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律は、いつから何に対して思い悩むようになっていたのか。
暁斗が浮かれて、気づかなかった律の変化。それを必死に思い出そうとして暁斗は頭を抱えた。
そして、思い出してしまった。律が真っ青になっていた、その表情を。
あれは、確か――。
「俺が、絵を描かないって言ったから――」
正確には、就職するから絵は趣味程度にする、と言ったわけだが、きっと律にとっては同じことだったのだ。
就職の話をしてから、律の様子がおかしくなった。
――暁斗は働かなくていい。今までどおり、絵を描いていてくれたらいい。
律は繰り返しそう言っていた。それを聞かず、さっさと仕事を決めてしまったのは暁斗だった。
「君はあんなに一緒にいたのに、彼が最も大切にしていたものを全く分かっていなかったんじゃないか」
栗原の言葉に暁斗は息を飲んだ。
――律が最も大切にしていたもの。
そんなこと、考えたこともなかった。
暁斗が仕事を探そうと思ったきっかけは、律と番になったからだ。
自分たちは何となく番にはならないのかもしれないと思っていたし、律もそれを望んでいたようには見えなかった。だから、その関係の変化は暁斗にとって嬉しいものだった。ただ、番になればこれまでどおり律に頼りきりではいけないのではないか、とふと思った。
だから、仕事を探したのだ。
オメガの身体はアルファよりもずっと儚くて繊細だ。それは律も例外ではなく、その痩躯は抱くと折れそうなほどだった。
律と長く一緒にいるためにその負担を減らしたいと思った。
相談した倉田も賛成してくれたし、絵を納品しないことを伝えた新海も残念がりながらも応援してくれた。山瀬なんて、脱ヒモと言ってしきりに揶揄ってきたくらいだ。
世間一般の常識で考えれば、これまでの関係が歪だったはずだ。
それなのに、律にとってはその歪な関係こそが最も大切だったというのだろうか。
「お前だって、俺が働かなかったから愛想をつかされたって」
「そんなのフラれたアルファの惨めな嫌味に決まってるだろう。まさか本当に絵を捨てているとは思わなかったんだ」
呆然と呟いた暁斗に栗原があっさりと言った。
「篠田さんは君が変わることなんて望んでなかった。これは番同士でなくても適応される人間関係の基本だが、君は篠田さんとしっかり話合ったのか? 篠田さんの意見は聞いた?」
「聞いてない……」
暁斗は律の話を聞かなかった。
これまで、律はいつだって暁斗の願いを叶えてくれた。暁斗がしたいようにすれば、律は絶対にそれを受け入れてくれたのだ。故に暁斗は律は暁斗が何を選んでも、ずっとそばにいてくれるものだと思っていた。
けれど、違ったのだ。
律にも許せないことがあって、それを暁斗は律の話すら聞かずに決めてしまった。
律は暁斗と何度も話し合おうとしていたはずだ。それなのに、その機会を全て無駄にしたのは他でもない暁斗自身だ。
律がいなくなったのは、暁斗が律のことを理解していなかったから。
――だから、律は暁斗の元を去った。
大切な番を自分のせいで失ったことに気づいた暁斗は、ただ茫然とするしかなかった。
律の居場所は見当もつかない。謝ることすら出来ず、ただ律を永遠に失ってしまったのだ。
指先が凍えるように冷たくて、呼吸がひどく苦しかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。永遠にも思えるような長い沈黙を破ったのは、栗原の方だった。
「――君はこれからどうするんだ?」
「これから……?」
その問いに顔を上げれば、栗原は酷く険しい顔をしていた。
「篠田さんを探すのか? オメガとはいえ、篠田さんは立派に成人した男性だ。失踪届を出しても、篠田さんが自分で身辺整理をしている現状では警察はまともに取り合おうとはしないだろうし、人を雇って探すにも費用がかかる。君、篠田さんが行きそうな場所に心当たりは? 実家とか、親しい友人とか」
栗原の言葉に暁斗は首を振った。
「……律に家族はいない。両親は物心つく頃にはいなかったって言ってたし、育ててくれたおばあさんも高校のときに死んだって。友だちもいなかったんじゃないか」
暁斗が知る限り、律の最も親しい人間は暁斗だ。
働き詰めで、休日友人と出かけるようなこともなかった。他に喫茶ハイドランジアの店長夫妻にも心を開いていたようだったが、彼らは律の居場所は知らないと言っていた。
そもそも、心当たりがあればこんなところで栗原なんかと話していない。一刻も早く、そこに飛んで行っているだろう。
「篠田さんの地元は?」
「関東の、どこだったかな」
暁斗が言えば、栗原は呆れた様子で関東のとある県名を口にした。
何で知っている。というか、知っているなら聞くなよ。
おそらく栗原は律に求愛する過程で、律や暁斗のことを調べ上げている。いっそ暁斗より律のことに詳しいのかもしれない。けれど、その栗原すら律の居場所は分からない。
「君が言うとおり、篠田さんの実家はもうない。地元に帰っているとは考えにくいだろうね」
唯一の手掛かりと思っていた会社に律はおらず、栗原も居場所を知らないのだ。そうなれば、暁斗にはもう律を探すすべはなかった。
項垂れた暁斗をよそに栗原は何やら考え込んでいるようだった。顎に手を当て、真剣な顔で一点を睨んでいる。
「篠田さんがいなくなったのは、確かに君が絵を描かなくなったからだ」
栗原が、ぽつりと呟いた。
「でも、彼は俺に君が描く絵が何より好きだと言っていたんだ」
「なに……?」
「あれほどの献身を捧げていた彼が、君に愛想を尽かしたとは考えられない」
謎解きのようなことを独り言のように呟く栗原が、ぱっと顔を上げて暁斗を見た。
「絵は、君と篠田さんを繋ぐたったひとつの糸だと言っているんだ」
「糸?」
「そう。まあ比喩表現だから、そこは別に重要じゃない。よく聞いて、鴻上くん。篠田さんはたぶん、君に絵を続けて欲しくていなくなったんだ」
「は?」
栗原は「暁斗が絵を描かなくなったから律が愛想を尽かした」わけではないと断言した。
その上で、君は絵を描くべきだ、とも。
暁斗は律は暁斗のことを見限ったのだと思っていた。だから、番であるにもかかわらず、暁斗の元を離れた。それくらい律に取って許せないことをしてしまったのだと思った。
けれど、栗原は違うという。
「俺は……」
暁斗は言い淀む。
栗原の言葉が本当にそうだとして、今の自分に絵が描けるとも思えなかったのだ。
暁斗にとって律は空気のようなものだった。
そこにいるのが当たり前で、いなくなれば息をすることすら出来ない。息が出来なければ、当然絵なんて描けるわけがない。
そもそも、暁斗は律に見せたくて絵を描いていた。律が笑ってくれるから、その笑顔が見たくて描いていたのだ。
律がいないこの世界で、いったい何を想って絵を描けというのだろう。
これまで寝食を忘れて行ってきた「絵を描く」という行為。それが律を失った今では、どうやっていたのかすら思い出せない。
「俺は、律がいないと描けない」
呆然と呟けば、栗原が不愉快そうに眉を寄せた。
「それを、君は篠田さんに言った? 言っていないだろう。だから、彼は自分がいなくなれば君は絵を描くと思ったんじゃないのか。絵を描かないと、本当に篠田さんとの糸が切れてなくなってしまう」
栗原はひどく怒っていた。
それは律がいなくなった、と言ったときと同じ沸々とした激しい怒りだった。
暁斗の話を聞いていたときですら嫌悪感は隠そうとはしないものの、それでも理性的に会話していたというのに。
――絵を描けないと言った暁斗に、怒っていたのだ。
「俺は篠田さんの幸せを願って彼を諦めたんだ。それなのに、彼を手に入れたはずの君のせいで彼はいなくなってしまった。オメガが番のアルファと離れて、幸せでいられると思うのか?」
テーブルの上で握りしめられていた栗原の手は、力を籠めすぎて真っ白になっていた。
声を荒げているわけではないのにその低い声は十分怒りを含んでいて、彼の激情を暁斗に伝えてくる。
栗原はおそらく、心の底から律を愛していたのだ。
「君は絵を描き続けるべきだ」
暁斗には律を幸せにする責任がある、と栗原は言った。
「それを放棄することは許さない」
唸るように続けた栗原に暁斗は言葉を返すことが出来なかった。
それから、どうやって自分が家に帰ってきたのかを暁斗は覚えていない。
ファミレスからまさに呆然自失という様子でただ足を動かして、何とか律の匂いがするアパートに辿り着いた。
アパートの中は律の匂いで溢れていた。染み付いた油絵の具の匂いと律のフェロモンの匂い。甘くて優しくて、嗅いでいると胸が痛くなる香りだ。
その香りを嗅ぎながら、暁斗は部屋の隅に片づけられていた画材を引っ張り出して、そのまま床にぶちまけた。
古い畳の部屋に汚れたチューブに入った色とりどりの絵の具たちが転がっていく。
キャンバスは枠に張ったまま描かれていないものがあった。その真っ白なキャンバスをかつてのように部屋の中央に据えて、暁斗はその前に座る。
律と番になってから、しばらく絵を描いていなかった。
栗原は絵を描くべきだと言った。律と暁斗を繋ぐたったひとつの細い縁縁だと。
しかし、キャンバスを前にして暁斗は痛いほどに実感したのだ。
「律がいないと、描けない……」
白い布地に何を描けばいいのか分からない。
これまでの暁斗は絵を描いている間中、早く完成した絵を真っ先に律に見て欲しいと思っていた。絵を見て喜んでくれる律の顔が見たかった。
律は暁斗が絵を見せると、心底幸せだと言わんばかりの柔らかく穏やかな笑みを浮かべてくれるのだ。暁斗はその笑顔が本当に好きだった。
かつては現実から逃げ込むように描いていた絵を、いつからか律の笑顔を見るために描いていた。
それなのに、その律がいない。
律のいない部屋に帰って来て、暁斗は改めてその現実を目の当たりにした。
静まり返り人の気配のない部屋はひどく寂しくて、それまで滾々と湧き出ていた水が突然枯れてしまったような乾きと絶望だけがそこにはあった。
息が出来ない。苦しくて窒息してしまいそうだった。
――けれども、描かなければ二度と律に会えない。
悲しくて苦しくて、暁斗は畳の上に崩れ落ちた。
「律、律……」
暁斗の切れ長の瞳から、知らず涙が溢れてくる。
どうしていなくなってしまったのか。
魂の半身。暁斗の世界そのもの。
畳の上に横たわったまま、暁斗はただ部屋の天井を見上げていた。陽が傾き、部屋の中は徐々に暗闇に包まれていく。
――電気点けなよ、暁斗。こんなに暗くちゃ描きにくいでしょう。
かつて、真っ暗な部屋で絵を描いていた暁斗にそう笑いかけてくれた、暁斗のたったひとりの番。
その笑顔を思い出していたときだ。律の面影を追いかけるように手を伸ばした瞬間、部屋の隅で何かがばさりと崩れ落ちた。暁斗は反射的に体を起こしてそちらを振り向いた。
闇に沈んだ部屋は暗く、音のした場所はよく見えなかった。
それでもこのときの暁斗はその音の正体が、何故か無性に気になったのだ。
手探りで部屋の隅を探れば、指先に触れたのは馴染んだ硬く乾いた感触があった。それは擦り切れた数冊のスケッチブックだった。
暁斗はそのスケッチブックを手に取り、ぱらぱらと頁を捲る。
数日前、暁斗が夢中になって鉛筆を走らせていたそのスケッチブックには、全ての頁が「律」で埋まっていた。
番になる前から、暁斗が描く人物画は律だけだった。番になってからは愛しすぎてどうしようもなくて、ただひたすら律ばかりを描いていた。
笑った顔。真剣に前を向く横顔。穏やかに眠る顔。
たくさん描いたから、スケッチブックの中には色々な表情をした律がいた。けれども、やはり多いのは暁斗の方を向いて嬉しそうに微笑んでいる律だ。
「ここにいた……」
微笑む律を見て暁斗は呟いた。指先で「律」を形作る鉛筆の線をゆっくりとなぞる。
思い出すのは律にふれたときのその柔らかさだ。滑らかでふっくらとしていて、そして律の肌はいつだっていい匂いがした。
その感触を、匂いを、味を思い出して、暁斗は咄嗟に筆を取った。
覚えているうちに描かなくてはいけない。そう強く思ったのだ。
――律、ごめん。
たくさん負担をかけてごめん。
勝手に絵をやめると決めてごめん。
こんなに一緒にいたのに、こんなに律は俺のことを考えてくれたのに。
律のことを、考えないまま番ってしまってごめん。
俺の――番の元から離れるという選択をさせてごめん。
それでもまだ、こんなに好きでごめん。
暁斗は心の中で謝罪しながら、ただ一心不乱に筆を動かした。
キャンバスを睨む瞳からは、ぼろぼろと涙が溢れては零れ落ちていく。
心臓が痛くて、呼吸が苦しかった。きっと自分は律を失って、そのうち窒息して死ぬのだろう。
それでも――、と暁斗は思う。
いつか死ぬなら、死ぬその瞬間まで絵を描いていよう。
記憶の中に焼き付いた、律の笑顔を何枚でも、何十枚でも描いていよう、と。
暁斗が浮かれて、気づかなかった律の変化。それを必死に思い出そうとして暁斗は頭を抱えた。
そして、思い出してしまった。律が真っ青になっていた、その表情を。
あれは、確か――。
「俺が、絵を描かないって言ったから――」
正確には、就職するから絵は趣味程度にする、と言ったわけだが、きっと律にとっては同じことだったのだ。
就職の話をしてから、律の様子がおかしくなった。
――暁斗は働かなくていい。今までどおり、絵を描いていてくれたらいい。
律は繰り返しそう言っていた。それを聞かず、さっさと仕事を決めてしまったのは暁斗だった。
「君はあんなに一緒にいたのに、彼が最も大切にしていたものを全く分かっていなかったんじゃないか」
栗原の言葉に暁斗は息を飲んだ。
――律が最も大切にしていたもの。
そんなこと、考えたこともなかった。
暁斗が仕事を探そうと思ったきっかけは、律と番になったからだ。
自分たちは何となく番にはならないのかもしれないと思っていたし、律もそれを望んでいたようには見えなかった。だから、その関係の変化は暁斗にとって嬉しいものだった。ただ、番になればこれまでどおり律に頼りきりではいけないのではないか、とふと思った。
だから、仕事を探したのだ。
オメガの身体はアルファよりもずっと儚くて繊細だ。それは律も例外ではなく、その痩躯は抱くと折れそうなほどだった。
律と長く一緒にいるためにその負担を減らしたいと思った。
相談した倉田も賛成してくれたし、絵を納品しないことを伝えた新海も残念がりながらも応援してくれた。山瀬なんて、脱ヒモと言ってしきりに揶揄ってきたくらいだ。
世間一般の常識で考えれば、これまでの関係が歪だったはずだ。
それなのに、律にとってはその歪な関係こそが最も大切だったというのだろうか。
「お前だって、俺が働かなかったから愛想をつかされたって」
「そんなのフラれたアルファの惨めな嫌味に決まってるだろう。まさか本当に絵を捨てているとは思わなかったんだ」
呆然と呟いた暁斗に栗原があっさりと言った。
「篠田さんは君が変わることなんて望んでなかった。これは番同士でなくても適応される人間関係の基本だが、君は篠田さんとしっかり話合ったのか? 篠田さんの意見は聞いた?」
「聞いてない……」
暁斗は律の話を聞かなかった。
これまで、律はいつだって暁斗の願いを叶えてくれた。暁斗がしたいようにすれば、律は絶対にそれを受け入れてくれたのだ。故に暁斗は律は暁斗が何を選んでも、ずっとそばにいてくれるものだと思っていた。
けれど、違ったのだ。
律にも許せないことがあって、それを暁斗は律の話すら聞かずに決めてしまった。
律は暁斗と何度も話し合おうとしていたはずだ。それなのに、その機会を全て無駄にしたのは他でもない暁斗自身だ。
律がいなくなったのは、暁斗が律のことを理解していなかったから。
――だから、律は暁斗の元を去った。
大切な番を自分のせいで失ったことに気づいた暁斗は、ただ茫然とするしかなかった。
律の居場所は見当もつかない。謝ることすら出来ず、ただ律を永遠に失ってしまったのだ。
指先が凍えるように冷たくて、呼吸がひどく苦しかった。
どれくらい、そうしていたのだろう。永遠にも思えるような長い沈黙を破ったのは、栗原の方だった。
「――君はこれからどうするんだ?」
「これから……?」
その問いに顔を上げれば、栗原は酷く険しい顔をしていた。
「篠田さんを探すのか? オメガとはいえ、篠田さんは立派に成人した男性だ。失踪届を出しても、篠田さんが自分で身辺整理をしている現状では警察はまともに取り合おうとはしないだろうし、人を雇って探すにも費用がかかる。君、篠田さんが行きそうな場所に心当たりは? 実家とか、親しい友人とか」
栗原の言葉に暁斗は首を振った。
「……律に家族はいない。両親は物心つく頃にはいなかったって言ってたし、育ててくれたおばあさんも高校のときに死んだって。友だちもいなかったんじゃないか」
暁斗が知る限り、律の最も親しい人間は暁斗だ。
働き詰めで、休日友人と出かけるようなこともなかった。他に喫茶ハイドランジアの店長夫妻にも心を開いていたようだったが、彼らは律の居場所は知らないと言っていた。
そもそも、心当たりがあればこんなところで栗原なんかと話していない。一刻も早く、そこに飛んで行っているだろう。
「篠田さんの地元は?」
「関東の、どこだったかな」
暁斗が言えば、栗原は呆れた様子で関東のとある県名を口にした。
何で知っている。というか、知っているなら聞くなよ。
おそらく栗原は律に求愛する過程で、律や暁斗のことを調べ上げている。いっそ暁斗より律のことに詳しいのかもしれない。けれど、その栗原すら律の居場所は分からない。
「君が言うとおり、篠田さんの実家はもうない。地元に帰っているとは考えにくいだろうね」
唯一の手掛かりと思っていた会社に律はおらず、栗原も居場所を知らないのだ。そうなれば、暁斗にはもう律を探すすべはなかった。
項垂れた暁斗をよそに栗原は何やら考え込んでいるようだった。顎に手を当て、真剣な顔で一点を睨んでいる。
「篠田さんがいなくなったのは、確かに君が絵を描かなくなったからだ」
栗原が、ぽつりと呟いた。
「でも、彼は俺に君が描く絵が何より好きだと言っていたんだ」
「なに……?」
「あれほどの献身を捧げていた彼が、君に愛想を尽かしたとは考えられない」
謎解きのようなことを独り言のように呟く栗原が、ぱっと顔を上げて暁斗を見た。
「絵は、君と篠田さんを繋ぐたったひとつの糸だと言っているんだ」
「糸?」
「そう。まあ比喩表現だから、そこは別に重要じゃない。よく聞いて、鴻上くん。篠田さんはたぶん、君に絵を続けて欲しくていなくなったんだ」
「は?」
栗原は「暁斗が絵を描かなくなったから律が愛想を尽かした」わけではないと断言した。
その上で、君は絵を描くべきだ、とも。
暁斗は律は暁斗のことを見限ったのだと思っていた。だから、番であるにもかかわらず、暁斗の元を離れた。それくらい律に取って許せないことをしてしまったのだと思った。
けれど、栗原は違うという。
「俺は……」
暁斗は言い淀む。
栗原の言葉が本当にそうだとして、今の自分に絵が描けるとも思えなかったのだ。
暁斗にとって律は空気のようなものだった。
そこにいるのが当たり前で、いなくなれば息をすることすら出来ない。息が出来なければ、当然絵なんて描けるわけがない。
そもそも、暁斗は律に見せたくて絵を描いていた。律が笑ってくれるから、その笑顔が見たくて描いていたのだ。
律がいないこの世界で、いったい何を想って絵を描けというのだろう。
これまで寝食を忘れて行ってきた「絵を描く」という行為。それが律を失った今では、どうやっていたのかすら思い出せない。
「俺は、律がいないと描けない」
呆然と呟けば、栗原が不愉快そうに眉を寄せた。
「それを、君は篠田さんに言った? 言っていないだろう。だから、彼は自分がいなくなれば君は絵を描くと思ったんじゃないのか。絵を描かないと、本当に篠田さんとの糸が切れてなくなってしまう」
栗原はひどく怒っていた。
それは律がいなくなった、と言ったときと同じ沸々とした激しい怒りだった。
暁斗の話を聞いていたときですら嫌悪感は隠そうとはしないものの、それでも理性的に会話していたというのに。
――絵を描けないと言った暁斗に、怒っていたのだ。
「俺は篠田さんの幸せを願って彼を諦めたんだ。それなのに、彼を手に入れたはずの君のせいで彼はいなくなってしまった。オメガが番のアルファと離れて、幸せでいられると思うのか?」
テーブルの上で握りしめられていた栗原の手は、力を籠めすぎて真っ白になっていた。
声を荒げているわけではないのにその低い声は十分怒りを含んでいて、彼の激情を暁斗に伝えてくる。
栗原はおそらく、心の底から律を愛していたのだ。
「君は絵を描き続けるべきだ」
暁斗には律を幸せにする責任がある、と栗原は言った。
「それを放棄することは許さない」
唸るように続けた栗原に暁斗は言葉を返すことが出来なかった。
それから、どうやって自分が家に帰ってきたのかを暁斗は覚えていない。
ファミレスからまさに呆然自失という様子でただ足を動かして、何とか律の匂いがするアパートに辿り着いた。
アパートの中は律の匂いで溢れていた。染み付いた油絵の具の匂いと律のフェロモンの匂い。甘くて優しくて、嗅いでいると胸が痛くなる香りだ。
その香りを嗅ぎながら、暁斗は部屋の隅に片づけられていた画材を引っ張り出して、そのまま床にぶちまけた。
古い畳の部屋に汚れたチューブに入った色とりどりの絵の具たちが転がっていく。
キャンバスは枠に張ったまま描かれていないものがあった。その真っ白なキャンバスをかつてのように部屋の中央に据えて、暁斗はその前に座る。
律と番になってから、しばらく絵を描いていなかった。
栗原は絵を描くべきだと言った。律と暁斗を繋ぐたったひとつの細い縁縁だと。
しかし、キャンバスを前にして暁斗は痛いほどに実感したのだ。
「律がいないと、描けない……」
白い布地に何を描けばいいのか分からない。
これまでの暁斗は絵を描いている間中、早く完成した絵を真っ先に律に見て欲しいと思っていた。絵を見て喜んでくれる律の顔が見たかった。
律は暁斗が絵を見せると、心底幸せだと言わんばかりの柔らかく穏やかな笑みを浮かべてくれるのだ。暁斗はその笑顔が本当に好きだった。
かつては現実から逃げ込むように描いていた絵を、いつからか律の笑顔を見るために描いていた。
それなのに、その律がいない。
律のいない部屋に帰って来て、暁斗は改めてその現実を目の当たりにした。
静まり返り人の気配のない部屋はひどく寂しくて、それまで滾々と湧き出ていた水が突然枯れてしまったような乾きと絶望だけがそこにはあった。
息が出来ない。苦しくて窒息してしまいそうだった。
――けれども、描かなければ二度と律に会えない。
悲しくて苦しくて、暁斗は畳の上に崩れ落ちた。
「律、律……」
暁斗の切れ長の瞳から、知らず涙が溢れてくる。
どうしていなくなってしまったのか。
魂の半身。暁斗の世界そのもの。
畳の上に横たわったまま、暁斗はただ部屋の天井を見上げていた。陽が傾き、部屋の中は徐々に暗闇に包まれていく。
――電気点けなよ、暁斗。こんなに暗くちゃ描きにくいでしょう。
かつて、真っ暗な部屋で絵を描いていた暁斗にそう笑いかけてくれた、暁斗のたったひとりの番。
その笑顔を思い出していたときだ。律の面影を追いかけるように手を伸ばした瞬間、部屋の隅で何かがばさりと崩れ落ちた。暁斗は反射的に体を起こしてそちらを振り向いた。
闇に沈んだ部屋は暗く、音のした場所はよく見えなかった。
それでもこのときの暁斗はその音の正体が、何故か無性に気になったのだ。
手探りで部屋の隅を探れば、指先に触れたのは馴染んだ硬く乾いた感触があった。それは擦り切れた数冊のスケッチブックだった。
暁斗はそのスケッチブックを手に取り、ぱらぱらと頁を捲る。
数日前、暁斗が夢中になって鉛筆を走らせていたそのスケッチブックには、全ての頁が「律」で埋まっていた。
番になる前から、暁斗が描く人物画は律だけだった。番になってからは愛しすぎてどうしようもなくて、ただひたすら律ばかりを描いていた。
笑った顔。真剣に前を向く横顔。穏やかに眠る顔。
たくさん描いたから、スケッチブックの中には色々な表情をした律がいた。けれども、やはり多いのは暁斗の方を向いて嬉しそうに微笑んでいる律だ。
「ここにいた……」
微笑む律を見て暁斗は呟いた。指先で「律」を形作る鉛筆の線をゆっくりとなぞる。
思い出すのは律にふれたときのその柔らかさだ。滑らかでふっくらとしていて、そして律の肌はいつだっていい匂いがした。
その感触を、匂いを、味を思い出して、暁斗は咄嗟に筆を取った。
覚えているうちに描かなくてはいけない。そう強く思ったのだ。
――律、ごめん。
たくさん負担をかけてごめん。
勝手に絵をやめると決めてごめん。
こんなに一緒にいたのに、こんなに律は俺のことを考えてくれたのに。
律のことを、考えないまま番ってしまってごめん。
俺の――番の元から離れるという選択をさせてごめん。
それでもまだ、こんなに好きでごめん。
暁斗は心の中で謝罪しながら、ただ一心不乱に筆を動かした。
キャンバスを睨む瞳からは、ぼろぼろと涙が溢れては零れ落ちていく。
心臓が痛くて、呼吸が苦しかった。きっと自分は律を失って、そのうち窒息して死ぬのだろう。
それでも――、と暁斗は思う。
いつか死ぬなら、死ぬその瞬間まで絵を描いていよう。
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