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第十四話 開戦 -2
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これから出撃だというのに、シグルドの瞳はひどく静かだった。切れ長のそれはまるで春の青空のように澄んでいて、ルインは小さく息を飲む。
「偵察だけだ」
「そんなこと、分かっています。でも、連邦がどう出るかは分からないんだから、十分気を付けてください。……ア
ーベントに、怪我なんてさせないでくださいよ」
まくしたてるように一気に言い切って、ルインはああ、嫌だ、と思った。
きっと帝国と連邦は戦争になる。明日の朝にでも連邦に宣戦布告されて、帝国は間違いなくそれを受けるのだろう。
そうなれば、きっとシグルドやラルフはこれから何度も空を飛ぶことになるのだ。
竜騎士として帝国を守るため。――人を殺すために。
竜師であるルインは、そのたびに彼らの背中を見送り引きちぎられるような心を抱えて、その期間を待たなければいけない。必ず帰ってくると信じて、「レオン」を送り出していた「フェリ」と同じように。
息が苦しい――。
呼吸するだけで胸が痛む気がするのは、冷たい空気が肺を突き刺すからだろうか。
被ったフードをさらに深く被りなおして、ルインはシグルドから目を逸らした。彼の真っ直ぐな瞳をこれ以上見ていたくなかったからだ。――なのに。
「ルイン」
そっと頬に手を添えられて、顔を上げるように促された。
その決して強くはない力に抗えなかったのは、どうしてだろう。このとき、ルインは顔を上げたくなかった。だって、せっかく逸らした視線がもう一度絡んでしまうから。
けれども拒否することは出来なくて、仕方なくそっと視線だけを上げる。
「大丈夫、本当に偵察だけだから」
分厚い皮手袋が、そっとルインの眦をなぞった。同じ手袋をしているはずなのに、シグルドの指はラルフほど乱暴ではなかった。優しく、まるで慈しむように触れられて、ルインは思わず目を細めた。
「だからそんな顔をするな」
それは先ほど、ラルフにも言われた言葉だった。
だから、そんな顔ってどんな顔だよ、と思ったけれど、やはり口には出せなかった。
たぶん、ルインがラルフに向けていたのは心配そうな顔だった。兄弟のように育った友人が、偵察とはいえ敵の元へ出撃するのだ。心配だってするし不安にも思う。
けれども、シグルドのいう「そんな顔」はラルフの見たものとは違っているはずだ。だって、だって――。
「ここで泣いたら、瞼が凍り付く」
「泣いてません」
きっぱりと言い切ると、シグルドはそうか、と苦笑した。
意地っ張りで天邪鬼なルインの性格を、彼はここ数か月ですっかり把握してしまったようだった。
「ルイン」
「なんですか」
「今回は偵察だし、無茶はするなと言われているから危険はない」
「知っています」
ラルフも言っていたし、当然、ルインとて彼らに下された任務も聞かされている。
今後のことを考えて決して竜に傷をつけるな、という司令すらあることも知っていた。だから、きっと彼らは無傷で帰ってくるはずだ。
そんなこと、ルインだって分かっている。
「けれど、俺が無事に帰って来られるように願掛けをしてもいいだろうか」
「願掛け?」
シグルドの言葉にルインは瞬いた。
願掛け、だなんて。
「そんなものしたら、かえって死にそう」
「はは、縁起でもない」
シグルドがくしゃりと笑う。その子どものような笑顔をルインは見つめた。
凍てつくような吹雪の中にあって、まるで陽だまりのような温かな笑顔。記憶の中の「レオン」とシグルドは性格も見た目も欠片も似ていないのに、その笑顔だけはとてもよく似ていた。そのことがルインにはひどく恐ろしい。
「帰ってきたら、俺のことを名前で呼んで欲しい。一緒の部屋で過ごすのに、階級で呼ばれるのは少し堅苦しい」
言われて、真っ先にルインが思ったのは――何言っているんだ、この人は、ということだった。
上官を階級付きの敬称で呼ぶのは、軍人として当たり前のことだ。
ルインは軍曹にすぎなくて、シグルドは中尉だ。それも特務武官で彼の直属の上司は、アイゼンクロイツ司令官ではなく、航空飛竜部隊の最高司令官である中将閣下のはずだ。
どう考えても、ルインがシグルドのことを名前で呼ぶのはおかしいだろう。
――そうは、思ったけれど。
「……善処します」
それだけを口にして、ルインはそっと敬礼の姿勢をとる。
離着陸場ではもうすでに数騎の竜が空に飛び立とうとしていた。その中の一騎はラルフだ。
「無事のご帰還をお待ちしております」
「ああ」
シグルドは頷いて、そのままアーベントに跨った。
アーベントが数歩歩いてルインと距離を取る。自分が飛び立つ際にルインが怪我をしないように、気遣ってくれたのだ。相変わらずとんでもなく賢い竜だ。
白い吹雪の中、真っ黒のアーベントはまるで闇に溶け込むように羽根を広げた。離陸の姿勢を取って、数度羽ばたいた。逞しい足が強く地面を蹴る。
そうして帝国とストラナー連邦は開戦した。
その晩、五騎の竜は予定通りアイスランツェ砦の偵察を行った。
アイスランツェ砦は報告通り連邦兵に占拠されており、砦に駐在していた兵士たちの安否は不明。砦を拠点に数百の兵士が陣を敷いており、ヴィンターベルクに攻め入る姿勢を取っていたという。
その知らせを持ち帰った竜騎士たちは、すぐさま第一戦闘配備をとった。
いつ、どこから攻められても瞬時に対応できるようにと、飛行服を着たまま過ごすようになった。
後に、ストラナー戦役と呼ばれることになるこの戦争は大陸の戦史大きく名を残すことになる。なぜならば、近代におけるこれまでの戦争の有り様を大きく変える戦いになったからだ。
世界は新しくなり、もちろんルインを取り巻く状況も大きく変わっていった。
けれども、このときのルインはそのことをまだ何も知らなかった。
「偵察だけだ」
「そんなこと、分かっています。でも、連邦がどう出るかは分からないんだから、十分気を付けてください。……ア
ーベントに、怪我なんてさせないでくださいよ」
まくしたてるように一気に言い切って、ルインはああ、嫌だ、と思った。
きっと帝国と連邦は戦争になる。明日の朝にでも連邦に宣戦布告されて、帝国は間違いなくそれを受けるのだろう。
そうなれば、きっとシグルドやラルフはこれから何度も空を飛ぶことになるのだ。
竜騎士として帝国を守るため。――人を殺すために。
竜師であるルインは、そのたびに彼らの背中を見送り引きちぎられるような心を抱えて、その期間を待たなければいけない。必ず帰ってくると信じて、「レオン」を送り出していた「フェリ」と同じように。
息が苦しい――。
呼吸するだけで胸が痛む気がするのは、冷たい空気が肺を突き刺すからだろうか。
被ったフードをさらに深く被りなおして、ルインはシグルドから目を逸らした。彼の真っ直ぐな瞳をこれ以上見ていたくなかったからだ。――なのに。
「ルイン」
そっと頬に手を添えられて、顔を上げるように促された。
その決して強くはない力に抗えなかったのは、どうしてだろう。このとき、ルインは顔を上げたくなかった。だって、せっかく逸らした視線がもう一度絡んでしまうから。
けれども拒否することは出来なくて、仕方なくそっと視線だけを上げる。
「大丈夫、本当に偵察だけだから」
分厚い皮手袋が、そっとルインの眦をなぞった。同じ手袋をしているはずなのに、シグルドの指はラルフほど乱暴ではなかった。優しく、まるで慈しむように触れられて、ルインは思わず目を細めた。
「だからそんな顔をするな」
それは先ほど、ラルフにも言われた言葉だった。
だから、そんな顔ってどんな顔だよ、と思ったけれど、やはり口には出せなかった。
たぶん、ルインがラルフに向けていたのは心配そうな顔だった。兄弟のように育った友人が、偵察とはいえ敵の元へ出撃するのだ。心配だってするし不安にも思う。
けれども、シグルドのいう「そんな顔」はラルフの見たものとは違っているはずだ。だって、だって――。
「ここで泣いたら、瞼が凍り付く」
「泣いてません」
きっぱりと言い切ると、シグルドはそうか、と苦笑した。
意地っ張りで天邪鬼なルインの性格を、彼はここ数か月ですっかり把握してしまったようだった。
「ルイン」
「なんですか」
「今回は偵察だし、無茶はするなと言われているから危険はない」
「知っています」
ラルフも言っていたし、当然、ルインとて彼らに下された任務も聞かされている。
今後のことを考えて決して竜に傷をつけるな、という司令すらあることも知っていた。だから、きっと彼らは無傷で帰ってくるはずだ。
そんなこと、ルインだって分かっている。
「けれど、俺が無事に帰って来られるように願掛けをしてもいいだろうか」
「願掛け?」
シグルドの言葉にルインは瞬いた。
願掛け、だなんて。
「そんなものしたら、かえって死にそう」
「はは、縁起でもない」
シグルドがくしゃりと笑う。その子どものような笑顔をルインは見つめた。
凍てつくような吹雪の中にあって、まるで陽だまりのような温かな笑顔。記憶の中の「レオン」とシグルドは性格も見た目も欠片も似ていないのに、その笑顔だけはとてもよく似ていた。そのことがルインにはひどく恐ろしい。
「帰ってきたら、俺のことを名前で呼んで欲しい。一緒の部屋で過ごすのに、階級で呼ばれるのは少し堅苦しい」
言われて、真っ先にルインが思ったのは――何言っているんだ、この人は、ということだった。
上官を階級付きの敬称で呼ぶのは、軍人として当たり前のことだ。
ルインは軍曹にすぎなくて、シグルドは中尉だ。それも特務武官で彼の直属の上司は、アイゼンクロイツ司令官ではなく、航空飛竜部隊の最高司令官である中将閣下のはずだ。
どう考えても、ルインがシグルドのことを名前で呼ぶのはおかしいだろう。
――そうは、思ったけれど。
「……善処します」
それだけを口にして、ルインはそっと敬礼の姿勢をとる。
離着陸場ではもうすでに数騎の竜が空に飛び立とうとしていた。その中の一騎はラルフだ。
「無事のご帰還をお待ちしております」
「ああ」
シグルドは頷いて、そのままアーベントに跨った。
アーベントが数歩歩いてルインと距離を取る。自分が飛び立つ際にルインが怪我をしないように、気遣ってくれたのだ。相変わらずとんでもなく賢い竜だ。
白い吹雪の中、真っ黒のアーベントはまるで闇に溶け込むように羽根を広げた。離陸の姿勢を取って、数度羽ばたいた。逞しい足が強く地面を蹴る。
そうして帝国とストラナー連邦は開戦した。
その晩、五騎の竜は予定通りアイスランツェ砦の偵察を行った。
アイスランツェ砦は報告通り連邦兵に占拠されており、砦に駐在していた兵士たちの安否は不明。砦を拠点に数百の兵士が陣を敷いており、ヴィンターベルクに攻め入る姿勢を取っていたという。
その知らせを持ち帰った竜騎士たちは、すぐさま第一戦闘配備をとった。
いつ、どこから攻められても瞬時に対応できるようにと、飛行服を着たまま過ごすようになった。
後に、ストラナー戦役と呼ばれることになるこの戦争は大陸の戦史大きく名を残すことになる。なぜならば、近代におけるこれまでの戦争の有り様を大きく変える戦いになったからだ。
世界は新しくなり、もちろんルインを取り巻く状況も大きく変わっていった。
けれども、このときのルインはそのことをまだ何も知らなかった。
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