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2巻

2-3

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 ユーリスは魔法局で自分を助けてくれた若い魔法使いを思う。彼は確かにアデルの味方だと言った。それはきっと間違いないことだ。
 けれど、彼は何かを隠している。ユーリスはそう確信していた。

「……ライナルト様に、話を聞くべきではないでしょうか」
「ライナルトを疑っているのか?」

 迷う素振りを見せて、ようやく口を開いたユーリスの言葉に、アロイスは驚いたようだった。

「今日会ったオメガの少年が、真実薬は偽物だったのだと言っていました。薬を用意したのはライナルト様ですよね」
「それはそうだが。あれは俺とルードヴィヒの立ち合いのもと作られている。偽物である可能性は限りなく低いはずだ。それにライナルトがリリエルをおとしいれる理由はない」
「私もあの方はそんなことをする方ではないと思います。けれど、私たちが知らないことを何か知っておられるような気がするのです」
「知らないこと?」
「はい。私は魔獣が凶暴化し襲ってくる直前に、森の中でライナルト様をお見かけしました。そこで何をしていたかも聞きました」
「何をしていたと言っていた」
「調べものをしていたと……」

 何を、とは教えてくれなかった。そう告げるとアロイスはさらに眉根を寄せた。
 疑いたくはない、そう物語る青い瞳は、しかし同時に冷静でもあった。アデルは泣きそうな顔をしている。

「ライナルトが俺を狙ったってこと?」
「それは絶対に違います。けれど、だからこそ話を聞かなくてはいけない」

 ユーリスが言うと、アロイスが頷いた。彼は決断したらしい。

「俺たちは一度間違った。何があっても信じなきゃいけない相手を疑った。だから、次は間違わない」

 そう言ったアロイスはアデルを見た。緑色の瞳が揺れる。しかし、彼も決めたのだろう。力強く頷いて、歩き出した。


   ***


 ――アロイス・シュヴァルツリヒトが呼んでいる。
 ライナルトが自らに与えられた作業室で魔法薬の分析を行っていると、同僚に声をかけられた。内容を聞くと、同僚も知らないと言う。ただシュヴァルツリヒト卿がものすごく怖い顔をしてお前を呼んでいる、と怯えたように言われて小さく笑ってしまった。
 アロイスが険しい顔をしているのは、いつものことだ。黙っていれば整っているのに、常に眉間に皺を寄せているからみんな怖がって逃げていく。そう話していたのは誰だったろうか。
 呼び出されたのは玻璃宮はりきゅうの裏にある雑木林。そこで待っているからさっさと来い。アロイスはそう言っていた、と同僚は言った。
 その場所を聞いて、ライナルトはアロイスが自分を呼び出した理由がなんとなく分かった。
 とうとうばれたか、という諦めと、それとも本人から聞いたのかな、という微かな期待。そのふたつを抱えて、ライナルトはアロイスの元へ向かった。ひょっとしたらぼこぼこに殴られて戻ってこられないかも、と言付けを伝えてくれた同僚に告げると、同僚は可哀そうなくらい震えていた。もしかしたら彼は昔、アロイスにいじめられでもしたのかもしれない。

「で、何?」

 緑の中に佇む黒髪の男にライナルトは言った。
 雑木林は初夏の日差しを受けて成長した木々が、瑞々みずみずしく生い茂っていた。若葉の間から零れ落ちる木漏れ日が、男――アロイス・シュヴァルツリヒトをいろどっている。

「単刀直入に言うぞ。お前、何か俺たちに隠していることはないか?」
「いきなり呼び出しといて、ホント何?」

 険しい顔でこちらを睨みつけるアロイスは、同僚の言った通りたいそうおっかない顔をしていた。けれど、ライナルトには見慣れすぎていて、ちっとも恐ろしくはなかった。それよりも、彼の背後――少し離れた木の影が気になった。一見なんの変哲もない影なのに、よくよく見ると時折、陽炎かげろうのように揺らめいているのだ。

「アデル?」
「あ、ばれたか」

 名前を呼ぶと、答える声があった。途端、魔力の気配がして、何故か母校の制服を着たアデル・ヴァイツェンが姿を現した。隣には同じように制服姿のユーリス・ヨルク・ローゼンシュタインもいる。そのふたりの奇妙な格好に首を傾げるが、相手はアデルである。大方、いつもの無鉄砲ぶりを発揮して、自らの教育係を良からぬことに巻き込んだのだろう。

