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1章 記憶海の眠り姫

22 From R to C

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 水球に指が触れた瞬間、リコの能力は部屋全体へと広がっていった。
 表れたのは白い砂浜、ゆったりと白い泡を伴う波、青い空と――海。きらきらと太陽の光を反射した波は、ふいに大きく揺れて……カラスと呼ばれる家族全員を同時に飲み込んでいった。
 ソフィアたちはその様を傍観している。
 次いで視界が青に染まる。水中にいるかのように髪や服が揺れるが、不思議と息はできるし目も開けていられる。リコが形作った幻影だからこそ、だ。普通、水中で息をし言葉を交わすことなど出来はしない。

「ねぇ、クロウ。海だよ」

 色とりどりの魚が優雅に泳ぎ、赤色の珊瑚が鮮やかに広がる海の中。リコたちはクロウに寄り添っていた。

「綺麗だね」
「あ……」

 クロウは家族たる四人に囲まれて、赤い眼を見開いた。それぞれがクロウの傷だらけの手や肩に触れ、彼に存在を示している。

「あのね、クロウ。私ね、気がついたことがあるの」

 リコはクロウの頬に両手を添えて囁く。

「私、みんなとどんな風に暮らしていたのかは分からない。もう思い出せない。だから、私はみんなの知るリコではないってそう思ってた。みんなが悲しまないように、みんなの知るリコを演じようと思ってた」

 全ての記憶を備える“始まりのリコ”と、今日だけの記憶しか持たない“今日のリコ”は別人である、と。けれどそれは今日のリコがそう思っていただけに過ぎない。

「人は、人との記憶を積み重ねることで関係を構築する。そう思っていたからこそ“私”はみんなの本当の家族ではない……ってね」
「リコ……」
「でもね、違うの」

 誰かの弱々しい声に対してかぶりを振る。

「私は記憶がなくてもみんなが大好き。これはきっと、記憶を失い始める前から変わらない想いがあるからで、絶対に消えることはない。私はみんなの異物なんかじゃなくてずっと変わっていなかった。ずっとみんなの家族だった」

 違うリコが毎日死んでは生まれるのではなく――全員同じ思いを共有する、同じ“リコ”である。瞼を閉じて思いを馳せ、こうして全員が側に居られることの幸せを噛みしめる。
 銀髪の少女は閉じていた瞼をゆっくりと開く。

「だからね、クロウもそうだよ。何があっても私たちは家族なの。あの日の約束を――私は忘れてなんかいないんだから」

 いたずらっぽく笑って一言。

「私が家族になってあげる」
「!!」

 動揺にクロウが表情を歪める。


 それはまだクロウが家族を得る前のこと。
 捨て子であり一旦は孤児院で預けられていたものの、様々な家庭を転々としていたクロウは、運が悪いことに自分を愛する家庭というものに出会えなかった。ある家では愛玩具、ある家では奴隷、その役目も飽きられれば別の家に売り渡され……やがて辿り着いた果てが精霊の元だった。
 そこで出会った少女の姿に羨望を抱いた。
 よほど家族に愛されていたのだろう彼女は寂しさに泣いていた。
 どうしようもなく羨ましくて……ついこぼれた愚痴に、少女は得意げに笑って見せたのだ。可愛らしい瞳は涙に濡れたままだったが、いたずらっ子のような、明るい笑顔だった。

『私が家族になってあげる』

 何をふざけたことを、と一瞬脳裏を過ぎったが、それ以上に温かな感情が彼の小さな胸に広がっていた。
 この少女を守らなければならない。
 結局、精霊の元から逃げた先で新しい出会いを引き寄せたのもこの少女だ。積極的に街の人に話しかけ、そして――新たな家族と出会うこととなった。
 空虚なクロウは、彼女との出会いでその心が満たされたのだ。
 たとえ彼女がその時の記憶を忘れようが、自分は忘れない。彼女と、彼女を含めた大切な家族を守ってみせると誓ったのに。
 俺は。


 水中だというのにポロポロと零れていく涙に、リコたちは顔を見合わせて苦笑する。

「俺は、みんなを」
「私だって沢山迷惑をかけたよ。全部自分で抱え込んだりしないで」
「あたしもあたしも! この間寝坊してお仕事に遅れちゃったし!」
「おでもクロウさんのおやつ食べちゃっただ……」
「へへ、僕も躓いてクロウさんの皿割っちゃったりしたことありましたけどへへへ」
「おい」

 短くツッコミを入れ、ついにクロウは吹き出した。口から空気が漏れ、日が差す水上へと昇っていく。
 全員でひとしきり笑い、そしてリコはこつん、と白い額をクロウの額にくっつけた。

「ねぇ、クロウ。海でひとしきり遊んだら疲れちゃうよね。――少しだけ、休もうか」
「……あぁ。疲れたよ」
「うん。みんなでくっついて寝ようよ。きっと気持ちがいいよ」
「……寝たい、なぁ」

 リコはクロウの頭を覆うように抱きしめる。水中にいるため大きく開いた身長差は問題にはならない。

「瞼を閉じて。きっと眠れるよ」

 クロウはその言葉に従って瞼を閉じる。優しい暗闇が視界を覆う。
 優しく頭を撫でられる感覚が心地よい。間を置かず、クレーエ、コルボー、カーグもクロウを抱きしめる。四人に包み込まれ、幸福感に口元が緩む。
 八年ぶりに眠れそうな、そんな淡い予感がした。


***


 クロウの髪を梳きながらリコは顔を上げる。視線の先には傍観していたルシオラ。

『ありがとう』

 声には出さずともルシオラには感謝の思いが伝わった。ふん、と鼻を鳴らして腕を組み……彼らだけの空間を目にしないよう背を向けた。
 次に視線が向けられたのはソフィアとセラフィ。眇められた眼差しは出番であると訴えている。

「セラフィ。血を」
「あぁ」

 二人はカラスたちの元へと泳いでいく。クロウの時間を邪魔したくはないが、彼を救う絶好の機である。
 軽く手のひらに傷を付けたセラフィが、鮮血が零れるそこをクロウの傷口へと持って行く。傷口同士が触れ合い、セラフィの血が傷へと染みこんでいく。
 変化は緩やかに訪れた。
 黒い羽根がゆっくりと散っていく。それだけではない。空間そのものが揺らいでいく。
 立ち上る白い泡に混じる、黄金の光の粒子。リコから溢れるそれは――彼女の最期を示していた。長時間、大規模な能力を駆使し続けることは彼女に大きな負担を強いる。空間全てを変質させ、尚且つその場にいる人間に危害を加えぬよう微調整もして。
 そうでもしなければクロウに想いをぶつけることができなかったのだ。自分の限界を超えた能力の使用であると理解した上で、リコは家族の夢を叶えることを選んだ。

「みんな、ありがとう。とっても楽しかったよ」
「リコ……?」

 クロウが顔を上げる。ハシバミ色の瞳に映り込む、白い泡と光に包まれた少女は幻想的で美しい。銀糸を煌めかせて少女は最期の微笑みを見せた。

「おやすみなさい、クロウ。良い夢を」

 クロウの意識が微睡みの中へ溶けていく。包まれることの心地よさに身を委ね、彼は再び瞼を閉ざした。その表情は、今までの中で一番穏やかで、優しいものだった。

「おやすみなさい」



***


 海が消えゆく。クロウたちはリコの力で床に叩きつけられることなく、石造りの床に横たえられる。四人並んで眠る様は――兄弟のようだった。
 四人。彼らの中に、彼らが大切にしていた少女の姿はない。
 彼女は海の泡と共に泡沫へと消えていったのだ。
 すやすやと寝息を立てている四人を見下ろしてソフィアは思う。その場にもういないリコに語りかけるように、口の中で小さく呟く。

「リコ、貴女は答えを選んだのね。――貴女の答えは、家族を救ってみせた」

 クロウが眠っているという事実は、彼がイミタシアという枷から解放されたことを示している。同時に能力も失っているであろう彼はもう情報屋として上手く働けるか分からない。それでも、家族の手を借りて生きていくのだろう。
 ソフィアは手にした小箱を撫でた。彼女のことを、ソフィアが忘れることはないだろう。
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