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第七章 厳冬を統べる者
取り返しのつかない言葉
しおりを挟む――確かに、俺は昔から、死ぬことが怖いと思っていた。
無為に歳を重ねることが怖かった。
季節が廻ることが怖かった。
昨日から今日に、今日から明日に変わることが怖かった。
残された時間が減っていくことが怖かった。
この身が朽ちて、壊れていくことが怖かった。
そして、終わりの先にある、何もない現実が怖かった。
……だが、死ぬのが怖いのと、「死にたい」と願うのは、別の問題だ。そうだろう?
死ぬのは怖いが、生きるのは辛くて苦しい。だから死にたくないけど、死にたい。
ホラ、何も矛盾はしていない。
そんな暗い感情をひた隠しにしながら、俺は今日まで生きてきた。
幸運にも、弱音を吐ける相手なんて誰一人として居なかったから、俺の本心なんて誰も知りえるはずがなかった。
思い返してみれば、ひたすらに惨めな人生だった。
とは言っても、特別に語るべき悲劇があったわけではない。
俺が生きた平成の日本は、終始不景気ではあったが戦争とは無縁だったし、俺自身だって過労で死にかけたことはあったものの、飢えて死にそうになったことは終ぞなかった。
だがそれ故に、何か不平を漏らそうものなら……どういう理屈か恵まれないアフリカの子供たちと比較され、今の環境に満足できないことを非難された。
そして、より良い人生を望むことも、生活を向上させたいと願うことも……せめて仕事内容に見合った待遇を求めることも、全てが許されざる贅沢であるかのように責め立てられた。
別に自分が世界で一番不幸だなんて考えたことなんて無かった。
だが、どうも彼らは『世界で一番不幸な人間にしか、幸せを願う権利は無い』という信仰を抱いていたらしい。
見下され、馬鹿にされ、コケにされ。
多少難しい仕事をこなしたところで、他人より飛びぬけて優れた長所が無いのは紛れもない真実で。
不満を持てば、俺の代わりなどいくらでもいるのだと罵られ、いくらIT土方として成果物を上げようと底辺としての生活を強要され。
――そんなゴミのような人生を幸せに思えないことは、はたして赦されざる罪なのだろうか?
そもそもの話、俺は後天的な意味で「望まれず生まれた子供」だった。
簡単に説明すると、両親にとって、生まれてほしかったのは俺じゃなかった……そういう意味である。
もちろん生まれてくるその日までは、将来を期待されていたのかもしれない。少なくとも、その瞬間までは、望まれて生まれてきたのかもしれない。
だが育ってみればどうだ。一言で表現すれば、ハズレだった。
そしてハズレの子供に対して両親は思うわけだ。『もっと素晴らしい子供が欲しかった』、『生まれてほしかったのはこんな子供じゃなかった』と。
これが後天的な「望まれず生まれた子供」の意味だ……これ以上の説明は、必要ないだろう?
つまり初めから、この世界に俺の居場所なんてなかったんだ。
言うまでもないが、ハズレだった俺は凡人だった。
いや、むしろ二つ以上ことを同時にこなすことができない不器用な人間で、そういう視点では凡人以下の存在だった。
要領の悪い俺はいつだって目の前のことで精一杯で、夢を見たり、恋をしたり……そんなことをする余裕は無かった。
ただ認めてもらいたくて、好きでもないことを必死で頑張った。
そして、好きなことも、得意だったことも、大切だったものも、やりたかったことも、何もかもを忘れてしまった。
不器用なりに努力はした。
だがその努力が報われることはなく、積み上げたものは全てただの徒労――他人が言うところの『努力不足』に終わった。
冷静に思い返せば、そもそも初めから、俺のことなんて、誰も見ていなかった。
何も得られなかった俺に、誰かと共に歩む人生なんてありえなかった。
世間の風は冷たかった。
それでもなんとか手に職をつけようと悪あがきして、どうにか辿り着いた職業がブラック人材派遣企業のIT土方である。
凡人以下の要らない子が、人並みの幸せを目指した。
分不相応な望みを抱いた。
働くために生きる人生。
その先には人並みの幸せすらありえないと分かりきっていて、でも当然ながら仕事を辞めるわけにいかず。
最後はせめて人並みであろうと無理して頑張った。
