竜の国の魔法使い

風結

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四章 周辺国と魔法使い

魔法使いの感触

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 すべてを置き去りに、ぐんぐん高度を上げてゆく。

 みーの力強い羽ばたきが、風を、大気を、魔力を切り裂いて、律動の波動が駆け抜ける。足下から、角に掴まった手から、そこにある空気から、炎竜の命の息吹を伝えてくる。

 近くにあるものは飛ぶように過ぎ去って、遠くにあるものでさえ刻一刻とその景色を鮮やかに塗り替えてゆく。

 世界が眩しい。初めて見る世界の一幕に僕の心は震えた。

 これは竜の景色である。竜でなければ、天空のともがらでなければ拝むことが出来ない絶景。

「ははっ、ははははっ!」

 自然に笑いが込み上げてくる。堪らず、僕はみーにお願い、というか、けしかけた。

「みー様! さぁ、そのまま雲の中まで行ってしまいましょう!」

 ぶふぅー、と盛大な鼻息が答えだった。なれど、今の僕を舐めてはいけない。

「みー様! たんまりお土産買ってきました!」
「わーう! とつげきーなのだー!」

 現金なみーはさておき、急角度で、素晴らしい速度で飛翔してゆく。

 加速して加速して加速して、風の悲鳴さえ振り払って、わずかたりとも失速することなく、濁った白い雲を、空の障壁を突き破るーーはずだったが、実際には雲の表層を陥没させることになった。

「はぁふぁっ!?」

 ぱあぁっ、と空気が破裂したような音がつんざいて、みーが減速する。

 またぞろひしと角に抱き付いて視線を巡らすと、みーの周囲が球形に取り囲まれていた。いや、り貫かれた、と言ったほうが正しいのか。

 くぅ、尋常ではない現象に頭が混乱する。球の外は、白という白が入り乱れて、急流のように後方に流れてゆく。

 みーが進んでいるのか、実はみーは止まっていて、雲が吹き付けてきているのか、視界から得られる情報だけでは錯誤を犯してしまいそうだ。

 白に溢れた世界で、自分が何処に居るのかさえ忘れてしまいそうになる。

 これは「結界」なのだろうか。

 コウさんを見ると、露骨に顔を背けられたが、魔法に関することなので、ちゃんと説明してくれるところが彼女らしい。

「みーちゃんを『結界』で囲んでるのです。私たちが風とかで吹き飛ばされたり傷付いたりしない為なのと、みーちゃんが真っ直ぐ速く飛ぶ為の補助をしてるのです」

 はたと気付く。みーに乗って高速移動しているというのに、高揚して熱くなった頭と体に心地良い、強めの風が吹き付けているだけなのだ。

 本当なら、強風というより烈風並みの風に晒されて、飛ばされないよう角に齧り付いて、会話を交わすことすらままならなかっただろう。

 ふむ、「結界」を張っているのに、結界内でそれなりの風が吹いているのは、何か理由があるのだろうか。完全に外部から隔離しているわけではないようだが。

「おっちゃんとこ行くとき、ちび助ん一回『結界』解いてもらったんだけどなぁ、うん、ありゃあ駄目だ。ちみっ子ん助けてくれんかったら、やばかったなぁ」

 ……飛行中の竜から落ちた人間は、もしかしたら有史以来初めてなのではないだろうか。

 そんなことを想見していると、雲の白が儚くも劇的に消え失せて、世界が一変した。

「うあ……」

 鳥肌が立った。あまりの光景に、追い付かない。

 ここがどこなのか、わかっているはずなのにわからない。

 太陽のまばゆい光が空の境界まで、濃さを増しながら、どこまでも青くて、あおくて、あおくて、空の色で、天の色で、真空の色で。眼下には、果てなく雲の海が広がっている。

 幼き時分の、見下ろされた山々が脳裏に甦る。世界には、空と雲と、風と太陽しかなくてーー、若しや神々の御許に迷い込んでしまったのだろうか。

 ふと魂の底から応えのようなものが、これは憧憬だろうか、いや、懐旧に近いのだが、然しもやは記憶にない情景に懐かしさを抱いて、眇々びょうびょうたる身を嘆くなど。

 何もないようで、すべてが揃っている、そんな光景に、涙が零れそうになる。

 斯くの如く誘うは心魂のいかなるところから発したものなのか、その行方を辿ろうとして。大きくなっても、やっぱりみーはみー、麗しの、もとい愛らしの炎竜の率直な感想を聞いて、敢えなく頓挫とんざする。

「ふぁはぁー! しろしろもっくもっく、うみうーみーっ!!」

 みーが絶叫する。

 然しもの竜の咆哮を持ってしても、この世界ではあまりにちっぽけで、最果ての空も雲の海も、限りなく遠くて大きい。

 みーは雲の海を渡って、ときに潜ったり跳ねたりしながら、空の航海を楽しんでいた。みーが立てる音以外に何も聞こえない。本当の意味での静寂とは、この場所にこそあるのではないだろうか。などと、柄にもなく世界の神秘に思いを馳せる。

 然てしも有らず、悪戯っ子なみーに揺られながら、心行くまで色彩に万化する蒼天と火輪の世界を堪能して、僕は後回しにしていた事案に触れることにした。

「クーさんは、何をしているんですか?」

 大凡の察しはつくのだが、案外重要な役目を負っているかもしれないので、きちんと言葉で質して把握に努めることにした。いっそなおざりにしておきたいが、そうもいかない。

「まー、いつもんこった。弱点がまた一つ見つかったってこったな」

 エンさんがクーさんの頭付近をぺしぺし叩く。然し、クーさんは無反応。

「コウさん。失礼します」

 コウさんに断りを入れてから、それが当然であるかのように無造作に彼女の肩に手を置く。

 少しでも反応を窺ったら拒絶されそうな気がして風に吹かれてちょくちょく王様の衣装から覗いている足の辺りが肌色過多で魔法使いな女の子を視界から除外する、と……ちょっとばかり緊張して手に汗を掻いているが、竜も気付かない、ってことで知らん振り。

 両足を抱えて座り込んでいるクーさんの周りに「結界」が張ってあるのが見えた。

 丸くなった彼女を、ぴったりと包み込んでいる。その中でクーさんは身動ぎ一つせず、無表情で、口だけがぼそぼそと動き続けていた。

 何か喋っているのかもしれないが、声は葉擦れの音より小さく不明瞭で、聞き取ることは出来そうにない。

 然てしも、怖い。蒼白で人形然としたクーさん。美人で見栄えはするけど、家に飾っておいたら確実に呪われそうな禍々しさがある。

 災いにあたらないよう一旦彼女から目を背けて、コウさんの肩から手を離す。

「高いところは大丈夫でも、高過ぎるところは駄目だったと」
「序でん、速いんも駄目みてぇだな。ちっせぇちみっ子んときゃ乗ってて大丈夫だったってーんに、まったく、ちげぇなんてねぇだろーに。まー、そんなとこん可愛いんだがな」
「ーー、……?」

 ……ん? あっ、これは。

 聞き逃せ、聞かなかった振りをしろ。

 僕は別のことを惟ていたので最後まで聞いていなかったーーそういうことで決定。と心積もりをしていたら、コウさんが僕の荷物をあさっているという名状し難い、って、いや、もうすでにはっきりと言葉にしてしまっているが、彼女は擾々じょうじょうとした様子も見せず黙々と探索中。

 方々ほうぼうでみーのお土産用のお菓子を買い求めた為、ぱんぱんに膨らんでいる荷物は、エルネアの剣の本拠地を訪れた際に邪魔になるので建物の近くに隠していたもので、コウさんには回収を頼んでおいた。

 そう、頼んだのは回収だけで、中味の確認とか吟味とか、あと粗探あらさがしとかをお願いした覚えはない。

「エン兄、ちょっと来てなの」

 妹に呼ばれて、のっしのっしと遣って来たエンさん。コウさんは、兄の手を掴むと。

「駄目だと思うの」
「駄目だな、こりゃ」
「直したほうがいいと思うの」
「真実ってやつぁ、一つか」
「事実のほうが優先なの」
「あー、そんなんでいーんじゃねぇか」
「決定なの」

 珍しく、二人の間で真剣な会話が交わされていた。

 何のことを話しているのかわからないのに、いや、まぁ、多少の心当たりはあるのだが、不穏な空気をびんびん感じてしまう。

 そそそっと近付くと、コウさんが手にしているものが確認できたので、師匠の批評を待つ弟子の気分で、怖ず怖ずと彼女に声を掛けた。

「……僕が用意した親書に、何か不備でもあったのでしょうか?」

 挨拶回りの本懐ほんかいである親書は、十五通用意した。余っても仕方がないので、ぎりぎりの枚数である。

 三寒国にストリチナ同盟国、主要な組合と、そして城街地。二人が言っていたのは親書の文面で、コウさんのぞきまが魔法で読み取って、エンさんに伝えたのだろう。

「問題なんて、何もないのです。あるわけないのです。あったとしても、もうなくなったのです。リシェさんは、きっと夢を見てたのです」

 朗らかに笑うコウさん。

 作り笑いのようにも見えるけど、僕を出し抜いたことによる、心からの笑顔かもしれない。仮に作り笑いだったとしても、あまり向けられることのない表情なので、心が弾んでしまいそうになる僕の小心っぷりが恨めしい。

 遣られっ放しは癪なので、ちょっと駄目な方向に仕返しをしてみよう。

 コウさんの「やわらかいところ」に触れるだけではなく、みーを出汁だしに撫でてみるとしよう。上手くいけば、本日の魔力放出を達成できるかもしれない。

 動きが察知され難い僕の特性を活かして、すっと彼女に歩み寄って、瑞々しい翠緑の瞳を見詰めたあと、擽る距離で左耳に囁く。

「やはり、仲が好いのでしょうね。最近のコウさんの笑顔は、みー様の透き通るような笑顔に似てきました。しどけなくあどけない、みー様の笑顔に、フィア様の大人びた雰囲気が重ねられて、とても魅了的な微笑で、見蕩れてしまいます」
「ぅぇ……っ」

 コウさんの頬に手を添えて、すりすりさせる。

 あっ、やばい、これは病み付きになりそうだ。この感触はとんでもない。何というか、触れた掌が喜んでいるような、そんな感じ。

 他人に触れて、こんなにも心地良いと感じるのは、僕の内の何かが壊れてしまったからなのだろうか。

 右手だけではなく、左手も祝福を得たいと、当初の目的を忘れて、彼女の首筋をすりすりする。ふむ、きっとみーの頭を撫でたときにも、同じ水準の祝福がーー。

「ぶみゃぁっ?!」
「ぃっ!?」

 ーーっ!!

 ゆくりなく視界がぶれて、感覚が追い付く間もなく変転する中、コウさんの悲鳴だけが鮮明に聞こえた。

 尻尾を踏ん付けられた猫のような声である。いや、尻尾を踏まれた猫の声など聞いたことがないので、想像に過ぎないのだけど。

 遣り過ぎた、と省みたときには、時すでに遅し、地竜乾いて水竜に返らず、……なのかな?

 世界が混濁して、何が起こったのかわからないまま、僕はみーの頭から足を滑らせて。

 落下の最中に、わずかな違和感。

 みーを覆う「結界」を壊したのだと、雲の白さに紛れながら、ぼんやりと思ったのだった。
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