婚約者に見殺しにされた愚かな傀儡令嬢、時を逆行する

蓮恭

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第一章 逆行したレティシア(幼少期)

21. 不機嫌極まりない侯爵、その理由は

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 レティシアはあの後すぐにソフィー皇后とリュシアンに手紙を書いた。

「お返事が来るまでは宮殿に行くのを控えたほうがいいわね」
 
 レティシアの書いた手紙はベリル侯爵家の使用人の手によってすぐに宮殿へと届けられる。また近いうちに返事が来るだろう。

 その日は何故か勤めから戻ったベリル侯爵の機嫌がすこぶる悪い事もあって、そのような時に怒りの矛先をぶつけられやすい夫人やパトリックの事が心配なレティシアは、両親の間にひどい諍いが起こらぬよう気をつける事にした。

「ねぇお母様、お父様は怖いお顔をして、どうなさったの?」

 晩餐の時にもずっと苦虫を噛み潰したような顔つきで黙々と食事を口に運んでいた侯爵は、時折レティシアの方を忌々しげに睨みつけていたように思える。
 まだ五歳のレティシアだが、実際の魂は父親の不機嫌の理由が自分である事に気付かないほど子どもでは無い。
 レティシアは早速湯浴み前の時間に母親とパトリックの過ごす部屋を訪れると、子どもらしい言葉を選んで尋ねてみた。

「実は……いいえ、やっぱり何でも無いわ。それよりもレティシア、皇太子殿下と何かあったの?」
「え? 何かって?」

 リュシアンの名前が何故ここで出てくるのだろうか。思わぬ理由で侯爵が不機嫌らしいと分かり、レティシアは考える。

「しっかりなさっているとはいえ、まだ殿下は十歳と幼いし、何か理由があるのかも知れないけれど……」

 なかなか核心に触れようとしない夫人の曖昧な言葉に、レティシアはえも言われぬ不安感が増してくる。

「リュシアン様が、どうかしたの? そのせいでお父様が怒ってるの?」
「困ったわね。私もどうしてこのような事になったのか分からないのよ」

 パトリックはもうすでに寝台の上でスウスウと寝息を立てている。そんな息子の寝顔を見つめながら、夫人はさも困ったというように眉を下げ、頬に手を当てた。
 何かとんでも無い事が起こっているような、そんな気配がする。夫人の正鵠せいこくを得ない言葉の数々に、レティシアは焦りを覚えたが、それでも何とか子どもらしさを忘れぬよう努めた。

「はっきりと言って、お母様。何があったの?」
「ごめんなさい、レティシア……。私も混乱していて。でも、当事者である貴女は知るべきね」

 その後夫人の口から語られた事について、レティシアは途中から頭の中が真っ白になり、あまり覚えていない。ふらふらと母親の部屋を出たレティシアは、扉の前で心配そうに控えていた乳母のマヤに支えられて自室に戻る。
 どうやらマヤは既に知っていたらしい。

 その夜、レティシアはちっとも寝付けなかった。マヤが安眠に効くハーブティーを淹れてくれても、枕元にそっとサシェを忍ばせてくれても、優しく子守唄を歌ってくれても、レティシアは悲しみと混乱で目が冴えてしまっていた。

 夜中まで付き添ってくれたマヤに自室へ戻るように言うと、レティシアは窓辺に立って月を見上げた。もう今宵は眠れないだろう。
 深い紺色の空、黄金色の月。
 その色合いはまるでジェラン侯爵令嬢イリナの髪色と、リュシアンの髪色のようであった。

 過去にはリュシアンがレティシアという婚約者よりも懇意にしていたイリナ。
 魂に刻み込まれた記憶がありありと思い出される。二度目をやり直す事によって得た日々の中では、過去の辛い記憶は少しずつ薄れてきていたのかも知れない。
 だってもう二度と、同じ過ちは繰り返すまいと心に誓ってやり直してきたのだから。

「リュシアン様はどうして私との婚約を突然破棄するだなんて言い出したのかしら……」

 夫人から聞かされたのは、リュシアンがレティシアとの婚約を破棄したいと直接侯爵に申し出たという事。
 ベリル侯爵からすれば、娘が未来の帝国の母となる事で、自身も揺るぎない地位を確立出来ると信じて疑っていなかったものを、突然ひっくり返されるような出来事であった。

 だからこそあのように不機嫌な様子で勤め先の宮殿から戻ってきたのだ。

「一度目の時には、確かにこの頃からリュシアン様は私と距離を置くようになったわ。でもそれは、過去で私がお父様や皇帝陛下の言いなりになって、ソフィー様よりもカタリーナ様に肩入れしているように見えたからだと考えたのだけれど」

 此度の人生では意識的に皇帝や父親である侯爵とも距離を置いている。カタリーナと会話を交わす事もほとんど無い。
 今度こそ、ソフィー皇后やリュシアンとの時間を大切にしてきたはずだった。
 それなのに……。

「どうして……」

 ある程度覚悟はしていたはずだった。

 あの時、リュシアンの目の前で最期を迎えた後、何らかの力によって蘇った時に、もう二度とリュシアンにあのような顔をさせないと誓ったのだ。
 仲良しだった幼馴染のレティシアが愚かな傀儡となり、皇帝夫妻やベリル侯爵と共に民達を顧みない事を悲しむ、あの表情。

 ――「この国の為、ニコラは自ら首を差し出した。お前は……あの侯爵を庇うなど、最期まで愚かな傀儡令嬢だな」
「もう、しわけ……あり……」
「俺は新しい帝国を造る。昔語り合ったような、民の為の帝国を」

 その時を思い出す度、レティシアの胸は張り裂けそうなほど切ない気持ちに駆られた。

「リュシアン様に、もう二度とあのような顔をさせてはならない。あのような事を言わせてはならない」
 
 その為ならば、二度目の生でやはりリュシアンがイリナを選んだとしても笑って祝福出来るように、他人の傀儡とならずに強さを持った自分であろうと努力してきた。

 しかしせっかくリュシアンと仲の良かった頃に回帰したのだから、この上望みが叶うのならば、過去で叶わなかったリュシアンとの幸せな婚姻生活を送る事が出来たらと、そう願っていたところもある。

「何がいけなかったのかしら。やはり……私はリュシアン様とは……」

 雲ひとつない夜空には白い星が散らばっている。
 そして黄金色の月からは、窓ガラス越しに柔らかな光が降り注いでいる。
 幼い少女の、丸みを帯びた頬を伝う涙を掬い上げ、優しく撫でるように。

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