからは悪政を正し、復讐を兼ねた革命を成功させる為、リュシアンは必死で奔走した。
 この時はもう、脇目も振らずにその事しか考えられなくなっていた。

 そんなある日の事だ。イリナの口からリュシアンに、恐るべき事実と残酷な計画が告げられる。

「お父様が、未だ殿下の婚約者であり続けるレティシア嬢を亡き者にしようと画策しております」
「何だと? 皇族の婚約破棄などそう簡単に出来ぬことは、ジェラン侯爵も重々知っているだろう」

 これまで何度もジェラン侯爵からはレティシアと婚約破棄をするよう進言されていた。理由は何とでも言えるだろう、と。
 しかしリュシアンはどうしてもその一線を越える勇気が持てなかった。今は婚約者という肩書きで何とか細く繋がっているレティシアとの関係が、一切無くなってしまうのは苦しかった。
 いくら母の事で怒りを覚えても、レティシアを手放してしまう事は簡単には出来なかったのだ。
 
「ええ、ですが片方が死んでしまえば婚約は無効となります」
「だからといって、ジェラン侯爵が直接レティシアを手にかけると言うのか? ベリル侯爵家もこの国では力を持つ貴族だ。その娘を簡単に手に掛けると?」

 それでなくともリュシアンは、この頃なるべくレティシアを遠ざけていた。
 何故ならば皇帝派といっても過言では無いほどにレティシアはあちら側と近しい存在となっていたし、ジェラン侯爵はリュシアンがレティシアと親しくする事を嫌ったからだ。

 レティシアに下手な危害が加えられる事を防ぐという意味合いでも、侯爵にはイリナと近しいと思わせる方が都合が良い。
 だからこそ、リュシアンはそういった態度を徹底していた。
 いや、それだけでなく、実の父を復讐の為に手にかけんと暗躍する自分を、昔と変わらないあの紫色の透き通った瞳で見つめられるのが怖かったというのもある。

 それなのに、いつまでも婚約破棄をしようとしないリュシアンに痺れを切らしたジェラン侯爵が、直接レティシアを亡き者にしようとしていると言うのだ。

「お父様ならやり兼ねませんわ。レティシア嬢はのんびりなさった方ですから、ジェラン侯爵家の仕業だと分からぬようにする方法などいくらでもありますもの。それよりも殿下、どうやら皇帝の方にも動きがありまして。カタリーナに唆された皇帝は、殿下とレティシア嬢の婚約破棄をお考えのようですよ」
「何だと?」

 ただカタリーナの名を聞いただけで、リュシアンの瞳には怒りの色が浮かんだ。
 
「あの悪女……カタリーナが、御しやすく従順なレティシア嬢の事を思いのほか気に入ったらしいのです。ですから殿下との婚約を破棄させて、自身の息子であるニコラとレティシア嬢の再婚約を考えているとか」
「レティシアとニコラが婚約……だと」

 リュシアンは、怒りで目の前が真っ赤に染まるような心持ちがした。
 イリナの言う事が本当ならば、どうにかしてリュシアンを廃嫡させ、ニコラを皇太子にしようというカタリーナの思惑もはっきりと見え隠れする。

「それならそれで宜しいではありませんか。そうなればお父様もレティシア嬢の命を狙うような事は無いでしょう」
「……それは、そうだが」

 レティシアが今のままリュシアンの婚約者であり続ければ、ジェラン侯爵が邪魔者のレティシアに危害を加えるだろう。
 その点で言えばやはりここまで来て婚約破棄するしか無いのかと、リュシアンは苦い思いがした。
 
 しかし予想外だったのは、ベリル侯爵を重用する皇帝だ。流石に婚約破棄などという事は許さないだろうと思っていたにも関わらず、カタリーナの言葉に耳を傾けた事だ。
 帝国貴族の力関係を打ち壊すような事をするほど、カタリーナにのめり込んでいるとはリュシアンも思わなかった。

 リュシアンは母の復讐と民の為に、全てを捨ててでも革命を起こそうとしていた。
 けれどその反面、目の前に迫った婚約破棄によってレティシアとの繋がりが完全に断たれるという事に、ひどくショックを受けていた。

 未だリュシアンはレティシアの事を恋しく想っていたから。

 しかし……たとえそうだとしても、リュシアンの周囲を取り巻く状況が、大人の傀儡となってしまったレティシアとのすれ違いが、二人を永遠に引き裂く一因となってしまった。
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