「何、その格好」
「これには、深い事情が色々とありまして……」

 ライナルトが訊ねると、消え入りそうな声でユーリスが言った。
 儚い容姿の佳人は、黒いローブを目深に被り直して、少しだけ頬を染める。そのひどく恥じらう様子を見て、あの人も大変だな、と他人事のように思った。前々から感じていたが、ユーリスは本当によくアデルの無茶に付き合っている。
 アデルとアロイス。それからユーリス。
 この三人が自分を呼び出す理由なんて決まっている。とうとうばれたのか、と身構えるが、アロイスはただ、何か隠していることはないか、と訊ねるばかりだった。
 あるに決まっている。それを分かっているから、彼らだって自分を呼び出したんだろうに。
 いつになく大人しいアデルを見て、ライナルトは小さく息を吐く。彼らが知ってしまったのならば、ライナルトに選択肢はなかった。
 あの冬の日の午後。古ぼけた魔法薬調剤室でのことを思い出す。
 薬草を煮詰めた独特の匂いと、大釜が置かれた暖炉でたきぎぜる小さな音。
 馴染んだあの部屋でライナルトが「彼」の願いを聞き入れたあのとき、ふたつだけ決めたことがあった。
 ひとつめは、何があっても絶対に彼の味方でいようということ。それから、もうひとつは――

「隠してることって?」
「とぼけるな。お前、俺たちが知らないことを何か知っているんだろう」
「知らないこと? なんの?」

 とぼけているわけではなかった。ただ、彼らが何をどこまで知ったのかを知りたくて、聞いているだけだ。しかし、それをどう捉えたのか。アデルが真剣な目でライナルトを見つめた。

「ライナルト。ライナルトは狩猟大会のときなんで森の中にいたの? ユーリス先生が見かけたって言ってるんだけど、何をしてたの? それに、それにさ……」

 言いよどんだアデルの声は震えていた。泣きそうなのか、それとも何かに怯えているのか。もしくは、信じていた相手に裏切られて、悲しんでいるのか。
 何を言っても言い訳にしかならないことが分かっているから、ライナルトはただ黙ってアデルの言葉を待つ。若葉よりも明るい色をした緑の瞳が揺れる。けれど、アデルは涙を零さなかった。

「学園で、ライナルトが用意してくれたあの真実薬は、あれは本物なの?」

 木々が揺れて葉擦れの音が鳴る。アデルの薄紅の髪を夏の風が掻き乱した。
 ライナルトがあの日決めたふたつめのこと。それは、彼らに訊ねられたら「彼」と交わした約束の全てを話すということだ。
 見慣れた青い瞳が、こちらを強く睨んでいる。ああ、やっぱり正直に話したら殴られそうだな、と思った。

「――あれは、偽物」
「は?」

 ライナルトの言葉にアロイスが目を見開いた。次の瞬間、ローブの首元を掴まれた。

「どういうことだ?」

 ぎりぎりと締め上げるように引き寄せられて、ライナルトは眉根を寄せる。実のところ、アロイスとライナルトでは、ライナルトの方が背が高い。しかし、今のアロイスにはそんなことは関係ないのか、力任せに掴んだ手は小さく震えていた。

「どうもこうも、あれは偽物だよ。作ったときは確かに真実薬だったのに、いつの間にかすり替えられてた」
「ど、どうして、誰が」

 アデルが混乱した様子で訊ねた。ライナルトの答えは予想通りだったろうに、彼は可哀そうなくらい取り乱している。

「誰がすり替えたのかは俺も知らない。調薬室に置いてたら、違うものになってた」
「お前は知ってたのか? 知ってて、何も言わなかったのか!?」
「……聞かれなかったからね」

 そう言うと、ローブを掴む力がさらに強まった。少しだけ息が苦しい。しかし手を緩めろと言う気にはなれなかった。

「なんでそんなことをした!? 気づいていたなら言えばよかっただろう! そうしたら、そうしたらリリエルは、あんな……」

 アロイスが声を荒らげた。その激しい怒りに、ライナルトは悲しくなる。だから言ったのに、と心の中で呟いて口を開いた。
 全てを話すと決めていた。だって、ライナルトにとってアロイスもアデルも大切な友人だから。

「頼まれたから」
「誰に!?」
「リリエルだよ」
「――は?」

 ライナルトの言葉にアロイスが絶句する。アデルも、さらにユーリスまでもが目を見開いてライナルトを見ていた。
 ライナルトは確かにあの日、すり替えられていた真実薬に気づいていた。もちろん、それをルードヴィヒに言って尋問の日を改めるつもりでいた。しかし、それを止めたのは他でもないリリエルだったのだ。


 リリエル・ザシャ・ヴァイスリヒトとライナルトは幼馴染だ。
 初めて出会ったのは五歳のとき。第一王子であったヴィルヘルムがオメガであると判明して、まだ幼いルードヴィヒが王太子になったとき、自分たち五人は引き合わされた。王太子と四大公爵家の息子たちは同い年で、ちょうどいい遊び相手だった。
 身体を動かすことが好きなゲオルグとルードヴィヒは、よく剣の稽古けいこをしていた。それになんでも器用にこなすアロイスも加わって、三人で転げ回っていたのを覚えている。王宮の庭園の片隅で本を読んでいるのは決まってライナルトとリリエルで、侍女たちからよくお菓子をもらっては分け合っていた。
 十二歳でリリエルがオメガだと判明して、自分たちの友情にも変化が訪れた。
 リリエルはルードヴィヒの婚約者となり、ぱったりと顔を合わせなくなった。王宮には参内しても、アルファの自分たちとは遊ばない。魔法学園に入学した後もよそよそしく、必要最低限の会話しか交わさなかった。
 しかし、そんな中でライナルトは一番リリエルと親しかったと思う。
 魔法薬学の授業がずっと一緒だったからだ。加えて四年生になって選んだ研究室も揃って魔法薬学。必然的に会話をして協力し合わなければ課題は終わらないし、狭い調薬室ではライナルトを避けることも出来ない。ライナルトにとって、一番話と気が合うのがリリエルだった。
 だからこそ、アデルが襲われ妙な嫌疑をかけられたリリエルを助けるために真実薬を作った。
 真実薬は製造する際に魔法局への申請が必要な上、魔法薬師の資格を持った魔法使いにしか作れない。学園にも魔法局にも数人しかいない魔法薬師の手を借りることは出来ず、ライナルトは自ら真実薬を作ることにした。貴重な材料をこれでもかと使い、気が遠くなるほど面倒くさい手順を踏まねばならない薬を作ろうと思ったのも、親友であるリリエルの潔白を証明するためだ。
 ――大切な友人アデルを襲うように指示したのが、親友リリエルのはずはない。
 ライナルト自身だってそう信じていた。
 あの頃、卒業に必要な単位を取り終えたリリエルは、学園に登校してはいなかった。だからたぶん、本当に偶然だったのだ。
 寒い冬の日。アデルを襲い謹慎中の生徒の尋問を行うために、ライナルトたち生徒会の役員は学園に集まっていた。真実薬は作ってからずっと調薬室に保管していた。しまっていたのは鍵のかかる棚で、他にも劇薬が収められていたから魔法でもしっかり封印がなされていた。
 しかし、何故かすり替えられていたのだ。小さな瓶の中に入った透明な液体は、見た目だけならば確かにライナルトが作った真実薬だった。しかし、匂いが違った。
 微かに漂う魔力の香り。独特の匂いはよく似せてあったけれど、間違いなく偽物だった。
 それに気づき、ルードヴィヒたちに報告しようとしたライナルトは、調薬室に入ってきた意外な人物に声をかけられた。それがリリエルだった。

「ライナルト? そんなに慌てて、どうしたんだ?」
「リリエル、なんでここに」

 もう、登校しないんじゃなかったのか、と問うと、リリエルは笑って本を返しに来たと言った。

「調薬室から借りてそのままにしていたらしい。もう卒業祝賀会まで登校しないから、今日返しに来たんだ」

 見慣れた制服をまとい、そう微笑む彼はいつも通りのリリエルだった。肩のあたりで切り揃えられた銀髪も澄んだ紫の瞳も、穏やかな声音も何もかもがいつものリリエルで、ひょっとして、彼は自分がアデルの強姦未遂の教唆きょうさを疑われているとは知らないのかもしれない。そう思ってしまうくらい平静だった。

「それ、真実薬か? ああ、今日が尋問の日だったのか」

 ライナルトが握りしめていた小瓶に目を留めたらしい。少しだけ眉尻を下げてリリエルが言った。

「ああ、うん。そうなんだけど……」
「なんだけど?」
「今日は尋問出来ないかもしれない」
「なんでだい?」
「あー、えーっと、それがさ。なんか違うやつに変わってたんだよね」

 言葉を濁すライナルトに、リリエルは驚いた顔をする。

「変わっていた? すり替えられていたってことか?」
「そう。ここに鍵かけて入れてたんだけど」

 そう言って鍵のかかる棚を指すとリリエルは眉根を寄せた。その何かを考えるような視線に、ライナルトは居心地が悪くなる。

「ごめん、もっときちんと管理してればよかったんだけど。でもちゃんとした薬を用意して日を改めるから――」

 真実薬はリリエルの無実を証明するための薬だ。それを紛失したなんて、リリエルからすると当然こちらの怠慢たいまんを疑いたくなるだろう。しかし、リリエルが思案していたのはそんなことではなかったらしい。

「ライナルト」
「なに?」
「頼みがあるんだ」

 リリエルが顔を上げて、ライナルトを見た。ああ、嫌な予感がする。その目を見てライナルトはそう思った。
 思い返すとリリエルは、穏やかで優しい性格をしているけれど、昔からとても頑固な一面があった。小さい頃はそれで何度もアロイスと喧嘩をしていて、ひどいときは取っ組み合いにまで発展することもあった。けれど、リリエルが我を通すのは必ずアロイスが相手のときだけで、ライナルトとは今まで一度だって喧嘩をしたことはなかった。
 だから、まったくもって油断していたとも言える。しかし、その頑固な部分も間違いなくリリエルなのだ。

「……その真実薬をそのまま使ってくれないか」

 思いもしなかったリリエルの提案に、ライナルトは絶句する。そんなこと出来るわけがないだろう。そう言うと、リリエルは口の端だけを上げて笑う。

「そんなことしたら――」
「まぁ、謹慎中のアルファの思惑通り、僕が彼らを使ってアデル・ヴァイツェンを襲わせたってことになるだろうね」
「なるだろうねじゃないよ、そうなったらいくらヴァイスリヒト家の人間だってただじゃ済まない」
「分かってるよ」
「分かってないよ! リリエル、そんなことになったらルードヴィヒとの婚約が」
「だから、ちゃんと分かってるんだ!」

 突然荒らげられたリリエルの声にライナルトは息を呑んだ。
 リリエルは王太子の婚約者としていつだって生徒の模範であろうと心がけていた。廊下を走ることはもちろん、大きな声を上げることも決してなかったし、それどころか口を開けて笑っているところだって見たことはなかった。
 そんなリリエルが、小さいとはいえ声を荒らげたのだ。

「僕は僕に瑕疵かしをつけたいんだ。そうすれば、いくらなんでもルードヴィヒの婚約者ではいられないだろうから」
「どういうこと?」
「言葉通りの意味だよ。ルードヴィヒとの婚約を解消したい。でも僕たちの婚約は、国王と公爵の交わした契約だから、僕にはどうしようも出来ない」

 だから、強姦教唆きょうさの汚名を被ろうというのか。どうして、なんで。
 突然のリリエルの告白に、ライナルトはひどく混乱する。リリエルは、それほどまでにルードヴィヒのことが気に食わなかったのか。いや、彼らふたりは間違いなく仲が良かった。けれど、そこにあるのは、誰がどう見ても――
 ライナルトを見て、リリエルが苦笑する。動揺が全て顔に出てしまっていたらしい。

「ルードヴィヒのことが嫌なわけじゃないよ。このまま何もなければ、ちゃんと『王太子妃』になる覚悟はあった」
「じゃあ、なんで」
「だって、ルードヴィヒはアデル・ヴァイツェンのことが好きだろう」

 リリエルに言い切られて、ライナルトは口をつぐむ。ルードヴィヒが特待生のアデルに恋をしているのは、学園中が知っている事実だったからだ。

「それで、アデル・ヴァイツェンだってルードヴィヒのことが好きだ。じゃあ、なんでルードヴィヒのことを愛しているわけでもない僕がルードヴィヒの婚約者なんだ?」

 それはとてもいびつなことだろう。
 そう言われて、ライナルトは返す言葉が見つからなかった。リリエルは確かに惹かれ合うふたりの間にいた。けれど、だからといって自分をないがしろにしていいはずがない。

「ふたりのために身を引くってこと? 強姦教唆きょうさの汚名を被ってまで?」

 リリエルの意図が理解出来ず訊ねると、リリエルはははっと乾いた笑いを零した。

「身を引くなんてたいそうなものじゃないよ」
「じゃあ、なんで」
「……自分のためだ。僕は、王太子妃にはなりたくない。昔からずっとそうだった」

 けれど、そう公爵が決めたから。王家と公爵家の間で交わされた婚約は、王国初のオメガとの婚約だった。

「少しでもこの国のためになればと思っていたけれど、でもやっぱり嫌なんだ」

 出来るはずもないと思っていた婚約解消が出来る可能性がある。だから、ライナルトに真実薬が偽物であることを黙っていてほしいとリリエルは願った。

「リリエルとの婚約が解消されたからといって、平民のアデルがルードヴィヒの婚約者になれるとは限らないんじゃない?」
「なれるだろう。アデル・ヴァイツェンの本当の価値をこの国が理解していたら、なんとしてでも国の中枢に縛り付けたいと思うはずだ。少なくとも父上なら彼をまともに扱う。そのためにも、王太子との婚約は悪い案じゃない。お互いに想い合っているしね」

 そう言ったリリエルはどこまでも静かだった。悲しいくらい穏やかで、暗い瞳をしている。彼はもう決めてしまったのだ。
 ライナルトにとってリリエルは友人だ。しかし、ルードヴィヒとアデルも同じくらい大切で、リリエルの望むことは自分たちの願っていた彼の未来とは正反対の位置にある。
 ――こんなときは、いったいどうしたらいいのだろうか。
 何が正しいのか。何を選べばいいのだろうか。少し迷ったライナルトであったが、素直に自分の心に従うことにした。
 生来、不真面目で怠惰たいだな性格をしている自分だが、こんなときに深く考えすぎないところが長所だと思った。

「――分かった」
「ライナルト!」
「リリエルの望み通り、俺はこれが偽物だとは言わない。リリエルに頼まれたとも自分からは言わない。でも、でもさ……」

 ライナルトの答えを聞いて、リリエルが喜色を浮かべる。
 今まで生きてきた十八年間で、たった一度だけ口にしたであろう彼のわがままを叶えてやりたくなったから。だから、ライナルトはリリエルの願いを受け入れた。
 しかし、リリエルの六年間の努力をライナルトは知っている。王太子妃となるべく勤勉に、品行方正に過ごしてきたリリエルは、間違いなく明確な目標があったはずだった。そして、そのことをきっと彼も知っている。だからこれだけは言っておきたかった。

「そんなことしたら、悲しむよ」

 ライナルトは誰が、とは言わなかった。そんなのリリエルが一番分かっているだろうから。
 悲しそうに笑うリリエルにそれ以上かける言葉もなくて、ライナルトは偽物の真実薬を持ってルードヴィヒたちの元に赴いた。
 このとき、ライナルトはふたつのことを決めた。
 ひとつめは自分で選んだこととはいえ、これから苦境に立たされるだろうリリエルのために、何があっても彼の味方でいようということ。真実を知るのが自分だけであった場合は特に。
 ふたつめは、幼馴染の誰かがリリエルの事件について調べ、ライナルトを問いただしたときは全てを話すということだ。きっとアロイスはリリエルを救うために、いつかライナルトの元に来るだろう。そんな確信があった。
 だから、そのときは自分が知る真実を包み隠さず伝えることを決めた。
 ライナルトにとっては、リリエルもアロイスもアデルもルードヴィヒも比べられないくらい大切な友人であったから。


   ***


 ライナルトの話を全て聞き終えたとき、アロイスは呆然としていた。その後ろ姿を見て、ユーリスはそっと息を吐く。
 彼はリリエルの無実を証明しようと必死になっていたとルードヴィヒから聞いていた。アロイスがそれほどまでにそそぎたかったリリエルの汚名が、誰あろう本人が望んだものであったとは。
 ユーリスにとってリリエルはとてもよい生徒であった。それは勤勉で真面目というだけではない。リリエル自身に、王太子妃に相応ふさわしい教養を身につけようという意欲があったからだ。
 だからこそユーリスは、彼はルードヴィヒのことを憎からず思っているのだと思っていた。けれど、リリエルはずっと王太子妃にはなりたくなかったという。
 では、どうして彼は長い間ずっと王太子妃になるべく努力を重ねてきたのだろうか。
 ライナルトはアロイスを無表情で見つめていた。

「これが、俺が真実薬が偽物だってのを黙ってた理由。それともうひとつは狩猟大会のとき、森にいた理由だっけ? それはユーリスにも前言ったけど、調べものをしてたからだよ」
「調べもの?」

 ライナルトの言葉にアデルが首を傾げる。それにライナルトは淡々と答えた。

「そう。俺はあの日、捕らえた魔獣を森の決められた位置に運ぶ係だったんだけど、搬入予定の魔獣を記したリストにはない魔獣が搬入されたのに気づいた。数が合わなかったからね。リストには責任者として父さんの名前があったから、なんかやな感じがするなと思って、そのリストにない魔獣が森のどこに配置されたのかを捜してた。まあ結果は、その魔獣を見つける前に騒動が起こったわけだけど」
「それを俺たちに黙っていた理由は?」
「父さんが疑われると俺も一緒に疑われちゃうでしょ。そしたら真実薬のことまで怪しまれるかもしれないから。まあ、でももうばれたからいいかなって思って」

 そう言って肩をすくめるライナルトは薄く笑って続ける。

「あの人のオメガ嫌いは有名で、今回の魔獣襲撃事件の標的はどう見てもアデルだ。魔獣の特性を考えれば、学園に保管されている魔力結晶を利用したんじゃないかって誰だって考える。アデルたちも、だからそんな格好してるんだろ?」
「そうだね」

 アデルが静かに答える。

「俺たちはさっき学園の魔力結晶を確認してきた。俺の結晶はなかったよ。だから、学園の保管庫に侵入出来る地位にある魔法局の誰かが怪しいと思ってる」
「そっか。じゃあ、あの人の立場はますます悪くなったってことだ」

 ライナルトが言うには、先の魔獣襲撃事件の責任を魔法局に問う声は多くあるという。
 その矢面やおもてに立っているのは、実務を総括している王宮魔法使い副長のフロイントであるが、組織のおさはブラウリヒト公爵である。その上、公爵のオメガ嫌いは有名で、それゆえ、彼の指示でアデル・ヴァイツェンを襲撃したのではないかという噂すらあるらしい。

「あと俺、玻璃宮はりきゅうで発情誘発剤が使われたときいなかったでしょ? あれもなんか怪しいじゃん。誰かがあの人に罪を着せようとしてるみたい。あの三つの事件が全部同じ犯人の計画だったらさ、もうめちゃくちゃ当てはまっちゃうんだよね」

 三つの事件の犯人像。言われて、ユーリスは頷いた。
 学園にも王宮にも影響を及ぼせる立場で、オメガ嫌いの魔法局の人物。確かに客観的に見れば、誰よりも怪しいことになるだろう。しかし、該当の人物の息子であるライナルトは首を横に振る。

「犯人はあの人じゃないよ。あの人が殺したいほど憎んでいるオメガはたったひとりで、それはアデルじゃない。たぶんアデルのことは面白い論文書くやつって思ってる」

 オメガ嫌いで有名なブラウリヒト公爵は、同時に魔法狂いとしてもよく知られていた。三度の飯より魔法が好き、というのはこれまた有名な話で、地位にも名声にも興味を抱かないと聞く。つまり、変わり者なのだ。

「ライナルト様はお父上の疑いを晴らしたいのですか?」
「疑いとかはどうでもいいんだけど、やってもないやつが捕まったら真犯人は野放しなわけじゃん。またアデルが狙われるのは嫌だから」
「ライナルト……!」

 泣きそうな顔をしていたアデルがようやく顔を上げた。

「リリエルのときは、あの馬鹿なアルファたちがやらかしたことだから、黒幕がどうのとか考えてなかった。でも、俺たちのせいでアデルがまた狙われたのかもしれない」

 だから、ごめん――
 そう言ってライナルトは頭を下げた。
 以前、ユーリスが訊ねたとき、ライナルトはアデルの味方だとはっきりと言い切った。けれど、それと同じくらいリリエルの味方でいたいと思っていて、だからこそリリエルの願いを叶えたという。友人を思う彼の純粋な気持ちを責めることなど、ユーリスには出来なかった。
 しかし、ライナルトが叶えたいと思ったたった一度のリリエルのわがままは、誰から向けられているか分からない悪意のせいで、とてもややこしいものになってしまった。そのことがひどく悲しくて、苦しい。
 ライナルトはそんな顔をしていた。

「リリエルがなんで婚約を解消したかったのかは、本人から直接聞いてよ。あと、会いに行くなら早くした方がいいよ。もうすぐリリエルはロウハンに向かうって言ってたから」
「ロウハンに?」

 ロウハンとは大陸のはるか東にある王国だ。シュテルンリヒトからは砂漠と大山脈を越えてようやく到着するような場所にある小さな国で、確か魔法とは違う技術が発展していると聞いたことがあった。今は、南にある友好国ハディールから出る船を利用する航路でも行くことが出来たはずだ。
 そんな果てしなく遠い国に、リリエルがどうして。
 そう問うたアデルにライナルトは「オメガだから」と一言だけ答えた。何を当たり前のことを聞くのか、彼の目はそう言っていた。
 ――オメガだから。
 その言葉が示すのは、たったひとつだ。この国でオメガの役割なんて子どもを産む以外にはないのだ。つまり、リリエルは世界の果てのような国に嫁入りするのだろう。

「ロウハンだなんて、なんでそんなところに」
「なんでって、リリエルがそう望んだから」

 リリエルの望み。
 王太子との婚約を解消し、ロウハンへ向かうこと。
 その真意はどこにあるのだろうか。
 ライナルトはおそらくそれも知っているのだろう。しかし、これ以上彼が語ることはなかった。
 彼は最後に「魔法局の動向には気を配ってて」とだけ告げて、きびすを返した。話すことは話した。面倒くさそうにそう言われてしまい、引き留めることは出来なかった。


 ライナルトの背中が緑の木々の間に消える頃、アデルはアロイスに向き直った。

「アロイス、リリエル様に会いに行こう」

 はっきりとした迷いのない口調。強い意志を感じる瞳を向けられたアロイスは、蒼白な顔をしてアデルを見つめ返した。

「リリエルに会う? ヴァイスリヒト家には何度も行った。けれど、あいつは誰にも会わないと」
「会う方法、真正面から行く以外にないの?」
「正面から以外……、つまり忍び込めと言いたいのか?」
「そうだよ。アロイスの家はリリエル様のお隣なんでしょ? こう、塀を越えたりしてさ」
「アデル様、それはさすがに」

 隣といっても、広大な敷地を持つ公爵家だ。当然、高い塀で囲まれていて、正門以外からの出入りは出来ないはずだ。使用人が使う通用口などはあるだろうが、それが直接公爵家同士を繋いでいるはずはない。
 そう思ったユーリスであったが、アロイスはしかし意外な言葉を口にした。

「方法が、あるにはあるが」
「あるのですか?」

 驚いたユーリスが訊ねると、アロイスは少し難しい顔をして頷いた。

「子どもの頃に使っていた俺とリリエルしか知らない抜け道がある。二次性が判明して以来一度も使っていないが、それをリリエルが塞いでいなければ使えるだろう」
「じゃあ! 会えるじゃん!」

 アデルが目を輝かせて言った。

「ロウハンに行く前に一回、絶対話を聞いた方がいいよ!」
「しかし――」
「もう二度と会えなくなってもいいの!?」

 ロウハンは遠い。とついでしまえば、彼はもう二度とシュテルンリヒトの地を踏むことはないだろう。

「俺たちも一緒に行くから、会いに行こう。どうしてリリエル様がルートとの婚約を解消したかったのか、きちんと聞かないと。俺だってすっきりしないし、アロイスだって……」


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