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番外編

とある王太子の運命 4

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 ――あまり関わらず、アデル・ヴァイツェンの力になるにはどうしたらいいのか。

 そんな頓智のようなことを必死に考えているうちに、数日が過ぎていた。
 その間、ルードヴィヒはいつもと同じように学園で授業を受け、王宮に帰ってからは家庭教師から帝王学を学んだ。時折、気晴らしという名目でゲオルグ相手に剣の鍛錬をして、アロイスやライナルトも巻き込んで一緒に課題をやる。休日は、公務や視察といった勉強とは関係のない王族として果たさなければいけない役割があった。

 十分に満ち足りた生活だと思う。
 むしろ、この年にしては忙しくて余計なことを悩んでいる暇はあまりないはずだった。
 それでも、やはり何をしていてもふとした瞬間に思い出すのは彼のことだった。

 アデルは学園の寮で生活をしている。
 街屋敷タウンハウスをもたない地方貴族の子弟のために建てられた寮ではあるが、アデルのような特待生も入寮することは出来た。
 寮はちょうど学園と王宮の中間あたりに位置している。ルードヴィヒの自室がある王宮の最奥からは、どれほど目を凝らしても屋根すら見えないが、それでも会える場所に彼がいるという事実はルードヴィヒを勇気づけた。

 そんなささやかな幸福を噛みしめながら、日々を過ごしていたルードヴィヒだったが、時間があれば学園の裏庭を散策することはやめなかった。
 あそこはアデルと初めて出会った場所で、それ以降も彼と会えるのは教室以外では裏庭しかなかった。教室では視線すら合わせてくれないアデルも、裏庭で会えば会釈くらいはしてくれるようになっていた。――それでも、さっさとその場を立ち去ってはしまうけれども。

 初夏を迎えた裏庭は緑で溢れていた。
 薬草たちを寒い冬でも栽培できるようにと設えられた温室も、今は硝子窓を開け放って風を入れている。
 温室よりさらに奥の方。もう少しで学園を囲む結界に届くのではと思うような、林の中に探し求める姿はあった。
 新緑の中にあって彼の薄紅の髪はよく映える。黒いローブを着た背中が、何かを見つめたまましゃがみ込んでいた。

「ヴァイツェン?」

 こんなところでどうしたんだ、とルードヴィヒはいつものように声をかけた。
 そうすれば、アデルはいつも飛び上がり一目散に逃げていく。今日も、きっとすぐ走り去ってしまうだろう。――と思っていたのだけれど。

「王太子殿下……」

 どこかぼんやりとした声だった。常に凛とした響きのあるアデルの声が、今日は力なく震えながらルードヴィヒのことを呼ぶ。そして逃げることなく、ただこちらを振り向いた。
 その顔を見て、ルードヴィヒは息を飲んだ。
 緑の瞳が揺れて、ルードヴィヒの姿を映す。アデルの途方に暮れたような表情をルードヴィヒは初めて見た。

 何があったのか、そう訊ねようとしてルードヴィヒはアデルに近づいた。
 そして、彼が呆然としている理由を理解する。しゃがみ込んだままアデルが見つめていたものが、ようやくルードヴィヒにも見えたのだ。

 それは燃えかすだった。黒焦げの紙とすっかり燃えて灰になってしまった「何か」。
 それが何だったのか訊ねる前に、白い灰の中にある燃え残った濃茶色の欠片が目に入った。灰と煤で汚れているが、それに印字されている文字には見覚えがあった。つい先ほどまで目にしていて、ルードヴィヒにも馴染みがあるものだった。

 あの濃茶のものは、表紙だ。紙ではなく補強された羊皮で作られた表紙は、燃えなかったのだろう。燃え残っているのは濃茶のものだけではなかった。他にも臙脂と深緑の羊皮が黒焦げになって、そこにあった。

 それは一年生が使う教科書だった。
 少なくとも三冊の教科書が燃やされてしまったらしい。それをアデルは呆然と眺めていた。

 かける言葉が見つからなくて、そっとその細い肩に手を置いた。アデルは逃げなかった。
逃げる余裕がないのだろう。何も考えられない様子のアデルを見て、ルードヴィヒはただ痛ましげに目を細めることしか出来なかった。

 ルードヴィヒは知っているのだ。
 アデルが裏庭で水に浸かっていた理由を。木に登り、土を掘っていたその理由を。
 それは教科書を取り戻すためだった。

 入学以来、アデルが一部の生徒から嫌がらせを受けていたことは知っていた。
 よくアデルが隠された私物を探して校内を回っていたからだ。だから、アデルはいつも一日で使う全ての教科書や物品を持って移動していた。

 移動教室のときも、食事をとるときも、いつも欠かさず大量の荷物を抱えていたのだ。
 それでもどうしても目を離してしまう一瞬があるのだろう。そのほんの僅かな隙を目ざとく見つけて、アデルの私物はなくなってしまう。

 ルードヴィヒは最初、失くした私物を探すのを手伝おうとした。もしくは、首謀者に一言言えば収まるのだと思っていた。けれどもアデルはルードヴィヒからの提案を全て断り、ひとりでなんとかするので構わないで欲しいと言って相手にもしてくれなかった。

 リリエルにああ言われたのは、ルードヴィヒがしつこくアデルに声をかけていたところを誰かに見られたからだろう。教室で声をかけるときも、可能な限り彼がひとりのときを狙っていたが、それでも人の目はどこにでもあるということだった。

 ルードヴィヒはアデルの前にある燃えかすを見た。
 教科書はすっかり燃えてしまって、紙の部分はほとんど残っていない。これまで、使える範囲の生活魔法で教科書の復元を手伝っていたけれど、これは無理だろうなと思った。

 正直な話をすれば、ここまで燃えてしまったものを復元する魔法がないわけではない。
 騎士団や魔法局に依頼すれば、復元することが出来る魔法使いがいるはずだ。しかし、彼らは嫌がらせで燃やされた教科書ごときを復元してくれるほど暇ではないのだ。

 彼らのその技術は隠蔽された機密文書の復元などを目的としているものだ。それは国のための魔法であって、いくらルードヴィヒであってもアデルのために頼むというのは不可能だった。

 つまり、灰を紙に戻すという魔法は、それほどまでに難しく高度なものだ。頼んだところで十中八九、新しいものを買えと言われてしまうだろう。

 ――しかし。

「ヴァイツェン、燃やされたのは何の教科書だ?」
「……魔法基礎技術と魔法学概論と初級魔法術式です」
「ああ」

 ルードヴィヒの問いにアデルが答えた。それらは全て今日あった授業の教科書である。
 しかし、そこで疑問が生まれる。アデルは隙を見せるとこうなることが分かっていた。だからこそ、教科書はずっと肌身離さず持っていたのだ。

「君はいつも、教科書は持って移動しているだろう。今日はどうして目を離したんだ?」
「教授に、よく分からないことで呼び出されて」

 聞けば、アデル自身も知らない用件で呼び出されたようだった。
 呼び出した教授はアデルから相談があると聞いており、そのために時間を取ったらしい。しかし、アデルにはそんな覚えもなく、結局授業の分からないところを軽く聞いただけで戻ったら教科書がなかったという。

 厳格な教授の元に大量の荷物を持っていくことを躊躇ったのがいけなかったのだ、と落ち込むアデルにルードヴィヒはひどく胸が痛んだ。

 アデルは教科書を燃やされたことに落ち込んではいるが、腹は立てていないのだ。
 それも本来であれば怒りをぶつけるべき燃やした相手に対する憤りはなく、ずっと油断した自分が悪いのだと言い続けている。教授からの呼び出しすら間違いなく教科書を燃やした者の仕業であるにもかかわらず、である。

