ペットボトルと異星人のお勧めできないエコロジー

かじかけい

文字の大きさ
上 下
6 / 9

ようこそ地球防衛軍へ

しおりを挟む
 放課後、いつものように部室へ向かう。
 部室にはルカ姉と幡枝さん、榊田さんが来ており、机の上の封筒を前に話をしていた。
「どうしたんですか?」
「二人ともコミマの抽選が通ったのよ」
 幡枝さんが笑顔で答えてくれるが意味がわからない。
「コミマは参加したい人と参加するスペースの、需要と供給のバランスが悪くてね。僕たちのような零細サークルは抽選で参加が決まるんだ。落選すると当選した知り合いのブースで委託販売してもらうんだよ。僕も幡枝さんも落選の知らせを受けていたんだけど、昨日突然追加枠ができましたって知らせが来てね。追加枠なんて聞いたことがない。事務処理の間違いでもあったんだろうね」
 うれしそうに説明してくれる榊田さんの横で、ルカ姉が俺にウインクした。ペンタゴンパワー発動ですか! 俺の大学受験でも発動してもらえませんかね、ペンタゴンパワー。
 そこに岩倉が入ってきた。
「トモミン見て! コミマ当選したよ! 単独でブースが出せるよ」
 幡枝さんが笑顔で封筒を振る。ところが。
「皆さんこんにちは。御陵さんはいらっしゃいますか? 肉食系パンダ、未亜さんの方です。肉食系パンダってどういう意味なんでしょう。パンダは草食ほ乳類のはずですが」
 答えたのは憑依岩倉だった。学校内での憑依岩倉はまずいだろう。幡枝さんと榊田さんから笑顔が消える。ルカ姉の目が細くなった。
「岩倉さん。ちょっと外に出ましょうか」 
 ルカ姉が立ち上がり岩倉に歩み寄る。その時廊下から歌声が聞こえてきた。
「げんこつ山のタヌキさんー」
 未亜だ。
「おっぱい揉んでエッチしてー」
 ガラガラっと勢い良く扉を開け入ってくる。
「ちーす! ……あれ?」
 日頃空気の読めない未亜でも、部室内の異様な雰囲気に気がついた様だ。
「どうしたの? ボク何かした? 野々上先生のカーナビにエロボイス仕込んだのは、もう時効だと思うんだけどな。それとも理科準備室の件?」
 何やら勝手に懺悔し出した。
「御陵さん。お願いがあってきました」
 憑依岩倉が爽やかに微笑みかける。
「ロリコントカゲ? どういうこと?」と未亜が俺を見る。
 俺に聞くな。
「御陵さん。ハックを譲ってください」
 どうしたんだ岩倉。その話はもう決着ついただろう。というか、そんなにハックが気に入ったのか。 
「その話は終わったよ」
 激高するかと思いきや、未亜は意外にも冷静に答えた。
「我々の総意です。お譲りください」と笑顔の憑依岩倉が繰り返す。
「トモミンどうしたの? ハックってなに?」
 幡枝さんが心配げに岩倉に歩み寄る。その幡枝さんをマジマジと眺めながら憑依岩倉が言った。
「幡枝薫さんも造形的に大変優れていますね。もう少し乳房が大きく、筋肉が発達していれば完璧です。ハックに負けず劣らずのメガネっ娘萌えです」
 幡枝さんが絶句する。
「貧乳萌えも知らんのか、ロリコントカゲのくせに」
 未亜が憮然と呟いた。榊田さんが小声で俺に話しかける。
「篠原君。何が起きているんだ?」
 だから俺に聞かないでください。
「貧乳萌えは岩倉さんそのものです。幡枝さんは貧乳ではありません。品乳です。微乳で美乳です」
「一度外に出よう」と憑依岩倉の手を掴んだのはルカ姉だった。
 声のトーンが下がり地声になっていた。
「御陵博士。人類はこの件に関係ありません。ご遠慮願えますか」
「いいから表に出なさい」
「みささぎ博士って誰? なに、このシュールな展開」
 榊田さんが再び俺に話しかけたとき、廊下からギシギシと大きな足音が聞こえてきた。全員が注視するなか、姿を現したのはあの「パーカー男」だった。こんなにでかく、あからさまに怪しい風体がどうやって学校にもぐり込んだんだ? 松ヶ崎高校のセキュリティーはどうなっている!
「御陵さん。このユニットとハックを交換しましょう。トレーディングという習慣があることを知っています。それでいいですか」
「お姉ちゃん。こいつ、ぶっ飛ばしていい?」と未亜がパーカー男を見上げる。
「うーん。それじゃあ、こうしましょう」
 岩倉が言うとパーカー男が幡枝さんに向いた。
「え?」と後退りする幡枝さんの左腕を、パーカー男が素早く掴み高々と持ち上げた。
「痛っ! は、離して!」
 幡枝さんが宙吊りになった。しかも腕が変な角度のまま持ち上がっている。
 野郎、幡枝さんに何をしやがる! 俺がパーカー男に突進しようとしたとき、部室の窓ガラスを突き破って何かが飛び込んできた。砕け散るガラスと窓枠をものともせず、それは一度床を蹴るとパーカー男の喉もとに突き刺さった。
 それはハックだった。ハックの蹴りがパーカー男の喉を直撃したのだ。しかしパーカー男は少しふらついた程度で、依然幡枝さんを宙づりにしている。未亜のドロップキックで転倒したパーカー男とはまるで様相が違う。ハックはトンボをうつとパーカー男から少し距離をおいて着地した。
「ソフトウエアを改良更新しました。もうガラクタとは言わせませんよ御陵博士。それにしてもハックは美しい」
 岩倉がハックを見つめ、にこやかに言った。
「ハック!」
 未亜の声に応えハックが腰を落とし構えた。それを見たパーカー男は、もう片方の手で幡枝さんのウエスト辺りを無造作につかむと、自分の前に乱暴に突きだした。人形のように振り回される幡枝さんからメガネが飛ぶ。盾にするつもりらしい。
「はぐぅ、痛……い。降ろし……て」
 幡枝さんがかすれた声を上げた。
「人質交換というものを学びました。幡枝さんとハックを交換しましょう」
 トレーディングだの、人質交換だの、こいつ、さっきから何を言っているのだ!
「未亜! 電磁パルス(EMP)を使いなさい。そのガラクタの回路を焼き切って!」
「お姉ちゃん。流星号は今、ロリコントカゲの宇宙船と鬼ごっこ中だ。手が離せない」
「何ですって? これは計画された行動なの?」
「でも大丈夫」
 ハックが不意に身を沈めた。ガンと大きな音と共に、パーカー男が幡枝さんを掴んだまま真横に倒れた。超高速の足払いをかけたのだ。ジタバタと起き上がろうとするパーカー男に、ハックがすかさず馬乗りになる。そして頭部に向けコブシを連打し始めた。肉を打つ鈍い音が部室内に響く。何発目かのコブシが首をへし折ると、パーカー男はその動きを止めた。
「なんなんだこれは! 何が起きたんだ! 誰か説明してくれ!」
 一人パニクっている榊田さんを無視し、俺は幡枝さんに駆け寄った。パーカー男の右手が幡枝さんの左腕を掴んだままだ。外そうとしたが俺の力ではビクともしない。助けを求めようとハックを見たが、彼女の両手は無残にも潰れていた。指があらぬ方向を向き、白いフレームが皮膚を突き破り露出している。足払いをかけた右足も折れ曲がり、片足で立っている状態だ。
「ボクにまかせろ」
 身体強化された未亜がパーカー男の指をこじ開ける。意識はあったものの幡枝さんは立ち上がることができない。ルカ姉が触診を始めた。幡枝さんの顔が痛みにゆがんだ。
「左肩が脱臼している。左手首にヒビか骨折。肋骨も折れているようだ」
 ルカ姉がゆっくりと幡枝さんの上体を抱き起こす。幡枝さんが湿っぽい咳をした。一回、二回。そして三回目に血を吐いた。制服に赤い点が散る。
「幡枝さん!」
「折れた肋骨が肺を傷付けたのかもしれない」
 ルカ姉がスマホを取り出した。そうだ、救急車! ああ、なんでこんなことに気がつかないのだ俺! しかしスマホの画面を見たルカ姉が静かに言った。
「圏外?」
 あわてて俺もケータイを取り出すが圏外になっていた。
「こっちもダメです。職員室の電話借りてきます」と榊田さんが部室を出て行った。
「ジャミングだよ。電子戦機が飛んでいる。お姉ちゃん、知らなかった……みたいだね」
 未亜の言葉にルカ姉が唇を噛んだ。
「電子戦機って……そんな、まさか」
「あーあ、こんなになっちゃった。あんなに美しかった手がボロッボロ」
 見ると憑依岩倉がまたハックをベタベタと触っていた。
 なんだこいつは? なんなんだこいつは!
「お前のせいで幡枝さんは!」
「ヒロシ!」
 岩倉に掴みかかろうとした俺を未亜が制した。そうだ。憑依岩倉にあたっても仕方がない。未亜にたしなめられるとは……。
 ルカ姉が吐血で汚れた幡枝さんの口もとをハンカチで拭いながら言った。
「どういうつもりだディノサウロイド、なぜ幡枝を傷つけた?」
「人類の交渉方法を実践したのですが、どうして上手くいかなかったのでしょう。幡枝さんに怪我をさせたことについて謝罪します。ところで御陵さん、ハックの手足は修復できますか。この状態では価値も半減です」
 憑依岩倉が首をかしげた。ダメだ。日本語を話してはいるが会話にならない。まるで意思の疎通ができていない。
 遠くにヘリコプターの音が聞こえた。音が急速に大きくなる。その音は日頃耳にする長閑(のどか)なものとはまるで違った。ジェット機のような金属音を伴った爆音だ。グラウンドに砂煙が舞い上がり、練習をしていた野球部員たちが逃げ惑う。
 降下してきたのは二機の軍用ヘリだった。着陸と同時にライフルを持った十数名の兵士たちが四方八方に広がっていく。ニュース映像でしか見たことのない光景が目の前で展開されていた。体育の野々上先生が職員室から飛び出し、兵士に向かって何か叫んでいたが銃床で殴られ昏倒した。
「城崎先生……」
 榊田さんが戻ってきた。顔が白い。
「固定電話も通じません……というか、あれ、アメリカ海兵隊ですよ。これって何かのドッキリですよね?」
「いやぁあああっー!」
 突然岩倉が悲鳴を上げ、幡枝さんにすがりついた。ごめんなさいを繰り返しながら号泣している。精神感応が解けたのか。
「岩倉さん。泣いていてはわからない。状況を説明しなさい」
 しかし岩倉はルカ姉の問いに応えられる状態にない。ただ泣きじゃくっている。
「あ。頭の毛の不自由な人だ」
 未亜が外を眺めながら言った。グリーン博士が四人の兵士に先導されこちらへ向かってくるのが見えた。兵士たちはハックが壊した窓から素早く部室内に展開すると、ルカ姉を含めた全員に銃を突きつけフリーズだのハンズオフだの口々に叫んだ。剣幕に圧され思わず両手を上げる。その後ろからグリーン博士が入ってきた。ルカ姉が幡枝さんを抱えたままグリーン博士に英語で何か怒鳴っている。
「お姉ちゃん、頭の毛の不自由な人に騙されたんだよ。ボクの身内だから仕方ないと言えばそれまでだけどね」
 グリーン博士が手に持っていた小さなケースを開く。中に注射器があった。未亜を指さし注射器の入ったケースをルカ姉に突き出す。
「ボクを麻酔で眠らせるよう命令している。忠誠を示せだって。バッカじゃないの? お姉ちゃん日本人なのに」
 未亜が人ごとのように呟く。ルカ姉は幡枝さんを岩倉に預けると、グリーン博士からケースを受け取り未亜に歩み寄る。そして言った。
「ディノサウロイドと合衆国は、ペルム紀文明の技術を入手するため結託したらしい」
「みたいだね。お姉ちゃんはどう考えているの」
「ペルム紀文明の科学技術はとても今の人類に使いこなせるものではない。原始人に原発の運転を委ねるに等しい。しかし何よりも許せないのが、私を休暇で遠のけ密談を進めたことよ。あのハゲが」
「さすがはお姉ちゃん。それを聞いて安心したよ」
「ハゲの作戦はディノサウロイドが流星号を引きつけ、月軌道からシュピーゲル号がやって来る前に未亜を眠らせ確保するというものだ。未亜、流星号は?」
「あの子は頭に血が上ると、すぐ我を忘れちゃうんだ。ロリコントカゲの挑発を受け、追いかけっこしている。独立したAI(人工知能)を持たせたのは失敗だったかな」
「ハックは?」
「見ての通り走れないからこの数を相手にするのは無理。普段なら楽勝なんだけど」
 グリーン博士が英語で何か怒鳴った。
「未亜。私が従わなければあのハゲ、今から三分ごとにヒロシちゃんから順番に一人ずつ殺していくと言っている。この学校に残っている生徒と教職員全員をだ」
 え? 俺から?
「ぬう。絵に描いたような悪役ぶりだね。まさかボクにドーナツ盗られたことを根に持っているとか?」
「なんで俺から殺されなきゃならないんだ! 名指しで殺される覚えなんてないぞ!」
「ヒロシちゃん、未亜の彼氏だからよ」とルカ姉が当たり前のように言う。
 誰がそんな事決めた! 
「うふふふ。ボクってヒロシの彼女に見える?」
「ふざけている場合ではない。なんとかならないの? 幡枝も早く医者に診せないと」
 グリーン博士……いや、ハゲが拳銃を抜き、俺に銃口を向け英語でルカ姉に怒鳴る。
 こら、素人が人に銃を向けたら危ないだろ、暴発したらどうするんだ! ちゅうか俺って本当にここで死ぬの? そう思ったとき、ハゲが「アウチ!」と叫び拳銃を手から落とした。驚愕の表情で自分の手のひらを見つめる。赤く焼けただれていた。床に落ちた拳銃を見るとグリップの部分が溶けて変形している。
「ヒロシには手を出させない」
 未亜が呟くと部室にいた兵士全員が悲鳴を上げ、次々と銃を投げ出した。屋外からも同じような叫び声が聞こえてくる。一体何が起きているのだ。
「必殺! パンダ旋風拳!」
 未亜の跳び蹴りが身近の兵士に炸裂する。それを合図にハックも動く。四人の兵士が十秒待たずして全員が床に伸びた。なんだこの強さは。不良相手の時とはまるで次元が違う!
「ワツ、ハプン……」 
 武器を放棄し、グラウンドで立ちつくす兵士たちをハゲが呆然と眺めている。
「未亜、何をしたの」
 ルカ姉の問いに未亜が満面の笑顔で答えた。
「武器をチンしてみた」
「チン?」
 にわかに日が陰り、嵐のような暴風が校庭の木々を千切れんばかりに揺らす。窓ガラスが激しく音を立て、グラウンドが再び砂煙に包まれた。風が止み砂煙が収まると、グラウンドにいた兵士たちが空を見上げ騒然となった。中には腰を抜かし、指で十字架を切っている者もいる。俺たちも恐る恐る窓から外を見上げた。
 黒い巨大な影が空を塞いでいた。
 グラウンドよりも大きな物体が音もなく浮いている。
 圧倒的な威圧感。今にも落ちてくるのではないかという恐怖感。そしてあまりにも非現実的な光景に俺は目眩と吐き気を覚えた。この形、見たことがあるぞ。この魚型のライン。アニメチックでゴテゴテとしたデザイン処理。未亜の部屋に飾ってあったあの模型……。
「紹介しよう。これが銀河最強の宇宙戦艦、シュピーゲル号だ」
 未亜が手を腰に当て胸を張った。
 これがシュピーゲル号? まさかこんなにでかいものとは! しかし一体どこから現れたんだ! そしてこんなでかいものがどうやって空中に浮いている?
「宇宙から真っ直ぐ、垂直に降下してきただけだよ。ただそれだけ」
「けど、月の裏側に……いたんじゃなかったの?」
 ルカ姉が空を見上げながら呟く。
「月と地球の間なんてほんの数分だよ。これでも控えめにゆっくり降りてきた方なんだ。だって本気出せば、光速の半分に達するのに一時間かからないからね。地表でこれをやると街ひとつが消し飛んじゃう」
「……ふふふ。あははは」
 ルカ姉が、壊れた。
「一時間で光速の半分に加速? ディノサウロイドの核パルスエンジンなんて子どもの花火遊びと同じだわ! ペルム紀文明、ここまでくると魔法よ、魔法! ドクターグリーン! あんた魔法使い相手に喧嘩ふっかけたのよ……って、居ない? どこ行ったの?」
 ハックが指を……いや、腕を指した。そこにグラウンドを走って逃げるハゲがいた。
「逃がさないよん」
 未亜が呟くと走るハゲの足下にボッと煙が立った。
「わひ」と悲鳴を上げハゲが尻餅をつく。
「みんなその場から少しでも動いたら黒こげにするよん」
「今のレーザー? 室内の銃器はどうやったの?」
「指向性を持たせたマイクロ波。ターゲットに交差するよう無数照射してみた。武器をピンポイントでチンしたんだ」
「あははは! それで『チン』なんだ。電子レンジで海兵隊を制圧! あははは! ねぇねぇ、あれはどうやって浮いているの。反重力? 反重力だって漫画みたい!」
 ルカ姉がシュピーゲル号を指さし笑い転げている。反重力のどこが漫画みたいなのかよくわからないが、実際あんなにでっかい物が音もなく浮いているではないか。反重力以外何があるというのだ。
「お姉ちゃん、ダークエナジーはただの仮説にすぎないよ! あれは上に向かって落ちているんだよ」
「そうなんだ。じゃあブラックホールでも内蔵してるわけ? あははは! ブラックホール? 超ウケるんですけど!」
「正解! 重力崩壊炉搭載の慣性制御推進型スターシップ。それがシュピーゲル号!」
「え? マジ?」
 ルカ姉が真顔に戻った。ブラックホールってなんでもかんでも吸い込む、宇宙の落とし穴のこと? その時岩倉の泣き叫ぶ声が聞こえた。
「幡枝さん!」
 全員が幡枝さんに駈け寄る。顔と唇が紫色に変色し呼吸が浅い。素人目に見ても明らかに容体が悪化している。まずいぞこれは。泣き続けている岩倉の手には、幡枝さんの壊れたメガネが握られていた。
「チアノーゼが出ている。早く病院に運ばなければ危険だ。ヒロシちゃん、保険医を連れてきて。それと担架! 榊田くんはその辺の運動部からスポーツ用の酸素吸入器を集める! クルマは私が……」
「待って」
 未亜がルカ姉の言葉を遮った。
「この付近一帯はまだ封鎖されている。このままではクルマの移動は難しい」
 未亜が幡枝さんの耳もとで囁く。
「幡枝先輩はチューしたことある?」
 何を言っている! 今は一刻を争うときだぞ!
 幡枝さんがかすかに目を開けた。未亜が幡枝さんの口もとに耳を近づける。
「わかった。女の子は数のうちに入らないから我慢してね」
 未亜がおもむろに幡枝さんの口に吸い付いた。人工呼吸ではない。これは誰がどう見てもキスだ。何をやっているんだお前は! 止めようとする俺をルカ姉が制した。
 未亜が唇を離す。
「幡枝先輩。力を抜いて。口を開けるの。もう一度いくよ」
 未亜は幡枝さんの口を開けさせると再び唇を合わせた。今度は完全に舌を入れている。古いフランス映画で見たことがあるようなヤツだ。未亜は幡枝さんの表情を見ながら舌を動かしている。「あむ」とか「はむ」とかエロい音声が静まりかえった部室に響いた。十秒もたっただろうか。未亜がゆっくりと唇を離した。幡枝さんが苦しそうに喘ぐ。
「ナノマシンね」とルカ姉。
 ナノマシン?
「即効性ナノマシンの最新バージョン。MIA.ver.3・4。骨折、裂傷、内臓疾患。ガンから生活習慣病まで何でも効く。百メートル九秒台で走れるようになる特典付き。粘膜から血管に進入して必要量まで自己増殖する。莫大なカロリーが必要だけど」
 ナノマシンを幡枝さんに入れたのか!
「ヒロシも欲しい? でも欲しいのはナノマシンかな、それともボクの唇かな」
 未亜が俺の顔を覗き込む。
「そんなもの普通の人間に入れて大丈夫なのか!」
「酷いなぁ。ボクだって普通の人間……じゃないな。今は脳みそ半分しかないし」と未亜が顔を伏せた。しまった。
「そう言う意味じゃない。身体や心に影響が出たりしないのか、と言う意味だ」
「心? ボクの心がねじれているのはナノマシンのせいだと?」
 ああ、面倒くさいヤツだ。ちゅうか自分で心がねじれているのを認めているし。
「あのー」
 後ろから声がした。振り向くと榊田さんがいた。
「お取り込み中のところ誠に申し訳ないんですが、さっきから何が起きているんでしょう。あそこに浮いているものは、僕が以前ゴリョウさんにデザインしたプロメテウスにそっくりなんですが。どなたか論理的に説明してもらえませんかね?」
「榊田先輩。プロメテウスの意匠はボクに譲渡され、商標はシュピーゲル号となった。著作権はボクにある。キャラクターグッズの印税はボクのものだ。法的に問題ないと思う」
「いや、そう言う意味ではなく……。そこに転がっている大男とか、格闘ゲーム並の運動能力を持ち、尚且つ手が潰れ、足が折れ曲がっているのに顔色ひとつ変えない女の人とか、突如現れた海兵隊とか、百合的展開とか、その辺ひっくるめた深夜アニメ的要素全部」
「ぬう。何から話せば良いものか」
 未亜が額に手を当てる。
「ゴリョウさん、今さっき海兵隊員をKOしたよね。世界屈指の兵士を一撃で! 何かマーシャルアーツでもやっているの? やっていたとしてもゴリョウさんの体重では物理的に不可能だ。そもそも格闘技というのは……」
「榊田先輩、スピードが上がればエネルギーも増大する。つまりスピードで体重差を……って面倒くさいな。あとで説明するから今は黙って。脱臼だけは整復の必要がある。誰か肩の入れ方知らない?」
「……」
 榊田さんには申し訳ないが、未亜の言う通り今は幡枝さんの治療が優先だ。
「誰も知らないの? 仕方がないなぁ」と未亜が宙を仰いだ。
 沈黙すること数秒。
「よし、ダウンロード完了っと」
 おい……ダウンロードってなんだ? 
「整復の仕方をYouTubeで見つけた。ちょっと真似してやってみる」
 YouTube? 真似? 突っ込みどころ満載過ぎるぞ!
「と、とにかく素人が余計なことをするな。今、保険医さん呼んでくるから!」
「大丈夫だよぉ。案外簡単そうだしぃー」と未亜が幡枝さんを床に寝かせ腕をとる。
「痛……」と幡枝さんが呻いた。
「だからちょっと待てって!」
「えーっと、こうやってぇ……」
 未亜は幡枝さんの脇の下に手を入れると、ゆっくりと腕を回し始めた。
「い、痛い、痛……」
 腕を胸の上まで回す。
「これで入ったかな?」と未亜が呟いたとき「痛いって言ってるじゃない!」と幡枝さんが突如起き上がった。バランスを失った未亜が後ろに転がり、後頭部を床に強かに打ち付ける。「ゴツッ」と鈍い音と共に「むぎゅう」とアニメみたいな声を出した。俺はそれを無視して幡枝さんの肩を支える。
「大丈夫ですか!」
「え? 何が?」と言ってから再び咳き込む。
 ギクリとするぐらい大きな血の塊を吐いた。
「きゃあああ!」
 岩倉が悲鳴を上げる。ほとんど錯乱状態だ。ところが幡枝さんの様子はちょっと違った。
「あれ?」と夢から覚めたようにキョトンとしている。
「なんか呼吸がラク。凄くラク。身体が軽い」
 岩倉と目があった幡枝さんが言った。
「トモミン。どうして泣いているの?」
 岩倉が泣きながら幡枝さんに抱きついた。
 ルカ姉が後頭部を痛そうに撫でている未亜に耳打ちする。
「未亜。まさか、もう効いた、というの?」
「即効性だからね。骨も半日でくっつくよ。何かカロリーの高い食べ物を用意してあげて。吸収の速いものがいい。あと牛乳も」
「こんなもの科学じゃない。魔法だ、魔法」

