人脳牧場

21世紀の精神異常者

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新たなる人脳の誕生

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西暦2028年3月。
アメリカ、シリコンバレー、クールG 某研究室。

研究室のフロアに、博士の人脳を囲んで、4つの人脳が新たに配置された。研究チームは、そこに集合し、エレナからの説明に聞き入っていた。
「今回追加された、4名について、紹介させていただくわ。先ずは、ペーテル・キラーイ。ハンガリー出身の天才プログラマー。ペーテル、自己紹介をしてみなさい」
おどおどした声で、ペーテルが話す。
「エレナ、まだ僕は、人脳の扱いに不慣れなんだ。君から紹介してくれないか」
「だめよ、ペーテル。あなたって、本当に内気ね。しっかりなさい」
ペーテルは、仕方なく話し始める。
「僕は、ペーテル・キラーイ。36才、独身。趣味は、人工知能のプログラミング。こんなもんで良いかな?」
彼は本当に内気なようだ。人とコミュニケーションを取るのが苦手なタイプらしい。それもそのはず。彼には、ネット社会にしか友達がいない。典型的なITオタクだ。さっさと自己紹介を切り上げようとする。
ティムは、もっと彼のことを知りたがり質問をする。
「ペーテル、仕事は何をしていたの?」
「ああ、IT企業で働いていた。プログラマーとして。勤めていた会社は、色々だ。その、ネットで仕事を請け負って、それで家で仕事をしていた」
どうやら、典型的な引きこもりらしい。
ティムが、最も重要と考えている問いかけをする。
「ペーテル、一体、君はどうして人脳になったんだい? 君の意思なのか? きっかけは何だったんだい?」
「きっかけ? ああ、僕は入院していたんだ。体の筋肉が動かなくなる病気で。それでもプログラマーの仕事を続けることは出来ていた。しかし、医者からは、そんなに長くは生きられないと聞いて。その時、エレナから、死なずにすむ方法があると聞いて、僕はそちらの道を選んだんだ」
成る程、そうやって人選したんだ。これも世界的に有名な天才脳外科医エレナの人脈の広さだからこそ、出来たという訳か。ティムは、エレナのやり方を、次第に飲み込んでいった。人の弱みにつけ込み、強引に勧誘するという、そのやり方に。
エレナが先を進める。
「自己紹介は手短にね。質問があれば、後からゆっくりと聞いてちょうだい。時間は作るから。次は、モハーナ・ダルビ。彼女も天才プログラマーよ」
モハーナが、挨拶をする。
「皆さん、初めまして、モハーナです。私もインドでプログラマーとして働いていました。私の家は貧しくて、私が家族を経済的に支えていました」
彼女は、ペーテルと違い、社会性が備わっているようだ。しっかりとした考えを持っている。彼女は、23才の若さにして、インドのハイテク大手企業でIT部門のマネージャーの地位を得ていたとのことだ。
しかし、不幸なことに、交通事故に巻き込まれ、肢体不自由な体となった。このままでは、家族の生活が支えられない。悩んだあげく彼女は、家族との別れを選び、人脳となることで収入を得る道を選択したのだ。またしても、エレナに上手く射止められたようだ。
エレナが3人目を紹介する。
「次は、ノア・トンプソン。彼は、フィンテックのエンジニアよ。自己紹介、お願いね」
ノアが話し始める。
「あー、あー、あーあー。どうも人工声帯という奴は、いまいち、扱いづらいものだな」
何だか、几帳面で、気難しそうな性格が伝わってくる。
「私は、ノア・トンプソン。45才。アメリカの大手証券会社でシニア・マネージャーを勤めていた。私も、似たようないきさつで、人脳となる道を選んだ。私には、大切な家族がいる。妻のエリザベス、娘のマリーと息子のショーンだ。そして、ある日、私の家族に、大いなる災いが降りかかった。それは――――」
どうやら、このおじさんは、長話が好きらしい。それも、気位が高そうで、偉そうにしゃべりまくる。皆、彼の話を聞くのを面倒くさがった。
「以上、何故、私が人脳に選ばれたのか、分かってくれたと思う。今後は諸君達と、人類史上に革命を起こしたいと思っている。諸君達が大いに協力してくれることを期待している」
やっと話が終わった。ティムは、終始、上から目線のこの男のことを好きになれそうに無かった。何だか面倒くさい奴が入ってきたな。余り付き合わないようにしよう。そう思うのであった。
そして、エレナのテンションが最高潮に達する。
「最後は超大物よ。皆さんも名前ぐらい聞いたことがあるかも知れないわよ。ロバート・ミンスキー博士。彼は、天才数学者にして傑出したプログラマーよ」
しかし、彼からの反応は一切無い。
エレナは戸惑い、声を掛ける。
「ロブ、どうしたの。あなたが有名人なのは、分かっているけれど、簡単な自己紹介で良いから、お願い」
男が、面倒くさそうに声を発した。
「ロブ? 誰だ、そりゃ?」
一同が、思わぬ反応にざわつき始める。
エレナが焦る。
「ロブ、ロバート、冗談はよして。あなたの周りにいるのは、これから協力してゆく仲間達なのよ」
「俺が協力? 冗談はよしてくれ。面倒はまっぴらだ」
「ロブ! あなたと私の仲でしょ? 協力してくれると約束したじゃない」
しばし、沈黙が続き、ようやく男が、話を始める。
「あんたみたいな婆、面も見たことがないなあ。それに、さっきから聞いてりゃ、ロブ、ロブって。おれは、そんな名前じゃねえ。ボブだよ、ボブ。まあ、もっとも、いつも酒ばっかり飲んで酔いつぶれているので、皆は、俺のことをウイスキー・ボブと呼ぶがな」
皆、何が起こったのか、理解できないでいた。
マリアが大慌てで、彼のプロフィールを確認する。ボブ、ボブ、有った。ボブ・ミンスキーのプロフィールが彼女の携帯端末のスクリーンに映し出される。
「う、嘘でしょ! そんな馬鹿な!」
狼狽えるマリアを見て、エレナが駆け寄る。
「マリア、一体、何が起こっているの」
何やら小声で話し合っていると、二人は、次第にパニック状態に陥った。予期せぬ出来事に、周りも心配そうだ。
ニューマン博士の声が響く。
「エレナ、混迷、混乱、混沌の状況下に私はある。この現場において紛糾している事由を理解できないで困惑している。私が理解可能な言語における具体的説明をここに要求する」
未だ、博士のコミュニケーション障害の改善は、十分になされていない状況にあった。その為、難解な言葉を多用し、理解しにくい口調で発言を行っている。
エレナがうわずった口調で、博士に許しを請う。
「し、信じられない事態が起きてしまいました。人脳摘出の課程で、大いなるミスを犯してしまいました。お許しください」
「私には、『お許しください』の意味が理解不能だ。沈着冷静な精神状態の元における集中した意識を保ち、私が理解可能な表現での説明を要求する、エレナ」
エレナの説明によると、ロバート・ミンスキーとボブ・ミンスキーを取り間違えてしまったとのことだ。人脳摘出のために集めておいた患者の中から人選をする課程で、ロブとボブを間違えてしまったらしい。
エレナがヒステリックに声をあげる。
「全く、何てことなの! それもこれも、このクソ紛らわしい名前のせいよ。マリア、ダニー、揃いも揃って、一体なんて言うミスをしてくれたの!」
二人は、ただ黙ってうつむくだけだった。
ボブは、ロバートと同じ病院に救急搬送されてきた患者だった。エレナ達が患者を引き取る際、病院側との間で行き違いがあったらしい。しかも、ボブは、行き倒れの患者。つまり、ホームレスだったのだ。
博士は、声を荒げたい気持ちであったが、自分を客観視するこことで、平静を装い、優しく声を掛ける。
「エレナ、覆水盆に返らず。過去に発生した事由は、いかなる試みを講じたところで、取り戻すことは極めて困難なことなり。ここは、諦めるよう君に要求する。我々において貴重な資源である人脳培養装置を無駄に使用してしまったことには遺憾の意を伝える。今なすべきことは、ロバート博士の受け入れ体制を万全に整え次の機会を待つことなり」
マリアが申し訳なさそうに答える。
「その、誠に申し上げにくいことなのですが、ロバート・ミンスキー博士は、既に他界されております」
「何と! 驚天動地、ショック」
この時ばかりは、博士も動揺を隠せなかった。ロバート・ミンスキー、天才数学者。彼こそが、唯一、博士と対等に話が出来るであろう、知能の持ち主だったからである。博士にとって、待ち焦がれていた、親友となれるべき人物を失ってしまったのだ。この、役立たずのホームレス野郎と引き替えに。
さすがの博士も、怒りのこもった声を出しながら、問いただす。
「君達は、人脳摘出の際、様々な確認を取ることが可能だったはずだ。人脳と培養装置とのマッチングの際に、知的レベルを測定したのか? 何故、そんな単純なことに気が付かなかったのだ?」
ティムは、気付いた。何故だか、博士の言葉が、普通に戻っている。余りにも感情的になったため、人脳だけで考え、発言しているのであろうか?
エレナ達3人は、狼狽を隠せない。
「知的レベルは、知的レベルは、適正範囲内の値でした。きっと、我々の測定技術が未熟だったのだと思います。今後、人脳摘出の経験を重ねてゆけば、きっと、正確に測定できるようになります。今回ばかりはご容赦ください」
そこに、不愉快そうな声が響く。ウイスキー・ボブだ。
「さっきから聞いてりゃ、好き勝手抜かしやがって。どこのどいつだ、俺様の脳みそを引っこ抜いた奴は。やい! さっきから口しゃべっている、そこの脳味噌野郎、どうやらお前が親玉のようだな。責任を取ってもらおうじゃないか!」
博士が、むっとした口調でボブに言葉を返す。
「おい、ウイスキー野郎! 今、お前が生きているのは、誰のおかげだと思っているのだ。聞けば、お前は、野垂れ死に寸前だったそうではないか。我々が、こうして救ってあげたことに感謝をしろ」
「感謝だと? てめえ、口の利き方というものを知らないな。脳味噌を引っこ抜かれて感謝するほど、俺は寛大ではない。口を慎め、この薄汚い脳味噌野郎!」
「何だと、この野郎!」
二人のレベルの低い罵り合いが始まった。ティムは、暫し、ポカンとそれを眺めていた。博士は、自分を客観的に見ることが出来るはずではなかったのか? よっぽど、今回の件が大きなショックだったのだろうな。完全に自分を見失っている。
しかし、ある事実にも気が付いた。感情的になったことで、博士の会話レベルがリセットされた。これは、感情という原始的な意識を基準に、人脳の意識レベルを再調整できる可能性が示唆されているのでは無いだろうか? コミュニケーションの障害は、客観的になりすぎることで、感情を抑えすぎたが故に生じた、問題だったのでは? 感情を発露する大切さを、改めて教えられた気分であった。
眺めていても仕方が無いので、ティムは、仲裁に入った。
「二人とも、止めてください。もう、済んだことなのです。どうしようもないことなのです。現実をありのまま受け入れましょう」
博士も、冷静さを取り戻しつつあった。
「このウイスキー野郎を、我々の仲間として、受け入れろと言うことか、ティム? そうか、そういうことか。分かった。仕方あるまい。受け入れる以外の道はないのだから」
ボブも観念したようだ。
「確かに、兄ちゃんの言う通りだ。ただし、この偉そうな脳味噌野郎の命令など聞きたくはないぞ。俺は、俺の好きにやらせてもらう」
ティムは、ボブをなだめすかす。
「ボブさん、今回の件は、我々の不手際で、誠に申し訳ありません。どうか、お許しください。その代わり、今後、精一杯のお世話をさせていただきます」
「よう、兄ちゃん、ティムというのか? 話が分かるじゃないか。気に入ったぜ。よろしく頼むぜ、ティム」
ボブは、ティムに対して、心を開いてくれたようだ。
科学者、2人のプログラマー、金融の専門家、そして、ホームレス。ここに5つの人脳が集うこととなった。彼等を軸にして、人脳と電脳の融合実験の新たなるステージが、始まろうとしていた。

ティム達の毎日が、より忙しくなった。今まで、博士の人脳一つを相手にしていても大変であったのに、一挙に5つの人脳の面倒を見なければいけないのだ。
そんなティムを気遣い、博士が優しく声を掛ける。
「ティム、毎日、面倒を見てくれて、ありがとう。しかし、私は、十分に自立した人脳のつもりだ。自分の面倒は、自分で見ることが出来る。他の人脳の面倒を見ることだって十分に可能だ。余り君達に負担を掛けたくない。君達には、君達にしか出来ないことに専念して欲しいのだ。
今後、人脳の数は、加速度的に増えてゆくことだろう。そうなった時、君達人間が全ての人脳の面倒を見ることなど、到底出来ない。それに備えて、今後、人脳達だけで支え合うコミュニティー、人脳社会を形成してゆく必要がある。君達には、それを陰から支援して欲しいのだ。それが、今後、君達にとっての最大のミッションだ。分かってくれるか?」
この頃、ティム達と博士は、対等なコミュニケーションが取れるように戻っていた。あえて、感情を表に出すことにより、人脳の意識レベルをリセットさせる。その試みが、成功したのだ。博士からの「ありがとう」の感謝の言葉も、感情を素直に表すことの一環だ。ティム、ハオラン、アナンド、3人の努力は、ようやく報われた。
ティムは、博士からの労いの言葉に、感謝の意を表した。
「博士、お心遣い、ありがとうございます。いずれは、その様な形で、ご負担をおかけすることになろうかと思います。その時はどうぞ、よろしくお願いいたします」
しかし、博士は、思いがけない提案をしてきた。
「ティム、君達は、我々人脳の言語野をモニターし、邪悪な存在とならぬ様、監視してくれている。しかし、人脳の数が増えれば、その監視業務は、次第に大きな負担となるだろう。そこで提案なのだが、私が、他の人脳の言語野を監視しようと思う。人脳のことは、人脳が一番良く分かっている。より、効果的な監視が可能となるはずだ。認めてはくれないか?」
ティムは、驚いた。自分達は未だ、人脳が何者なのか、十分に理解しきれていない。そのため、人脳の思考を注意深く監視しながら、研究を進めているのだ。その人脳の監視を、人脳である博士自身がやろうというのだ。その様なことを認めれば、博士は、他の人脳に対し、圧倒的ぬ優位な立場となる。何せ、相手の考えていることが手に取る様に分かるのだ。それでは、博士の言う人脳社会の平等性は、無くなってしまう。博士は親切心から言っているのかも知れないが、こればかりは、認める訳には行かない。ティムは、博士に機嫌を損ねぬ様、やんわりと断る。
「博士、御気遣いは、嬉しいのですが、人脳の思考の監視は、未だ、我々人間に任せて下さい。人脳が人脳の考えを監視する様になると、博士の考えも、他の人脳達に監視されることになりますよ。互いの考えを監視し合いながら、コミュニティーを形成するのは、いかがなものでしょうか? きっと、息の詰まる社会になると思いますよ」
言われてみれば、確かにその通りかも知れない。博士は、他の人脳の考えを監視したいとの思いから出た発言だったが、逆に自分が他の人脳から監視されるのは、良い思いがしない。
「分かったよ、ティム。君の言う通り、健全なる人脳社会の発展にとって、互いを監視し合うことは、好ましいことでは無い。人脳社会の監視は、君達人間がするべきだ。おかしなことを言って、悪かった」
博士が納得してくれて、ティムは、安堵した。彼等の計画では、人脳達は、公平な立場でコミュニティーを、人脳社会を構成すべきであると考えていたのだ。上下関係や、階級など存在しないフラットで自由闊達な関係こそが、人脳達のパフォーマンスを最大限に発揮出来ると信じていたのだ。余りにも自由奔放過ぎると、秩序の無い混沌とした世界を生み出すかも知れない。しかし、電脳拡張された人脳達には、それを乗り越える能力が必ずあると信じていた。混沌を乗り越えてこそ、超知性が証明されるのだ。そして、その先にこそ、彼等が信じるシンギュラリティーが待っているのだ。
博士の指摘した通り、人脳が増えすぎると、彼等の思考を監視することは、限られた人数では難しくなるかも知れない。しかし、ティム達にとっては、その事は、想定済みであり、それを解決することが、今後の最重要課題となるであろう。邪悪な存在を、決して許してはいけないのだ。
ただ、人脳達のコミュニティーを作る上で、今回の人選は、いささか腑に落ちない点が、あった。人選は、博士とエレナが権限を持っているため、ティムが口を挟むべき事では無いのだが、どうしても気になるのだ。
電脳との融合のため、プログラマーが加わるのは分かる。しかし、金融の専門家、フィンテックの技術者が加わることについては、納得しがたいものがあった。本当に、研究資金を捻出する方法を探るためなのか? 博士は、研究資金の適切な運用のためだと言っている。言語野の情報も、それと合致している。しかし、どうしても腑に落ちないのだ。
ただ、新しく人脳が加わったことにより、ティムに新たな楽しみが出来た。特に、ウイスキー・ボブとの会話は、最高だ。
「やあ、ボブさん、調子はどうだい? 困っていることが有ったら何でも言ってくれ」
「おい、おい、ボブさんなんて堅苦しいのは抜きだ。普通にボブと呼んでくれ。ところで、ティム、ここは、思っていたよりもずっと快適だぞ。もう、寝泊まりする場所を探し回ったり、食べ物をあさったりする必要が無い。バーチャル・グルメは、最高だ。こんなに美味い物を食べたのは、生まれて初めてだ。酒も飲み放題ときたものだ。ただ、難点は、ベロベロに酔っ払うことが出来ないことさ。たまには、全てを忘れて、酔いつぶれたいときもある。分かるだろう?」
ベロベロに酔っ払うことが出来ないのは、その通りであった。酔いは、人工血液の中のアルコール濃度で決まる。しかし、このアルコール濃度は、人脳を保護するため、所定値以下にしかならないよう管理されているのだ。
ティムが済まなさそうに謝る。
「あなたの健康のため、アルコール濃度を制御しているのです。分かって下さい」
「俺の健康? そんなこたあ、気にもとめた事が無かった。何せ、自暴自棄な生活を送っていたもんでね。健康のためか。まあ、しょうがないか。安酒ばかりでは無く、高級酒が味わえるだけでも良しとするか。しかし、何だな、しらふになると、何だか頭がさえるな。俺はコンピューターが苦手だが、電脳との接続は、結構楽しいもんだぜ」
この時、ティムは、あることに気付いた。ホームレスという先入観があったため、知的レベルが低い者だと考えていたが、もしかしたら――――。ティムが、簡単な知能テストを受けてもらうことを提案する。ボブは、二つ返事で了承した。実際にテストを行ってみると、意外なことに、ボブはすらすらと回答をする。
ティムは、気になってボブに聞いてみた。
「ボブ、ホームレスになる前は、何をしていたんだい?」
ボブが答える。
「もう、随分前のことになるんで、はっきりとは覚えていないが、大学で雑用係の仕事をしていた。これでも俺は、一応は、大学に通っていたんだぜ。それも名門さ。見直したかい、凄いだろう? だが、学業について行くのが嫌になり、ドロップ・アウトしたというわけさ。そんで、上手いこと大学での職にありついて、暮らしていたんだが、ドラッグをやっていることがバレて、首」
「首? ドラッグがバレただけで首なのか? そんなこと言ったら、――――」
ボブが笑いながら答える。
「ドラッグを学生に売りさばいたりして、しこたま儲けていたと言うことさ。大学側は、そりゃ、カンカン」
まあ、確かに首になるわな。ティムは納得した。
ボブは語り続ける。
「他の仕事を探したが、長続きしなくてね。根っからの酒好きだ。酔っ払いながら仕事をしているうちに、誰にも相手にされなくなった。それで、ホームレスになったのさ」
ティムが詳細な知能テストを受けさせたところ、ボブの知能は、侮れない値だった。しらふだと結構、頭が切れるのだ。エレナ達がミンスキー博士と間違えるのも合点がいく。思いがけない掘り出し物かもしれない。
ボブがティムにねだる。
「よう、俺にもバーチャル・ボディーというのをくれたが、これで女を抱くことが出来ないのかい?」
「女!」
ティムは、すっかりその存在を忘れていた。彼には実社会における彼女がいて、充実した性生活を送っていたので気にもとめていなかったが、人脳社会における性的パートナーの必要性までは、考慮していなかったのである。
その様な重大な見落としがあったことについて、ティムは、博士に恐る恐る尋ねる。
博士は答える。
「そんなこと、私はとっくに気付いていたぞ。エレナ達のバーチャル・ボディーには、それに対応した機能がある。それをボブに勧めてくれ」
バーチャル・セックスなる物が、既に存在していたのか! ティムは、早速、ボブに勧めるのであった。

エレナ達バーチャル・ボディーの開発チームが、博士に呼び出されて何やらもめている。ティムもその場に呼び出されて、議論に加わることになった。
ボブが馬鹿にしたように彼女らを蔑む。
「バーチャル・ボディー。あれは、完全なる駄作だな」
エレナが気色ばむ。
「何を根拠に駄作と言うのよ! 完璧なる芸術作品だと、私たちは自負しているのよ」
「駄作は、駄作だ。駄作に過ぎないね」
「キーッ、あんたに貶される覚えなんて無いわよ」
もめている二人の会話を鎮めるよう、博士が間に割って入る。
「ボブ、具体的にどこが駄作なんだ?」
ボブが堪えきれずに、大きな笑い声を上げながら説明する。
「何が駄作かって? バーチャル・セックスだよ、バーチャル・セックス。ありゃあ、VRゴーグルを装着してエロ動画を見ながら、ダッチワイフでも抱いているようなものだ。リアリティの欠片も有りはしない」
博士が驚く。
「何だって、エレナ、これを設計したのは、君達だな?」
エレナが憮然と答える。
