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一章
女子高生 後編
しおりを挟む龍臣の声が頭の中に響くように聞こえ、すぐに一瞬視界が揺らいだ。
立ちくらみの様な眩暈を感じ、目を閉じてからゆっくりと開ける。
そして、再び景色がはっきりすると幼い自分の声が聞こえた。
「あ、大ちゃん。お父さんが帰って来たよ」
「本当だー」
これはさっきの場面だ。
少し前の時に戻ったということか。
震える手を抑え、二人をじっと見つめている。すると弟が走りだした。走って、止まることなく公園を抜け出そうとしていた。
えっ!? このままではまた弟は横断歩道に出てしまう。また事故に会ってしまうではないか!?
あかりは動揺した。どうして! 何も変わらないの?
そう思って声をあげそうになった時だった。
「走っちゃダメだよ、大ちゃん」
弟が公園を出る直前。幼い自分が腰に手を当て、後ろから大きな声を出して弟を叱っている。その姿はまるで母の様で。いや、母の真似をしているのだろう。
弟は声をかけてきた姉を振り返って、公園を出る前に足を止めた。幼いあかりは弟に近づいて頬を膨らます。
「いつもお母さんが言っているでしょ。飛び出しちゃダメだよって」
「はぁい」
大樹はしょぼくれて、差し出された姉の手を取った。
そして、手をつなぎ歩きながら二人は公園を出て行った。
その姿を見送り、あかりは泣きながら膝をつく。
事故が起こるような音は一つも聞こえてこない。
あの、決して耳から消えることはなかった車のブレーキ音と鈍いぶつかる音はいつまでたっても聞こえてこなかった。
代わりに、しばらくすると父と楽しげに手をつなぐ幼い姉弟が公園を横切って行った。
あぁ、事故は起きなかった。
やはり、あの時自分が転ばなければあんなことにはならなかったのだ。
やはり、あれは自分のせいだ。そんな強い後悔と、もうひとつの世界では弟が無事だったことへの安堵と、複雑な気持ちで声をあげて泣いた。
ひとしきり泣くと、足元に影が落ちた。
「これがもう一つの人生です」
「弟は、事故には合わないんですね」
たくさん泣いたからだろうか、少しすっきりした気持ちになり笑顔の弟に嬉しさが込み上げてきた。
この世界では弟は安全だった。それが嬉しかった。
しかし、龍臣は曖昧に微笑んで、肯定も否定もしなかった。
「僕たちが見られるのはここまでです。どうでしたか?」
龍臣の言葉にあかりは立ち上がり、公園を見つめた。
「過去は変えられないのなら、戻っても何も変わらないんですよね」
その言葉はまるで念押しするかのそうだ。
龍臣は深く頷いた。
「ええ。事態は何一つ変わっていません」
「そうですよね……。でもね、店長さん。私はホッとしました。もう一つの世界の人生を視ることができて、弟がこの世界では無事だと知ってなんだか不思議だけど安心したんです」
「そうですか」
「私のいる世界では何も変わっていなくても、もうひとつの世界で弟は無事でいるとわかったからでしょうか」
あかりは泣きはらした、しかしどこかすっきりした表情で龍臣に笑顔を向けた。
その顔には来た時のような暗い影はほとんどない。
「そうかもしれませんね」
「私、後悔は一生します。悔やみます。自分を恨みます。でも、少し気持ちが軽くなるくらいは神様も許してくれますよね」
「ええ。神様どころか、弟さんも許していると思いますよ」
龍臣の言葉にあかりは嬉しそうににっこりとほほ笑んだ。
「では帰りましょうか」
「はい」
龍臣がそう告げると、あかりは目の前が白くなり、意識を飛ばした――――……
「大丈夫ですか?」
突然聞こえた声にあかりはハッとして顔を上げた。あたりを見渡すとそこは先ほど訪れた書店だった。
そして、声の方を見るとカウンターから店主と思われる男性が気づかわしげにこちらを見ていた。
「あれ?私……」
「寝てしまっていたようですね。気分でも悪いですか?」
龍臣の問いかけに顔が赤くなる。
そうか、どうやらここで眠ってしまったようだとあかりは思った。
長く寝てしまったのかと腕時計を見ると、訪れてからまだ10分程度しかたっておらずホッとした。
そして、眠ったからなのか妙に気持ちが軽くなっていた。
「いえ、むしろなんだかすっきりしています」
あかりの返事に龍臣はにっこりとほほ笑んだ。
「そうですか」
しかし、あかりは不思議そうに首を傾げた。その表情はどこか困惑しているかのようだ。
そして、恐る恐る龍臣に聞いた。
「あの……、私どうしてここで眠っていたんでしたっけ?」
何も覚えていない様子のあかりに龍臣は何事もないように返事をした。
「本を探していると言って来店されたんですよ。私が探している間に待ちくたびれて眠ってしまわれたようです」
「あ、そうでしたか! 恥ずかしい! すみませんでした」
あかりは真っ赤になって立ち上がった。
赤くなった理由は二つあった。眠ってしまった恥ずかしさと、何となく本を探しに来たところまでは覚えていたが、何の本かは思い出せないということだ。
でも思い出せなくても気分は良かった。
すると、ガラッと店の扉が開いた。
