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第六章 獣の檻とレヴィオール王国

裏切りと代償(下)

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 世界は闇に包まれている。
 数個程度のランタンでは、その闇を晴らすことはできない。

 黒い炎の火柱が焼き抜いた天井の穴。
 そこからのぞく分厚い雲に覆われた空には星屑ほしくず一つ輝いていない。
 代わりに舞い降りた純白の雪の欠片は、ヒラヒラと揺れながら、魔獣の鼻先に落ちてきて、そっと上に乗った。
 まるであわれな魔獣を、そっとなぐさめるかのように。

 慌ただしくメアリスの兵が騒ぎ立てるネナトの町に、静かに降り始めた雪。
 それはまるで、冬に呪われた地から魔獣を追って来たかのように、このネナトの町を――レヴィオール王国をかざっていく。

 暗闇の中、ランタンを囲んで下品な声で笑いあうバフォメット族の男たち。彼らは相変わらず、まだ見ぬソフィア姫に下卑げびた欲望を向けている。
 そんな彼らの様子を、魔獣は焼けずに残った片眼でじっと見ていた。

(俺はもう、他人を信じる努力は十分したよな?)
 魔獣は、誰にともなく問いかける。
(裏切ったのは、あいつらだよな?)
 いや、それは問いかけでなく、自分自身に対する確認作業であった。

 黒い炎に焼きがされ、地に伏せたままの魔獣。
 中年大佐が見下すような笑みを浮かべながら近づいてきた。
「やあ、魔獣くん。なかなか体が治らないようだねえ」
 厭味いやみったらしく、そして愉悦を隠しきれてないにやけた声で彼は言った。
「おや? その様子、もしやバフォメット族に裏切られたことがショックだったのかな? やれやれ、しょせんは魔獣けだもの。キミは人間の世界について、よく分かっていないようだ」
 わざとらしく、相手を馬鹿にするように肩をすくめて首を横に振る中年大佐。
「人間の世界はね、獣の世界よりずっと複雑なのだよ、魔獣くん。野蛮な暴力で全てが解決するわけではない。彼らは選択をしたのさ」
 自分の作戦が上手く行って上機嫌な中年大佐は、調子に乗って魔獣をねっとりと挑発した。

 悔しいが、確かにそうかもしれない。魔獣は歯ぎしりしながらそう考える。
 実際のところ魔獣は、愚直に他人の良心を信じてしまったがばかりに、こんな目にっているのだ。

 何も考えず敵を皆殺しにしていれば、もっと別の結末があったはずなのに。
 魔獣は人間の悪意を甘く見ていたと、何度も何度も殺された今になってようやく思い知った。
 だが、それでも、魔獣は中年大佐の言う“賢さ”とやらを、うらやましいとは思わなかった。
 まさに、馬鹿は死んでも治らない……そのことわざ通りである。

「ワシに言わせれば……キミはバカ正直すぎるのだよ。もっと賢く生きるすべを学んでおくべきだったねえ」
(何が『人間の世界は複雑』だよ。結局は下衆ゲスい悪党の理屈じゃないか……)
 魔獣は中年大佐の浅ましい考え方を否定する。
 しかし……心のどこかでは、中年大佐の言葉が正しいと、彼は思ってしまった。

 どれだけ真面目に、誠実に、正直に生きたところで、むくわれるとは限らない。いや、むしろむくわれない可能性のほうが圧倒的に高い。
 実際それは地球でも、かつて魔獣が人間として過ごした世界でも何も変わらない現実だった。

 権力か財力か、あるいはその両方か……力さえあれば法の下の平等ですら簡単にくつがいびつな社会。
 公正であることを正義とするならば、そんなもの初めからありはしないのだ。

 どんな理想論も、その全てが建て前と幻想にすぎない。
 権力、財力、軍事力――暴力を別の言葉にすり替えているだけで、突き詰めれば“チカラこそ正義”の理屈に従う野蛮な世界の延長。
 正義も悪も、差別も思想も、全ては政治家と金持ちたちの都合で決まっていた。

 その現実を受け入れ、適合して生きることができれば、確かにそれは賢い生き方だろう。
 しかし、それを正当だと認めるならば……ここは、まるで牢獄だ、けものおりだ。
 世界という名の檻の中で、この不細工でみにくい獣たちが、耳障りな雄叫びを上げながら身勝手な欲望をぶつけ合う――なんとおぞましい地獄ではないか。

 この世に美しきものなんてありやしない。
 仮にあったとしても、それは下賤げせんなる者たちの手によって、あっという間にけがされる。

 唯一、この世に美しきものがあるとすれば――それは誰も居ない、あの冬に閉ざされた楽園ろうごくだけだ。
 冬の城で彼女ソフィアと過ごした、あの日々だけだ。

 あの冬の世界こそが、けがらわしい人間が誰一人として存在しない『冬に呪われた地』こそが、俺にとって真の楽園だったのだ。
 魔獣はそう思ってしまった。

「そう。世の中は弱肉強食。どんな手段を使おうとも、結局は生き残った者が正義で、他人をためらわず殺せるな者が偉くなるのだ」
 ハッハッハと、中年軍人は不快でかんさわわらい声を上げた。
(そんなのは勇敢とは言わねえ。ただのサイコパスだ)
 まるで他人をしいたげることを是とするような物言い。その無茶苦茶な考え方に魔獣は心の中で反論するも、口には出せなかった。
 仮に声に出して伝えたところで、互いに理解も納得も得られないだろうから無意味……そう思ったからである。
 それに……以前から自分も、心の奥底では似たようなことを思っていた事実がある。それが魔獣の中で、負い目にも似た感情となった。

 現に今だってそうだ。
 自分がみじめな敗北者で、中年軍人が人生の勝利者、これが現実である。
 こんな自分が何をえたところで、負け犬の遠吠えにしかならないだろう。魔獣にはその自覚があった。

 弱いことは、こんなにも悲しい。
 俺に世界を変える力があれば、この悲しみを消し去ることができるのだろうか?
 優しい者が救われる世界に、正直者が報われる世界にできるだろうか?

 しかし、世界の仕組みがそれを許さない。
 身を切って弱者にほどこす者と、弱者から奪う者。同程度の能力なら、はたしてどちらが生き残る?

 当然、奪う側だ。

 そして世界は蠱毒こどくのように、より濃縮された悪意を深めていく。

 性善説を信じて傷付くのはもううんざりだ。
 世の中の正義を信じて、馬鹿を見るのはもううんざりだ。

 どこか遠くの白亜の城。
 紅いバラの花弁が、また一枚落ちていった。

 甘いことは、こんなにもみじめだ。
 この中途半端な優しさを消し去ることができれば、俺は誰にも利用されることも、搾取されることもない、完全な存在になれるのだろうか?

 そうだ、弱者のための正義は無い。
 力なき法は法にあらず。家畜どれいに神は居ない。
 平等なんて嘘だ。隣人への愛なんて幻想だ。この世にあるのは欲望と憎悪と怨嗟だけ。

 いっそのこと、あの冬の世界以外の全てを壊してしまいたい。
 自分を不快な気分にさせるわずらわしいものを、全て消し去ってしまいたい。

 また、花弁が散る。
 彼にとってはもう、必要のない存在だから。
 優柔不断で弱い自分は、もう要らない。

 この世の全てを隔絶かくぜつする、絶対的かつ圧倒的な力が欲しい。

 チカラこそが正義。
 今になってようやく、本当の意味で理解した。
 俺は誰も逆らえないような、無敵の存在になりたい。

 そして全てを、あの冬の世界のような静寂の中に……。

 もう一枚、真っな花弁が散る。

 繰り返される自己否定しんか
 人間だった魂が、普通ならもう戻れない領域にまで足を踏み入れる。

 其処そこすでに、自我を持つ生き物と、自我を持たない現象の境界。
 現実と幻想の狭間に当たる領域。

 だからこそ、その音なき声が魔獣に届いてしまった。



 ――チカラが、欲しいの?

 鼻先に落ちてきた雪の欠片。魔獣はその小さな輝きに、そうたずねられたような気がした。

 それは、精霊の声と呼ばれる現象。
 一部の精霊術師が聞くことのできる自然現象であり、あるいは世界そのものの声とわれている。
 ただし、あまりその声に過ぎると、人としての自分を失ってしまう……この世ならざる存在になってしまうと、精霊術師たちのあいだでさえもおそれられていた。

 しかし、そんな伝承を知らない魔獣は、うっかりその声に答えてしまう。
 そこが運命の分岐路だった。

 力が欲しいかだって? 欲しいに決まっているだろ……幻聴まで聞こえてきた。どうやら自分は、もう駄目なようだ。
 いよいよ魔獣は自分の正気を諦めた。

 ――じゃあ、強くなれるのなら、人間を辞めてもいいんだ?
 次は、舞い降りる雪にたずねられたような気がした。

 ああ、そうだな。人間はみにくすぎる。人間のままでは弱すぎる。
 魔獣は心の中で答えた。

 ――でもそうしたら、もう三つとも、二度と取り戻せなくなるかもよ?
 今度は、冷たい風がからかうようにたずねた。

 三つ? なんのことだ? 俺は初めから、何も持ってはいない。
 魔獣には、何のことを言っているのか分からなかった。

 ――本当に、人間の世界に、戻れなくなってもいいの?
 石畳に降りてきたしもが、心配そうにたずねた。

 構わない。今さら未練なんかない。
 魔獣はねたような態度で応じた。

 ――後悔しない? ずっと僕達と、いてくれる?
 いつの間にか張ってきた氷が、期待するようにたずねた。

 ああ。俺は不死の魔獣だ。
 力さえ与えられれば、きっとこの世界が終わるまで、俺は冬の城に居座り続けるだろう。
 魔獣は声に出さず、そう答えた。

 すると、その答えに風がざわめき、雪と氷がおどり始める。

 ――それならば貴方は、たった今から我等の王だ。

 ――空白の玉座に、忌み嫌われた季節に、新たなる王を。

 ――ずっと待っていました、我等があるじよ。

 ――私達は貴方を歓迎しましょう。

 そして、おそらく最後の進化が始まった。



 冬の世界が、魔獣を祝福した。
 雪が風に乗って舞った。霜と氷がネナトの町をいろどった。

 その場にいた人間たちは、急激な周囲の変化に驚き戸惑う。
 人間の理屈で生きている彼らには、何が起きているのか理解できない。

 そして全てが終わった時、その路地裏にたのは、一頭の魔獣であった。
 全ての修復と進化を終えた新たな姿。
 さっきまで血溜ちだまりの中に伏していた漆黒の魔獣は、その面影を残しながらも、姿がすっかりと変わり果てていた。



 その魔獣を“漆黒”とひょうすることは、もう不可能だろう。
 夜の闇のようだった毛皮は、今は深い深い藍色に染まっている。
 たてがみは降り積もったばかりの深雪のように白く、鋭い鱗殻は霜が降りたように凍り付いている。

 体内にはすさまじいエネルギーの奔流ほんりゅう。凍てつく大自然の力がめぐる。
 その魔力マナの輝きは、魔術の素養が無くても視認できてしまうほど激しく、口の中や毛皮の下、鱗殻の隙間から強烈な青い光を放っていた。

 そして、かつての血潮が透けて見えた真紅の双眸そうぼうは、今や凍てつくような冷たい色を――全てを見限ったような、蒼白い氷の色を宿している。
 あるいは逆に、赤い炎より熱く激しく燃える蒼炎の色なのか、それは魔獣自身にも分からない。

 今の魔獣を一言で表すなら、まるで無慈悲なる冬の化身だ。
 無数に突き刺さったままの聖銀の武器。背中を痛々しくいろどるそれらは、まるで翼をがれたあとのようにも見え、そのシルエットは地にちたドラゴンをも連想させた。

 また、頭部に張り付いたいくつかの氷の欠片は、どこか繊細な装飾のなされた王冠のようにも見える。
 嗚呼ああ。この姿を『冬の王』としょうしたところで、疑う者はきっと誰もいないはずだ。



 威風堂々いふうどうどうと歩む漆黒の魔獣改め、雪と氷の魔獣。
 その魔獣があゆむたびに、石畳が凍りつく。

 その場にいた人間たちは、誰一人動けずにいた。
 バフォメット族だろうが、騎士だろうが、種族を問わずただその場で震えているだけだ。

 その震えは恐怖の所為せいか、それとも寒さがゆえか。
 彼らが動けないのはおそれているからか、それとも……足が凍り付いてしまったからだろうか。

 そして魔獣は、中年大佐の前で足を止めた。
 上等な軍服に身を包んだだけの哀れな人間は、恐怖と寒さで歯をガチガチ鳴らしながら魔獣を見上げる。
 魔獣はそんな彼の両肩を、鉤爪の鋭く尖った両手でそっとつかんだ。

「そんなに怖がる必要はない。むしろ俺は、お前達に感謝すらしているのだ」
 冥府に響くような猫撫で声で、魔獣が言った。

「特にお前さんの演説なんかは、実に面白かった。まるで、迷いの霧が晴れたようだ気分だ。ああ、そうさ、啓蒙けいもうだったよ。結局、世の中なんて弱肉強食。生き残った者が正義で、敵を殺せる者が偉いのだ……それは自然の摂理にすら通じるところがある、素晴らしい考え方だと俺も思うぞ」

 ……おや? この流れ。もしかして、自分は助かるのでは?
 そんなありもしない希望を見出したのだろう、中年軍人は気が触れたようなびた笑みを魔獣に向ける。
 魔獣はその笑顔に、牙をいて応えた。

「ところで、それを踏まえた上で一つ、聞かせてほしい――」

 哀れな男の肩をつかむ魔獣の両手に力がこもる。中年軍人は自分の身体が左右に引っ張られているのを感じた。

「――お前さんがたは、どうやって俺を殺す心算つもりだ?」

 その質問に答えられる者は、誰一人として居なかった。
 魔獣は今、こうして五体満足である。つまり、黒い炎で焼かれた火傷痕も、無事に修復できたわけだ。
 ということは……少なくとも偽物の黒い炎ではもはや、この魔獣を殺しえないということになるのではないか?

 魔獣が恐ろしい表情で、ますます大きく牙をいた。



 公正であることを正義とするならば、お前たちに正義は無い。
 力こそ正義と言うならば――俺こそが絶対の正義だ。そういうことだろう?


 ありがとう。
 お前達のおかげで、俺やようやく、偽善者ぜんにんの皮を脱ぎ捨てることができた。



 何かがバリバリと引き裂かれる音が、袋小路ふくろこうじに響く。

 弾け飛ぶようにらされるは、赤くて、黒くて、血生臭い何か。

 音の主は、雪と氷の魔獣。
 堕ちた化け物はその怪力をって、血と内臓の詰まった肉の塊を、左右二つに引き裂いていた。

 其処そこにはもう、人間など居なかった。
 其処そこに居るのは、さっきまで人間だった肉塊と、人間を辞めた雪と氷の魔獣だけだ。



 ――冬をまとけものが、白亜の牢獄おりを抜け出す。
 可憐かれんな薔薇に背を向けて、咆哮うぶごえを上げる時、空白の玉座がついに埋まるだろう――。

 その予言は、着実に成就されつつあった。



 残された花弁は、あと一枚――。
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