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   第一章 王子の心を溶かしすぎた結果


 ――せっかく転生するなら、ヒーローかヒロインが良かった。
 ゲームの世界に転生したと自覚した時、はじめに頭をよぎったのはそんな虚しい気持ちだった。
 前世を思い出すきっかけは、驚くくらい些細ささいなことだった。
 当時十歳だった僕は、父に連れられ第二王子アルベルトのもとへ向かっていた。
 王族付きの侍従長の父と王妃の侍女である母との間に生まれ、読み書き・教養・料理・家事など一流の従者になるための教育をずっと受けてきた。
 そして、ついに専属従者としてデビューする日を迎えた。正式にお仕えする王子への初めての謁見に、手に汗がにじんでいたのを覚えている。
 アルベルトのもとに向かう最中、僕は従者たちが住む宿舎とはまるで違う、豪華絢爛ごうかけんらんな内装や調度品を見ながら歩みを進めていた。そしてその光景はどこか見覚えのあるものだった。
 これまでも城や都の景色を見て、なぜか既視感に見舞われることはあった。
 アルベルトの部屋に入った時も「やっぱり、何度も見たことがある」と感じ、そして僕はその瞬間、理解してしまった。
 ――この世界は、前世でプレイしていた乙女ゲームだ。
 乙女ゲーム愛好家である姉にすすめられ、僕は『ルナンシア物語』というゲームにハマっていた。
 平民出身でありながら強力な治癒能力を発現し、『聖女』として王宮に招かれた主人公のマリアが、イケメン王子と恋をするという恋愛シミュレーションゲームである。
 しかし僕が転生したのはヒロインでも、攻略対象である二人のイケメン王子でもない。
 攻略対象の一人であるアルベルト王子――の従者、エミル・シャーハだった。黒髪に薄茶色の瞳を持ち、控えめで大人しそうな印象の登場人物だ。
 ゲーム内の彼は立ち絵や王子との会話シーンが一応あるものの、物語の根幹には関わらない。そう、いわゆるなのである。

「……さあ、エミル。アルベルト様へご挨拶を」

 父の言葉で我に返る。僕が混乱している間にも、父が話を進めてくれていたらしい。
 目の前にはまるで陶器のように白く美しい肌と青い目を持つ少年が、無表情のまま豪勢な椅子にゆったりと腰かけて、僕を見下ろしていた。
 窓から差しこむ光に照らされ、少年の銀髪がきらめいている。あまりにも浮世離れした美しさに、絵画に描かれた天使のようだと思った。

「アルベルト様、お目にかかれて光栄です。アルベルト様にお仕えすることになりました、エミル・シャーハと申します」
「……ああ」

 アルベルトはそっけなく返事をすると、僕から視線を外した。
 もし僕が前世の記憶を思い出していなかったら、彼の態度に傷ついていたかもしれないが、今の僕にとっては納得のいく態度だった。
 第二王子のアルベルトは心に闇を抱えており、他人と関わりたがらない。
 ――聖女である主人公、マリアと出会うまでは。


 アルベルトとの謁見のあと、僕は従者専用の宿舎へ戻り、自室のベッドに横たわった。
 一人になって、混乱した思考を整理したかったのだ。
 たしか前世の僕は日本に住むごく普通の大学生だった。しかし大学四年生の時に交通事故にい、命を落としてしまった。
 とはいえこれまでこの世界で十年ほど生きてきたのもあって、今更前世の世界に未練はない。
 当時の日本では異世界転生というジャンルが流行はやっていたが、まさか自分が転生してしまうなんて、という驚きはあるが……

