71 / 142
第六章 獣の檻とレヴィオール王国
裏切りと代償(下)
しおりを挟む
世界は闇に包まれている。
数個程度のランタンでは、その闇を晴らすことはできない。
黒い炎の火柱が焼き抜いた天井の穴。
そこから覗く分厚い雲に覆われた空には星屑一つ輝いていない。
代わりに舞い降りた純白の雪の欠片は、ヒラヒラと揺れながら、魔獣の鼻先に落ちてきて、そっと上に乗った。
まるで憐れな魔獣を、そっと慰めるかのように。
慌ただしくメアリスの兵が騒ぎ立てるネナトの町に、静かに降り始めた雪。
それはまるで、冬に呪われた地から魔獣を追って来たかのように、このネナトの町を――レヴィオール王国を飾っていく。
暗闇の中、ランタンを囲んで下品な声で笑いあうバフォメット族の男たち。彼らは相変わらず、まだ見ぬソフィア姫に下卑た欲望を向けている。
そんな彼らの様子を、魔獣は焼けずに残った片眼でじっと見ていた。
(俺はもう、他人を信じる努力は十分したよな?)
魔獣は、誰にともなく問いかける。
(裏切ったのは、あいつらだよな?)
いや、それは問いかけでなく、自分自身に対する確認作業であった。
黒い炎に焼き焦がされ、地に伏せたままの魔獣。
中年大佐が見下すような笑みを浮かべながら近づいてきた。
「やあ、魔獣くん。なかなか体が治らないようだねえ」
厭味ったらしく、そして愉悦を隠しきれてないにやけた声で彼は言った。
「おや? その様子、もしやバフォメット族に裏切られたことがショックだったのかな? やれやれ、しょせんは魔獣。キミは人間の世界について、よく分かっていないようだ」
わざとらしく、相手を馬鹿にするように肩を竦めて首を横に振る中年大佐。
「人間の世界はね、獣の世界よりずっと複雑なのだよ、魔獣くん。野蛮な暴力で全てが解決するわけではない。彼らは賢い選択をしたのさ」
自分の作戦が上手く行って上機嫌な中年大佐は、調子に乗って魔獣をねっとりと挑発した。
悔しいが、確かにそうかもしれない。魔獣は歯ぎしりしながらそう考える。
実際のところ魔獣は、愚直に他人の良心を信じてしまったがばかりに、こんな目に遭っているのだ。
何も考えず敵を皆殺しにしていれば、もっと別の結末があったはずなのに。
魔獣は人間の悪意を甘く見ていたと、何度も何度も殺された今になってようやく思い知った。
だが、それでも、魔獣は中年大佐の言う“賢さ”とやらを、羨ましいとは思わなかった。
まさに、馬鹿は死んでも治らない……その諺通りである。
「ワシに言わせれば……キミはバカ正直すぎるのだよ。もっと賢く生きる術を学んでおくべきだったねえ」
(何が『人間の世界は複雑』だよ。結局は下衆い悪党の理屈じゃないか……)
魔獣は中年大佐の浅ましい考え方を否定する。
しかし……心のどこかでは、中年大佐の言葉が正しいと、彼は思ってしまった。
どれだけ真面目に、誠実に、正直に生きたところで、報われるとは限らない。いや、むしろ報われない可能性のほうが圧倒的に高い。
実際それは地球でも、かつて魔獣が人間として過ごした世界でも何も変わらない現実だった。
権力か財力か、あるいはその両方か……力さえあれば法の下の平等ですら簡単に覆る歪な社会。
公正であることを正義とするならば、そんなもの初めからありはしないのだ。
どんな理想論も、その全てが建て前と幻想にすぎない。
権力、財力、軍事力――暴力を別の言葉にすり替えているだけで、突き詰めれば“力こそ正義”の理屈に従う野蛮な世界の延長。
正義も悪も、差別も思想も、全ては政治家と金持ちたちの都合で決まっていた。
その現実を受け入れ、適合して生きることができれば、確かにそれは賢い生き方だろう。
しかし、それを正当だと認めるならば……ここは、まるで牢獄だ、獣の檻だ。
世界という名の檻の中で、この不細工で醜い獣たちが、耳障りな雄叫びを上げながら身勝手な欲望をぶつけ合う――なんと悍ましい地獄ではないか。
この世に美しきものなんてありやしない。
仮にあったとしても、それは下賤なる者たちの手によって、あっという間に穢される。
唯一、この世に美しきものがあるとすれば――それは誰も居ない、あの冬に閉ざされた楽園だけだ。
冬の城で彼女と過ごした、あの日々だけだ。
あの冬の世界こそが、汚らわしい人間が誰一人として存在しない『冬に呪われた地』こそが、俺にとって真の楽園だったのだ。
魔獣はそう思ってしまった。
「そう。世の中は弱肉強食。どんな手段を使おうとも、結局は生き残った者が正義で、他人をためらわず殺せる勇敢な者が偉くなるのだ」
ハッハッハと、中年軍人は不快で癇に障る嗤い声を上げた。
(そんなのは勇敢とは言わねえ。ただのサイコパスだ)
まるで他人を虐げることを是とするような物言い。その無茶苦茶な考え方に魔獣は心の中で反論するも、口には出せなかった。
仮に声に出して伝えたところで、互いに理解も納得も得られないだろうから無意味……そう思ったからである。
それに……以前から自分も、心の奥底では似たようなことを思っていた事実がある。それが魔獣の中で、負い目にも似た感情となった。
現に今だってそうだ。
自分が惨めな敗北者で、中年軍人が人生の勝利者、これが現実である。
こんな自分が何を吼えたところで、負け犬の遠吠えにしかならないだろう。魔獣にはその自覚があった。
弱いことは、こんなにも悲しい。
俺に世界を変える力があれば、この悲しみを消し去ることができるのだろうか?
優しい者が救われる世界に、正直者が報われる世界にできるだろうか?
しかし、世界の仕組みがそれを許さない。
身を切って弱者に施す者と、弱者から奪う者。同程度の能力なら、はたしてどちらが生き残る?
当然、奪う側だ。
そして世界は蠱毒のように、より濃縮された悪意を深めていく。
性善説を信じて傷付くのはもううんざりだ。
世の中の正義を信じて、馬鹿を見るのはもううんざりだ。
どこか遠くの白亜の城。
紅いバラの花弁が、また一枚落ちていった。
甘いことは、こんなにも惨めだ。
この中途半端な優しさを消し去ることができれば、俺は誰にも利用されることも、搾取されることもない、完全な存在になれるのだろうか?
そうだ、弱者のための正義は無い。
力なき法は法に非ず。家畜に神は居ない。
平等なんて嘘だ。隣人への愛なんて幻想だ。この世にあるのは欲望と憎悪と怨嗟だけ。
いっそのこと、あの冬の世界以外の全てを壊してしまいたい。
自分を不快な気分にさせる煩わしいものを、全て消し去ってしまいたい。
また、花弁が散る。
彼にとってはもう、必要のない存在だから。
優柔不断で弱い自分は、もう要らない。
この世の全てを隔絶する、絶対的かつ圧倒的な力が欲しい。
力こそが正義。
今になってようやく、本当の意味で理解した。
俺は誰も逆らえないような、無敵の存在になりたい。
そして全てを、あの冬の世界のような静寂の中に……。
もう一枚、真っ紅な花弁が散る。
繰り返される自己否定。
人間だった魂が、普通ならもう戻れない領域にまで足を踏み入れる。
其処は既に、自我を持つ生き物と、自我を持たない現象の境界。
現実と幻想の狭間に当たる領域。
だからこそ、その音なき声が魔獣に届いてしまった。
――チカラが、欲しいの?
鼻先に落ちてきた雪の欠片。魔獣はその小さな輝きに、そう尋ねられたような気がした。
それは、精霊の声と呼ばれる現象。
一部の精霊術師が聞くことのできる自然現象であり、あるいは世界そのものの声と云われている。
ただし、あまりその声に引っ張られ過ぎると、人としての自分を失ってしまう……この世ならざる存在になってしまうと、精霊術師たちの間でさえも畏れられていた。
しかし、そんな伝承を知らない魔獣は、うっかりその声に答えてしまう。
そこが運命の分岐路だった。
力が欲しいかだって? 欲しいに決まっているだろ……幻聴まで聞こえてきた。どうやら自分は、もう駄目なようだ。
いよいよ魔獣は自分の正気を諦めた。
――じゃあ、強くなれるのなら、人間を辞めてもいいんだ?
次は、舞い降りる雪に尋ねられたような気がした。
ああ、そうだな。人間は醜すぎる。人間のままでは弱すぎる。
魔獣は心の中で答えた。
――でもそうしたら、もう三つとも、二度と取り戻せなくなるかもよ?
今度は、冷たい風がからかうように尋ねた。
三つ? なんのことだ? 俺は初めから、何も持ってはいない。
魔獣には、何のことを言っているのか分からなかった。
――本当に、人間の世界に、戻れなくなってもいいの?
石畳に降りてきた霜が、心配そうに尋ねた。
構わない。今さら未練なんかない。
魔獣は拗ねたような態度で応じた。
――後悔しない? ずっと僕達と、いてくれる?
いつの間にか張ってきた氷が、期待するように尋ねた。
ああ。俺は不死の魔獣だ。
力さえ与えられれば、きっとこの世界が終わるまで、俺は冬の城に居座り続けるだろう。
魔獣は声に出さず、そう答えた。
すると、その答えに風がざわめき、雪と氷が躍り始める。
――それならば貴方は、たった今から我等の王だ。
――空白の玉座に、忌み嫌われた季節に、新たなる王を。
――ずっと待っていました、我等が主よ。
――私達は貴方を歓迎しましょう。
そして、おそらく最後の進化が始まった。
冬の世界が、魔獣を祝福した。
雪が風に乗って舞った。霜と氷がネナトの町を彩った。
その場にいた人間たちは、急激な周囲の変化に驚き戸惑う。
人間の理屈で生きている彼らには、何が起きているのか理解できない。
そして全てが終わった時、その路地裏に居たのは、一頭の魔獣であった。
全ての修復と進化を終えた新たな姿。
さっきまで血溜まりの中に伏していた漆黒の魔獣は、その面影を残しながらも、姿がすっかりと変わり果てていた。
その魔獣を“漆黒”と評することは、もう不可能だろう。
夜の闇のようだった毛皮は、今は深い深い藍色に染まっている。
鬣は降り積もったばかりの深雪のように白く、鋭い鱗殻は霜が降りたように凍り付いている。
体内には凄まじいエネルギーの奔流。凍てつく大自然の力が廻る。
その魔力の輝きは、魔術の素養が無くても視認できてしまうほど激しく、口の中や毛皮の下、鱗殻の隙間から強烈な青い光を放っていた。
そして、かつての血潮が透けて見えた真紅の双眸は、今や凍てつくような冷たい色を――全てを見限ったような、蒼白い氷の色を宿している。
あるいは逆に、赤い炎より熱く激しく燃える蒼炎の色なのか、それは魔獣自身にも分からない。
今の魔獣を一言で表すなら、まるで無慈悲なる冬の化身だ。
無数に突き刺さったままの聖銀の武器。背中を痛々しく彩るそれらは、まるで翼を捥がれた痕のようにも見え、そのシルエットは地に堕ちたドラゴンをも連想させた。
また、頭部に張り付いた幾つかの氷の欠片は、どこか繊細な装飾のなされた王冠のようにも見える。
嗚呼。この姿を『冬の王』と称したところで、疑う者はきっと誰もいないはずだ。
威風堂々と歩む漆黒の魔獣改め、雪と氷の魔獣。
その魔獣が歩むたびに、石畳が凍りつく。
その場にいた人間たちは、誰一人動けずにいた。
バフォメット族だろうが、騎士だろうが、種族を問わずただその場で震えているだけだ。
その震えは恐怖の所為か、それとも寒さが故か。
彼らが動けないのは畏れているからか、それとも……足が凍り付いてしまったからだろうか。
そして魔獣は、中年大佐の前で足を止めた。
上等な軍服に身を包んだだけの哀れな人間は、恐怖と寒さで歯をガチガチ鳴らしながら魔獣を見上げる。
魔獣はそんな彼の両肩を、鉤爪の鋭く尖った両手でそっと掴んだ。
「そんなに怖がる必要はない。むしろ俺は、お前達に感謝すらしているのだ」
冥府に響くような猫撫で声で、魔獣が言った。
「特にお前さんの演説なんかは、実に面白かった。まるで、迷いの霧が晴れたようだ気分だ。ああ、そうさ、啓蒙だったよ。結局、世の中なんて弱肉強食。生き残った者が正義で、敵を殺せる者が偉いのだ……それは自然の摂理にすら通じるところがある、素晴らしい考え方だと俺も思うぞ」
……おや? この流れ。もしかして、自分は助かるのでは?
