111 / 158
もう一匹のドラゴン
しおりを挟む 村が光で満ちたのは、ほんの一瞬のことだった。村を襲った夜魔を全滅させるには、それで十分だった。
「今のは何だ……空から光が降ってきたが……」
「神様だ……辰様が村を守ってくださったんだよ」
「ああ、喜びごとだ 夜魔退治の喜びごとだ!」
村が歓喜に沸いた。
民家の戸から棒が外され、笑顔の人々が外に顔を出した。杖を持った紅飛斗たちもほっとした様子で、広場に集まってきている。
辰様はその様子を見て、嬉しそうに目を細めた。けれど、すぐに私の手を引いて歩き出した。
「辰様? どこに行くのですか」
「……もう戻りましょう。少し疲れました」
確かにあれだけの力だ。いくら神様といえど疲れてしまうのも無理はない。
村人たちからの笑顔と感謝の言葉、それらの祝福が降り注ぐにぎやかな通りを抜けて、薄暗い天人廟へと入った。
天人廟の中は、以前は何もなくてがらんとしていたけれど、辰様が住むようになってからはさまざまなものが持ち込まれていた。敷物が敷かれ、壁には大傘や織物が掛けられている。食事用の座卓と灯りのための油皿は、今は布団とともに部屋のすみに移動している。
辰様は豆葡萄の敷物に腰を下ろした。
髪をかき上げて頭を振る。黒い髪がさらさらと揺れた。
「辰様……?」
応えるように目を上げて、私を見つめてくる。辰様の目は強い。いつも穏やかな口調だし、泣き虫だし、だからふだんは全然意識しないのだけれど。若葉を思わせる碧の瞳は、ただ美しいだけではない煌めきが宿っていた。日の入り込まない薄暗い室内で、白目の部分がくっきりと浮かび上がっている。その目でじっと見つめられると射貫かれたように動けなくなる。
乱れた髪の一筋が頬に掛かり、血の気の引いた白い頬が余計に白く見えた。妙な色気が漂っている気がして、どきりとする。
薄くあけた唇から小さく溜息を吐くと、苦しげに目を伏せた。まつげがかすかに震えている。心配で胸がしめつけられ、そばに膝を突いた。
「辰様、もしかして体調が……」
「短期間に喜びごとを重ねたので……。でも大丈夫ですよ、ちょっと休めば平気です」
そうはいっても心配だった。
「どうかゆっくりお休みください。そうだ、そろそろお昼ですし、食事を持ってきますね。あと、何か元気が出そうな物を探してきます」
私は天人廟を出ると、まっすぐ村長さんのお宅に向かった。村長、いや、紅飛斗長なら、神様を元気づけるものを持っていらっしゃるかもしれない。
「おや、副長のところの娘さんではありませんか」
村長は玄関先で、笑顔で出迎えてくれた。
「そういえば副長はまだ御帰還されませんなあ。交渉ごとが長引いているのですかね」
「交渉ごと? 父は今そういう仕事をしていたのですか」
早く辰様の話をしたかったが、村長の雑談をむげにするわけにもいかない。
「ああ、ご存じなかったですかね。あなたのお父様はいま隣村で交渉……というか、野菜の値切り交渉を頑張っておられるのですよ」
「……それは知りませんでした」
苦笑してしまうと、村長はわざとらしくきまじめな顔をした。
「いや、笑い事ではないのですよ。鰺一匹で蕪菁二つ、それが約束だったのに、あちらの村が鰺一匹に蕪菁一つだと言い出して……あちらの言いなりになっていたら、海から魚がいなくなりますよ。これは厳密には紅飛斗のお役目ではないですけど、でもこういう仕事も決して疎かにして良いものではありません」
「はい」
確かに村長の言うとおりだと思い、頷く。
「それでご用件は」
「実は神様のことなんです」
早口でそう切り出すと、村長はにやりと笑った。
「でしょうねえ、そうだろうと思いましたよ」
いや、それこそ笑い事じゃないのだけれどと憮然としてしまう。
「随分と仲良くされていらっしゃるようだ。紅飛斗として大変喜ばしいことです」
「う……」
村長の何もかもお見通しだぞと言わんばかりの意味深な目つきに、私はうろたえてしまう。
「そ、それでですね、神様は随分とお疲れのようなのです。神様の疲労回復には何が良いのか、村長さんのお知恵をお借りしたいのです」
「ああ、先ほどは喜びごとで村を守ってくださいましたからね。しかも村だけでなく村周囲まで浄化するようなご威力でした。さぞお疲れでしょうなあ」
村長はううんと唸った。
「いや、しかし、あれほど強大なお力の神様なら安心できますな」
「安心というのは……?」
「辰様がいらっしゃる以上、この村には今後新しい神様は産まれません。梅が咲く時期に辰様が箱に戻って死んで、梅雨に生き返るということを毎年繰り返すわけです。この村はずっと辰様ひとりだけということになる」
ふと疑問が頭をよぎった。
――本来であれば、ことしは別の神様が産まれていたはずだ。その神様は一体どうなったのだろう。
村長がご自分の頭をぺしんと叩く音に、はっと思考を現実に引き戻される。
「もしも辰様のお力が弱かったら困るなあと心配しておったのですよ。でも、あれなら申し分ない」
村長は一度屋敷の奥に引っ込み、黒紀酒の入った壺を持ってあらわれた。