「前世の記憶を思い出したからって、特に何かが変わることもないよな……。全部思い出したわけでもないし」

 しかし、このまま記憶が混濁しているのも、そわそわして気持ち悪い。
 いてもたってもいられなくなり、僕はベッドから起き上がると学習用の椅子に腰かけた。そしてこの『ルナンシア物語』について思い出したことをノートに書き出した。
 主人公は平民出身のマリア。
 マリアは平民ではあったが、百年に一度ルナンシア王国に出現するとされる、医療や魔法でも到底治せない怪我や病気ですら治せる『聖女』としての能力があった。
 その能力が認められ、彼女は十八歳の時に王宮に招かれ、そして同い年の二人の王子と出会う。
 未来の君主であり俺様系第一王子イザクと、類稀たぐいまれなる美貌を持つが心に闇を抱える第二王子アルベルト。
 メインヒーローであるイケメン王子二人に取り合いをされる、ドキドキの恋愛シミュレーション――というのが、『ルナンシア物語』のざっとしたストーリーである。
 イザクルート、アルベルトルートと、二人それぞれのルートはあるのだが、とにかくハッピーエンドに至るまでの難易度が鬼畜すぎることで有名だった。

「アルベルトは好感度が上がりづらいし、すぐにバッドエンドに行っちゃうし、本当に難しかったんだよなあ……」

 そして、そもそもメインストーリーが甘々のラブストーリーではなく仲の悪い王子同士の血で血を洗う争いのため、周囲の人が簡単に死んでいくのも特徴だ。
 ――その瞬間、頭の中で何かが弾けるように、ある重要なことを思い出した。

「そういえば僕、死ぬ確率めっちゃ高くなかった!?」

 そう、第二王子アルベルトの専属従者となる脇役エミルは、アルベルトに何かあった時に真っ先に巻き添えにされて死ぬ、あるいは殺されるポジションだった。
 ガンガンと頭痛がしてきたが、必死に思い出していく。
 アルベルトルートでは、イザクがアルベルトとマリアの恋愛を妨害してくるのだが、ハッピーエンドにならなければ、アルベルトと共にエミルは殺されてしまう。
 イザクルートではそもそもアルベルトは当て馬ポジションになり、イザクに何かしらの危害を加えようとするのだが、その過程でエミルは死ぬ。

「せっかくまた生きられるのに、こんなのってないよ……」

 絶望感に目の前が真っ暗になり、自然と涙があふれてきた。
 主人公でもない僕は、このままではどんなルートになるのかをただ傍観し、受け入れるだけになってしまう。僕が生き延びるために、ストーリーをただ眺めているだけではなく、少しでも足掻あがけないだろうか。
 一筋の希望があるとすれば、超難関として話題になったアルベルトルートのハッピーエンド。
 ハッピーエンドだけは、唯一エミルが殺されることはない。
 つまり『アルベルトとマリアの恋のキューピッド』になること。
 ――それが僕がこの世界で生き残る方法なのではないだろうか。


    ***


「はぁ……」

 王宮の壁を拭きながら、僕は意図せずため息をついてしまった。
 ハッピーエンドを飾る脇役として活躍することを誓ったものの、マリアとアルベルトが出会うのは彼らが十八歳になる時、つまり八年後のこと。
 それまでいたって特徴のない脇役の僕は、何をすれば良いのだろうか。正直言って、何も思いつかなかった。

「エミル、大丈夫か? 体調悪い?」

 同じく掃除をしていた、年上の同僚であるカイが声をかけてくる。
 僕はそんなに思いつめた表情をしていたのだろうか……、カイは心配そうな表情を浮かべていた。

「あ、いや。大丈夫だよ! なんでもない」

 微笑みながら言うと、カイはなぜか眉間にしわを寄せてさらに深刻そうな表情になった。

「本当か? いやでも、あのアルベルト殿下に、今の段階から仕えるんだから、そりゃ心配にもなるよな」
「……へ?」

 アルベルトに仕えることが、心配?
 たしかに思いつめていた理由はアルベルト関連ではあるのだが、カイの言っている意味がわからず、きょとんとしてしまう。

「ほら、だってあれだろ。アルベルト殿下って呪われた――」
「えっ……? あっ、いや、全然大丈夫だから! 心配しないで!」

 カイが言おうとしていることをようやく理解して、僕は遮るように声を発した。
 ああ、またこの話か、と半ば呆れてしまう。
 実はアルベルトに仕えることが決まってから、同僚だけでなく同じ宿舎の従者たちにも、よく言われるようになった。

『アルベルト殿下は呪われた闇の力を持っていると聞いたけど、大丈夫なの?』
『それで何人も従者がやめたって……』
『陛下や第一王子のイザク殿下からも、恐れられている力らしいわね』
『エミル、気をつけてね……』

 王族や貴族だけではなく、それらに仕える従者までもが幼いアルベルトについてこのような陰口を叩く。
 それほど闇属性の魔法は恐れられ、不吉の象徴としても知られていた。
 ――前世と違い魔法が存在するこの世界では、王族や貴族の一部は魔法を使うための魔力を持ち、火属性、水属性、風属性といった各々得意な魔法の属性を持っている。
 その中で持つ人がかなり少ない闇属性は、この国で最も恐れられている属性だった。闇属性の魔法使いは不気味な影を操ることで攻撃し、精神面では洗脳や服従させることができるからだ。
 この国の歴史には、ある闇属性の魔法使いが多くの民を殺戮し、さらには国王を洗脳しようとしたことで国家の危機にまで陥った、という記録が残っている。
 第二王子アルベルトが誕生した際、強力な闇属性の魔法――通称、闇魔法を使えることを知った王族、貴族たちの脳裏をよぎったのはその事件である。王族としては最も忌避する属性だったというわけだ。
 つまりアルベルトは生まれながらにして、本人にはどうしようもない理由で、あらゆる者から避けられ、恐れられてきたのだ。
 アルベルトが何かをしたわけでもないのに、歴史上の事件を彼に重ねて怖がり避ける人たちを見るのは、気分の良いものではなかった。
 ――そりゃ、マリアと出会うまでひねくれた性格にもなるよな……
 アルベルトルートは、美しい心を持った聖女マリアとの出会いで、周囲に愛情を与えてもらえなかったアルベルトの心がどんどん溶けていくのがストーリーの大筋だ。
 彼が十八歳でマリアと出会うまでは、相当つらい時間を過ごしたに違いない。
 ただの脇役の僕がアルベルトを救うことはできないが、彼が八年後にマリアと出会うまで、アルベルトを恐れず普通に接すれば気休め程度にはなるかもしれない。
『恋のキューピッド大作戦』はマリアが現れてからしか実行に移せないのだから、近くなったらまた考えよう。
 僕はその場でぐっと拳を握り、脇役としての人生の第一歩――まずはアルベルトに精一杯仕えることを決心したのだった。


    ***


 ある日の王宮の鍛錬たんれん場。そこでは体格の良い騎士と銀髪の麗しい少年が対峙していた。
 剣がぶつかり合う音が響いていたのは少しの間だけ。すぐさま大きな金属音と共に、片方の剣が空高く舞った。

「ひぃ……!!」

 弾かれたのは、騎士の剣だった。騎士は腰を抜かし、弱々しくアルベルトを見上げる。
 その様子をアルベルトは心底呆れ返ったという表情で見下ろし、ぽつりと呟いた。

「国内随一の剣豪というから呼んだのに、この程度とは……。俺に稽古をつけられる人間はいないのか?」

 まるで化けものにでも出くわしてしまったかのように、騎士の顔面が真っ青になる。
 ――僕はそんな様子を、じっと立って見つめていた。
 僕がバッドエンドを回避しようと決意してから、はや二か月。特に変わったことは起きていなかった……というか、何もできなかった。
 僕が記憶を思い出そうが思い出すまいが、結局は主人と従者。
 従者が主人に勝手に話しかけるなど言語道断だ。実際、僕はアルベルトとは必要最低限の業務上の会話しかしたことがなかった。
 ただ、この二か月で一つだけわかったことがある。それはアルベルトがどれだけこの王宮の人間に恐れられているかということだった。
 何より、アルベルトの専属従者である僕は主人であるアルベルトに四六時中付き添っているが、アルベルトの両親――つまり国王陛下と王妃とは滅多に会わないのだ。
 重要なパーティーなどで話す機会があったとしても、実の子供だというのにどこかよそよそしく、何かに恐れているような様子があった。
 兄であり第一王子でもあるイザクは露骨に弟を嫌っているようで、すれ違いざまに「化けものめ」と呟く声すら聞こえてきた。
 当然そんな状況で、アルベルトが自分から話しかけることができるような人間はいなかった。
 たった十歳の子供だというのに、両親や兄にも甘えられず、どんなにつらいことがあっても、一人で耐えるしかない状況だ。
 本人も恐れられているのをわかっているのだろう、僕は一度も、アルベルトが闇魔法を使っているのを見たことがなかった。
 そんな様子を見ているうちに、僕はこの孤独な少年を、なんとかしてあげたいと思うようになっていた。

