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七章 侍従長と魔法使い
涼やかな氷の少年
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少年は舞い降りる。
そこに不可思議を見出すだけの余裕を、人々は持ち合わせていなかった。
この地域でのユミファナトラ大河の氾濫は珍しいことではない。人々は知らないだろうが、その氾濫が肥沃な大地を生み出している、という説を耳にしたことがある。
だが、今回はいただけない。収穫前の作物。当然、長雨の時期を避けているのだが、これもまた人々の与り知らぬことではあるが、今回は上流での突発的な豪雨が原因だった。
領民は即座に対応したが、水竜の息吹が如き濁流に、終には堤が切れる。
逸早く察した領主が、領民の命には代えられぬと、退避を命じていたが、時すでに遅し。
ーー領主は見た。向かう先に現れた、やや頼りない容姿の少年を。
ここらでは見掛けない服を着ている。竜をあしらった意匠が、それとなく散見される。このような危急の折だというのに、少年に目を奪われる。
彼は、静かに腕を伸ばして、殿の領主に掌を向けた。
少年の涼やかな面に、降り積もった雪の純白を宿した瞳に、領主は確信する。
その対象は自分ではない、と。こうして領民を救えなかった男が、あの清澄な眼差しに映るはずがない。であれば、少年の冷ややかな瞳は何を映しているのか。そも、少年はこの窮地に、何故立ち尽くしているのか。
ぞくり、と領主が少年の意図に身慄いしたとき、情景は鳴る。
「『氷雪の理』」
立ち止まってはならぬというのに、少年の横を駆け抜けた領主は、本能の内から生ずる予感に抵抗しきれず、儘よと振り返る。
それは、磨き抜かれた白い風に見えた。
違う、とその瞬間を見届けた領主は、自らの間違いを正す。
白銀の疾き風は、結果に過ぎない。視界を歪めるほどの、圧倒的なーー、世界の果ての大地には、このような極寒の応えが人々を阻んでいるのだろうか。
濁流の、耳障りな音が途切れる。
やがて人々は、その異変に気付き、理解が及ばず、現出した絶景に見入るばかり。
恐ろしいほどの美しさ。
その言葉に相応しい光景を、領主は初めて目にする。その情景の中に、少年が居たからこそ、成り立っていたものなのかもしれない。
迫り来る、あらゆるものを呑み込む水の暴虐は、静寂を飾り立てる脇役だったかのよう。
表面は薄い氷。その中は水。膜のような薄氷が、白風に運ばれて、ユミファナトラ大河の流れを覆ってゆく。
「薄氷の隋道」、だろうか、純度の高い氷のようで、まるでそこには何もないかのような透明な様は、人の意識さえ惑わせるようだ。
ぱきっ、と音がする。
何故だろうか、それに危機感を抱くことはなかった。
薄氷が割れて、水が噴出したかと思うと、水はそのまま凍り付いて、穴を塞ぐ。
凍った水が造り出したのは、氷の華。
ぱきっ、ぱりんっ、とあちこちで氷花が咲き乱れる。
「『氷竜絶佳』」
少年の声に、領主は幻想の領域から抜け出す。
間に合わない、と領主はわかっていた。それでも、と。すでに手を下ろした、竜の衣を纏った少年に、感謝の言葉を投げ渡す。
届いただろうか。「飛翔」なのだろうか、もはや空の高みにある少年に向かって。
領民と共に、千の感謝をこの地に刻み、伝えていこうと領主は誓うのだった。
そこに不可思議を見出すだけの余裕を、人々は持ち合わせていなかった。
この地域でのユミファナトラ大河の氾濫は珍しいことではない。人々は知らないだろうが、その氾濫が肥沃な大地を生み出している、という説を耳にしたことがある。
だが、今回はいただけない。収穫前の作物。当然、長雨の時期を避けているのだが、これもまた人々の与り知らぬことではあるが、今回は上流での突発的な豪雨が原因だった。
領民は即座に対応したが、水竜の息吹が如き濁流に、終には堤が切れる。
逸早く察した領主が、領民の命には代えられぬと、退避を命じていたが、時すでに遅し。
ーー領主は見た。向かう先に現れた、やや頼りない容姿の少年を。
ここらでは見掛けない服を着ている。竜をあしらった意匠が、それとなく散見される。このような危急の折だというのに、少年に目を奪われる。
彼は、静かに腕を伸ばして、殿の領主に掌を向けた。
少年の涼やかな面に、降り積もった雪の純白を宿した瞳に、領主は確信する。
その対象は自分ではない、と。こうして領民を救えなかった男が、あの清澄な眼差しに映るはずがない。であれば、少年の冷ややかな瞳は何を映しているのか。そも、少年はこの窮地に、何故立ち尽くしているのか。
ぞくり、と領主が少年の意図に身慄いしたとき、情景は鳴る。
「『氷雪の理』」
立ち止まってはならぬというのに、少年の横を駆け抜けた領主は、本能の内から生ずる予感に抵抗しきれず、儘よと振り返る。
それは、磨き抜かれた白い風に見えた。
違う、とその瞬間を見届けた領主は、自らの間違いを正す。
白銀の疾き風は、結果に過ぎない。視界を歪めるほどの、圧倒的なーー、世界の果ての大地には、このような極寒の応えが人々を阻んでいるのだろうか。
濁流の、耳障りな音が途切れる。
やがて人々は、その異変に気付き、理解が及ばず、現出した絶景に見入るばかり。
恐ろしいほどの美しさ。
その言葉に相応しい光景を、領主は初めて目にする。その情景の中に、少年が居たからこそ、成り立っていたものなのかもしれない。
迫り来る、あらゆるものを呑み込む水の暴虐は、静寂を飾り立てる脇役だったかのよう。
表面は薄い氷。その中は水。膜のような薄氷が、白風に運ばれて、ユミファナトラ大河の流れを覆ってゆく。
「薄氷の隋道」、だろうか、純度の高い氷のようで、まるでそこには何もないかのような透明な様は、人の意識さえ惑わせるようだ。
ぱきっ、と音がする。
何故だろうか、それに危機感を抱くことはなかった。
薄氷が割れて、水が噴出したかと思うと、水はそのまま凍り付いて、穴を塞ぐ。
凍った水が造り出したのは、氷の華。
ぱきっ、ぱりんっ、とあちこちで氷花が咲き乱れる。
「『氷竜絶佳』」
少年の声に、領主は幻想の領域から抜け出す。
間に合わない、と領主はわかっていた。それでも、と。すでに手を下ろした、竜の衣を纏った少年に、感謝の言葉を投げ渡す。
届いただろうか。「飛翔」なのだろうか、もはや空の高みにある少年に向かって。
領民と共に、千の感謝をこの地に刻み、伝えていこうと領主は誓うのだった。
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