3 / 6
動揺
しおりを挟む
『帝国暦250年天秤の25日─』
百合は再び日記を手に取った。
『女主人としてやることは多い。家の管理がまずそうだ。使用人たちを監督し、統率する力が必要になる。
…私にはできない。失敗する度に使用人の目が冷たくなっていくのが分かる。どうすればいいのか分からない。
全て他の者に任してしまえば…。そう考えると急に楽になった。そして執事のリーゼントに裁量権を譲ったのだ。彼は上手くやってくれている。奥様は目立たないように部屋に籠っていればいい、と言われてもその通りだし、何も言えない…。』
逃げてしまったわけね。百合は納得する。
間違いではない。しかし時には、強いところを見せなければ下の者は付け上がる。
執事が舐めているのならば、他の使用人も当然、態度を真似るだろう。
どこかに味方はいなかったのかと、頁をパラパラと捲る。
『メイドのライラはいつも優しい。彼女だけが私を馬鹿にせず、優しく話を聞いてくれる。
クルーガー様との、例の約束の日が近づく度緊張する私の手をとり、慰めてくれるのだ。』
約束の日?疑問に思った百合は、頁を戻し、そして見つけてしまった。
『毎月15日は、夫婦として夜を共にするという契約だ。双方が望めば、この限りではないなんて…無意味な但し書き…。』
そんなこと知らないんだけど…。
百合は慌てて、今日の日付を確認する。
幸か不幸か15日だった。
顔を見たいと思っていたクルーガーに会えることが確実とはいえ、百合にはそういったことの経験がない。
(え、どうしよう…。逃げる?)
心が千々に乱れる。身体の持ち主にいくら経験があるとはいえ、どうすれば。
考えても仕方のない問いを夜になるまで持ち続けたのだった。
◇◇
「ふぅ」
クルーガーは、知らず溜め息をついてしまう己に気づいていた。
今夜は妻と同衾する日。契約とはいえ、面倒だ。いつもの如く、下を向き、震え、問いにも満足に答えを返さないだろう彼女を思うと憂鬱になる。
いや、そんなことは関係ない。私は私の務めを果たすだけだ。煩わしくない女を望んだのは、紛れもない自分なのだから。
思い直し、軽く扉をノックした。
「どうぞ」
珍しくはっきりとした答えが返ってきたことに驚きながらも足を踏み入れる。
妻は、自分の目をしっかりと見つめていた。
「何か、お飲みになる?」
「いや…」
知らず、気圧されていた。
「何かあったか?」
「いえ別になにも」
妻が飲み物を差し出してきた。
少量のホットワインがゆらりと波打つ。
「私も頂くわ」
これも常ならありえないことだ。
軽く、乾杯のため容器を近づけて、ゆっくりと流し込む。
頭に浮かんだ疑問は消えないままに。
◇◇
百合は開き直っていた。
なんとかなるでしょうと。
お酒を飲めば、いい感じに事が進むのではという安易な考えで用意したが、結果的に正解だった。
入ってきた人間離れした美貌を持つ男に、心は激しく動揺していたが顔には出さない。
意地でも目を逸らすまいと、じっと見つめた。
別人だと見破られたかとも思ったが、そうではないようだった。
百合はこれから無謀な賭けに出ようとしている。無茶で大胆な。
しかし、夜までじっと考えている内に思ったのだ。昼食、夕食と、やって来る使用人皆が生意気で、叱責することに疲れてしまった。
─掃除するにしても、代わりの人材が必要になる
今いる使用人はできるだけそのままに、彼らの態度を変えさせようと考えた。それには手っ取り早くクルーガーに好かれればよいのでは…とそう思った。
だから、顔から火が吹き出そうになりながらも誘惑しようとしている。
柄でもない。元いた世界でも“はしたない”と思えるネグリジェを着て。少しの期待も持ちながら。
ベッドへと誘う。
「もうお休みになられては?」
「…そうだな」
クルーガーは変わらず無表情だったが、紳士的に手を差し出してくれた。慌てて手を上に乗せる。
仰向けになり、黙って見つめた。
ここからは完全なノープランだった。
脈打つ鼓動を感じながら、胸の上で手をぎゅっと握りしめる。
クルーガーが言った。
「今夜は灯りを消してください、とは言わないんだな」
頭が一杯で思いもつかなかっただけです。
そこ、つっこまないでと百合はもう息も絶え絶えだ。
灯りが消される中、クルーガーが微かに笑った気がした。