「ダニーとマリアに命じて作らせました」
博士が、マリアに質問する。
「マリア、どうやって設計したのかね?」
マリアは、余りにも恥ずかしくなり、口をつぐむ。
代わりにダニーが答える。
「ネット上に無数に流通しているエロ・コンテンツのビッグ・データをディープ・ラーニング解析して基本形を作りましただ。その後、二人で調整を重ねて仕上げただ」
ボブの笑いは収まらない。
「エロ・コンテンツとは、お笑いだ。あんたら、それが本物のセックスとでも思っているのかい? よう、お二人さん、俺のバーチャル・ボディーにぶら下がっているコック(ペニス)を設計したのは、どっちだい?」
マリアは、恥ずかしさの余り顔が真っ赤だ。
仕方なく、ダニーが答える。
「そのう、自分は、自分の物に自信が無いので、女性が好む方をとマリアに設計をお願いしましただ」
ボブが嫌らしそうな声で、マリアに迫る。
「あんた、よっぽど男性経験が不足しているようだな。男の物は、本当はこんな形をしていない。俺が思うところに拠ると、こりゃあ、あんたが使っているバイブレーターを参考に設計しているようだな。どうだ、図星だろ」
マリアは、穴があったら入りたい、恥辱の極地だった。
博士の声に怒りがこもる。
「私は、君達に常々命じたはずだ。現地、現物、現実を常に優先するようにと。ネット上のデータ、バイブレーターで設計するとは何事だ! おい、ダニー、マリア、データの取り直しだ。君達二人の頭に脳信号測定器を装着、全身にも可能な限りのセンサーを装着するのだ。そして、二人でセックスを繰り返し行い、リアルなデータを収集するのだ」
ダニーが慌てる。
「待って下さいだ、博士。そんなこと突然言われても。こっちだって、立つ物も立たないだ」
『立つ物も立たないだ』。この言葉を聞いて、マリアはダニーに対して激怒した。ダニーは、決して、マリアに女性的な魅力が無いことを意図して使った言葉では無い。実験動物の如く精神状態では、立たないと言ったのだ。しかし、彼女は、そうは、受け止めてくれなかった。彼女は、自身の女性としての魅力を侮辱された怒りで、頭に血が上った。
「あんたなんか、こっちから願い下げよ。こんなオタクとなんか寝るもんですか!」
醜い喧嘩を余所目にしながら、ボブが博士に問いかける。
「博士、あんた、もしかして童貞だろう?」
博士がパニックになる。
「な、な、何てことを言うんだ! このウイスキー野郎。俺は決して、決して――――」
「まあ、まあ、強がるのは止めときな。でなけりゃ、とっくの昔に、バーチャル・セックスの欠点に気が付いているはずだ。それに、このバーチャル・ボディーの基本設計時において、博士の肉体が使われたそうじゃないか。博士の肉体だけでは、完全なるバーチャル・ボディーの設計には、無理があるのではないかい。よう、エレナの婆さん」
エレナも、この屈辱的な責めにより、身が震えていた。
「確かにあんたの言う通りよ、ボブ。完全に私たちの敗北だわ。データを収集するに当たり、健全なる肉体が、もっと、もっと必要よ。さて、どうやって集めようかしら」
エレナの目は、煮えたぎっていた。これまでの人脳の集め方だと、健全なる肉体のサンプルを集めることが出来ない。それでは、今回の件の様に、完成度の高いバーチャル・ボディー設計の制約となる。どうやって、健常者の肉体から人脳を分離するのか。エレナは犯罪をも辞さない領域へと思考を巡らすのであった。
ティムは、まさかこんな修羅場が待っているとは、思ってもみなかった。そして、ボブが研究に参加してくれたことの意義を、改めて噛みしめるのであった。ナイス・ミステークだ、エレナ。我々は、そのミステークで、幸運にもボブを射止めることが出来たのだ。これが本物のミンスキー博士だったなら、クソつまらない研究に、無駄に時間を割かれていたかもしれないのだ。
ボブが、にやけ声で提案する。
「おい、バーチャル・セックスの設計を俺に任せてもらえないかな?」
エレナが怒りを込めて拒否する。
「あんたの様など素人が、この高度な技術を扱えるわけが無いでしょう!」
しかし、博士が、待ったをかける。
「いや、面白いアイデアだと思う。ボブは、思っていたよりも遙かに賢い男だ。電脳拡張されているボブの頭脳であれば、技術など直ぐに身につけることが可能であろう。もっとも、エレナ、君の協力が不可欠だが」
エレナが嫌々ながら、承諾をする。
「博士がそこまでおっしゃるのであれば。この男を鍛えてあげましょう」
ボブが喜びの声を上げる。
「決まりだな。俺は、いい売春宿を知っている。そこのボスともコネがある。金さえ弾んでくれれば、いい仕事をしてみせますぜ。やっぱり、こういったことは、その道のプロに教えを請うことが一番だからな」
博士が決断する。
「人脳社会にも、質の高い娯楽が必要となるであろう。その為には、世俗にまみれたボブのような人間が不可欠だ。ボブは、人間の欲望を満たす、あらゆる娯楽に精通していると見える。まさに、適任では無いか」
ボブは、自慢げに話す。
「人類最古のサービス業を知っているかい? 答えは、売春だ。全てのサービス業の原点はそこにあるというのが、俺の持論だ。娯楽だけでは無い、あらゆるサービスに対しても、俺が必要になるんじゃ無いか? そう思うだろ、ティム」
いささか偏った考えだが、確かにその通りかもしれない。ティムも、ボブに同意するのであった。

