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番外編
とある少年の初恋
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コルネリウス・リンデンバウムは真面目な少年だ。
学園に通う傍ら、騎士候補生として騎士団にも所属しており、日々多忙を極めている。
シュテルンリヒト王国の英知の結晶。国内でも最高峰の学び舎である王立シュテルンリヒト魔法学園は、通う学生にもその名に恥じぬ教養と学力を求めてくる。つまり、課題も多いし勉強以外の課外活動も活発なのだ。
それらと騎士候補生としての任務を両立するのは、それなりに大変であった。
睡眠時間を削って寝不足になるのは、騎士候補生であれば誰もが一度は通る道でもある。他でもない自分だって、課題が終わらなくて友人であるアロイス・シュヴァルツリヒトに何度泣きついただろうか。
その点、コルネリウスは騎士候補生となってからの一年以上を上手くこなしていたように思っていたのだけれども。
明らかに疲労の目立つ幼さの残る顔を見て、ゲオルグ・ロートリヒトは瞬いた。
目の下の隈が色濃いあたり、寝不足なのだろうか、と思う。
先の春、学園を卒業し正式に騎士に叙任されたゲオルグは、年が近いこともあり現在は騎士候補生たちの指導を担当している。とはいえ、ゲオルグが所属する近衛騎士隊に配属されるような騎士候補生たちはみな優秀で、特に手を貸すこともない。
騎士候補生は騎士とは違い、さほど危険な任務には当たらないからだ。
彼らの主な仕事は、隊舎の掃除や騎士の小間使いといった雑用が主で、今だってゲオルグはコルネリウスとともにギュンター・キルシュバウムに頼まれた書類の山を騎士団長の執務室に届けている最中だった。
騎士団長。つまり、ゲオルグにとって実父の部屋に行くのは気が重たかったが、大量の書類はとてもじゃないがひとりで運べる量ではない。それで手伝っているのだ。
「ネル、寝てないのか?」
隣の少年を横目で見て、ゲオルグは訊ねた。
すると、驚いたようにコルネリウスが目を見開いてこちらを見返してくる。この反応はあれだ。たぶん、彼は自らの不調をうまく隠せていると思っていたのだ。
ゲオルグに気づかれたことが気まずかったのだろう。コルネリウスは視線を逸らしながら応えた。
「寝て、いないことはないのですが……」
「課題が多い?」
彼は今、二年生だったはずだ。二年生の秋、課題をたくさん出すような教科があっただろうか。
言葉を濁す彼に、ゲオルグはしばし思案した。課題が大変なのであれば、自分も多少は手伝えると思ったからだ。これでも、在学中は優秀な友人たちに指導されて、それなりの成績を取っていた。
しかし、コルネリウスは首を横に振った。
どうやら彼の寝不足の原因は、課題のせいではないらしい。
遥か東の国には秋の夜長、という言葉があるという。それを教えてくれたのは、誰だったろうか。確か、今現在色惚け真っ最中の堅物文官だったような気がする。
長いこと幼馴染だったリリエルとアロイスが婚約したのは、つい先日のことだ。
アデルを狙っていたフロイントが無事に処分され、王宮には表向きの平和が戻った。それに合わせて、シュバルツリヒト家とヴァイスリヒト家という国内でも有数の名家同士が縁を結んだのだ。
とはいえ、リリエルは寒くなる前にはシュテルンリヒトを出て、東国ロウハンへと旅立つ。その後はハディールに留学し、魔法薬の研究をすると聞いた。戻ってくるまで何年かかるか分からないが、いつまでも待っている。――という覚悟でアロイスは彼との婚約を決めたのだという。そんなかっこいいことを言ったアロイスだったが、ゲオルグは知っているのだ。リリエルに婚姻の申し込みをする前、彼が三日ほど眠っていなかったことを。
どんな場所で、どんな状況で申し込めばいい、と悩む彼に散々付き合わされて、夜な夜な作戦会議をしたのは記憶に新しい。
そんな幼馴染を思い出して、ゲオルグはにやりと笑った。
「じゃあ、恋煩いか?」
「えっ!」
「え、マジで?」
ゲオルグの問いに、コルネリウスは大きく肩を揺らした。そのひどく動揺した様子に驚いたのはゲオルグの方だ。冗談のつもりだったのだが、大当たりだったようだ。
「じゃあ、なんだ? 好きな子を想って夜寝れてないってことか」
「あ、いや、う……」
揶揄うように言えば、十六歳の少年はみるみるうちに真っ赤になっていく。
よく見ればコルネリウスは耳まで赤くなっていて、その初々しい姿に思わず笑みがこぼれた。
「なんだよ。学園の子か? 俺、知ってるかな」
ゲオルグが知っている限り、コルネリウスには浮いた話はひとつもなかった。いつも眉間に皺を寄せているような真面目な性格で、あまりオメガが好きではないとも聞いたことがある。
で、あるならば、彼の恋の相手はアルファかベータの令嬢なのだろうか。
いや、別に相手が女とも限らないか。アルファでもベータでも男という可能性も――。
なんて考えたときだった。
コルネリウスが、それが……と小さく切り出したのだ。
「相手が見つからない?」
「そうなんです。学園の上級生かと思って探したんですけど、見つからなくて」
「え、でも、その人はオメガだったんだろ?」
ゲオルグが問えば、コルネリウスは頷いた。
なんでも、コルネリウスが恋に落ちたのはオメガの青年らしい。
学園の裏庭で出会った美しいオメガ。少し大人びたその彼は、間違いなく制服を着ていたとコルネリウスは言った。
魔法学園に通うオメガは少なくはないが、多くもない。
一学年に千人ほどいる生徒たちの中で、十人程度しかいないのだ。
だからこそ、コルネリウスも探せばすぐに見つかると思っていたらしい。
けれど、探しても見つからなかったのだ、とコルネリウスは肩を落とした。
「新入生じゃなくて?」
「俺より年上だと思うんです。大人っぽくてとても綺麗な人でしたから」
ほう、と息を吐きながら答えたコルネリウスに、これは重症だとゲオルグは息を吐く。
――探しても見つからない謎のオメガ。
どうやらたった一度会っただけのその彼に心を奪われたコルネリウスは、どこの誰かも分からないその人のことを想って夜も眠れていないらしい。
少年の心を一瞬で奪うとは。なんとも罪深いオメガもいたものだ。
その人がどんな人かも分からないから、恋心も募るのだろう。見つけて、名前だけでも分かれば彼の懊悩も落ち着くのではないだろうか。
そう思って、ゲオルグはコルネリウスに訊ねた。学園の上級生ならば、コルネリウスよりゲオルグの方がおそらく詳しいと思ったからだ。
「どんな人だったんだ?」
「亜麻色の髪に緑色の目をしていました。アデル様やリリエル様みたいに華やかな感じではないんですけど、こう守りたくなるような」
「へぇ」
ネルはそういうタイプが好きなのか、と言えば、コルネリウスは真っ赤になって頷いた。
それと同時に、彼が口にした件のオメガの容姿に首を傾げる。
――亜麻色の髪に、緑色の瞳。
――華やかではないが、守ってあげたくなるような綺麗な人。
その容姿に該当する男性オメガを、ゲオルグはひとりだけ知っていた。
しかし、亜麻色の髪も緑色の瞳もシュテルンリヒトではそう珍しいものではない。それに、確かにその人は学園の卒業生ではあるが、コルネリウスが出会ったのはつい最近の話だと言う。とうの昔に学園を卒業した彼が、制服を着てコルネリウスに会うなんてことはありえないはずだった。
自分で想像した可能性に混乱するゲオルグをよそに、コルネリウスは続ける。
そして、彼が口にした言葉にゲオルグは足を止めた。
「それで、紫色の宝石がついた黒い首環をしていました」
「んんッ!?」
――マジで?
