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第一章 逆行したレティシア(幼少期)

16. リュシアンの師、ディーンとの出会い

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「君は、迷子では無いのか?」
「ち、違います」
「では、どこの子だ? 一人で何をしている?」
「え……あの、えっと……」

 歳の頃は五十くらい、鍛え上げられた身体は服の上からでもその逞しさが分かる。
 あっという間に近づいて来た焦茶色の髪と目の騎士は、さっと跪いて幼いレティシアと視線を合わせた。

「もしかして……将来の夫候補を探しに来たのかな?」
「え?」
「騎士団の鍛錬場には良い男が多くいるぞ」

 騎士がニカっと笑うと、眦に皺が出来る。叱られるのでは無いかと心配していたレティシアは、やっとの事で肩の力を抜いた。

「それなら、おじ様が私におすすめするような特に優秀な騎士はいるの?」
「ああ、いるさ。お嬢さんより少し年上だがな。また見にくればいい。今日はもう夕方だから、自分の居場所へ帰りなさい。私が送って行こう」

 そう言われたレティシアは、慌てて手を横に振った。まさか皇后宮の近くの空き部屋まで送ってもらう訳にはいかない。

「大丈夫! 一人で帰れるわ!」
「本当か? 君の親は近くでいるのかな?」
「ええ、すぐそこ! だから大丈夫よ!」

 レティシアの必死な様子を見て目の前の騎士は破顔し、やがて声を上げて笑い始めた。
 突然の事に、レティシアはポカンと口を開けたまま動けない。

「はははっ! そうか、それなら大丈夫だろう。また遊びにおいで。おじさんの名前はディーン。この名前を言えば鍛錬場の中に入らせて貰えるだろう」
「ディーン……?」

 レティシアはその名前に聞き覚えがある。リュシアンが話していた剣の師匠の名がディーンだった事を思い出したのだ。
 見た目も聞いていた歳の頃も同じである事から、目の前の男がリュシアンの尊敬する師であると分かり自然とホッとする。
 
「そうだ、ディーン。覚えたかな?」
「ええ、分かったわ。ではまた」

 自分が庶民の格好をしている事を忘れ、危うくカーテシーをしそうになったところで思いとどまる。
 そのような事、庶民の子どもはしない。
 
「ああ、気をつけて帰るように。安全な宮殿の中とはいえ、どんな悪い奴が潜り込んでいるか分からないからね」
「そ、そうね。さようなら!」

 レティシアはディーンと鍛錬場から逃げるようにして駆けた。

 先程の態度はおかしくは無かっただろうかと、庶民の子だと信じてくれていた様子ではあったが、ベリル侯爵家のレティシアだと知られていないかが不安だった。
 ディーンの口からリュシアンの耳に入れば、また要らぬ心配を掛けてしまう。レティシアは跳ねる鼓動を押さえるようにして空き部屋へと急いだ。

 着替えを終えて部屋を出たレティシアは、馬車どめの方へと向かう。持ち歩く方が不自然かと思い、庶民の服はあの部屋に隠してあった。

「レティー!」

 宮殿を守る衛兵から挨拶をされながら廊下を歩いていると、突然後ろから名を呼ばれる。
 声と呼び名でリュシアンだと分かったが、騎士の鍛錬場でディーンと出会ってしまった後のレティシアは、後ろめたい気持ちからすぐに返事が出来ないでいた。

「はぁ……っ、はぁ、良かった。今日は会えたな。もう、帰るところか?」
「うん……」

 リュシアンは帰ろうとするレティシアを見掛けて慌てて駆けてきたのだろう。何とか息を整えながらも、レティシアに会えて嬉しそうな声の調子だ。

「どうした? 元気が無いな」
「そんな事はないわ。リュシアン様はどこにいたの?」
「今日は公務が沢山あってな。昼過ぎにやっと終わらせて、そのあと鍛錬場でディーンから剣を学んでいたんだ」

 ディーンの名前を聞いて、レティシアは思わず身体を小さくする。
 もしバレたなら変装して宮殿内を彷徨いているなんてはしたないと怒られるかも知れないし、何を嗅ぎ回っているのだと問われたら答えようがない。
 今のところはディーンにもリュシアンにも知られている様子は無いが。

「そうなの。頑張ってるのね。また明日もソフィー様に会いに来るわ」
「ありがとう。母上はレティーが来るととても嬉しそうだ。俺もレティーが来ている時に皇后宮へ行きたいと言ったんだが、母上から『来るな』と言われてる」
「まぁ、どうして?」
「母上はレティーを独り占めしたいんじゃないのかな。俺だって、レティーに会いたいのに」

 口を尖らせて不満を訴えるリュシアンが何だかいつもより幼く見えて、レティシアは頬を緩ませた。

「ふふ……リュシアン様とはまたお茶会で」

 定期的に開かれている皇太子と婚約者としての茶会の日が近づいている。レティシアはリュシアンの頬に手を伸ばす。
 だいぶ背が伸びたリュシアンはそっと腰を屈めた。
 
「ここ、傷が出来ているわ。大丈夫?」
「ああ、ディーンにやられた。アヌビスのところへ行ってヒソップを使うから大丈夫だ」
「気をつけてね」

 それから二人は並んで馬車どめまで歩いた。レティシアが侯爵家の馬車に乗り込むと、リュシアンがひどく名残惜しそうな表情を見せる。
 その表情にレティシアは嬉しいような切ないような思いを抱き、馬車の中からリュシアンの額に口づけを落とした。
 もっと幼い子どもの頃にはよくしていた、親愛の証のような軽やかなキスだ。

「え! レティー⁉︎」
「怪我には気をつけてね」

 思わぬタイミングで授けられた久しぶりの口づけに、熱くなった額へ手をやって顔全体を紅潮させたリュシアンは、侯爵家の馬車が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。

 
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