ボブがプロデュースするバーチャル・セックスのプロトタイプは、既に完成を迎えようとしていた。思いの外、早い完成に一同は、舌を巻いた。わずか数週間の訓練で、ここまで高度なバーチャル・ボディーの設計技法を身につけるとは。ボブに、これほど優れた才能が宿っていたとは。しかし、ティムは、特に驚かなかった。ボブが、高い知性を身につけていることを、いち早く見抜いていたのだから。
もっとも、この間、リアルなデータの収集と称して、いかがわしい連中を数多く、実験室へと招き入れることになった。そこでは、データの計測装置を装着した男女が、酒池肉林の淫らな、らんちき騒ぎを、連日のように繰り広げていた。なにせ、金のことなら、心配要らないのだ。皆、ボブの奢りだ。実験室の風紀が、一気に乱れる代償を伴ったが、それも人脳社会の進歩にとっては、必要なことでもあった。この様な実験も、人間を知る上で、大切なことなのだから。
そして、いよいよ、バーチャル・セックスが披露されることになった。人脳達は、ボブが提供してくれた娯楽を享受することを出来るようになる。ある面、これも、人脳社会における大いなる進歩である。
今やボブは、売春宿の主人気取りだ。
「よう、博士。今日も俺の店に入り浸るつもりかい」
博士が怒る。
「うるさい、私は出来映えをチェックしに来ているだけだ」
「ふーん、確かに三日と開けずに通って下さっている。お気に入りの子は、ベッキーか。博士、試すんでしたら、もっと色んな子を相手にしなくちゃ。清純派からテクニシャンまで、何でも揃っていますぜ」
「おまえに指図される、筋合いは無い」
「しかし、博士が童貞だったとはね。まさしく図星のようで」
「なっ、何を根拠に!」
「最初の博士の記録。100メートル走の世界記録保持者もびっくりの早さだ」
「お前、そんなことまで計測していたのか? 黙れ!」
「でも、最近は、いいタイムが出ているでは無いですか」
「だから、黙れと言ったら、黙れ!」
今では、博士の一番の友達はボブの様だ。そんな二人を、ティムは、微笑ましく思った。ミンスキー博士を失ったときの落胆から一転して、まさか、二人がこんなに仲良くなるとは。まさしく塞翁が馬である。

ティムのチーム、エレナのチームがそれぞれ分担し、日課の人脳培養システムのメンテナンス作業をこなす。各制御装置の数値は常に安定しており、大きな故障も無く、システムに対する信頼度も確実に増している。今後、人脳の数が増えていっても、今の陣容で十分に対応することは可能であろう。彼等の心の中には、余裕さえ感じられた。
博士から、労いの言葉が出る。
「ティム、エレナ、君達は、非常に良くやってくれている。こうして、順調に人脳を増やすことができて、私の念願だった、人脳と電脳との合体による、超知性の実現は、目前に迫ろうとしている。本当にありがとう」
ティムが言葉を返す。
「何を言っているんですか、博士。こうして、全て上手くいっているのも、博士が、命がけで最初のステップを踏み出したからでは無いですか。それがなければ、今の我々はありません」
博士は、感慨深げに言う。
「命がけのステップか。今となっては、懐かしい。しかしな、ティム、実は、新たな人脳達が加わるまでは、私は、孤独感で押しつぶされそうな心境だったのだ」
それについては、ティムも理解している。一時期、博士とのコミュニケーションがまともに取れなくなるときもあった。しかし、今は、それを乗り越えながら、こうして再び、理解し合える状況へと進化してきたのである。
満足げにティムは話す。
「博士、今でも孤独を感じますか? 我々はお互い、分かり合える存在へと前進してきました。新しい人脳の方々も仲間に加わり、充足感が増したのではないですか?」
暫く間を置いて、博士が愚痴をこぼす。
「充足感か。そうだな、ミンスキー博士が人脳に加わってくれたのなら、その充足感も十分に味わうことができたかもしれない。私と価値観が近く、知的レベルの釣り合う、ミンスキー博士であれば、心分かち合うこともできたであろう。それも、今となっては、叶わぬ夢だ。人脳社会の中では、やはり、私は、孤高の存在。孤独だ」
ティムが励ます。
「でも、ボブは、良き友人では無いですか」
「ああ、確かに奴は、女を教えてくれた。しかし、私と会話のレベルは合わない。下劣で知性の欠片も感じさせない。しかも、ずる賢く、抜け目が無い。とても心を許すことなど出来ぬ相手だ」
博士は、今まで、ボブの様なタイプの人間と深く関わったことが無いため、扱いに困っているらしい。
そして博士は、唐突に、こう切り出した。
「ティムよ、君の研究も、一段落付いたであろう。どうだ、この辺りで君も人脳になってみないか? 私には、人脳の理解者が必要なのだ。一緒に人脳になって、このプロジェクトの推進を加速させようではないか?」
突然の話に、ティムは動揺した。自分が人脳になることなど、全く想像だにしていなかったからだ。その話の流れは、ごく自然のことかもしれない。しかし、ティムは、自分の肉体を失う恐怖に、とても対応できなかった。
「あー、博士、お気持ちはとても嬉しいのですが、私には未だ人脳となる心の準備が出来ていません。いずれは、人脳となることも厭わないですが、もう少し先延ばしさせてください」
「いずれとは、いつだ?」
「十何年か先には」
「十何年だと! それではシンギュラリティーが終わっているでは無いか。私は君と一緒にシンギュラリティーを迎えたいのだ。それまでを無為に人間の体で過ごすというのか? 早くこちらの世界に来い。未体験の感動が待っているぞ」
ティムは、強引に勧誘してくる博士に手を焼いた。
「博士、私は、このプロジェクトにおける人間側のリーダーを全うしたいのです。確かに、個々の要素技術は、完成に近づいています。人間と同等の、聴覚、視覚等の五感は、間もなく完成することでしょう。人工小脳、バーチャル・ボディーも、より体感に近い完成度の物が出来ようとしています。しかし、私は、人間に近い能力を持たせるだけでは無く、人間をも超える能力を実現したいと本気で願っているのです。まだまだ、納得出来る物が見えてくるまでは、このままの形で研究を進めさせてください。ご理解ください」
しかし、博士は、まるで納得が出来ない。
「そんな者、代わりは、いくらでもいるだろう。人脳は、良いぞ。病気にかかったり、体調を崩したりすることなど、先ず無い。そもそも、大半の病気の原因は、肉体の方にあるのだから。脳の健康状態も、培養装置のおかげで、すこぶる調子が良い。十分な休息と必要な養分が、ふんだんに与えられるのだ。人工血液により、血中プラークや血圧を最適にコントロールし、血管は、常に若い状態で維持される。その為、脳疾患のリスクは、ほぼ無い。不要な老廃物も完璧に取り除かれ、認知症にかかるリスクも極めて少ない。感染症のリスクも無い。
それに、人脳は、エコだ。エネルギーの使用量が、人体の5分の1で済む。私は、人類の食糧問題やエネルギー問題の解決のために、大勢の人間が人脳となるべきだとさえ感じている。そして、知的充足感の元で、長寿を全うできる。どこへでもバーチャル・トラベル出来るし、いつの時代にもタイム・トラベルだって出来る。今や、バーチャル世界は、リアル世界をも凌駕しようとしているのだ。人間として、これほど望ましい環境が他にあろうか? 何を迷うことがある?」
しかし、ティムには、どうしても受け入れることが出来なかった。彼は、博士の提案を拒絶するため、本心を吐露する。
「実は、私には、将来を誓い合った、パートナーがいます。そして、子供を持ちたい、子育てもしたい。温かな家庭を築くことも、私の夢なのです。その夢が実現するまでは、そちらの世界には行きたくないのです。私のわがままをお許しください」
いつも沈着冷静である博士だったが、このときばかりは、かなり、むっとしたようだ。きつい口調で、ティムに言葉を浴びせる。
「そんなに人間の肉体に未練があるのか? 子孫を残すことが、それ程までに、重要なことか? ガッカリしたよ、ティム。君が、これ程、世俗にまみれた人間だったとは。正直、君と私は、価値観を共有できる人間だと信じていたのに、まるで裏切られた気分だ。しかし、私とて無理強いなどしたく無い。好きにしたまえ。君の人生だ、自由に選択したまえ。私はそれを尊重しよう」
それ以降、博士から人脳への勧誘はなくなった。ティムは、ようやく安堵した。
しかし、この時から、博士の心の中に、ティムに対する嫉妬、更に悪く言えば憎悪の感情が芽生え始めるのであった。
自分は、人並み外れた頭脳を天より授かったが、その引き替えとして、醜い肉体を授かった。それに対してどうだ。ティムは、素晴らしい才能と美しい容姿を同時に授かっているではないか。これは、余りにも不公平と言うべきものだ。
自分は、子孫を残すことさえ許されない、生物としては最低な存在だ。犬猫よりも劣るのだ。悔しい、余りにも悔しい。
そして、寵愛してきた愛弟子に、こうも簡単に裏切られるとは。今までの私のしてきたことへの恩義など、微塵も感じていないのではないか。悔しい、余りにも悔しい。そして、憎い。
博士のゆがんだ感情は、人工海馬を通して深く電脳にも刻み込まれたのである。これが、将来への禍根とならないことを願うばかりだ。
話の一部始終を見ていたエレナが、気まずい雰囲気を打破しようと声を掛ける。
「博士、私には人脳への誘いをしてくれないの? 嫉妬しちゃうわ」
博士の声に元気が戻った。
「お前が人脳になったら、誰が人脳を取り出すのだ。お前は、一生、肉屋でもしていろ」
「あら博士、つれないわね。私の神の手を人工小脳にアップロードすれば、私が肉屋じゃなくても、構わないんじゃないかしら。今のペースで技術革新が進めば、ロボットに手術してもらうことだって、可能になるわよ」
そこは、博士も同意する。
「人脳摘出のロボット化は、確かに必要となる技術だ。我々の計画では、これから人脳の数が、指数関数的に増加してゆく。君一人の手では、とても追いつかないからな。ところで、エレナ、この後の人脳候補者は、どうなっている?」
「今、20人ほどをリストアップしているところ。ねえ、マリア、契約は順調に取れているはずよね?」
「ええ、順調です。もうすぐ手術が忙しくなることでしょう」
エレナが博士に微笑みかける。
「博士、今度は、きっと良い友達が見つかりますわ。今回は、とっておきの大物をご用意しますわ。これから、もっと、もっと、人脳が増えてゆくのよ。その時は、お願い。私も仲間に加えてね」
博士が期待に胸を膨らませながら話す。
「人脳の社会も賑やかになってゆくな。これは、非常に楽しみだ。今後も期待しているぞ、エレナ。そうすれば、君の人脳化も認めよう」
「あら、嬉しい、博士」
ティムは、思った。これから人脳の数が飛躍的に増えてゆく。果たして、どういった人達が、人脳化を希望するのであろうか? これまでのように、体に障害を抱えている人達だろうか? 老後の健康不安を払拭したい、資産家達だろうか? それとも、煩わしい人間社会に絶望し、希望に満ちた人脳社会に憧れる、夢想家達であろうか?
