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第一章 マッチングアプリ

第三話

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 ぱたん、と軽い音を立てて事務所の扉が閉まる。
 沙也加がのろのろと階段を下りていく音を確かめて、多季は大仰に息を吐いた。張り詰めていた事務所内の空気が少しだけ和らいで、ようやく深く息が吸えるような気がした。
 しかし、客が帰ったからといって安心するわけにはいかなかった。なにせ、問題の元凶は今この場所にあるのだ。

「嵐丸、これどうするんだ?」

 多季が指さしたのは、もちろん先ほど沙也加から預かったネックレスだ。
 相変わらず真っ黒な呪詛をまき散らして、赤い石はそこにあった。

「相田さんの手前、『浄化』とか言っちゃったけど、そんなんで何とかなる代物なわけ?」
「浄化や言うたのは多季やろ。やってみんと分からんけど、石に傷つけんで祓うんは無理とちゃうかな」
「まじか……」

 嵐丸の言葉に多季は思わず天井を仰いだ。
 沙也加の手前、「浄化」なんて柔らかい言葉を使ったが、多季とて薄々は感じていたのだ。しかし、その道の玄人である嵐丸なら呪詛だけを祓う方法も何か知っているかもしれないと一縷の望みを持っていた。
 けれども、その嵐丸が「無理」と言う。

「これってネックレスを傷つけた場合、損害賠償とか……」
「あほくさ。何の契約もしてへんから、大丈夫と違う?」

 取り乱す多季に呆れたように言いながら、嵐丸がボトムのポケットから一枚の紙を取り出した。墨で書かれた文字は多季には理解できないが、それはこれまでも何度も見たことのある封印の符だ。

「駄目やと思うけど、一応やってみるか?」

 何を、と聞く間もなく嵐丸は符を左手に持ったまま、右手でネックレスを掴んだ。
 その瞬間、嵐丸の右手から紫の炎が立ち昇る。その炎はネックレスを包みこむように広がり、呪詛を燃やし尽くそうとする。
 息を呑むほど美しいこの紫炎は嵐丸が操る、浄化の炎だった。

「うわっ」

 燃やすなら燃やすって言ってくれよ、と言いながら、多季は慌ててデスクに置かれている灰皿を取った。
 多季も嵐丸も煙草は吸わない。けれども、この事務所には灰皿が至る所に常備してあった。こうして、嵐丸が所構わず色んな場所で色んなものを燃やそうとするからだ。炎は決して嵐丸が望んだ物以外を焼くことはないが、それでも燃え落ちた灰や煤が周囲を汚すことに変わりはない。宝石が燃えて灰や煤になることはないかとも思ったが、それでも何か受けるものがあった方がいいと思ったのだ。
 ちなみに、この雑居ビルはぼろすぎてスプリンクラーは何の反応もしないので、上から水が降ってくる心配はない。
 数分間、ネックレスを燃やそうと試みていた嵐丸だったが、黒い呪詛は燃え尽きることはなかった。それどころかさらに濃く、重たくなって嵐丸の手に纏わりつこうとする。

「ダメや」

 そう言って嵐丸はネックレスを多季が差し出した灰皿に放り込んだ。安い陶器の灰皿の上に、軽い音を立ててネックレスが落ちる。

「ダメかぁ」
「ダメやな。もっとちゃんとした手順踏んで燃やさんと燃えん」
「それってけっこうやばいってことじゃん」
「やばいで。あの姉ちゃん、ようこんなん着けて無事でおったわ」

 呪詛を振り払うように嵐丸が手を振った。その手のひらはネックレスを握っていた部分だけが汚れたように黒くなっていた。

「お前の炎でも燃やせないのか」
「呪いが強すぎる。この姿のままじゃ無理やな」

 嵐丸の炎は大抵の怨霊や呪物に対して効果があり、汚れを祓い、清めることが出来た。しかし、それが効かないと彼は言う。

「多季もやってみる?」
「俺が祓おうとしたら、もう完璧にその石割れるだろ」

 だから絶対ダメ、と言えば、嵐丸が符でネックレスを包みながらけらけらと笑う。
 そのまま何やら呪文を唱えて、印を結べば簡易の封印の出来上がりだ。それをデスクの引き出しに適当に仕舞って、鍵をかける。これがすぐに祓うことの出来ないものを依頼されたときの神楽宮陰陽探偵事務所の一時保管方法だった。

「まあ、とりあえずこれでいいとは思うけど、週末にでも本家帰って、しっかり調べてから燃やさんとまずいやろな」
「週末か」
「それまで持たんかもしれへんけど」

 そのときはそのときやろ、と言う嵐丸に多季は眉根を寄せた。
 嵐丸が言う持たない、というのは彼が先ほど施した封印のことだろう。どうやら、あの呪いはそうとう質が悪いらしく、嵐丸の封印でも数日持つかどうか微妙だという。
 万が一ネックレスから漏れ出す呪詛が封印を破れば、多季と嵐丸はあのネックレスを本格的に祓わなければいけなくなる。それはつまり、力技。ネックレスを多季が物理的に破壊するということだった。
 今は火曜日。金曜日の夜に大学の講義を終えて帰ったとして、それでも三日ほど耐えなければいけないことになる。

 あの周囲を全て黒に染め上げるような呪いをどこまで抑えられるものなのだろうか。
 陰陽術に対しては素人同然の多季では判断がつかなかったが、その道の玄人である嵐丸が微妙というのだから本当にギリギリなのだろう。
 壊したときの沙也加の反応や損害賠償を考えると今から頭が痛かった。

「移動の新幹線の中で爆発せんといいな」
「怖いこと言うなよ」

 他人事のように言う嵐丸に、多季は頭を抱えた。
 嵐丸の生家である神楽宮本家は京都の山奥にあった。
 平安時代より続く陰陽師の家系で、かの高名な陰陽師安倍晴明の血族であるという。
 時代の主流が貴族から武家へと変わり、政のために占いや星読みを行う陰陽師という存在が減っても彼らは確かに存在していた。安倍家から土御門家へと名前を変えその役割が形骸化しても、土御門家の陰である神楽宮家は陰陽師として連綿とその血を継いできたのだ。

 嵐丸は神楽宮家の嫡子で次期跡取りとして育てられ、故に陰陽道においては右に出る者がいないほどの実力者だ。
 関東から京都までは新幹線で二時間と少し。
 その間に封印が破かれないことを願うしかない、と嵐丸は笑う。

「爆発したら周りに広がる前に多季が壊してや」

 嵐丸の言葉に大きく嘆息して、しかしその場合は確かに自分がやらなければいけないだろうな、と多季は思う。同時に、願わくば無事に京都まで封印が持ちますように、と強く祈った。


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