そんなありもしない希望を見出したのだろう、中年軍人は気が触れたような媚びた笑みを魔獣に向ける。
魔獣はその笑顔に、牙を剥いて応えた。
「ところで、それを踏まえた上で一つ、聞かせてほしい――」
哀れな男の肩を掴む魔獣の両手に力がこもる。中年軍人は自分の身体が左右に引っ張られているのを感じた。
「――お前さん方は、どうやって俺を殺す心算だ?」
その質問に答えられる者は、誰一人として居なかった。
魔獣は今、こうして五体満足である。つまり、黒い炎で焼かれた火傷痕も、無事に修復できたわけだ。
ということは……少なくとも偽物の黒い炎ではもはや、この魔獣を殺しえないということになるのではないか?
魔獣が恐ろしい表情で、ますます大きく牙を剥いた。
公正であることを正義とするならば、お前たちに正義は無い。
力こそ正義と言うならば――俺こそが絶対の正義だ。そういうことだろう?
ありがとう。
お前達のおかげで、俺やようやく、偽善者の皮を脱ぎ捨てることができた。
何かがバリバリと引き裂かれる音が、袋小路に響く。
弾け飛ぶように撒き散らされるは、赤くて、黒くて、血生臭い何か。
音の主は、雪と氷の魔獣。
堕ちた化け物はその怪力を以って、血と内臓の詰まった肉の塊を、左右二つに引き裂いていた。
其処にはもう、人間など居なかった。
其処に居るのは、さっきまで人間だった肉塊と、人間を辞めた雪と氷の魔獣だけだ。
――冬を纏う獣が、白亜の牢獄を抜け出す。
可憐な薔薇に背を向けて、咆哮を上げる時、空白の玉座が遂に埋まるだろう――。
その予言は、着実に成就されつつあった。
残された花弁は、あと一枚――。
数個程度のランタンでは、その闇を晴らすことはできない。
黒い炎の火柱が焼き抜いた天井の穴。
そこから覗く分厚い雲に覆われた空には星屑一つ輝いていない。
代わりに舞い降りた純白の雪の欠片は、ヒラヒラと揺れながら、魔獣の鼻先に落ちてきて、そっと上に乗った。
まるで憐れな魔獣を、そっと慰めるかのように。
慌ただしくメアリスの兵が騒ぎ立てるネナトの町に、静かに降り始めた雪。
それはまるで、冬に呪われた地から魔獣を追って来たかのように、このネナトの町を――レヴィオール王国を飾っていく。
暗闇の中、ランタンを囲んで下品な声で笑いあうバフォメット族の男たち。彼らは相変わらず、まだ見ぬソフィア姫に下卑た欲望を向けている。
そんな彼らの様子を、魔獣は焼けずに残った片眼でじっと見ていた。
(俺はもう、他人を信じる努力は十分したよな?)
魔獣は、誰にともなく問いかける。
(裏切ったのは、あいつらだよな?)
いや、それは問いかけでなく、自分自身に対する確認作業であった。
黒い炎に焼き焦がされ、地に伏せたままの魔獣。
中年大佐が見下すような笑みを浮かべながら近づいてきた。
「やあ、魔獣くん。なかなか体が治らないようだねえ」
厭味ったらしく、そして愉悦を隠しきれてないにやけた声で彼は言った。
「おや? その様子、もしやバフォメット族に裏切られたことがショックだったのかな? やれやれ、しょせんは魔獣。キミは人間の世界について、よく分かっていないようだ」
わざとらしく、相手を馬鹿にするように肩を竦めて首を横に振る中年大佐。
「人間の世界はね、獣の世界よりずっと複雑なのだよ、魔獣くん。野蛮な暴力で全てが解決するわけではない。彼らは賢い選択をしたのさ」
自分の作戦が上手く行って上機嫌な中年大佐は、調子に乗って魔獣をねっとりと挑発した。
悔しいが、確かにそうかもしれない。魔獣は歯ぎしりしながらそう考える。
実際のところ魔獣は、愚直に他人の良心を信じてしまったがばかりに、こんな目に遭っているのだ。
何も考えず敵を皆殺しにしていれば、もっと別の結末があったはずなのに。
魔獣は人間の悪意を甘く見ていたと、何度も何度も殺された今になってようやく思い知った。
だが、それでも、魔獣は中年大佐の言う“賢さ”とやらを、羨ましいとは思わなかった。
まさに、馬鹿は死んでも治らない……その諺通りである。
「ワシに言わせれば……キミはバカ正直すぎるのだよ。もっと賢く生きる術を学んでおくべきだったねえ」
(何が『人間の世界は複雑』だよ。結局は下衆い悪党の理屈じゃないか……)
魔獣は中年大佐の浅ましい考え方を否定する。
しかし……心のどこかでは、中年大佐の言葉が正しいと、彼は思ってしまった。
どれだけ真面目に、誠実に、正直に生きたところで、報われるとは限らない。いや、むしろ報われない可能性のほうが圧倒的に高い。
実際それは地球でも、かつて魔獣が人間として過ごした世界でも何も変わらない現実だった。
権力か財力か、あるいはその両方か……力さえあれば法の下の平等ですら簡単に覆る歪な社会。
公正であることを正義とするならば、そんなもの初めからありはしないのだ。
どんな理想論も、その全てが建て前と幻想にすぎない。
権力、財力、軍事力――暴力を別の言葉にすり替えているだけで、突き詰めれば“力こそ正義”の理屈に従う野蛮な世界の延長。
正義も悪も、差別も思想も、全ては政治家と金持ちたちの都合で決まっていた。
その現実を受け入れ、適合して生きることができれば、確かにそれは賢い生き方だろう。
しかし、それを正当だと認めるならば……ここは、まるで牢獄だ、獣の檻だ。
世界という名の檻の中で、この不細工で醜い獣たちが、耳障りな雄叫びを上げながら身勝手な欲望をぶつけ合う――なんと悍ましい地獄ではないか。
この世に美しきものなんてありやしない。
仮にあったとしても、それは下賤なる者たちの手によって、あっという間に穢される。
唯一、この世に美しきものがあるとすれば――それは誰も居ない、あの冬に閉ざされた楽園だけだ。
冬の城で彼女と過ごした、あの日々だけだ。
あの冬の世界こそが、汚らわしい人間が誰一人として存在しない『冬に呪われた地』こそが、俺にとって真の楽園だったのだ。
魔獣はそう思ってしまった。
「そう。世の中は弱肉強食。どんな手段を使おうとも、結局は生き残った者が正義で、他人をためらわず殺せる勇敢な者が偉くなるのだ」
ハッハッハと、中年軍人は不快で癇に障る嗤い声を上げた。
(そんなのは勇敢とは言わねえ。ただのサイコパスだ)
まるで他人を虐げることを是とするような物言い。その無茶苦茶な考え方に魔獣は心の中で反論するも、口には出せなかった。
仮に声に出して伝えたところで、互いに理解も納得も得られないだろうから無意味……そう思ったからである。
それに……以前から自分も、心の奥底では似たようなことを思っていた事実がある。それが魔獣の中で、負い目にも似た感情となった。
現に今だってそうだ。
自分が惨めな敗北者で、中年軍人が人生の勝利者、これが現実である。
こんな自分が何を吼えたところで、負け犬の遠吠えにしかならないだろう。魔獣にはその自覚があった。
弱いことは、こんなにも悲しい。
俺に世界を変える力があれば、この悲しみを消し去ることができるのだろうか?
優しい者が救われる世界に、正直者が報われる世界にできるだろうか?
しかし、世界の仕組みがそれを許さない。
身を切って弱者に施す者と、弱者から奪う者。同程度の能力なら、はたしてどちらが生き残る?
当然、奪う側だ。
そして世界は蠱毒のように、より濃縮された悪意を深めていく。
性善説を信じて傷付くのはもううんざりだ。
世の中の正義を信じて、馬鹿を見るのはもううんざりだ。
どこか遠くの白亜の城。
紅いバラの花弁が、また一枚落ちていった。
甘いことは、こんなにも惨めだ。
この中途半端な優しさを消し去ることができれば、俺は誰にも利用されることも、搾取されることもない、完全な存在になれるのだろうか?
そうだ、弱者のための正義は無い。
力なき法は法に非ず。家畜に神は居ない。
平等なんて嘘だ。隣人への愛なんて幻想だ。この世にあるのは欲望と憎悪と怨嗟だけ。
いっそのこと、あの冬の世界以外の全てを壊してしまいたい。
自分を不快な気分にさせる煩わしいものを、全て消し去ってしまいたい。
また、花弁が散る。
彼にとってはもう、必要のない存在だから。
優柔不断で弱い自分は、もう要らない。
この世の全てを隔絶する、絶対的かつ圧倒的な力が欲しい。
力こそが正義。
今になってようやく、本当の意味で理解した。
俺は誰も逆らえないような、無敵の存在になりたい。
そして全てを、あの冬の世界のような静寂の中に……。
もう一枚、真っ紅な花弁が散る。
繰り返される自己否定。
人間だった魂が、普通ならもう戻れない領域にまで足を踏み入れる。
其処は既に、自我を持つ生き物と、自我を持たない現象の境界。
現実と幻想の狭間に当たる領域。
だからこそ、その音なき声が魔獣に届いてしまった。
――チカラが、欲しいの?
鼻先に落ちてきた雪の欠片。魔獣はその小さな輝きに、そう尋ねられたような気がした。
それは、精霊の声と呼ばれる現象。
一部の精霊術師が聞くことのできる自然現象であり、あるいは世界そのものの声と云われている。
ただし、あまりその声に引っ張られ過ぎると、人としての自分を失ってしまう……この世ならざる存在になってしまうと、精霊術師たちの間でさえも畏れられていた。
しかし、そんな伝承を知らない魔獣は、うっかりその声に答えてしまう。
そこが運命の分岐路だった。
力が欲しいかだって? 欲しいに決まっているだろ……幻聴まで聞こえてきた。どうやら自分は、もう駄目なようだ。
いよいよ魔獣は自分の正気を諦めた。
――じゃあ、強くなれるのなら、人間を辞めてもいいんだ?
次は、舞い降りる雪に尋ねられたような気がした。
ああ、そうだな。人間は醜すぎる。人間のままでは弱すぎる。
魔獣は心の中で答えた。
――でもそうしたら、もう三つとも、二度と取り戻せなくなるかもよ?
今度は、冷たい風がからかうように尋ねた。
三つ? なんのことだ? 俺は初めから、何も持ってはいない。
魔獣には、何のことを言っているのか分からなかった。
――本当に、人間の世界に、戻れなくなってもいいの?
石畳に降りてきた霜が、心配そうに尋ねた。
構わない。今さら未練なんかない。
魔獣は拗ねたような態度で応じた。
――後悔しない? ずっと僕達と、いてくれる?
いつの間にか張ってきた氷が、期待するように尋ねた。
ああ。俺は不死の魔獣だ。
力さえ与えられれば、きっとこの世界が終わるまで、俺は冬の城に居座り続けるだろう。
魔獣は声に出さず、そう答えた。
すると、その答えに風がざわめき、雪と氷が躍り始める。
――それならば貴方は、たった今から我等の王だ。
――空白の玉座に、忌み嫌われた季節に、新たなる王を。
――ずっと待っていました、我等が主よ。
――私達は貴方を歓迎しましょう。
そして、おそらく最後の進化が始まった。
冬の世界が、魔獣を祝福した。
雪が風に乗って舞った。霜と氷がネナトの町を彩った。
その場にいた人間たちは、急激な周囲の変化に驚き戸惑う。
人間の理屈で生きている彼らには、何が起きているのか理解できない。
そして全てが終わった時、その路地裏に居たのは、一頭の魔獣であった。
全ての修復と進化を終えた新たな姿。
さっきまで血溜まりの中に伏していた漆黒の魔獣は、その面影を残しながらも、姿がすっかりと変わり果てていた。
その魔獣を“漆黒”と評することは、もう不可能だろう。
夜の闇のようだった毛皮は、今は深い深い藍色に染まっている。
鬣は降り積もったばかりの深雪のように白く、鋭い鱗殻は霜が降りたように凍り付いている。
体内には凄まじいエネルギーの奔流。凍てつく大自然の力が廻る。
その魔力の輝きは、魔術の素養が無くても視認できてしまうほど激しく、口の中や毛皮の下、鱗殻の隙間から強烈な青い光を放っていた。
そして、かつての血潮が透けて見えた真紅の双眸は、今や凍てつくような冷たい色を――全てを見限ったような、蒼白い氷の色を宿している。
あるいは逆に、赤い炎より熱く激しく燃える蒼炎の色なのか、それは魔獣自身にも分からない。
今の魔獣を一言で表すなら、まるで無慈悲なる冬の化身だ。
無数に突き刺さったままの聖銀の武器。背中を痛々しく彩るそれらは、まるで翼を捥がれた痕のようにも見え、そのシルエットは地に堕ちたドラゴンをも連想させた。
また、頭部に張り付いた幾つかの氷の欠片は、どこか繊細な装飾のなされた王冠のようにも見える。
嗚呼。この姿を『冬の王』と称したところで、疑う者はきっと誰もいないはずだ。
威風堂々と歩む漆黒の魔獣改め、雪と氷の魔獣。
その魔獣が歩むたびに、石畳が凍りつく。
その場にいた人間たちは、誰一人動けずにいた。
バフォメット族だろうが、騎士だろうが、種族を問わずただその場で震えているだけだ。
その震えは恐怖の所為か、それとも寒さが故か。
彼らが動けないのは畏れているからか、それとも……足が凍り付いてしまったからだろうか。
そして魔獣は、中年大佐の前で足を止めた。
上等な軍服に身を包んだだけの哀れな人間は、恐怖と寒さで歯をガチガチ鳴らしながら魔獣を見上げる。
魔獣はそんな彼の両肩を、鉤爪の鋭く尖った両手でそっと掴んだ。
「そんなに怖がる必要はない。むしろ俺は、お前達に感謝すらしているのだ」
冥府に響くような猫撫で声で、魔獣が言った。
「特にお前さんの演説なんかは、実に面白かった。まるで、迷いの霧が晴れたようだ気分だ。ああ、そうさ、啓蒙だったよ。結局、世の中なんて弱肉強食。生き残った者が正義で、敵を殺せる者が偉いのだ……それは自然の摂理にすら通じるところがある、素晴らしい考え方だと俺も思うぞ」
……おや? この流れ。もしかして、自分は助かるのでは?