 それはこんな出来事がアデルにとっては当たり前すぎて、いちいち腹を立てる必要もないほどありふれたものであるということを示していた。

「ヴァイツェン、新しい教科書のあてはあるのか?」
「ないですねぇ」

 これだって、兄さんがそうとう無理して用意してくれたのだ、と言ったアデルの横顔はひどいものだった。泣くのを必死に我慢して、唇を歪めたその表情が痛々しい。

「この教科書一冊で、孤児院で食べてる黒パンが三百個買えるんですよ」
「三百……」
「一食分だって満足に用意できないんだから、教科書を買う金なんてあるわけない」

 絞り出すようにアデルは言う。
 教科書は――書物は非常に高価なのだ。

 特に魔法について記された書物は、主に貴族が使用することから上質な紙や羊皮紙を使っており、その装丁も豪華なものが多い。学園で指定されている教科書は学生向けの簡素なものだけれど、それでも平民が何冊も用意するのはよほど余裕がなければ厳しいだろう。

 アデルの話しぶりから、育った孤児院は決して裕福とは言えないらしい。むしろ一食分のパンすら用意が難しい様子で、だからこそアデルは毎回必死で教科書や私物を守っていたのだ。

「ヴァイツェン……」

 このとき、ルードヴィヒは迷っていた。
 いくら高価なものとはいえ、数冊の教科書を手に入れるくらいルードヴィヒにとっては造作もないことだった。元々、無駄遣いをする質でもないため、専属の侍従にでも言づければすぐさま用意してくれるだろう。

 けれども、とこれまでのアデルの態度を思い出す。
 アデルはきっとルードヴィヒとは必要以上に関わり合いになりたくないはずだ。それにこれまで彼はどれほど困難な嫌がらせにあっても、一度もルードヴィヒに助けを求めなかった。何度も、何度もその現場に遭遇していたにもかかわらず、たったの一度もだ。

 だから、ルードヴィヒが勝手に手を出して手伝っていたのだ。それも彼があまり気にしないでいいように、ささやかな魔法だけを使って。
 アデルが助けを求めてきたのであればまだしも、それほどまでにひとりで強く立とうとしている相手に、こちらの同情で簡単に手を貸していいわけがない。

 けれども、手を貸さなければアデルにはきっと新しい教科書を用意することは出来ないだろう。
 逡巡は一瞬だった。やはり、この学園で勉強を続けていくには――それも、他の生徒と比べて魔法の習得が遅れているアデルには、教科書は必要不可欠のはずだ。
 そう思って口を開きかけたときだった。

「王太子殿下」

 強い口調で呼びかけられた。その声にルードヴィヒは慌てて唇を引き結んだ。
 アデルは燃え残った教科書の欠片を握りしめて、顔を上げる。強い色をした緑の瞳に、さきほどまでの弱さはなかった。

「今、何か言ったら俺怒りますからね。施しは結構です」

 はっきりと言われてしまってルードヴィヒは瞬いた。
 そして、同時に何故自分が躊躇っていたのかを理解した。

 ――施し。

 その一言に、自分がアデルにしようとしていたことを突きつけられた気がした。
 シュテルンリヒト王国には位高ければ、徳高きを要す、という概念がある。
 それは簡単に言えば持てる者の義務というもので、つまり、富んでいるものは貧しいものに施しを与えよという話だ。その考えに則って、ルードヴィヒたち王侯貴族は平民の、それも特に貧しい人々に施しを与える。

 孤児院や貧民院に寄付するのはその最も代表的なもので、ルードヴィヒ自身も時折王都の孤児院を訪問することもあった。
 けれどもそこには、施しをする貴族とされる平民との圧倒的な上下関係が存在するのだ。
 そのことに思い当たって、ルードヴィヒは初めてアデルとどのような関係になりたいのかを自覚することが出来た。

 ルードヴィヒはアデルとただ、親しくなりたいわけではなかった。
 自分は彼と対等な関係になりたいのだ。


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