その結果、得られたそれはなんの価値もないゴミのような生活だった。
挽回の可能性は全くない。
自分に関わる何もかもが汚くて醜くて無惨。
もう俺は、自分の人生に期待なんかしていなかった。
死ぬのは怖かった。自ら命を絶つ勇気はなかった。けれども、生きていたいとも思えなかった。
明日なんて要らない。
未来なんて要らない。
ただただ、生まれたくなかったと後悔した。
何一つ上手くいかない人生なのに、些細な願いすら抱くことは許されない。
他人の気分を害さない間だけ、俺は息をすることを許される。他人の都合で生きている間だけ、俺は存在することを許される。
でも、そんな生き方は楽しくないし、窮屈で面倒くさい。
そして何より、辛くて苦しくて悲し過ぎる。
自分が特別に不幸だとは思わなかったが……この世にあるものが、何一つ魅力的に思えなかった。
重ね重ね、自分の人生がゴミにしか思えなかった。
胸の鼓動も、赤く流れる血潮の生温かさも、何もかもが煩わしかった。
捨てられるものなら、いっそ捨ててしまいたかった。
迫り来る“死”の影に怯えながら、終焉る日ばかりを夢見てた。
明らかに無茶な納期に追われ、終電で帰る日々。報われることも認められることも無い。こんな毎日が終わるのは、一体いつのことだろうか。
無口で灰色な他人に囲まれて、まるで荷物のように運ばれる。
同じように終電に揺られる社畜が、俺だけじゃないのがまた笑えない現実……終電だと、座れなくとも満員電車じゃないのが唯一の救いだ。
残業に疲れ果て、アパートの一室に帰る。そのたびに、最低限の家具と溜まったゴミ以外は何もない質素な貧しい部屋を目の当たりにする。
電気を点けても薄暗い部屋。淀んだ空気。ますます憂鬱になる。
よれよれのワイシャツに、スーツの黒いズボン。
毎日くたびれ果てて帰ってきて、この部屋ですることと言えばシャワーを浴びるか眠るだけだ。
でもその日はシャワーを浴びる気力すら無くて、朝起きたら浴びようと自分に言い訳しながらソファに寝転がった。
着替える必要はない。どうせ明日も早くから会社に行くのだから。日曜日が休日であるとは限らない。第一、私服なんてジャージ以外は碌に無く、スーツとワイシャツさえあれば何も困らない生活だった。
ネクタイは嫌いだ。これが首に巻き付いていると息苦しい。結び直すのも面倒なので、結び目は解かないまま緩めて放置する。
首に紐を巻くのは、自分を殺すときだけで十分だ。
例えばもう片方の先っぽをドアノブにでも括ってみれば、明日は会社に行かなくてもいいのだろうか?
駄目だ、ありふれた惨めな人生だから、何を考えても惨めになる。
俺は薄っぺらな毛布に包まる。そして必死で瞼を閉じながら、馬鹿な考えを頭から追いやった。
ああ、眠いのに眠れない。
睡眠薬を多めに飲んでみても、最近は命に別状が無いものばかりが市販されていて、それが口惜しくて仕方がない。
明日なんて要らない。
叶うならば、いっそこのまま眠り続けたい。
しかし午前二時を回ったころ、ひとつの音が冬の夜の静寂を切り裂いた。
――――ピンポーン。
無慈悲な玄関チャイム。暗い部屋に鳴り響く。
真夜中なのに、なんて迷惑な。
IT土方の貴重な睡眠時間。それを奪うなんて、悪戯だとしても決して赦されない。地域によっては戦争ものの所業である。
そもそもがあまりにも非常識な来客だ。当然、俺は無視を決め込んだ。
だが、いくら待てどもチャイムが止む気配はない。
ピンポーン、ピンポーンと繰り返す無機質な電子音。
そんな神経を逆なでする騒音の中で眠れるほど、俺は図太い性格をしていなかった。
それに、放っておいても近所迷惑だ。
そう思った俺はソファから起き上がり、しぶしぶ玄関に出向いた。
俺が不機嫌にドアを開けると、そこにはみすぼらしい格好をした婆さんが立っていた。
* * *
「お主が『金』や『権力』よりも、『死』を望んでおったのは、あまりにも予想外じゃった。儂はただ、お主に……あの日の少年に、幸せを掴むチャンスを与えたかっただけなのじゃ。それなのに、なぜ、どうしてこんなことになってしまったのかのう……」
魔女は後悔するように語る。
今になって思えば、初めから魔女は、何もかもを知っていたのだろう。
彼女は俺の惨めな半生を知っていた。だからこそ、あのタイミングであの部屋に訪れたのだ。
それなのに、あたかも何も知らないような顔をして、『真実の愛』だとかのたまっていたわけで……どう足掻いたところで、俺なんかが真実の愛を手に入れられるはずがないのに――俺は馬鹿にされたように感じて、業腹な気分となった。
「元の世界では頑張りが報われることを願い、誰かと共に歩む生に憧れを馳せた男が……今や僅かに残っていた優しさや寛容の心すらも失い、自分以外の全てを拒絶する残虐な獣に成り下がってしまった……」
止めろ。
そんな一見憐れむような態度でさ。
優しいフリで、自己愛を満たしやがって。
どうせ言葉だけで、本当は大して興味もないのに、そのくせ内心は俺のことをしっかりと見下しているのだ。
「これ以上、儂を失望させないでくれ……」
そう言うと、魔女は悲しげに俯いた。
ああ、ふざけるな。
好き勝手に言いやがって。
初めから誰も俺のことなんか、本気で心配していない。ゴミみたいな俺の命には、救いも救済もあるはずがない。
そんな現実はとっくの昔に知っていた。
そもそもの話だ。魔女はずいぶんと勝手なことを言ってやがるが、一体どんな権利があって、彼女が一方的に俺を評価する側なんだ?
失望した? ふざけるな。この世界に絶望していたのは俺のほうだ。
「……俺は、何も間違っていない」
胸の内を、どろどろした黒いものが、あるいは暗く冷たい炎が侵食しているような気分だった。
「ずっと前から思っていた。お前らの言うことは、全部下らないってな……!」
魔女だけではない。どいつもこいつも、偽善者面しやがって。
「ああ、そうだ、下らない。口では散々綺麗事を言っておいて、結局は全部私利私欲にまみれた自分の都合じゃないか――魔女、どうせお前だってそうだろうが」
俺は自分に言い聞かせるように声を張り上げた。
そうさ。そうに決まっている。綺麗事や理想で、世界は動かない。
人間は、己の欲望のためにしか動かない。
人間は、力を持つ者にしか従わない。
そして実際に社会を支配しているのは道義や良心なんかではなく、権力と財力と武力であり――どんな力であろうと最終的に暴力に帰結する。
弱い者は強い者に逆らえない。
なぜなら本気で逆らえば、行きつく先の理不尽な暴力によって平穏を……運が悪ければ、命すらをも奪われるから。当たり前だが現実は残酷なのだ。
弱者は永遠に搾取され続ける。
綺麗事の正義でなんかで、世界は動かない。
その事実は言うまでもなく、誰もが気付いているだろう。
“運や才能に恵まれなければ、真面目に頑張っても人並の幸福すら得られない”……かつての俺は、そんな不平不満を漏らしていた。
だが、生き物なんてそもそもが弱肉強食。
地を這う虫ケラ同士ですら殺し合い、喰らい合うことが前提の存在なのだ。
むしろ、世界は正しく回っている。
俺が奪われ続けるだけの惨めな存在だったのも、それは俺が弱かっただけのこと。
今の俺なら理解できる。
この世で一番の偽善者は俺だったのだ。
この世で一番の無能は俺だったのだ。
自分が弱者だと理解できているなら、俺は理想や綺麗事を言わず手を汚すべきだった。
生まれた時からスタート条件やスペックに差があるのだ。
ならば、同じルールで戦って勝てるわけがない。それが当たり前なのだから。
他人の都合で敷かれた道徳なんか、無視して生きるべきだった。
傷つけることや騙すことを忌避せず、あらゆる手段を全力で活用し、奪うことも搾取することも拒絶せず肯定すべきだった。
それなのに、俺は、すべきことをしなかった。
要領よく生きる努力をしなかった。
だから、社会の底辺に甘んじていた――それは当然の結果だ。
「秩序? 規則? 糞喰らえだ! 実際はどいつもこいつも好き勝手やり放題じゃないか! マスゴミも、政治家も! ヤクザも金持ちも! 司法も警察も勲章持ちも!!」
法律は本物の悪党を裁いてはくれない。法律はいつだって、支配者のために、欲深い奴らのためにある。
「――だから、何をしようと、俺だけが咎められる謂れは無い!!」
言葉にしてしまえば、ますますそれが真実のように思えて仕方がなかった。
真面目に生きたところで、俺みたいな底辺は人並みの幸せすら望めない。
どうせ報われないのなら、こんなゴミみたいな人生を送ることになるのなら――俺も、もっと好き勝手に生きればよかった!
だって俺は、無敵の存在……初めから失うものなんて、何もありやしないのだから!
結局は好き勝手他人を喰い物にした奴が勝ち組なんだ。悪党ばかりが得をするんだ。
真面目に生きてきたのが、馬鹿みたいじゃないか!
後悔ばかりが渦巻く。
本当に反吐が出るし、虫唾が走る……この救い難い、平和ボケした自分の馬鹿さ加減に!
だが、俺はもう学んだ。
力こそが正義! もう二度と、間違えはしない!
今となっては絶対的な力を持つ俺にこそ、全ての命ある者共から一方的に奪う権利がある!
気に入らない奴らに対して、一方的な審判を下す権利があるのだ!!
俺が力を得た今となっては、奴らがどれだけ喚こうが意味はない。
まして今さら悔い改めようが無駄だ。
ご自慢の武力も財力も権力も、不死たる俺の圧倒的な暴力の前では無意味だ。
公正であることを正義とするならば、初めからこの世に正義なんか存在しない。
力こそ正義と言うならば、俺が正義だ。
だから、今の俺の在り方に文句は言わせない!
俺が暴力を以って奪う側に回ったことに、文句は言わせない!!
「なあ、教えてくれよ。俺は今まで他の奴らがやってきたように、暴力で他人を虐げただけだ。それの何が、いけないことなんだ?」
俺に刃向う者は皆殺しだ!
どれだけ偉そうなことを言っている奴らも、俺が皆殺しにしてしまえばそれで終わりなんだよ!!
「魔女、あんただって前に言っていたよな? 黒騎士に向かって、『権力や戦争なんて、全部あんたらの善意の上で成り立っている』ってさあ! そう、力こそ全て。今まで衝動を抑えていたのは俺の善意だ。その気になれば俺だって、いくらでも好きに振る舞えるんだ! それを教えてくれたのは、他ならないあんただよ、魔女!!」
善人ごっこは、もうウンザリだ!!
こんな正直者が馬鹿を見る世界に、これ以上付き合ってやる義理は無い!!
「所詮世の中、勝った者が、殺した者が正義! 弱者は泣き寝入りしかできない! 死人に口は無い!! どれだけ綺麗事で塗り固めても、結局これこそが唯一絶対の真実なんだ!!」
慟哭が玉座の間に響いた。
「だから俺は、そのルールに則ってやっただけだぜ? なあ、俺は何か間違ったことを言っているか!? どうなんだ、えぇ!? 魔女!!」
俺はこの世界の真実が知りたくて、魔女に詰め寄った。
――しかし、問われた魔女は、そっと目を閉じ、首を横に振った。
そして、そのまま何も答えずに俺に背を向けると、転移魔法を使って煙のように姿を消した。
それは俺にとって予想外の反応だった。
だが、いくら信じられなくても目の前の現実は変わらない。静寂が空間を支配する。
もはや魔女はどこにもいないことは理解していたが、俺はそれを認めたくなくて、縋りつくようにまた大声で叫んだ。
「オイコラ! ちゃんと答えろ! 逃げんな!! 逃げてるんじゃねえ!! ふざけるな! ふざけるな!! 魔女ォ!!」
しかし、いくら呼びかけても、再び魔女が現れることはなかった。
俺の叫び声は、暗い玉座の間に虚しく木霊し続けた。
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