 武装解除された十数人の兵隊さんが、グラウンドにおとなしく体育座りをしている。ヘリコプターのエンジンもいつのまにか止まっており、学校に静寂が戻っていた。たぶん未亜が壊したのだろう。野々上先生と未亜に伸された四人の兵士たちは、保険医さんの治療を受けていた。いずれも大した怪我ではないらしい。
 学校周囲に近隣の住民が集まりつつあった。無理もない。松ヶ崎高校グラウンド上空に、全長二百五十メートルを超える宇宙船がぽっかりと浮いているのだ。遠くにパトカーのサイレンが聞こえるが近づいてくる様子はない。まだ封鎖されているのだろうか。
「ベントラーベントラー、スペースピープル! ベントラーベントラー お友達!」
 新校舎屋上で応援団よろしく腕を振り回し、シュピーゲル号に向かってひたすら叫んでいるのは黒田だ。松本は隣で口をポカンと開けシュピーゲル号を見つめている。帰宅部のくせにこういう日に限って居残りをしていやがる。見つかると面倒くさい。隠れよう。 
 しかしこうも白昼堂々と衆目にさらして良いものなのだろうか。「これ」を。
「おい、みんな写真撮っているけど、いいのか?」
「全世界を敵に回しても、ヒロシだけは守ってみせると言ったはずだよ。だから全然構わない。それにどうせみんな、これをロリコントカゲの宇宙船だと思っているさ」と未亜が鼻の頭を掻いた。
 ルカ姉はハゲを尋問していた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん。はいこれ!」
 未亜がルカ姉に駈け寄り、何かを渡す。
「何これ?」
「爪楊枝」
「それは見ればわかる」
「拷問の必須アイテム。爪の間に差し込んでグリグリやるの」
「……必要ない。尋問はもう終わった」
「えー? つまんなぁーい!」
 未亜が頬を膨らませた。こいつ、どこまで本気なんだろう。
 ハゲによると今回の襲撃は彼と国防長官の判断によるもので、合衆国の方針ではないという。「科学技術の独占目的か」と問うルカ姉に対し、「一科学者としてペルム紀文明の全容が知りたかった」とハゲは答えた。たしかに新陳代謝する素材ひとつ取ってみても、科学者がその生涯を研究に費やすだけの価値があるに違いない。そういった意味では彼の行動は理解できなくもない。ハゲは脅すだけで誰も傷つけるつもりはなかったと付け加えた。
 しかし問題は岩倉だ。ディノサウロイドは戦争をしない平和的な種族ではなかったのか。
「トモミンがそんな大切な仕事をしていたなんて、ちっとも知らなかったよ」
 グランドの片隅にあるベンチで、五本目のウイダーインゼリーを飲みながら、体操服に着替えた幡枝さんが岩倉に語りかけている。岩倉はさすがに泣き止んでいたが、その落ち込み様は酷かった。
「トモミン、もう忘れようよ。トモミンのせいではないし、私もこうしてピンピンしているし。そうだ、トモミン。私、近眼が直ちゃった。ほら、新校舎端っこの教室。窓から見える黒板の字が読めるんだよ。えーっと、日直、山田と……森本。凄いでしょう。こういうのを怪我の功名っていうんだよ」
 岩倉は黙ってうつむいている。そこにハゲの尋問を終えたルカ姉がやってきた。
「岩倉さん。すべての責任は私にある。観測が甘かった私の責任。ただ事実が知りたい。ディノサウロイドに対する重大な誤解が我々にあったのでは? 聞かせてちょうだい」
 ルカ姉の再三の問いかけに、岩倉は蚊の鳴くような声でようやく話を始めた。それは精神感応についての話だった。
 当初岩倉はディノサウロイドの代表者一名と精神感応を行っていた。しかし対話を進める中で、一対一の対話はディノサウロイドにとって不自然な行為であることを知る。ディノサウロイドの社会では常時複数名の精神感応が行われており、数万人単位で精神感応状態に入ることも珍しくないという。岩倉はディノサウロイドの社会を知る上で避けては通れない実験であるとルカ姉に報告し、複数名の精神感応実験を申請する。許可は直ぐに下り、岩倉一人とディノサウロイド二人の精神感応が行われた。初めは混乱したがすぐに馴れたという。馴れるにしたがって数を増やす。数が増える中で彼らの「総意」を知る。種として向かうべき方向が、自然と意識の中に示されていくのがわかったそうだ。岩倉はこの時に気がつくべきだったと言った。
「ここまでの報告は受けている。それの何が問題なの?」
 精神感応状態にある個人の意思は七人いれば七分の一、三億人いれば三億分の一の比重となる。ディノサウロイドは「個」の概念が希薄で、何事にも「総意」が優先される。三億の「総意」は絶対であり、精神感応状態にあっては逆らえないというのだ。彼らが同族で戦争をしないのも、優生思想があるのも、この「総意」によるものだという。彼らは文明が発生する以前から、究極の民主主義を行って来た超個体種族なのだ。
「三億という具体的な数字はなに? 意味があるのかしら」
 本星にいる全ディノサウロイドの人数です、私はこの数に逆らうことができませんでしたと言って再び泣き出した。
「ちょっと待って! それはどういう意味? まさか二十光年も離れた星と、リルタイムで精神感応しているとでもいうの?」
 そうですと岩倉は答えた。ルカ姉の目が皿のように丸くなった。
「未亜。ペルム紀文明に類似する技術はある? 光速を超える通信手段!」
「ない。シュピーゲル号の科学技術は一見魔法っぽく見えるかも知れないけど、相対性理論を逸脱するものではないよ」
 即答する未亜の声も驚きに満ちていた。
「光の速度を超える通信手段! 我々人類とのコンタクトを、ディノサウロイドは種族全員で観覧していたってこと?」
「この場合の超光速は『見た目の結果』じゃないかな。精神感応波は空間を介さないのかも知れないよ、お姉ちゃん。いや御陵博士?」
「空間を介さない? ワームホールのことを言っているの? ……いや、この際何でも信じる。ビッグフットもチュパカブラもみんな信じる。技術的な推論はここまで。キリがない。で、岩倉さん。その総意がペルム紀文明の技術を手に入れることだったのね」
 ルカ姉の問いに岩倉は首を横に振った。そして欲しかったのはハックですと言った。
 ハックが欲しかった?
「だからハックの技術が欲しかったんでしょ?」
 そうではありません、欲しかったのはハックそのものですと岩倉は繰り返した。
「まぁ、いいわ。しかしなぜディノサウロイドはこんな暴力的な手段に出たの。彼らは戦争をしたことがない平和的な種族ではなかったの?」
 ディノサウロイドはフィクションとノンフィクションとの違いを、よく理解していないようですと岩倉は言った。彼らは人質を使った交渉を、人類のごく一般的な慣習と考えたらしい。またハリウッド映画に見られるアクション程度なら、人間は簡単には怪我をしない、死なないと思っているようだとも言った。それはまるで思考の停止した大人たちが描く、「ゲームによって現実と仮想現実が区別できなくなった最近の若者像」そのものではないか。
「彼らは彼らなりに、人類の作法に乗っ取って交渉を行っていたと?」
 そうですと岩倉は答えた。
「あのハゲ、そのことに気がついていたんだわ。その上でディノサウロイドをそそのかしたのよ。やられたわ。岩倉さん、ごめんなさい。全部私の責任よ。幡枝さん、関係ないあなたまで巻き込んでしまった。許してちょうだい」
 ルカ姉が岩倉と幡枝さんの肩を抱いた。
 ふと視線を移すと、榊田さんがベンチに腰掛けたハックをしげしげと眺めていた。
 まるで憑依岩倉のよう。榊田さんってまさかロボ子萌え?
「篠原くーん」と榊田さんがゆっくりと振り返る。
 顔は笑っていたが目は違った。
「こんな面白いことにかかわっていながら、黙っているなんてずるいよ」
 ずるいと言われても。
「これが人工物だなんて信じられるかい? 人間そのものじゃないか! ロボ子萌えにはたまらないな。手足が壊れているところが、なんともそそられる」
 やっぱりロボ子萌えですか。
「おお! さすが榊田先輩はお目が高い。究極のロボ子萌えはやはりクラッシュだよね。あとはメンテナンスとかで体内のメカが露出しているところ? ロリコントカゲにはそれがわからないんだ。所詮はトカゲだね。『侘び寂び萌え』のなんたるかを知らない」と未亜。
 究極のロボ子萌えってなんだ。侘び寂び萌えってなんだよ。
「だからヒロシは馬鹿だというんだよ。侘び寂び萌えも知らないなんて日本人失格だよ?」
 俺たちの会話を聞いていたハックが、自分の壊れた手をじっと見つめる。
 皮一枚で繋がった左手の小指がぷらぷらと揺れた。超痛そう。
「ほら、あれ! あれが萌え!」
 未亜と榊田さんが喜んでいる。俺にはさっぱりわからない世界だ。日本人失格で良いや、別に。
「ゴリョウさん、ハックに触っていい?」
「ダメ。女の子以外触ってはダメ。特に邪心を持った人はダメ」
「邪心なんかないよ。僕は純粋にロボ子萌えなんだ」
「この間、血の繋がらない妹萌えって言ってたじゃん」
「妹萌えは別腹」
「それが邪心なの!」と言ってハックに抱きついた。
「ハック、あとでヒロシがご褒美にバーミアンへ連れて行ってくれるって。マンゴープリンをたらふく食べよう」
 未亜がハックに頬ずりをする。ハックが俺を見た。どうやらハックは食べ物の話に反応するようだ。ところで未亜、誰が誰をどこに連れて行くって?
「それに引き替え流星号は……」
 未亜が舌打ちする。流星号は未だディノサウロイドの宇宙船を追っているらしい。榊田さんが改めてハックを観察しながら聞く。
「この壊れた手足、放置しておけば再生するって本当?」
「直るけどこのままだと数週間かかる。だからあとでシュピーゲル号に連れて行く。培養槽に浸けとけば半日ぐらいで直る」
「シュピーゲル号ねぇ。プロメテウスの方が響きいいのに」
 榊田さんが空を仰ぐ。
「このスケールに引き延ばすと密度感がやや希薄だね。間延びして見える。もっとディティールに凝れば良かった。これからの課題だな」
「そんな事ないよ、充分格好いいよ! ガレージキット作ってワンホビに持っていけば、十個は売れるよ」
「十個ってリアルな数字だなぁ。七百分の一で価格は一万ちょっとぐらい?」
 当たり前のように未亜と会話している榊田さん。さっきまで何も知らなかった人とはとても思えない。オタクの適応力恐るべし。
「あ、空自のイーグルだ」
 榊田さんの言葉をかき消すように、二機の戦闘機が爆音を轟かせながらシュピーゲル号上空を横切る。
「IRST(赤外線探索追尾装置)が付いている。ありゃイーグル改だ。もう配備されているのか。実物を初めて見たよ。お、今度はラプターだ。今日は人生最良の日だ!」
 榊田さんがスマホを空にかざしながら笑った。ルカ姉も空を見上げる。校内でのケータイ使用はもうどうでも良いらしい。
「未亜、アメリカ空軍と航空自衛隊が動き出したわ。とりあえずここを撤収しましょう。まかり間違って爆撃でもされたら、市街地に被害が出る」
「頭の毛の不自由な人はどうするの?」
「さんざん脅しておいたから大丈夫。あの人、溺愛している五才の娘がいるのよ。今後私たちに何かあったら、世界中のどこに娘を隠そうがペルム紀文明の力を持って探しだし、毎日悪夢にうなされ、オネショするような怖い目に遭わせてやるって言っておいたわ」
 うわ。発想がハゲとあまり変わらない。
「ボクはそんな卑怯な真似はしないぞ」
「いいから、いいから。早く撤収!」
「撤収って? シュピーゲル号を月軌道に戻せってこと?」
 ルカ姉がシュピーゲルを指さして言った。
「あれに乗せて」
「はあ?」
 未亜があきれ顔でルカ姉を見つめる。
 結局ルカ姉もペルム紀文明に興味津々じゃないですか!
「シュピーゲル号で国防総省に乗り付け、国防長官を糾弾し失脚させる」
「あははは。それ面白そう。やろう、やろう」
 未亜が手を叩いて喜ぶ。似たもの姉妹か。
「僕も乗りたい」と榊田さん。
 まぁ、この人はそうだろうな。
「私も乗りたい」
 え、幡枝さんまで?
「あら。篠原君は乗りたくないの? じゃあ、今日はここでお別れね。またあした」
 どこまでもご一緒します幡枝さん。
「シュピーゲル号は観光遊覧船じゃないぞ。乗せると約束したのはヒロシだけだ」
 頬を膨らませる未亜の腕を幡枝さんが取った。
「ゴリョウさん、堅いこと言わない。ね」
 幡枝さんが未亜に目配せする。幡枝さんが視線を移した先に岩倉がいた。
 岩倉は依然うなだれたままだ。
「ぬう。まぁ、いずれにせよ流星号を探しに行かなければならないし、その間ちょっとだけ乗せてあげてもいいよ」
「やった! トモミンも一緒に乗ろう!」
 岩倉が顔を上げる。目が腫れていた。あまりにも痛々しい。
「ただし!」
 未亜が声を張り上げた。
「はじめに言っておく。シュピーゲル号に搭乗するには二つの方法がある。ひとつは流星号で乗り込む方法だ。もともとシュピーゲル号は人が搭乗することを前提に作られていない。そのため専用のシャトルとして作ったのが流星号なんだ。ところが今その流星号がいない。つまりもうひとつの方法をとらなければならないということだ。少々手荒い方法になるけど、諸君、覚悟はよろしいかな」
 みんな口々に「大丈夫」と言う。
 待て。未亜が手荒いと言うからには……。
「よろしい。それではボクの周りに全員集合! スカートをはいている女子は、海兵隊にパンツを見られないよう、しっかり手で押さえる!」
 未亜が自身のスカートを太ももの間に挟み込む。
「何をするの」と問うルカ姉を無視し、未亜が叫んだ。
 それはまるで変身の呪文を唱える魔法少女のように。
「キャトル・ミューティレーション!」
 足が地面から引きはがされ、身体が「上に向かって」落ちた。あわてて腕を振り回し、何かにつかまろうとしたが手は虚しく空を切る。ルカ姉と幡枝さんの悲鳴が聞こえた。みるとルカ姉が大股開きで足をばたつかせている。まるで国際宇宙ステーションで無重力実験を行っているカエルのようだ。スカートがまくれ上がり、お尻が露出していた。パンツの色は……赤?
 幡枝さんは短パンだから問題ないが、腕をぐるぐると振り回していた。脱臼はすっかり回復したようだ。岩倉は辛うじてスカートを押さえ、ぎゅっと目を閉じている。榊田さんはドサクサに紛れハックにしがみついていた。未亜はそんな俺たちの様子をみて爆笑している。
 下をみると既に十メートルほど浮いており、兵隊さんたちが口を開けこちらを見上げていた。横に視線をやると……新校舎屋上にいた黒田と目が合ってしまった。ヤバ。あとでなんと説明したら良いのだ! シュピーゲル号を見上げると中央に小さな穴が開いているのが見えた。俺たちはあそこに向かって「落ちている」らしい。穴がぐんぐん迫ってくる。激突するかと思った瞬間、不意に周囲が真っ暗になり、今度は「下に」落ちた。
「痛た!」
「つぅー!」
 明かりが点いた。落ちた距離は二、三十センチほどだったが、不意を突かれたため未亜とハック以外の全員が床に転んでいた。
「ここがシュピーゲル号の中?」
 見回すと二十畳ほどの倉庫のような部屋だった。予想に反し、エイリアンが作ったとは思えないほど地球っぽい内装だ。
「ここは流星号の格納庫。居住区を含め、人が入れる場所は全部後付けなんだ。ボクがデザインしたもの、榊田先輩がデザインしたもの、ハックがデザインしたもの、色々ある。だから地球ぽいのは仕方がない。お姉ちゃん、パンツ丸見えだよ」
 ルカ姉がすっくと立ち上がり、まくれ上がったスカートを慌てる様子もなく丁寧に直す。そして何事もなかったように言った。
「じゃ、船内を案内してもらおうかしら」