「アルベルト様。本日も素晴らしい剣術に思わず見惚れてしまいました! 次は帝王学の授業ですので向かいましょうか」

 僕は笑顔で、汗を拭うアルベルトに予定を伝える。
 皆は彼の圧倒的な力に恐怖を抱いているようだが、僕は稽古をしている時のアルベルトの姿に、いつも目を奪われてしまう。
 軽やかで、まるで美しい舞を見ているかのような剣術。
 それを見ていると、この気持ちを少しでも本人に伝えたくなる。
 アルベルトはそんな僕を一瞥いちべつし、どうせお世辞だろ、といわんばかりに鼻で笑った。明らかに僕も、僕の言葉も信じていない様子だ。
 ちょっと涙が出そうになったが……いつもこのような感じなので、今更気にしたって仕方がなかった。


    ***


 僕はアルベルトと別れたあと、掃除用具を準備して王宮の廊下へ向かった。
 アルベルトはまだ子供といえども王族。帝王学をはじめさまざまな勉強で、一日中みっちりとスケジュールが組まれている。一方で僕は彼が勉強をしている間に、従者の仕事をこなしていた。今日は王宮の廊下の隅から隅まで掃除をしておかなければならない。
 この時間帯の廊下には同じく掃除をする従者しかおらず、ゆったりとした空気が流れていた。

「エミル!」

 ほうきで廊下を掃いていると、茶色い三つ編みを揺らしながら一人のメイドの少女が駆け寄ってきた。

「あ、ニーナ。久しぶり!」

 しばらく会っていなかった友人に、思わず笑みがこぼれる。
 ニーナは同じ従者専用の宿舎で暮らしている少女だ。数か月前から見習いメイドとして実際に仕事を始めていたため、最近はあまり会っていなかった。

「エミルも正式に従者としてデビューしたんだってね、おめでとう」
「ありがとう! ニーナも仕事は慣れた?」
「大変なこともあるけど最近は少し慣れてきたよ! あ、それより……」

 ニーナは突然声を潜めると、心配そうな表情を浮かべた。

「それより?」
「エミル、その、アルベルト殿下の専属従者になったんだよね。大丈夫かなってみんなで話してたの……」

 ニーナがしどろもどろになりつつ、言葉を紡ぐ。

「大丈夫、って何が?」

 もしかしてまたアルベルトの噂のことだろうか。僕は憂鬱な気分になりながら、ニーナに問いかける。

「いや、その……。で、殿下の……あんまり良い話を聞かないから……」

 ニーナは俯いて、遠慮がちに言った。
 ……やっぱりか。
 僕は彼女の言葉を聞いて、いてもたってもいられなくなった。

「アルベルト様はすごい方だよ! 勉学も剣術も素晴らしくて……たとえ教える人がいなくても、ご自身で努力を重ねてるんだ。勝手に変な噂が流れてるけど恐れられるような方じゃないし、むしろすごく尊敬できる方だよ」

 アルベルトは闇魔法を使えるかもしれないが、それがなんだと言うんだ。誰もアルベルト自身のことを見ようとしない。
 ――正直、悔しかった。
 この二か月一緒に過ごしてわかったことだが、アルベルトは他人に対して冷たい態度こそとるが、理由もなく他者を虐げたり、弱いものをいじめたりはしない。
 非常に賢く、剣術も教えてくれる人がいなくても毎日欠かさず練習している。そんな尊敬できる人物だというのに。

「え、そ、そうなんだ……」
「そうだよ、みんな誤解してるって! 僕はアルベルト様に仕えられて、本当に良かったと思ってるよ!」

 思わず力説してしまった。

「そっか、それなら良かった……。ごめんね、心配で変なことを言っちゃって……」
「ううん、大丈夫だよ。あ、でももしアルベルト様のことを誤解している人がいたら、僕の話したこと伝えてほしいな」

 ニーナは僕の勢いにたじろいでいたが、すぐにほっとしたような表情を浮かべた。
 僕は、ニーナとの会話で改めて実感した。アルベルトはいつもこんな恐怖や軽蔑の目に晒されているのだと。
 ニーナはまだオブラートに包んでいたが、実際は『悪魔の子』だとか、『不吉の象徴』だとか言われているのを耳にしたことがある。
 僕がアルベルトの素敵なところを伝えることで、みんなの誤解を解けないものだろうか……
 せめてマリアが登場するまで、誰よりもアルベルトの素敵なところを語れる従者になろうと、心の中で誓った。
 と、その時、廊下の曲がり角から足音が聞こえた。

「ん……?」

 別の従者だろうか、と音がしたほうにすぐに視線を向けるが、誰もいない。

「エミル? どうしたの?」
「いや……さっきあそこに、誰かがいたような」

 ……ほんの一瞬銀髪が見えたような気がしたが、気のせいだったか。
 僕は廊下の角から視線を外して、掃除を再開した。


    ***


「おい、お前」

 僕がニーナと話をしてから数日が経った。その日アルベルトは、大きな窓からそそぐ日を背にしながら本を読んでいたが、紅茶とお菓子を運んできた僕を見ると、声をかけてきた。
 専属の従者といえど、彼から話しかけられることはほとんどない。僕は声をかけられたことに気づかず、沈黙が生まれてしまった。

「おい」
「あっ、はい!」

 ようやく自分のことだとわかった僕を見て、アルベルトは呆れたように「はあ」と軽いため息をついた。ため息をついていても、銀色の髪がキラキラと日の光に照らされ、絵画のように美しい。

「お前。最近いろいろな奴に、俺のことを触れ回ってるだろ」
「え、触れ回って……?」

 何かしてしまっただろうかと頭をフル回転させるが、思い当たる節がない。
 僕の様子を見たアルベルトは、訝しげに片眉を上げた。

「『アルベルト様の剣術は素晴らしくて』とか、『天使が舞い降りたように美しい』とか、出会う奴に手当たり次第言ってるそうじゃないか」

 彼の言葉でようやくピンときた。
 あくまで世間話の延長のつもりだったので、手当たり次第言っている自覚はなかったが……

「あ……ご、ご気分を害されましたでしょうか!? 申し訳ございません」
「いや。お前が何を企んでいるのかと不思議でな。俺のふところに入ろうとしても、お前のメリットになることはないと思うぞ」
「いえ! そのようなつもりでお話ししていたわけではございません! こう、自然とアルベルト様のお話になった時に語ってしまったと言いますか……」
「ふーん……どうだかな」

 アルベルトは目を細め、自嘲気味に笑った。
 弁解しながら恥ずかしくなり、頬の辺りが熱を持つ。
 でも言っていたことは本心だし、少しでも周囲のアルベルトへの誤解を解きたいという気持ちも本当だ。しかし今思い返せば、頻繁に言いすぎていたかもしれない。
 あたふたした僕を前に、アルベルトは何か考えるそぶりを見せる。

「じゃあ、こっち来て」
「あっ、はい……?」

 そして、突如として僕を呼び寄せた。
 僕は不思議に思いながら、ゆっくりと彼のもとに近づいていく。
 アルベルトはそっと本を置いて立ち上がると、僕の反応を確認するかのように、目を合わせてくる。
 そしておもむろに、僕の左手を取った。

「アルベルト様……?」

 軽く手を握った状態で見つめ合い、数秒が経つ。
 僕は意図がわからず、きょとんと首を傾げてしまう。
 するとアルベルトは、今にも消えてしまいそうな小さくかすれた声で言った。

「……俺が、怖くないのか?」

 それを聞いて、僕は思わず目を見開いた。

『洗脳などの精神に対する闇魔法は、触れただけで発動できる』

 ふいに誰かがそう言っていたのを思い出した。だから、誰もアルベルトに触れようとしないのだと。
 目の前の十歳の子供の手に、ただ触れるだけ。周りの誰もがそれすらしてくれなかったなんて……なんて残酷なことなんだろう。

「怖くありません」
「え……?」

 僕は言い聞かせるように、はっきりと告げた。そして彼の手を、包みこむように両手で握る。
 彼はこぼれんばかりに大きく、目をみはっていた。
 たとえほんの少しでも、この手の温もりが伝われば良い。
 僕はそんな思いで、ぎゅっと手に力を込め、アルベルトに微笑んだ。
 彼は今にもこぼれ落ちそうな涙を、必死に堪えているように見えた。その切ない表情に、思わず胸が締めつけられる。


「……エミル」

 アルベルトはこの時、初めて僕の名を呼んだ。
 そうして、温もりを確かめるようにぎゅっと、僕の手を握り返してくれたのだった。


    ***


 それから一か月後。
 僕はアルベルトを起こすため、彼の部屋の前に立っていた。
 彼を起こしに行くのは日課となっていて、僕は慣れた手つきでノックをし静かに扉を開ける。

「アルベルト様、失礼いたします。朝になりましたので起こしにまいりまし……あっ」

 扉を開けると、すでにアルベルトは起きていた。
 椅子に腰かけて、本を読んでいる。
 実は、このような光景は珍しくない。
 アルベルトは、朝早く起きて勉強をしたり本を読んだりと、本当に勉強熱心な人なのだ。

「ああ……おはよう」

 アルベルトは僕を見ると、かすかに口角を上げた。きっと他の人なら、表情が変わったことにすら気づかないだろう。しかしそんなわずかな変化でも、僕にとっては何よりも嬉しかった。

「おはようございます!」

 僕が明るく答えると、アルベルトは目を細め、ゆったりと手元の本に視線を戻した。
 アルベルトに初めて触れた日から、僕たちの関係は少しだけ変わった。以前よりも彼の表情が柔らかくなり、会話が増えたのだ。
 そしてもう一つ、変わったことがある。
 コンコン、と引き続きノックの音が響く。

「入れ」

 アルベルトの承諾の言葉のあとに入ってきたのは、三人の侍女だった。

「恐れ入ります、殿下。お着替えを持ってまいりました。お手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 アルベルトは一瞥いちべつし、ひんやりと冷めた口ぶりで答える。

「そこに置いておけ。自分で着替えるから」
「……かしこまりました」

 実は、僕だけではなく他の従者たちも、アルベルトと接するようになっていた。
 本来であれば王子の着替えや入浴の手伝い、食事の配膳などはすべて従者が行うものだ。しかし僕が専属従者になるまで、アルベルトには必要最低限しか行われなかったという。
 着替えは部屋の前に置くだけで手伝わない。入浴や食事も準備はするが、従者が手伝うことは一切なかった。
 王子に対してそのような扱いをしたら、普通は首を刎ねられてもおかしくないのだが……

『呪われた子を世話して、自分も呪われてしまったらどうしよう』
『洗脳をかけられてしまったら』

 そんな思いが従者の間に蔓延していたからだろう。しかも陛下や王妃がそれを容認していたというのだから驚きである。
 しかし、僕が専属として仕えていて何も起きないとわかったのか、従者たちの中でちらほら、本来の業務としてアルベルトに接する者が現れた。
 もしかしたら僕がアルベルトの誤解を解こうとしてきた努力が、少しでも報われ始めてきたのかもしれない。
 とはいえアルベルトにとっては、従者たちへの不信感があるのだろう。先ほどアルベルトが冷たく一蹴した侍女たちは、いそいそと部屋を出ていってしまった。
 また二人きりになったところで、アルベルトがちらりと僕を見た。

「エミル。……着替えるの手伝ってくれ」
「もちろんです!」

 まだ僕以外に手伝わせることはないが、いずれ従者たちの誤解が完全に解けて、アルベルトが心を許せる人が増えたら良い。
 この時は、このまま事態が好転していくのではないかと、呑気な僕は疑わなかった。


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