百合は再び日記を手に取った。
『女主人としてやることは多い。家の管理がまずそうだ。使用人たちを監督し、統率する力が必要になる。
…私にはできない。失敗する度に使用人の目が冷たくなっていくのが分かる。どうすればいいのか分からない。
全て他の者に任してしまえば…。そう考えると急に楽になった。そして執事のリーゼントに裁量権を譲ったのだ。彼は上手くやってくれている。奥様は目立たないように部屋に籠っていればいい、と言われてもその通りだし、何も言えない…。』
逃げてしまったわけね。百合は納得する。
間違いではない。しかし時には、強いところを見せなければ下の者は付け上がる。
執事が舐めているのならば、他の使用人も当然、態度を真似るだろう。
どこかに味方はいなかったのかと、頁をパラパラと捲る。
『メイドのライラはいつも優しい。彼女だけが私を馬鹿にせず、優しく話を聞いてくれる。
クルーガー様との、例の約束の日が近づく度緊張する私の手をとり、慰めてくれるのだ。』
約束の日?疑問に思った百合は、頁を戻し、そして見つけてしまった。
『毎月15日は、夫婦として夜を共にするという契約だ。双方が望めば、この限りではないなんて…無意味な但し書き…。』
そんなこと知らないんだけど…。
百合は慌てて、今日の日付を確認する。
幸か不幸か15日だった。
顔を見たいと思っていたクルーガーに会えることが確実とはいえ、百合にはそういったことの経験がない。
(え、どうしよう…。逃げる?)
心が千々に乱れる。身体の持ち主にいくら経験があるとはいえ、どうすれば。
考えても仕方のない問いを夜になるまで持ち続けたのだった。
◇◇
「ふぅ」
クルーガーは、知らず溜め息をついてしまう己に気づいていた。
今夜は妻と同衾する日。契約とはいえ、面倒だ。いつもの如く、下を向き、震え、問いにも満足に答えを返さないだろう彼女を思うと憂鬱になる。
いや、そんなことは関係ない。私は私の務めを果たすだけだ。煩わしくない女を望んだのは、紛れもない自分なのだから。
思い直し、軽く扉をノックした。
「どうぞ」
珍しくはっきりとした答えが返ってきたことに驚きながらも足を踏み入れる。
妻は、自分の目をしっかりと見つめていた。
「何か、お飲みになる?」
「いや…」
知らず、気圧されていた。
「何かあったか?」
「いえ別になにも」
妻が飲み物を差し出してきた。
少量のホットワインがゆらりと波打つ。
「私も頂くわ」
これも常ならありえないことだ。
軽く、乾杯のため容器を近づけて、ゆっくりと流し込む。
頭に浮かんだ疑問は消えないままに。
◇◇
百合は開き直っていた。
なんとかなるでしょうと。
お酒を飲めば、いい感じに事が進むのではという安易な考えで用意したが、結果的に正解だった。
入ってきた人間離れした美貌を持つ男に、心は激しく動揺していたが顔には出さない。
意地でも目を逸らすまいと、じっと見つめた。
別人だと見破られたかとも思ったが、そうではないようだった。
百合はこれから無謀な賭けに出ようとしている。無茶で大胆な。
しかし、夜までじっと考えている内に思ったのだ。昼食、夕食と、やって来る使用人皆が生意気で、叱責することに疲れてしまった。
─掃除するにしても、代わりの人材が必要になる
今いる使用人はできるだけそのままに、彼らの態度を変えさせようと考えた。それには手っ取り早くクルーガーに好かれればよいのでは…とそう思った。
だから、顔から火が吹き出そうになりながらも誘惑しようとしている。
柄でもない。元いた世界でも“はしたない”と思えるネグリジェを着て。少しの期待も持ちながら。
ベッドへと誘う。
「もうお休みになられては?」
「…そうだな」
クルーガーは変わらず無表情だったが、紳士的に手を差し出してくれた。慌てて手を上に乗せる。
仰向けになり、黙って見つめた。
ここからは完全なノープランだった。
脈打つ鼓動を感じながら、胸の上で手をぎゅっと握りしめる。
クルーガーが言った。
「今夜は灯りを消してください、とは言わないんだな」
頭が一杯で思いもつかなかっただけです。
そこ、つっこまないでと百合はもう息も絶え絶えだ。
灯りが消される中、クルーガーが微かに笑った気がした。
12
お気に入りに追加
124
あなたにおすすめの小説