そんなありもしない希望を見出したのだろう、中年軍人は気が触れたような媚びた笑みを魔獣に向ける。
魔獣はその笑顔に、牙を剥いて応えた。
「ところで、それを踏まえた上で一つ、聞かせてほしい――」
哀れな男の肩を掴む魔獣の両手に力がこもる。中年軍人は自分の身体が左右に引っ張られているのを感じた。
「――お前さん方は、どうやって俺を殺す心算だ?」
その質問に答えられる者は、誰一人として居なかった。
魔獣は今、こうして五体満足である。つまり、黒い炎で焼かれた火傷痕も、無事に修復できたわけだ。
ということは……少なくとも偽物の黒い炎ではもはや、この魔獣を殺しえないということになるのではないか?
魔獣が恐ろしい表情で、ますます大きく牙を剥いた。
公正であることを正義とするならば、お前たちに正義は無い。
力こそ正義と言うならば――俺こそが絶対の正義だ。そういうことだろう?
ありがとう。
お前達のおかげで、俺やようやく、偽善者の皮を脱ぎ捨てることができた。
何かがバリバリと引き裂かれる音が、袋小路に響く。
弾け飛ぶように撒き散らされるは、赤くて、黒くて、血生臭い何か。
音の主は、雪と氷の魔獣。
堕ちた化け物はその怪力を以って、血と内臓の詰まった肉の塊を、左右二つに引き裂いていた。
其処にはもう、人間など居なかった。
其処に居るのは、さっきまで人間だった肉塊と、人間を辞めた雪と氷の魔獣だけだ。
――冬を纏う獣が、白亜の牢獄を抜け出す。
可憐な薔薇に背を向けて、咆哮を上げる時、空白の玉座が遂に埋まるだろう――。
その予言は、着実に成就されつつあった。
残された花弁は、あと一枚――。
0
お気に入りに追加
84
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
運命の番?棄てたのは貴方です
ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。
番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。
※自己設定満載ですので気を付けてください。
※性描写はないですが、一線を越える個所もあります
※多少の残酷表現あります。
以上2点からセルフレイティング
お馬鹿な聖女に「だから?」と言ってみた
リオール
恋愛
だから?
それは最強の言葉
~~~~~~~~~
※全6話。短いです
※ダークです!ダークな終わりしてます!
筆者がたまに書きたくなるダークなお話なんです。
スカッと爽快ハッピーエンドをお求めの方はごめんなさい。
※勢いで書いたので支離滅裂です。生ぬるい目でスルーして下さい(^-^;
僕の家族は母様と母様の子供の弟妹達と使い魔達だけだよ?
闇夜の現し人(ヤミヨノウツシビト)
ファンタジー
ー 母さんは、「絶世の美女」と呼ばれるほど美しく、国の中で最も権力の強い貴族と呼ばれる公爵様の寵姫だった。
しかし、それをよく思わない正妻やその親戚たちに毒を盛られてしまった。
幸い発熱だけですんだがお腹に子が出来てしまった以上ここにいては危険だと判断し、仲の良かった侍女数名に「ここを離れる」と言い残し公爵家を後にした。
お母さん大好きっ子な主人公は、毒を盛られるという失態をおかした父親や毒を盛った親戚たちを嫌悪するがお母さんが日々、「家族で暮らしたい」と話していたため、ある出来事をきっかけに一緒に暮らし始めた。
しかし、自分が家族だと認めた者がいれば初めて見た者は跪くと言われる程の華の顔(カンバセ)を綻ばせ笑うが、家族がいなければ心底どうでもいいというような表情をしていて、人形の方がまだ表情があると言われていた。
『無能で無価値の稚拙な愚父共が僕の家族を名乗る資格なんて無いんだよ?』
さぁ、ここに超絶チートを持つ自分が認めた家族以外の生き物全てを嫌う主人公の物語が始まる。
〈念の為〉
稚拙→ちせつ
愚父→ぐふ
⚠︎注意⚠︎
不定期更新です。作者の妄想をつぎ込んだ作品です。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる