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第一話 正妃の困惑
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「恋がしてみたいんだが」
いきなり呼び出されて、国王エドワード三世に言われた言葉がこれだ。
硝子越しに射し込む日差しが眩しくて、アレクシスはその薄青色の瞳を眇めた。
王宮内にある全面硝子張りの温室は、よくエドワードがアレクシスとの面会に使う場所だった。入り口がひとつしかない室内は人払いがしやすく、落ち着いて話が出来る。その上、会話に詰まれば至る所に置かれた異国の草花の話をすればいいのだ。国政についてくらいしか共通の話題がない自分たちにとっては、有り難い場所でもある。
今だって、ああ、名前も知らない赤い花が綺麗に咲いているな、なんて思ってしまって慌ててエドワードに視線を戻す。
驚きすぎて呆けている場合ではなかった。すぐに平静を取りもどしていつもの澄ました表情を作る。
「……それはつまり、側妃を入れたいということでしょうか」
アレクシスはエドワードの正妃だった。
名前をアレクシス・シャロン・メルクラント・アルビオンという。
二次性はオメガで、男の身体をしているが子どもを産むことが出来た。だからこそ、この国の正妃を務めている。
生まれは隣国メルクラント王国で、エドワードとはアレクシスの二次性がオメガであると判明した瞬間から婚姻が決まっていた。文句のつけようがない正真正銘の政略結婚だ。
エドワードとの仲は特別よいというわけでもない。けれども、発情期は義務として毎回一緒に過ごしており、その結果ふたりの間には五人の子どもたちがいる。性別は全て男子で、二次性はアルファとベータがふたりずつ。末の王子はまだ判定前だから分からないけれど、たぶんベータだろう。
一国の王であるエドワードは当然、日々を多忙に過ごしている。アレクシスの方もエドワード王のたったひとりの妃としてやることは山ほどあった。お互いに忙しく国中を飛び回っているので、顔を合わせるのがひと月ぶりというときも多い。
今がまさにそれで、隣国に視察に行っていた王が帰国した途端、呼び出されてそう言われたのだった。
そういえば、結婚してもうずいぶんと経つな、とアレクシスは思う。
一番上の王子は昨年の春、王立学園を卒業した。もうとっくに王がオメガと結婚した歳は越している。成人も迎え、先日王が選んだ相手と婚約したところだ。
性格も能力も跡継ぎとして申し分なく、王太子としての地位は盤石だった。
(それで、そろそろ側妃か)
今、王宮に妃はアレクシスしかいない。王太子として第一王子の地位が固まった今であれば、側妃が増えても後継者争いなどは起こりにくいだろうし、王の慰めという意味合いではもう数人いてもよいのかもしれない。
「なるほど、では幾人かオメガかベータの女性をみつくろいましょうか。その中から気に入った方を王宮に迎えたらよろしいかと。後継の争いがあっても面倒なので、お相手の身分は少々低くなりますが……」
ご了承くださいませ、と続けようとしたところでエドワードが「待て、なんでそうなる」と声を上げた。
「え?」
「誰が側妃が欲しいと言った」
「陛下が今、恋がしたいと……」
おっしゃったでしょう、と首を傾げると、エドワードは盛大なため息をつく。
「それは言ったが、別に相手はお前でもいいだろう」
「え」
「なんだ、あれだけ発情期を一緒に過ごしておいて君は俺のことが嫌いなのか」
驚き瞬くアレクシスにエドワードはひどく怪訝な顔をして言う。
「君は嫌いな相手の子を五人も生んだのか」
その言葉に、アレクシスは慌てて首を横に振った。
「嫌いだなど、とんでもありません」
「では好きか」
「それは……」
エドワードの問いに、アレクシスは口を噤む。
何と答えれば彼の機嫌を損ねないか、咄嗟に判断できなかったからだ。
だって、好きか嫌いかなんて、これまで一度だって考えたことがなかった。エドワードとの婚姻はアレクシスがオメガと判明したときからの義務で、初めて会ったときも怖い相手じゃなくてよかったと思った程度だ。運命なんかではなく、激しく相手を求める欲望もなかった。
アレクシスがエドワードと結婚したのは十三歳のときだ。当時はもちろん発情期なんて来ていなくて、ふたつ年上のまだ王子だったエドワードとの結婚生活は、最初はままごとのようなものだった。
貴族の子女のために用意された王立学園にともに通い、公務をこなした。そのうち発情期を迎えて、学園を卒業してから一人目の子を生んだ。番にはなっていない。この国の国王は、三人まで側妃を迎えることが出来るからだ。国王夫妻は慣例的に番にならないことが多く、エドワードとアレクシスもまたそうだった。
全ては決まっていたことだった。
アレクシスの希望や意思はそこには存在せず、ただ国同士の契約として自分たちの関係があった。それはエドワードも同じだったはずだ。
それなのに、なんで今更こんなことを言うのだろうか。
「困った顔をするな。地味に傷つく」
そんな心の内が、つい顔に出てしまったのだろう。困惑するアレクシスを見て、エドワードが普段は無表情の癖に、と苦笑した。
「君と結婚してからもう長いこと経ったが、実際一緒に過ごした時間はそう長くはないだろう」
「そうですね」
王子と王子妃だった頃から、ふたりは多忙だった。当時、エドワードは王になるために先代から執務の一部を任されていたし、アレクシスもまた正妃教育を受けていた。
ふたり仲良く過ごした時間など、それこそ発情期のときくらいしかなくて、だからこそエドワードの言葉の真意がよく分からない。
「第一王子にも政務を引き継いでいる。そろそろ君とゆっくりする時間が取れそうなんだ」
「はぁ……」
「だから、ゆっくり俺と恋でもしないか」
「えっ」
「そんなに驚くことだろうか……」
思いもかけないエドワードの言葉に、アレクシスはさらに驚いた。だって、そんな。
――陛下と恋だなんて。
「陛下こそ私のことはお嫌いなのでは?」
思わず、と言った様子でアレクシスが訊ねると、エドワードがその端整な顔を盛大にしかめた。緑色の瞳が細められて、アレクシスを見つめる。
「二十年以上前のことをまだ言っているのか」
その苦々しい口調には後悔と羞恥が滲んでいた。
しかしアレクシスはその後悔に気づかないふりをして、膝の上で組んだ指に強く力を入れた。かつて葬り去った感情に、もう一度しっかりと蓋をして思い出さないようにするためだ。
いきなり呼び出されて、国王エドワード三世に言われた言葉がこれだ。
硝子越しに射し込む日差しが眩しくて、アレクシスはその薄青色の瞳を眇めた。
王宮内にある全面硝子張りの温室は、よくエドワードがアレクシスとの面会に使う場所だった。入り口がひとつしかない室内は人払いがしやすく、落ち着いて話が出来る。その上、会話に詰まれば至る所に置かれた異国の草花の話をすればいいのだ。国政についてくらいしか共通の話題がない自分たちにとっては、有り難い場所でもある。
今だって、ああ、名前も知らない赤い花が綺麗に咲いているな、なんて思ってしまって慌ててエドワードに視線を戻す。
驚きすぎて呆けている場合ではなかった。すぐに平静を取りもどしていつもの澄ました表情を作る。
「……それはつまり、側妃を入れたいということでしょうか」
アレクシスはエドワードの正妃だった。
名前をアレクシス・シャロン・メルクラント・アルビオンという。
二次性はオメガで、男の身体をしているが子どもを産むことが出来た。だからこそ、この国の正妃を務めている。
生まれは隣国メルクラント王国で、エドワードとはアレクシスの二次性がオメガであると判明した瞬間から婚姻が決まっていた。文句のつけようがない正真正銘の政略結婚だ。
エドワードとの仲は特別よいというわけでもない。けれども、発情期は義務として毎回一緒に過ごしており、その結果ふたりの間には五人の子どもたちがいる。性別は全て男子で、二次性はアルファとベータがふたりずつ。末の王子はまだ判定前だから分からないけれど、たぶんベータだろう。
一国の王であるエドワードは当然、日々を多忙に過ごしている。アレクシスの方もエドワード王のたったひとりの妃としてやることは山ほどあった。お互いに忙しく国中を飛び回っているので、顔を合わせるのがひと月ぶりというときも多い。
今がまさにそれで、隣国に視察に行っていた王が帰国した途端、呼び出されてそう言われたのだった。
そういえば、結婚してもうずいぶんと経つな、とアレクシスは思う。
一番上の王子は昨年の春、王立学園を卒業した。もうとっくに王がオメガと結婚した歳は越している。成人も迎え、先日王が選んだ相手と婚約したところだ。
性格も能力も跡継ぎとして申し分なく、王太子としての地位は盤石だった。
(それで、そろそろ側妃か)
今、王宮に妃はアレクシスしかいない。王太子として第一王子の地位が固まった今であれば、側妃が増えても後継者争いなどは起こりにくいだろうし、王の慰めという意味合いではもう数人いてもよいのかもしれない。
「なるほど、では幾人かオメガかベータの女性をみつくろいましょうか。その中から気に入った方を王宮に迎えたらよろしいかと。後継の争いがあっても面倒なので、お相手の身分は少々低くなりますが……」
ご了承くださいませ、と続けようとしたところでエドワードが「待て、なんでそうなる」と声を上げた。
「え?」
「誰が側妃が欲しいと言った」
「陛下が今、恋がしたいと……」
おっしゃったでしょう、と首を傾げると、エドワードは盛大なため息をつく。
「それは言ったが、別に相手はお前でもいいだろう」
「え」
「なんだ、あれだけ発情期を一緒に過ごしておいて君は俺のことが嫌いなのか」
驚き瞬くアレクシスにエドワードはひどく怪訝な顔をして言う。
「君は嫌いな相手の子を五人も生んだのか」
その言葉に、アレクシスは慌てて首を横に振った。
「嫌いだなど、とんでもありません」
「では好きか」
「それは……」
エドワードの問いに、アレクシスは口を噤む。
何と答えれば彼の機嫌を損ねないか、咄嗟に判断できなかったからだ。
だって、好きか嫌いかなんて、これまで一度だって考えたことがなかった。エドワードとの婚姻はアレクシスがオメガと判明したときからの義務で、初めて会ったときも怖い相手じゃなくてよかったと思った程度だ。運命なんかではなく、激しく相手を求める欲望もなかった。
アレクシスがエドワードと結婚したのは十三歳のときだ。当時はもちろん発情期なんて来ていなくて、ふたつ年上のまだ王子だったエドワードとの結婚生活は、最初はままごとのようなものだった。
貴族の子女のために用意された王立学園にともに通い、公務をこなした。そのうち発情期を迎えて、学園を卒業してから一人目の子を生んだ。番にはなっていない。この国の国王は、三人まで側妃を迎えることが出来るからだ。国王夫妻は慣例的に番にならないことが多く、エドワードとアレクシスもまたそうだった。
全ては決まっていたことだった。
アレクシスの希望や意思はそこには存在せず、ただ国同士の契約として自分たちの関係があった。それはエドワードも同じだったはずだ。
それなのに、なんで今更こんなことを言うのだろうか。
「困った顔をするな。地味に傷つく」
そんな心の内が、つい顔に出てしまったのだろう。困惑するアレクシスを見て、エドワードが普段は無表情の癖に、と苦笑した。
「君と結婚してからもう長いこと経ったが、実際一緒に過ごした時間はそう長くはないだろう」
「そうですね」
王子と王子妃だった頃から、ふたりは多忙だった。当時、エドワードは王になるために先代から執務の一部を任されていたし、アレクシスもまた正妃教育を受けていた。
ふたり仲良く過ごした時間など、それこそ発情期のときくらいしかなくて、だからこそエドワードの言葉の真意がよく分からない。
「第一王子にも政務を引き継いでいる。そろそろ君とゆっくりする時間が取れそうなんだ」
「はぁ……」
「だから、ゆっくり俺と恋でもしないか」
「えっ」
「そんなに驚くことだろうか……」
思いもかけないエドワードの言葉に、アレクシスはさらに驚いた。だって、そんな。
――陛下と恋だなんて。
「陛下こそ私のことはお嫌いなのでは?」
思わず、と言った様子でアレクシスが訊ねると、エドワードがその端整な顔を盛大にしかめた。緑色の瞳が細められて、アレクシスを見つめる。
「二十年以上前のことをまだ言っているのか」
その苦々しい口調には後悔と羞恥が滲んでいた。
しかしアレクシスはその後悔に気づかないふりをして、膝の上で組んだ指に強く力を入れた。かつて葬り去った感情に、もう一度しっかりと蓋をして思い出さないようにするためだ。
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