記憶堂書店

佐倉ミズキ

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二章

花江 後編

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――――

「あのさ、綾子。この後時間ある? 少しお茶しない?」

龍臣の合図に目を開けると、目の前では先ほどの二人の会話が繰り返されていた。
花江がどこかすがるような瞳で綾子を見つめている。
さっきはここで急いでいるからと断ってしまった。
しかし、この綾子は時計を確認して迷うような表情を見せてから、フッと微笑み「少しならいいよ」と答えた。
それに誘った本人である花江が少し驚く。

「本当に大丈夫? 予定があったんじゃないの?」
「実はこの後、職場の飲み会なんだけど正直あまり気乗りはしていなかったの。だからバスが渋滞していたとか言い訳するわ」

綾子はいたずらっ子のようにフフッと笑った。
花江は申し訳なさそうな表情をしつつも、安堵したように頷く。花江もダメもとで聞いてみたのだろう。

「近くのカフェでいいかな?」
「うん。ありがとう」

そう言って二人は連れ立って歩いて行った。
花江と綾子は商店街のはずれにある小さなカフェに入った。
そこのカフェは龍臣も知っていた。
少し耳の遠いおじいさんがマスターで、そのおじいさんが亡くなった現在はコンビニになっている場所だった。
二人は窓際の一角に座る。狭くもないが広くもないその店に、客は二人だけだった。

「で、どうかしたの?」

綾子の問いかけに花江は俯き、腕の中の赤ん坊を見つめる。赤ん坊の修也はぐっすり眠っていた。
花江の視線を辿って、綾子も頬が緩む。

「可愛いね。名前なんて言うの?」
「修也っていうの」

そう一言言って、また黙ってしまう。
そして、意を決したように顔を上げた。

「……あのね、綾子。私、この子を置いてもうすぐ行かなきゃいけないの……遠くに」

花江はかすかに唇を震わせながらそう呟いた。
花江は色素が薄い、茶色の髪と瞳をしている。そのきれいな顔立ちはより一層はかなげな雰囲気を醸し出していた。
今にも消えてしまいそうな花江に綾子は息を飲む。

「え? どういうこと? どこに行くの?」

思いもよらない言葉に大きく動揺する。

「ねぇ綾子。私がいなくなったら、時々でいいからこの子を気にしてもらえるかな?」

花江は綾子の問いを無視してそう告げた。
益々綾子は混乱していった。

「待って、花江。話が全然分からないよ。どうして修也君を置いてどこかへ行くの? どこに行くの? 一人で? 旦那さんは? この子はどうするの? ちゃんと説明して」

質問攻めの綾子の困惑に、花江は悲しげに微笑むだけだ。そして、愛おし気に腕の中の修也を優しく撫でている。

「……旦那ね、事業に失敗して借金してね。返すために掛け持ちで仕事をしていたんだけど、体を壊しちゃったの。今、入院していて……」

花江の告白に綾子は絶句した。
花江達はまだ23歳だった。
旦那は少し年上と聞いていたが、それでもまだ20代半ばくらいなはずだ。それなのに、その若さでそんなことになっていたことに綾子は言葉が出なかった。
綾子は運ばれてきたコーヒーを一口飲んで気持ちを少しでも落ち着かせる。
久しぶりに会った友達の突然の告白にどうしていいのか、頭の中はパニックになっていた。

「花江が借金返済と入院費を稼ぐために遠くで働くってこと?」

だったら、小さな修也と離れなくてはならないのもわかる。しかし、そうであった場合は、そこまで長期間離れているとは思いにくい。
働きにでるが、すぐに戻ってくるのだろう。
そうであってほしいと思いつつ、恐る恐る聞いてみると花江は曖昧に笑った。

「この子はうちの実家に預けることにしたの。すぐ近所よ。確か綾子、学校司書なんだよね。将来、もしこの子に会うことがあったらよろしくね」
「それはもちろんだけど……、花江は大丈夫なの?」

綾子の全ての疑問に花江は笑顔で流す。
ますます不安になってきた。
さっきから花江は綾子の質問に明確に答えていないと気が付いたからだ。短期間だけ離れるのではと思っていたが、どうやらそうではないらしいと空気が教えてくれていた。

「ねぇ、これからどうするのかわからないけど、さすがに修也君と離れちゃダメなんじゃないの? そんなに大事にしているのに、離れちゃっていいの?」
「こうするしかないんだ。きっともう会えないけど、この子が元気に育ってくれればそれが一番なの」

そう言う花江の顔は真剣だった。
修也の幸せのためならと、決意が見える。
その決意とは何なのだろう。花江が全てを話してくれないため、知ることが出来ない。

「会えないって……。一生会えないってこと? どうして? どこに行くのよ、花江?」

その問いかけにも花江は悲し気に微笑むだけだった。

「花江、理由を教えてよ。せめて私に何か力になれることはないの……?」

必死にどうにかできないかと訴えかけるが、花江の決心は堅い様子だった。

「話を聞いてくれてありがとう、綾子。どうしても……、どうしても、誰かに聞いて欲しかったの」

満足そうに微笑む花江は眠る修也のおでこにそっとキスをした。
綾子は何度も説明と説得を試みるが、花江は解決を求めているのではなくただ単に話を聞いて欲しかっただけだと繰り返した。
混乱させてごめんなさいと花江は謝るが、綾子は益々自分の力のなさにうなだれる。
花江に促されてカフェから出るが、その表情は対照的だった。
花江は聞いてもらうことで、決意を新たにしたのだろう。
初めの頃の悲壮感はほとんど消えていた。反対に、綾子は今にも泣きそうになっている。

「連絡先、変えないから。何か助けが必要だったら連絡してね」

綾子にはそう言うのが精いっぱいだった。
花江は嬉しそうに頷くと、修也の手を持ってバイバイと手を振り、商店街へと消えていった。
綾子はしばらく見つめていたが、うな垂れるようにその場を後にした。
そこまで見届けると、突然、龍臣の隣にいた現在の加賀先生が膝から崩れ落ちるように地面にしゃがみ込んだ。

「嘘……でしょう。花江がそんなことになっていたなんて……」

加賀先生はショックを隠し切れない様子だ。血色を失い、呆然とした様子で地面を見つめている。
それは龍臣も同じだった。
修也のことは、彼が祖父母に預けられてからしか知らない。
家も近所で彼の祖父母が記憶堂に来ることもあって親しくなったが、修也の両親については聞いたことがなかったのだ。
子ども心に他人の家について干渉してはいけないと感じていた。
しかし、ずっと気になっていた事実。
修也の母親の蒸発は、父親の借金と入院が原因だった。
では、父親は今どうしているのだろう?
母親は現在どうしているのだろうか。
このことを修也の祖父母は知っているのだろうか。祖父母は何かしらの援助は出来なかったのだろうか。
龍臣は多くの疑問を持ちつつも、案内役として大きく一息をついて心を落ち着かせた。

「もし話を聞いていたとしても、修也の母親はいなくなりました。それは変わりありません」

龍臣はしゃがみこむ加賀先生見下ろして穏やかに告げる。
そう。話を聞いていたとしても結果は変わらないようだ。いや、さらに決意を固めている様子だった。
しかし、それには加賀先生は強めに首を横に振った。

「そうかもしれない。結果は変わらなかった。でも、この事実を知っていたのと知らなかったのでは全然違うわ。私はもっと修也君が小さな頃から何かサポート出来ていたかもしれない。花江を探せていたかもしれない」
「それは結果論です。これは、選ばなかったあなたの別の人生です。見るしかできません。現実は何も変わらないのです」

冷たい言い方になってしまうが、それは紛れもない事実なのだ。
いくら後悔したところでなにも変わらない。もう過去は変えられないのだ。
なにより現実に戻ったとして、加賀先生が見たことを覚えていなくては何も意味がない。

「そう、そうね……。確かに、柊木さんの言うことは正しいわ。これを見たとしても、何も現実は変わっていないのだからね。花江は修也君を置いて行方不明。それは何も変わらない……」

唇を噛み、悔しげな表情を見せてから、一度両手で顔を覆った。そして、何度も大きく深呼吸をしてから、どこか自分を納得させるように小さく数回頷いた。

「でもね……、そうだとしても花江のことを知れて良かったと思うのはおかしなことかしら」
「……いいえ」
「花江は育児に疲れたり、生活に嫌になって消えたんじゃなかった。心から修也君を愛していたから行方をくらませたのだと思うの。それが知れただけでも、なんだか良かった……」

そうかもしれない。
何度も考えた。
もしかしたら母親は育児ノイローゼになり、修也を捨てたのではないか。父親から何かしら暴力を受け、逃げたのではないか。
修也は望まれない子どもだったのではないか。だから邪魔になって置いて行かれたのでは?
何度も悪いことを想像しては打ち消していた。
しかし、修也は確実に母親に愛されていた。それは龍臣から見ても、良く伝わった事実なのだ。
すると、加賀先生は大きく深呼吸をして俯いたまま頬を拭った。
上げた顔に涙はない。

「戻ったらこのことを私は忘れてしまうのかしら?」
「おそらくは」

たまに見たことを覚えたまま現実に戻る人もいるが、それはごくわずかだ。ほとんどの人は忘れてしまう。

「そう。それでも、こうして花江の思いを知ることが出来て良かったと思うのは私の身勝手でしょうか?」
「……いいえ。これはあなたのもうひとつの人生です。あなたの思うままで良いと思います」
「それなら、知れてよかったと思います」

加賀先生はどこか吹っ切れたように立ち上がった。
もとから切り替えが早いのか、いくらか心がスッキリしたのか。いや、自分自身を納得させたのだろう。
龍臣はその姿に複雑な思いをしていた。
加賀先生はきっと戻ってもこのことを忘れてしまうだろう。覚えている人の方がまれなのだから。
しかし、案内役である龍臣は忘れることはない。当事者でないためか、案内人だからなのか、龍臣は現実に戻っても覚えているのだ。
この事実を知って、どうしたら良いのだろう。
修也に伝えるべきか否か。
このことを修也が知ったらどう思うのだろう。安易に伝えるべきではないのか。
龍臣は判断しかねていた。
花江がいなくなった通りをジッと見つめていたが、何も答えは出なかった。
現実世界に帰ると、案の定、加賀先生は何も覚えていなかった。
目を覚まし、自分はどうしてここに居るのだろうと困惑していたため、龍臣の忘れ物を届けてくれたのだと伝えると納得して晴れやかな表情で帰って行った。

「はぁー」

龍臣は加賀先生が座っていたソファーにどさっと腰かけた。
今回は疲労感がとてつもない。脱力感が強かった。
あんな世界を見せられて、どうしろというんだと思わず頭を抱えてしまう。

「龍臣」

あずみがそっと声をかけ、隣に座ったのが分かった。現実に戻って来た時から近くに居たのには気が付いていた。
龍臣の疲労を気遣うように寄り添っている。

「あずみ……、僕はどうしたらいいんだ」

龍臣は頭を抱えたまま、あずみに問いかけていた。しかし、あずみは答えない。
そして、ふと思った。

「あずみは全部知っていたのか?」

修也の両親のこと、何もかも実は知っていたのだろうかと疑問が過った。
あずみは長くこの店に居着いている。その分、実は龍臣よりも多くのことを見聞きしていたのではないだろうか。
もしかしたら、修也の両親のことも失踪も行き場所も全て真実を知っているのではないだろうか。
しかし、龍臣の期待とは裏腹にあずみは残念そうな声を出す。

「ごめんなさい、知らないわ。ただ何故か、龍臣が記憶の世界へ行くと私にもその中身が薄らと見えてしまうの。だから今回のことも見ていたけれど、修ちゃんのことは何も知らないの」

そうだったのか、と驚きで顔を上げるがもちろん龍臣にあずみの姿は見えない。
そこに居るはずのあずみを見つめる。
しかし気配は感じても、龍臣にはソファーしか見えないのだ。
失踪については知らなくても、他に何か情報はもっていないだろうか。

「本当にあずみは修也の両親について何も知らないのか? 例えば母親が失踪する前の様子とか父親の病気のこととか、些細なことでもいいから何か思い出せないか?」

少しでも何か知っていることはないかと、再度問いただす。あずみから何も知らないと言われたのに、なぜか違和感が残るのだ。
嘘を言っているわけではないだろうが、それ真実の様にも感じられない。
龍臣もなぜそう思うのかわからなかったが、たぶん最近あずみの様子が少しおかしい気がしているせいもあるだろう。

「だからー、知らないってば。私は何も知らない。だってこの記憶堂から出られないんだもの。そうでしょう? 外の事なんてなにもわからないわ」

怒った様子も悲しんだ様子もなく、淡々とあずみは言った。
あぁ、そうだった。あずみはこの記憶堂に住み着く幽霊。
店の外に出るところを見たことがない。いつも夕方に現れ、夜、龍臣が帰る頃に二階へ消えていく。
そして、あれ? と龍臣はふと窓の外を見た。
加賀先生が来たのは昼前、今はまだ夕方にもなっていない。夏の日差しが一番きつい時間帯のはずだ。

「……あずみ?」
「なぁに?」

龍臣の座る太ももに手を置かれたのか、触れられた感触がする。手はもちろん見えない。
龍臣はあずみの手があるであろう場所を見つめる。

「あずみ……、まだ夕方になっていないぞ?」

ボソッと呟いた龍臣の言葉にあずみは首を傾げた。

「そうね」

ただそう一言頷いて、あずみの気配が消えたのだった。





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