全然、まったく、これっぽっちも!

パチェル

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6 あいつの痕跡は。

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 人一人閉じ込めるためだけの箱庭のような病院に勤めさせられる医者と看護師の気持ちになったら、少しばかりやるせない怒りもあった。


 この人たちに言っても仕方のないことだから、ただ聞くのはあいつの体調は本当に大丈夫かなとか、俺から渡った臓器はちゃんと働いてるかなとか独り言みたいに聞いてみるぐらい。
 看護師さんは困ったように笑う。

 早く体を治しましょうね。
 色々考えるのはその後の方がいいですよ。

 確かにそうだったかも。精神的にちょっと不安定にもなった。



 ホルモンバランスのせいか、ストレスのせいか。発情期が乱れて飛んでやってくる。


 薬もあんまり効かないから、自分で自分を慰めるしかできなくて苦しくなる。
 衰弱して死んでくれればいいのに、窓の外から聞こえるくらい大声でそう言った人がいた。


 あれが幻覚かどうかも分かんないくらい、狂った発情期はきつかった。
 だからなのか、されるケアも必要最低限だった。
 水と簡易的な食料が置かれた。

 医者と看護師はまともに仕事をしていたから、そう言う指示があったのかもしれない。



 俺の窶れ具合は実家にいたころの比じゃないくらいだったと思う。

 因みに今世の俺の発情期明けよりひどい。

 あの時は三日終わったと思った十日後にはまた発情期が来て、一日空けてまたなんてことがあった。


 そりゃ時間の感覚も無くなる。
 カレンダーもない。
 時間の経過はおおざっぱに朝か昼か夜か。
 季節がどこらへんか。


 ここには夫の痕跡が俺の中にしかない。



 気付けば俺は何もかもを取り上げられていて、夫のことを思い出すためには過去を振り返るしかなかった。
 だから、今もこうやって過去を振り返る癖がついたのかもしれない。
 過去は変わらないけど、感じ方は変わったりもする。
 後悔だけじゃなくなってくる。薄らいでいく記憶をぎゅっと抱きしめて温めて。
 そうしているとたくさんの出来事が苦しみだけじゃなくなっていく。

 確かに苦しい日々もあったけど、それくらい愛していた。とも言う。








 もう数えきれないほど何回目かの使いの人がやってきた、朝。

 季節の移り変わりなんて、目を外に向ければわかる。

 雪化粧を施された木々と雪の深さに目を奪われるだろう。あいつが隣にいたら、ほら見て! とか言って。
 雪だるまを作るには十分すぎる雪にはしゃぐと思う。

 でも、それに興味を持てないほどうつらうつらしていた。



 夫に会わせて欲しい。それだけでいいのに。
 あの人が幸せそうに笑っているだけでいいのに。

 何度も言っていたと思う。






 根負けしちゃったのかもしれない。

 かもしれないのは、もううつらうつらとしていた時間が長すぎたから。確信が持てなかった。





 使いの人が俺を見て目を背ける。


 初めて俺に対しての何かしらのリアクションをしたその人は、とても気まずそうに口をゆがませた。





 みっともないと思われたかな。
 でも涙が出るんだ。



 あいつの手術が成功して助かったら、あいつに飛びついて。
 やったな、やっぱりな、絶対助かると思ったって泣こうと思っていたから。


 それまでは我慢だ、我慢だってやって来たから。





 首の後ろを撫でる。ガーゼの下は何の温度も感じなかった。
 俺の中からまた一つ痕跡が消えた。


 ここに触れたら熱く感じる体の熱が、来ない。
 多分この下はまっさらになっている。



 俺とあいつの、アルファとオメガだからできる約束の印。

「これだけは俺がアルファでよかったって思う瞬間だったから」

 あいつ、いつもここにキスをくれた。
 何度も、何度も、何度も。


「君に傷はつけたくなんだけれど、でも、俺の証を刻み込めるなら刻み込みたいって欲もあって」
 って悩んでたのが、馬鹿みたいだ。


 消えちゃうんだな。現代の医療ってスゲーよな。
 だったら、もっとアルファやオメガやベータや、その他色んな性別に関するやつに対してなんか発達なかったのかよ。現代科学の限界もっと突破できたんじゃねえの。

 もっと安い抑制剤とか、体に優しい抑制剤とか、力の強いアルファの治療とか、発情なんかに惑わされない薬とかさあっ!


 今はちょっと腹立ったりもする。けど、あの時は寒くて寒くて凍えそうで。
 涙がぼろぼろ目から零れ落ちたんだよな。




 いつ承諾を取られたのかわからないけれど、いつの間にか番ではなくなっていた。 





「番解消例は数少なく、予後の状態も不安なことが多いです。しかし、新しく番えることもできますし、こちらでも症状が気にかかるのでいつでも病院にいらして欲しく、こちらから事情を話した病院の近くに住む場所も用意しました。いつでも、何かありましたら、いらしてください」


 説明を受けて、縁もゆかりもない町で住むところを用意されて、働きたいけれど予後が悪いのか、番を解消された症状か体重は戻らず、すぐに疲れてしまう。
 ずっと少しだけ、ぼんやりしている。頭のなかにもやがかかるみたいな。



 でも生きていかねばならない。
 俺の両親も俺があいつといられなくなったからってめげるタマじゃないって、まだこっち来んなって言われそうだからかなり頑張った。

 あいつの周りを記者が張っているから接触はやめて欲しい、以前の人間関係にもほとぼりが冷めるまで接触しないで欲しいと言われ、連絡先が入ったスマホは返って来なかった。

 写真のデータだけでもと言ったけれど、首を振られた。

「絶対に大人しく過ごしてください。そうすれば……」
「あの人と会えることもある?」

 何にもないアパートの部屋の窓から見えるどんよりとした雲が俺の頭のなかにもあるみたいだった。

「それは、」
「じゃあ、俺の命の保障はしてもらえるってことか、あとは友人にも手を出さないとか?」


 いつも同じ使いの人は、表情を変えることがなかった。
 けれど強い目力に何も言うなという意志を感じた。


 この人もこの人なりに、何かと戦って自分の最善を選んでいっているんだろうな。
 どうしても責める気にはなれず、あれから笑えなかったけれど無理に頬を上げた。


「見たり、聞いたりしているっていうのなら、なるべくあんたにしてほしい。もう、新しい知らない誰かに俺を知られたくない。何も知らない誰かが嫌な仕事するのを見るのは俺も、……。それで許すから、あんたもあんまり自分を責めるなよな」


 退院して、何にもないアパートに連れてこられた時にそういう話をした。
 俺は何にもしないから、彼らの平穏を守ってくれ。


 もうそれだけしかできる力がなかった。










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