夫から「余計なことをするな」と言われたので、後は自力で頑張ってください
今川幸乃
恋愛
アスカム公爵家の跡継ぎ、ベンの元に嫁入りしたアンナは、アスカム公爵から「息子を助けてやって欲しい」と頼まれていた。幼いころから政務についての教育を受けていたアンナはベンの手が回らないことや失敗をサポートするために様々な手助けを行っていた。
しかしベンは自分が何か失敗するたびにそれをアンナのせいだと思い込み、ついに「余計なことをするな」とアンナに宣言する。
ベンは周りの人がアンナばかりを称賛することにコンプレックスを抱えており、だんだん彼女を疎ましく思ってきていた。そしてアンナと違って何もしないクラリスという令嬢を愛するようになっていく。
しかしこれまでアンナがしていたことが全部ベンに回ってくると、次第にベンは首が回らなくなってくる。
最初は「これは何かの間違えだ」と思うベンだったが、次第にアンナのありがたみに気づき始めるのだった。
一方のアンナは空いた時間を楽しんでいたが、そこである出会いをする。

リリーの幸せ
トモ
恋愛
リリーは小さい頃から、両親に可愛がられず、姉の影のように暮らしていた。近所に住んでいた、ダンだけが自分を大切にしてくれる存在だった。
リリーが7歳の時、ダンは引越してしまう。
大泣きしたリリーに、ダンは大人になったら迎えに来るよ。そう言って別れた。
それから10年が経ち、リリーは相変わらず姉の引き立て役のような存在のまま。
戻ってきたダンは…
リリーは幸せになれるのか

【完結】護衛騎士と令嬢の恋物語は美しい・・・傍から見ている分には
月白ヤトヒコ
恋愛
没落寸前の伯爵令嬢が、成金商人に金で買われるように望まぬ婚約させられ、悲嘆に暮れていたとき、商人が雇った護衛騎士と許されない恋に落ちた。
令嬢は屋敷のみんなに応援され、ある日恋する護衛騎士がさる高位貴族の息子だと判明した。
愛で結ばれた令嬢と護衛騎士は、商人に婚約を解消してほしいと告げ――――
婚約は解消となった。
物語のような展開。されど、物語のようにめでたしめでたしとはならなかった話。
視点は、成金の商人視点。
設定はふわっと。
悪役令嬢の逆襲
すけさん
恋愛
断罪される1年前に前世の記憶が甦る!
前世は三十代の子持ちのおばちゃんだった。
素行は悪かった悪役令嬢は、急におばちゃんチックな思想が芽生え恋に友情に新たな一面を見せ始めた事で、断罪を回避するべく奮闘する!

「君が大嫌いだ」といったあなたのその顔があまりに悲しそうなのは何故ですか?
しがわか
恋愛
エリックと婚約発表をするはずだったその日、集まった招待客の前で言われたのは思いがけないセリフだった。
「君が大嫌いだった」
そういった彼の顔はなぜかとても悲しそうだった。
哀しみにくれて帰宅した私は妹に悲嘆を打ち明ける。
けれど妹はあの日から目を覚まさないままで——。
何故彼は私を拒絶したのか。
そして妹が目覚めない理由とは。
2つの答えが重なるとき、2人はまた1つになる。
婚約破棄してくださって結構です
二位関りをん
恋愛
伯爵家の令嬢イヴには同じく伯爵家令息のバトラーという婚約者がいる。しかしバトラーにはユミアという子爵令嬢がいつもべったりくっついており、イヴよりもユミアを優先している。そんなイヴを公爵家次期当主のコーディが優しく包み込む……。
※表紙にはAIピクターズで生成した画像を使用しています

妹に婚約者を取られてしまいましたが、あまりにも身勝手なのであなたに差し上げます
hikari
恋愛
ハワード王国の第二王子セレドニオと婚約をした聖女リディア。しかし、背が高く、魔法も使える妹のマルティナに婚約者を奪われてしまう。
セレドニオはこれまで許嫁の隣国の王女や幼馴染と婚約を破棄していたが、自分の母方祖母の腰痛を1発で治したリディアに惚れ込む。しかし、妹のマルティナにセレドニオを奪われてしまう。
その後、家族会議を得てリディアは家を追い出されてしまう。
そして、隣国ユカタン王国へ。
一部修正しました。

エメラインの結婚紋
サイコちゃん
恋愛
伯爵令嬢エメラインと侯爵ブッチャーの婚儀にて結婚紋が光った。この国では結婚をすると重婚などを防ぐために結婚紋が刻まれるのだ。それが婚儀で光るということは重婚の証だと人々は騒ぐ。ブッチャーに夫は誰だと問われたエメラインは「夫は三十分後に来る」と言う。さら問い詰められて結婚の経緯を語るエメラインだったが、手を上げられそうになる。その時、駆けつけたのは一団を率いたこの国の第一王子ライオネスだった――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる