記憶堂書店

佐倉ミズキ

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一章

お爺さん 中編

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――――――

龍臣が目を開けると、そこは瓦作りの古い住宅の裏手にある川の側。
整備が不十分で、街の雰囲気も一昔の様相だが、なんとなく見覚えがあるような気がした。
よくよく周りを見渡すとそこが同じ町の三丁目付近だということに気が付く。
龍臣の店から歩くと20分ほど離れた場所である。
川の周りは今のように石畳作りの転落防止の安全策は整っておらず、土手作りである。
そして、その土手の脇には今も昔も変わらない桜並木がそこに並んでいた。
この記憶の場所は、桜が満開の春のようで、空からはピンクの花びらが羽のように舞っていた。
そのあまりの美しさに思わず感嘆の声が漏れる。

「美しいですね」

隣でそう声がし、振り返るとお爺さんが同じように桜を眺めていた。桜に見とれており、案内人なのに一瞬お爺さんの存在を忘れてしまっていた。

「ああ、店主さん。申し遅れましたな。私は、鏑木と申します」

鏑木は被っていた帽子をちょこんと上にあげ微笑んで挨拶した。何ともスマートで紳士らしい挨拶の仕方に、龍臣の頬が緩む。

「僕は……」

龍臣が名乗ろうとすると、鏑木は微笑みながら軽く手でそれを制した。

「結構ですよ。あなたは記憶堂の店主さんですから」

身元はわかっているのだからということであろうか。それ以上の紹介は必要なさそうであった。
龍臣も頷き、桜を見上げる。

「鏑木さんが戻りたかった記憶の場所はここですか?」
「ええ。そうです。ほら、あそこ」

鏑木が指を指した方を見ると、前から一人の男性が本を読みながら歩いてきた。
見たところ、20代半ばでスーツを着た精悍な青年。眼鏡をかけてさっぱりと髪が短く清潔感はある。どことなくお金持ちのお坊ちゃんという感じだ。
よく見ると見覚えのある顔で、それは若いころの鏑木だと気がついた。
仕事の帰りだろか。少し疲れた表情をしていた。

「あの頃は大学の研究室で助手として働いていました。まだ思うように自分の仕事が出来なかった頃です」
「もしかして今は大学の教授をなさっておられるのですか?」
「いえ。もう引退しました」

引退したということは教授をしていたことは事実だろう。鏑木の雰囲気から、教授だったと聞いても納得がいってしまう。
前から歩いてくる、鏑木青年はもちろん龍臣たちには気が付かず通り過ぎる。
それを目線で追い、振り返ると後ろの桜の木の下で女性が蹲っていた。
鏑木青年はそれに気が付き、本から顔を上げる。
そして、蹲る女性に慌てたように駆け寄った。

「どうしました。大丈夫ですか?」

オロオロと声をかけると女性は青白い顔を上げて弱弱しく頷いた。

「大丈夫です」

か細い声で答えるが、どうみても大丈夫ではない。
鏑木青年はますますうろたえた。
女性はブラウスにスカートという服装で、決してみすぼらしい感じはない。身なりはきちんとしているが、しかし生地はどこか安そうで使い古した感じがある。鏑木青年ほど裕福ではないのだろう。
蹲る女性の周りには誰もおらず一人で苦しそうにしている。後ろでハーフアップした長い髪が前へサラリと垂れてくる。

「体調が悪そうだ。今医者を呼んでくるから」

鏑木青年がそう言って立ち上がろうとすると、女性はグイッと強い力で袖をつかんで引き戻した。

「大丈夫ですから。少し眩暈を起こしただけ。休めばよくなります」

そうは言うが、顔は真っ青で血の気がない。どこか苦しそうで息も荒かった。
休めば良くなるという風にはどうしても見られず、鏑木青年は困惑する。大丈夫だというのだから良いかとも思うが、それにしても見捨てるにはあまりにも酷く、かわいそうだ。

「では、僕の家がすぐそこなので少し休んで行ったらいい。僕は鏑木と言う。ああ、家には母やばあやなど女性もいるから心配はいらないよ。誓って、危害は加えないから」

そう心配した鏑木青年に言われ、女性は一度断る。
しかし、目の前で苦しむ女性を見捨てるわけにはいかない。ましてや、夕方だが暗くなり始めているこの時間にこんな人通りが少ないこんな場所で女性をひとりに出来なかった。
大丈夫だと言い張る女性を何度も説得し、最後にはほぼ強引に女性を支えながら鏑木家へと歩いて行った。
その背中を後ろから龍臣と鏑木が見守る。
隣の鏑木に「もしかしてあの女性は……」と聞くと、大きく頷かれた。

「妻です」

なるほどと思う。そういえば、先日店先で初めて会ったとき桜の花びらを見ながら、妻と初めて会った時を思い出すと話していた。
それがこの場面なのであろう。
しかし、記憶の本はその人の一番やり直したい、もう一つの人生を見たいと願う場所時に連れていく。
妻と出会ったこの場所、瞬間を強く願っていたということは鏑木が一番後悔し、願う場所であるということだ。

「ここが鏑木さんが見たい、もう一の人生ですね?」

念押しの様に龍臣はそう尋ねると、隣にたたずむ鏑木は切なそうな表情で頷いた。

「ここです。この場所です。ねぇ、店主さん。この記憶は、もう一つの選ばなかった人生を視ることは出来てもそれを選んでやり直すことは出来ないんですよね?」
「はい。一度選んで来られた鏑木さんの人生は変えることは出来ません。過去は変えられないのです。しかし、こうしていたらどうなっていたかというもう一つの別の選択……、人生を視ることだけは出来ます」
「それは、そのもう一つの人生は並行したパラレルワールドで行われている人生だということなのでしょうか」

つまりは、ここで視たもう一つの人生は、この世界すなわちパラレルワールドでもう一つの自分の一生として進んでいるのかと言うことが聞きたいのであろう。
しかし、それについては龍臣は肯定も否定も出来なかった。
この世界がパラレルワールドで並行して進んでいるかどうか何て龍臣にはわからない。
このもう一つの世界が本当に存在するのかすらも。
だから、この記憶の本の世界がもう一つの自分が願った人生として送られているのかどうか。
それも案内人の龍臣もわからないし、知らないことなのだ。
龍臣は、この「もう一つの世界」は本の世界のように感じている。自分のやりなおしたいもう一つの選択肢が、自分の思うように進むよう願われた世界のようだと。
しかし、それも確かではない。
鏑木の言うように、パラレルワールドで、自分たちの世界と同じように進んでいる世界なのかもしれない。
ただ記憶の本を通じて案内するだけの龍臣にはわからないことだった。
わかることは、見ることは出来ても決して交わることがないということだけ。
だから鏑木の質問にも曖昧にしか笑えなかった。

「ここが鏑木さんが見たい場所なら視ることは出来ます。それを視て、さらに後悔するか気持ちが軽くなるかはわかりません」
「ええ。構いません。私の辿ってきた人生が変えられないのなら、どっちにしろ事態は同じなのでしょう。……店主さんは、私がこの場所を選んだ理由をご存じなのでしょうか?」
「なんとなくですが。一応、私は案内人ですから」

そう答えると、満足げに頷いた。

「なら話は早い。私にもう一つの人生を視せてください」
「……よろしいのですか?」
「構いません」

龍臣は一瞬躊躇した。
鏑木がこの場所を選んだ理由は知っている。だからこそ、もう一つの人生を視ることは残酷なことになってしまうのだ。
鏑木が見たいもの。
それは鏑木青年が女性を助けない、というものだった。
それを見せてよいものか。
迷いが生まれるが、目の前の鏑木は真っ直ぐ龍臣を見つめ、無言の視線で先を促す。
それが鏑木が望んだもう一つの選択肢。
それなら仕方ない。
そう思い、軽く息を吐く。

「わかりました。――では、どうぞ」




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