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婚約破棄
天からの贈り物
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「ヴァレイスナ・フェイル・ラーナスカイ! 今、この場を以て、貴女との婚約を破棄することを宣言する!」
大陸の上級貴族が通う学園。
その聖堂の、黄金の布をかけた台の前で、ミース・シェアリネス・ジェレネイトーー帝国の皇嗣は言い放った。
帝国には、「星を紡ぐ歌」の伝承がある。
黄金の髪と瞳。
天から授かったミースは、皇嗣ではなく「星の子」ーー「星子」と称えられている。
ーー帝国の光。
その賛辞に見合う容姿と才能。
帝国随一と言わしめる画家が、その美しさを表現することは不可能だと、筆を置いたという逸話。
一を聞いて、十どころか二十を理解する聡明さ。
当然、誇張というか宣伝が含まれているものの、賛辞の半分は本当のこと。
まぁ、そんなわけで、才能もピカ一。
でも、この男はその才能に胡座を掻いて、努力ってものをまったくしなかったのよ。
つまり。
あたしの好みじゃないってこと。
自分を磨き上げるための努力。
あたしが好きなのは、その自負の上に紡がれる眼差し。
こんなふんにゃり、いえ、ぐんにゃりとした男なんて、こちらからお断り。
それでも、公爵令嬢という柵の中で、これまでは機会を窺うことしか出来なかった。
やっと巡ってきた好機。
婚約破棄なんて、こんなお遊びに付き合っている暇などないのだけど。
「ヴァレイスナ! 聞いているのか!」
興味がないので無視していたら、何が気に入らないのか憤怒するミース。
そのミースに寄り添うように立っているのが、婚約破棄の理由である伯爵令嬢。
物語から出てきたような、王子様然としたミースの横に並べるには、若干見劣りがする伯爵令嬢ーーユミファナトラだけど。
年上なのに妹にしたくなるような可愛さ。
これがミースの嗜好だったとするなら、あたしに靡かなかったことにも合点がいく。
でも、駄目ね。
この娘もミースと同じく、魂を磨き上げることをしなかった、輝きのない眼差し。
ミースの取り巻きである、三大貴族の子息どもも同様。
「……ユミファナトラ嬢に対する、数々の非礼! むごい仕打ちは、すでに露見している!」
「……言い逃れなど、もはや出来ぬと知れ!」
「……その白々しい、度し難い態度! 公爵令嬢とは思えぬ振る舞い! 恥を知るが良い!」
ミースにとって、自らの人生に係わる一世一代の晴れ舞台。
当然、「星子」である彼に取り入ろうと、三大貴族の倅どもも意気天を衝くーーかと思いきや。
その追及は、どこか迫力が欠けている。
この緊迫の場面を見守っている数多くの生徒たちの間にも、今にも雨が降ってきそうな、どんよりとした困惑の空気が漂っているのだけど。
まぁ、それも仕方がないわね。
自らの義務ーーとでも思ったのか、これまで誰も触れてこなかった「赤ん坊」について、眉を顰めたミースが質してくる。
「……ヴァレイスナよ。『星色』とでも表現すべき布で包まれた、その……、角の生えた子供は何なのだ。私への当て付けか何かなのか?」
「あ~う」
「あら? 起きてしまったようね。赤子が寝ているのに、大きな声で怒鳴ったり大きな音を立てたりする悪い人たちがいるのだから、仕方がないわね」
「う……」
普段なら言い返しているでしょうに。
ユミファナトラの手前、生来の傲慢さを隠して「星子」を演じるミース。
「はぁ~」
「は~う?」
それはもう、溜め息も吐きたくなるってものよ。
今日は、あたしにとっても重要な日。
ミースたちのお遊びと違って、これからの命運がかかった決戦の日。
運命が動き出すのはミースたちも同じなのだけど。
彼を含めた、ほとんどの生徒たちは気付いていない。
それだけ学園生活が充実していたことの証しかもしれないれど、あたしから言わせれば、「たるんでいる」の一言に尽きる。
与えられたものを享受するだけで、その地位に伴う義務を蔑ろにしている。
何より、その危険性を軽視している。
「この子はね、天から降ってきたのよ」
「……はい?」
星の光を紡いで織り上げたかのような御包み。
赤ん坊は可愛いものだと聞くけれど。
自分で産んだ子ではないからか、いまいち母性のようなものは湧いてこない。
ただ、不思議な赤子であることは間違いない。
星色の髪に瞳。
何より。
額の上から生えた、「星色の角」。
骨が変形して出来たもの。
そんな言葉を戯れ言にしてしまうくらい、神秘を宿した「星角」。
角が生えた赤子など、嫌悪の眼差しを送られたとしても仕方がないことだけど。
なぜか生徒たちの視線には、好意的なものが宿っている。
そんな不思議の塊のような赤ん坊は。
まるで誰かがぶん投げたかのように、聖堂に向かうあたしに向かって飛んできた。
いったいどんな外道なら、赤ん坊を投げることが出来るのかしら。
その外道を見付けたら。
言い訳を聞く前に、とりあえず一発、ぶん殴るのは確定。
ーー天から降ってきた。
そんな嘘を吐いたのは、一応はこの子のため。
角の生えた子供。
どうやったところで好奇心の餌食になる。
同じ好奇心を向けられるにしても、「聖性」を付与しておけば、この子の未来を少しは明るくしてやれるかもしれない。
ーーあたしと係わった者には幸せになって欲しい。
そう思いこそすれ、力のないあたしには、これまで実践することは出来なかった。
さて、もう茶番の臭いが漂っているけど、あたしの人生に大きく係わってきたミースと決着を付けないといけない。
ーー公衆の面前での婚約破棄。
ーーあたしの名誉を汚す行為。
ーー公爵令嬢のあたしに押された、生涯拭い去ることが出来ない烙印。
きっと、ミースはそんなことを意図して、事に及んだと思うのだけど。
彼は根本的なところから間違っている。
これから、すべての土台が引っ繰り返される。
「それで? 私がユミファナトラ嬢に酷いことをしたと言ったけれど、それだけではわからないわ。私が何をしたのか、きちんと言葉にしていただけるかしら?」
「そ、そのような悍ましきこと、口に出来るはずがなかろう!」
あら?
ミースの表情は、本物。
ユミファナトラに吹き込まれたことを疑いなく信じているらしい。
そんなわけで、ミースは放置決定。
あたしが興味を持ったのは、ユミファナトラ。
ミースが婚約破棄を決断するほどの内容。
可愛い顔して、性格は結構えげつないのかもしれない。
それでも所詮は、子供のお遊び。
運命の日の序章としては物足りないけど、付き合ってあげることにしましょう。
「そう? それなら、私がその悍ましい内容を、詳説してあげましょう。ーー私がユミファナトラ嬢にした、とっても酷いこと。それはユミファナトラ嬢のお父上である伯爵様が、人身売買をしているという事実を教えて差し上げたこと」
「は? ……な、何を……?」
「あら、知らなかったの、ミース? てっきり知っていてその娘の味方になったのかと思っていたのだけれど」
「あ、う……、わっ、私はそのようなこと、ヴァレイスナ様から聞いていません!」
ええ、その通り。
あたしは言っていないのだから、聞いていないのは当然。
それを理解した上で切り返さないといけないというのに。
少しは期待していたのだけど。
予想通り、自身の運命を切り拓く努力をしてこなかった、ただの小娘のようね。
あたしは、あなたたちとは違う。
才能の上に、努力で積み上げてきたもの。
目を背けず、見たくないものもすべて見てきた。
そう、積み上げてきた善意だけでなく悪意でもーー。
あたしに勝てるなどと、夢の中でも思わせはしない。
「帝国にとって、奴隷貿易などあってはならない醜聞。それ故に私とお父様は、この一件を秘密裏に処理した。お父様の温情で、外部には一切漏らさず、伯爵様が咎められることはなかったというのに。恩を仇で返されるとは正にこのことね。ーーどうやら私たちに秘密を握られた伯爵様は、そのことに耐えられなかったのでしょう。すべてを無かったことにしようと、お父様を含めたこの私も、破滅させ闇に葬ろうと画策したようね」
「ち、ちが……、ミース様っ! わた、私はっ、信じてください!」
ミースに縋るユミファナトラ。
疑心暗鬼に陥って尚、彼女の味方であろうと努めるミース。
でも、すでに形勢は私に傾いている。
感情に訴えるだけでは、傍観者まで納得させることは出来ない。
まぁ、こんなところかしら。
もう少し抵抗してくるかと思って、もっとエグいのを幾つか用意しておいたのだけど。
必要なかったようね。
「ああ、私はユミファナトラを信じるとも! 事実はいずれ明らかになる! そして、婚約破棄という事実もまた、確定した! 『星子』である私と、私が愛する者を汚したその罪! これからの人生で思う存分、味わうと良い!」
「星子」であるミースの言葉。
人が抱く、幻想というのは本当に厄介。
良くも悪くも、それだけで周囲への説得力を持ってしまう。
でも、遅すぎた。
一年前、いえ、半年前ならあたしが負けていたかもしれない。
時の流れは、残酷。
もう、どうやったところで覆らない。
さて、これで終わりにしても良いのだけど。
何だかんだで、ミースはあたしの婚約者だった男。
敗北を魂の底まで刻みつけるために。
もう少し、付き合ってあげようかしら。
「フィフォノ様」
「あ、はい。えっと、何でしょうか、ヴァレイスナ様?」
ちょっとおっとりしているけれど、好きなことには努力を欠かさない、空色の瞳の少女。
あたしの性格ーー本性を知っている、数少ない、本当の友人の一人。
そんな伯爵令嬢にはあるまじき趣味を持つフィフォノは。
トレードマークとも言える、困ったような笑顔であたしに聞いてくる。
さすが学園に入園する前からの友人。
もうあたしが何を聞いてくるのかわかっている顔ね。
「昨日、私が言ったことを覚えているかしら?」
「はい。もちろんでございます。明日、聖堂で、『ミース様は婚約破棄を宣言する』と、ヴァレイスナ様は仰っていました」
すべては始めから露見していた。
ーー衝撃の事実。
そんな可能性をまったく考慮していなかったミースには、青天の霹靂のように突き刺さったのだろうけど。
紛いなりにも「星子」と称えられる男。
あたしとフィフォノの遣り取りの「穴」を見付けて、反撃してくる。
「なっ!? ……いや、フィフォノ嬢は君の友人だ! 口裏を合わせているのだろう!」
「それなら、これはどうかしら? ーーリン様」
「ーー何でございましょう、ヴァレイスナ様」
こちらはフィフォノと違って、表情に浮かんでいるのは好意ではなく敵意。
まぁ、利用されることがわかっていて、それを断ることが出来ない実直な彼女からしたら、仕方がないことだけど。
ーー派閥。
くだらないことに。
学園という閉鎖空間にあっても、貴族社会を矮小化したような派閥などというものがあった。
あたしが企図したわけでもないのに。
なぜか勝手に敵対派閥になって、あたしと対立していた侯爵令嬢のリン。
でもね、気付いたらリンに嫌われていたけど、あたしは彼女が嫌いじゃない。
その気品と気位。
それに見合う努力を怠らなかったことを知っているから。
残念ながら、あたしの思いは通じず、最後までリンとは犬猿の仲だったのだけどーー?
「あ」
「あ~う?」
あー。
今、気付いた。
ミースの相手がユミファナトラだと知っていたから、見落としていた。
あたしはミースの思い人が誰か知っていたけど。
そう、他の生徒たちは知らなかったのよ。
そこら辺は、ミースがしっかりと隠していた。
ーーミースの婚約者はあたし。
ずっとそう思っていたリン。
そんなあたしを嫌う理由の一つ。
「リン様。ーー男の趣味が悪いわよ」
「いま聞くべきはそれではないでしょう!!」
ったく、ミースの奴め。
親友になれたかもしれないリンとの仲を邪魔するなんて。
これで心にこびり付いていた、ほんのわずかな慈悲も削ぎ落とされたので。
それでは終幕と洒落込みましょう。
「三日前のことです。ーーリン様。私は貴女を書庫に呼び出しました」
「ええ、そうですわね。ご立派な招待状に、花束まで添え、私の自室まで、直接ヴァレイスナ様が届けにまいりましたわ」
ーー書庫。
その言葉を聞いた瞬間。
内心の動揺を隠すことも出来ないミースとユミファナトラは、顔を引き攣らせた。
それも当然。
だって書庫は、二人の逢い引きの場所だったのだから。
秘密が漏れていることを微塵も疑っていなかった二人は油断しまくり。
あたしが書庫の合い鍵を持っているなんて、考えたことすらなかったでしょうね。
あたしが直接リンに招待状という名の挑戦状を渡したのは、秘密が漏れないようにするため。
あと、あたしが正面からぶつかっていけば、律儀なリンは応えてくれるとの確信があった。
そんなわけで、親友になれなかった侯爵令嬢は。
失恋の事実を受けとめるが如く、真実を暴露したのだった。
「帝国の『星子』であらせられるミース様。ご存知の通り、私はヴァレイスナ様の友人ではありません。それどころか、彼女とは敵対していたと言って良い間柄。その私が証言いたしますわ」
「まっ、待ってくれ!」
ほんと、駄目駄目ね。
そんな態度を取ったら、これからリンが言うことが事実だと認めているようなものじゃない。
こんな男が婚約者だったなんて、人生の汚点ーーなどということはない。
公爵令嬢としての義務を果たせなかったあたし。
努力しても、ミースの愛情を、振り向かせることが出来なかったあたし。
帝国が手遅れになる直前まで。
ミースの手を取ることを、拒んでしまったあたし。
汚点というなら、これまでの弱かったあたし。
でも、その汚点もあたしの一部。
「や~う」
「あたしの予想だと、ミースが最後のあがきをしてくるから、手を放して欲しいんだけど」
この子を受けとめてから。
ずっとあたしの服をつかんだままの、小さな手。
つながれた絆のような、その手を放すことが出来なかったのはーー。
「このようなことっ、認められるはずがない! すべてはヴァレイスナっ、貴様が悪いのだ!」
優雅さの欠片もない。
「星子」と称えられていたのだから、最後まで役目を全うするくらいの気概を見せても良いでしょうに。
リンの暴露が終わって、癇癪を起こした子供のようにぶち切れるミース。
「もはや、慈悲の心も尽きた! ラスファルフィーレ! ヴァレイスナを捕縛せよ!」
「えー?」
「え~う?」
ここに来て、まさか丸投げとは。
さすがにそれは予想していなかったわ。
ラスファルフィーレとは、ミースの身辺警護を務める、責任者の騎士の名。
皇嗣の身辺警護は、騎士団の隊長に就任する前に、与えられる役目。
「帝国最強」ならぬ「最恐」と謳われた、あたしの師匠に、その強さだけは認められた男。
学園内で、武器の携帯が許されている唯一の存在。
彼に出てこられたら、あたしに勝ち目などないーーと、そんな勘違いをしているだろうミースは。
落ち着きを取り戻して、断罪の剣であたしを処刑するが如く、得意げに腕を振り下ろした。
「これまでだ、ヴァレイスナ! 自身の悪行を胸に、破滅するが良い!」
「ふぁ~う」
格好良く決めたものの。
待てど暮らせど、聖堂の外に待機しているはずの、切り札の騎士が駆け付けてくることはなく。
そこに赤ん坊のあくびが重なって。
和んだ空気に。
通りすがりの、学園で飼われている白猫のスグリまで大あくび。
ーーそんなわけで。
予定外ではあったものの、修正は可能。
ミースを物理的に屈服させる前に、あたしは。
先に帝国の状況から説明することにした。
「ミース。ラスファルフィーレ殿が貴方の命令で聖堂にやって来ることはないわ。なぜなら、彼は私の命令で、学園の警備を行っているからよ」
「……どういうことだ? ラスファルフィーレが無断で私の傍から離れるなど、有り得ない。何をしたっ、ヴァレイスナ!」
「何をしたって、色々やったわよ。心労と気苦労で死にそうだったわ。ーー帝国存亡の機。公爵家である私たちは、何もしなければ巻き込まれて破滅。だから、学園に入園してからずっと、お父様をせっついて、そのための準備をさせていた。そして今日ーー両陣営が戦い、雌雄を決する。貴方が婚約破棄だ何だとうつつを抜かしている間に、私はずっと、命懸けの戦いをしていたの。貴方は『破滅』と口にしたけれど、ーーそう、その言葉の通り、敗北者はすべてを失う可能性があるわ」
わめくミースの言葉を踏み潰すように、厳然たる事実を、彼だけでなく聖堂にいるすべての生徒たちに叩き付ける。
見せかけの繁栄と栄華に酔った貴族社会には届かない、帝国崩壊の兆し。
学園に通う上流貴族の子女となれば尚のこと。
貴族である以上、何もしないことは罪。
果たすべき義務と役割がある。
とはいえ、学園にいる生徒たちの多くは、運命の俎上に供されるには覚悟も資格も備わっていない。
「この聖堂があることからもわかる通り、学園の設立には教会ーーリシェルティア教も係わっているわ。両陣営から誓言を得て、この学園を中立地として設定した。どちらの陣営が勝利したとしても、多くの学園生の命だけは保障される」
寝耳に水。
そんな学園生たちが誤った行動を取らないために、再度念を押しておく。
「よく聞きなさい。私が何を言っているのか、理解できないのなら、この学園で待機していなさい。ーーあと、私の言葉が信用できない者もいるでしょうから、……はぁ、そんないつでも逃げられる扉の近くにいないで、証言してくださいな、ラカールラカ様」
卒園間近の、学園の首席。
帝国の未来の宰相候補と、将来を嘱望されている青年。
どこからも文句が来ない、上流貴族の見本のような男だけど、煮ても焼いても炒めても燻しても食えない、食わせ物だって事をあたしは知っている。
「仕方がありませんね。ヴァレイスナ様がそう仰るのであれば、その命に服さないわけにはまいりません。ーー二つの陣営。皇帝派が勝利したなら、帝国の再建はならず、帝国は滅亡するでしょう」
「なっ!? 帝国が……、星の加護を得たジェレネイトが滅びるというのか!! そ、そのようなことが……」
「黙って聞きなさい、ミース。貴方だけのために説明してくれているわけではないのよ」
駄目ね。
一応、親切で忠告してあげたのに、あたしの言葉が届いていない。
まぁ、でも、わからなくはないわ。
昨日まであったものが、当たり前のように享受していたものが、ある時点を境に、すべてが引っ繰り返される。
どれだけの想いを注ぎ込もうと、大波に抗うことは出来ない。
あとは、ただ、呑み込まれるだけ。
抗うーーそれが許される機会は、すでに失われている。
地味で目立たない割に、よく見ると美形という、奥手な令嬢たちから密かな人気を集めているラカールラカは。
変わらず感情の籠もらない声で、見えない矢を周囲に撒き散らしていく。
「ラーナスカイ公爵が主導する諸侯派が勝利したなら、帝国再建の道は残されるでしょう。当然、どちらの陣営に人が集まるかは自明。好んで自滅したい人間などいません。情勢が読めない、後に引けない者たちが皇帝派に付いただけで、残りは諸侯派に。ーー私は情報を収集し、身の安全を図る手段を用意しておきました。学園生という半端な身分で出来ることなどその程度と思っていましたが。ーーですが、ヴァレイスナ様は。積極的に介入なされました。星を砕くかのような、激烈な策謀の数々。更には人脈を利用したその貢献度は絶大。恐らく、ヴァレイスナ様の功績を考慮し、ラーナスカイ公爵が皇帝として即位されることになるでしょう。つまり、高い確率でミース様は罪人として処刑されることになり、ヴァレイスナ様は皇女という立場になられます。そうです、くるりと引っ繰り返りました。もしかしたら助けてもらえるかもしれないので、罪人のミースは。ヴァレイスナ皇女殿下に有り得ないほどの非礼を働いたことを、頭を地面に叩き付け、謝ったほうがよろしいかと存じます」
「話が長いのは、まぁ、いいとして。……貴方、ミースが嫌いだったの?」
「逆に聞きたい。どうやったら好きになれる要素があるのか。帝国がこれまで瓦解せずに済んでいたのは、『星子』が居たからだ。『星子』が皇帝になれば、きっと生活は良くなるーーそう信じ、民は耐えていた。だが、実際はどうだ。ヴァレイスナ様が幾度も忠告したにも係わらず、それを感謝するどころか邪険に扱う始末。『星子』としての役目を忘れ、個人的な愛欲に塗れる日々。今に至るまで、帝国の亀裂に気付かず、婚約破棄などというお飯事に興じ、このときを迎えた。ーー『星子』とは何か? 運命を紡ぐ者だ。自らの運命さえ紡げぬ者が、帝国を、民を、導けるものか。あとは最期に、その星屑にさえ満たない命を散らし、新たな星の誕生を祝う、号砲となるが良い」
溜め込んでいたすべてのものを吐き出すように、『星子』であるミースに言い放つラカールラカ。
ちょっと吃驚。
極寒の大地の氷塊のように、冷徹に物事の価値を見極める、情の薄い人物かと思いきや。
こんなにも熱いものを秘めていたなんて。
あと、こんなにもあたしを評価してくれていたなんて、思いもしなかった。
ふぅ~、惜しいわね。
これで師匠のように、精神的にも肉体的にも鋼のような男なら良かったのだけど。
ミースと同じく、あたしより弱い男はちょっと趣味じゃないのよね。
あたしとは逆に、公然と面罵されたミースは。
これまで賛辞とともに歩んできた人生に汚点を付けられたというのに、返す言葉が見付からず黙り込むとーー。
「認めん! 認めんぞっ、ヴァレイスナ!」
ミースにとっての諸悪の根源である、あたしに怒りをぶつけてくるのだけど。
そんな中身の伴わない悪感情を向けられたところで。
あたしを含め、誰の心にもまったく響かない。
「で。認めなかったら、どうするというのかしら?」
「……くっ」
「く~う?」
あたしの挑発、というより揶揄いに、言葉を詰まらせるミース。
現況がわかるはずもなく、ミースを不思議そうな顔で見る赤子。
やっぱり、間違いじゃないみたいね。
角と、それ以外の不思議。
「聖性」とでも言うべきか、この子の存在を、ここに居るすべての者が無視できずにいる。
それは、「星子」であるミースも同様。
ただ、婚約破棄から始まった茶番を終わらせるには、区切りが必要だから。
あたしは。
一つの希望をミースの鼻先にぶら下げる。
「ミース。私に興味が無い貴方は知らないでしょうけれど、私の師匠はイオラングリディア卿よ」
「なっ!? あの、『千塊』卿……?」
「そ。『岩をも砕く魂』とか『笑えない男』ーーあら? 『笑わない男』だったかしら? まぁ、どちらでも良いわ。彼に武芸を仕込まれた私は強い。ーーミース。運命を自ら切り拓きたいと望むのであれば、相応のものを示しなさい。私と戦い、勝ったのであれば。貴方とユミファナトラ嬢の命を、私の名誉に懸けて保障してあげる」
「あ~う」
あたしの言葉が頭に浸透すると。
ミースの視線は自然とユミファナトラに。
何一つ手段を持たず、運命に翻弄されるしかないユミファナトラ。
ミースの愛が本物だというのなら。
この子が発する、不思議な影響力のようなものを薙ぎ払えるはず。
「その言葉ーー。誓ってもらうぞ、ヴァレイスナ」
「いくらでも。ーー星の輝きが失われようとも、私の誓いは永久の輝きを灯す。その誓いに偽りなくこの身を捧げん。ーーと、これで良いかしら? ああ、あと、伎倆に差がありすぎるから。この子は放してくれないし、このまま抱っこしたままで戦うわ」
「……ふざけているのか」
「ふざけてなんていないわよ。貴方のほうこそ自覚なさい。この程度のハンデでは、貴方に勝ち目などない。貴方にとって、大切なものは何? それはプライドを捨ててでも勝ち取らないといけないものではなくて? 本当の意味での戦いがどういうものか、わからないのならわからないなりに、覚悟を決めなさい。夜空に輝く星をつかみ取りたいのであれば、ーー死に物狂いで抗いなさい!」
「……心得た」
学園内は、武器の携帯は不可。
細剣での勝負を所望するかと思ったけど。
矜持が焼き尽くされても、理性は残っていたようね。
ーー百に一つ。
武器を持てば勝機があるような気がするけど。
実際には、万に一つも勝ち目がない。
扱う力が大きくなれば、それだけ差も広がる。
ーー原始的な力。
ーー殴り合い。
ーー男は、女より力が強い。
所詮は女の力。
殴られようが何をされようが、強引に組み伏せ、力で圧倒すれば良い。
ーーそんなことを考えているのだろうけど。
「征くぞ!」
「ゆ~う!」
自身を奮起させるために、叫ぶと同時にあたしに駆け寄るミース。
ミースの真似をしたのか、楽しげに声を上げる赤子。
「なるべく揺らさないようにするから、ちょっと我慢してね」
「はぁっ!」
赤子を右腕でしっかり抱えてから。
利き腕の右手で殴りかかってきたミースを見遣る。
予想はしていたけど。
本当に才能だけで、努力を怠ってきたことが丸わかり。
速いし、反射神経も抜群。
でも、それだけ。
直線で拳を突き出すのではなく、素人丸出しの大振り。
あたしが右に動くと、釣られてミースの拳は内側に。
人間の体の構造上、内側には修正できても、外側には対応しづらい。
だから、あたしが左に動いただけで、拳は空を切る。
ーー空振り。
力を込めすぎたので、ミースは体勢を崩す。
殴り方、蹴り方がまるでわかっていない人間の所作。
すれ違い様、あたしは左手でミースの右肘を押して、彼の背後に回る動きを見せる。
押された勢いのまま、前に逃げるのが正解なのだけど。
なまじっか反応が良いため、ここでもミースはあっさりとあたしの陽動に騙される。
「後ろか!」
そうね。
あたしがそこに留まっていたなら、振り回した腕が当たっていたかもしれないけど。
あたしはすでにその先に、振り返ったミースの横にいる。
そこからミースに体を寄せて、彼を片足立ちにする。
「うっ……?」
浮いたミースの片足は、あたしの足の外側にあるので、即座に体勢を立て直すことは不可能。
そう、あとはあたしの意のまま。
「終わりよ。どうも貴方は『星子』を象徴するその顔が自慢のようだから、床に叩き付けてグチャグチャにしてあげる」
「へ……ひっ!?」
容姿に優れない者を嫌悪していたミース。
もう「星子」ではないことを骨の髄までわからせるために、ミースの後頭部をつかみ、投げ落とそうとした瞬間ーー。
「ヴァレイスナ様!!」
ラカールラカの声が聖堂内に響く。
ったく。
あたしを心配して、慣れない大声を上げてくれたのだろうけど。
残念ながら、ありがた迷惑。
戦いながら周囲の警戒も怠っていなかったから、襲撃には気付いていたのに。
彼の所為で、背後から近寄ってきた者の足音が掻き消されてしまう。
時間の砂粒は、黄金よりも貴重。
振り返ると同時に、ミースのもう片方の足を刈って、足手まといを床に転がす。
「だ…、わっ!?」
「だ~う!」
スカートの下に仕込んである「物差しにもなる鈍器」、もとい「鈍器にもなる物差し」を取り出して、左手につかんで構える。
ミースへのハンデのつもりで、利き腕を使わなかったのだけど。
赤ん坊を左腕で抱いて、「物差し」を利き手に持ち替えるか迷ったところで、襲撃者の姿を視認。
ーーナイフを持った、男の学園生。
ナイフの持ち方もなっていない素人。
対処できる十分な距離。
「はっ!?」
迅いーー頭の中で言葉が迸ったときには、右腕に衝撃。
ーー痛みが来る前に。
ーーあたしは運が良い。
ーー距離を取る。
あたしは間違えなかった。
瞬時に、必要な情報が頭に浮かび上がる。
子供の頃、鍛錬中に折れた剣で腕を裂かれた。
そう、一度経験しているから。
どうすれば良いのかもわかる。
衝撃のあとに、全身の動きを鈍らせる激痛がやってくる。
体の反応を止めることは出来ない。
四肢に亀裂が入ったかのように駆け巡る衝動と、ぼやけた視界。
そんなおぼろげな世界で確信する。
ーー襲撃者の狙いは、ミースではない。
「ラカールラカ! この生徒! 見た目!!」
無言で粗雑な攻撃を続けてくる学生。
かすかな感触を頼りに、右腕で赤子を抱き、左手に持った「物差し」で防御。
ーー劣勢。
そうなってしまうくらいの、有り得ない速さと膂力。
「学園の生徒ではない! 体に赤黒い、空気のようなものを纏っている!」
あたしの問いかけ未満の呼びかけに、正しく応えてくれるラカールラカ。
彼にも見えているのなら、間違いない。
おとぎ話の、悪い魔法使いが纏っていそうな、禍々しい色。
まるで命を燃料に、燃えているかのようにも見える。
何より。
顔に感情が宿っていない。
「操られているのならーー」
そうなれば、この男は犠牲者。
早めに決着を付けなければいけないのだけど。
「せっ! はっ!」
黒炎を宿した男のナイフが、頑丈さが取り柄のあたしの「物差し」を削り取る。
武器の性能が段違い。
正面から受けたら終わり。
体を引きながら、ナイフを受け流す。
「っ! 学園の外には出ないで! 命を保障出来なっ、つぁ!」
聖堂から逃げようとする生徒に声をかけるも、残りの言葉を男の攻撃が奪い去る。
持って、あと五か六撃ーーそう思った瞬間。
ふと、答えのようなものが脳裏を過った。
ーー襲撃してきた、普通ではない男。
ーー普通ではない、もう一つの不思議な存在。
ーー角の生えた赤子。
「狙いはーー、この子?」
なぜかしら。
この子を手放せば、勝機が転がり込んでくるというのに。
不合理極まりないというのに。
魂を引き裂いて尚、痛烈に湧き上がる信念ーーいえ、これは!
「私は、ヴァレイスナ・フェイル・ラーナスカイ! 星の輝きを惑わせたりはしない!!」
「は~う!!」
最後の一撃に懸け、「物差し」を利き手に持ち替えて、左腕で赤子を抱く。
ーー「星光」。
そうとしか言えない、冷たいようで暖かな気配。
あたしの体から溢れた、星の光を集めたかのような精白。
瞬時に理解する。
これは悪いものじゃない。
それどころか。
運命すら綾なす、世界のーー。
「せぃやっ!!」
「が~う!!」
男のナイフに。
力の限りに「物差し」をぶち当てる。
まぁ、そうじゃないかとは思っていたけれど。
この「星光」は、この子の力。
ならばーー。
もっと力を貸してもらうわよ!
「ナス! 一緒に倒すわよ!!」
「あう!!」
須臾。
この子ーーナスから放たれる「星光」。
拾い集めて「物差し」に注ぐと、男のナイフと拮抗。
「ああぁっ!!」
拮抗ーーなんて、冗談じゃないわ。
あたしとナスの一撃。
止められるものなら止めてみなさい!
「ぜやっ!!」
「やう!!」
圧倒的な「星光」に、「物差し」とナイフは耐えられなかったようで、光の粒となって散逸。
でも、まだ終わっていない。
武器を失って硬直している男が、動き出す前にーー。
「お祖父様直伝!」
あたしは右手で、男の右の袖を素早くつかむと、引っ張りながら半回転して男に背中を預ける。
そして勢いのままに男の体を腰に乗せると、足も使って跳ね上げる。
これで終わりじゃない。
まだまだ、ここから。
男の体が宙に浮いたところで、全力で右手を引くと。
真っ直ぐに頭から落ちる男。
あたしはそこから更に一回転。
「星落とし!!」
「ば~う!!」
男の頭が床に叩き付けられると同時に、体重をしっかり乗せて顎に膝を落とす。
全力で殺しにかかっているけど。
あたしの予想だと、手加減は悪手。
床の石板が砕ける派手な音が響いたあと。
「ふぅ~」
「ふ~う」
静寂が訪れた聖堂に、あたしとナスの声ーーそれから。
赤黒い炎を散らした男が、力を失ってグシャリと倒れる音。
やっと静かになったと思ったのに。
聖堂に駆け付けてくる、複数の足音。
「良いご身分ね、ラスファルフィーレ殿。ちょうど終わったところよ」
「侵入を許したのは謝るんで、そんな嫌みを言わないでくださいな、ヴァレイスナ様」
聖堂にやって来たのは、ラスファルフィーレ以下騎士五人。
さっき、あたしが明言したというのに。
ここでも勘違いをしたミースが、立ち上がって最後の悪あがき。
「ラスファルフィーレよ! 反逆罪だ! ヴァレイスナを拘束せよ!」
武器を、ではなく、武器のような「物差し」を失ったあたしと、帯剣するラスファルフィーレ。
武器を持っていても勝ち目がないのに、あたしは怪我までーーあら?
「治っている? というか、寝ている?」
止血してから治療をーーと思っていたのだけど。
何だかちょっと馬鹿にされている気分ね。
怪我が治っているのは嬉しいのだけど、命懸けで得た勝利の痕跡が消されてしまったようで、何だか納得がいかないわ。
あたしに「治癒」の力なんて無いから、恐らくこれはナスの力。
力を使いすぎて、疲れたのかしら?
安らかな寝顔だから、心配はなさそうだけど。
まぁ、何にせよ、詮索はあと。
婚約破棄から始まった、このドタバタに、幕を下ろさないといけない。
「ミース様。警護の責任者として、最後の報告にまいりました。ーー戦いは諸侯派の勝利。皇帝派の主立った者は捕らえられたそうです」
「な……、何を……?」
ーー簒奪。
元皇嗣と、新たな皇女。
ここにあるものが、すべて。
何を焼べようと変わらない。
ただ一つの、厳然たる事実。
騎士団に所属してから日が浅いラスファルフィーレですら、交錯する運命の重さに耐えかねたかのように膝を突いて。
普段の、フランクな性格を隠して元「星子」に忠誠を尽くす。
四人の騎士も倣い、膝を突いたところで。
現実の重さに耐えられなかったミースが尻餅をつく。
ーー星の光は陰り。
ーー新たな「星輝子」の物語が紡がれる。
現実のむなしさとは違って。
のちに吟遊詩人は、「新たな輝く星」の誕生を、無責任に謳い上げることになる。
「ミースとユミファナトラ嬢! それから三人の取り巻きを捕らえなさい! 襲撃者は、尋問が終わるまでは鎖も使って拘束するように!」
「はっ!」
あっけなく、幕は下りて。
項垂れるミースとユミファナトラ。
二人は、あたしを見ることもなく。
床に眼差しを奪われたまま、聖堂から連行されていったのだった。
大陸の上級貴族が通う学園。
その聖堂の、黄金の布をかけた台の前で、ミース・シェアリネス・ジェレネイトーー帝国の皇嗣は言い放った。
帝国には、「星を紡ぐ歌」の伝承がある。
黄金の髪と瞳。
天から授かったミースは、皇嗣ではなく「星の子」ーー「星子」と称えられている。
ーー帝国の光。
その賛辞に見合う容姿と才能。
帝国随一と言わしめる画家が、その美しさを表現することは不可能だと、筆を置いたという逸話。
一を聞いて、十どころか二十を理解する聡明さ。
当然、誇張というか宣伝が含まれているものの、賛辞の半分は本当のこと。
まぁ、そんなわけで、才能もピカ一。
でも、この男はその才能に胡座を掻いて、努力ってものをまったくしなかったのよ。
つまり。
あたしの好みじゃないってこと。
自分を磨き上げるための努力。
あたしが好きなのは、その自負の上に紡がれる眼差し。
こんなふんにゃり、いえ、ぐんにゃりとした男なんて、こちらからお断り。
それでも、公爵令嬢という柵の中で、これまでは機会を窺うことしか出来なかった。
やっと巡ってきた好機。
婚約破棄なんて、こんなお遊びに付き合っている暇などないのだけど。
「ヴァレイスナ! 聞いているのか!」
興味がないので無視していたら、何が気に入らないのか憤怒するミース。
そのミースに寄り添うように立っているのが、婚約破棄の理由である伯爵令嬢。
物語から出てきたような、王子様然としたミースの横に並べるには、若干見劣りがする伯爵令嬢ーーユミファナトラだけど。
年上なのに妹にしたくなるような可愛さ。
これがミースの嗜好だったとするなら、あたしに靡かなかったことにも合点がいく。
でも、駄目ね。
この娘もミースと同じく、魂を磨き上げることをしなかった、輝きのない眼差し。
ミースの取り巻きである、三大貴族の子息どもも同様。
「……ユミファナトラ嬢に対する、数々の非礼! むごい仕打ちは、すでに露見している!」
「……言い逃れなど、もはや出来ぬと知れ!」
「……その白々しい、度し難い態度! 公爵令嬢とは思えぬ振る舞い! 恥を知るが良い!」
ミースにとって、自らの人生に係わる一世一代の晴れ舞台。
当然、「星子」である彼に取り入ろうと、三大貴族の倅どもも意気天を衝くーーかと思いきや。
その追及は、どこか迫力が欠けている。
この緊迫の場面を見守っている数多くの生徒たちの間にも、今にも雨が降ってきそうな、どんよりとした困惑の空気が漂っているのだけど。
まぁ、それも仕方がないわね。
自らの義務ーーとでも思ったのか、これまで誰も触れてこなかった「赤ん坊」について、眉を顰めたミースが質してくる。
「……ヴァレイスナよ。『星色』とでも表現すべき布で包まれた、その……、角の生えた子供は何なのだ。私への当て付けか何かなのか?」
「あ~う」
「あら? 起きてしまったようね。赤子が寝ているのに、大きな声で怒鳴ったり大きな音を立てたりする悪い人たちがいるのだから、仕方がないわね」
「う……」
普段なら言い返しているでしょうに。
ユミファナトラの手前、生来の傲慢さを隠して「星子」を演じるミース。
「はぁ~」
「は~う?」
それはもう、溜め息も吐きたくなるってものよ。
今日は、あたしにとっても重要な日。
ミースたちのお遊びと違って、これからの命運がかかった決戦の日。
運命が動き出すのはミースたちも同じなのだけど。
彼を含めた、ほとんどの生徒たちは気付いていない。
それだけ学園生活が充実していたことの証しかもしれないれど、あたしから言わせれば、「たるんでいる」の一言に尽きる。
与えられたものを享受するだけで、その地位に伴う義務を蔑ろにしている。
何より、その危険性を軽視している。
「この子はね、天から降ってきたのよ」
「……はい?」
星の光を紡いで織り上げたかのような御包み。
赤ん坊は可愛いものだと聞くけれど。
自分で産んだ子ではないからか、いまいち母性のようなものは湧いてこない。
ただ、不思議な赤子であることは間違いない。
星色の髪に瞳。
何より。
額の上から生えた、「星色の角」。
骨が変形して出来たもの。
そんな言葉を戯れ言にしてしまうくらい、神秘を宿した「星角」。
角が生えた赤子など、嫌悪の眼差しを送られたとしても仕方がないことだけど。
なぜか生徒たちの視線には、好意的なものが宿っている。
そんな不思議の塊のような赤ん坊は。
まるで誰かがぶん投げたかのように、聖堂に向かうあたしに向かって飛んできた。
いったいどんな外道なら、赤ん坊を投げることが出来るのかしら。
その外道を見付けたら。
言い訳を聞く前に、とりあえず一発、ぶん殴るのは確定。
ーー天から降ってきた。
そんな嘘を吐いたのは、一応はこの子のため。
角の生えた子供。
どうやったところで好奇心の餌食になる。
同じ好奇心を向けられるにしても、「聖性」を付与しておけば、この子の未来を少しは明るくしてやれるかもしれない。
ーーあたしと係わった者には幸せになって欲しい。
そう思いこそすれ、力のないあたしには、これまで実践することは出来なかった。
さて、もう茶番の臭いが漂っているけど、あたしの人生に大きく係わってきたミースと決着を付けないといけない。
ーー公衆の面前での婚約破棄。
ーーあたしの名誉を汚す行為。
ーー公爵令嬢のあたしに押された、生涯拭い去ることが出来ない烙印。
きっと、ミースはそんなことを意図して、事に及んだと思うのだけど。
彼は根本的なところから間違っている。
これから、すべての土台が引っ繰り返される。
「それで? 私がユミファナトラ嬢に酷いことをしたと言ったけれど、それだけではわからないわ。私が何をしたのか、きちんと言葉にしていただけるかしら?」
「そ、そのような悍ましきこと、口に出来るはずがなかろう!」
あら?
ミースの表情は、本物。
ユミファナトラに吹き込まれたことを疑いなく信じているらしい。
そんなわけで、ミースは放置決定。
あたしが興味を持ったのは、ユミファナトラ。
ミースが婚約破棄を決断するほどの内容。
可愛い顔して、性格は結構えげつないのかもしれない。
それでも所詮は、子供のお遊び。
運命の日の序章としては物足りないけど、付き合ってあげることにしましょう。
「そう? それなら、私がその悍ましい内容を、詳説してあげましょう。ーー私がユミファナトラ嬢にした、とっても酷いこと。それはユミファナトラ嬢のお父上である伯爵様が、人身売買をしているという事実を教えて差し上げたこと」
「は? ……な、何を……?」
「あら、知らなかったの、ミース? てっきり知っていてその娘の味方になったのかと思っていたのだけれど」
「あ、う……、わっ、私はそのようなこと、ヴァレイスナ様から聞いていません!」
ええ、その通り。
あたしは言っていないのだから、聞いていないのは当然。
それを理解した上で切り返さないといけないというのに。
少しは期待していたのだけど。
予想通り、自身の運命を切り拓く努力をしてこなかった、ただの小娘のようね。
あたしは、あなたたちとは違う。
才能の上に、努力で積み上げてきたもの。
目を背けず、見たくないものもすべて見てきた。
そう、積み上げてきた善意だけでなく悪意でもーー。
あたしに勝てるなどと、夢の中でも思わせはしない。
「帝国にとって、奴隷貿易などあってはならない醜聞。それ故に私とお父様は、この一件を秘密裏に処理した。お父様の温情で、外部には一切漏らさず、伯爵様が咎められることはなかったというのに。恩を仇で返されるとは正にこのことね。ーーどうやら私たちに秘密を握られた伯爵様は、そのことに耐えられなかったのでしょう。すべてを無かったことにしようと、お父様を含めたこの私も、破滅させ闇に葬ろうと画策したようね」
「ち、ちが……、ミース様っ! わた、私はっ、信じてください!」
ミースに縋るユミファナトラ。
疑心暗鬼に陥って尚、彼女の味方であろうと努めるミース。
でも、すでに形勢は私に傾いている。
感情に訴えるだけでは、傍観者まで納得させることは出来ない。
まぁ、こんなところかしら。
もう少し抵抗してくるかと思って、もっとエグいのを幾つか用意しておいたのだけど。
必要なかったようね。
「ああ、私はユミファナトラを信じるとも! 事実はいずれ明らかになる! そして、婚約破棄という事実もまた、確定した! 『星子』である私と、私が愛する者を汚したその罪! これからの人生で思う存分、味わうと良い!」
「星子」であるミースの言葉。
人が抱く、幻想というのは本当に厄介。
良くも悪くも、それだけで周囲への説得力を持ってしまう。
でも、遅すぎた。
一年前、いえ、半年前ならあたしが負けていたかもしれない。
時の流れは、残酷。
もう、どうやったところで覆らない。
さて、これで終わりにしても良いのだけど。
何だかんだで、ミースはあたしの婚約者だった男。
敗北を魂の底まで刻みつけるために。
もう少し、付き合ってあげようかしら。
「フィフォノ様」
「あ、はい。えっと、何でしょうか、ヴァレイスナ様?」
ちょっとおっとりしているけれど、好きなことには努力を欠かさない、空色の瞳の少女。
あたしの性格ーー本性を知っている、数少ない、本当の友人の一人。
そんな伯爵令嬢にはあるまじき趣味を持つフィフォノは。
トレードマークとも言える、困ったような笑顔であたしに聞いてくる。
さすが学園に入園する前からの友人。
もうあたしが何を聞いてくるのかわかっている顔ね。
「昨日、私が言ったことを覚えているかしら?」
「はい。もちろんでございます。明日、聖堂で、『ミース様は婚約破棄を宣言する』と、ヴァレイスナ様は仰っていました」
すべては始めから露見していた。
ーー衝撃の事実。
そんな可能性をまったく考慮していなかったミースには、青天の霹靂のように突き刺さったのだろうけど。
紛いなりにも「星子」と称えられる男。
あたしとフィフォノの遣り取りの「穴」を見付けて、反撃してくる。
「なっ!? ……いや、フィフォノ嬢は君の友人だ! 口裏を合わせているのだろう!」
「それなら、これはどうかしら? ーーリン様」
「ーー何でございましょう、ヴァレイスナ様」
こちらはフィフォノと違って、表情に浮かんでいるのは好意ではなく敵意。
まぁ、利用されることがわかっていて、それを断ることが出来ない実直な彼女からしたら、仕方がないことだけど。
ーー派閥。
くだらないことに。
学園という閉鎖空間にあっても、貴族社会を矮小化したような派閥などというものがあった。
あたしが企図したわけでもないのに。
なぜか勝手に敵対派閥になって、あたしと対立していた侯爵令嬢のリン。
でもね、気付いたらリンに嫌われていたけど、あたしは彼女が嫌いじゃない。
その気品と気位。
それに見合う努力を怠らなかったことを知っているから。
残念ながら、あたしの思いは通じず、最後までリンとは犬猿の仲だったのだけどーー?
「あ」
「あ~う?」
あー。
今、気付いた。
ミースの相手がユミファナトラだと知っていたから、見落としていた。
あたしはミースの思い人が誰か知っていたけど。
そう、他の生徒たちは知らなかったのよ。
そこら辺は、ミースがしっかりと隠していた。
ーーミースの婚約者はあたし。
ずっとそう思っていたリン。
そんなあたしを嫌う理由の一つ。
「リン様。ーー男の趣味が悪いわよ」
「いま聞くべきはそれではないでしょう!!」
ったく、ミースの奴め。
親友になれたかもしれないリンとの仲を邪魔するなんて。
これで心にこびり付いていた、ほんのわずかな慈悲も削ぎ落とされたので。
それでは終幕と洒落込みましょう。
「三日前のことです。ーーリン様。私は貴女を書庫に呼び出しました」
「ええ、そうですわね。ご立派な招待状に、花束まで添え、私の自室まで、直接ヴァレイスナ様が届けにまいりましたわ」
ーー書庫。
その言葉を聞いた瞬間。
内心の動揺を隠すことも出来ないミースとユミファナトラは、顔を引き攣らせた。
それも当然。
だって書庫は、二人の逢い引きの場所だったのだから。
秘密が漏れていることを微塵も疑っていなかった二人は油断しまくり。
あたしが書庫の合い鍵を持っているなんて、考えたことすらなかったでしょうね。
あたしが直接リンに招待状という名の挑戦状を渡したのは、秘密が漏れないようにするため。
あと、あたしが正面からぶつかっていけば、律儀なリンは応えてくれるとの確信があった。
そんなわけで、親友になれなかった侯爵令嬢は。
失恋の事実を受けとめるが如く、真実を暴露したのだった。
「帝国の『星子』であらせられるミース様。ご存知の通り、私はヴァレイスナ様の友人ではありません。それどころか、彼女とは敵対していたと言って良い間柄。その私が証言いたしますわ」
「まっ、待ってくれ!」
ほんと、駄目駄目ね。
そんな態度を取ったら、これからリンが言うことが事実だと認めているようなものじゃない。
こんな男が婚約者だったなんて、人生の汚点ーーなどということはない。
公爵令嬢としての義務を果たせなかったあたし。
努力しても、ミースの愛情を、振り向かせることが出来なかったあたし。
帝国が手遅れになる直前まで。
ミースの手を取ることを、拒んでしまったあたし。
汚点というなら、これまでの弱かったあたし。
でも、その汚点もあたしの一部。
「や~う」
「あたしの予想だと、ミースが最後のあがきをしてくるから、手を放して欲しいんだけど」
この子を受けとめてから。
ずっとあたしの服をつかんだままの、小さな手。
つながれた絆のような、その手を放すことが出来なかったのはーー。
「このようなことっ、認められるはずがない! すべてはヴァレイスナっ、貴様が悪いのだ!」
優雅さの欠片もない。
「星子」と称えられていたのだから、最後まで役目を全うするくらいの気概を見せても良いでしょうに。
リンの暴露が終わって、癇癪を起こした子供のようにぶち切れるミース。
「もはや、慈悲の心も尽きた! ラスファルフィーレ! ヴァレイスナを捕縛せよ!」
「えー?」
「え~う?」
ここに来て、まさか丸投げとは。
さすがにそれは予想していなかったわ。
ラスファルフィーレとは、ミースの身辺警護を務める、責任者の騎士の名。
皇嗣の身辺警護は、騎士団の隊長に就任する前に、与えられる役目。
「帝国最強」ならぬ「最恐」と謳われた、あたしの師匠に、その強さだけは認められた男。
学園内で、武器の携帯が許されている唯一の存在。
彼に出てこられたら、あたしに勝ち目などないーーと、そんな勘違いをしているだろうミースは。
落ち着きを取り戻して、断罪の剣であたしを処刑するが如く、得意げに腕を振り下ろした。
「これまでだ、ヴァレイスナ! 自身の悪行を胸に、破滅するが良い!」
「ふぁ~う」
格好良く決めたものの。
待てど暮らせど、聖堂の外に待機しているはずの、切り札の騎士が駆け付けてくることはなく。
そこに赤ん坊のあくびが重なって。
和んだ空気に。
通りすがりの、学園で飼われている白猫のスグリまで大あくび。
ーーそんなわけで。
予定外ではあったものの、修正は可能。
ミースを物理的に屈服させる前に、あたしは。
先に帝国の状況から説明することにした。
「ミース。ラスファルフィーレ殿が貴方の命令で聖堂にやって来ることはないわ。なぜなら、彼は私の命令で、学園の警備を行っているからよ」
「……どういうことだ? ラスファルフィーレが無断で私の傍から離れるなど、有り得ない。何をしたっ、ヴァレイスナ!」
「何をしたって、色々やったわよ。心労と気苦労で死にそうだったわ。ーー帝国存亡の機。公爵家である私たちは、何もしなければ巻き込まれて破滅。だから、学園に入園してからずっと、お父様をせっついて、そのための準備をさせていた。そして今日ーー両陣営が戦い、雌雄を決する。貴方が婚約破棄だ何だとうつつを抜かしている間に、私はずっと、命懸けの戦いをしていたの。貴方は『破滅』と口にしたけれど、ーーそう、その言葉の通り、敗北者はすべてを失う可能性があるわ」
わめくミースの言葉を踏み潰すように、厳然たる事実を、彼だけでなく聖堂にいるすべての生徒たちに叩き付ける。
見せかけの繁栄と栄華に酔った貴族社会には届かない、帝国崩壊の兆し。
学園に通う上流貴族の子女となれば尚のこと。
貴族である以上、何もしないことは罪。
果たすべき義務と役割がある。
とはいえ、学園にいる生徒たちの多くは、運命の俎上に供されるには覚悟も資格も備わっていない。
「この聖堂があることからもわかる通り、学園の設立には教会ーーリシェルティア教も係わっているわ。両陣営から誓言を得て、この学園を中立地として設定した。どちらの陣営が勝利したとしても、多くの学園生の命だけは保障される」
寝耳に水。
そんな学園生たちが誤った行動を取らないために、再度念を押しておく。
「よく聞きなさい。私が何を言っているのか、理解できないのなら、この学園で待機していなさい。ーーあと、私の言葉が信用できない者もいるでしょうから、……はぁ、そんないつでも逃げられる扉の近くにいないで、証言してくださいな、ラカールラカ様」
卒園間近の、学園の首席。
帝国の未来の宰相候補と、将来を嘱望されている青年。
どこからも文句が来ない、上流貴族の見本のような男だけど、煮ても焼いても炒めても燻しても食えない、食わせ物だって事をあたしは知っている。
「仕方がありませんね。ヴァレイスナ様がそう仰るのであれば、その命に服さないわけにはまいりません。ーー二つの陣営。皇帝派が勝利したなら、帝国の再建はならず、帝国は滅亡するでしょう」
「なっ!? 帝国が……、星の加護を得たジェレネイトが滅びるというのか!! そ、そのようなことが……」
「黙って聞きなさい、ミース。貴方だけのために説明してくれているわけではないのよ」
駄目ね。
一応、親切で忠告してあげたのに、あたしの言葉が届いていない。
まぁ、でも、わからなくはないわ。
昨日まであったものが、当たり前のように享受していたものが、ある時点を境に、すべてが引っ繰り返される。
どれだけの想いを注ぎ込もうと、大波に抗うことは出来ない。
あとは、ただ、呑み込まれるだけ。
抗うーーそれが許される機会は、すでに失われている。
地味で目立たない割に、よく見ると美形という、奥手な令嬢たちから密かな人気を集めているラカールラカは。
変わらず感情の籠もらない声で、見えない矢を周囲に撒き散らしていく。
「ラーナスカイ公爵が主導する諸侯派が勝利したなら、帝国再建の道は残されるでしょう。当然、どちらの陣営に人が集まるかは自明。好んで自滅したい人間などいません。情勢が読めない、後に引けない者たちが皇帝派に付いただけで、残りは諸侯派に。ーー私は情報を収集し、身の安全を図る手段を用意しておきました。学園生という半端な身分で出来ることなどその程度と思っていましたが。ーーですが、ヴァレイスナ様は。積極的に介入なされました。星を砕くかのような、激烈な策謀の数々。更には人脈を利用したその貢献度は絶大。恐らく、ヴァレイスナ様の功績を考慮し、ラーナスカイ公爵が皇帝として即位されることになるでしょう。つまり、高い確率でミース様は罪人として処刑されることになり、ヴァレイスナ様は皇女という立場になられます。そうです、くるりと引っ繰り返りました。もしかしたら助けてもらえるかもしれないので、罪人のミースは。ヴァレイスナ皇女殿下に有り得ないほどの非礼を働いたことを、頭を地面に叩き付け、謝ったほうがよろしいかと存じます」
「話が長いのは、まぁ、いいとして。……貴方、ミースが嫌いだったの?」
「逆に聞きたい。どうやったら好きになれる要素があるのか。帝国がこれまで瓦解せずに済んでいたのは、『星子』が居たからだ。『星子』が皇帝になれば、きっと生活は良くなるーーそう信じ、民は耐えていた。だが、実際はどうだ。ヴァレイスナ様が幾度も忠告したにも係わらず、それを感謝するどころか邪険に扱う始末。『星子』としての役目を忘れ、個人的な愛欲に塗れる日々。今に至るまで、帝国の亀裂に気付かず、婚約破棄などというお飯事に興じ、このときを迎えた。ーー『星子』とは何か? 運命を紡ぐ者だ。自らの運命さえ紡げぬ者が、帝国を、民を、導けるものか。あとは最期に、その星屑にさえ満たない命を散らし、新たな星の誕生を祝う、号砲となるが良い」
溜め込んでいたすべてのものを吐き出すように、『星子』であるミースに言い放つラカールラカ。
ちょっと吃驚。
極寒の大地の氷塊のように、冷徹に物事の価値を見極める、情の薄い人物かと思いきや。
こんなにも熱いものを秘めていたなんて。
あと、こんなにもあたしを評価してくれていたなんて、思いもしなかった。
ふぅ~、惜しいわね。
これで師匠のように、精神的にも肉体的にも鋼のような男なら良かったのだけど。
ミースと同じく、あたしより弱い男はちょっと趣味じゃないのよね。
あたしとは逆に、公然と面罵されたミースは。
これまで賛辞とともに歩んできた人生に汚点を付けられたというのに、返す言葉が見付からず黙り込むとーー。
「認めん! 認めんぞっ、ヴァレイスナ!」
ミースにとっての諸悪の根源である、あたしに怒りをぶつけてくるのだけど。
そんな中身の伴わない悪感情を向けられたところで。
あたしを含め、誰の心にもまったく響かない。
「で。認めなかったら、どうするというのかしら?」
「……くっ」
「く~う?」
あたしの挑発、というより揶揄いに、言葉を詰まらせるミース。
現況がわかるはずもなく、ミースを不思議そうな顔で見る赤子。
やっぱり、間違いじゃないみたいね。
角と、それ以外の不思議。
「聖性」とでも言うべきか、この子の存在を、ここに居るすべての者が無視できずにいる。
それは、「星子」であるミースも同様。
ただ、婚約破棄から始まった茶番を終わらせるには、区切りが必要だから。
あたしは。
一つの希望をミースの鼻先にぶら下げる。
「ミース。私に興味が無い貴方は知らないでしょうけれど、私の師匠はイオラングリディア卿よ」
「なっ!? あの、『千塊』卿……?」
「そ。『岩をも砕く魂』とか『笑えない男』ーーあら? 『笑わない男』だったかしら? まぁ、どちらでも良いわ。彼に武芸を仕込まれた私は強い。ーーミース。運命を自ら切り拓きたいと望むのであれば、相応のものを示しなさい。私と戦い、勝ったのであれば。貴方とユミファナトラ嬢の命を、私の名誉に懸けて保障してあげる」
「あ~う」
あたしの言葉が頭に浸透すると。
ミースの視線は自然とユミファナトラに。
何一つ手段を持たず、運命に翻弄されるしかないユミファナトラ。
ミースの愛が本物だというのなら。
この子が発する、不思議な影響力のようなものを薙ぎ払えるはず。
「その言葉ーー。誓ってもらうぞ、ヴァレイスナ」
「いくらでも。ーー星の輝きが失われようとも、私の誓いは永久の輝きを灯す。その誓いに偽りなくこの身を捧げん。ーーと、これで良いかしら? ああ、あと、伎倆に差がありすぎるから。この子は放してくれないし、このまま抱っこしたままで戦うわ」
「……ふざけているのか」
「ふざけてなんていないわよ。貴方のほうこそ自覚なさい。この程度のハンデでは、貴方に勝ち目などない。貴方にとって、大切なものは何? それはプライドを捨ててでも勝ち取らないといけないものではなくて? 本当の意味での戦いがどういうものか、わからないのならわからないなりに、覚悟を決めなさい。夜空に輝く星をつかみ取りたいのであれば、ーー死に物狂いで抗いなさい!」
「……心得た」
学園内は、武器の携帯は不可。
細剣での勝負を所望するかと思ったけど。
矜持が焼き尽くされても、理性は残っていたようね。
ーー百に一つ。
武器を持てば勝機があるような気がするけど。
実際には、万に一つも勝ち目がない。
扱う力が大きくなれば、それだけ差も広がる。
ーー原始的な力。
ーー殴り合い。
ーー男は、女より力が強い。
所詮は女の力。
殴られようが何をされようが、強引に組み伏せ、力で圧倒すれば良い。
ーーそんなことを考えているのだろうけど。
「征くぞ!」
「ゆ~う!」
自身を奮起させるために、叫ぶと同時にあたしに駆け寄るミース。
ミースの真似をしたのか、楽しげに声を上げる赤子。
「なるべく揺らさないようにするから、ちょっと我慢してね」
「はぁっ!」
赤子を右腕でしっかり抱えてから。
利き腕の右手で殴りかかってきたミースを見遣る。
予想はしていたけど。
本当に才能だけで、努力を怠ってきたことが丸わかり。
速いし、反射神経も抜群。
でも、それだけ。
直線で拳を突き出すのではなく、素人丸出しの大振り。
あたしが右に動くと、釣られてミースの拳は内側に。
人間の体の構造上、内側には修正できても、外側には対応しづらい。
だから、あたしが左に動いただけで、拳は空を切る。
ーー空振り。
力を込めすぎたので、ミースは体勢を崩す。
殴り方、蹴り方がまるでわかっていない人間の所作。
すれ違い様、あたしは左手でミースの右肘を押して、彼の背後に回る動きを見せる。
押された勢いのまま、前に逃げるのが正解なのだけど。
なまじっか反応が良いため、ここでもミースはあっさりとあたしの陽動に騙される。
「後ろか!」
そうね。
あたしがそこに留まっていたなら、振り回した腕が当たっていたかもしれないけど。
あたしはすでにその先に、振り返ったミースの横にいる。
そこからミースに体を寄せて、彼を片足立ちにする。
「うっ……?」
浮いたミースの片足は、あたしの足の外側にあるので、即座に体勢を立て直すことは不可能。
そう、あとはあたしの意のまま。
「終わりよ。どうも貴方は『星子』を象徴するその顔が自慢のようだから、床に叩き付けてグチャグチャにしてあげる」
「へ……ひっ!?」
容姿に優れない者を嫌悪していたミース。
もう「星子」ではないことを骨の髄までわからせるために、ミースの後頭部をつかみ、投げ落とそうとした瞬間ーー。
「ヴァレイスナ様!!」
ラカールラカの声が聖堂内に響く。
ったく。
あたしを心配して、慣れない大声を上げてくれたのだろうけど。
残念ながら、ありがた迷惑。
戦いながら周囲の警戒も怠っていなかったから、襲撃には気付いていたのに。
彼の所為で、背後から近寄ってきた者の足音が掻き消されてしまう。
時間の砂粒は、黄金よりも貴重。
振り返ると同時に、ミースのもう片方の足を刈って、足手まといを床に転がす。
「だ…、わっ!?」
「だ~う!」
スカートの下に仕込んである「物差しにもなる鈍器」、もとい「鈍器にもなる物差し」を取り出して、左手につかんで構える。
ミースへのハンデのつもりで、利き腕を使わなかったのだけど。
赤ん坊を左腕で抱いて、「物差し」を利き手に持ち替えるか迷ったところで、襲撃者の姿を視認。
ーーナイフを持った、男の学園生。
ナイフの持ち方もなっていない素人。
対処できる十分な距離。
「はっ!?」
迅いーー頭の中で言葉が迸ったときには、右腕に衝撃。
ーー痛みが来る前に。
ーーあたしは運が良い。
ーー距離を取る。
あたしは間違えなかった。
瞬時に、必要な情報が頭に浮かび上がる。
子供の頃、鍛錬中に折れた剣で腕を裂かれた。
そう、一度経験しているから。
どうすれば良いのかもわかる。
衝撃のあとに、全身の動きを鈍らせる激痛がやってくる。
体の反応を止めることは出来ない。
四肢に亀裂が入ったかのように駆け巡る衝動と、ぼやけた視界。
そんなおぼろげな世界で確信する。
ーー襲撃者の狙いは、ミースではない。
「ラカールラカ! この生徒! 見た目!!」
無言で粗雑な攻撃を続けてくる学生。
かすかな感触を頼りに、右腕で赤子を抱き、左手に持った「物差し」で防御。
ーー劣勢。
そうなってしまうくらいの、有り得ない速さと膂力。
「学園の生徒ではない! 体に赤黒い、空気のようなものを纏っている!」
あたしの問いかけ未満の呼びかけに、正しく応えてくれるラカールラカ。
彼にも見えているのなら、間違いない。
おとぎ話の、悪い魔法使いが纏っていそうな、禍々しい色。
まるで命を燃料に、燃えているかのようにも見える。
何より。
顔に感情が宿っていない。
「操られているのならーー」
そうなれば、この男は犠牲者。
早めに決着を付けなければいけないのだけど。
「せっ! はっ!」
黒炎を宿した男のナイフが、頑丈さが取り柄のあたしの「物差し」を削り取る。
武器の性能が段違い。
正面から受けたら終わり。
体を引きながら、ナイフを受け流す。
「っ! 学園の外には出ないで! 命を保障出来なっ、つぁ!」
聖堂から逃げようとする生徒に声をかけるも、残りの言葉を男の攻撃が奪い去る。
持って、あと五か六撃ーーそう思った瞬間。
ふと、答えのようなものが脳裏を過った。
ーー襲撃してきた、普通ではない男。
ーー普通ではない、もう一つの不思議な存在。
ーー角の生えた赤子。
「狙いはーー、この子?」
なぜかしら。
この子を手放せば、勝機が転がり込んでくるというのに。
不合理極まりないというのに。
魂を引き裂いて尚、痛烈に湧き上がる信念ーーいえ、これは!
「私は、ヴァレイスナ・フェイル・ラーナスカイ! 星の輝きを惑わせたりはしない!!」
「は~う!!」
最後の一撃に懸け、「物差し」を利き手に持ち替えて、左腕で赤子を抱く。
ーー「星光」。
そうとしか言えない、冷たいようで暖かな気配。
あたしの体から溢れた、星の光を集めたかのような精白。
瞬時に理解する。
これは悪いものじゃない。
それどころか。
運命すら綾なす、世界のーー。
「せぃやっ!!」
「が~う!!」
男のナイフに。
力の限りに「物差し」をぶち当てる。
まぁ、そうじゃないかとは思っていたけれど。
この「星光」は、この子の力。
ならばーー。
もっと力を貸してもらうわよ!
「ナス! 一緒に倒すわよ!!」
「あう!!」
須臾。
この子ーーナスから放たれる「星光」。
拾い集めて「物差し」に注ぐと、男のナイフと拮抗。
「ああぁっ!!」
拮抗ーーなんて、冗談じゃないわ。
あたしとナスの一撃。
止められるものなら止めてみなさい!
「ぜやっ!!」
「やう!!」
圧倒的な「星光」に、「物差し」とナイフは耐えられなかったようで、光の粒となって散逸。
でも、まだ終わっていない。
武器を失って硬直している男が、動き出す前にーー。
「お祖父様直伝!」
あたしは右手で、男の右の袖を素早くつかむと、引っ張りながら半回転して男に背中を預ける。
そして勢いのままに男の体を腰に乗せると、足も使って跳ね上げる。
これで終わりじゃない。
まだまだ、ここから。
男の体が宙に浮いたところで、全力で右手を引くと。
真っ直ぐに頭から落ちる男。
あたしはそこから更に一回転。
「星落とし!!」
「ば~う!!」
男の頭が床に叩き付けられると同時に、体重をしっかり乗せて顎に膝を落とす。
全力で殺しにかかっているけど。
あたしの予想だと、手加減は悪手。
床の石板が砕ける派手な音が響いたあと。
「ふぅ~」
「ふ~う」
静寂が訪れた聖堂に、あたしとナスの声ーーそれから。
赤黒い炎を散らした男が、力を失ってグシャリと倒れる音。
やっと静かになったと思ったのに。
聖堂に駆け付けてくる、複数の足音。
「良いご身分ね、ラスファルフィーレ殿。ちょうど終わったところよ」
「侵入を許したのは謝るんで、そんな嫌みを言わないでくださいな、ヴァレイスナ様」
聖堂にやって来たのは、ラスファルフィーレ以下騎士五人。
さっき、あたしが明言したというのに。
ここでも勘違いをしたミースが、立ち上がって最後の悪あがき。
「ラスファルフィーレよ! 反逆罪だ! ヴァレイスナを拘束せよ!」
武器を、ではなく、武器のような「物差し」を失ったあたしと、帯剣するラスファルフィーレ。
武器を持っていても勝ち目がないのに、あたしは怪我までーーあら?
「治っている? というか、寝ている?」
止血してから治療をーーと思っていたのだけど。
何だかちょっと馬鹿にされている気分ね。
怪我が治っているのは嬉しいのだけど、命懸けで得た勝利の痕跡が消されてしまったようで、何だか納得がいかないわ。
あたしに「治癒」の力なんて無いから、恐らくこれはナスの力。
力を使いすぎて、疲れたのかしら?
安らかな寝顔だから、心配はなさそうだけど。
まぁ、何にせよ、詮索はあと。
婚約破棄から始まった、このドタバタに、幕を下ろさないといけない。
「ミース様。警護の責任者として、最後の報告にまいりました。ーー戦いは諸侯派の勝利。皇帝派の主立った者は捕らえられたそうです」
「な……、何を……?」
ーー簒奪。
元皇嗣と、新たな皇女。
ここにあるものが、すべて。
何を焼べようと変わらない。
ただ一つの、厳然たる事実。
騎士団に所属してから日が浅いラスファルフィーレですら、交錯する運命の重さに耐えかねたかのように膝を突いて。
普段の、フランクな性格を隠して元「星子」に忠誠を尽くす。
四人の騎士も倣い、膝を突いたところで。
現実の重さに耐えられなかったミースが尻餅をつく。
ーー星の光は陰り。
ーー新たな「星輝子」の物語が紡がれる。
現実のむなしさとは違って。
のちに吟遊詩人は、「新たな輝く星」の誕生を、無責任に謳い上げることになる。
「ミースとユミファナトラ嬢! それから三人の取り巻きを捕らえなさい! 襲撃者は、尋問が終わるまでは鎖も使って拘束するように!」
「はっ!」
あっけなく、幕は下りて。
項垂れるミースとユミファナトラ。
二人は、あたしを見ることもなく。
床に眼差しを奪われたまま、聖堂から連行されていったのだった。
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