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第八話 国王の望み

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 最近、アレクシスの様子が少しおかしい。

 いや、おかしいとは違う気もするが、とりあえず前とはエドワードに対する態度が少々違うのだ。つわりも治ってきたと言っていたから、体調が悪いというわけでもなさそうだった。
 とはいえ、彼の変化に気づいているのはおそらくエドワードだけだ。

 いや、アルバートあたりは何かを察しているような気もする。けれどもあれは少々特殊なので参考にはならない。
 アレクシスのどこがおかしいのか。感じていた違和感を探すために、エドワードはじっくりとアレクシスのことを観察することにした。するとますますその疑念は確信に変わる。

 まず目が合わなくなった。アレクシスは元々伏目がちで、エドワードとはめったに視線を合わせなかった。常に無表情で冷静。それでもふたりで行う公務の際や国政の話をするときは、真剣な目でエドワードを見ていた。
 それが最近は何やらそわそわとした様子なのだ。俯いたり横を向いたり、普段の彼からするとずいぶんと落ち着きがない。おまけにまったく目が合わなくなってしまった。

 しかし、エドワードは彼が眦を薄ら赤く染める様子にどこか懐かしさを感じていた。けれども、その懐かしさの正体が掴めない。
 いつも陶器の人形のように取り澄ましたアレクシスだ。その睫毛は氷のように繊細で、青く澄んだ瞳は宝石のように感情を表に出すことはない。そんな彼のはにかむ顔など、いったいいつ見たのだろうか。

 数日悩んでいたエドワードだったが、ある日、王宮の中庭で並ぶアルバートと彼の婚約者メルヴィスを見かけた。初々しいふたりを見て、王はそうか、今日は月に一度の面会の日か、と思う。

 メルヴィスは東の辺境伯家出身のオメガで、その婚姻は王自身が決めたものだ。まごうことなき政略結婚。今後の東方諸国に対する貿易や防衛を考慮した縁組だった。

 しかし、どうやらふたりの仲は良好のようだった。長く不仲(王としてはそのつもりはなかったが)である両親を見てきたせいか、アルバートは婚約者に対して初対面のときからかなり気を遣っているようだった。メルヴィスもそんなアルバートを見て、頬を染めて微笑んでいる。
 そのはにかむ様子を見て、王はああ、と古い記憶を思い出した。

 あれは、まだ自分たちがすれ違う前。つまり本当に出会った当初──もう、三十年近く前のことだ。
 あの頃、確かにあんな目でアレクシスが自分のことを見つめていたことがあった。控えめで決して自己主張をすることのなかった彼だが、まだ若い頃はもう少し表情が表に出ていたのだ。

 その春の若葉のように瑞々しく、稚い表情を当時のエドワードは好ましく思っていたはずだった。けれども、彼の淡い好意を踏み躙り、台無しにしてしまったのは、エドワード自身だ。
 エドワードはその甘酸っぱくも苦い記憶を思い出したと同時に、湧き上がる喜びを隠しきれなかった。アレクシスのあの態度は、十代の少年だった頃の彼と同じだった。
 つまり王が若気の至りを起こし、自分たちの間にはるか深い溝ができる前の彼の態度だ。

(これはひょっとして、少し距離が縮まってきたということだろうか)

 何がきっかけだったのかはよく分からない。しかし、アレクシスの頑なだった態度が和らいできているのは事実だった。

 鼻歌を歌いながら、エドワードは政務を片付けた。宰相が変な顔をしてこちらを見ていたが気にしないことにする。

 仕事終わり、毎日足を向けるのはアレクシスの元だ。悪阻の真っ最中は食べ物の匂いもダメだというのでやめていたが、晩餐を一緒に、という誘いは今では習慣のようになっていた。

 急いで食堂に行けば、アレクシスはもうすでに席に着いていた。淡い水色のフロックコートを着て、首元は青いタイをつけている。その春の花のような装いに、エドワードは年甲斐もなく胸が高鳴るのを感じた。

 可愛らしい。そう思ったとおりのことを口にすれば、アレクシスは案の定頬を赤く染めて俯いてしまった。嫌がっているわけではなさそうだったから、テーブルの上に置いてある彼の手をそっと握る。その瞬間、面白いくらい大きくアレクシスの細い肩が跳ねた。

 思えば、発情期に何度も抱き合って、その上五人の子どももいるというのに、こうして手を繋いだことはなかったように思う。

「陛下……」

 困ったように呟いて、手を離して欲しい、と言わんばかりにアレクシスは自らの手を引こうとする。それを無理やり押し止めて、エドワードは彼の手を両手で握りしめた。

「体調はどうだ?」

 目を合わせて問えば、アレクシスの顔はますます赤くなる。可愛い。
 妊娠してから、もうずっと彼に触れていない。元々、自分たちは発情期以外の触れ合いがほとんどなかった。その三か月に一度の発情期ですら、お互いに義務として淡々と過ごしていた始末だ。今更、なんと勿体無いことをしてきたのだろうかと思う。

 エドワードはもっとアレクシスに触れたいと思った。今以上にそばにいて、彼の様々な表情を見たい。彼の全てが欲しかった。

「アレクシス」

 名前を呼べば、彼は素直に顔を上げた。白い顔が仄かに薄紅に染まって、可憐としか言いようがなかった。

「次の発情期で番にならないか」

 何を考えていたわけではない。ただぽろりと溢れた言葉はエドワードの本音だった。
 以前同じように番契約を提案したとき、アレクシスはその申し出をさらりと断った。取り付く島もない、見事な社交辞令と華麗な受け流し方だった。

 しかし今は頬を赤く染めたままうろうろと視線を彷徨わせている。それは断ろうかどうしようかと迷っている顔だったが、以前に比べると明らかに反応が違う。そこに希望を見出して、エドワードはさらに言葉を続ける。

「君が嫌ではないなら、前向きに考えて欲しい」
「……この子を産んでしばらくしないと発情期は来ません」

 迷いながらようやくアレクシスが言ったのは、そんなことだった。

「そもそも、もういい歳ですし……。最近は周期も不安定でしたから、産後も長いこと来ないと思います。それでもいいのですか」

 そう呟いたアレクシスの揺れる瞳がじわりと滲む。きっと不安なのだろう。一度手酷く裏切ったエドワードを信じることが。
 オメガにとって、番関係は婚姻よりも重い。

 だからこそアレクシスは、エドワードからのその申し出を長年断ってきた。他のことであればどんな無理難題でも何の文句もなく諾々とエドワードに従うだけの彼が、番にだけは決してなってはくれなかった。
 それが何の不満も言わないアレクシスの出したエドワードへの答えだった。

 アレクシスは二十年以上前のエドワードの愚行を、今もあの頃もきっと怒ってはいないのだろう。ただエドワードの選択を全て受け入れ、諦めていたにすぎない。エドワードの前で笑わなくなったのも、主張しなくなったのも、彼の心が静かにエドワードから離れたからだ。

 怒っていない相手からもらうのは、ひどく難しいことだ。だって、アレクシスはのだから、エドワードがどれほど誠心誠意謝っても許しようがない。
 
 それでもエドワードは、アレクシスからのがどうしても欲しかった。
 それがきっと番契約の許可であり、アレクシスが心を開いてくれたという証なのだろうと思う。

 アレクシスはエドワードの全てを受け入れてくれる。けれどもきっと、心の底からエドワードを信じてくれることはこの先もきっとない。それ故の猜疑心と不安を植え付けたのは、他でもないエドワード自身だ。

 かつての己の愚行を恨めしく思いつつ、しかし、それでもいいとエドワードは頷いた。
 固く閉じたアレクシスの心が、少しだけ綻んでいるような気がした。

 エドワードはアレクシスを信じている。彼が自分を信じてくれなくても、自分が彼を信じているからそれでいいと思えた。そして、エドワードはああ、と嘆息した。
 アレクシスが誰よりも可愛く見えるのも、愛おしく思うのも、きっとエドワードが彼に恋をしているからだ。

「恋をしてみたい」と自らが言ったとおり、エドワードはまんまと恋に落ちた。
 もしかしたら自覚がなかっただけで、自分はもうずっとアレクシスに恋焦がれていたのかもしれない。

 そのことにようやく気付いたとき、エドワードが感じたのは喜びと絶望だった。
 恋する相手とすでに結婚している幸福な現実とは裏腹に、自分はかつてその相手を裏切りひどく傷つけたことがある。その事実はどうやっても消すことが出来ない。

「待っている」

 それでも受け入れてくれようとするアレクシスがひどく愛おしかった。

 ――愛している。

 だから、発情期が始まるまで。アレクシスの決心がつくまで、いつまでも待っている。
 そう言ってその白い手を握る自らのそれに力を込めると、何故か泣きそうな顔をした彼が、静かに頷いた。
 それを見て、エドワードもまた心に込み上げる何かを必死に呑み込んだのだった。


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