 プシュっと音をたてドアが開く。短い通路の向こうにエレベータがあった。未亜に促されるままエレベータに乗り込む。エレベータの扉もプシュっと音をたて閉まった。七人がやっと入れる広さ。幡枝さんが真正面にいた。顔がメチャクチャ近い。
「怪我、大丈夫ですか」
「ありがとう。もう全然平気だよ。というか前より俄然調子が良いみたい。力がみなぎってくる感じ。今ならヒグマにも勝てそう」
 すっかり血色の良くなった幡枝さんが微笑んだ。良かった。この笑顔をこんなに早く見られるなんて。未亜には感謝しなければならないが、「ヒグマにも勝てそう」発言には一抹の不安を感じる。本当に副作用ないんだろうなナノマシン。不安と言えばもうひとつ。幡枝さんは近眼が直ったと言っていた。つまりこれからはメガネなしということだ。このままでは幡枝さんの美形が全校に知れ渡ってしまう。これは由々しき問題である。 
 エレベータが止まり、再び扉がプシュっと音を立て開く。電車みたいだと俺が言うと「だからヒロシは馬鹿だというんだよ。これは宇宙船だよ。すべての扉に気密性を持たせているんだ。SF映画とか見たことないの?」と未亜が答えた。
 通路を左に出て数メートル先のドアをくぐると、そこにSFの世界が広がっていた。映画やアニメで見る宇宙船の艦橋(ブリッジ)そのものがあった。独立した座席が縦二列横三列の計六席配置されており、それぞれの席の前には複雑そうな装置がこれ見よがしに並んでいた。正面から天井にかけては、なめらかなカーブを描く大型スクリーンが掲げられ、そのスクリーンには松ヶ崎高校のグラウンドが映し出されている。窓はひとつもない。模型で見たブリッジの窓のようなディティールは「ただのデザイン」らしい。
 未亜がブリッジの奥まで入りゆっくりと振り返る。そして手を後ろに組み、重々しく言った。
「ようこそ地球防衛軍へ。ボクが地球防衛軍長官兼、宇宙艦隊司令兼、シュピーゲル号艦長の御陵未亜だ」
 恐れ入ったよ未亜。地球防衛軍は現実に存在したんだな。
「そして改めて紹介しよう。これがペルム紀文明英知の結晶、銀河最強最速、唯一無二の宇宙戦艦、シュピーゲル号だ」
 未亜がコンソールに手を伸ばし、優しく撫でながらうっとりとした口調で続ける。
「全長二百六十三メートル、静止質量六万五千トン。小さいながらも重力崩壊炉を……」
「ゴリョウさん、デザインが違う」
 榊田さんだ。
「え、何? 今、良いところなのに」
 未亜が腰砕けになっている。
「この座席のデザイン、僕の考えたものと全然違うじゃないか。すごくダサいよ。温泉街にあるマッサージ機みたいだ」
 このブリッジ、榊田さんのデザインなのか。
「ぬう。機能的にどうしてもこれ以上小さく作れなかったんだ。亜光速飛行ともなれば、かかる加速度は莫大だ。慣性制御ができるとはいえ限度がある。それを少しでも和らげてくれるのがこの耐G座席なんだ。耐Gスーツと組み合わせるとより効果的」
「ゴリョウさん、紙と鉛筆」
「え?」
「この大きさの範囲内で、もっと格好良いデザインをして上げる。だから紙と鉛筆」
「えっと、紙と鉛筆? あったかな? って、今直さなきゃダメ?」
 未亜がこれ以上ないぐらいの情けない顔をした。デザインでダメ出しを食らうとは予想もしていなかったのだろう。今度はルカ姉が口を開いた。
「ブラックホールエンジンが見たい」
 さすがはルカ姉、ストレートな人だ。
「お姉ちゃん。何回も言うけど、この船はもともと人が乗ることを想定していないんだ。したがってメンテナンス用の通路を備えていない。小さな子どもならまだしも、お姉ちゃんみたいな大きなお尻では、重力崩壊炉まで到達できない」
「じゃあ、乗った意味ないじゃん!」
「そんな事言われても。これは工場見学ツアーじゃないんだけどな」
「なら、推進方法の概念を教えて」
「進行方向に重心をずらし、そこに向けて落ち続けると言うのがわかりやすいかな。馬の前に釣り竿で吊ったニンジンをぶら下げる感じ」
「また随分とシンプルなのね。でも完成された技術とはそう言うものか」
「そう! お姉ちゃん良い事言う! シンプル・イズ・ベスト! 二億五千万年間無事故無違反はダテではないよ!」
 気が遠くなるほどの長い時間、この船は地球の歩みをただ見つめてきたというのか。そんな奇跡の船を一介の女子高生が操っているというのか。今までは無事故だったかも知れないが、今後はわかったものではないぞ。ブラックホールで事故? 考えたくもない。
「みんなに良いものを見せてあげよう。こっちに来て」
 未亜が手招きする。ブリッジを出てエレベータの扉前を通り過ぎる。
「小型のブラックホールはホーキング放射により、すぐ蒸発してしまうはずよ。どうやって維持しているの? 格納は? 制御は? そもそもどうやって作ったの?」
 ルカ姉の矢継ぎ早の質問に、未亜が当たり前のように答えている。正確には「答えたりはぐらかしたり」だったが。どちらにしてもその内容を俺は全く理解できなかった。これは断じて俺が馬鹿なのではない。この姉妹が異常なのだ。
 ドアがまたプシュっと音を立て開いた。
「ここはボクとハックの寝室。入って入って。あ、ここからは土禁。靴、脱いでね」
 十二畳ほどの文字通りの寝室だった。部屋の真ん中にクイーンサイズのベッドが鎮座し、大きな窓にカーテンが掛かっている。向こう側にある扉はバスルームの様だ。とても宇宙船とは思えない普通の家の佇まい。まるで賃貸物件のよう。しかし。
「ゴリョウさん……」と幡枝さんがため息を漏らす。
 部屋は足の踏み場もないほど散らかっていた。ゴミ箱からはゴミが溢れ、ベッドは食べかけのお菓子と飲みさしのペットボトルと雑誌の山に覆われている。脱ぎっぱなしの衣類や下着まで散乱していた。
「あ」
 さすがの未亜が顔を赤くした。こいつにも「恥じる」という感情があったらしい。足下にあったコンビニのレジ袋を慌てて拾うと、下着やゴミを詰め込み始めた。
「男子は十分間外に出る!」
 幡枝さんに追い出された。
「生々しかったねぇ。僕は一人っ子だからわからないけど、篠原家の妹君もあんな感じ?」
 通路で榊田さんが笑顔で俺に語りかける。
「ウチのは自分の下着が、俺や父親の目に触れるのさえ嫌がりますよ」
「へぇ。そうなんだ。そう言うとき『お兄ちゃんのエッチ!』とか『お兄ちゃんなんか大嫌い!』とか言うの?」
 榊田さん、あなたって人は……。
 しばらくすると扉が開き、「入って良いよ」とルカ姉が顔を出した。
 部屋に入ると幡枝さんが未亜を正座させ、説教をしていた。
「……に使用済みのを入れっぱなしにしておくなんて、あり得ないでしょ!」
「すみません……」
 幡枝さんの前で小さくなっている未亜を見ながらルカ姉が呟く。
「うーむ。なんか自分が怒られているみたいで、居たたまれない」
「ルカ姉も部屋が汚いタイプの人?」
「あの程度は散らかっているうちには入らない。きれいな方よ」
 やっぱり似たもの姉妹。
「で、ゴリョウさん。私たちに見せたいものって何?」
 幡枝さんの説教から解放された未亜が笑顔になり、声を張り上げる。
「うん、それはね。これ!」
 室内の照明が暗くなり、カーテンが自動的に開く。
 見ると大きな窓いっぱいに青い球体が浮いていた。
 地球だ。……地球?
「今の今まで松ヶ崎高校にいたよな。これは画像か?」
 それにしてはリアルすぎる。なんといっても写真で見る平面ではなく、球体としてそこに浮いているのだ。
「現在高度一万二千キロメートル。間違いなく本物の地球だよ。肉眼で見る本物の地球。見せたかったのはこれ。きれいでしょ」
 思わず窓ガラスに張り付く。あまりの美しさに全身に鳥肌が立つのを感じた。薄い大気の層さえ立体的に見て取れる。海と白い雲に太陽が反射して輝いていた。
「ホントはさ、通路移動して部屋を案内している最中にこの高度まで上がって、カーテン開けたら地球! っていう演出をしたかったんだ。プリンセス・テンコーも真っ青のイリュージョンを披露できると思ったのに、掃除に十分も費やしちゃったから効果半減だよ」
「動いたことさえ少しもわからなかったわ。これが慣性制御? しかも床方向に一Gかかっているし!」
 その場でルカ姉が座り込み叫んだ。
「こんなの科学じゃない! 魔法だ!」
 隣に視線を移すと幡枝さん、榊田さん、岩倉が俺と同じように窓ガラスに張り付いていた。地球光に照らされる幡枝さんの横顔のなんと美しいことか! 
「地球がこんなに美しいものだったなんて。写真ではこの美しさの、この儚さの、百分の一も伝わらない。まるで神様が創ったガラス細工のよう」
 幡枝さんがおもむろに岩倉を抱きしめる。
「見てよこれ。ここで日々数え切れないほど多くの人が生まれ、様々なドラマを抱えながら死んでいく。今日あった事なんて些細なことだよ。こんなことでトモミンはつまずいてはいけない。私のためにも元気出して」
 岩倉が小さくハイと答えた。未亜に目をやると、俺に向かって親指を立てどや顔をした。たしかにこれを見て元気が出ないヤツはいないだろうというぐらい地球は美しい。そしてどんな悩み事も些細なことに思えてくるほど地球はでかい。たまには気の利いたことをするじゃないか。
「宇宙飛行士と言えば男子が一度はあこがれる職業だ。僕とて例外ではない。その宇宙に近所のコンビニ感覚でやって来ようとは。しかも高度一万二千キロメートルって、有人飛行ではアポロ計画以来の高高度じゃないか。今日は本当に人生最良の日だよ」
 榊田さんも感慨深げに地球を眺めていた。本当にそうだ。というより、あまりにも呆気ない。宇宙ってこんなに簡単でいいのだろうか。
「あれ? ハック。まだ培養槽に入っていなかったの?」
 未亜の声に振り返ると、ハックが部屋の入口でボーッと立っていた。
 ハックが壊れた両腕を未亜に突き出す。
「あ、そっか。その手じゃ服、脱げないか。ゴメンゴメン」とハックに駈け寄り、シャツのボタンを外し始めた。
 え?
「お姉ちゃん、ハック脱がすの手伝って。培養槽に放り込むのにスッポンポンにしないと」
 ルカ姉がすっくと立ち上がる。
「おう。手伝うぞ。パンツの中身がどうなっているか見たい。培養槽とやらも見せなさい」
「お姉ちゃんのエッチ!」
 ルカ姉がジーンズのベルトに手をかける。なんかすごい絵面が展開しているような……。
 刺すような視線を真横に感じた。見るまでもなく幡枝さんである。
「男子は今すぐ部屋から出る! 駆け足! ゴリョウさんも城崎先生も男子がいる前でそういう事をしない!」