本日、二回目の大当たりだった。
亜麻色の髪に緑色の瞳。加えて紫色の宝石のついた首環をしているなんて。
そんなオメガ、きっと王国中探してもたったひとりしかいないだろう。
たぶん、その首環の後ろ側にはしっかりと家紋が刻まれているはずだ。
おそらく――いや、間違いなく、コルネリウスが恋に落ちたのは自分たちの上司の番、ユーリス・ヨルク・ローゼンシュタインだ。
どうして彼が制服姿で学園にいたのか、とか、そこで何をしていたのか、とか、疑問に思うことはいくつかあった。しかし、ゲオルグがコルネリウスに伝えるべきなのは、そんなことではない。
「あー、ネル……」
「ゲオルグ先輩、知ってるんですか!?」
「えっと、知っていると言えば、知ってるんだけどさ」
驚愕の色を浮かべたゲオルグにコルネリウスが食いついた。
これまで散々探しても見つからなかった想い人の所在が、ようやく分かるかもしれないのだ。恋に悩むコルネリウスにとって、ゲオルグはようやく手にしたたったひとつの希望なのだろう。
しかし――。
「悪いことは言わないから――」
諦めろ。
そう口にしようとして、結局最後まで言えなかった。
不意に声をかけられたからだ。
それも、今一番会いたくなかった人物に。
「ゲオルグ」
「ひぇっ」
「ローゼンシュタイン卿」
突然の上司の登場に、コルネリウスがさっと敬礼の姿勢をとる。
もちろん、両手には書類の山を抱えているので足を揃えただけではあったけれど、それに倣いゲオルグも姿勢を正す。しかし、もはや心中はそれどころではなかった。
己の番に対するアルファの独占欲は、とても強いものだという。
番のいないゲオルグはそれを知識として知っているだけだけれど、先日、ユーリスが攫われたときのギルベルトの様子をゲオルグはそばで見ていたのだ。常に冷静でほとんど表情を変えない師匠が、ゲオルグが見ても分かるくらい明らかに動揺して焦っていたし、ユーリスを助けるため、驚くほどの無茶をしていた。
それほどまでに番を深く愛するアルファが、己の番に懸想する別のアルファを許すだろうか。いや、絶対に許さないだろう。
想像するのも恐ろしくて、このときのゲオルグはただ、コルネリウスが余計なことを口走らないように願うことしか出来なかった。
「それはギュンターから頼まれたものか?」
「そうです」
「あいつ、処理をずっとさぼっていたな」
ゲオルグとコルネリウスを見て、ギルベルトが言った。
ギュンターから預かった書類は、王太子であるルードヴィヒの警護計画やそれに付随する予算編成を記したものだ。もともとは隊長であるギルベルトが作成し、副官のギュンターが確認して騎士団長へと提出するもので、ギルベルトの言い様から彼はずっと前からこの書類を副官へ渡していたらしい。
現在、ギュンターには「霧」の別任務が割り当てられているので、別に彼はさぼっていたわけではないのだろう。ただ忙しかったのだろうが、提出物は提出物である。
溜まった書類はふたりで分けて持っても、視界を遮るほどに堆く積み上がっていた。だから、ゲオルグは気づかなかったのだ。声をかけて来たギルベルトがひとりではなかったことに。
「ゲオルグ様、重たくないですか? お手伝いしましょうか」
ゲオルグの耳に、柔らかくて穏やかな声が届いた。
その声を聞いた瞬間、ゲオルグの全身に冷や汗が噴き出した。
いつもであれば、それは聞いただけで嬉しくなるような優しい声なのだ。しかし、今だけはその限りではない。
いったい誰が尊敬する上司の悋気――のとばっちり――を受けたいと思うだろうか。
背の高いギルベルトの少し後ろ。彼に庇われるように立っていたのは、他でもない上司の番。隣に立つ少年がずっと探していた、オメガの青年ユーリスだった。
「ユーリス様……」
重そうな書類を抱えたゲオルグを、ユーリスは気づかわしげに見上げていた。
手伝おうとして、そっと手を出そうとするのを、ギルベルトがやんわりと制した。
「鍛えているから、あなたが手伝う必要はありませんよ」
「そうですか? でも、こっちの子も重そうですよ」
そう言って、ユーリスは書類の影になっていたコルネリウスの顔を覗き込んだ。その瞬間。
「あ」
「……ッ!」
ユーリスが、驚いたように緑色の瞳を見開いた。
やはり、コルネリウスが出会い恋に落ちたのは、ユーリスだったのだ。
明らかに初対面ではない様子のふたりに、ほんの一瞬ではあるがギルベルトが目を眇めた。
――怖……ッ!
その表情は思わず、ゲオルグはギルベルトから一歩遠ざかってしまうほどだった。
「ユーリス」
「ああ、あの以前アデル様に付き合って学園に忍び込んだときにお会いしたのです。やっぱり、騎士候補生の方だったのですね」
咎めるように自らの名前を呼んだ番に、ユーリスはくすりと笑って説明する。
そして牙をむく獣を宥めるように、そっとギルベルトの腕を撫でた。
その親しげな様子に目を見開いたのは、コルネリウスだった。
「あのときは騙してしまってすみませんでした。こっそり忍び込んだので、学生のふりをしていたのです」
――他の方に知られると恥ずかしいので、どうか内密に。
恥ずかしそうに頬を赤らめたユーリスは、人差し指を一本だけ立てて自らの口の前に持ってきた。
その可愛らしい姿に、ああ、この人のこういうところがあれなんだ、とゲオルグは思う。
華やかな美しさを持つリリエルやアデルとは違い、ユーリスはどちらかと言えば控えめで大人しい容姿をしている。しかし、彼はなんというか、だからこそアルファの庇護欲や嗜虐心を刺激するのだ。岩陰に咲く可憐な花を手折ってしまいたくなるような気持ち、とでも言えばいいのだろうか。
その性格や仕草も相まって、ユーリスはまさにアルファの理想を具現化したようなオメガだった。
コルネリウスは案の定、顔を赤らめてぼんやりとユーリスを見ていた。きっと彼は隣に立つギルベルトの剣呑な視線には一切気づいていない。
「学生では、なかったのですか……」
「はい。恥ずかしいことに、実はとっくの昔に卒業しているんです……。初めまして、王太子殿下の婚約者であられるアデル・ヴァイツェン様の教育係をしております。ユーリス・ヨルク・ローゼンシュタインと申します」
そう言ってユーリスは軽く頭を下げた。
コルネリウスは返事も出来ず、ただユーリスを見ていた。
いくら恋に浮かれたコルネリウスでも、ユーリスの名乗った名前の意味するところを察したのだろう。初恋は叶わないものだ、と慰めてやるべきだろうか。
「ユーリス、アデル様がお待ちなのでは?」
「ああ、そうですね。ゲオルグ様、お手伝い出来ず申し訳ありません。えっと……?」
「コルネリウスです。コルネリウス・リンデンバウム。優秀な騎士候補生ですから、そのうちまた会うこともあるでしょう」
そう言って、ギルベルトがユーリスの肩を抱いた。
急かすように抱き寄せられて、ユーリスは振り向きながら頭を下げた。
遠ざかっていくふたりの背中を見て、ゲオルグは深く息を吐いた。ようやく息が出来る気がする。
「あー、ネル」
「……はい」
「どんまい」
がっくりと肩を落とした後輩に、ゲオルグが言えたのはそれだけだった。
書類さえ持っていなければ、肩くらいは抱いて慰めてやりたかった。けれど、両手が塞がっているためにそれも出来ない。
その代わりに肘でとんとん、をコルネリウスの肘を叩いて、ゲオルグは踵を返した。
どんなに悲しくても仕事は片づけなければならない。とりあえず、コルネリウスを慰めるのは、書類を提出してからだろう。
学園に通う傍ら、騎士候補生として騎士団にも所属しており、日々多忙を極めている。
シュテルンリヒト王国の英知の結晶。国内でも最高峰の学び舎である王立シュテルンリヒト魔法学園は、通う学生にもその名に恥じぬ教養と学力を求めてくる。つまり、課題も多いし勉強以外の課外活動も活発なのだ。
それらと騎士候補生としての任務を両立するのは、それなりに大変であった。
睡眠時間を削って寝不足になるのは、騎士候補生であれば誰もが一度は通る道でもある。他でもない自分だって、課題が終わらなくて友人であるアロイス・シュヴァルツリヒトに何度泣きついただろうか。
その点、コルネリウスは騎士候補生となってからの一年以上を上手くこなしていたように思っていたのだけれども。
明らかに疲労の目立つ幼さの残る顔を見て、ゲオルグ・ロートリヒトは瞬いた。
目の下の隈が色濃いあたり、寝不足なのだろうか、と思う。
先の春、学園を卒業し正式に騎士に叙任されたゲオルグは、年が近いこともあり現在は騎士候補生たちの指導を担当している。とはいえ、ゲオルグが所属する近衛騎士隊に配属されるような騎士候補生たちはみな優秀で、特に手を貸すこともない。
騎士候補生は騎士とは違い、さほど危険な任務には当たらないからだ。
彼らの主な仕事は、隊舎の掃除や騎士の小間使いといった雑用が主で、今だってゲオルグはコルネリウスとともにギュンター・キルシュバウムに頼まれた書類の山を騎士団長の執務室に届けている最中だった。
騎士団長。つまり、ゲオルグにとって実父の部屋に行くのは気が重たかったが、大量の書類はとてもじゃないがひとりで運べる量ではない。それで手伝っているのだ。
「ネル、寝てないのか?」
隣の少年を横目で見て、ゲオルグは訊ねた。
すると、驚いたようにコルネリウスが目を見開いてこちらを見返してくる。この反応はあれだ。たぶん、彼は自らの不調をうまく隠せていると思っていたのだ。
ゲオルグに気づかれたことが気まずかったのだろう。コルネリウスは視線を逸らしながら応えた。
「寝て、いないことはないのですが……」
「課題が多い?」
彼は今、二年生だったはずだ。二年生の秋、課題をたくさん出すような教科があっただろうか。
言葉を濁す彼に、ゲオルグはしばし思案した。課題が大変なのであれば、自分も多少は手伝えると思ったからだ。これでも、在学中は優秀な友人たちに指導されて、それなりの成績を取っていた。
しかし、コルネリウスは首を横に振った。
どうやら彼の寝不足の原因は、課題のせいではないらしい。
遥か東の国には秋の夜長、という言葉があるという。それを教えてくれたのは、誰だったろうか。確か、今現在色惚け真っ最中の堅物文官だったような気がする。
長いこと幼馴染だったリリエルとアロイスが婚約したのは、つい先日のことだ。
アデルを狙っていたフロイントが無事に処分され、王宮には表向きの平和が戻った。それに合わせて、シュバルツリヒト家とヴァイスリヒト家という国内でも有数の名家同士が縁を結んだのだ。
とはいえ、リリエルは寒くなる前にはシュテルンリヒトを出て、東国ロウハンへと旅立つ。その後はハディールに留学し、魔法薬の研究をすると聞いた。戻ってくるまで何年かかるか分からないが、いつまでも待っている。――という覚悟でアロイスは彼との婚約を決めたのだという。そんなかっこいいことを言ったアロイスだったが、ゲオルグは知っているのだ。リリエルに婚姻の申し込みをする前、彼が三日ほど眠っていなかったことを。
どんな場所で、どんな状況で申し込めばいい、と悩む彼に散々付き合わされて、夜な夜な作戦会議をしたのは記憶に新しい。
そんな幼馴染を思い出して、ゲオルグはにやりと笑った。
「じゃあ、恋煩いか?」
「えっ!」
「え、マジで?」
ゲオルグの問いに、コルネリウスは大きく肩を揺らした。そのひどく動揺した様子に驚いたのはゲオルグの方だ。冗談のつもりだったのだが、大当たりだったようだ。
「じゃあ、なんだ? 好きな子を想って夜寝れてないってことか」
「あ、いや、う……」
揶揄うように言えば、十六歳の少年はみるみるうちに真っ赤になっていく。
よく見ればコルネリウスは耳まで赤くなっていて、その初々しい姿に思わず笑みがこぼれた。
「なんだよ。学園の子か? 俺、知ってるかな」
ゲオルグが知っている限り、コルネリウスには浮いた話はひとつもなかった。いつも眉間に皺を寄せているような真面目な性格で、あまりオメガが好きではないとも聞いたことがある。
で、あるならば、彼の恋の相手はアルファかベータの令嬢なのだろうか。
いや、別に相手が女とも限らないか。アルファでもベータでも男という可能性も――。
なんて考えたときだった。
コルネリウスが、それが……と小さく切り出したのだ。
「相手が見つからない?」
「そうなんです。学園の上級生かと思って探したんですけど、見つからなくて」
「え、でも、その人はオメガだったんだろ?」
ゲオルグが問えば、コルネリウスは頷いた。
なんでも、コルネリウスが恋に落ちたのはオメガの青年らしい。
学園の裏庭で出会った美しいオメガ。少し大人びたその彼は、間違いなく制服を着ていたとコルネリウスは言った。
魔法学園に通うオメガは少なくはないが、多くもない。
一学年に千人ほどいる生徒たちの中で、十人程度しかいないのだ。
だからこそ、コルネリウスも探せばすぐに見つかると思っていたらしい。
けれど、探しても見つからなかったのだ、とコルネリウスは肩を落とした。
「新入生じゃなくて?」
「俺より年上だと思うんです。大人っぽくてとても綺麗な人でしたから」
ほう、と息を吐きながら答えたコルネリウスに、これは重症だとゲオルグは息を吐く。
――探しても見つからない謎のオメガ。
どうやらたった一度会っただけのその彼に心を奪われたコルネリウスは、どこの誰かも分からないその人のことを想って夜も眠れていないらしい。
少年の心を一瞬で奪うとは。なんとも罪深いオメガもいたものだ。
その人がどんな人かも分からないから、恋心も募るのだろう。見つけて、名前だけでも分かれば彼の懊悩も落ち着くのではないだろうか。
そう思って、ゲオルグはコルネリウスに訊ねた。学園の上級生ならば、コルネリウスよりゲオルグの方がおそらく詳しいと思ったからだ。
「どんな人だったんだ?」
「亜麻色の髪に緑色の目をしていました。アデル様やリリエル様みたいに華やかな感じではないんですけど、こう守りたくなるような」
「へぇ」
ネルはそういうタイプが好きなのか、と言えば、コルネリウスは真っ赤になって頷いた。
それと同時に、彼が口にした件のオメガの容姿に首を傾げる。
――亜麻色の髪に、緑色の瞳。
――華やかではないが、守ってあげたくなるような綺麗な人。
その容姿に該当する男性オメガを、ゲオルグはひとりだけ知っていた。
しかし、亜麻色の髪も緑色の瞳もシュテルンリヒトではそう珍しいものではない。それに、確かにその人は学園の卒業生ではあるが、コルネリウスが出会ったのはつい最近の話だと言う。とうの昔に学園を卒業した彼が、制服を着てコルネリウスに会うなんてことはありえないはずだった。
自分で想像した可能性に混乱するゲオルグをよそに、コルネリウスは続ける。
そして、彼が口にした言葉にゲオルグは足を止めた。
「それで、紫色の宝石がついた黒い首環をしていました」
「んんッ!?」
――マジで?
本日、二回目の大当たりだった。
亜麻色の髪に緑色の瞳。加えて紫色の宝石のついた首環をしているなんて。
そんなオメガ、きっと王国中探してもたったひとりしかいないだろう。
たぶん、その首環の後ろ側にはしっかりと家紋が刻まれているはずだ。
おそらく――いや、間違いなく、コルネリウスが恋に落ちたのは自分たちの上司の番、ユーリス・ヨルク・ローゼンシュタインだ。
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「あー、ネル……」
「ゲオルグ先輩、知ってるんですか!?」
「えっと、知っていると言えば、知ってるんだけどさ」
驚愕の色を浮かべたゲオルグにコルネリウスが食いついた。
これまで散々探しても見つからなかった想い人の所在が、ようやく分かるかもしれないのだ。恋に悩むコルネリウスにとって、ゲオルグはようやく手にしたたったひとつの希望なのだろう。
しかし――。
「悪いことは言わないから――」
諦めろ。
そう口にしようとして、結局最後まで言えなかった。
不意に声をかけられたからだ。
それも、今一番会いたくなかった人物に。
「ゲオルグ」
「ひぇっ」
「ローゼンシュタイン卿」
突然の上司の登場に、コルネリウスがさっと敬礼の姿勢をとる。
もちろん、両手には書類の山を抱えているので足を揃えただけではあったけれど、それに倣いゲオルグも姿勢を正す。しかし、もはや心中はそれどころではなかった。
己の番に対するアルファの独占欲は、とても強いものだという。
番のいないゲオルグはそれを知識として知っているだけだけれど、先日、ユーリスが攫われたときのギルベルトの様子をゲオルグはそばで見ていたのだ。常に冷静でほとんど表情を変えない師匠が、ゲオルグが見ても分かるくらい明らかに動揺して焦っていたし、ユーリスを助けるため、驚くほどの無茶をしていた。
それほどまでに番を深く愛するアルファが、己の番に懸想する別のアルファを許すだろうか。いや、絶対に許さないだろう。
想像するのも恐ろしくて、このときのゲオルグはただ、コルネリウスが余計なことを口走らないように願うことしか出来なかった。
「それはギュンターから頼まれたものか?」
「そうです」
「あいつ、処理をずっとさぼっていたな」
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現在、ギュンターには「霧」の別任務が割り当てられているので、別に彼はさぼっていたわけではないのだろう。ただ忙しかったのだろうが、提出物は提出物である。
溜まった書類はふたりで分けて持っても、視界を遮るほどに堆く積み上がっていた。だから、ゲオルグは気づかなかったのだ。声をかけて来たギルベルトがひとりではなかったことに。
「ゲオルグ様、重たくないですか? お手伝いしましょうか」
ゲオルグの耳に、柔らかくて穏やかな声が届いた。
その声を聞いた瞬間、ゲオルグの全身に冷や汗が噴き出した。
いつもであれば、それは聞いただけで嬉しくなるような優しい声なのだ。しかし、今だけはその限りではない。
いったい誰が尊敬する上司の悋気――のとばっちり――を受けたいと思うだろうか。
背の高いギルベルトの少し後ろ。彼に庇われるように立っていたのは、他でもない上司の番。隣に立つ少年がずっと探していた、オメガの青年ユーリスだった。
「ユーリス様……」
重そうな書類を抱えたゲオルグを、ユーリスは気づかわしげに見上げていた。
手伝おうとして、そっと手を出そうとするのを、ギルベルトがやんわりと制した。
「鍛えているから、あなたが手伝う必要はありませんよ」
「そうですか? でも、こっちの子も重そうですよ」
そう言って、ユーリスは書類の影になっていたコルネリウスの顔を覗き込んだ。その瞬間。
「あ」
「……ッ!」
ユーリスが、驚いたように緑色の瞳を見開いた。
やはり、コルネリウスが出会い恋に落ちたのは、ユーリスだったのだ。
明らかに初対面ではない様子のふたりに、ほんの一瞬ではあるがギルベルトが目を眇めた。
――怖……ッ!
その表情は思わず、ゲオルグはギルベルトから一歩遠ざかってしまうほどだった。
「ユーリス」
「ああ、あの以前アデル様に付き合って学園に忍び込んだときにお会いしたのです。やっぱり、騎士候補生の方だったのですね」
咎めるように自らの名前を呼んだ番に、ユーリスはくすりと笑って説明する。
そして牙をむく獣を宥めるように、そっとギルベルトの腕を撫でた。
その親しげな様子に目を見開いたのは、コルネリウスだった。
「あのときは騙してしまってすみませんでした。こっそり忍び込んだので、学生のふりをしていたのです」
――他の方に知られると恥ずかしいので、どうか内密に。
恥ずかしそうに頬を赤らめたユーリスは、人差し指を一本だけ立てて自らの口の前に持ってきた。
その可愛らしい姿に、ああ、この人のこういうところがあれなんだ、とゲオルグは思う。
華やかな美しさを持つリリエルやアデルとは違い、ユーリスはどちらかと言えば控えめで大人しい容姿をしている。しかし、彼はなんというか、だからこそアルファの庇護欲や嗜虐心を刺激するのだ。岩陰に咲く可憐な花を手折ってしまいたくなるような気持ち、とでも言えばいいのだろうか。
その性格や仕草も相まって、ユーリスはまさにアルファの理想を具現化したようなオメガだった。
コルネリウスは案の定、顔を赤らめてぼんやりとユーリスを見ていた。きっと彼は隣に立つギルベルトの剣呑な視線には一切気づいていない。
「学生では、なかったのですか……」
「はい。恥ずかしいことに、実はとっくの昔に卒業しているんです……。初めまして、王太子殿下の婚約者であられるアデル・ヴァイツェン様の教育係をしております。ユーリス・ヨルク・ローゼンシュタインと申します」
そう言ってユーリスは軽く頭を下げた。
コルネリウスは返事も出来ず、ただユーリスを見ていた。
いくら恋に浮かれたコルネリウスでも、ユーリスの名乗った名前の意味するところを察したのだろう。初恋は叶わないものだ、と慰めてやるべきだろうか。
「ユーリス、アデル様がお待ちなのでは?」
「ああ、そうですね。ゲオルグ様、お手伝い出来ず申し訳ありません。えっと……?」
「コルネリウスです。コルネリウス・リンデンバウム。優秀な騎士候補生ですから、そのうちまた会うこともあるでしょう」
そう言って、ギルベルトがユーリスの肩を抱いた。
急かすように抱き寄せられて、ユーリスは振り向きながら頭を下げた。
遠ざかっていくふたりの背中を見て、ゲオルグは深く息を吐いた。ようやく息が出来る気がする。
「あー、ネル」
「……はい」
「どんまい」
がっくりと肩を落とした後輩に、ゲオルグが言えたのはそれだけだった。
書類さえ持っていなければ、肩くらいは抱いて慰めてやりたかった。けれど、両手が塞がっているためにそれも出来ない。
その代わりに肘でとんとん、をコルネリウスの肘を叩いて、ゲオルグは踵を返した。
どんなに悲しくても仕事は片づけなければならない。とりあえず、コルネリウスを慰めるのは、書類を提出してからだろう。
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エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
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