いずれにしても、幸せな家庭を築きたい自分とは、異なる価値観の人達なのであろう。しかし、そうした人脳達とも、リアルな人間社会で生きる人間達が、上手く調和の取れた世界を実現してゆくこと、それが、とても重要なことになるだろう。その意味からも、自分は、リアルな人間社会に留まる必要があるのだ。そう自覚するのであった。

この日は、多忙を極めたティムにとって、久しぶりのオフだ。彼は、婚約者のモリー・ウィルソンと共に一日を過ごす予定だ。
モリーがティムに不平を言う。
「あなたって、この頃ちっとも、私に会ってくれないじゃない。私と仕事とどちらが大事なの? ちょっと、ワーカホリック(仕事中毒)気味で心配だわ。私は、あなたの体も心配し続けているのよ。私の気持ちが、あなたにどれぐらい分かるのかしら?」
彼女から止めどなく沸き上がる批判の言葉に、ティムは困惑気味だ。
「当たり前のこと聞くなよ。もちろん、君のことが、世界で一番大切さ。君も僕の気持ちを理解してくれているものだと勝手に思い込み、ほったらかしにしていたことは、反省するよ。だから、今日は、精一杯の償いをさせてくれ。分かってくれよ」
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「約束するよ。それより、お腹が減っただろう。とびきりの店を用意してあるんだ。まずは一緒に食事だ」
二人は、久しぶりのオフを満喫した。ティムは、終始、彼女の機嫌を取ろうと、躍起になる。そう、ティムは、彼女にべた惚れなのだ。ティムにとっては、何事にも代えがたい宝物なのだ。当然、彼女の方も、そう思ってくれている。今日という日を通して、二人は、強い絆を、確かめ合うのだった。
デートの終わりに、ティムは、行きつけのバーへと彼女を誘った。
「まあ、クラシカルな雰囲気がして、凄く素敵な所。こんな場所が目立たない路地裏に、あるなんて。まるで隠れ家のようね」
彼女は気に入ってくれたようだ。
二人は、カウンターに隣り合わせに座る。彼女は店内をぐるりと見渡す。年配の男性客ばかりだ。彼女が気を遣う。
「私、場違いじゃないかしら? 女性が混じって、お店の雰囲気が壊れないかしら?」
バーのマスターが声を掛ける。
「心配有りませんよ、モリー。私も他の客達も大歓迎です」
「あら、私の名前を知っているの?」
「もちろんです。いつもティムから聞いていますよ。『僕には、勿体ないぐらいの、素敵な女性だ』と。なあ、ティム。何時ものろけ話だよな」
周りの他の客達からも笑い声が上がる。
「よう、ティム。俺が思っていたよりも、別品さんじゃないか。羨ましいよ。俺ももう少し若けりゃ、」
「止めときなって、ジョー、あんたとは釣り合わない」
どうやら、彼女は、店に溶け込めたようだ。ティムは、照れからか、自分の頭をさすっている。
ティムが、彼女に話しかける。
「なあ、モリー、今日、僕は凄く反省したんだ。そのう、もっと、こうやって二人でいる時間を大切にするべきじゃないかって」
ティムは、この間の博士との会話を通して、自分にとって一番大切なものが何かを、改めて実感したのだ。
「ティム、嬉しいけど、あなたって、そう言っといて、どうせ、また、仕事に夢中になるんでしょ。何度も同じ手に引っかからないんだから」
「違うよ、モリー。今回は、真剣なんだ。君をもっと大切にしたい。やっと気付いたんだ、自分にとって、仕事よりも大切なものがあるってことに」
ティムは、クールGにおける自分の仕事をモリーには、秘密にしていた。会社のトップシークレットだから当然だけど、自分が担当プロジェクトの責任者であること以外は、仕事の話は、一切しなかった。
クールGは、仕事と私生活のバランスに大変理解のある会社である。だから、私生活を疎かにしがちなティムは、どちらかというと例外的存在だった。しかし彼女も、ティムのことを大変理解し、信用していたので、あえて、多忙な理由を聞かなかった。
ティムは、誓った。今後は、彼女のことを一番に考えると。そして、共に手を携え、人生を歩んでいきたいと。
暫しの歓談が終わり、ティムはモリーを家まで送るよう、店を出た。少し歩いた所で、背後より歩み寄る怪しい二人組の気配に気が付いた。
「よう、こんな路地裏を、女連れとは、いい度胸じゃないか」
「へへへ、全くだ。さっさと、その女を俺たちに渡しな。そして、出す物出したら、ママの所に走って帰ることだな」
チンピラ共に絡まれたようだ。ティムが彼等に話しかける。
「この島は、ジャクソン一家の縄張りだ。てめえら、勝手な真似すると、後で吠え面をかくぞ」
しかし、この時、ティムのジャケットの襟に輝くクールGのバッジが、彼等の目に入る。それを見たチンピラ共が、ヒューと口笛を鳴らす。
「あんた、クールGのエリートさんじゃあないか。じゃあ、ジャクソン一家とは、関わりがあるまい。ハッタリかましやがって。偉そうな態度を止めて、観念するんだな」
「俺は、てめーらが大っ嫌いなんだ。次から次へと、俺たちから、仕事を奪いやがる。ムカつくんだよ、このエリート野郎が」
モリーがティムに囁く。
「危険よ、ティム。速く逃げなくちゃ」
「ああ、分かっている。こいつらは、僕が引きつけておくから、君は、メイン・ストリートまで走って助けを呼ぶんだ」
「分かったわ。でも、無茶はしないで」
チンピラ共は、ナイフを手に持ち、二手に分かれ、メイン・ストリート側も塞ごうと回り込む。そして、じりじりと間合いを詰めてくる。
一閃、ティムの蹴りが、メイン・ストリート側の奴の股間を蹴り上げる。
「今だ、走るんだ」
モリーはメイン・ストリートへダッシュする。
股間を蹴り上げられた奴は、白目を剥きながら悶絶している。
「野郎、ふざけやがって」
もう一人が、ナイフを振りかざし、ティムへと突進してくる。ティムは、巧みなフットワーフでかわすと、至近距離からみぞおちへ、強烈な膝蹴りを突き刺す。
そして、悶絶する二人のチンピラを尻目に、ティムもメイン・ストリートへと駆け出し、何とか窮地を脱する。
モリーがティムを抱きしめる。
「ティム、無事で良かったわ」
モリーは、ティムと腕を組みながら、メイン・ストリートを歩く。
「さすが、ティムね。頼りになるわ。黒帯は伊達じゃないわね」
そう、ティムは、空手の有段者なのだ。クールGは、福利厚生も充実しており、会社の敷地内にスポーツ・ジムも併設している。社員は、仕事の合間に、スポーツでリフレッシュできるのだ。彼は、そこに有る空手教室に通い、鍛練を重ねていたのだ。
ティムが、訂正を入れる。
「黒帯だけじゃないぞ。今では、師範代なんだ」
「シハンダイ? 何、それって?」
「道場の先生の次に強いと言うことさ。少しは惚れ直したかい?」
「まあ、ティムったら」
二人は、幸せそうにタクシー乗り場へと歩いて行った。
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