「お疲れには黒紀酒が一番良いと思いますよ。いやあ、それにしても辰様はやはり武神のようですね。いや私はそうなんじゃないかなとずっと思っていたんですよ。たくましいお体と美しいお顔! 私の読みは間違っていませんでしたな。お餅を降らせたときから、これはただものではないなと思ってたんですよ。そもそも人型の神なんて前例がない。何もかもが違っている」
話しながら壺を差し出されたので、頭をさげて受け取った。ずしりと重い。
「辰様ほどのお力なら、ひょっとすると夜魔の親分も倒せるかもしれませんね」
夜魔の親分だなんて、誰も見たことがない、伝説の存在だ。
あの人にそこまでの期待を背負わせないであげてほしい、そう思った。
「今のは何だ……空から光が降ってきたが……」
「神様だ……辰様が村を守ってくださったんだよ」
「ああ、喜びごとだ 夜魔退治の喜びごとだ!」
村が歓喜に沸いた。
民家の戸から棒が外され、笑顔の人々が外に顔を出した。杖を持った紅飛斗たちもほっとした様子で、広場に集まってきている。
辰様はその様子を見て、嬉しそうに目を細めた。けれど、すぐに私の手を引いて歩き出した。
「辰様? どこに行くのですか」
「……もう戻りましょう。少し疲れました」
確かにあれだけの力だ。いくら神様といえど疲れてしまうのも無理はない。
村人たちからの笑顔と感謝の言葉、それらの祝福が降り注ぐにぎやかな通りを抜けて、薄暗い天人廟へと入った。
天人廟の中は、以前は何もなくてがらんとしていたけれど、辰様が住むようになってからはさまざまなものが持ち込まれていた。敷物が敷かれ、壁には大傘や織物が掛けられている。食事用の座卓と灯りのための油皿は、今は布団とともに部屋のすみに移動している。
辰様は豆葡萄の敷物に腰を下ろした。
髪をかき上げて頭を振る。黒い髪がさらさらと揺れた。
「辰様……?」
応えるように目を上げて、私を見つめてくる。辰様の目は強い。いつも穏やかな口調だし、泣き虫だし、だからふだんは全然意識しないのだけれど。若葉を思わせる碧の瞳は、ただ美しいだけではない煌めきが宿っていた。日の入り込まない薄暗い室内で、白目の部分がくっきりと浮かび上がっている。その目でじっと見つめられると射貫かれたように動けなくなる。
乱れた髪の一筋が頬に掛かり、血の気の引いた白い頬が余計に白く見えた。妙な色気が漂っている気がして、どきりとする。
薄くあけた唇から小さく溜息を吐くと、苦しげに目を伏せた。まつげがかすかに震えている。心配で胸がしめつけられ、そばに膝を突いた。
「辰様、もしかして体調が……」
「短期間に喜びごとを重ねたので……。でも大丈夫ですよ、ちょっと休めば平気です」
そうはいっても心配だった。
「どうかゆっくりお休みください。そうだ、そろそろお昼ですし、食事を持ってきますね。あと、何か元気が出そうな物を探してきます」
私は天人廟を出ると、まっすぐ村長さんのお宅に向かった。村長、いや、紅飛斗長なら、神様を元気づけるものを持っていらっしゃるかもしれない。
「おや、副長のところの娘さんではありませんか」
村長は玄関先で、笑顔で出迎えてくれた。
「そういえば副長はまだ御帰還されませんなあ。交渉ごとが長引いているのですかね」
「交渉ごと? 父は今そういう仕事をしていたのですか」
早く辰様の話をしたかったが、村長の雑談をむげにするわけにもいかない。
「ああ、ご存じなかったですかね。あなたのお父様はいま隣村で交渉……というか、野菜の値切り交渉を頑張っておられるのですよ」
「……それは知りませんでした」
苦笑してしまうと、村長はわざとらしくきまじめな顔をした。
「いや、笑い事ではないのですよ。鰺一匹で蕪菁二つ、それが約束だったのに、あちらの村が鰺一匹に蕪菁一つだと言い出して……あちらの言いなりになっていたら、海から魚がいなくなりますよ。これは厳密には紅飛斗のお役目ではないですけど、でもこういう仕事も決して疎かにして良いものではありません」
「はい」
確かに村長の言うとおりだと思い、頷く。
「それでご用件は」
「実は神様のことなんです」
早口でそう切り出すと、村長はにやりと笑った。
「でしょうねえ、そうだろうと思いましたよ」
いや、それこそ笑い事じゃないのだけれどと憮然としてしまう。
「随分と仲良くされていらっしゃるようだ。紅飛斗として大変喜ばしいことです」
「う……」
村長の何もかもお見通しだぞと言わんばかりの意味深な目つきに、私はうろたえてしまう。
「そ、それでですね、神様は随分とお疲れのようなのです。神様の疲労回復には何が良いのか、村長さんのお知恵をお借りしたいのです」
「ああ、先ほどは喜びごとで村を守ってくださいましたからね。しかも村だけでなく村周囲まで浄化するようなご威力でした。さぞお疲れでしょうなあ」
村長はううんと唸った。
「いや、しかし、あれほど強大なお力の神様なら安心できますな」
「安心というのは……?」
「辰様がいらっしゃる以上、この村には今後新しい神様は産まれません。梅が咲く時期に辰様が箱に戻って死んで、梅雨に生き返るということを毎年繰り返すわけです。この村はずっと辰様ひとりだけということになる」
ふと疑問が頭をよぎった。
――本来であれば、ことしは別の神様が産まれていたはずだ。その神様は一体どうなったのだろう。
村長がご自分の頭をぺしんと叩く音に、はっと思考を現実に引き戻される。
「もしも辰様のお力が弱かったら困るなあと心配しておったのですよ。でも、あれなら申し分ない」
村長は一度屋敷の奥に引っ込み、黒紀酒の入った壺を持ってあらわれた。
「お疲れには黒紀酒が一番良いと思いますよ。いやあ、それにしても辰様はやはり武神のようですね。いや私はそうなんじゃないかなとずっと思っていたんですよ。たくましいお体と美しいお顔! 私の読みは間違っていませんでしたな。お餅を降らせたときから、これはただものではないなと思ってたんですよ。そもそも人型の神なんて前例がない。何もかもが違っている」
話しながら壺を差し出されたので、頭をさげて受け取った。ずしりと重い。
「辰様ほどのお力なら、ひょっとすると夜魔の親分も倒せるかもしれませんね」
夜魔の親分だなんて、誰も見たことがない、伝説の存在だ。
あの人にそこまでの期待を背負わせないであげてほしい、そう思った。
17
お気に入りに追加
373
あなたにおすすめの小説

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。

愛する殿下の為に身を引いたのに…なぜかヤンデレ化した殿下に囚われてしまいました
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のレティシアは、愛する婚約者で王太子のリアムとの結婚を約1年後に控え、毎日幸せな生活を送っていた。
そんな幸せ絶頂の中、両親が馬車の事故で命を落としてしまう。大好きな両親を失い、悲しみに暮れるレティシアを心配したリアムによって、王宮で生活する事になる。
相変わらず自分を大切にしてくれるリアムによって、少しずつ元気を取り戻していくレティシア。そんな中、たまたま王宮で貴族たちが話をしているのを聞いてしまう。その内容と言うのが、そもそもリアムはレティシアの父からの結婚の申し出を断る事が出来ず、仕方なくレティシアと婚約したという事。
トンプソン公爵がいなくなった今、本来婚約する予定だったガルシア侯爵家の、ミランダとの婚約を考えていると言う事。でも心優しいリアムは、その事をレティシアに言い出せずに悩んでいると言う、レティシアにとって衝撃的な内容だった。
あまりのショックに、フラフラと歩くレティシアの目に飛び込んできたのは、楽しそうにお茶をする、リアムとミランダの姿だった。ミランダの髪を優しく撫でるリアムを見た瞬間、先ほど貴族が話していた事が本当だったと理解する。
ずっと自分を支えてくれたリアム。大好きなリアムの為、身を引く事を決意。それと同時に、国を出る準備を始めるレティシア。
そして1ヶ月後、大好きなリアムの為、自ら王宮を後にしたレティシアだったが…
追記:ヒーローが物凄く気持ち悪いです。
今更ですが、閲覧の際はご注意ください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。


私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい
棗
恋愛
婚約者には初恋の人がいる。
王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。
待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。
婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。
従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。
※なろうさんにも公開しています。
※短編→長編に変更しました(2023.7.19)

婚約者に毒を飲まされた私から【毒を分解しました】と聞こえてきました。え?
こん
恋愛
成人パーティーに参加した私は言われのない罪で婚約者に問い詰められ、遂には毒殺をしようとしたと疑われる。
「あくまでシラを切るつもりだな。だが、これもお前がこれを飲めばわかる話だ。これを飲め!」
そう言って婚約者は毒の入ったグラスを渡す。渡された私は躊躇なくグラスを一気に煽る。味は普通だ。しかし、飲んでから30秒経ったあたりで苦しくなり初め、もう無理かも知れないと思った時だった。
【毒を検知しました】
「え?」
私から感情のない声がし、しまいには毒を分解してしまった。私が驚いている所に友達の魔法使いが駆けつける。
※なろう様で掲載した作品を少し変えたものです
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる