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五章 竜の民と魔法使い
〝サイカ〟の里長
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「竜の国の保証は安くありません。それを肝に銘じて……」
「ーーランル・リシェ」
早足で近付いてきたカレンが、掌を後ろに、ぐっと力を溜める。それは、避けるな、という意図。
僕は目を閉じて、彼女の責めを甘んじて受ける。
ぱんっ、と小気味良い音がする。
頬が痛むが、痛いだけだ。僕の耳を避けて、且つ掌の硬い部分を使わなかったので、大きな音に比して衝撃は大きくない。
「来なさい」
有無を言わせぬ口調で、僕の腕を掴むと、正面の扉以外に設けられた二つの扉の内、玉座の横の通路に連れて行かれる。
幾人かの好奇の視線と、それ以外の放心した人々を顧みることなく突き進むカレンに、唯々諾々として従うこと六十二歩。
炎竜の間から十分に離れると、転っと振り返って、彼女は口火を切った。
「あなたは馬鹿ですか? いえ、言い直します。あなたは馬鹿です。いえ、それも違います。あなたが馬鹿だったことを思い出しました。そういえば、ランル・リシェの名前は、馬鹿の代名詞でしたね」
酷いことを言われているが、言葉の内容ほどには悪くないようだ。怒りと心配を混ぜ合わせて、呆れを振り掛けたようなものだろうか。
それが、拗ねたような表情に見えて、場違いながら可愛く映ってしまう。
「何をにやついているのです」
「えっと、カレンが可愛いな、と思って」
「ーーっ!?」
カレンは、僕から顔ごと、いや、体ごと反対を向いて、無言で歩いてゆく。
失敗した。「やわらかいところ」対策で積み上げてきた経験が、するりと本心を口から抛り出させてしまった。
カレンの後ろ姿を見て、心の底から猛省する。
最近コウさんを苛める、もとい王様との触れ合いに慣れてきてしまって、異性に対する節度というものを失念していたのかもしれない。
役割や役職、というのは恐ろしいものである。気を付けていないと、自然とその役目に相応しい行動を取るようになってしまう。
でも、その割には侍従長としての面目を保てていないような。と悩んでいると、竜魔法団の団長であるところの美男子が僕の隣に現れて、弟子を品定めするような、いや、値踏み、のほうが印象としては近いだろうか、関心を抱いた声音で先行する少女に話し掛けた。
「はい、そこを右に曲がって。三つ目がリシェ君の執務室だよ」
「っ! あ、あの、いつからいらしたのですかっ!!」
「心配しなくても大丈夫。最初から、ずっと後ろに居たから。ほらリシェ君、血が垂れているから、これで押さえておきなさい」
「……ぃ、……っ」
僕に布を手渡してくれる老師。
直前まで気配がまったくなかったということは、魔法を使っていたのかもしれない。鋭敏な感覚の持ち主であるカレンを謀り、魔法が効かない僕さえ化かしたということは、コウさん同様に僕への対処を施してあるのかもしれない。
行く先を決めていなかったらしいカレンは、というか、翠緑宮を訪れたのは初めてなのだから不案内なのは当然、またぞろ無言で老師の誘導に従って、僕の執務室に入ってゆく。
僕の執務室の雑多な、一見すると散らかっているように錯覚するかもしれない有様に、一瞬たじろいだものの、竜の尻尾を踏み拉く勢いで、ずかずかと書類や資料を蹴散らしてゆく。
その無慈悲な行いに、反抗する気力など根こそぎ奪われて、なすがままに自分の席に座ると、やっとこ手が解放される。
見上げると、当たり前のように老師もそこに居て。
「はい。これを使うと良い」
「これは……?」
差し出された小さな容器を、怪訝そうに受け取るカレン。
「私の得手は、治癒魔法でね。魔法だけでなく、薬師としての技術も磨いている。これは出回っている塗り薬よりも効き目があるので、あとは包帯を巻くだけ。付与魔法で効果を高めることも出来るのだけれど、リシェ君には必要ないかな」
「……通常の塗り薬よりも効果があるのは、あなたの腕ですか? それとも使っている素材が高価、いえ、効能が高いのですか?」
「ほう、さすがだね。魔法使いは、二種類の塗り薬を作った。一つは、効果を求めたもの。もう一つが、安価な素材で作れるもの。この魔法使いは優れた人でね、塗り薬が流通した場合のことを考え、資源が枯渇しないよう、きちんと配慮していたのさ」
「博識でいらっしゃるのね。若しや、その塗り薬を調合したのは、あなただったりするのかしら。ただの自慢話でしたら、他所でしていただきたいのですが」
「おや? そのように聞こえたとするなら、私の不徳の致すところです。私の友人の一族が治癒魔法の大家で、彼の祖先が塗り薬を調合したとの由。私は、好みに合わせて、少しばかり手を加えただけ」
カレンにしては珍しい、終始笑みを崩さない老師に向かって、放言高論する。
老師のほうでも、カレンを揶揄している風だ。なんだろう、この二人の噛み合わなさは。美男美女で相性は良さそうなものなのだが。いや、同族嫌悪という言葉もあるわけだが……。
「さて、老骨が若い二人の邪魔をしにきた理由を説明しようか。リシェ君、君は危なっかしい。コウに対しての、私の役割は知っているね。君も私の弟子になりなさい」
「っ!?」
んぎぎっ、痛いっ痛いですっ、カレンさん!
老師の言葉を聞いたカレンが軟膏をぐりっと押し付けて、僕を涙目にさせる。老師に重要な申し出をされたのだが、それどころではない。
彼は僕を後回しにして、どこまで本気なのだろう、カレンにも申し出る。
「なんなら、カレンさんも私の弟子になって構いませんよ」
「っ、お断りですっ!」
ぷいっ、と顔を背けてーー、これは本当に珍しい、カレンが膨れほっぺである。
う~む、元が整っているだけに剥れていても美人に見えてしまうのは、良いことなのか悪いことなのか。
老師を無視して、手際良く僕の手に包帯を巻いてくれる。
「まぁ、そうなるね。仕方がない、打ち明け話をしないといけないかな。私には、それなりに知られた名があってねーー」
突如扉が開いて、胸襟を開こうとしたらしい老師が言葉を切る。見ると、オルエルさんが扉から滑り込んできて、慌てた様子で捲し立てた。
「あの、ですね、〝サイカ〟の長を名乗る人物が、遣って来まして、グロウ殿にと」
筆頭竜官が直接伝令に来るなんて何事かと思ったが、これは確かに一大事だった。
僕が〝目〟であると知っただけで驚いていたオルエルさんである。〝サイカ〟の、しかも里長の来訪とあっては、取り乱すのもむべなるかな。
「あちゃ~、到頭来たか。相変わらず、計ったような時機で登場する奴だ」
老師が天を仰ぐ。包帯を巻き終えたカレンが、慌てて威儀を正す。
「お、お茶を……、竜茶を持って参りますっ!」
オルエルさんがあたふたと執務室から出て行った。あの様子だと、コウさんに掛け合って、手ずから竜茶を持ってきそうだ。
然ても、オルエルさんは通常以上に〝目〟や〝サイカ〟を特別視しているようだ。何かしらの思い入れがあるのかもしれない。
入れ替わりで里長が入ってきた瞬間、彼の姿が景色に浮かんだような錯覚、いや、実際にそう見えているのだ。世の中には、生命力というか存在感というか、魂の輝きというか、人生に於いて何事かを成した人、或いは成そうとしている人が持つ空気みたいなものがある。
〝サイカ〟の改革を成し遂げ、「至上の〝サイカ〟」と呼ばれる人物だけに、ただそこに居るだけで、掌に汗を掻いてしまいそうな厳粛な空気を感じてしまう。
老師が逃げるように、部屋の隅にある椅子を取りに行こうとすると、途端に里長から叱責が飛ぶ。
「カレン。グリンの手を煩わすとは何事か。皆の椅子を用意なさい」
静かだが、深く響く声。心の弱い者なら、それだけで跪いてしまいそうな威厳がある。
敬愛する祖父に窘められて、忸怩たる思いを抱いたのだろう、俯き加減でそそくさと椅子を取りに向かう。僕は僕で、そんなカレンを気遣う余裕などなく、そわそわと机の上の乱雑に積み重なった書類などを脇に寄せて空間を作る。
〝目〟の雛である僕たちがあたふたしているのを尻目に、里長は迷いなく老師の許へ歩いてゆく。
悪戯が見つかった子供のような、ばつの悪い思いをしているらしい老師にお構いなく、彼の胸の辺りに手を当てて。
魔法を使ったようだった。
「……グリンよ。若作りをしよって。内はぼろぼろではないか」
万感交到る姿が印象的だった。
矍鑠たる里長の背中が少しだけ小さく見えてしまう。
「ははっ、羨ましかろう。ここまで自分の体を使い切ったのだ、私は幸せ者だ」
老師の声色に古びたものが混じる。浮かべた笑みは、里長と同じく、周期を経た者のそれだった。
旧交を温める、などという言葉ではまったく足りない、熱くて冷たいものが二人の間に蟠る。
椅子を並べ終えたカレンは、何か心に引っ掛かるものでもあったのか、老師をまじまじと見て、後退りながら声を絞り出す。
「っ、グリン……、グリンとは『〝サイカ〟の懐剣』、グリン・グロウっ!?」
カレンは「懐剣」のことを知っていたようだ。この状況から察するに、老師はグリン・グロウ本人で間違いないようだ。
治癒魔法の大家の友人がいるようだし、情報に符合するのだが。然あらば彼自身が治癒魔法を得手としているのは、何か事情があるのだろうか。
老師の二十半ばの、好青年というか貴公子然とした美々しいとも言える容姿は何らかの若返り(?)の魔法によるもので、実際には里長と同周期ということになる、のだがーー。
「……、ーーん?」
あれ? 何か齟齬があるような。しっくりこないというか、歯車が噛み合わないというか、こう、喉まで出掛かっているのに、あともう少しなのに、答えに辿り着けないもどかしさ。
見落としている、見逃していることに煩悶していると、長から声が掛かる。
「ランル・リシェよ。そなた、〝サイカ〟に至るか?」
「いえ、僕は〝サイカ〟には至りません」
僕は、即答した。
自分でも不思議だった。確かに、それは決めてあったこと。でも、実際にそのときが訪れて、こうもあっさり断ることが出来るとは思っていなかった。
〝サイカ〟は敵にならず。
敵にならないということは、深く踏み込まないということだ。〝サイカ〟の安全は、そうして守られてきた。
僕が竜の国から退くことはない。竜の国を造った責任、ではなく、もっと強い欲求によって、僕は竜の国を受け容れている。
「であるか。これで〝サイカ〟に至るに背いたは、三人目か」
里長のことである、始めから僕の答えなどお見通しだったのだろう、僕と老師を見て、心底嬉しそうに眦の皺を深くする。
だが僕は、いや、僕だけでなく里長も、それが踏み躙る行為であるとわかっていた。大切なものを、逡巡せず捨てた僕に、彼女は激発する。
「ランル・リシェ! なぜっ、なぜ〝サイカ〟に至らないのです!!」
里長は愁いを含んで、老師は旧情に揺れて、情けないことに僕は曖昧な憐憫の情を乗せて、人目を憚らず涙を流すカレンを凝然として見ていた。
人は美しく泣くことは出来ない、というけど、激情のままに、只管に一心に。それは月の明かりに似て、彼女自身を輝かせるものではなかったけど、近付くことで知った、ざらついたものを、カレンの有様を、美しいと感じた。
然あれば出逢いのときより彼女に嫌われて煙たがれようと、よすがとして心に棲み続けたのだろう。
漠とした時が弾けて、気付けばカレンの姿がなかった。どうやら、執務室から飛び出していったようだ。今の大きな音は、扉が叩き付けられたものなのか。
「若しや、サイカの一族から、〝サイカ〟に至った者はいないのか?」
「うむ。サイカの一族は、〝サイカ〟を求めず、里の運営に専任するのが良いと思うておる。じゃが、カレンはそれに納得がいかぬようでな。ーーあの娘は、スースィアに懐いておった。二周期、遅かったの、この痴れ者が」
二人が静かに目を閉じる。悼んでいるようにも、懐かしんでいるようにも見える。
大陸全土を巻き込んだ三度の大乱の中でも、最も激しいと言わしめた、苦難の時代を生き抜いた人々。慥かカレンの祖母が、スースィア、という名だったはず。彼女も〝サイカ〟で、改革の功労者の一人。里長と共に〝サイカ〟を導いた、女傑として知られている。
僕がまだ里にいたときに、他界したと人伝に聞いた。一時期、カレンが塞ぎ込んでいたので、当時のことはよく覚えている。
友人たちから、彼女に優しくしてやれ、と言われた、もとい命令されたが、そんな器用なことが僕に出来るはずもなく、空回って僕まで傷心する嵌めになったのは、振り返ってみれば良い思い出ーーになるには、まだまだ周期が必要だ。
「カレンを追い掛ける必要はない。炎竜の間に行くと良い。わしはこやつを締め上げてやらねばならんのでな。これまで何をしておったか洗い浚い吐いてもらうぞ」
「くぅっ、ちょっとそこの弟子、師匠を助けないか!」
無論、無視である。
それと、まだ老師の弟子になると決めたわけではないので、勝手に師匠面をかまさないでください。
まぁ、そんな未来の師匠かもしれない人の情けない姿を見まいと、改革の英雄たちを一顧だにせず部屋を出たところで、オルエルさんと危うく鉢合わせしかけた。
見ると、本当に自分で竜茶を淹れてきたようだ。落ち着かない様子で、ふわふわそわそわわたわたである。
「リシェ君に来客だよ、今はフィア様が相手をしてくださっているので、向かってくれ」
せめて誰が訪ねてきたのかくらい教えてくれればいいのに、風竜に唆されたようなふあふあ具合で、僕の執務室に入って行ってしまった。
里長に首っ丈、いやさ、御執心、って同じ意味か、いや、そもそも斯様な言い方だと語弊があろう……。
ふぅ、思考が駄目なほうに向かっているようなので、筆頭竜官の行状に託けて、現実から目を逸らすのはここらで止めにしておこう。
「ーーランル・リシェ」
早足で近付いてきたカレンが、掌を後ろに、ぐっと力を溜める。それは、避けるな、という意図。
僕は目を閉じて、彼女の責めを甘んじて受ける。
ぱんっ、と小気味良い音がする。
頬が痛むが、痛いだけだ。僕の耳を避けて、且つ掌の硬い部分を使わなかったので、大きな音に比して衝撃は大きくない。
「来なさい」
有無を言わせぬ口調で、僕の腕を掴むと、正面の扉以外に設けられた二つの扉の内、玉座の横の通路に連れて行かれる。
幾人かの好奇の視線と、それ以外の放心した人々を顧みることなく突き進むカレンに、唯々諾々として従うこと六十二歩。
炎竜の間から十分に離れると、転っと振り返って、彼女は口火を切った。
「あなたは馬鹿ですか? いえ、言い直します。あなたは馬鹿です。いえ、それも違います。あなたが馬鹿だったことを思い出しました。そういえば、ランル・リシェの名前は、馬鹿の代名詞でしたね」
酷いことを言われているが、言葉の内容ほどには悪くないようだ。怒りと心配を混ぜ合わせて、呆れを振り掛けたようなものだろうか。
それが、拗ねたような表情に見えて、場違いながら可愛く映ってしまう。
「何をにやついているのです」
「えっと、カレンが可愛いな、と思って」
「ーーっ!?」
カレンは、僕から顔ごと、いや、体ごと反対を向いて、無言で歩いてゆく。
失敗した。「やわらかいところ」対策で積み上げてきた経験が、するりと本心を口から抛り出させてしまった。
カレンの後ろ姿を見て、心の底から猛省する。
最近コウさんを苛める、もとい王様との触れ合いに慣れてきてしまって、異性に対する節度というものを失念していたのかもしれない。
役割や役職、というのは恐ろしいものである。気を付けていないと、自然とその役目に相応しい行動を取るようになってしまう。
でも、その割には侍従長としての面目を保てていないような。と悩んでいると、竜魔法団の団長であるところの美男子が僕の隣に現れて、弟子を品定めするような、いや、値踏み、のほうが印象としては近いだろうか、関心を抱いた声音で先行する少女に話し掛けた。
「はい、そこを右に曲がって。三つ目がリシェ君の執務室だよ」
「っ! あ、あの、いつからいらしたのですかっ!!」
「心配しなくても大丈夫。最初から、ずっと後ろに居たから。ほらリシェ君、血が垂れているから、これで押さえておきなさい」
「……ぃ、……っ」
僕に布を手渡してくれる老師。
直前まで気配がまったくなかったということは、魔法を使っていたのかもしれない。鋭敏な感覚の持ち主であるカレンを謀り、魔法が効かない僕さえ化かしたということは、コウさん同様に僕への対処を施してあるのかもしれない。
行く先を決めていなかったらしいカレンは、というか、翠緑宮を訪れたのは初めてなのだから不案内なのは当然、またぞろ無言で老師の誘導に従って、僕の執務室に入ってゆく。
僕の執務室の雑多な、一見すると散らかっているように錯覚するかもしれない有様に、一瞬たじろいだものの、竜の尻尾を踏み拉く勢いで、ずかずかと書類や資料を蹴散らしてゆく。
その無慈悲な行いに、反抗する気力など根こそぎ奪われて、なすがままに自分の席に座ると、やっとこ手が解放される。
見上げると、当たり前のように老師もそこに居て。
「はい。これを使うと良い」
「これは……?」
差し出された小さな容器を、怪訝そうに受け取るカレン。
「私の得手は、治癒魔法でね。魔法だけでなく、薬師としての技術も磨いている。これは出回っている塗り薬よりも効き目があるので、あとは包帯を巻くだけ。付与魔法で効果を高めることも出来るのだけれど、リシェ君には必要ないかな」
「……通常の塗り薬よりも効果があるのは、あなたの腕ですか? それとも使っている素材が高価、いえ、効能が高いのですか?」
「ほう、さすがだね。魔法使いは、二種類の塗り薬を作った。一つは、効果を求めたもの。もう一つが、安価な素材で作れるもの。この魔法使いは優れた人でね、塗り薬が流通した場合のことを考え、資源が枯渇しないよう、きちんと配慮していたのさ」
「博識でいらっしゃるのね。若しや、その塗り薬を調合したのは、あなただったりするのかしら。ただの自慢話でしたら、他所でしていただきたいのですが」
「おや? そのように聞こえたとするなら、私の不徳の致すところです。私の友人の一族が治癒魔法の大家で、彼の祖先が塗り薬を調合したとの由。私は、好みに合わせて、少しばかり手を加えただけ」
カレンにしては珍しい、終始笑みを崩さない老師に向かって、放言高論する。
老師のほうでも、カレンを揶揄している風だ。なんだろう、この二人の噛み合わなさは。美男美女で相性は良さそうなものなのだが。いや、同族嫌悪という言葉もあるわけだが……。
「さて、老骨が若い二人の邪魔をしにきた理由を説明しようか。リシェ君、君は危なっかしい。コウに対しての、私の役割は知っているね。君も私の弟子になりなさい」
「っ!?」
んぎぎっ、痛いっ痛いですっ、カレンさん!
老師の言葉を聞いたカレンが軟膏をぐりっと押し付けて、僕を涙目にさせる。老師に重要な申し出をされたのだが、それどころではない。
彼は僕を後回しにして、どこまで本気なのだろう、カレンにも申し出る。
「なんなら、カレンさんも私の弟子になって構いませんよ」
「っ、お断りですっ!」
ぷいっ、と顔を背けてーー、これは本当に珍しい、カレンが膨れほっぺである。
う~む、元が整っているだけに剥れていても美人に見えてしまうのは、良いことなのか悪いことなのか。
老師を無視して、手際良く僕の手に包帯を巻いてくれる。
「まぁ、そうなるね。仕方がない、打ち明け話をしないといけないかな。私には、それなりに知られた名があってねーー」
突如扉が開いて、胸襟を開こうとしたらしい老師が言葉を切る。見ると、オルエルさんが扉から滑り込んできて、慌てた様子で捲し立てた。
「あの、ですね、〝サイカ〟の長を名乗る人物が、遣って来まして、グロウ殿にと」
筆頭竜官が直接伝令に来るなんて何事かと思ったが、これは確かに一大事だった。
僕が〝目〟であると知っただけで驚いていたオルエルさんである。〝サイカ〟の、しかも里長の来訪とあっては、取り乱すのもむべなるかな。
「あちゃ~、到頭来たか。相変わらず、計ったような時機で登場する奴だ」
老師が天を仰ぐ。包帯を巻き終えたカレンが、慌てて威儀を正す。
「お、お茶を……、竜茶を持って参りますっ!」
オルエルさんがあたふたと執務室から出て行った。あの様子だと、コウさんに掛け合って、手ずから竜茶を持ってきそうだ。
然ても、オルエルさんは通常以上に〝目〟や〝サイカ〟を特別視しているようだ。何かしらの思い入れがあるのかもしれない。
入れ替わりで里長が入ってきた瞬間、彼の姿が景色に浮かんだような錯覚、いや、実際にそう見えているのだ。世の中には、生命力というか存在感というか、魂の輝きというか、人生に於いて何事かを成した人、或いは成そうとしている人が持つ空気みたいなものがある。
〝サイカ〟の改革を成し遂げ、「至上の〝サイカ〟」と呼ばれる人物だけに、ただそこに居るだけで、掌に汗を掻いてしまいそうな厳粛な空気を感じてしまう。
老師が逃げるように、部屋の隅にある椅子を取りに行こうとすると、途端に里長から叱責が飛ぶ。
「カレン。グリンの手を煩わすとは何事か。皆の椅子を用意なさい」
静かだが、深く響く声。心の弱い者なら、それだけで跪いてしまいそうな威厳がある。
敬愛する祖父に窘められて、忸怩たる思いを抱いたのだろう、俯き加減でそそくさと椅子を取りに向かう。僕は僕で、そんなカレンを気遣う余裕などなく、そわそわと机の上の乱雑に積み重なった書類などを脇に寄せて空間を作る。
〝目〟の雛である僕たちがあたふたしているのを尻目に、里長は迷いなく老師の許へ歩いてゆく。
悪戯が見つかった子供のような、ばつの悪い思いをしているらしい老師にお構いなく、彼の胸の辺りに手を当てて。
魔法を使ったようだった。
「……グリンよ。若作りをしよって。内はぼろぼろではないか」
万感交到る姿が印象的だった。
矍鑠たる里長の背中が少しだけ小さく見えてしまう。
「ははっ、羨ましかろう。ここまで自分の体を使い切ったのだ、私は幸せ者だ」
老師の声色に古びたものが混じる。浮かべた笑みは、里長と同じく、周期を経た者のそれだった。
旧交を温める、などという言葉ではまったく足りない、熱くて冷たいものが二人の間に蟠る。
椅子を並べ終えたカレンは、何か心に引っ掛かるものでもあったのか、老師をまじまじと見て、後退りながら声を絞り出す。
「っ、グリン……、グリンとは『〝サイカ〟の懐剣』、グリン・グロウっ!?」
カレンは「懐剣」のことを知っていたようだ。この状況から察するに、老師はグリン・グロウ本人で間違いないようだ。
治癒魔法の大家の友人がいるようだし、情報に符合するのだが。然あらば彼自身が治癒魔法を得手としているのは、何か事情があるのだろうか。
老師の二十半ばの、好青年というか貴公子然とした美々しいとも言える容姿は何らかの若返り(?)の魔法によるもので、実際には里長と同周期ということになる、のだがーー。
「……、ーーん?」
あれ? 何か齟齬があるような。しっくりこないというか、歯車が噛み合わないというか、こう、喉まで出掛かっているのに、あともう少しなのに、答えに辿り着けないもどかしさ。
見落としている、見逃していることに煩悶していると、長から声が掛かる。
「ランル・リシェよ。そなた、〝サイカ〟に至るか?」
「いえ、僕は〝サイカ〟には至りません」
僕は、即答した。
自分でも不思議だった。確かに、それは決めてあったこと。でも、実際にそのときが訪れて、こうもあっさり断ることが出来るとは思っていなかった。
〝サイカ〟は敵にならず。
敵にならないということは、深く踏み込まないということだ。〝サイカ〟の安全は、そうして守られてきた。
僕が竜の国から退くことはない。竜の国を造った責任、ではなく、もっと強い欲求によって、僕は竜の国を受け容れている。
「であるか。これで〝サイカ〟に至るに背いたは、三人目か」
里長のことである、始めから僕の答えなどお見通しだったのだろう、僕と老師を見て、心底嬉しそうに眦の皺を深くする。
だが僕は、いや、僕だけでなく里長も、それが踏み躙る行為であるとわかっていた。大切なものを、逡巡せず捨てた僕に、彼女は激発する。
「ランル・リシェ! なぜっ、なぜ〝サイカ〟に至らないのです!!」
里長は愁いを含んで、老師は旧情に揺れて、情けないことに僕は曖昧な憐憫の情を乗せて、人目を憚らず涙を流すカレンを凝然として見ていた。
人は美しく泣くことは出来ない、というけど、激情のままに、只管に一心に。それは月の明かりに似て、彼女自身を輝かせるものではなかったけど、近付くことで知った、ざらついたものを、カレンの有様を、美しいと感じた。
然あれば出逢いのときより彼女に嫌われて煙たがれようと、よすがとして心に棲み続けたのだろう。
漠とした時が弾けて、気付けばカレンの姿がなかった。どうやら、執務室から飛び出していったようだ。今の大きな音は、扉が叩き付けられたものなのか。
「若しや、サイカの一族から、〝サイカ〟に至った者はいないのか?」
「うむ。サイカの一族は、〝サイカ〟を求めず、里の運営に専任するのが良いと思うておる。じゃが、カレンはそれに納得がいかぬようでな。ーーあの娘は、スースィアに懐いておった。二周期、遅かったの、この痴れ者が」
二人が静かに目を閉じる。悼んでいるようにも、懐かしんでいるようにも見える。
大陸全土を巻き込んだ三度の大乱の中でも、最も激しいと言わしめた、苦難の時代を生き抜いた人々。慥かカレンの祖母が、スースィア、という名だったはず。彼女も〝サイカ〟で、改革の功労者の一人。里長と共に〝サイカ〟を導いた、女傑として知られている。
僕がまだ里にいたときに、他界したと人伝に聞いた。一時期、カレンが塞ぎ込んでいたので、当時のことはよく覚えている。
友人たちから、彼女に優しくしてやれ、と言われた、もとい命令されたが、そんな器用なことが僕に出来るはずもなく、空回って僕まで傷心する嵌めになったのは、振り返ってみれば良い思い出ーーになるには、まだまだ周期が必要だ。
「カレンを追い掛ける必要はない。炎竜の間に行くと良い。わしはこやつを締め上げてやらねばならんのでな。これまで何をしておったか洗い浚い吐いてもらうぞ」
「くぅっ、ちょっとそこの弟子、師匠を助けないか!」
無論、無視である。
それと、まだ老師の弟子になると決めたわけではないので、勝手に師匠面をかまさないでください。
まぁ、そんな未来の師匠かもしれない人の情けない姿を見まいと、改革の英雄たちを一顧だにせず部屋を出たところで、オルエルさんと危うく鉢合わせしかけた。
見ると、本当に自分で竜茶を淹れてきたようだ。落ち着かない様子で、ふわふわそわそわわたわたである。
「リシェ君に来客だよ、今はフィア様が相手をしてくださっているので、向かってくれ」
せめて誰が訪ねてきたのかくらい教えてくれればいいのに、風竜に唆されたようなふあふあ具合で、僕の執務室に入って行ってしまった。
里長に首っ丈、いやさ、御執心、って同じ意味か、いや、そもそも斯様な言い方だと語弊があろう……。
ふぅ、思考が駄目なほうに向かっているようなので、筆頭竜官の行状に託けて、現実から目を逸らすのはここらで止めにしておこう。
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約4500文字程度の番外編です。
バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`)
ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑)
※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。

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