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第一章 逆行したレティシア(幼少期)

4. レディーたるもの、殿方よりも愚かであれ

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 リュシアンが戦に向かって半年、ベリル侯爵をはじめとする高官の働きかけによって、とうとうカタリーナは皇后となった。
 皇太子派の貴族も、当の皇太子が戦で不在であれば力が弱まるのは仕方のない事で、皇太子派の筆頭であるジェラン侯爵家は臍を噛む。

 やがて国境沿いの戦に勝利したリュシアン達一行が戻ってくる頃、流石の皇帝も民達からの大きな声に凱旋の祝いをしないわけにはいかず、帝国中がお祭り騒ぎとなった。

 ずっと祈るように心配をしていたレティシアは、凱旋後すぐにリュシアンに会いたいと手紙を書く。
 しかし皇太子宮からは「まだ帰って間もないので遠慮してくれ」と素っ気ない返事が侍従を通して返されただけであった。
 
 それからしばらくして十六歳となったレティシアは、もうすぐ訪れる社交界デビューデビュタントに向けて、ベリル侯爵邸の一室で夜会用のドレスを仕立てていた。
 デビュタント当日、皇太子リュシアンを婚約者に持つレティシアが身に纏うのは、デビュタントのドレスコードである純白のボールガウンドレスに白いオペラグローブ、そしてアクセサリー類はリュシアンの瞳の色に合わせたサファイアがあしらわれたものである。

 まるで夜空から冷たく降り注ぐ月光のようなレティシアの銀髪に、まっさらな雪を思わせる純白のドレスはよく映えるだろうと、ベリル侯爵家御用達のお針子達は張り切ってドレスを仕立てていた。
 その様子を至極満足気に見ていた侯爵夫人は、幼い頃から何度も言い聞かせてきた言葉を、目の前で浮かない顔をする美しい娘にあてて、さらに繰り返して聞かせる。

「いいこと? レティシア。レディーはいつも美しく着飾って殿方の目を楽しませるのが大切なのよ。そして殿方を常に褒めて差し上げるの。小難しいお話をしてはダメ。殿方のお話は『はい、はい』と聞いておくだけにしなさい。自分の意見など、決して口にしてはならないのよ」

 この侯爵夫人の言葉はレティシアが幼い頃から幾度繰り返されたか分からない。
 母親から過剰なほどに「殿方の前では、愚かでいなさい。決して自らの意見を口にしない事」と言い聞かされてきたレティシアは、当然のようにその言いつけを守ってきた。

「皇帝陛下や皇后陛下、それにお父様の言う通りにしなさい。決して逆らってはいけないわ。そうすれば貴女は幸せになれるの。いいわね?」
「はい、お母様」

 しかし何故かそうすればするほどに、あれほど仲の良かった婚約者リュシアンとの距離が遠くなったような気がしてならなかった。
 
 リュシアンとレティシアは、皇太子としての公務の合間に度々お茶会の席を設けたり、交流を図る機会があったものの、いつからかほとんど会話が弾まずにいたのだから。
 周囲の言う通りにすればするほど、レティシアに対するリュシアンの態度が素気なく、義務感だけで交流を図っているのだと分かるほどになった。

「本当に良い子ね、レティシア。あら? なぁに? どうかしたの?」
「あの……」
 
 両親の言う通りにした結果、近頃では素っ気ないなどという言葉では表せないほど、険悪な雰囲気になっている。その事が母親の耳に入っていないのかも知れない。
 そう思ってレティシアはおずおずと沈黙を破った。

「お母様、もしかするとリュシアン様はそのような婚約者を求めてらっしゃらないのではないでしょうか?」
「何ですって?」

 どうしても記念すべきデビュタントでは、リュシアンと以前のように和やかな雰囲気で楽しく過ごせたらと考えたレティシア。
 近頃はもっぱら「レティ」という愛称では呼んでくれず、「レティシア嬢」や「其方」などという他人行儀な呼び名を口にして、一緒にいる時は常に冷たく距離を置くような態度のリュシアンを思い出す。

「お母様の言う通りにしましたが、何だかそのせいでリュシアン様に……距離を置かれているようなのです。やはり昔のように自然体でいた方が……」
「まぁ、レティシア! そんな事はないわ! 決して出しゃばるような真似をしてはいけません。レディーたるもの殿方よりも愚かでいなければ。もしその言いつけを守らなければ……ソフィー様の二の舞になり兼ねないわ」

 侯爵夫人はそこまで言うと、口元を手で押さえて視線を落とす。
 その顔があまりにも辛く苦しそうであるから、レティシアはいつもそれ以上問い詰めるような事はせずにいた。

「ごめんなさい、お母様。そんな悲しそうなお顔をしないで。私、言いつけ通りにいたしますから」

 母親である侯爵夫人がレティシアの事を思ってそう言っているのだという事は、痛いほどに感じ取れる。
 しかしその言いつけを守れば守るほど、大好きなリュシアンに段々と嫌われているような気がして、レティシアは不安になってしまうのだ。
 
「ええ、必ずそうするのよ。レティシアだけが頼りなの。貴女が皇族の一員になれば、あの人侯爵だって私を褒めてくださるはず。息子のパトリックが不貞の子だなんて言わなくなるわ」
「お母様……パトリックは正真正銘私の弟ですもの。お父様だって本当は分かってらっしゃるのよ」

 侯爵家の色味とも母親の色味とも違う黒髪黒目で生まれた弟、不貞の子だと侯爵から冷たくされるパトリックの事を案じる母親は、何とかして夫の信頼を得ようと必死だった。
 いや、その実パトリックの心配というよりは不貞を疑われて自分が夫に離縁されるのを恐れていたのかも知れない。
 
「ええ、そうよね。そうに違いないわ。レティシア、貴女は皇帝を癒す美しい皇后になるの。きっと幸せになってちょうだい」

 昔はレティシアにあれほど優しい眼差しを向けてくれていたリュシアンも、近頃笑う事もなく淡々と会話をするだけで、深い慈しみを感じさせていた青の瞳は、今や冷たく凍り付いているように思えてならない。
 母親には打ち明けられないが、今となってはレティシア自らが皇后になる未来が見えないでいる。

「デビュタントで美しく着飾った貴女を見れば、殿下も優しくお声を掛けてくださるわ。だって貴女はこんなにも素晴らしいレディーですもの」

 ちょうど仕上げが終わったドレスを纏ったレティシアは、流れる銀髪に純白のドレスがよく似合う、この帝国フォレスティエで一番美しい令嬢と言っても過言では無い仕上がりであった。

「……ありがとう、お母様」

 口元に笑顔を浮かべながらも紫水晶のような瞳をそっと伏せたレティシアは、なんとも言えない不快なざわつきと、近々執り行われるデビュタントの事を想像してそっと胸に手をやった。

 この時レティシアが感じた言いようのない嫌な不安感、そして自分や侯爵夫人の考えが誤っているのでは無いかという疑問。
 それらが確かにその後の運命を司る大切な分岐点だったという事は、もう少し後になってから分かるのだった。

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