音の方を見ると学ランを着た中学生くらいのひとりの男の子が入ってきた。
「すみません。ここに姉が来ていませんか」
その声にあかりが驚く。
「大ちゃん!」
大ちゃん――、そう呼ばれた弟の大樹は姉の姿を見ると呆れたようにため息をついた。
「姉ちゃん居た。全くここで何しているんだよ。ほら帰ろう」
「ごめん。でもよくここがわかったね」
「なんとなくね」
あかりは笑顔で弟の大樹に近づく。そして、あっと振り返った。
「あの、店長さん」
「はい。なんでしょう」
「あの、私何の本を探しているか忘れてしまって」
「構いませんよ。お気を付けてお帰り下さい」
あかりが恥ずかしそうに頭を下げて出ていくと、弟の大樹はチラッと龍臣を振り返った。
目が合うと大樹は穏やかな笑顔を見せる。
「お世話になりました」
意味ありげに言葉を強調すると、龍臣は苦笑した。軽く手を上げると大樹は一礼して姉とともに店を出て行ったのだ。
「ねぇ、龍臣君。あの男の子ってさ……」
修也が二階から降りてきて入口を見ながら聞いてきた。
龍臣は大きく身体を伸ばしながら頷く。
「あぁ一週間前に来た子だよ」
「やっぱり。見たことがあると思っていたんだ」
弟もイケメンだなー、と呟いている。
記憶堂の記憶の本は、不思議なことに目覚めると消えてしまう。
そう、まるで雲のように、霧のように消えてなくなってしまうのだ。
そして、当の本人はというと――。
自分の身に起きたことを覚えていない人と、大樹のように覚えている人と二通りに分かれる。
あかりは前者で、記憶の本のことやもうひとつの視た人生のことは何一つ覚えていなかった。ただどこか気持ちがスッキリと軽くなっただけであろう。
そして、弟の大樹は後者で全て覚えていた。
大樹は一週間前にここ記憶堂を訪れていた。大樹の記憶の本が現れたためだ。
彼もやはり、あの事故の時を視たいと。
そして大樹もあの日の公園へ行き、もうひとつの事故のない人生を視ることになる。
あかりと同じように、その日、姉に引き止められた大樹は事故に会うことなく無事に父と家へ帰って行ったのだ。
しかし、大樹の本にはさらに続きがあった。
大樹はもうひとつの人生でも、数日後に事故に合っていたのだ。しかも同じあの横断歩道で。
学校の帰り道、ひとりで帰宅中の大樹はあの横断歩道で居眠り運転に突っ込まれてしまう。そして救急車に運ばれて行った。
そこまでを視ることが出来たのだ。
さぞかしショックだろうと大樹を見るが、彼は取り乱すことなく、淡々と冷静にそれを受け止めているようだった。
彼には事故より大切なことがあったからだ。
「この場に姉はいなかったんですよね」
そう。ただひとつ気にしていたこと。それは、姉が側にいたかどうかだった。
もう一つの世界での事故の時、姉は側にいなかった。
それを知って、彼は大きくため息をついた。
「もうひとつの人生まで姉を苦しめたくなかった」
大樹は安堵の笑みで龍臣に言ったのだ。
「僕はあの事故で右足を失います。今、膝下は義足なんですよ。でも、それはこのもうひとつの世界の人生でも同じだった。どの道、僕が足を失うのは決められた運命なんですね」
と寂しそうに微笑む。しかし、顔を上げてホッとしたように息を吐いた。
「でももうひとつの人生での事故は姉が側にいて起きたことではなかった。安心しました。こちらの世界では姉が後悔と懺悔で苦しむことはない」
そう言うと大樹は晴れ晴れとした笑顔を見せた。
彼も彼なりに姉を苦しめていたことに悩んでいたのだろう。
「店長さん。過去は変えられない。でも、もうひとつの世界では姉は自分を責めず、苦しまず幸せみたいです。それを知れただけで僕はホッとしました」
大人びた表情で、そう言ったのだ。
きっと大樹は姉がいずれ自分と同じようにこの世界へ来ることを予想していたのだろう。
そして、迎えに来た時に姉のすっきりした顔を見て安堵したのだ。
「あんなに若いのにもうひとつの人生を視たいなんて。これから先の人生、もっといろいろあるのにね」
いつの間にか隣に来ていたあずみはそう呟く。龍臣はそこにいるであろうあずみの場所を見つめた。
「あずみがそれを言うか?」
「どういうこと」
「あずみだって見方を変えれば地縛霊だぞ。地縛霊が人生を語るのか」
龍臣が苦笑すると、あずみが頬を膨らませた。
「何よそれー!違うもん、私はこの店の守り幽霊だもん」
「なんだ、守り幽霊って。座敷童か」
龍臣にからかわれ、あずみはさらに頬を膨らませる。地縛霊とからかわれて臍をまげたのだろう。
ぷりぷりと怒ったあずみの気配が遠ざかり、階段がぎしぎしと大きな音を鳴らすのが聞こえた。
拗ねて二階へ戻ったのだろう。
龍臣は怒ったあずみの姿を想像する。あずみの顔かたちや姿は修也から細かく聞いていた。
きっと白い滑らかな頬をハムスターのように膨らまし、ムッとした顔をしていたのだろう。
見えなくても手にとるようにその様子がよくわかる。
そして、その想像した姿にぷっと吹き出すと「龍臣のバカ」と二階から本が降ってきた。
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