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一章 冒険者と魔法使い
謎解きと魔法使いとの関係
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ーーもう一巡り経つのか。
色々有り過ぎて、一瞬で過ぎ去ったような試用期間の出来事を思い返そうとするが。まだ終わっていない、と自らを戒める。
目的地はそう遠くないが、日が高いうちに辿り着く為に、拠点にしていた大岩を引き払って朝早く出立した。
今日は、街道を通って遺跡の近くまで行くことになっている。竜の狩場の、東の山脈に沿って北上してゆく。
狩場の近くだからといって、魔物の襲撃が多いわけではない。山脈を越えて魔物が遣って来るはずもないのだが、隔てた山の向こうに魔物が犇めいていることを思うと、心理的な圧迫が生じて、知らず知らず敬遠してしまうものらしい。
竜の狩場と外界とを繋ぐ南にある通路や、東にある細い通路でも、魔物と遭遇する頻度は変わらないらしいが、道の先に魔物が、炎竜がいるという事実は、やはり軽くない。
行き交う人の数は、主要な街道に比べれば微々たるものだが、それでも人目があることに変わりはないので、エンさんとクーさんは、彼女のお手製の、見栄えのする服を着ていた。一目で上等とわかる作りで、落ち着いた雰囲気を醸している。
樹木の心象を想起させる意匠がそれとなく施してある。彼らの故郷の、恵みの象徴でもある大樹を模したものらしい。魔法使いと僕は、いつも通りの格好である。
通り過ぎる人々がエンさんとクーさんに目を惹かれて、次いで後ろにいる僕たちに胡乱げな視線を投げ掛けてくる。僕は普通にしているつもりなのだが、どうやらこの明らかに怪しい魔法使いと同列に見られているらしい。
魔力がないことによる弊害と思いたいが、魔法使いと並ぶことで、いつもより悪化していないことを願ってやまない。
周囲に人目がないことを確認して、街道から外れて森へ入る。
氷焔に加入してから一巡りの間、殆ど森を彷徨っていたようなものなので、人の世界が恋しくなるかと思いきや、森に入って安堵するとは、これは良いことなのか悪いことなのか、と素朴な疑問を抱く。
森とは、本来人が恐れるべき場所で、氷焔と居る安心感から混同、というか、錯誤してはならない。まぁ、エルネアの剣に所属していたときの、森での失態や、見張りの際に植え付けられた恐怖を払拭できるなら、悪いことではないのだろう。
今回もエンさんとクーさんが先導してくれている。
然てこそ本当に便利である。魔力を纏った二人は茂った森の中を、街道を歩いていたときと変わらず、すいすい歩いてゆく。彼らの作ってくれた道を僕、魔法使いの順で追ってゆく。
そう、殿は魔法使いで、僕は護られる位置にある。自分が未熟なことはわかっているが、こうしてお荷物になっている現状に、甘んじたくはないが受け容れなくてはならない、などと内心を捏ね繰り回してみるが、上手くいかない。
焦っても仕方がないと、それでも焦ってしまうのは、若さ故か。ああ、いや、なんか爺むさいことを考えているような。
老人の心を持った少年と、少年の心を持った老人と、二人の交流を綴った童話があるが。里では師範が、人の本質とはここにある、と絶賛していたが。それはどうなのだろう、と今に至るもあまり理解できていない。
いけないいけない。ただ後を追って歩くだけなので、集中力が散漫になっている。何も出来ないなら、すべてを任せてしまったほうが効率がいいのだろうが、周期頃の少年の心はそんなに容易くは出来ていない。
自分は特別な存在であると、そんな幻想は疾うに捨て去っているものの、焦りに似た衝動が突き上げるのを、完全に抑え込むのは難しい。
そんなこんなで悶々としていたが、目的地まで然程時間は掛からなかったので、適度な反省、といった感じの自己嫌悪に陥るだけで済んだ。この程度なら、毎度のことなので、さっさと忘れてしまうに限る。
得手不得手がはっきりとしている僕などには、忘却の技術、いやさ、能天気な思考回路は必要不可欠なものである。
森から続くなだらかな坂を上ってすぐのところに、穴がぽっかりと空いていた。
穴は大きくないので、屈んで入らないといけない。辺りには人の足跡などの痕跡がある。比較的新しく、そして数が多いので、訪れた者たちが大所帯だと知れる。
荷物を置いて、必要なものを取り出してから、「結界」が張られる。三人とも魔法を使った素振りを見せていないが、すでに張られているのである、たぶん。
これで荷物に触れられるのは魔法を無効化できる僕と、大陸最強の魔法使いと目されているガラン・クン並みの魔力を持つ者だけである。
洞窟に魔物はいないらしいので、身軽さを優先してナイフ以外の武器防具類は置いていくことにした。魔法使いはいつも通り、エンさんとクーさんも軽装で剣だけを装備している。
「遺跡の本来の入り口は、崩落で塞がっている。洞窟を抜けていかないと辿り着けない」
クーさんから洞窟内の地図を渡されたが、見るなり僕は呻いた。
「うわ……、何ですかこれ」
魔法使いが見たそうにしていたので、お腹の辺りまで地図を下げた。
「文句は、地図の製作者に。杜撰な仕事、酷いのは認める」
やれやれ、とばかりに手を広げてクーさんが嘆息する。地図の順路通りに進んでいったら確実に目的地に到着することは出来ない、と断言できるような代物だった。
入り口付近はまだ増しだが、奥に進むにつれて、いかにもなやっつけ具合になっている。洞窟の中では距離感や方向感覚が狂いがちだが、それらの初歩的な過ちをしっかりと詰め込んでいる。
「元々この遺跡は、『黄金の秤』という冒険者集団が探索。難航していたらしく、あたしたちに支援要請。もし黄金の秤と出くわしたら、彼らの手伝いを優先」
「手伝い、ですか?」
「この遺跡にあるのは財宝だけだから、彼らに呉れてやって構わない。余計な騒動を生む必要はない」
「財宝だけ? 別の進入経路があって、すでに遺跡は探索が行われていたとかですか?」
「違う。魔力探査」
「魔力……探査、ですか?」
今日の天気の話でもするように、クーさんが簡単に答える。因みに、今の天気は朝から変わらず、生憎の曇り空である。
滲んだ汗を攫ってくれる強めの風が吹いている。風の匂いと、掌の乾燥具合から、雨の気配を感じ取る。帰る頃には降られるかもしれない。
空を望めば、ゆくりなく雲間から風に祝福された竜の囁きがーー「幸運の白竜」のふさふさの尻尾が覗いたような気が……。あ~、いや、白昼夢を見ている場合でも、思考を背けている場合でもなく。
魔力探査、と言うからには、魔力で遺跡を探査したのだろう。どれだけの精度があるのかわからないが、財宝しかないと確約できるあたり、その探査能力は反則の水準である。
「遺跡の入り口に碑文があるらしい。出鱈目な文字の配列で、いかにも解いてくれと言わんばかりの謎掛け。今回は、その碑文を解明したという事実が伝われば良い」
「まー、そーゆーこった。俺たちゃ荒事専門に見られてんとこあんからな、誤解、なんかどうかしらんが、そーゆーん解いておかねーとな」
「その誤解を只管築き上げてきた男が何を言う」
じと目でエンさんを見るが、その追及は厳しくない。その誤解に至る原因に自分も関与してしまっている、という自覚がクーさんにもあるのだろう。
彼女は、続けて今日の方針と組み分けを手早く語った。
「えっと、どうしてこうなるのでしょうか?」
僕の横に魔法使いが立っていた。懐かないとわかっている小動物が隣にいるようで、何とも居た堪れない気分になってくる。
遺跡の中と外に分かれて調査することになったのだが、然てしも有らず、って、あ、いや、疑義を抱くなど魔法使いに失礼である。中は僕と魔法使いで、外はエンさんとクーさんである。決定事項である。
「これが均衡のとれた分け方」
てっきりクーさんは魔法使いと組むのかと思っていたが、この組み合わせに残念がっている様子はない。二人は僕たちを置いて、悠々と坂を上ってゆく。
「こぞー、気ぃつけろよー」
「リシェ、滑り易い場所もある。転倒に注意」
去り際、二人から心配されてしまった。僕はそんなにも危なっかしく見えるのだろうか。いや、その自覚がないわけではないが。
二人が魔法使いに声を掛けなかったということは、それだけ信頼が厚いのだろう。仕方がないというか事実を見詰めろというか、まったくもって僕とは雲泥の差である。
新人の指導は任せる、と二人は魔法使いに役割を課しているのかもしれない。
僕は差し詰め魔法使いの人見知りを改善する為の道具、いやいや、余計な詮索はなしだ。う~む、不味いな、氷焔と接してきた一巡りの間の、自分の駄目っぷりに卑屈になっているのだろうか。
おいで~おいで~、とオルエルさんが笑顔で手招きしている姿を幻視してしまったが、同じく幻視した竜の尻尾で、ばこんっ、と弾き飛ばしてやる。ああ、ほんと、切り替えないと。
洞窟の入り口から中を覗くと、そこには何が潜んでいてもおかしくないと思わせる真の闇が蟠ってーーいなかった。拳大の光の球が、僕の前方に一つ、僕と魔法使いの間に一つ、魔法使いの後ろに一つ、出現した。
どうやら、角灯は要らないようである。とはいえ、何があるかわからない。事前に用意した最低限の装備、角灯にロープ、筆記用具や食料などを持参するとしよう。
心配性かもしれないが、僕は冒険者として未熟なのだから、用心を怠ってはならない。
もしかしたら、魔法使いも外套の下に色々と所持しているのかもしれないが、外から見る分には手ぶらの魔法使いに鑑みると、もう少し余裕を持たないといけないような気にもなってしまう。
これが経験の差なのだろうか、落ち着き払っている魔法使いが羨ましい、というか、見習わなくては。
あっ、そういえば、魔法使いの魔法を見るのは初めてだ。
「ありがとうございます。コウさん」
「……はい」
僕がお礼を言うと、もぞもぞ魔法使いが、ぼそぼそ声で言った。と言ってしまいたくなるくらい、魔法使いはいつも通りで。これは、未だ僕が警戒されているから、などとは思いたくないが、暗色の塊からそれらの機微を読み取るのは難しい。
「……周囲の警戒は私がします。リシェ……さんは地図を読み解いて、先導してください」
というわけで役割分担は決まった。
それと、ちょっと、いや、それなりに、若しくはそこはかとなく、嬉しかったりしてるわけなんだけど。ああ、いや、何を言っているかというと、そこのところは僕も不思議に思うんだけど。
……ふぅ、初めて名前を、たどたどしくではあるが、呼ばれたからといって、心を躍らせるなんて、僕はどうかしてしまったのだろうか。若しや、これが魔法使いの手練手管?
素っ気無い態度を取り続けて、僕の気を引こうとしているーーなどということはないと思うが。こうして気にしてしまっていること自体が、この謎塊の術中に嵌まっているなんてことが……ん?
……ん? あれ、何かが、……ちょっと待て。何か変じゃないかと思いつつ、洞窟の中に入って、案外歩き易い地面の感触を確かめながら、二十歩進んでから違和感の正体に気付く。
……遅過ぎである。むぐぅ、頭が鈍っている、というより、冷静さを失っているということか。
はぁ、洞窟の中は涼しいし、頭を冷やすには丁度いいだろう。
「何で僕は魔法が見えて……」
「工夫しました。わずかな成功例の一つです」
僕の言葉を遮って、説明する魔法使い。
これまでよりも声の調子が明るく、三角帽子の下にはきっと誇らしげな顔があるはず、と思わせるような魔法使いの物言いだった。
「なるほど……」
魔法使いと話す良い機会だと、言葉を続けようとしたが、選択に迷ってしまった。
魔法の素人である僕に、門外漢から褒められて嬉しいだろうか。お礼はさっき言ったから、繰り返すのは態とらしいかもしれない。
そうして考え込んでいる間に、沈黙がずしりずしりと、一歩、また一歩と、歩くごとに重くなってゆく。逡巡、というか、煮え切らない、というか、躊躇している内に機を逃してしまった。
僕の葛藤など露知らず、洞窟の闇を払う三つの「光球」は丁度良い距離を保ったまま、のほほんな感じでふよふよと帯同している。
里で習った魔法についての、うろ覚えの知識に依ると、魔法使いが行使している魔法はかなりの集中力を必要とするはずである。魔力量の多寡はわからないが、熟達した技術を持っているらしい。
氷焔の三人。卓越した力の持ち主たち。よくもまぁ、村という狭い範囲にこれほどの資質を持つ者が集まっていたものである。或いは、彼らが「じじー」「師匠」と呼ぶ人の教えが優れていたのだろうか。
「えっと、次はこっちか」
洞窟は、人が歩くのに適した大きさで、人工的な、本物の洞窟を知らない人間が造ったらこうなるのではないか、という不自然さで。どうやら、魔法、或いはそれに類する方法で造られたもののようだ。
始めは幾度か間違えたが、この地図の製作者の癖らしきものを把握したあとは、問題なく進むことが出来ていた。
ここまで、戦いの跡などはない。魔物は出没しないという情報に間違いはないようだ。順調な道行きとは逆に、会話は弾んでいない。弾むどころか、べしゃりと潰れてしまっている。
どんな危険が潜んでいるかわからないので、無駄話をするわけにはいかないがーー。
「あっ」
ちらりと魔法使いを見て、あることに心付く。
この疑問を放置しておくと、夜眠れなくなること請け合い、といった種類の、とても気になる事柄だったので率直に聞いてみることにした。
はぐらかされないよう魔法使いを正視する。
「コウさん、杖は持っていないんですか?」
魔法使いといえば杖である。杖を持たない魔法使いなど、魔法使いではない。そう断言してもいいくらい、世間的には心象が固まっている。
今まで気付かなかった僕もどうかしているが、そこは魔法使いの風変わりな姿と行動に気を取られていたから、と自分に言い訳してみる。いや、そんなことよりも何よりも、今は魔法使いの答えである。
「……はい。荷物になるので、置いてきました」
「……えっと、本当に?」
「……はい」
そんな理由でいいのだろうか。魔法使いに杖は必需品、必須で必要不可欠で不可分なものかと思っていたが、そうではないらしい。それとも、この魔法使いが例外なのだろうか。
魔法使いでなくとも、魔力量が多い者は、初歩の攻撃魔法などを行使することが可能。翻って、魔法使いでない彼らは杖を持っていない。その事実からすると、実は杖ってあんまり重要じゃないんだろうか。
杖は媒体である、と里で習ったが、う~ん、駄目だ、わからない。魔法に関しては饒舌な魔法使いのことである、聞けば答えてくれるだろうか。
「ん? 到着したのかな」
歩きながら惟ていると、先行する「光球」の明かりが、洞窟の輪郭を淡く縁取っていた。
見ると、その先が薄暗くなっている。少しだけ、歩を緩めながら歩いていくと、果たして大きな空洞、いや、広場といった趣のある空間に出た。
仕方がない、か。目的地に着いたようなので、杖なしの魔法使いという、忽せには出来ない問題について、魔法使いに答えを求めるのは後回しである。
「割りかし、綺麗な場所ですね」
綺麗、と言うと御幣があるだろうか、時の浸食が、摩滅や劣化ではなく、重ねられた情趣のようなものとして表れている。
静謐、というのは斯かる情景を差すのだろうか、と考えて、それを踏み荒らそうとすることに、禁忌に触れるような罪悪感めいたものが湧いてくる。
それは、悪くない気分だった。冒険者ーー冒険とは、冒と険とは、難所や困難を突き進み押し切る、と言葉遊びみたいなものだが、僕が望んでいた、見たかった情景。
正面に崩れた跡があって、瓦礫で塞がれている。遺跡の入り口とされていた場所だろう。隙間から垂れ下がっている植物の根が、奇しくも永い時を侵食する生命の力強さを教えてくれる。
右手に祭壇らしきものがある。その奥の壁には、掠れているが「聖語」が記されている。
凝った造りではないが、周期を感じさせるものだ。然ればこそ、洞窟は「聖語時代」に造られたものらしい。魔物がいないのも、なにがしかの効果あってのものだろうか。
そして、問題の碑文である。祭壇の右側にある石碑に「古語」で刻んである。
この空間は、差し詰め「祭壇の間」と言ったところか。積み重なった瓦礫の隙間から水が染み出して、大きな教会くらいの広さの床が水に浸かっている。
水位は脛辺りで、然して深くはないが、浅くもない。水は透き通っていて、疎らな石が敷き詰められた床に危険物の類いは転がっていない。
靴を脱いでいっても大丈夫だろうか。できれば濡れた靴で帰りたくないので、居回りを観察していると、祭壇の間に満ちていた水が一瞬で凍り付いた。
「おっ、……凄い」
水の表面だけでなく、水底まで完全に凍っている。冷気などで冷やしたのではなく、水自体に作用を及ぼしたようだ。
その性質に、より深く浸透するような魔法は、俄魔法使いには不可能なことだ。技術、と言い換えてもいいが、心象を重ねて、理解と確信があって、魔法は成立する。
里で、そのようなことを師範が言っていた記憶がある。あ~、魔法関連にもっと真剣に取り組んでおけば良かったと後悔するが、竜にも角にも、先ずは訝しの魔法使いに感謝である。
「ありがとうございます」
「……はい」
然ても、見事な魔法である。
今日は惜しげもなく魔法を使ってくれるので何だか嬉しい。魔法を使う瞬間が見られなかったのは残念ではあるが、また機会はあるだろう。
滑らないよう慎重に氷上に下りると、足下の氷が、水に戻った。
そう、一瞬で、完全凍結していた氷の広場が、巧まずして在るべき姿に、まるで妖精に悪戯をされてしまったかのように。
どぼっ、と足が水に浸かってしまう。
拡がっていく波紋が、妙に規則正しくて、魔法を無効化した僕の異質さが際立つようで、思わず空を見上げてしまう。って、そうだった、ここは地下で、僕の心を慰めてくれるはずの空はなく、石で組まれた天井が「光球」の淡い光に揺れていた。
天井も、床と変わらない装飾。やはり、この特徴は聖語時代のものだ。現代とは異なる、魔力の運用を極めた時代。と現実から目を逸らすのもそろそろ限界で。
「…………」
「…………」
これは僕の特性の所為で、僕が悪いわけではないのだけど。などという言い訳を了承してもらえるだろうか。靴が濡れてしまったが、然てこそこれは誰の所為でもないのである。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
魔法使いは身動き一つしていないが、頬を膨らませた子供みたいな雰囲気が伝わってくる。どうやら、僕に魔法を無効化されたのが、かなり悔しかったらしい。
恐らく、「光球」同様に何らかの対策を施していたのだろうが、僕の特性の前に、打ち砕かれてしまったと。
まぁ、起こってしまったことを、とやかく言っても始まらない。始めなくてはならないのは、別のこと。遣るべきことを頭に刻んで、気を引き締める。
「コウさん。後ろからではなく、一緒に碑文を見てみませんか」
自分に出来る最高の笑顔を浮かべて、魔法使いを誘ってみた。
随分と後回しになってしまったが、魔法使いと親睦を深めなくてはならない。きっとエンさんとクーさんは、それを望んで僕と魔法使いを組ませたはず。普通に会話できる程度には仲良くなりたいな、と目標という名の願望を心に掲げる。
「…………」
「……っ」
「…………」
「ーー、……」
「…………」
「ーーっ」
「…………」
戸惑う魔法使い。右へもぞもぞ。困惑する魔法使い。左へもそもそ。呻吟する魔法使い。右へもそもそ。葛藤する魔法使い。左へもぞもぞ。
僕がそう見えているというだけで、魔法使いが苦悩しているかどうか定かではないが。とりあえず、魔法使いの謎舞踊が終わるまで待ってみる。
暗色の謎塊ではあるが、こうして小動物を眺めるような心地で観察すると、可愛げがあるように見えてくるから不思議である。あ、結論が出たようだ。魔法使いのもそもぞが終わって、祭壇の間に静寂が戻る。
「っ!?」
ぃっ?! うぐぅ、……驚愕のあまり喉から飛び出しそうになった悲鳴の欠片を、口を閉じて必死に我慢した後、ごくりと飲み下した。心臓の音が只管煩いが、今はどうでもいい。
魔法使いが隣に居た。ゆくりなく隣に居た。なにをいっているのかわからないかもしれないが、なにかいわないとわからないのであえていってしまうのだが、って、待て、僕、ここは一つ、冷静に、慎重に、精確に……。
ーーそうなのだ、魔法使いは、気付けば僕の隣に居た。
いつものように、とてとてと歩いてくるのかと思いきや、瞬きよりも早く僕の隣に移動していたのだ。お負けに、水面に立っている。
然なめりと思っていたが、僕の予想以上に、魔力の扱いに長じているようだ。状況から察するに、魔法で移動したのだろう。
いや、この近距離を移動するのに、魔法を使う必要なんてーーとそこまで考えて思い至る。この場合は、心理的な距離か。
僕と魔法使いの距離は、普通に歩けば三歩でなくなってしまう、細やかなものだ。然りとて、人と歩み寄る為の、心の距離は人によって異なる。魔法使いにとって、この小さな距離は、思った以上に大きかったのかもしれない。
わざわざ魔法を使わなくては縮められないくらいに。
人の心は感覚で捉えなさい。里でそのように教える師範もいた。理屈で考えると上手くいかない、とも。過去の恋愛遍歴を交えて話すのには辟易したが。
ここで余計なことをして、すべてを台無しにするわけにはいかない。
僕は何も言わず、魔法使いと一緒に碑文まで歩いていった。
石碑は立派なもので、高さは魔法使いの身長の倍といったところ。横幅は、僕が両腕を広げたくらい。魔法使いの三角帽子が少し上を向いていた。碑文を見ているようだ。
クーさんが言っていたように、碑文の文字はそのままでは意味を成さないものだった。
「コウさんは、古語が読めるんですか?」
「……はい。師匠に習いました。古い文献を読むには必要でしたので」
日常生活に古語は必要ない。識字率の低いこの大陸で、古語を読めるというのはそれだけで特別なことである。
「そうなんですか。では、解けたら教えてください。待ってますので」
「……リシェさんは、解かないのですか?」
魔法使いの声音に非難の色が混ざっていた。
……失敗した。はぁ、これは不味い、誤解させてしまったようだ。仲良くしようと行動した途端にこれである。場を和ませる為に、努めて明るく振る舞う。
「えっと、ごめんなさい。言い方が悪かったですね。碑文の解読は終わったので、コウさんが終わったら答え合わせをしよう、という意味です」
「ふぇっ!?」
魔法使いが驚いて、僕に向き直る。声が裏返ったのだろうか、耳にちょっと響いた。
惜しい。もう少しで魔法使いの顔が見えたのに。顎の先がちょこっと見えただけだった。
「……もう解いたのですか?」
「はい。ですので、お待ちしています」
じっと見ていると、魔法使いの気を散らしてしまうかもしれない。僕は碑文から視線を外して、祭壇を観察している振りをすることにした。
このくらいでは今までの失態の汚名返上はできないかもしれないが、一先ず安心、と胸を撫で下ろす。ここでも醜態を晒したら、氷焔にいるのが心苦しくなっていただろう。
先程よりは穏やかな沈黙が流れて、前触れもなく魔法使いが振り返った。
色々有り過ぎて、一瞬で過ぎ去ったような試用期間の出来事を思い返そうとするが。まだ終わっていない、と自らを戒める。
目的地はそう遠くないが、日が高いうちに辿り着く為に、拠点にしていた大岩を引き払って朝早く出立した。
今日は、街道を通って遺跡の近くまで行くことになっている。竜の狩場の、東の山脈に沿って北上してゆく。
狩場の近くだからといって、魔物の襲撃が多いわけではない。山脈を越えて魔物が遣って来るはずもないのだが、隔てた山の向こうに魔物が犇めいていることを思うと、心理的な圧迫が生じて、知らず知らず敬遠してしまうものらしい。
竜の狩場と外界とを繋ぐ南にある通路や、東にある細い通路でも、魔物と遭遇する頻度は変わらないらしいが、道の先に魔物が、炎竜がいるという事実は、やはり軽くない。
行き交う人の数は、主要な街道に比べれば微々たるものだが、それでも人目があることに変わりはないので、エンさんとクーさんは、彼女のお手製の、見栄えのする服を着ていた。一目で上等とわかる作りで、落ち着いた雰囲気を醸している。
樹木の心象を想起させる意匠がそれとなく施してある。彼らの故郷の、恵みの象徴でもある大樹を模したものらしい。魔法使いと僕は、いつも通りの格好である。
通り過ぎる人々がエンさんとクーさんに目を惹かれて、次いで後ろにいる僕たちに胡乱げな視線を投げ掛けてくる。僕は普通にしているつもりなのだが、どうやらこの明らかに怪しい魔法使いと同列に見られているらしい。
魔力がないことによる弊害と思いたいが、魔法使いと並ぶことで、いつもより悪化していないことを願ってやまない。
周囲に人目がないことを確認して、街道から外れて森へ入る。
氷焔に加入してから一巡りの間、殆ど森を彷徨っていたようなものなので、人の世界が恋しくなるかと思いきや、森に入って安堵するとは、これは良いことなのか悪いことなのか、と素朴な疑問を抱く。
森とは、本来人が恐れるべき場所で、氷焔と居る安心感から混同、というか、錯誤してはならない。まぁ、エルネアの剣に所属していたときの、森での失態や、見張りの際に植え付けられた恐怖を払拭できるなら、悪いことではないのだろう。
今回もエンさんとクーさんが先導してくれている。
然てこそ本当に便利である。魔力を纏った二人は茂った森の中を、街道を歩いていたときと変わらず、すいすい歩いてゆく。彼らの作ってくれた道を僕、魔法使いの順で追ってゆく。
そう、殿は魔法使いで、僕は護られる位置にある。自分が未熟なことはわかっているが、こうしてお荷物になっている現状に、甘んじたくはないが受け容れなくてはならない、などと内心を捏ね繰り回してみるが、上手くいかない。
焦っても仕方がないと、それでも焦ってしまうのは、若さ故か。ああ、いや、なんか爺むさいことを考えているような。
老人の心を持った少年と、少年の心を持った老人と、二人の交流を綴った童話があるが。里では師範が、人の本質とはここにある、と絶賛していたが。それはどうなのだろう、と今に至るもあまり理解できていない。
いけないいけない。ただ後を追って歩くだけなので、集中力が散漫になっている。何も出来ないなら、すべてを任せてしまったほうが効率がいいのだろうが、周期頃の少年の心はそんなに容易くは出来ていない。
自分は特別な存在であると、そんな幻想は疾うに捨て去っているものの、焦りに似た衝動が突き上げるのを、完全に抑え込むのは難しい。
そんなこんなで悶々としていたが、目的地まで然程時間は掛からなかったので、適度な反省、といった感じの自己嫌悪に陥るだけで済んだ。この程度なら、毎度のことなので、さっさと忘れてしまうに限る。
得手不得手がはっきりとしている僕などには、忘却の技術、いやさ、能天気な思考回路は必要不可欠なものである。
森から続くなだらかな坂を上ってすぐのところに、穴がぽっかりと空いていた。
穴は大きくないので、屈んで入らないといけない。辺りには人の足跡などの痕跡がある。比較的新しく、そして数が多いので、訪れた者たちが大所帯だと知れる。
荷物を置いて、必要なものを取り出してから、「結界」が張られる。三人とも魔法を使った素振りを見せていないが、すでに張られているのである、たぶん。
これで荷物に触れられるのは魔法を無効化できる僕と、大陸最強の魔法使いと目されているガラン・クン並みの魔力を持つ者だけである。
洞窟に魔物はいないらしいので、身軽さを優先してナイフ以外の武器防具類は置いていくことにした。魔法使いはいつも通り、エンさんとクーさんも軽装で剣だけを装備している。
「遺跡の本来の入り口は、崩落で塞がっている。洞窟を抜けていかないと辿り着けない」
クーさんから洞窟内の地図を渡されたが、見るなり僕は呻いた。
「うわ……、何ですかこれ」
魔法使いが見たそうにしていたので、お腹の辺りまで地図を下げた。
「文句は、地図の製作者に。杜撰な仕事、酷いのは認める」
やれやれ、とばかりに手を広げてクーさんが嘆息する。地図の順路通りに進んでいったら確実に目的地に到着することは出来ない、と断言できるような代物だった。
入り口付近はまだ増しだが、奥に進むにつれて、いかにもなやっつけ具合になっている。洞窟の中では距離感や方向感覚が狂いがちだが、それらの初歩的な過ちをしっかりと詰め込んでいる。
「元々この遺跡は、『黄金の秤』という冒険者集団が探索。難航していたらしく、あたしたちに支援要請。もし黄金の秤と出くわしたら、彼らの手伝いを優先」
「手伝い、ですか?」
「この遺跡にあるのは財宝だけだから、彼らに呉れてやって構わない。余計な騒動を生む必要はない」
「財宝だけ? 別の進入経路があって、すでに遺跡は探索が行われていたとかですか?」
「違う。魔力探査」
「魔力……探査、ですか?」
今日の天気の話でもするように、クーさんが簡単に答える。因みに、今の天気は朝から変わらず、生憎の曇り空である。
滲んだ汗を攫ってくれる強めの風が吹いている。風の匂いと、掌の乾燥具合から、雨の気配を感じ取る。帰る頃には降られるかもしれない。
空を望めば、ゆくりなく雲間から風に祝福された竜の囁きがーー「幸運の白竜」のふさふさの尻尾が覗いたような気が……。あ~、いや、白昼夢を見ている場合でも、思考を背けている場合でもなく。
魔力探査、と言うからには、魔力で遺跡を探査したのだろう。どれだけの精度があるのかわからないが、財宝しかないと確約できるあたり、その探査能力は反則の水準である。
「遺跡の入り口に碑文があるらしい。出鱈目な文字の配列で、いかにも解いてくれと言わんばかりの謎掛け。今回は、その碑文を解明したという事実が伝われば良い」
「まー、そーゆーこった。俺たちゃ荒事専門に見られてんとこあんからな、誤解、なんかどうかしらんが、そーゆーん解いておかねーとな」
「その誤解を只管築き上げてきた男が何を言う」
じと目でエンさんを見るが、その追及は厳しくない。その誤解に至る原因に自分も関与してしまっている、という自覚がクーさんにもあるのだろう。
彼女は、続けて今日の方針と組み分けを手早く語った。
「えっと、どうしてこうなるのでしょうか?」
僕の横に魔法使いが立っていた。懐かないとわかっている小動物が隣にいるようで、何とも居た堪れない気分になってくる。
遺跡の中と外に分かれて調査することになったのだが、然てしも有らず、って、あ、いや、疑義を抱くなど魔法使いに失礼である。中は僕と魔法使いで、外はエンさんとクーさんである。決定事項である。
「これが均衡のとれた分け方」
てっきりクーさんは魔法使いと組むのかと思っていたが、この組み合わせに残念がっている様子はない。二人は僕たちを置いて、悠々と坂を上ってゆく。
「こぞー、気ぃつけろよー」
「リシェ、滑り易い場所もある。転倒に注意」
去り際、二人から心配されてしまった。僕はそんなにも危なっかしく見えるのだろうか。いや、その自覚がないわけではないが。
二人が魔法使いに声を掛けなかったということは、それだけ信頼が厚いのだろう。仕方がないというか事実を見詰めろというか、まったくもって僕とは雲泥の差である。
新人の指導は任せる、と二人は魔法使いに役割を課しているのかもしれない。
僕は差し詰め魔法使いの人見知りを改善する為の道具、いやいや、余計な詮索はなしだ。う~む、不味いな、氷焔と接してきた一巡りの間の、自分の駄目っぷりに卑屈になっているのだろうか。
おいで~おいで~、とオルエルさんが笑顔で手招きしている姿を幻視してしまったが、同じく幻視した竜の尻尾で、ばこんっ、と弾き飛ばしてやる。ああ、ほんと、切り替えないと。
洞窟の入り口から中を覗くと、そこには何が潜んでいてもおかしくないと思わせる真の闇が蟠ってーーいなかった。拳大の光の球が、僕の前方に一つ、僕と魔法使いの間に一つ、魔法使いの後ろに一つ、出現した。
どうやら、角灯は要らないようである。とはいえ、何があるかわからない。事前に用意した最低限の装備、角灯にロープ、筆記用具や食料などを持参するとしよう。
心配性かもしれないが、僕は冒険者として未熟なのだから、用心を怠ってはならない。
もしかしたら、魔法使いも外套の下に色々と所持しているのかもしれないが、外から見る分には手ぶらの魔法使いに鑑みると、もう少し余裕を持たないといけないような気にもなってしまう。
これが経験の差なのだろうか、落ち着き払っている魔法使いが羨ましい、というか、見習わなくては。
あっ、そういえば、魔法使いの魔法を見るのは初めてだ。
「ありがとうございます。コウさん」
「……はい」
僕がお礼を言うと、もぞもぞ魔法使いが、ぼそぼそ声で言った。と言ってしまいたくなるくらい、魔法使いはいつも通りで。これは、未だ僕が警戒されているから、などとは思いたくないが、暗色の塊からそれらの機微を読み取るのは難しい。
「……周囲の警戒は私がします。リシェ……さんは地図を読み解いて、先導してください」
というわけで役割分担は決まった。
それと、ちょっと、いや、それなりに、若しくはそこはかとなく、嬉しかったりしてるわけなんだけど。ああ、いや、何を言っているかというと、そこのところは僕も不思議に思うんだけど。
……ふぅ、初めて名前を、たどたどしくではあるが、呼ばれたからといって、心を躍らせるなんて、僕はどうかしてしまったのだろうか。若しや、これが魔法使いの手練手管?
素っ気無い態度を取り続けて、僕の気を引こうとしているーーなどということはないと思うが。こうして気にしてしまっていること自体が、この謎塊の術中に嵌まっているなんてことが……ん?
……ん? あれ、何かが、……ちょっと待て。何か変じゃないかと思いつつ、洞窟の中に入って、案外歩き易い地面の感触を確かめながら、二十歩進んでから違和感の正体に気付く。
……遅過ぎである。むぐぅ、頭が鈍っている、というより、冷静さを失っているということか。
はぁ、洞窟の中は涼しいし、頭を冷やすには丁度いいだろう。
「何で僕は魔法が見えて……」
「工夫しました。わずかな成功例の一つです」
僕の言葉を遮って、説明する魔法使い。
これまでよりも声の調子が明るく、三角帽子の下にはきっと誇らしげな顔があるはず、と思わせるような魔法使いの物言いだった。
「なるほど……」
魔法使いと話す良い機会だと、言葉を続けようとしたが、選択に迷ってしまった。
魔法の素人である僕に、門外漢から褒められて嬉しいだろうか。お礼はさっき言ったから、繰り返すのは態とらしいかもしれない。
そうして考え込んでいる間に、沈黙がずしりずしりと、一歩、また一歩と、歩くごとに重くなってゆく。逡巡、というか、煮え切らない、というか、躊躇している内に機を逃してしまった。
僕の葛藤など露知らず、洞窟の闇を払う三つの「光球」は丁度良い距離を保ったまま、のほほんな感じでふよふよと帯同している。
里で習った魔法についての、うろ覚えの知識に依ると、魔法使いが行使している魔法はかなりの集中力を必要とするはずである。魔力量の多寡はわからないが、熟達した技術を持っているらしい。
氷焔の三人。卓越した力の持ち主たち。よくもまぁ、村という狭い範囲にこれほどの資質を持つ者が集まっていたものである。或いは、彼らが「じじー」「師匠」と呼ぶ人の教えが優れていたのだろうか。
「えっと、次はこっちか」
洞窟は、人が歩くのに適した大きさで、人工的な、本物の洞窟を知らない人間が造ったらこうなるのではないか、という不自然さで。どうやら、魔法、或いはそれに類する方法で造られたもののようだ。
始めは幾度か間違えたが、この地図の製作者の癖らしきものを把握したあとは、問題なく進むことが出来ていた。
ここまで、戦いの跡などはない。魔物は出没しないという情報に間違いはないようだ。順調な道行きとは逆に、会話は弾んでいない。弾むどころか、べしゃりと潰れてしまっている。
どんな危険が潜んでいるかわからないので、無駄話をするわけにはいかないがーー。
「あっ」
ちらりと魔法使いを見て、あることに心付く。
この疑問を放置しておくと、夜眠れなくなること請け合い、といった種類の、とても気になる事柄だったので率直に聞いてみることにした。
はぐらかされないよう魔法使いを正視する。
「コウさん、杖は持っていないんですか?」
魔法使いといえば杖である。杖を持たない魔法使いなど、魔法使いではない。そう断言してもいいくらい、世間的には心象が固まっている。
今まで気付かなかった僕もどうかしているが、そこは魔法使いの風変わりな姿と行動に気を取られていたから、と自分に言い訳してみる。いや、そんなことよりも何よりも、今は魔法使いの答えである。
「……はい。荷物になるので、置いてきました」
「……えっと、本当に?」
「……はい」
そんな理由でいいのだろうか。魔法使いに杖は必需品、必須で必要不可欠で不可分なものかと思っていたが、そうではないらしい。それとも、この魔法使いが例外なのだろうか。
魔法使いでなくとも、魔力量が多い者は、初歩の攻撃魔法などを行使することが可能。翻って、魔法使いでない彼らは杖を持っていない。その事実からすると、実は杖ってあんまり重要じゃないんだろうか。
杖は媒体である、と里で習ったが、う~ん、駄目だ、わからない。魔法に関しては饒舌な魔法使いのことである、聞けば答えてくれるだろうか。
「ん? 到着したのかな」
歩きながら惟ていると、先行する「光球」の明かりが、洞窟の輪郭を淡く縁取っていた。
見ると、その先が薄暗くなっている。少しだけ、歩を緩めながら歩いていくと、果たして大きな空洞、いや、広場といった趣のある空間に出た。
仕方がない、か。目的地に着いたようなので、杖なしの魔法使いという、忽せには出来ない問題について、魔法使いに答えを求めるのは後回しである。
「割りかし、綺麗な場所ですね」
綺麗、と言うと御幣があるだろうか、時の浸食が、摩滅や劣化ではなく、重ねられた情趣のようなものとして表れている。
静謐、というのは斯かる情景を差すのだろうか、と考えて、それを踏み荒らそうとすることに、禁忌に触れるような罪悪感めいたものが湧いてくる。
それは、悪くない気分だった。冒険者ーー冒険とは、冒と険とは、難所や困難を突き進み押し切る、と言葉遊びみたいなものだが、僕が望んでいた、見たかった情景。
正面に崩れた跡があって、瓦礫で塞がれている。遺跡の入り口とされていた場所だろう。隙間から垂れ下がっている植物の根が、奇しくも永い時を侵食する生命の力強さを教えてくれる。
右手に祭壇らしきものがある。その奥の壁には、掠れているが「聖語」が記されている。
凝った造りではないが、周期を感じさせるものだ。然ればこそ、洞窟は「聖語時代」に造られたものらしい。魔物がいないのも、なにがしかの効果あってのものだろうか。
そして、問題の碑文である。祭壇の右側にある石碑に「古語」で刻んである。
この空間は、差し詰め「祭壇の間」と言ったところか。積み重なった瓦礫の隙間から水が染み出して、大きな教会くらいの広さの床が水に浸かっている。
水位は脛辺りで、然して深くはないが、浅くもない。水は透き通っていて、疎らな石が敷き詰められた床に危険物の類いは転がっていない。
靴を脱いでいっても大丈夫だろうか。できれば濡れた靴で帰りたくないので、居回りを観察していると、祭壇の間に満ちていた水が一瞬で凍り付いた。
「おっ、……凄い」
水の表面だけでなく、水底まで完全に凍っている。冷気などで冷やしたのではなく、水自体に作用を及ぼしたようだ。
その性質に、より深く浸透するような魔法は、俄魔法使いには不可能なことだ。技術、と言い換えてもいいが、心象を重ねて、理解と確信があって、魔法は成立する。
里で、そのようなことを師範が言っていた記憶がある。あ~、魔法関連にもっと真剣に取り組んでおけば良かったと後悔するが、竜にも角にも、先ずは訝しの魔法使いに感謝である。
「ありがとうございます」
「……はい」
然ても、見事な魔法である。
今日は惜しげもなく魔法を使ってくれるので何だか嬉しい。魔法を使う瞬間が見られなかったのは残念ではあるが、また機会はあるだろう。
滑らないよう慎重に氷上に下りると、足下の氷が、水に戻った。
そう、一瞬で、完全凍結していた氷の広場が、巧まずして在るべき姿に、まるで妖精に悪戯をされてしまったかのように。
どぼっ、と足が水に浸かってしまう。
拡がっていく波紋が、妙に規則正しくて、魔法を無効化した僕の異質さが際立つようで、思わず空を見上げてしまう。って、そうだった、ここは地下で、僕の心を慰めてくれるはずの空はなく、石で組まれた天井が「光球」の淡い光に揺れていた。
天井も、床と変わらない装飾。やはり、この特徴は聖語時代のものだ。現代とは異なる、魔力の運用を極めた時代。と現実から目を逸らすのもそろそろ限界で。
「…………」
「…………」
これは僕の特性の所為で、僕が悪いわけではないのだけど。などという言い訳を了承してもらえるだろうか。靴が濡れてしまったが、然てこそこれは誰の所為でもないのである。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
魔法使いは身動き一つしていないが、頬を膨らませた子供みたいな雰囲気が伝わってくる。どうやら、僕に魔法を無効化されたのが、かなり悔しかったらしい。
恐らく、「光球」同様に何らかの対策を施していたのだろうが、僕の特性の前に、打ち砕かれてしまったと。
まぁ、起こってしまったことを、とやかく言っても始まらない。始めなくてはならないのは、別のこと。遣るべきことを頭に刻んで、気を引き締める。
「コウさん。後ろからではなく、一緒に碑文を見てみませんか」
自分に出来る最高の笑顔を浮かべて、魔法使いを誘ってみた。
随分と後回しになってしまったが、魔法使いと親睦を深めなくてはならない。きっとエンさんとクーさんは、それを望んで僕と魔法使いを組ませたはず。普通に会話できる程度には仲良くなりたいな、と目標という名の願望を心に掲げる。
「…………」
「……っ」
「…………」
「ーー、……」
「…………」
「ーーっ」
「…………」
戸惑う魔法使い。右へもぞもぞ。困惑する魔法使い。左へもそもそ。呻吟する魔法使い。右へもそもそ。葛藤する魔法使い。左へもぞもぞ。
僕がそう見えているというだけで、魔法使いが苦悩しているかどうか定かではないが。とりあえず、魔法使いの謎舞踊が終わるまで待ってみる。
暗色の謎塊ではあるが、こうして小動物を眺めるような心地で観察すると、可愛げがあるように見えてくるから不思議である。あ、結論が出たようだ。魔法使いのもそもぞが終わって、祭壇の間に静寂が戻る。
「っ!?」
ぃっ?! うぐぅ、……驚愕のあまり喉から飛び出しそうになった悲鳴の欠片を、口を閉じて必死に我慢した後、ごくりと飲み下した。心臓の音が只管煩いが、今はどうでもいい。
魔法使いが隣に居た。ゆくりなく隣に居た。なにをいっているのかわからないかもしれないが、なにかいわないとわからないのであえていってしまうのだが、って、待て、僕、ここは一つ、冷静に、慎重に、精確に……。
ーーそうなのだ、魔法使いは、気付けば僕の隣に居た。
いつものように、とてとてと歩いてくるのかと思いきや、瞬きよりも早く僕の隣に移動していたのだ。お負けに、水面に立っている。
然なめりと思っていたが、僕の予想以上に、魔力の扱いに長じているようだ。状況から察するに、魔法で移動したのだろう。
いや、この近距離を移動するのに、魔法を使う必要なんてーーとそこまで考えて思い至る。この場合は、心理的な距離か。
僕と魔法使いの距離は、普通に歩けば三歩でなくなってしまう、細やかなものだ。然りとて、人と歩み寄る為の、心の距離は人によって異なる。魔法使いにとって、この小さな距離は、思った以上に大きかったのかもしれない。
わざわざ魔法を使わなくては縮められないくらいに。
人の心は感覚で捉えなさい。里でそのように教える師範もいた。理屈で考えると上手くいかない、とも。過去の恋愛遍歴を交えて話すのには辟易したが。
ここで余計なことをして、すべてを台無しにするわけにはいかない。
僕は何も言わず、魔法使いと一緒に碑文まで歩いていった。
石碑は立派なもので、高さは魔法使いの身長の倍といったところ。横幅は、僕が両腕を広げたくらい。魔法使いの三角帽子が少し上を向いていた。碑文を見ているようだ。
クーさんが言っていたように、碑文の文字はそのままでは意味を成さないものだった。
「コウさんは、古語が読めるんですか?」
「……はい。師匠に習いました。古い文献を読むには必要でしたので」
日常生活に古語は必要ない。識字率の低いこの大陸で、古語を読めるというのはそれだけで特別なことである。
「そうなんですか。では、解けたら教えてください。待ってますので」
「……リシェさんは、解かないのですか?」
魔法使いの声音に非難の色が混ざっていた。
……失敗した。はぁ、これは不味い、誤解させてしまったようだ。仲良くしようと行動した途端にこれである。場を和ませる為に、努めて明るく振る舞う。
「えっと、ごめんなさい。言い方が悪かったですね。碑文の解読は終わったので、コウさんが終わったら答え合わせをしよう、という意味です」
「ふぇっ!?」
魔法使いが驚いて、僕に向き直る。声が裏返ったのだろうか、耳にちょっと響いた。
惜しい。もう少しで魔法使いの顔が見えたのに。顎の先がちょこっと見えただけだった。
「……もう解いたのですか?」
「はい。ですので、お待ちしています」
じっと見ていると、魔法使いの気を散らしてしまうかもしれない。僕は碑文から視線を外して、祭壇を観察している振りをすることにした。
このくらいでは今までの失態の汚名返上はできないかもしれないが、一先ず安心、と胸を撫で下ろす。ここでも醜態を晒したら、氷焔にいるのが心苦しくなっていただろう。
先程よりは穏やかな沈黙が流れて、前触れもなく魔法使いが振り返った。
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