 ブリッジに戻り榊田さんがダメ出しした耐G座席に座ってみる。座席のクッションが体型に合わせて変化し、優しく身体を包み込んでいく。
「何だこれ、座り心地抜群。超気持ちいい」
 通販番組に出演する芸能人のようなセリフを思わず口するほど座り心地が良かった。クッションに体重が隈なく分散し、まるで雲にでも座っているようだ。腰痛や痔で悩んでいる人には夢の一品だろう。榊田さんも腰掛け、正面のコンソールスイッチをプチプチ押しながら言った。
「全裸でゲル状溶液に浸る美女型アンドロイド! SFアニメの王道中の王道じゃないか。見たかったなぁ。幡枝さん頭堅いんだよ。あとでゴリョウさんに頼んでみようかなぁ」
「勝手にボタン押して大丈夫なんですか。動き出したらどうするんです?」
「これは張りぼてだよ。この船にはもともと操縦席なんか存在しない。このブリッジそのものが後付けの張りぼてなんだ。たぶん宇宙船として必要な機能を備えているのは、生命維持装置と、上の大型モニターと、この耐G座席ぐらいじゃないかな。地表から一万二千キロメートルに上がるにあたってゴリョウさん、何か操作をしていた?」
 そう言えば何もしていない。
「ゴリョウさんは考えるだけでこの船を動かすことができるんだ。僕たちは今、スターシップJKを目の前にしているんだよ。笑っちゃうよね」
 なおもスイッチを順番に押していく。何番目かのスイッチに触れたとき、計器類がびっしりと並ぶコンソールがガバッと開いた。白い冷気が流れ出る。中にはコンビニでよく見かけるカフェオレやらプリンやら菓子パンが詰まっていた。これってまさか冷蔵庫?
「ゴリョウさんらしいねぇ。ビールや酎ハイ、酒の肴もあるよ」
 試しに他のスイッチも押してみると、冷凍庫や電子レンジまで装備されていることが判明した。
「あら素敵。ちょうどお腹が空いていたの。ご馳走になりましょう」
 岩倉と一緒に戻ってきた幡枝さんが、当たり前のように冷蔵庫から食料と飲み物を取り出し後ろの座席に座る。ついさっき、ウイダーインゼリーを十本近く飲んでいたような気がするのだが。
「うわ。この椅子、何? 気持ち良い! トモミンもこっちにおいで。一緒に食べよう」
 岩倉も耐G座席の座り心地に驚き、笑顔を見せた。もう大丈夫だろう。
 ルカ姉と未亜も戻ってきた。
「ハックはシュピーゲル号のオリジナルデザイン? それとも誰か実在のモデルがいるの? あんなナイスバディ、初めて見たわ。胸は私の方が大きいけど」
「作られた当時はモデルがいたみたい。でも顔とスタイルは時代や地域に合わせてバージョンアップしているから、当初とは外見がかなり変化し……」
 未亜の声が止まった。幡枝さんが振り向き未亜に声をかける。
「あ、ゴリョウさん。冷蔵庫の中のもの、ご馳走になっているわ。あとできちんと精算するし」
「……」
「コンソールを冷蔵庫にするなんて、実にゴリョウさんらしいね」
 榊田さんが封を切ったペットボトルを掲げる。
「……よく、それが、冷蔵庫だって、わかりまひたね」
 未亜が噛んだ。顔が引きつっている。
「スイッチを端から順番に押していったら、扉が開いたんだ」
「あ。バドワイザーじゃないの。さすが我が妹、良い趣味をしている。でも教師としては未成年の飲酒を看過できないわ。一本没収する」とルカ姉も冷蔵庫に手を伸ばす。
 未亜がギクシャクと言った。
「幡枝先輩が、今、手に、しているのは、ラフランス、の、乳酸飲料?」
 幡枝さんがパッケージを見ながら答える。
「うん? そうみたい」
「それ、季節限定品。最後の一本、とっておいたヤツ……」
 未亜が肩を落とした。
「あ、そうなの? ゴメンね。たしかにすごく美味しいわ、これ。まだ半分残っているよ。良かったら飲む?」
 幡枝さんがブリックパックを未亜の前に突き出す。未亜は「飲む!」と言ってブリックパックを持つ幡枝さんの手をつかみ、そのままストローを咥えた。
 じゅるるる……。幡枝さんがちょっと引いている。
「はふぅー。やっぱり美味い」
 未亜が至福の表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻った。
「しまった。勢い余って全部飲んでしまった。これ、ハックと半分コする約束だったんだ。あの子、食べ物に関しては異常にうるさいんだよ。怒ると何をするかわからない。このパッケージどこかに隠して。なかったことにして。ハックは人体の構造に精通していて、死なない程度に痛めつけるのが得意なんだ。SPや海兵隊の無残な姿、見たでしょ!」
 食べ物ひとつで半殺しにされるのか。嫌なことを聞いてしまった。バーミアンのマンゴープリン、ちゃんとご馳走した方が良いみたいだ。

「いた。流星号だ」
 地球表面を映すモニターが段階的に拡大してゆく。プラズマの尾を引きながら飛ぶ流星号が映し出された。現在シュピーゲル号は高度を五百キロメートルまで落としているらしい。培養槽に入ったハックを除く六人は耐G座席に座り、各々思い思いの食べ物や飲み物を手にモニターに見入っていた。ほとんど映画鑑賞会状態。一列目に未亜とルカ姉、二列目に俺と榊田さん、三列目に幡枝さんと岩倉が座っている。
「何を追っかけているんだろう」
 モニターが流星号の進行方向を映す。小さな点が見えた。
「質量二トンで全長全幅三十メーター? 軽すぎる。スッカスカじゃん」
 更にモニターが拡大されていく。白い球体だった。
「これ、ロリコントカゲの無人偵察機だよ。直径三メートルの大きさを偽情報で大きく見せているだけだ。こんなトラップに引っかかるとは、なんて情けない子だろう!」
 ロボット偵察機が突如爆発し、破片が燃えながら飛散してゆく。
「撃ち落としたの? これもレーザー?」
 ルカ姉がバドワイザーを煽りながら聞く。
「うん。このぐらいの距離ならレーザー砲もご覧の威力だ。でも数十万キロ単位になると集束力が落ち減衰してしまう。これからの課題だね。さぁ、戻って来い、流星号! あとで折檻(せっかん)してやる。お前のせいでシュピーゲル号の姿を世間にさらす羽目になったんだぞ」
 榊田さんが笑いながら聞く。
「ゴリョウさん。機械(マシン)に折檻って何をするの?」 
「ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせる。あとAI(人工知能)格納容器に納豆を流し込んでやる」
「ははは。でもそれって誰が掃除するの?」
「ぬう。ハックは炊事洗濯掃除一切しないし……。そうだ、ヒロシにやってもらう」
 なんで俺なんだよ。
 目標を失った流星号からプラズマの尾が消えた。ゆっくりと上昇し、シュピーゲル号に近づいてくる。流星号がスクリーンからフレームアウトすると未亜が言った。
「よし、回収完了。格納庫に行こう。流星号でみんなを家まで送るよ」
「岩倉さん。あんなことがあったばかりで言いにくいんだけど……」
 ルカ姉が後ろを振り返る。
「これからまたディノサウロイドとの精神感応が必要になるかも知れない。無理にとは言わないけど……残ってくれないかしら」
 岩倉の答えはやらせてくださいの一言だった。
 やっぱりこいつ、ただ者じゃない。将来絶対大物になる。
「ゴリョウさん。僕もここで降りる気はないよ」と榊田さん。
「今からペンタゴンへ乗り込むんだろ? 見届けたい」
「榊田くん、悪いけどここで降りて。怖い思いをさせて申し訳なかったけど、もうお釣りが来るぐらい充分に楽しんだでしょ? また例の『資料』提供するし」
「お姉ちゃん、勝手に仕切るのはやめて欲しい。これはボクの船だ、榊田先輩が望むならボクは構わない。ボクに敬意を払わないのであれば、お姉ちゃんだろうと宇宙に放り出す」
「実の姉を宇宙に放り出すなんて良くも言えたわね。何様よ、あんたは」
「シュピーゲル号の艦長様だ。軍艦において、艦長の命令はー、絶対! イエイ!」
 王様ゲームよろしく未亜が右のコブシを上げた。
「可愛くない! ぜんっぜん、可愛くない! やっぱ麻酔打って眠らせれば良かった。解剖してホルマリン漬けにすれば、少しは可愛くなっただろうに!」
「ふん。お父さんとお母さんの前で、鼻水流しながらわんわん泣いたことを学校中に言いふらしてやる。そのあとグデングデンに酔っ払ってお風呂で溺れたことも!」
「あ、汚いぞ」
 ルカ姉の帰省以降、二人が仲良くなったのは結構なことだが、この喧嘩はあまりにも不毛だ。未亜も未亜だが、ルカ姉って本当に博士号を持った大学教授なのだろうか。大人として多少問題があるように思える。
「なんか来る」
 未亜が眉をひそめスクリーンを見上げる。スクリーンがテレビのザッピングのようにパラパラと変化すると、地平線を映す一画面で止まった。
「なんかじゃわからない。きちんと報告しなさい」
「うるさいなぁ、赤パンツのくせに」
 地平線の上に光の点が見えた。ゆっくりと動いている。星ではないようだ。
「識別信号なし。通信呼びかけ応答なし。機影に該当機種なし。いわゆるUFO(未確認飛行物体)。うまい(U)、太い(F)、大きい(O)。以上」
 鼻をほじりながら答える未亜をルカ姉がにらむ。
「ディノサウロイドの小型宇宙船よ」
 光がこちらに近づいてくる。
「攻撃でもするつもりかな」
「ディノサウロイド船に武器はない。間違っても攻撃するんじゃないわよ」
「ボクに命令をするな。判断は艦長のボクがする。何を持って武器とするのかは、定義によって異なる。菜切り包丁だって人を殺せるんだ。科学者のくせに、そんなこともわからないの?」
「ふん。ノーベル平和賞並の屁理屈ね」
 見苦しい姉妹喧嘩の間にも光の点が大きくなり、紡錘型の形が明確になっていく。
「最接近まで七秒。六、五……」
 未亜がカウントダウンを始めた。ブリッジに緊張が走る。
「二、一、ゼロ」
 ディノサウロイド船がシュピーゲル号の真下を通り過ぎた。
 何事もなく、あっという間に反対側の地平線へ遠ざかってゆく。
「何が起きたの? どうして飛び去っていったの」
 幡枝さんの質問にルカ姉が口を開いた。
「未亜、シュピーゲル号の現在速度は?」
「対地速度ゼロ」
 未亜の答えに榊田さんが納得の表情を浮かべる。
「そう言うことか」
 何がそう言うことなんです。一人で納得しないでください。
「一時間半もしたら、また向こうの地平線からやってくるよ」
 だから意味がわかりません。
「なによ。理解しているのは榊田くんだけ? あなたたち、ちゃんと物理の授業受けているの? ディノサウロイド船は慣性飛行を行っているのよ。彼らは人類が打ち上げている人工衛星や国際宇宙ステーション(ISS)と同じように、地球の重力との釣り合いをとるため時速二万八千四百キロメートル以上で飛ばなければならない。ところがこのシュピーゲル号は速度ゼロでも軌道上に浮いていられるの。次元が違うのよ次元が。彼らは文字通り、このシュピーゲル号と同じステージに立つことができないの」
 もうひとつよくわからないが、これ以上聞くとまた罵倒されそうなのでやめておこう。そもそも俺は物理を選択していないわけで。
「早くディノサウロイド船を追いかけなさい!」と大声がブリッジに響いた。
「もう! だからボクに命令をするなって言っているだろ、お姉ちゃん!」
「……今のは私じゃない」とルカ姉。
「え?」
 そうだ。ルカ姉ではない。声は俺の後ろから聞こえた。
「早く追いかけろって、言っているでしょーがぁ!」
 振り向くと顔を真っ赤にした岩倉がいた。手にはレモンサワーの缶。
「トモミン、それお酒! 飲んじゃったの?」
 幡枝さんが慌てて缶を奪い取ろうとするが、岩倉はひらりとかわす。
「ディノサウロイド船がぁ、すれ違いざまに精神感応波を送ってきたのぉ。何か伝えたいことがあるみたい。だからぁ、早く追いかけなさい、この腐れエロタヌキ!」
 岩倉の目が完全に据わっている。
「く、腐れエロタヌキとは、ボクの事かな?」
 未亜が引きつった笑顔で振り向く。
「あんた以外誰がいるのよぉ。いっつも男子みたいな口の利き方してぇ、それがカッコ良いとでも思っているの? キモーい。マジ、キモいんですけどー! 何が肉食系パンダよ。ちょっと脂肪が余計についているだけじゃん。あんたなんか中二病のド腐れエロタヌキで充分なのよぉ!」
 ど、毒舌岩倉! いくら本当の事とは言え一応先輩だぞ。
「お、お姉ちゃん。ボク、泣いちゃうかもしれない」
 未亜がルカ姉にすがりついた。
「キモの座った娘(こ)だと思ってはいたけど、これが本性という訳ね」
 ルカ姉が納得の表情で岩倉を眺める。
「一本、二本、……三本?」
 榊田さん、何を数えているのです?
「岩倉さんの足下にある、空き缶の数」
 えー? ってことは今四本目!
「トモミン、お水飲もう、お水。そうだ、冷蔵庫にポカリが……」
 幡枝さんが立ち上がり冷蔵庫を開ける。
「お水、飲みたくなーい」と岩倉がレモンサワーをグビリと飲んだ。
 大丈夫か、おい。
「はいポカリ。お酒は私にちょうだい」
「ぬふー。じゃあ、シオン先生が口移しで飲ましてぇー」
 シオン先生って誰?
「学校ではその名前で呼ばないって約束したじゃない!」
 幡枝さんが赤くなった。ひょっとしてペンネーム? ベタなペンネーム!
「ほら、自分で飲みなさい」
「エロタヌキとはチューしたくせに、私とは嫌なの? チュー。シオン先生、チュー」  
 岩倉が唇を突き出した。こいつ、間違いなく酒乱だ。
「ゴリョウさんと私がチュー? 何それ?」
 幡枝さんが俺たちを見回す。
 覚えていないんですか? まあ、忘れた方が幸せでしょうけど。
「よし! ロリコントカゲを追う!」
 未亜がスクリーンに向き直る。面倒くさいと思ったのだろう。
「そうね。ペンタゴンよりこっちが先」
 ルカ姉も同調する。
「ちょっと、説明してよ!」と幡枝さん。
 突如加速が加わり、身体が耐G座席に押さえつけられる。
 立っていた幡枝さんが顔から耐G座席にめり込んだ。
「むぐぅ」
 未亜がしれっと言った。
「あ、ゴメン。慣性制御するの忘れてた」

 スクリーンに映る地平線が目まぐるしく動く。日が沈み、夜になったと思ったら、また日が昇った。まるでタイムマシンに乗っているようだ。
「ロリコントカゲ発見。ランデブーする」
 ルカ姉が後ろを振り返る。
「今の岩倉さん、使い物にならない……わね」
 岩倉の顔は依然真っ赤だ。何かブツブツと独り言を呟いている。
「未亜、酔いを一気に覚ます方法ってない?」
「即効性ナノマシン、MIA.ver.3・4なら血中のアルコールを瞬時に分解してくれるよ。ただし大量の水分を補給する必要がある。びっくりするぐらいオシッコが出るよ」
 どうやら経験済みのようだ。
「幡枝さん!」
「な、なんですか先生」
「今すぐ岩倉さんとキスをしなさい。舌を絡ませる濃厚なヤツ。ほら、唾液が糸を引くようなのを、映画とかで一度ぐらい見たことがあるでしょ? ブチュッといきなさい、ブチュッと!」
「……私のナノマシンって、そうやって入れたんですか?」
 幡枝さんが信じられないという顔をした。全く持って同情します。
「幡枝先輩。女の子は数のうちに入らないよ。人工呼吸したのと同じだよ」
 振り向く未亜と顔を合わせた幡枝さんが、頬を赤らめ目を泳がせた。
「幡枝先輩、超可愛い……。今キュンときた、キュンと!」
 未亜が目を輝かせる。俺の隣で榊田さんも嬉しそうだ。
「ああ、もう! 思春期って面倒くさいな! あなたたち、バージンなんかさっさと捨ててしまいなさい! 後生大事にとっておいても、なーんも良いことないわよ!」
 教師にあるまじき発言。
「お姉ちゃんはいつ捨てたの?」
「未亜、そういった誘導尋問に乗る私ではない」
「ちぇっ」
「もしもーし。ここは修学旅行のバスの中ですかぁ?」
 岩倉だ。
「こんな人たちが人類の行く末を左右するだなんてぇ!」
 毒舌岩倉だ。
「精神感応はもう終わったしぃ。ナノマシンなんかいらないしぃ。シオン先生は腐れエロタヌキと仲良くしてればいいのよ。げふぅ」と大きなゲップをした。
「さっき地球を眺めながら、ギュッとしてくれたのは何だったのぉ? シオン先生ぇ!」
 岩倉が五本目と思われるサワー缶のプルタブを開けた。どこから取り出したんだ。ちゅうかどれだけアルコールを搭載しているんだ、この船は。とにかくこれ以上の飲酒はまずい。急性アルコール中毒も考えられる。
「もうやめておけ。あとが大変だぞ」
 手を伸ばし、缶を取り上げようとしたが器用にかわされてしまった。岩倉は俺の顔を睨みつけ、サワー缶に口をつけながら言った。
「腐れエロタヌキの腰巾着のくせに、偉そう!」
 い、岩倉。お前、俺をそんな風に見ていたのか。
「もう、やめなさい」と幡枝さんが隙をみてサワー缶を取り上げる。
「あー、返してよぉ。シオン先生ぇー」
 幡枝さんにしがみついた。
「だから、その名前で呼ばない!」
「シオン先生、いい匂い」
 岩倉が幡枝さんの胸に顔を埋める。
「絵に描いたような百合展開だ。相関図を作る必要があるな。今日は人生最良の日だ」
 榊田さんが満面の笑顔だ。俺には修羅場にしか見えません。
「岩倉さん、精神感応を終えたと言ったわね。何を話したの」
「先遣隊の総意が、本星の総意に飲み込まれてしまった話」
 酔っ払ってはいたが岩倉の説明は理路整然としていた。ただ理路整然としているのは岩倉の話であり、ディノサウロイドの行動原理は全く理解し難かった。現在ディノサウロイド本星において地球文化熱が社会を席巻し、混乱を引き起こしているというのだ。
 当初ディノサウロイド本星における先遣隊との精神感応通信は、一部の者に制限されていた。しかし知的好奇心の充足を最大の喜びとする彼らは、「総意」に基づき先遣隊との精神感応を広く一般に公開する。人類型調査ロボットを使用した地球文明探索は一大ブームとなり、多数の精神感応が集中したという。未亜が事故に巻き込まれたのはこの時期に該当するらしい。
 やがて岩倉が見いだされ、その存在が知れ渡ると、岩倉との精神感応通信が求められるようになる。一度は拒否するものの先遣隊に三億もの「総意」を拒絶し続ける術はなかった。こうして行われた岩倉との精神感応通信は、ディノサウロイドたちをパニックに陥れる。岩倉の五感を通して送り届けられる、翻訳機を介さない生の情報は、ディノサウロイドにとって麻薬にも匹敵する快楽だったのだ。
 そして今まで感じたことがなかった要求がディノサウロイドたちを襲う。それは「物欲」だった。彼らはあまりにも長期間内向きで有り続けたため、外的刺激に対しすっかり過保護になっていたのだ。
「その物欲の矛先がハックだったというわけ?」とルカ姉。
「ハックだけじゃないけど、ハックは特別な存在みたーい」
「それはハックが内包するペルム紀文明の技術?」
「ブー。違いまぁーす。ペルム紀文明、あんまり関係ありませーん」
「じゃあ、何なの?」
「おっぱい」
「はあ?」
「ハックのおっぱい」
 ハックの完成されたボディーラインが、ディノサウロイドの琴線に触れるらしい。卵生で乳房を持たないディノサウロイドの、ないものねだりなのか。
「ぬう。魅惑のおっぱいが引き起こす星間戦争! さすがのボクもこんな展開は想定していなかった」
「人類との接触で、ディノサウロイドの社会が混乱しているというの?」
「腐れエロタヌキの言っていたことが、ディノサウロイド側に起きただけですよぉ。ディノサウロイドの社会がこのまま崩壊したら、コンタクトを受け入れた人類にも責任があると思いまぁーす」と岩倉が幡枝さんの持つサワー缶を奪い返そうとする。
「シオン先生、返してぇ。サワー、美味しいのぉー」
「あの小型宇宙船の連中は?」
「事態の深刻さに気が付き、わざわざ経緯を教えに来てくれたの。三億の総意から逃れるため精神感応通信機を壊してまで! 根は無垢で本当にいい人たちなのぉー」と今度はさめざめと泣き出した。
「問題なのは現在地球に向かっている母船なの。完全に三億の総意に飲み込まれた状態で地球に向かっているの。さっき学校で起きたような衝突が再び起きる可能性があるの」
「なんてこと」
 ルカ姉が青ざめた。
「未亜。今すぐシュピーゲル号をホワイトハウスに着けて。国防長官なんかもうどうでもいい。大統領と直接話す。このままでは本当に戦争になってしまう!」
「ぬう。そんな悠長なことをしていて良いの? ロリコントカゲの母船はすぐそこまで来ているんだよ。一ヶ月後には衛星軌道に乗るんだよ」
「しかし人類はディノサウロイド船を足止めする物理的手段を持たない。話し合い以外方法が……」と言ったところで、ルカ姉は不敵な笑みを浮かべる未亜に気が付く。
「未亜。あまり気が進まないんだけど、とりあえず話だけ聞かせてもらえる?」

「これがロリコントカゲの母船」
 未亜が天井のスクリーンを指さす。細長い円錐形の物体が三つ映った。超望遠で撮影したディノサウロイド船だ。シュピーゲル号のアニメチックでゴテゴテとしたデザインと比較すると実にシンプルだ。密集して飛んでいるので、地球上の可視光望遠鏡にはひとつの塊に見えるらしい。
「全長九百メーター、最大幅百五十メーター。推定重量八十万トン。核パルス推進型の宇宙船。よくもこんなでっかいものを三つも作ったね。感心するよ」
「ちょっと待ってくれ」
 俺は手を挙げた。
「なんで円錐形の底面がこっちを向いているんだ? 尖っている方が進行方向じゃないのか。逆だろ普通」
「だからヒロシは馬鹿だというんだよ。減速の最中だからに決まっているじゃん」
 出発時はエンジンを後方に向け加速する。そしてその加速で船内に重力を得る。中間地点において船体を百八十度回転させ、今度は進行方向にエンジンを向け減速。この減速によりまた船内に重力を得る。これが当たり前の考え方らしい。
 画像が太陽系のCGに変わる。
「これが現在のロリコントカゲの位置。間もなく地球に最接近する」
 どういう意味だ。地球にやってくるのは一ヶ月後だって、さっき言ってたじゃないか。
「もう! だからヒロシは馬鹿だというんだよ。あんなでっかい船が直接地球の衛星軌道に乗れるわけないじゃん。地球の重力でブレーキを掛けるため、一度最接近するんだ。そのあと一旦地球から離れるんだよ」
 現在の速度のままでは地球の重力を振り切ってしまうらしい。エンジンの逆噴射だけではなく、太陽と惑星と月の重力で段階的にブレーキをかけるのだ。
「この最接近時を狙って、ギューンと加速してグワッと後ろから回り込み追い抜く。シュピーゲル号は太陽重力を無視できるからね」
 未亜が示した範囲は、それでも地球と火星の距離よりも遙かに長かった。
「ちょっと待って! たった十二時間で追いつくですって? 本当にそんなことが可能なの? 誰か電卓持っていない?」
 ルカ姉。電卓ならケータイに付いていますけど?
「違う! 逆ポーランド記法ができるやつ!」
 残念ながら存じ上げません。
「ふん。ロリコントカゲと同次元で語らないでほしいな。さっきも言ったでしょ。この短い距離でも亜光速まで、あっと言う間に加速できるって。ただし人が乗っていると加速が制限される。人が死なない範囲だと、今すぐ出発しないと間に合わない」
「ランデブーしてどうするつもり?」
「警告する。地球に近づくなと」
「もし従わなかったら?」
「攻撃する」
「うーん……」
 ルカ姉が腕を組み考え込む。
「交渉時間を持つ分だけロリコントカゲは地球に近づく。三隻の宇宙船に衛星軌道に乗られたら全人類を人質に取られたも同じ。地球の陰に入られたら、シュピーゲル号でも打つ手がない」
 全人類を人質? でもディノサウロイド船に武器はないんだろ。
「宇宙からの攻撃に武器なんか必要ない。適当な大きさの小惑星を主要都市に落とすだけでいい。それで何万人も殺せる。これが菜切り包丁でも人が殺せる理論」
「現実に連中は人質を取った。未亜の言う通り地球規模でこれをやられると人類は手も足も出ない。連中が衛星軌道に乗るまでに、何らかの手を打つ必要がある」とルカ姉。
 そんな。この地球は彼らの故郷でもある。そこまで酷いことをするとは思えないが。
「人類は故郷である地球の環境を破壊しまくっているよ?」
 それとこれとでは話が違う!
「違わない。人類は目先のことしか考えていない。だから環境を破壊する。だからロリコントカゲと簡単になれ合う。思慮が足らなすぎる。それがこの結果だ」
「返す言葉もないわ」
 ルカ姉が目を伏せた。そのルカ姉に未亜が語りかける。
「実はね、このシュピーゲル号を作ったペルム紀文明は、地上における重力崩壊炉の事故により滅んだんだ」
「まさかP-T境界事変って……」
「そう。P-T境界事変を起こしたのはペルム紀文明だよ」
 前にも出たな、P-T境界事変って。一体何なんだ。
「二億五千万年前、当時地球上に存在した全生命種の九十五%が絶滅した」
 九十五%? ほとんど全滅じゃないか! 
「地殻が破壊され、噴出したガスが大気と海を汚染した。地軸も長期にわたり不安定となった。地球は数十万年の間、生命にとって地獄と化したんだ。ひとつ間違えれば、地球はバクテリアが巣くうだけの星になっていたかも知れない」
「お前にはその時の記憶があるのか」
 未亜は小さく頷いた。
「あ、でもこのシュピーゲル号は安全だから安心して。この事故を教訓に様々な安全策が講じられた。二億五千万年の間、改良に改良を重ねてきたんだ。ほぼ完成形と言っていい。無事故無違反にはちゃんと根拠がある」
 大気汚染とか温暖化とか、そんなレベルを遙かに超えた致命的な環境破壊。異文明との接触がこれをもたらすとしたら。初めはただ頭の固いヤツ程度に思っていたがそうではない。こいつはこいつなりに、ありとあらゆる可能性を検討した上で出した結論なのだ。
「悔しいけど未亜の言う通りだ。そしてディノサウロイド船を阻止できるのはこのシュピーゲル号をおいて他にない。見せてもらおうじゃないの。その自慢の加速力を」
「了解、お姉ちゃん」

「艦長より達する。本艦はこれよりロリコントカゲ迎撃のため、亜光速飛行を敢行する。ついては諸君らを家に送り届ける時間がなくなってしまった。申し訳ないがこのまま付き合ってもらう。冷蔵庫や電子レンジの扉のロックをチェック! トイレに行きたい人は今すぐ行く!」
「腐れエロタヌキ、偉そう!」
 岩倉が野次る。未亜がまた情けない顔をした。
「全乗員はシートベルトを装着。座席に深く座り、頭と背中を背もたれにきちんと密着させること。腕はアームレストの上、宙には浮かせないこと。加速度を相殺できると言っても、この短距離で亜光速ともなると限界がある。本当は耐G服も併用できれば良かったんだけど、今回は制作が間に合わなかった。若干きついかも知れないけど、この耐G座席でなんとかなると思う」
 榊田さんが四点式シートベルトの具合をたしかめながら聞く。
「ゴリョウさん、具体的にどのぐらいのGがかかるの?」
「最大十二Gかな」
「十二G? サターンV型ロケット以上か!」
 ははっと引きつった笑い声をあげた。
 単純に考えて体重が十二倍? おい、この間の流星号でどのぐらいなんだ?
「ぬう。六G? 七Gは越えていないと思う」
 あれの二倍? あの時でさえ胃の中の物を全部まき散らしそうになったぞ。
「流星号みたいに全方向からの加減速はない。一方向だけなら、この耐G座席で十分耐えられると思うよ、たぶん」
 たぶんってなんだ!
「男のくせにゴチャゴチャとうるさいなぁ、もう。アメリカのテストパイロットの中には、瞬間だけど八十Gに耐えた人もいるから大丈夫だよ」
「ゴリョウさん。八十Gを体験したパイロットは、たしか失明したと聞いたけど? 『耐えた』というより『生き残った』というのが表現として正しいと思うな」
 榊田さん、その情報は聞きたくなかった。
「幡枝先輩は全然平気だからね。ちょっと身体が重いなぁぐらいで済む。みんなが失神して、よだれを流している姿を写真撮って遊ぼう。トイレに行きたい人はいないね?」 
 さらに質問しようとする俺と榊田さんを無視し、未亜が慣れた手つきでシートベルトを装着する。そしておもむろに言った。
「シュピーゲル号発進十秒前」
「え、もう? ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
 慌ててシートベルトを装着する。
「三、二、一、発進!」 
 ブオン。
 脊髄を揺るがす振動と共に、身体が耐G座席の中に深くめり込んだ。さっきまで真綿のように柔らかかったクッションが全身を包み込み、強く堅く締め上げる。顔の皮が引っ張られ視界がゆがんだ。眼球が頭蓋骨の奥にめり込んでいく。呼吸が浅くなり心拍が急速に上がるのを感じた。
 死ぬ。これは死ぬ。





しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

我ら新興文明保護艦隊

ビーデシオン
SF
もしも道行く野良猫が、百戦錬磨の獣戦士だったら? もしも冴えないサラリーマンが、戦争上がりのアンドロイドだったら? これは、実際にそんな空想めいた素性をもって、陰ながら地球を守っているエージェントたちのお話。 ※表紙絵はひのたけきょー(@HinotakeDaYo)様より頂きました!

虚界生物図録

nekojita
SF
序論 1. 虚界生物 界は、生物学においてドメインに次いで2番目に高い分類階級である。古典的な生物学ではすべての生物が六界(動物界、植物界、菌界、原生生物界、古細菌界、細菌/真正細菌)に分類される。しかしこれらの「界」に当てはまらない生物も、我々の知覚の外縁でひそかに息づいている。彼らは既存の進化の法則や生態系に従わない。あるものは時間を歪め、あるものは空間を弄び、あるものは因果の流れすら変えてしまう。 こうした異質な生物群は、「界」による分類を受け付けない生物として「虚界生物」と名付けられた。 虚界生物の姿は、地球上の動植物に似ていることもあれば、夢の中の幻影のように変幻自在であることもある。彼らの生態は我々の理解を超越し、認識を変容させる。目撃者の証言には概して矛盾が多く、科学的手法による解析が困難な場合も少なくない。これらの生物は太古の伝承や神話、芸術作品、禁断の書物の中に断片的に記され、伝統的な科学的分析の対象とはされてこなかった。しかしながら各地での記録や報告を統合し、一定の体系に基づいて分析を行うことで、現代では虚界生物の特性をある程度明らかにすることが可能となってきた。 本図録は、こうした神秘的な存在に関する情報、観察、諸記録、諸仮説を可能な限り収集、整理することで、未知の領域へと踏み出すための道標となることを目的とする。 2. 研究の意義と目的 本図録は、初学者にも分かりやすく、虚界生物の不思議と謎をひも解くことを目的としている。それぞれの記録には、観察された異常現象や生態、目撃談、さらには学術的仮説までを網羅する。 各項は独立しており、前後の項目と直接の関連性はない。読者は必要な、あるいは興味のある項目だけを読むことができる。 いくつかの虚界生物は、人間社会に直接的、あるいは間接的に影響を及ぼしている。南極上空に黄金の巣を築いた帝天蜂は、巣の内部で異常に発達した知性と生産性を持つ群体を形成している。この巣の研究は人類の生産システムに革新をもたらす可能性がある。 カー・ゾン・コーに代表される、人間社会に密接に関与する虚界生物や、逆に復讐珊瑚のように、接触を避けるべき危険な存在も確認されている。 一方で、一部の虚界生物は時空や因果そのものを真っ向から撹乱する。逆行虫やテンノヒカリは、我々の時間概念に重大な示唆を与える。 これらの異常な生物を研究することは単にその生物への対処方法を確立するのみならず、諸々の根源的な問いに新たな視点を与える。本図録が、虚界生物の研究に携わる者、または未知の存在に興味を持つ者にとっての一助となることを願う。 ※※図や文章の一部はAIを用いて作成されている。 ※※すべての内容はフィクションであり、実在の生命、科学、人物、出来事、団体、書籍とは関係ありません。

彼を追いかける事に疲れたので、諦める事にしました

Karamimi
恋愛
貴族学院2年、伯爵令嬢のアンリには、大好きな人がいる。それは1学年上の侯爵令息、エディソン様だ。そんな彼に振り向いて欲しくて、必死に努力してきたけれど、一向に振り向いてくれない。 どれどころか、最近では迷惑そうにあしらわれる始末。さらに同じ侯爵令嬢、ネリア様との婚約も、近々結ぶとの噂も… これはもうダメね、ここらが潮時なのかもしれない… そんな思いから彼を諦める事を決意したのだが… 5万文字ちょっとの短めのお話で、テンポも早めです。 よろしくお願いしますm(__)m

冤罪だと誰も信じてくれず追い詰められた僕、濡れ衣が明るみになったけど今更仲直りなんてできない

一本橋
恋愛
女子の体操着を盗んだという身に覚えのない罪を着せられ、僕は皆の信頼を失った。 クラスメイトからは日常的に罵倒を浴びせられ、向けられるのは蔑みの目。 さらに、信じていた初恋だった女友達でさえ僕を見限った。 両親からは拒絶され、姉からもいないものと扱われる日々。 ……だが、転機は訪れる。冤罪だった事が明かになったのだ。 それを機に、今まで僕を蔑ろに扱った人達から次々と謝罪の声が。 皆は僕と関係を戻したいみたいだけど、今更仲直りなんてできない。 ※小説家になろう、カクヨムと同時に投稿しています。

処理中です...