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栗原に声をかけられた日から、律のつまらないが平穏な日常は終わりを告げた。
物品倉庫での一件は、誰にも見られてはなかった。けれども律は考えるべきだったのだ。
何故、栗原は律が物品倉庫にいることを知っていたのだろうか、と。
「篠田さん、なんで栗原さんからのお誘い断っちゃったんですか?」
隣のデスクに座った女子社員――海江田まゆが無遠慮に律に訊ねた。
海江田は綺麗に磨かれた爪を眺めながら、何やらパソコンを弄っている。
彼女の業務は律とは違い、社内企画の立案と実行だ。毎年の社員旅行や夏の納涼大会の実行などがそれにあたる。パソコンの画面をちらりと見ると、今は来週予定されている新人研修の計画書を見直しているようだった。
「なんでって、行きたくないからだけど……」
「栗原さんに誘われて、行きたくないなんてことあります?」
「ありますよ」
うんざりした様子で言うと、海江田ははぁ~? と高い声を上げる。
「全然理解できない~! 篠田さんが行かないなら私が行きたいですぅ~!」
「行ったらいいじゃない。誘ってみたら?」
「誘ってオッケーしてもらえないから言ってるんですよぉ! 秘書課のありさ様だって無理だったのに!」
「へぇ~」
誰だ、ありさ様。
そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか。聞いてもいないのに海江田は「ありさ様とは」というご高説を垂れてくれた。
海江田曰く、ありさ様とは秘書課の美人女性アルファのことらしい。律は知らなかったが、その美しさと華やかさで栗原に負けず劣らずの有名人だという。
「そのありさ様が、栗原さんを食事に誘って断られたの?」
「そうです、そうです~。あのありさ様が誘ってもダメだってことで、栗原さん難攻不落~って言われてたのに、いきなり総務部来て篠田さんのこと聞いてくるし! あの後、大騒ぎだったんですからね!」
「ははは」
大騒ぎだったのは海江田を始めとした総務部の女子社員たちだ。
その後、あっと言う間に噂が広まって、律は「栗原が興味を持った総務部の地味オメガ」として一躍有名人になってしまったのだ。
彼女たちが無駄に騒ぎ立てなければ、そんなことにならなかったのでは? と思わざるをえない律は、もはや乾いた笑いしか出てこない。
有名になったからと言って、律の日常は大きくは変わらなかった。ただ、いつものように物品の配達に行くと、知らない人たちに妙に絡まれるというだけだ。
遠巻きにじろじろ見られたり、世間話を振られたり。不躾な相手だと項を直接見られたりもしたが、それだって別に害があるわけではない。ただただ、周囲がうるさくなった。それが律には少々息苦しい。
それに――。
「篠田さん。昼休憩、一緒しませんか?」
昼休憩の時間、総務部にやってきた栗原が言った。
あれから、栗原はよく総務部に顔を出すようになった。彼も仕事があるだろうから、毎日というわけではない。しかし、出来るだけ会いたくない相手が、わざわざ自分に会いに来る状況というのは、律にとってなかなかのストレスだった。
「昼は、持って来てるのでここで食べます」
「前もそう言っていたので、俺も持ってきたんです。隣いいですか?」
断っても食い下がって来た栗原に、律は貼り付けた笑みを返した。
いいわけないだろう。
律の隣のデスクは海江田だ。彼女はいつもお弁当で、それを自分のデスクで食べている。今日だってもちろん、律の隣の席には海江田が座っている――はずだった。
気づけば、彼女はそそくさとパーティションで区切られた休憩スペースへと移動するところだった。何を要らない気を回しているんだ。そう思っても、大声で呼び止めるわけにもいかず、無力な律には彼女を引き留めることは出来なかった。
あげく、パーティションの向こうに消える瞬間、ちらりとこちらを見て、律に向かって親指を立てた。サムズアップはいらない。海江田こそ、栗原と一緒に食事がしたいと言っていたはずなのに。
「篠田さん、昼飯それだけ?」
海江田の席に座った栗原が、律の手元を覗き込んでいた。
律が持ってきたのは自分で握ったおにぎりがひとつだけだった。それは昨日の夕飯で残った分で、確かに成人男性の一食分にしては少ないかもしれない。
「これだけです」
「だからそんなに細いんですよ。もっと食べてください。はい、これどうぞ」
そう言って、栗原は近くの店で買って来たらしい幕ノ内弁当を差し出してくる。箸につままれた卵焼きは鮮やかな黄色で、綺麗な四角形をしていた。
「大丈夫ですよ」
元々、律はそれほど食べる方ではない。オメガだから小柄で痩躯なのか、それとも量を食べられないからそうなのかはよく分からない。
「もらってください。ここの幕の内、美味しいですよ」
断っても栗原は引き下がらなかった。弁当の蓋を皿にして、卵焼きの他にも焼き鮭やかまぼこなんかを乗せた。そしてふたたび律の口元に箸を持ってくる。
その有無を言わさぬ圧に、律は思わず口を開けた。
アルファの圧に負けて素直に口を開いたオメガを見て、栗原はどう思ったのか。彼は与えられた卵焼きを咀嚼する律を見て、蕩けるように微笑んだ。
生来、アルファという種は世話好きな者が多いのだという。自らの番を誰の目にも晒さぬように庇護し、世話を焼くことを無上の喜びとする彼らは、こうやって番に給餌することを好む。
律は栗原の番ではないけれど、栗原が律に近づいてくる理由はなんとなく分かっている。
「あの……」
「なんですか?」
「こういうの、迷惑なのでやめてもらってもいいですか?」
律の言葉にそれまでとろりと微笑んでいた栗原が悲しそうに眉を下げた。その変化に律の胸が裂けるように痛んだ。
実のところ、律は栗原に会うと恐ろしいほどの多幸感に包まれる。姿を見られれば嬉しいし、その香りを嗅ぐと抑制剤を飲んでいても胎の奥が疼くような感覚がある。
おそらく、栗原と律はひどく相性がいいのだろう。それも遺伝子レベルで。
彼が律の発情期を誘発するように、おそらく律も栗原の中に何かを齎しているのだ。
――運命の番。
栗原と会うと、いつもそんな単語が頭に浮かぶ。
けれど、律はそんなものを受け入れる気はなかった。だって律にはどうしようもなく恋焦がれる相手がいるのだ。本能ではなく、理性で恋をしている。
だからこそ、律は言葉を尽くして栗原の好意を拒絶する。
これから先、彼を受け入れる気がないのであれば、これ以上距離を縮めるのはお互いにとって良くないことだと思うからだ。
「おにぎりだけで、足りるので」
それだけを言って、律はおにぎりを口一杯に頬張った。栗原が何かを言いかけて、諦めたように口を噤む。
栗原は律に近づいてくるくせに、決定的な言葉は口にしなかった。
すれば、律から断られることが分かっているのだろう。彼は穏やかで優しいが、そういうところは狡猾なアルファらしいとも言える。
それから、弁当を食べ終わるまで律は一言も喋らなかった。
栗原は何度か話しかけてきたが、まともに返事すらしない律に、彼は困ったように笑うだけだった。
律の口数が少ないのは元からで、特に会社では業務以外のことは極力話さないようにしている。話しかけられたら最低限の返事はするが、それだけだ。
本能的に栗原を好ましく思ってしまうので彼には言葉を返していたが、それがいけなかったのかもしれない。
栗原とこれ以上親密になる気はない。その意思を貫くために、律は栗原の方を一瞥すらしなかった。
物品倉庫での一件は、誰にも見られてはなかった。けれども律は考えるべきだったのだ。
何故、栗原は律が物品倉庫にいることを知っていたのだろうか、と。
「篠田さん、なんで栗原さんからのお誘い断っちゃったんですか?」
隣のデスクに座った女子社員――海江田まゆが無遠慮に律に訊ねた。
海江田は綺麗に磨かれた爪を眺めながら、何やらパソコンを弄っている。
彼女の業務は律とは違い、社内企画の立案と実行だ。毎年の社員旅行や夏の納涼大会の実行などがそれにあたる。パソコンの画面をちらりと見ると、今は来週予定されている新人研修の計画書を見直しているようだった。
「なんでって、行きたくないからだけど……」
「栗原さんに誘われて、行きたくないなんてことあります?」
「ありますよ」
うんざりした様子で言うと、海江田ははぁ~? と高い声を上げる。
「全然理解できない~! 篠田さんが行かないなら私が行きたいですぅ~!」
「行ったらいいじゃない。誘ってみたら?」
「誘ってオッケーしてもらえないから言ってるんですよぉ! 秘書課のありさ様だって無理だったのに!」
「へぇ~」
誰だ、ありさ様。
そう思ったのが顔に出てしまったのだろうか。聞いてもいないのに海江田は「ありさ様とは」というご高説を垂れてくれた。
海江田曰く、ありさ様とは秘書課の美人女性アルファのことらしい。律は知らなかったが、その美しさと華やかさで栗原に負けず劣らずの有名人だという。
「そのありさ様が、栗原さんを食事に誘って断られたの?」
「そうです、そうです~。あのありさ様が誘ってもダメだってことで、栗原さん難攻不落~って言われてたのに、いきなり総務部来て篠田さんのこと聞いてくるし! あの後、大騒ぎだったんですからね!」
「ははは」
大騒ぎだったのは海江田を始めとした総務部の女子社員たちだ。
その後、あっと言う間に噂が広まって、律は「栗原が興味を持った総務部の地味オメガ」として一躍有名人になってしまったのだ。
彼女たちが無駄に騒ぎ立てなければ、そんなことにならなかったのでは? と思わざるをえない律は、もはや乾いた笑いしか出てこない。
有名になったからと言って、律の日常は大きくは変わらなかった。ただ、いつものように物品の配達に行くと、知らない人たちに妙に絡まれるというだけだ。
遠巻きにじろじろ見られたり、世間話を振られたり。不躾な相手だと項を直接見られたりもしたが、それだって別に害があるわけではない。ただただ、周囲がうるさくなった。それが律には少々息苦しい。
それに――。
「篠田さん。昼休憩、一緒しませんか?」
昼休憩の時間、総務部にやってきた栗原が言った。
あれから、栗原はよく総務部に顔を出すようになった。彼も仕事があるだろうから、毎日というわけではない。しかし、出来るだけ会いたくない相手が、わざわざ自分に会いに来る状況というのは、律にとってなかなかのストレスだった。
「昼は、持って来てるのでここで食べます」
「前もそう言っていたので、俺も持ってきたんです。隣いいですか?」
断っても食い下がって来た栗原に、律は貼り付けた笑みを返した。
いいわけないだろう。
律の隣のデスクは海江田だ。彼女はいつもお弁当で、それを自分のデスクで食べている。今日だってもちろん、律の隣の席には海江田が座っている――はずだった。
気づけば、彼女はそそくさとパーティションで区切られた休憩スペースへと移動するところだった。何を要らない気を回しているんだ。そう思っても、大声で呼び止めるわけにもいかず、無力な律には彼女を引き留めることは出来なかった。
あげく、パーティションの向こうに消える瞬間、ちらりとこちらを見て、律に向かって親指を立てた。サムズアップはいらない。海江田こそ、栗原と一緒に食事がしたいと言っていたはずなのに。
「篠田さん、昼飯それだけ?」
海江田の席に座った栗原が、律の手元を覗き込んでいた。
律が持ってきたのは自分で握ったおにぎりがひとつだけだった。それは昨日の夕飯で残った分で、確かに成人男性の一食分にしては少ないかもしれない。
「これだけです」
「だからそんなに細いんですよ。もっと食べてください。はい、これどうぞ」
そう言って、栗原は近くの店で買って来たらしい幕ノ内弁当を差し出してくる。箸につままれた卵焼きは鮮やかな黄色で、綺麗な四角形をしていた。
「大丈夫ですよ」
元々、律はそれほど食べる方ではない。オメガだから小柄で痩躯なのか、それとも量を食べられないからそうなのかはよく分からない。
「もらってください。ここの幕の内、美味しいですよ」
断っても栗原は引き下がらなかった。弁当の蓋を皿にして、卵焼きの他にも焼き鮭やかまぼこなんかを乗せた。そしてふたたび律の口元に箸を持ってくる。
その有無を言わさぬ圧に、律は思わず口を開けた。
アルファの圧に負けて素直に口を開いたオメガを見て、栗原はどう思ったのか。彼は与えられた卵焼きを咀嚼する律を見て、蕩けるように微笑んだ。
生来、アルファという種は世話好きな者が多いのだという。自らの番を誰の目にも晒さぬように庇護し、世話を焼くことを無上の喜びとする彼らは、こうやって番に給餌することを好む。
律は栗原の番ではないけれど、栗原が律に近づいてくる理由はなんとなく分かっている。
「あの……」
「なんですか?」
「こういうの、迷惑なのでやめてもらってもいいですか?」
律の言葉にそれまでとろりと微笑んでいた栗原が悲しそうに眉を下げた。その変化に律の胸が裂けるように痛んだ。
実のところ、律は栗原に会うと恐ろしいほどの多幸感に包まれる。姿を見られれば嬉しいし、その香りを嗅ぐと抑制剤を飲んでいても胎の奥が疼くような感覚がある。
おそらく、栗原と律はひどく相性がいいのだろう。それも遺伝子レベルで。
彼が律の発情期を誘発するように、おそらく律も栗原の中に何かを齎しているのだ。
――運命の番。
栗原と会うと、いつもそんな単語が頭に浮かぶ。
けれど、律はそんなものを受け入れる気はなかった。だって律にはどうしようもなく恋焦がれる相手がいるのだ。本能ではなく、理性で恋をしている。
だからこそ、律は言葉を尽くして栗原の好意を拒絶する。
これから先、彼を受け入れる気がないのであれば、これ以上距離を縮めるのはお互いにとって良くないことだと思うからだ。
「おにぎりだけで、足りるので」
それだけを言って、律はおにぎりを口一杯に頬張った。栗原が何かを言いかけて、諦めたように口を噤む。
栗原は律に近づいてくるくせに、決定的な言葉は口にしなかった。
すれば、律から断られることが分かっているのだろう。彼は穏やかで優しいが、そういうところは狡猾なアルファらしいとも言える。
それから、弁当を食べ終わるまで律は一言も喋らなかった。
栗原は何度か話しかけてきたが、まともに返事すらしない律に、彼は困ったように笑うだけだった。
律の口数が少ないのは元からで、特に会社では業務以外のことは極力話さないようにしている。話しかけられたら最低限の返事はするが、それだけだ。
本能的に栗原を好ましく思ってしまうので彼には言葉を返していたが、それがいけなかったのかもしれない。
栗原とこれ以上親密になる気はない。その意思を貫くために、律は栗原の方を一瞥すらしなかった。
応援ありがとうございます!
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