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サスカッチ
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登場人物紹介
市来賢介 元グループ員 電機メーカー勤務。独身。
安斉誠 グループの元リーダー 運送会社経営。既婚。
万代真也 グループの元副リーダー 工務店勤務。既婚。
堂本義則 元グループ員 現在は無職。ギャンブル狂、独身。
半村和樹 元グループ員 半村歯科医院経営。既婚。
石井守 元グループ員 石井どうぶつ病院経営。既婚。
陣内雅弘 元グループ員 建設会社社員。独身。
千野涼子 安斉の元交際相手 既婚 現在田内涼子 現在は三児の母。
深見由里 万代の元交際相手 離婚歴あり。実家暮らし。
佐橋雪男 元ペット サスカッチ。IT長者だが現在は無職、独身。
六条保志 元ペット ホルスタイン。自殺。
高木悠 元ペット 豚まん。
宇田川浩平 元ペット ゲジゲジ。
和木勇作 元ペット カビ。
権田新造 元中学校教諭 生活指導。
槇原めぐみ 賢介の交際相手 商社勤務。
サスカッチ
「サスカッチの社長だ」
あれは去年の暮れだった。師走でざわめく街をめぐみと一緒に歩いていたとき、駅前の大型ビジョンでそのニュースを知った。
「辞任だって」
臨時ニュースだった。
『やり残したことがあるのを思い出して。とりあえずそっちに集中しないとまずいと思いまして。新しいこと始めるとしたら、その後』
日本を代表する巨大IT企業のトップである男。まだ若く、その年齢は三十二歳。出身地は栃木県宇都宮市。
『これまで、ずっと休憩なしで突っ走ってきたのでね。ちょっと疲れたっていうのもあるかもしれませんけど、まあ、若隠居ってことで』
俺は、この男をよく知っている。
「辞めるって言っても《サスカッチ》の代表を辞めるだけで、事実上は院政でしょ?緊急ニュースで流すほどのことじゃないわよねえ」
市来賢介の横、槇原めぐみが鼻で笑った。
「…ああ、そうだね」
「でもこの人は本当すごいよね。世界相手に立ち回ってる」
「うん」
「【世界の百人】にも選ばれてた」
知ってる。
「実は私、この人のSNSフォローしてんの。滅多に更新しないけど、短いひとことが印象的で、なんか気になっちゃうのよね」
「…へえ、そうなんだ」
賢介は一瞬嫉妬したが、すぐにかなう相手ではないと思い直してうなずいた。あいつはがすごい奴であることは事実で、張り合うことすらままならないほど遠い場所にいる。
「賢ちゃん見たことある?この人のSNS」
「いや」
知らないふりをしたが、実は賢介も、彼のSNSはチェックしていた。
「まだ三十二かー。あれ、てことは賢ちゃんと同い年?」
「うん」
「うわー。この人賢ちゃんの何倍稼ぐんだろうね!」
「知らないよ」
「数万倍?数億倍?あはは、なーんてね、次元が違うよね」
イライラしていた。早くこの話は終わって欲しい。記者会見のライブ映像。彼のプロフィールがテロップで流れている。
「あれ…出身宇都宮だって。そういや賢ちゃん宇都宮出身って言ってなかった?」
「うん。実家はもうないけどね」
「もしかして、彼のこと知ってたりする?」
「いや、知らない」
嘘をついた。
「こんなすごい人なのに、地元で有名じゃなかったのかな。ホラ、神童みたいな」
「…うるせえな」
「えっ?」
「ゴチャゴチャうるさいよ。行こう」
背中を向けて歩き出した。
「ちょっと、何その態度!」
「…うるせえからうるせえって言ってんだ」
彼のことは知っている。だから余計腹が立つんだ。
「ひどい、何なのあんた。せっかく時間空けて会ってあげてるのに。この年末の忙しいときに!」
「ああ?何だよその言い方っ」
「もう帰る」
めぐみとは、それきり半年以上会っていない。
@Susquach
お騒がせしております。ニュースで流れた通り、ぼくは若隠居させていただきます。常に前進、新しいことに挑戦するというモットーは変わりません。でもちょっと、その前にやらないといけないこと思い出したんで、ネクストステージはそれが済んでから!乞うご期待。
日曜日。
電話の音で目が覚めた。まだ九時だ。携帯画面上には登録されていない電話番号。無視しようかと思ったが、仕事関係の人だとしたらまずいと思い直し、気を奮い立たせて電話に出た。
「市来か」
「どちらさまですか」
「堂本だ。堂本義則」
ヨシノリ。昔の友人だった。いや、もはや友人とは呼べない面倒な奴。
「…おお、どうしたヨシノリ。ひさしぶりだな」
布団の上に起き直る。懐かしさはあるが、喜びはない。
「ひさしぶり、悪いな突然。今電話平気か」
「休みだから寝てたけど…何だ、金なら貸さねえぞ」
「金の話じゃない」
一瞬、間が空いたあと、ヨシノリはこう告げた。
「…あのな市来。安斉が死んだ」
「えっ」
驚いていた。安斉というのは手っ取り早く言うと、中学時代の番長みたいな奴だ。
「あの安斉が…?」
安斉誠。中学卒業以来、ひさしぶりに耳にする名前だったが、その名は脳の奥深くにしっかりと刻み付けられている。大きな体に浅黒い肌、健康・屈強・頑丈を体現しているような奴で、殺しても死なないようなタイプだったのだが…
「死んだって、何か病気で?」
「いや、事故死だ」
「事故。そういや、親父さんのあと継いで運送屋やってたって聞いたな。交通事故か」
「いや、交通事故じゃない。自宅で事故死」
「は?自分の家で事故死ってどういうことだよ」
「知らねえよ。警察の発表だ。自宅の事務所で倒れて死んでたんだと。足滑らしたかなんかで、打ちどころが悪かったとか」
「…マジかよ」
単純に驚いていた。本当に、殺しても死なないような奴だったのだ。にわかには受け入れがたかった。
「葬式が明後日にある。来れるか」
「ああ…」
溜まりに溜まっている有休を使うきっかけができた。最近は有給取得率を上げろ、と上司がうるさい。本当は休まれると困るくせに、裏腹なことを言う。
「来るのか、来ないのか」
「行くよ」
ヨシノリが車で駅まで迎えに来てくれるという。時間を決めてから電話を切った。
安斉誠が死んだ。
中学の三年間、市来は安斉のグループに属していた。当時の絶対的リーダー安斉誠。周囲の人間からは、安斉を中心とするグループは仲が良さそうに見えたかもしれない。しかしそれは、安斉、そしてその相棒である万代の二名による絶対的な支配だった。彼らは仲間に対しても意見することを許さなかった。昨日までの仲間が丸裸にされ、タバコの火を押し付けられている姿を賢介は何度も目にしてきた。
その点、彼らに上手く取り入った賢介は、参謀的なポジションを得ることができ、三年間を安斉らの擁護の傘の元で難なく過ごすことができたのだが…我ながら、情けない生き方だったと今になって思う。中学の三年間を無駄に使ったような気がするのは、心の底から楽しかったという思い出がないからだ。
その安斉が死んだ。
しかしそれを聞いた賢介の胸には、空虚こそあるものの、悲しみや哀悼、それに準ずる気持ちがこれっぽっちも去来しないのだった。中学卒業以来十数年会っていない、というのもあるかもしれないが、つまりはこういうことだ。
元々、中学時代から賢介は、安斉に対し友情を抱いたことがなかったのだ。彼のグループに属していた理由はただ一つ、《自分がいじめられたくないから》。
安斉誠 死亡
➊
「溺死?」
ヨシノリはうなずいた。彼の運転する車、その助手席に賢介はいた。
「酒に酔ってトイレで転んで、便器で頭を打ったのが原因で気を失って、便器の中の水に顔突っ込んだまま溺れた、らしい」
「便器に顔を突っ込んで溺死」
「ああ」
「それって…」
賢介の脳裏に安斉がトイレに突っ伏している絵が浮かんだ。それは、賢介にとって既視感のある映像だった。
「嫌なこと思い出すよな」
ヨシノリの声に賢介はゆっくりとうなずいた。
「…でも、事故なんだよな?」
「警察がそう言ってるんだからそうなんだろ。不自然な点は見当たらないってテレビのニュースで言ってた。ただの偶然だ」
そうだよな。あいつが仕返しに来るなんてことは有り得ない。
「テレビで流れたのか」
「ああ、地元の新聞にも大きく載ってた。田舎はニュースに乏しいからな。トラックたった四台の運送屋とはいえ、安斉は一応会社社長だし、奇妙な死に方だったから話題性があったんだろ」
あの頑強な男が、転んで死ぬとは思いもしなかった。
「安斉の自宅は一階が事務所、二階部分が住居になってたみたいでさ。安斉の奥さんが夜中に下に降りてみると、トイレで安斉が倒れてた。一階も二階も鍵はかけられていた。だから家族以外の誰かが侵入して殺したってことは考えられない」
「警察の調べでは完全に事故なんだな?」
「だからそう言ってるだろ。酒に酔ってトイレで転んで気絶、便器の水で溺死。不審な点は無いってよ。わかるよ市来、お前は…あいつを疑ってるんだろ」
返事をせずにヨシノリを見た。
「俺も最初はちょっとそう思ったけど、あいつがわざわざ仕返しに来るわけがない」
「だよな」
そうなんだ。あいつ。あいつはもう、雲の上の存在。
「何ヶ月か前、テレビ見てたら急にあいつ出てきて…」
「去年の暮れだ。ニュース速報だろ。若隠居」
あいつが口にした〈若隠居〉、というワードが、巷で頻繁に使われるようになって久しい。流行語大賞にもノミネートされかけたほどだった。
「しっかし差がついたよな。方や頂点極めた億万長者、方やギャンブル依存の自己破産。共通点は無職ってとこだ」
ヨシノリが自虐的に言った。
「まだやってんのか、パチンコ」
「いや、もうやってない」
「無職って、宅配便の仕事やってなかったっけ」
「宅配便は辞めて、ちょっと前まで営業やってたんだ。けどうまくいかなくてな。今は前向きにハローワーカーズ」
中学卒業後、パチンコにはまった彼は、あらゆる金融会社から借金を重ね、最終的に自己破産したという話だった。借金地獄の頃は賢介のところにも何度か電話があり、あしらうのが非常に面倒だったことを憶えている。
「俺が必死で仕事探してんのに、あいつはもう仕事辞めてんだぜ。同じ無職でも質がまったく違う。笑っちゃうよな」
「…ああ、すご過ぎるよあいつは」
あいつ。
『賢介くんにはかなわないなあ』
電車に乗って、小学校と中学時代を過ごしたここ宇都宮へ向かう道中、賢介は死んだ安斉のことではなく、あいつのことばかり考えていたのだった。
「賢介くんにはかなわないなあ」
小学四年生のあいつ。分厚い眼鏡の奥、細く小さな目がニヤリと笑う。矯正器具が装着された歯が剥き出しになる。
「やっぱり賢介くんにはかなわないや」
あの頃賢介は、あいつの隣にいなくてはいけないことが苦痛だった。担任教師に頼まれたから渋々引き受けただけで、本音は心の底から嫌で嫌でたまらなかった。
小学生の頃、賢介はなぜか勉強がよくできた。学校での態度もよく、先生たちからの評判も良かった賢介は、学期の変わり目を機に、あいつ…佐橋雪男の隣の席に座ってもらえないか、と担任の先生より直々にお願いされたのだった。
「じゃあ市来くん、佐橋くんのことよろしく頼んだわね」
賢介は、その日より佐橋雪男の〈お世話係〉になった。要するにその若い女教師は、面倒を賢介に押しつけたのである。
佐橋雪男は、ひとことで言うと落ち着きのない子だった。授業中に突然奇声を上げる、教室をうろうろ歩き回る、体育の時間も先生の指示に従わず、ひとり砂場で遊んでいる。子供ながらにみんな、なぜ佐橋くんは好き勝手なことをしているのに怒られないのだろう、と思っていたはずだ。これは当時母親から聞いたことだが、いわゆる特別学級に籍を置くことを、佐橋の両親が反対しているようだった。
《落ち着きのない子》として片付けられていた佐橋雪男だが、今思えば彼はADHDに区分される子だった。佐橋は授業中にしばしば奇声を発し、教室内をうろつき、時には暴れたりするときもある。クラスメイト達は「また佐橋か」という感じで半分無視、担任教師もお手上げ状態で、勝手気ままな佐橋を注意せずに放置するのが日常となっていた。小学四年生にして、佐橋雪男はクラスのお荷物だったのだ。
ただ、さすがにその状況は異常だ。思うに、他の生徒や、その親たちからの苦情があったのだろう。そこで、佐橋のお守り役として、模範的生徒だった市来賢介に白羽の矢が立った。賢介は困惑した。賢介にしたって佐橋の存在は邪魔で鬱陶しい。できれば教室から排除して欲しいと思っていたが、学校としてはそうもいかないのは子供心にも理解できる。だからと言って、自分に何ができる?どうすれば佐橋を落ち着かせることができるのだろうか。
この歳になってようやく、あの若い先生に対して同情できるようになったが、賢介は当時、厄介事を丸投げしたその女教師を心底恨んだものだ。
翌日から賢介は佐橋雪男の席の隣に移った。
小学生の賢介に、佐橋のために特に何かをしてやることはなかった。が、意思の疎通などできないだろうと思われていた彼と、意外にも普通に会話ができたことには驚いた。時々エキセントリックな挙動をすることを除けば、佐橋はただの小学四年生だったのだ。
佐橋はそれからも奇行を繰り返したが、その頻度は確実に減少していった。それが賢介のおかげなのか、佐橋自身が成長とともに落ち着いてきたせいなのかはわからない。が、味をしめた教師陣の思惑により、結局五、六年生までの三年間、賢介は佐橋と同じクラスになり、最後まで横並びの席に座らされた。六年の終わりには、佐橋は落ち着いて授業を受けられるようになっていた。多少は奇行もするが、もはや〈手の焼けるどうしようもない子〉ではなく、〈少し問題のある子〉になっていた。
佐橋雪男とは、クラスこそ違えど中学の三年間も一緒だった。後に彼のことを知るのは十五年後、賢介が二十八になったときだ。
自身のサクセスストーリーを、自信のみなぎった顔つきで澱みなく語る男。テレビ番組に出演した『佐橋雪男』は、自身が学生時代に起こしたIT関連事業会社、《サスカッチ》のトップに君臨していた。そして、それから数年後。彼は自分の会社を惜しげもなく後進に譲り、大勢のマスコミを呼んで引退宣言をした。去年の暮のことである。
『やり残したことがあるのを思い出して。だから若隠居して、とりあえずそっちに集中しないと。新しいこと始めるとしたら、その後』
そう言い放った彼は、白く並びのいい白い歯を見せつけ、快活に笑ったのだった。
「…サスカッチ、か」
会社名である《サスカッチ》は、中学時代彼につけられたあだ名である。〈雪男〉を〈ゆきお〉ではなく〈ゆきおとこ〉とし、その外国名である〈サスカッチ〉に変換したわけだ。それを自分の会社名にするとは…
『あいつ、時々暴れて手が付けられなくなるんだ』
『じゃあバケモンだな』
賢介は彼がサスカッチと呼ばれるに至った由来を思い出すのだった。中学時代の佐橋雪男が壮絶かつ猛烈なイジメに合うことになったのは、賢介がきっかけだった。
中学時代。
安斉誠は血の気の多い奴だった。凶暴で凶悪、上級生や近隣中学の不良たちを暴力によってひと通りまとめあげた彼には、目的がなくなった。
周りに敵がいなくなると、安斉は仲間に暴力を振るうようになった。それはヨシノリや賢介に、さらには腹心であるはずの万代や自分の彼女にまで及んだ。気まぐれで殴られてはたまったものじゃない。そこで賢介は、安斉にオモチャを与えることにした。賢介の言うことを素直に聞き入れる従順な人間、それが佐橋雪男だった。
変に擦れていないピュアな雪男は痛めつけ甲斐があったようで、安斉は彼をお気に入りのペットのようにいつでもそばに置き、ほぼ拷問と言えるような、想像を絶するいじめが繰り返されたのだが…
「あいつ、かわいそうだったよな」
「ああ…悪いことしたと思ってるよ」
賢介は運転席のヨシノリにうなずいた。雪男は完全に安斉のフラストレーションのはけ口になった。定期的に打ち込まれる安斉のボディブローのせいで、常に服の下は痣だらけだった。背中はタバコの火を押し付けられ火傷だらけ。トイレの便器に顔を突っ込まれた状態で水を流される。大勢が集まった教卓の上で、余興と称して雪男に自慰行為をさせたこともあった。
「そんなこと言って、ヨシノリお前がいろんないじめを提案してたんだろうが」
「仕方ねえだろ。安斉に殴られるのは嫌だからな。安斉はあいつをいじめているときは終始ご機嫌だったから」
今でこそ、それらを悪いことだと思うものの、実のところ当時、賢介は、その状況を楽しんでいた…
いい気味だと思っていたのだ。小学校の頃の不満と鬱憤が解消されていくような気がしていた。
「でも俺は憶えてるぜ市来。あいつを連れて来て、安斎に与えたのはお前だ」
「…ああ」
果たして、安斉の死は事故なのか?それとも雪男が…?と賢介やヨシノリが思うのは、そういう過去の経緯があったからである。
「お前は中学卒業後、さっさと俺らを捨てて神奈川の高校に行きやがった」
「それは、家庭の事情ってやつだ。不可抗力だろ」
中学卒業を機に、この街からの脱出に成功した。エスカレートする一方の安斉のイカレ具合に、付き合いきれなくなっていた時期だった。賢介はクズたちとの付き合いに辟易としていた。
「高校時代の俺らはただの弱い者いじめグループに成り下がっちまったよ」
ヨシノリは安斉グループの主だった者たちと同じく、地元の高校へ進学した。安斉と違う高校へ行くことは許されないような空気が出来上がっていたのだろう、そういう意味では、安斉の恐怖による支配は完璧だったといえる。
ところで賢介は別に、わざわざ神奈川の高校を受験したわけではない。賢介の父親が転勤になってしまったのだから仕方がない。とは言いつつ、三年の冬に父親からそのことを告げられた時にはホッとしたことを憶えている。
『賢介が地元の高校に進みたきゃ、父さんだけ単身赴任してもいいと思ってるが、どうだ?』と父親は言ってくれたが、家族揃っての引っ越しを選んだのは、安斉たちから離れる絶好のチャンスを捨てたくなかったからだ。不可抗力というのはウソであり、父親の転勤は、賢介にとってまさに渡りに船だったのである。
「市来、お前には残された俺たちの苦難はわからねえよ」
「知るか。謝らねえぞ」
「高校時代は最悪だったよ。力だけで支配できないから、安斉はずっとイライラしてた。あいつももういないから、鬱憤晴らしは俺らに向けられてさ」
とことんいじめ抜かれていた雪男が、安斉たちと同じ高校に進学するはずがない。そもそも雪男は中学卒業後、高校には進学しなかった。今でこそ成功者だが、その後の彼の苦労は尋常ではなかったことだろう。プロフィールによると、大検を取り、工業大学に進み、在学中に今の会社を起業したという話だが、あいつはきっと、血の滲むような努力をしてきたはずだ。
大きな交差点、信号は赤。
「まあ、過ぎたことを愚痴っても仕方ねえな。…それよりも俺は、よく来たな、って思ってるよ」
ヨシノリが賢介を見た。
「よく来た、とは?」
「安斉の葬式。石井や半村にも電話して報せたんだけど、断ってきたよ」
石井と半村。二人ともグループの中心人物だった。
「石井は千葉にいるからともかく、半村なんて地元で歯医者やってんのに来ねえんだぜ。ひでえよな。…ま、お前も来ないと思ってたけど」
みんな、安斉にはうんざりしていたということだろう。
「心外だけど、本音を言うと、確かに安斉に友情を感じたことはない。でも仲間だった、ということには嘘はないぞ。それに同世代がこんなに若くして死ぬなんてショックだし、安斉って殺しても死なないような頑丈な奴だったし…信じられない、っていう部分もある」
信号が青に変わり、ヨシノリがアクセルを踏んだ。
「それだけか?」
「…あいつのことも、もちろん確認したかったけど」
「ふん。やっぱりそれが気になってたんだな。でも警察の調べじゃ事故なんだ。あいつとは関係ない」
「うん。でも、もしかしたら、と思ったんだ。あいつは今や億万長者だぜ。その気になれば何でもできるんじゃないかと」
ヨシノリは何も答えなかった。彼も事故だとは思いつつも、どこかで疑っているのだ。
「ま、安斉とは色々あったけど、知ってる人間が死んだことは残念だし悲しい。ちゃんと弔ってやりたい」
賢介はヨシノリにそう言った。ヨシノリはタバコを咥え、火をつけようとしていた。
「吸うのか」
「ああ。誰に断る必要がある。俺の車だ」
ヨシノリが煙を吐いた。佐橋雪男の輪郭が、煙の中にぼんやりと浮かんだ。
葬儀場の駐車場に車を停め、ヨシノリと共に歩いていると、背後から声をかけられた。
「市来くん?」
おれがこの街に来た理由。それはヨシノリにも言ったように、やはり安斉を弔う気持ちが一番だ。しかしそれ以外に二つ理由があった。ひとつは、サスカッチこと佐橋雪男がこの件に関与しているのでは、という疑惑を払拭し、無関係だという確信を得て安心したいため。それと、もうひとつは…
「深見さん」
不純な理由だ。
「ヨシノリ君どーもー。市来くん、超ひさしぶり。すっかり大人になっちゃったね」
「深見さんは…あまり変わらないね」
「またまたー。そんなことないよ」
深見由里。彼女は中学時代に万代と交際していたのだが、十数年経った今は既に万代とは無関係であろう。というのも、賢介は由里が二十四歳の時に別の男性と結婚したことを知っているし、さらにその男性とうまくいかず、離婚したことまで知っている。誰から聞いたかと言うと、他ならぬヨシノリだ。彼は借金まみれで首が回らなくなっていた時、賢介のアパートに押しかけて来たりしていたのだが、その頃に色々地元のゴシップを聞かされていたのだった。
深見由里は以後フリーだ。あわよくば、という気持ちがないといえばウソになる。が、中学時代、万代の目を盗みながらさりげなくモーションをかけていたにもかかわらず、いつもスカされていた日々を忘れたわけではない。あまり期待はしていないのだが、お互い三十を過ぎ、あの頃とは価値観も変わっているわけで…
「なんか、ザ・サラリーマンって感じ」
賢介の髪型を見ながら由里は言った。
「否定はしないよ。絵に描いたようなサラリーマン暮らしだからね」
ヨシノリに続いて、賢介も記帳し、香典を渡した。
「葛西に住んでるんだっけ」
「あー、前はね。今は中野。満員電車で通勤するのが嫌だから、職場まで歩いて通えるマンションに引っ越したんだ」
「へえ、そうなんだ。すっかり東京の人だ」
昔から物怖じしないタイプだったが、十二年ぶりに会ったというのに、彼女が普通に話しかけてくれるのはありがたかった。
「最後に会ったのは中学のクラス会だっけ」
「うん。二十歳になったときの夏だったと思うよ」
由里とは中一と中三が同じクラスだった。中学三年時のクラス会をするから集まろう、という誘いを由里からもらった。行きたかったが、まだ万代と付き合っていることを知って行くかどうか迷った末に、結局顔だけ出しに行ったことを思い出す。
「あれから干支が一周したってことになるね」
「そうだねー。やだやだ。私、色々ありすぎた」
斎場に設置された椅子に、ヨシノリ、賢介、由里の順に腰かける。
「知ってるんでしょ?」
ヨシノリと顔を見合わせる。
「…まあ、大体は」
賢介の答えに、由里は自嘲気味に笑った。その顔には隠しきれない小じわが刻まれている。無理もない、彼女も三十二歳なのだ。しかし賢介はそれを見ないよう思い出のフィルターをかける。
「結婚と離婚を経験してるだけ、俺よりも大人だよ」
万代と別れた由里は、二十四のときに職場の上司と結婚、しかし一年も経たずに別居し、数年前に離婚が成立したそうだ。
「大人かぁ。褒めてるのか、けなしてるのか、よくわからない言い方ねー」
「褒めてるんだ」
ヨシノリに腕を小突かれた。
「おい。前に万代と千野がいるぞ」
彼の目線の先、三列前に千野涼子と万代真也の後ろ姿があった。賢介は由里を見た。しかし彼女は賢介とヨシノリに向けて笑みを見せた。
「別に気にしないでいいよ。万代くんとはときどきスーパーとかで会うし。奥さんとお子さん連れて、いい家族なんだよ。もう私たち、普通に昔の知り合いって感じ」
葬儀を終えた斎場の出口付近で、賢介たちはなんとなく中学時代の仲間と一緒に集まった。
万代、千野、ヨシノリ、由里、そして賢介。立ち話もなんだし、喫茶店に行こうと言い出したのは万代だった。…昔よく一緒にいた面子。ここに安斉を加えた六人が、言ってみれば『いじめグループ』だった…
「安斉が死んじまったなんてな」
大きな体に似合わない小さな声で、万代がポツリと言った。ヨシノリの話では、今は地元ではそれなりに名の知られた工務店に勤めているという。数年前に結婚し、三歳になる娘がいるそうだ。中学時代の鋭かった目つきは嘘のように垂れ下がり、少し肥えたことも相まって、パッと見で彼が元不良少年だと思う人は皆無だろう。
「ホント。バイクにはねられても骨折しなかったのにね…」
安斉の中学時代の恋人、千野涼子も遠い目をしながらそう言った。涼子は二十歳になる前に地元の消防士と結婚し、今では家庭の主婦におさまっている。今は田内涼子というそうだ。茶髪に厚化粧と、絵に描いたようなヤンママだが、三人の子供を育てており、上の子はもう六年生。
「バイク?」
賢介は涼子に尋ねた。
「うん。高校一年の時、よその学校と揉めたことがあってね。恨みを買って、帰り道にそいつにバイクではねられたの。原チャリじゃないよ、400だよ。私一緒にいたんだけどさ、超怖かったよ。安斉君はね飛ばされて農具小屋に叩きつけられたんだけど、かすり傷一つなかった。この人、ちょっとやそっとじゃ絶対死なないな、ってそのとき思ったんだけど…」
賢介は中学卒業後、家族で厚木市に引っ越してしまったため、高校時代の彼らを知らない。だから安斉にベタ惚れだった涼子がなぜ別れたのか、それが不思議だったが、色々あったのだろう、ともかく今はそれを訊く時ではない。
「安斉君、自分の家で転んで死んだ、って。…ねえみんな、本当だと思う?」
小さな声で由里が訊いた。
「警察がそう言ってるんだから、そうなんだろ」
自分自身に言い聞かせるようにヨシノリが答えた。
「安斉とは…高校卒業後はあまり会わなくなってな。俺は現場仕事で不規則だったしさ、あいつも親父さんの運送屋手伝うようになってから忙しくなって、ヤンチャしてる暇がなくなったっつーか。お互い結婚してからは、あんまし会わなくなっちまってさ。けど、年に二回ぐらいは会ってたんだぜ。なあヨシノリ」
賢介の横に座ったヨシノリがうなずいた。
「うん。安斉は、確かに中学、高校とメチャクチャだったけど、ここ数年は、すっかりいいお父さんっていうイメージだったな」
「そうなんだよ。…奥さんのミチヨちゃん、それに双子のユウタくんとショウタくん。俺もそうだけど、家族がいるっていうのは人間を落ち着かせるっつーか、丸くさせるのかもな」
万代がうつむきながら言った。
「奥さん、かわいそう。双子ちゃんも…」
涼子が涙ぐんでいた。元恋人とはいうものの、十代の頃のことであり、確執などは無いのだろう。それよりも突然旦那に死なれた妻に対し同情している。家族がいるからこその感情なのかもしれない。
「ずっと泣いてたね、奥さん」
由里も目を潤ませている。
「…マジで気の毒だぜ」
万代がタバコを吸い始めた。それを皮切りに、ヨシノリ、そして涼子も続いた。
「涼子タバコ吸うの?いつから?」
由里が涼子に尋ねた。
「そんなにびっくりしないでよ。子供がいるとね、色々ストレスたまるの。旦那の親もうるさいしさあ。だから外に出たときだけ吸うことにしてるの」
そう答えながら、涼子はおいしそうに煙を吐いた。その煙の先を見つめながら、万代が口を開いた。
「安斉は…うん、相棒だった俺が言うのも変だけど、高校まではイカれてるところはあったよな、確かに。けど、仕事初めてからマシになったし、結婚してさらに落ち着いたし、子供ができてからはかなり真面目になって、さらに親父さんが脳梗塞で倒れて、会社任されるようになってからは、少しもイカれたところなんてなくなってた。むしろ立派な社長だったんだぜ。そりゃキレると取引先の人間でもぶん殴っちまうこともあったらしけど、キレる回数は確実に減った」
守るべきものができ、大人になったということだろう。
「俺から言わせてもらうと、みんなずいぶん変わったよ」
賢介は四人を見ながら言った。歳を重ねるということは、それなりの苦労を重ねるということなのかもしれない。
「市来、お前は変わらねえな」
万代がつぶやくように言った。涼子がそれに続く。
「昔から飄々としてたよねー」
そうかもしれない。東京の平均的なサラリーマンと言える賢介は、これまで大した苦労もなく、平々凡々な日々を送っている。結婚は、まだしていないし今のところする気もない。
恋人は、めぐみと会うまでに四人と付き合ったことがあるが、それらは全員相手からの告白で付き合ったものであり、自分から動いたわけではない。二十代半ば頃からだろうか、付き合いが長くなってくると、女性は〈結婚〉の二文字をちらつかせてくる。その兆しが見え始めると興覚めだった。早々に見限り、別れ話を切り出すのがパターンだった。結婚というものに必要性を感じないし、希望も感じない。そもそも責任を負うのが苦手なのだ。めぐみとケンカして半年が経つが、しばらく女性そのものから距離を置いているという状況であり、今はずっと独身でも構わないかな、とさえ思ったりもする。
「俺はみんなと比べると子供だよ」
万代や涼子のように、結婚して子供がいるわけでもない。ヨシノリのように、借金地獄を経験したわけでもない。由里のように離婚を経験しているわけでもない。三十二になる今まで、無責任を貫いて生きてきたわけだ。
派手な着信音。ヨシノリの携帯が鳴った。ヨシノリはその画面を見て「誰だろ、この番号」と言って首をかしげたあと、立ち上がって外へ向かいながら電話に出た。その様子を、賢介をはじめ四人は何の気なしに眺めている。
「はい。はい。ええ、そうですが。…ええっ?」
喫茶店のドアの手前でヨシノリの歩みが止まった。
「和樹くんが?…それ本当ですか?…いえ、お葬式には来ていませんよ」
テーブル席の賢介たちをさっと見渡してから、ヨシノリは喫茶店の外へ出て行った。
「和樹って言ってたな。半村のことか?」
万代が誰ともなしに訊いた。
「半村は葬式には来ないってヨシノリが言ってた」
賢介は万代に言った。ほどなくして戻って来たヨシノリはしきりに首をかしげている。
「半村くんの奥さんから?」
由里が尋ねる。
「うん。半村の奴、どうしたんだろ。おとといから連絡なしに家帰ってなくて、昨日、今日と休診にしてるんだと。携帯もつながらないらしい…」
ヨシノリがうつむきがちに答える。半村は実家を継いで歯科医になっていた。
「それって…行方不明ってこと?」
「由里は昔から大袈裟なんだよ。たった二日家に帰ってねえってだけだろ」
万代がタバコをもみ消しながら言った。不穏な顔つきのままヨシノリが口を開く。
「でも、おとといって月曜だ、俺が安斉の葬式があるって連絡した日」
「安斉君のことと関係があるの?」
涼子が眉をひそめた。
「とにかく、半村の奥さん、今から警察に通報するってさ」
「旦那が二、三日帰って来ないだけで通報かよ、ハッ!」
万代は勢いよく笑い飛ばしたが、本音では心配していることがみんなには伝わった。
テーブル席の五人はしばらく押し黙った。賢介は自分を含めた五人が何を考え、どんな想像をし、何を危惧してているのかがわかる。みんなの頭の中に、ある一人の男の名が浮かんでいる…
「俺、今から半村歯科に行ってくるよ」
ヨシノリがそう言った。半村和樹とヨシノリは、小学校からの付き合いだ。ヨシノリや賢介と同じく、中学では安斉や万代が怖いから付き従っていたタイプで、根っからの不良ではなかった。
「そうか。じゃあヨシノリ、みんなを代表して行ってきてくれや。まったく半村の奴、いい歳してフラフラしやがって。困った奴だぜ」
万代が声を明るくして言ったが、場の空気は沈んだままだった。
もしかしたら、あいつが…?
➋
あいつ。
サスカッチこと佐橋雪男は、安斉グループのオモチャだった。そして、それを提供したのは他ならぬ賢介だった。
当時の安斉は教師たちが手を焼くほどの不良だった。その悪名が近隣他校にまで轟くほど、凶暴を絵に描いたような男だったのである。しかしそれと同時に、彼は残忍な男だった。サディストというのだろうか、趣向を凝らした様々な〈いじめ〉を好んだ。例えば、〈人間ダーツ〉。
素っ裸にされ、手足を縛られた身動きの取れない雪男を立たせ、腹にマジックで的を描く。ティッシュと消しゴム、そして画鋲で作った矢を、数人で投げて点数を競うのだ。画鋲だから、刺さったところで浅いのだが、それが延々と続くと、雪男の白い肌は真っ赤に腫れあがっていく。声が出ないよう、ガムテープで口を塞がれた雪男の悶絶がかすかに聞こえる。それを、安斉は心底愉快そうに楽しむのだった。
「ダーツはひどかったよね…」
由里の声に顔を上げる。運転席、由里の表情は冴えなかった。
「俺も今、同じこと思い出してた」
由里の車に乗っていた。ヨシノリが橋本の家に行ってしまったので、彼女が代わりに駅まで送ってくれることになったのだ。
「市来くんはどう思う?安斉君、本当に事故だと思う?」
由里の横顔を見る。
「事故なんだろ。他殺だったら、家族とか従業員以外の指紋とか足跡が出てくるんだろうし。安斉が死んですぐ警察がそう発表したんだから、怪しい点は一個もなかったってことでしょ」
「そうよね」
ただ、雪男は現在社長職を辞したとはいえ、やはり今を時めく青年実業家だ。IT関連のビジネスで大成功を収めた彼の元会社、サスカッチ及び連結子会社の売り上げ高の合計は1000億円を超えているらしい。彼の力をもってすれば、人間一人を証拠なく消し去ることなど簡単なのではないか。あるいは、警察を買収し、捜査結果を書き換えさせることだって…
「半村くんのことも、どうなんだろ」
「偶然だろ」
「偶然よね」
賢介はそう言ったが、実のところ、佐橋雪男を疑っていた。安斉のことを恨んでいる奴は大勢いるが、その中で群を抜いての筆頭が雪男であることは誰に聞いても同じだろう。それほど、雪男は安斉に〈かわいがられて〉いたのだ。
雪男が安斉を殺した。そうされてもおかしくないことを安斉は雪男にしていた。ヨシノリから電話で「安斉が死んだ」と聞いたとき、賢介の頭の中にはすぐに雪男の顔が浮かんだのだから。
「…半村くん、〈飼育係〉のリーダーだったじゃない」
「ああ」
飼育係とは、安斉が「今日はサスカッチで遊ぶか!」と言うと、速やかに雪男を連れてくる係だ。安斉のオモチャにされていた人間は他にも〈豚まん〉や〈ゲジゲジ〉、〈ホルスタイン〉等がいたが、一番のお気に入りはサスカッチこと雪男だったのだ。
飼育係は放課後になると彼らを集め、いつ安斉に言われても対応できるように準備しておくのだった。余談だが、不思議なもので、彼ら〈ペット〉は言われてもいないのに、放課後になると半村の元に集まって来る。もちろんそれは来なかった場合の制裁を恐れているからなのだが、半村はそういった意味で良い調教師だった。
「飼育係、か」
「…嫌だね。私たちって。嫌な過去…」
本当にその通りだ。賢介は安斉に逆らえなかった。万代も同じで、その彼女だった由里も同じ気持ちだったのだろう。
「飼育係、他にもいたよな」
「陣内くんと石井くんね。陣内くんは土建屋さん、石井くんは獣医さんになってるよ」
「えっ?石井が獣医?」
「うん。北海道の大学行ってね、そこで奥さんと出会って、今は奥さんの実家の近くで獣医さんやってる。千葉の習志野だって。去年の年賀状で、開業したって書いてあった」
飼育係だった石井が獣医とはな、と皮肉を言いたくなったがそれはやめておいた。
「そうか。みんな立派にやってんだな」
俺は…と思う。ごく普通のサラリーマン。さほど出世欲もなく、ただ平々凡々と日々を過ごしている気がする。それなりの給料にそれなりの住居、あとはそれなりの奥さんを見つけて、それなりの家庭を築けばコンプリートなのだが…それもどうも、面倒くさい。例えばめぐみと結婚するなんて、想像もできない。
「みんな立派。安斉君だって昔の狂犬ぶりがウソみたいにいい家庭のパパやってたし、万代くんもそうだし、涼子だってすごくいいママだし、市来くんは生き馬の目を抜く東京でがんばってる。ダメなのは私だけかも」
「そんなことないさ。東京なんて、行こうと思えば誰でも行けるし」
「ううん、大変だよ。生活するっていうのは大変。いい会社に勤めてるってことだもん」
いい会社か。確かに賢介の勤める会社は世界的に名の通った企業であることは確かだが、賢介自身はその中で小さな歯車をやっているに過ぎない。
「どうなんだろ。近頃、よくわかんなくなってるよ。周りはビルとマンションだらけ、どこを見回しても人の群れ。みんな疲れた顔しててさ、土、日にはまるで義務感みたいに金を使うんだ。あれが流行ってる、とかこれがイケてるらしい、とか、そういうネットの情報に振り回されて。今の平均よりちょっと上、の都会暮らしを、みんな無理して手に入れようとしてるんだ。下らないよ」
「何それ。世間を憂いてるの?」
「自虐だよ、自虐。俺も知らず知らず、そんな生活を送ってるんだ。都内在住、三十二歳独身男性、中の上。気づいたらそこにはまろうとしてるんだ。いや、既にはまって脱け出せなくなってるのかも」
由里が小さく笑った。
「変わってないね市来くんは。昔からニヒリスト」
中学の頃から、この手の話が通じるのは深見由里だけだった気がする。他の連中は、その時その時が楽しければいい、というタイプで、賢介は彼らに合わせていたきらいがあったが、由里だけは例外で、唯一手加減なくしゃべることができる相手だったかもしれない。
「…深見さんはさ、どうして再婚しないの」
なんとなく訊いてしまった。
「それ訊いちゃう?」
「まずかった?…というか、今彼氏とかいないの?」
「いないいない。ダメだよねー」
そうは思えないから訊いたのだ。賢介と同い年の由里だが、まだ魅力的だった。バツイチとはいえ子供はいないし、男性は放っておかないと思うのだが。
「それは単純に出会いがないだけでしょ」
「出会いは…確かにないけどさ。今ね、親の知り合いのお茶の工場で週に三回アルバイトしてるんだけど、出戻りってことは知れ渡ってるからね。なんだかんだ言っても宇都宮は田舎だしさ、よっぽどもの好きじゃないと私に声かけてくれないってわけ」
「そんなわけないでしょ。世の男性は放っておかないと思うんだけどなあ」
「そりゃ、ゼロってわけじゃないけど。軽い気持ちで近づいてこられても、こっちは遊びで付き合ってる時間ないし」
「…てことは、再婚したくないわけじゃないんだ」
「そりゃそうよう。いい人に巡り合えたらすぐにでも」
賢介の胸の中、中学時代に由里に対して抱いていた感情がむくむくと揺り起こされてくる。『だったら、俺なんてどう?』。いやいや、現実的ではない。そもそも由里は、賢介のような男性はタイプではない。万代にしても、結婚していた元旦那さんにしても(写真で見ただけだが)、背が高くてガッチリとした体形の男だった。少なくとも賢介みたいなヒョロガリではないのだ。ただ、話が合う、気が合う異性。昔からそういう相手だっただけで。
「ヨシノリなんてどうなの」
ヨシノリも身体つきだけは無駄にいい。
「は?」
驚いた顔で助手席の賢介を見る由里。続いて、吹き出すように笑った。
「ないないない。自己破産するような人はちょっとゴメンナサイ」
ヨシノリは怪しげな金融会社で金を借りたことがきっかけで追い詰められ、十年前に自己破産した過去を持つ。
「もうパチンコやめたって言ってたよ。真面目に職探ししてるって」
「どーだか。前に涼子から聞いたけど、機械メーカーに勤めてたらしいんだけど、クビになった理由知ってる?営業の外回り中に、会社の車でパチンコ行ってたんだって」
「あいつ…」
やめたと言っていたのに。行きの車の中では、ずいぶん落ち着いたな、と思ったのだが、それは単に経年変化によって、顔つきが大人びただけのことかもしれない。
「ダメな奴だな、ヨシノリは」
「ふふ、うん、ダメなの。…でもそうだなー、出戻りで、実家に寄生してフリーターやってる私には、ヨシノリ君ぐらいのがちょうどいいのかもね」
由里はそう言うとケラケラ笑った。
「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないよ」
「ううん、わかってる。でもホント、選り好みしてる場合じゃないんだよね。三十二のバツイチ女が余裕ぶってんじゃないよって感じ」
それは賢介にも言えることだ。だが、確かに男と女では感覚が違う。車窓、宇都宮の駅が近づいていた。
「あのさ、深見さん」
「ん?」
「暇なとき、気晴らしで東京に遊びにおいでよ。観たいとこ案内するよ」
「えっ?いいの?」
「いつでもいいよ」
「私一人で行ったらマズいでしょ」
「マズくないさ」
「え、マズいよ。だって彼女とかいるでしょ市来くん」
彼女は、確かにいることはいる。めぐみとは付き合って二年ぐらい経つが、ケンカして以来半年会っていないし、連絡すら取っていない。こっちから別れよう、というのがシャクだから、今は相手からの別れ話を待っているような状況だった。
「ホラ、いるんだ」
由里がにらむような視線をぶつけてくる。
「まあ、一応」
「いいよ、私を心配してくれてるんだね。私なら平気、いざとなったらお茶屋さんの若旦那と結婚すんの。四十三歳の超肥満体のオッサン。私の親がくっつけようとしてるんだ」
そんなのはやめた方がいい、と言える立場ではない。車は宇都宮駅のロータリーに入り、停車した。
「まあ、気が向いたら来てよ」
「うん、ありがと。じゃあ」
由里の車から降りる。ドアを閉める前に、ひとことだけ言っておきたいことがあった。
「あのさ深見さん。もしかしたら、ってことがあるから…気をつけて」
一瞬目を泳がせた後、由里はゆっくりと大きくうなずいた。その言葉の意味を理解したのだ。
「うん、わかってる。市来くんも気をつけて、あいつに」
あいつ。
湘南新宿ライン、その車窓に映る自分自身を見つめていた。
深見由里の言ったその人物が、佐橋雪男を指すのは明らかだ。安斉が不自然な死に方をした。万代も、涼子も、ヨシノリも、そして賢介自身も、もしかしたらあいつの仕業かも、と密かに恐れているのだ。続いて、〈飼育係〉半村の失踪。タイミングが良すぎるではないか。
「でも、まさかな」
あいつは億万長者だ。マンガみたいな話だが、中学卒業後、学力が足りずに高校に進学できなかったあいつは、どこでどう目覚めたか、とにかく眠っていた才気が開眼したのだ。それまでの遅れを取り戻すように勉学に励み、大検を取って工業大学に進んだ。在学中にインターネットサービスを軸としたIT関連ビジネスを立ち上げたあいつは、現在国内のネットショッピングではシェア三位を誇るまでになっている。その経営は多岐に及び、保険や証券、人材派遣、金融に不動産まで手掛けている。あいつの会社が具体的に何の会社なのかを説明できる人間は少ないかもしれないが、『サスカッチ』を知らない人間はいない。そんな企業のトップにいた男、それが佐橋雪男なのだ。
@Susquach
エクアドルのキトに着きました!南米は初めて。この後コロンビア、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンと回る予定。北米と違って、人間は、南半球の方が猛烈だ。ここではちゃんと、人間が息づいている。ぼくは今、情熱の真っ只中にいる。
「次元が違うんだ」
あいつのSNSを、賢介は時々見ている。更新頻度は気まぐれで、文章も短いが、トップオブトップに君臨する人間特有の、前と上しか見ていないポジティブな文面が簡潔に綴られている。それは、中学時代に奴隷以下の仕打ちを受けていたのと同じ人間のコメントとはとても思えない、夢と希望と挑戦にあふれた内容の連続である。
そんな住む世界の違う男が、わざわざ身の危険を冒して、十七年前の仕返しをするものだろうか。
安斉は、確かに恨まれても仕方ないようなひどい行為を雪男に対し執拗に続けた。ダーツもそうだし、足をロープでくくりつけての屋上からの宙づりもそうだし、水の張った水槽に閉じ込めたりもした。ペット同士の腕を縛り、お互いを殴らせ合うボクシング大会もひどかった。また、女子の面前で自慰行為をさせたりもしていた。これらはすべて、安斉の指示で執り行われた《いじめ》だ。安斉が恨まれるのは当然…
「だからって」
雪男本人が直接手を下すにしろ、誰か人を雇って安斉を殺すにしろ、リスクが大きすぎる。もしバレた場合、佐橋雪男はこれまでの成功をすべて捨てなくてはならなくなるのだ。
仮に、雪男の現在が冴えない男だったとする。定職に就かず、引きこもっているような三十二歳だった場合だ。それならば仕返しという行動に出ることは理解できるのだ。『こんな自分になったのは、安斉のせいだ』、『安斉は幸せそうに日々を過ごしているのに自分は…』、『安斉が憎い!』。
しかし佐橋雪男は、今や誰もが知る富豪で、誰もがうらやむ大成功を手にしている身なのだ。それは有り得ない。
やはりヨシノリが言ったように、安斉の死はただの事故。便器に顔を突っ込むようにして溺死していたから、過去のいじめを連想してしまっただけで、本当に足を滑らせ、転んだ先がたまたま便器だっただけの話。要はよくできた偶然なのだ。
駅で降り、改札を抜けると同時に賢介は頭を切り替えた。あいつに気をつけて、と由里は言ったが、そもそもそんなことはない。すべて偶然、たまたまだ。雪男は賢介など比べ物にならないほど忙しい身なのだ、過去を振り返り、はらわたを煮えくり返している暇があったら金儲けの仕組みを考えているはず。きっと今だって、前だけを見ている。安斉や万代のことなんてすっかり忘れているはず。賢介のことなんて、記憶にも残っていないかもしれない。もはやあいつは、それほど別世界の住人なのだ。
コンビニで適当な夜食を買い、自宅マンションに向かっていると電話が鳴った。ヨシノリからだった。
「おう、今日はお疲れさん。半村の奥さんどうだった?」
「賢介、そのことだけど…」
歯切れが悪い。
「どうした」
「さっき、見つかったらしい、遺体で」
「イタイ?」
背筋が凍りついた。
「冗談やめろヨシノリ、そんな…」
「冗談じゃねえんだ!にゅ、ニュース速報で今やってんだ。い、い、石井と一緒だった」
「石井?あいつは千葉で獣医やってんだろ?」
「げ、現場は宇都宮じゃねえ。テ、テレビ観ろよ、なぜか半村と一緒に、し、死んでたんだ」
興奮すると言葉に詰まるのがヨシノリのクセだったことを思い出した。
「ちょっとヨシノリ落ち着け、何言ってるかわからねえよ」
「だから、は、半村と、い、石井が、こ、殺されたんだ」
ヨシノリの声が震えていた。
家に帰り、テレビをつける。NHKでちょうどニュース番組が始まったところだった。スマートフォンで最新ニュースを検索しながら、ほどなくして始まった現場からの中継を観た。
それは戦慄の内容だった。賢介にとって、そして、あいつに関わった者たちにとって。
シャワーを浴びながら、テレビやニュースサイトで得た情報、そしてヨシノリからの電話を頭の中でまとめる。
千葉と栃木の県境の山奥で、両手を繋がれた男性二名の遺体が発見された。二人は一本の木に縛りつけたロープの両端をそれぞれ左手にくくりつけられており、両者の間には争った形跡が見られた。付近にはバットが落ちており、お互いがお互いを殴り合ったことが死因とみられる。
「〈デスマッチ〉だ…」
安斉がペットたちにやらせた、ロープにつないでの決闘。
賢介たちの中学には、旧校舎の一角に使われていない教室があった。教室の天井の中央付近に、ストーブの煙突を取り付けるための金具が吊るされている。そこにロープを通し、両端にペット二名の腕をくくりつけるのだ。
『やれ』
安斉の声がゴングだ。ペット二人はビクビクしている。
『どうした、やれよ。勝った方は一週間自由だぞ』
両者は渋々近づき、お互いを殴り合う。初めは軽く、しかしそれは、徐々にエスカレートしていくのだった。時には道具が投げ込まれる。それは棒の切れ端だったり、ホウキだったりする。武器を手にした者は、持っていない方を猛烈に攻撃する。奴隷が、自由をかけて、奴隷同士傷つけ合う。
『カスがカス殴ってるぞ』
弱者たちが見せる、殺意の表情。本来安斉たちに向けられるはずのそれは捻じ曲げられ、互いに向けられる…
『見ろよ市来あの顔!超絶おもれーわ』
賢介は安斉にうなずく。〈デスマッチ〉は安斉のサディズムを満たすには充分なイベントだった。
安斉ご指名のペットを旧校舎の教室に連れて来るのは〈飼育係〉の仕事だった。その係をやっていたのが、半村であり、石井だった…
「とにかく」
シャワーを止め、ガラスに全裸の自分を映し込む。
「やはりそういうことなのか」
間違いない。安斉の件は事故として処理されたが、半村と石井の件は、何者かが仕組んだとみるべきだ。その何者とは誰か。
「佐橋雪男」
賢介はシャワーで充分に温まったはずの身体が急速に冷えていく感覚をおぼえた。そして、裸のままで玄関に向かい、ロックされていることを確認した後、普段はかけないドアチェーンを下ろした。
半村和樹 死亡
石井守 死亡
➌
@Susquach
オリンピック開幕!面白いからついつい観てしまって寝不足です。日本人メダル第一号、田中栞選手おめでとう!自国の選手が活躍するのは素直に喜ばしいけれど、同時に他国の選手が自国の選手を追い詰めてくると腹が立ってくる。これってある種のヘイトなのかなあ。グローバルに生きているつもりなんだけど、こればかりはえこひいきしてしまいます。
歯科医と獣医。
縛り付けられた男二人が、お互いをバットで殴り殺すという不可解な事件は、その奇怪さと異常性から数日間世間を賑わせたが、その直後に開幕したオリンピックの話題により、すっかり塗り替えられてしまった。
事件発生から二週間が過ぎた今では、そのような猟奇事件が起こったことすらほとんどの人が忘れてしまっている。しかし、テレビでの報道頻度こそ減ったものの、ネットニュースで調べれば続報は出てくる。今のところ、中学時代から因縁のあった両者が決着をつけるために決闘をした、という結論にまとまりそうだった。
マスコミは二人の間に確執があったことを突き止めた。動物病院開業時、石井は半村から金を借りていた。機材を導入するときに手持ちがなく、一時的に、という約束で百二十万円を工面してもらったのだという。その返済がまだ終わっていないということらしかった。それが中学時代からの友情にヒビを入れたのか?賢介が読んだニュースサイトの記事はそう締めくくっていた。…違うだろ。そんなんじゃない。賢介はその記事を否定した。百二十万の貸し借りがあったにせよ、なぜ決闘に至る?
そもそも、親の後を継いで歯科医となっている半村はそれなりの収入もあり、百二十万など彼にとって大した額ではないのだ。友人である石井に貸したことは事実かもしれないが、おそらく『いつでもいいよ』という貸し方だったはず。それを裏付けるように、両者の妻が口を揃えてこう言った。「金銭トラブルなどはなかった、旦那同士は離れて暮らしていても、互いの家を行き来し合うほど仲が良かった」と。
「決闘って」
あの二人が決闘?ありえない。気が弱く、いじめのターゲットにされるのが嫌だから飼育係を買って出たような二人だ。大人になった今でも家族ぐるみの付き合いをしていたとは意外だが、似た者同士の二人だ、気が合ったのだろう。
「決闘、させられたんだ。何者かに、無理矢理」
それは何者か。賢介の頭には一人の人間の顔しか浮かばない。
賢介は報道を信じない。事件の翌日、会社帰りに防犯専門店に立ち寄り、スタンガンを入手した。もちろん護身用である。購入時、住所と氏名、身分証明書のコピーを要求され、面倒を感じたが、背に腹は代えられない。今日も賢介は鞄にスタンガンを忍ばせて通勤した。寝るときは、枕の下に置いている。
「半村、石井…」
次、もし狙われるとしたら誰か。彼らと同じ飼育係だった陣内か。ヨシノリの話だと、陣内雅弘は中堅の建設会社に勤務しており、ブラジルに橋を造りに行っているらしい。長期海外出張というやつだ。
仕事中に由里からメールが来た。
「おお?」
今度の土曜、東京に遊びに来るという。完全に避けられたと思っていたのだが、まさかの脈ありメールだった。こんな状況なのに、賢介の胸は躍った。
「新宿はすごいね、人だらけ」
土曜の昼下がり、南口で待ち合わせた。以前よりも髪の色が明るくなっている。この前会ったときは喪服だったから年相応に見えたが、今日の服装は若々しく、メイクもばっちりだったので、三十を過ぎているようにはとても見えない。
「東京にはあまり来ない?」
「最近は滅多に来ないなー。なんか東京って疲れちゃって。でも湘南新宿ラインのおかげで一本で行けるから楽になったよね」
「赤羽あたりで乗り換えれば一時間で着くのもあるよ」
「面倒くさいの嫌いなの。座れた方がいいし」
乗り換えなしで一時間半から二時間。それを近いと思うか思わないかは人それぞれだろう。
「で、どうだった、お葬式」
半村の葬式に言ったことは聞いていた。賢介はどちらの葬式にも行かず、香典だけ届けてもらった。
「どうって、そりゃあもう悲惨だったよ。ご家族がね…」
想像はつく。泣きじゃくる奥さん、親御さん。
「万代とかヨシノリもいた?」
「うん。涼子もいたよ。安斉君の時と同じ斎場。…一応顔なじみで集まったけど、もうね、みんな特に何も話すことなく帰った」
口を開くと、あいつの名前が出そうで、みんな怖いのだろう。
「涼子もヨシノリ君も顔色悪かった。万代くんは普段通り。あの人はいつだって能天気なんだよね」
「そっか」
「それがいいところであり、悪いところでもあったんだけどさ」
由里の口から万代の話が出るのが気に食わない自分に賢介は気づいている。
「市来くんはどう?別に変わりなさそうだね」
「変わりは…ないかな。普段通りの生活してるよ」
「怖くない?」
「家に引きこもってるわけにはいかないし。働かないと。働くには出かけないと」
スタンガンを持ち歩いていることは言わなかった。
「そっかあ。…私は、一人で居るとちょっと怖いかな。狙われてるんじゃないか、見られてるんじゃないかって」
「深見さんや涼子ちゃんは大丈夫でしょ。何も悪いことしてない」
「どうかな。知ってる?いじめがあったのに、それを見て見ぬふりしてるのも同罪なんだって」
あいつの名前を出さずに、二人であいつの話をしている。
「お昼食べた?」
「ううん、まだ」
「何か食べに行こう」
少し歩いたところにある雰囲気のいいカフェに連れて行った。めぐみに教えてもらった店だった。
「お洒落なお店!…こういうお店、誰と来るわけ?一人じゃ来ないよねえ」
由里が目を細めて訊いてくる。
「…そりゃ、俺も、色々ありましたから」
「ははは、冗談。そうだよね、市来くんだって色々あるよね。私が万代くんと別れて、他の人と結婚して、離婚してるんだもん。色々あって然るべきですな!」
冗談めかす由里。
「俺のはそんな波乱万丈じゃないけど、まあそれなりに」
「で?彼女さん、名前なんていうの?」
「…めぐみ」
「めぐみさんはどんな人?いくつ?」
「歳は二十八。商社で働いてるけど、忙しい人だね」
「へー、キャリアウーマンって感じ?バリキャリ?」
質問攻めだ。
「うーん、バリバリっていう感じじゃないけど仕事人間だね。仕事が楽しいんだと思う。結婚する気はなさそうだな」
そうなのだ。めぐみはこれまで賢介が付き合ってきた女性と少し違う。ベタベタ甘えてくることもなく、結婚の二文字をちらつかせてくることもない。付き合い始めた当初はそれが新鮮だったが、あまりにも素っ気なさすぎるのもどうかと思うのだ。
「そうなんだ。なんだか私とは真逆の人っぽいね。市来くんは結婚する気あるの?」
「結婚は、いつかしたいと思ってるけど、それはめぐみではないのかな、と思う」
「何それ。付き合ってるんでしょう?」
「どうなんだろ。めぐみに悪いところはないよ、そりゃ確かに忙しい人だけど。なんだか、今は、そんな感じだ」
「へー。付き合ってるか付き合ってないのかわからない感じ?」
「一番最新で会ったのは、去年のクリスマスイブ。その時ケンカしてね、それきり会ってない」
「えー、じゃあ半年も会ってないの?」
「ああ」
めぐみとは、自然消滅するような気がしている。
「好きじゃなくなっちゃったって感じ?」
「よくわかんないよ」
「ひどーい」
「半年の空白が空いても平気なんだから、どうでもいい存在なんじゃないかってね。なんていうか、めぐみも結局、初恋のインパクトに勝てなかった」
「初恋のインパクト?」
そこでお互いが注文した料理がテーブルに置かれた。由里は小エビのパスタ、賢介はオムライス。
「おいしそう」
「食べよう」
初恋のインパクト。それは中学一年のとき。相手は他ならぬ深見由里。そのとき既に、由里は万代と付き合っていたから、賢介は何もできなかったのだ。あれから十八年、こうして再会し、二人きりでデートらしきことをしているなんて夢のようだった。
「深見さんは旦那さんと別れた後、どうしてたの」
「え?こないだも言ったじゃん、実家に戻って寄生虫生活」
「本当に誰もいないの?」
「男の人のこと?…だから、親はお茶屋の若旦那とくっつけたがってるけど、私はその気ないって言ったでしょ」
「深見さん自身が、いいなって思ったりしてる人はいないの?」
「だからホントに出会いがないのよ。バツイチっていう負い目があるからかもしれないけど、自分から誰かを好きになっちゃいけない立場だって思ってる。だから離婚後はひっそり暮らすようになったのかも。そもそもお茶屋の仕事って言っても、お茶っ葉くさい工場と事務所と薄暗い倉庫にいるだけだし、新しい出会いはないの」
フォークにパスタを必要以上に巻きつけながら由里は言った。
「よくない考え方だな」
「え?」
「よくないよ深見さん。待ってるだけじゃ」
「だって、普通そうでしょ。三十過ぎのバツイチ女と好きこのんで付き合いたくないでしょ。私だってもう失敗したくないから、男性を見る目も昔とは違うし。こんな気持ち市来くんにはわからないよ」
「…そうかな」
「そうだよ」
巻きつけすぎたパスタを、由里は大口を開けて放り込み、賢介に向けて笑った。その仕草は昔とちっとも変わらずお茶目だった。
「じゃあ、俺が、立候補してもいいかな」
「は?」
咀嚼しながら由里が賢介を見た。
「結婚相手に、俺はどうだろう」
「…え」
言ってしまった。この前言えなかったことを。そして、長きに渡って諦めきれずに持ち続けていた気持ちを。
「もちろんめぐみとは別れる。何なら今この場で電話をする」
「え、待って、そういうことじゃなくて」
「俺が深見さんのタイプじゃないのはわかってる。でも俺、ずっと好きだったんだ」
自分の鼓動が激しく高鳴っているのがわかる。言った。言ってしまった。もう後戻りはできない。
「私は…うん、正直に言うと、今私、市来くんのこと素敵だなって思ってる。でもね、ダメでしょ。冷静になって考えて、私は離婚歴があるんだよ」
「そんなの知ってる」
由里は口を閉じたままうつむいて黙っている。
「初恋のインパクト。…俺の、どうしても消せない人なんだよ、深見由里って女性は」
「え…そう、だったの?」
賢介は必要以上にゆっくりと、大きくうなずいた。これは照れ隠しだ。
「それって…いつから?」
「中一」
「ウソ!気がつかなかった…市来くんまったくそんなこと言わなかったじゃん!」
「そりゃそうだよ、気づかれないようにしてたからね。万代だっていたしさ」
「むしろ私みたいな女は嫌いだと思ってた」
「そんなことない。当時は言えなかっただけだよ。万代にはかないっこないし」
必死で恋心を隠し通した中学時代。少しでもバレたら、いじめの対象になっていたはず。
「俺、いつでも行くから。湘南新宿ラインで」
由里は下を向いた。迷っているのだろうか。やはり俺を恋愛対象として見られないのだろうか。
「いいの?」
「え」
顔を上げる由里。その目が潤んでいた。
「私で本当にいいの?」
「いい。俺はずっと、深見由里がいいんだ」
彼女の右目からポロリと涙がこぼれた。続いて、左目からも。
「あっ、ごめん」
「ううん、嬉しくて。こないだ…安斉君のときに、ひさしぶりに会ったじゃない。素敵だなあ、って思ったんだ。今日もね、別に大した用事じゃなかったけど、来てみたの。会えたらいいな、って。こんな気持ちになったのって、どれぐらいぶりだろ」
ハンカチで涙を拭う仕草。照れ笑い。なんてかわいいんだろうか。
「深見さん…」
「宇都宮じゃなくて、私がこっちに通うよ」
ドキドキする。泊まることとかを考えると、確かに由里が賢介の部屋に来た方がいいに決まってる。彼女は実家暮らしだし、宇都宮には人の目があるし。
「でも、これだけはお願い。ちゃんと、してね」
「え?」
「めぐみさんとのこと。私、ちゃんとしてくれなきゃ、嫌かな」
もっともだ。
「もちろん区切りはつける。めぐみにはちゃんと話して納得してもらう。なんなら今この場で電話するってば」
「それは、ダメ。ちゃんと会ってお話してください。知ってる?男女はくっつくよりも離れる方が大変なんだよ。ワタクシ、経験則から申しております」
そう言うと、由里はちょっと偉そうにふんぞり返った。
「ふふ、うん。わかったよ、ちゃんとする」
「そうしてください。なんて、偉そうだね私」
「いや、当然だよ」
賢介は今日にでもめぐみに電話しようと思った。
新宿の街を歩いた。どこか店に入るでもなく、都庁の方まで。
「私、市来くんのこと誤解してたかも」
横並びで歩きながら、由里はつぶやくように言った。
「誤解って?」
「あの頃…中学時代、市来くんってみんなと一緒になってバカやりながらも、どこか溶け込んでない雰囲気があって。それってきっと、安斉君とか万代くんに無理して合わせてるんだろうなって思ってた。だからその彼女だった私にも、なんとなく無理して合わせてたんだと思って」
前半は、確かにその通りだ。しかし後半は間違ってる。
「俺は本当に安斉たちにビビってたよ。でも彼らに取り入らないと、あの学校じゃまともに生きていくのは無理だったし。いいわけかもしれないけど」
「確かに。私も少なからずそういう部分はあったかな。万代くんとは同じ小学校で、なんとなくいつも一緒にいたけど、中学入って安斉君と仲良くなってからは、ちょっと感じが変わっちゃって。私もそれにつられて変わらざるを得ないっていうか。これもいいわけだね」
俺たちはきっと、安斉以外みんな、ほぼ同じ感情を抱いていたのかもしれない。クレイジーな安斉に、みんなが付和雷同していたのだ。ビル群の谷間、赤信号で賢介は立ち止まった。
「深見さん。俺は弱い人間だよ。本当に情けない」
いじめられるのが怖かったから、いじめる側に回った。
「私だって同じだよ。誰だって自分がかわいいし」
でも俺は、今も同じような生き方をしている気がする。事なかれ主義で、寄らば大樹の陰。出る杭が打たれるのは知っているから、目立たぬよう、長いものに巻かれ、主流に乗り、中道に生きている…。
時折賢介は自分が情けなくなることがある。そして、自分がそういう人間になってしまったのは、あの中学時代のずる賢い生き方のツケだと思うのだ。ああいう生き方は、クセになる。人をダメにする。
「私ね、だからびっくりしたんだよね。中学の頃、市来くん頭も良かったじゃない。無理にみんなと合わせてるんだろうな、って。そう思って見てたし、実際高校で離れ離れになってからは、成人式の後の同窓会だけだよね。それがこないだ、安斉君のお葬式に来てたから、意外だったんだ。そういうの来るタイプじゃないと思ってたから」
意外、か。そうかもしれない。確かに安斉の死だけでは、賢介が宇都宮に赴くことはなかっただろう。あいつへの疑惑もあったものの、不謹慎かもしれないが、葬式にかこつけて、離婚したという由里にひと目会いたかった。それが理由の筆頭かもしれない。
「深見さんの言うとおり…俺は、安斉や万代に友情を感じたことはなかったよ。ヨシノリにだって半村にだって、涼子ちゃんや陣内や石井にも、一度も。ひどい奴だよな」
「やっぱりね」
「でも一人だけ例外があって、それが深見由里って子だったわけ」
信号が青に変わり、歩行者が渡り始める。
「ははは、やだ」
「変な感じだけど、そうだったんだ。深見さんはずっと、あの陰鬱な中学時代、俺の支えだった。どんなに悪いことをしても、どんなに胸の痛むことをしても、深見さんと仲間でいられるなら構わないって。そう自分に言い聞かせながら日々過ごしてた気がする」
立ち止まったままの賢介と由里を、次々と歩行者が追い越していく。
「歩こ」
「ああ」
この先にある公園に向かった。
「あのさ。…市来くんどう思う?仕返しをしているのって、やっぱりあいつなのかな」
「俺も、どうしてもそう考えてしまう」
「石井くんと半村くんが、本当にいがみ合ってたってことはないかなあ」
そうであって欲しいという願望が言葉に含まれている。
「もし報道されてるみたいに、二人の間に確執があったとしても、あんな決闘の方法を選ぶと思う?」
「…だよね」
由里もずっと不安なのだ。
「半村くんのお葬式の後にね、少しみんなで集まったって言ったじゃない。ちょっとだけしゃべって別れたんだけど、その時にね、涼子が言ったの。『警察に昔のこと話してみる?』って」
賢介は由里の横顔を見た。
「…それで、みんなは?」
「万代くんは、そんなの駄目だって。ヨシノリ君も」
「そうなるよな。深見さんはどう思う?」
「私も、できれば言いたくないけど…でも、涼子の怖い気持ちはわかるから」
警察に言う、ということは、あの頃いじめに関わったすべての人間に影響が出てくるということ。安斉が布いた恐怖政治のせいで従わざるを得なかったというのは言い訳だ。東条英機だけがA級戦犯ではないように。
「みんな、今がある。今のささやかな生活を守りたいのさ」
由里はうなずいた。賢介だって、今さら過去をほじくられたくはない。
「勝手だけど、中学生なんて子供だ。子供時代の悪さで、今を失いたくない」
「そうだけど…でも。私たちは、悪ふざけでは済まされないことをした」
うつむきながらつぶやく由里。
「…六条のことを気にしてるの?」
その名に、由里は身体を一瞬震わせた。誰もが思い出したくない名前だろう。
「わかんない。でも、それを蒸し返されるるのが、みんないちばん怖いんだろうな」
「だよな。俺もだよ」
六条保志。雪男と共にペットだった男だ。〈ホルスタイン〉六条保志と〈サスカッチ〉佐橋雪男は、安斉お気に入りのツートップだったのである。
六条保志は中学二年から三年に上がる春休みに、幹線道路上で大型トラックにはねられて死んだ。高さ八メートルほどの跨道橋から道路上に飛び降り、トラックにはねられたあと、走っていた車に次々と轢かれたという。遺書などは無かったが、自殺として処理された。
なぜ自殺をしたのか明確な理由は不明だったが、当然ながらいじめを苦にした自殺では、との声が上がった。
教育委員会の審査が入ったが、学校側はいじめの事実は無かったという結論を出した。六条保志は事故死。当時の賢介たちは無理にそう思うことにした。ちなみに、六条の死を知った安斉は、特に何の変化も見られなかったことは言うまでもない。実際、賢介は当時、安斉にこう言われたのだ。『お前とヨシノリで代わり補充しとけ。ペットは常に四匹はいねえとなあ』。
いじめ甲斐のあるやつが一人死んだ。それは安斉にとって、四匹いたペットのうち一匹が減ったということであり、電球が一個切れちゃったから替えといて、程度のことにしか過ぎない。その当時の安斉誠はそういう男だったのである。
「ともかく…深見さんが狙われることはないよ」
「なんでそんなこと言えるの」
「だって深見さんも涼子ちゃんも、直接あいつらには何もしてないから」
二人は安斉、万代それぞれの彼女としてそばにいただけだ。
「言ったでしょ、見て見ぬふりも同罪だよ…私は万代くんの横で、色々見てきたわけだし」
見てきた、か。
賢介の頭に印象的で強烈なワンシーンが浮かんでいた。雪男、内田、そして高木というペット三人が、いつもの教室に集められ、裸にされていた。ふんぞり返って座った安斉が、『やれ』と低い声を出す。脇にいたヨシノリが小さくうなずき、三人の前に立った。
『それでは三人、いいですか?…よーい、ドン!』
ヨシノリのふざけた声を皮切りに、三人は困惑しつつも自らの性器を握りしめ、しごき始めた。雪男のそれは固くなっており、他の二人はしおれたままで、なかなか大きくならないようだった。
『この状況でビンビンだぜ』
安斉が雪男に舌を巻く。確かに、雪男のそれは見事だった。
『サスカッチ、さすがっち、でございま~す!』
ヨシノリの実況が冴える。こういう時の司会はお調子者のヨシノリと決まっていた。
『おーっと豚まん、ちょっとデカくなってきたぞー!』
『ちっ、ゲジゲジの野郎、全然ダメだな』
万代が舌打ちをする。三人の内、誰が一番早く射精できるか。これが賭けの対象になっていた。教室では安斉グループの他に、十数人の生徒も賭けに参加している。確か、一口千円だった。
『さて、誰が一番早くイケるかな~?』
最低な催しだ。が、中学生が一番盛り上がるのはこんなことだ。
『いけ!サスカッチ!』
『豚まん、まくれまくれ!』
壮絶な光景。しかも、安斉の横には涼子、万代の隣には由里が座らされていた。二人とも、さすがに顔を逸らしていたが、涼子は安斉に頭を掴まれ、強引に見させられていた。
『おーっと、ここでサスカッチがフィニッシュ!…サスカッチに賭けたのは…安斉君と陣内と小嶋、吉岡。おめでとうございま~す』
外れ掛け金を、勝った四人で分ける。
『サスカッチには四日間自由の権利が与えられま~す』
『二日だ』
金を受け取りながら安斉がヨシノリを睨みつけた。
『間違えました、二日の自由です』
異常だった。イカレた中学時代だった。
「そんなこと言ったら、あの学校にいた全員が殺されても文句言えないってことになるぜ」
ベンチに腰掛けながら賢介は由里に言った。
「安斉の開催するイベントには、生徒会長も呼ばれてたし、ブラバンの部長と副部長、野球部やサッカー部の奴ら、バスケ部、柔道部もいたんだ。あれは安斉なりの接待だったんだから。あいつらだって同罪だ」
「それはそうかもだけど…その人たちは、安斉君の強引な誘いに仕方なく連れて来られただけで」
「それを言ったら涼子ちゃんも由里ちゃんも一緒だよ。二人とも彼氏の横でやむなく、って状況だったし」
由里は少し考えてからうなだれた。
「万が一、あいつだとしても、女の子は狙わないさ。それは逆恨みというもんだ」
賢介は力強くそう言った。本気でそう思っている。由里、涼子は殺されることはない。
そして、多分、俺も。
「市来くん」
「何?」
ベンチの横に由里が座った。
「さっき、私のこと名前で呼んだね」
「え…そうだった?」
「由里ちゃん、って」
「あ、ごめん」
「いいの。ちょっと嬉しかった。そう呼んでくれていいよ」
➍
深見由里を新宿駅まで送り、家まで歩いた。
由里にずっと好きだったことを伝えた。由里との結婚。あれほど嫌悪し回避してきた結婚という二文字が、今はすっきりと受け入れることができる。
「結局、ずっと由里を忘れられなかったんだな、俺は」
由里の気が変わらないうちに、一刻も早くめぐみと別れなければならない。めぐみとは半年も会っていないのだ、お互いの気持ちは冷めているわけで、あっさりと別れられそうな気もするが、めぐみは気の強い女だ。一方的に別れを告げたりすると、ヒステリーを起こしかねない。気持ちを逆なでしないよう、慎重に話を切り出さなくてはいけなかった。明日は日曜、めぐみは暇だろうか。帰ったらすぐに電話をしてみよう。
背後から駆け寄って来る足音。思わず肩掛けのバッグに手を突っ込み、ゆっくり振り返る。その人は賢介の横を走り抜けて行った。ランニングウェアにスポーツシューズ、ただのジョギングだ。バッグの中、賢介はスタンガンから手を放す。
…安斉、そして半村、石井。彼らの死が雪男の手によるものであった場合。由里にも言ったように、女性である由里と涼子に危害が及ぶことはないと賢介は思っている。復讐に燃えているにしろ、女子は許してやるに決まっている。
そもそも、犯行自体が浅はかすぎる。
はたしてこの一連の死は、雪男がやったものなのだろうか?仮にそうであった場合、彼は今や圧倒的な経済力、そして権力を手にしているのだ。昔自分をいじめた相手を一人ずつ殺していくよりも、社会的な制裁を与えた方がダメージが大きいとは考えなかったのだろうか。やり口が、あまりにもストレートすぎるのだ。せめて本丸である安斉は、じわじわと追い詰め、最後に殺害するべきではないのか?少なくとも賢介が雪男だったとしたらそうする。
自宅マンションに着く手前で電話が鳴った。相手はヨシノリ。妙な胸騒ぎを憶えつつ、賢介は電話に出る。
「市来か。…ちょっと時間いいか」
「ああ、どうした」
「実は気になることがあってな」
誰かがまた…というわけではないらしいので、少し安心する。
「一週間前に、権田先生が亡くなったらしい」
「権田…生活指導の権田先生か?」
事なかれ主義の教師の中において、一人指導熱心だった教師だが、ある時を境に安斉グループには干渉してこなくなった。こいつらには何を言っても無駄だ、と匙を投げたのだろうと当時は思っていた。
「それってあいつ…」
「いやいや、病院で死んでるんだ。ずっと入院してたらしい。だから関係ないと思うんだけど…」
「助からない病気だったのか?」
「胃ガンだって。上毛新聞のお悔やみ欄にはそう書いてあった。俺もさ、さっき後輩から聞いたんだよ。中学の時の先生死んじゃいましたね、って。それで知ったから」
電話から聞こえるヨシノリの声はしかし、不安そうだった。
「それこそたまたまだろ。ガンだろ?病気は避けられない」
「だよな」
「気にしすぎだヨシノリ」
「ああ。でも…そうか、市来は知らないのか」
「何を」
早く帰ってシャワーを浴びたいのだ。半日由里と歩いたから、汗をいっぱいかいている。
「あのな、権田先生、安斉に弱味握られてたんだ」
「は?なんだそれ」
弱味とは?
「菊池サンって覚えてるか。安斉の先輩の」
菊池…そういえば、時々先輩風を吹かせに来る高校生がいた。二学年上の先輩で、入学したての安斉にボコボコにされてから、安斉の言いなりになった男だ。安斉には媚びへつらうが、賢介たちには偉そうにしていた嫌な奴。
「そいつがどうした」
「菊池サン、安斉に気に入られようとして、権田先生の弱味を作ったんだ」
「だから弱味ってなんだよ」
そんな話聞いたことがない。
「菊池サン、同じ高校の女友だちを使って、権田を引っ掛けたんだ。いや、別に権田先生がその女に何かしたってわけじゃねえんだぜ、ただ一緒に歩いてるところを写真に撮って、あとは女を騒がせた。『あのおじさんと援助交際してます』ってな感じよ。菊池はその情報を安斉にプレゼントした。安斉はその写真と女の証言で権田先生を黙らせてたってわけ」
賢介の疑問が一つ解けた。いつも口やかましく安斉グループを叱りつけていた権田先生が、中二の二学期頃から急に何も言わなくなったのだ。しかし当時は、熱血漢の権田先生もついに疲れて諦めたか、と思ったものだったが、それにしてもパッタリと関わらなくなってきたから、奇妙に感じていたのだった。
「そういうことだったのか」
「ああ。それをネタに権田先生を黙らせていたんだ。旧校舎に自由に出入りできるようになったり、屋上のカギのコピーを持てるようになったのは菊池サンの暗躍のおかげだったわけ。あの中学、うるせえ教師は権田先生だけだったからな、そこを押さえちまった安斉は、校内において向かうところ敵なしになった」
ということは…権田先生も、あいつに恨まれる要素はあったわけだ。しかし権田先生は末期ガンで入院中だったのだ、病魔にやられたと考えるのが普通だろう。
「…そんなことがあったのは知らなかったな。それって安斉とお前しか知らないことか?」
「あと万代」
「そうだったのか。…けど、権田先生は病死なんだろ」
そうに決まってる。あいつに殺されたわけではない。
「病死だ」
「さすがに病気は操れないだろうが」
「だけど…人為的な治療ミスとかさ」
「考えすぎるなヨシノリ。切るぞ」
「…ああ。なあ市来」
「なんだ」
「…いや、おやすみ」
電話を切った。安斉、半村、石井。あまりにも雪男にした仕打ちと似ているから殺されたと思ってしまうが、もしかしたら本当に偶然なのかもしれない。賢介はそう思おうとした。しかし、やはりそれには無理があるのだった。
自宅に帰り、電気をつける。部屋の中はいつもよりきれいに片付いている。なぜかというと、もしかしたら由里が来るかもしれない、と考えたから。そして、あわよくば泊まっていけば…とやましい考えもあった。が、もちろんそんなことは起きず、昨日の夜きれいに掃除をした部屋は、空しく輝いている。賢介はソファに身を投げ出した。早くシャワーを浴びよう。でもその前に…
「めぐみに電話だ」
嫌なことを後回しにしてはいけない。
翌日の日曜、賢介は中目黒の駅にいた。約束の時間の五分前、めぐみはまだ来ていない。
昨夜の電話口での、めぐみの反応は意外だった。「ひさしぶりだね」と言った彼女の声は、暖かく優しかった。一瞬揺るぎそうになった気持ちを奮い立たせ、心を鬼にして別れ話を切り出したのだが、その途端めぐみが金切り声に近い大声を放った。電話越しになだめ、面と向かって話をしようということで今日に至る。
「ひさしぶり」
ゆっくり歩いて来ためぐみに声をかける。彼女の顔つきは能面のようだった。かなり怒っている。
「暑いね、どこか入ろう」
そう言った賢介に対しても反応は薄かった。とにかく近くのカフェに入り、飲み物を注文する。店員に冷たいカフェオレ二つ、と頼んだ賢介に、めぐみは「あったかいのにして」とぶっきらぼうに言い放った。
「それで?私と別れたいって?」
イスにもたれかかり、腕を組んで賢介を見据えるめぐみ。彼女は賢介より四つ年下だが、顔の造りが濃いから少し老けて見える。
「別れたいというか、俺たちここ半年ろくに会ってもいなかっただろ」
「それは私の仕事が忙しいから仕方ないでしょ。賢ちゃんだって去年は出張が多くてずっと会えない時期あったでしょ、お互い様じゃない」
「でも電話もメールも…」
「特に用もなかったし、連絡する必要もないでしょうが」
「でも」
「今何してるー?ちょっとおしゃべりしよー?って?アホな女子大生じゃないんだから、そんなヒマあるわけないでしょ」
怖い。賢介は目の前のめぐみに対し迫力を感じている。由里とはタイプ的に真逆だ。めぐみはどちらかと言うと釣り目で、キリリとした美人タイプで、その見た目どおり、めぐみは攻撃的で角ばっている。対する由里は年齢より幼く見え、垂れ目で優しげな雰囲気。性格もおっとり、ふんわりしている。
「じゃあめぐみは、今のままでいいと思ってたのか?半年も音沙汰…」
「いいとは思ってなかったわよ。けど仕事も大事でしょ。おとといまでインドネシア行ってたの。お湯が二分で出なくなるホテルに三週間も泊ってたんだから。でも結果出してきたわ、賢ちゃんはのんびりしてるみたいだけど、私は同期の誰にも負けたくないのっ!」
上昇志向が強い。めぐみは気が強く、負けず嫌いで努力家だ。そういうところは心底尊敬しているし、彼女に惚れたのはそういう一本気なところだった。が、賢介は改めて思っている。めぐみは家庭向きの女性ではないのだ。結婚するなら、やはり由里のようなおっとりしたタイプが…
「あーあ、そっか。結婚しても、賢ちゃんみたいなタイプだったらうまくいきそうだな、って。そう思ってたのになあ」
その声は意外だった。
「賢ちゃんって私を束縛しないし。私が忙しいのを慮ってくれてるんだとばかり思ってた。そりゃ、電話もメールもおざなりだったことは悪かったって思ってるけど、賢ちゃんとはなんとなく気が合うと思ってたし」
半年以上会ってないのに、恋人も何もない。
「めぐみのことを嫌いになったわけじゃないよ。ただ、そういう行き違いがあったんだね。俺は、自分の彼女とはできれば毎週会いたいし、仕事優先じゃなく、俺のペースに合わせて欲しかった」
「ふうん…別れる気満々ね。そのセリフ用意してきたんだ」
めぐみは不敵に口角を上げ、テーブルに置かれたカフェオレを見つめた。
「そういうわけじゃないよ。ただ、一応付き合ってるんだし、もっとデートとか…」
「素直に他に好きな人ができたって言えば?」
言葉に詰まった。
「これかあ。飲みにくいのよねえ」
めぐみのカフェオレは、取っ手のついていないカップに入っている。それを両手で持ち、めぐみは一口すすった。
「小洒落たカフェに行くと、こんな容器で出てくる。でもこれって誰が得するの?犬じゃないんだから普通のカップで出して欲しいわっ」
苛立つめぐみ。
「で?他に好きな人できたんでしょ?」
「いや、だからその、俺も三十二だし、そろそろ結婚を考える年齢で…」
「私は賢ちゃんの結婚相手ではないわけね」
「時代にそぐわないかもしれないけど、俺は家庭に入ってくれる人が理想で」
「それ本気で言ってんの?」
上目づかいで睨まれた。
「東京で結婚して共働きじゃないなんて無理よ。都内のマンションの相場いくらか知ってる?子供が欲しいならなおさらのこと、最低でも六十万は必要よ。賢ちゃん一人でそんなに稼げてる?せいぜい五十ぐらいでしょ。葛西からの通勤が億劫で中野に引っ越した賢ちゃんが、千葉埼玉の田舎に家買って、満員電車に揺られて通えんの?そもそも私、仕事辞める気ないし」
これまた意外だった。そこまで考えていたなんて。
「ごめん。だからそういう、価値観の違いがあるんだよね」
「ウソつき」
大きなため息。賢介は恐る恐るめぐみの顔を見る。
「賢ちゃんって本音を言わないよね。はっきり言えばいいのに、他に好きな人ができたから別れたいって。そうなんでしょ?物事の核心をずらしたプレゼンで、いい結果は得られないよ。それって何、私に気を遣ってんの?」
傷つけたくないというのもあるが、それよりも…
「違うみたいね。賢ちゃんはいつも、自分が悪者になりたくないだけ。そういうスタンスで生きてる。ずるいんだよね」
後頭部をガンと叩かれたように、モロに図星だった。
「まあいいわ、大物にはなれないタイプだとはわかってた。けど、そこが良かったんだけどなあ。…ふう」
めぐみは立ち上がった。
「いいよ、別れたげる。その代わり、一回相手の人と会わせて。三人で食事したいから」
「えっ」
想定外の回答に動揺する。
「相手の人が私とどう違うのか、私に持っていない何を持っているのか、何が賢ちゃんの心を捉えたのか、今後のためにそれを見ておきたいの。それぐらいしてもいいでしょ?」
ちょっと変わっているとは思っていたけれど、めぐみは相当な変わり者だったのかもしれない。
「私だってもうじき二十九で、そろそろ結婚したいって思ってんのよ。そう考えると次付き合う人で失敗したくないじゃない。だから後学のために相手の女性を見ておきたいわけ。ね、だから会わせて。それが別れる条件。じゃ、二週間以内に連絡すること。来月になったら私またジャカルタ行かなきゃなんないから」
めぐみはそう言うと、自分の分の代金をテーブルに置いてカフェから出て行った。去って行くめぐみに、窓越しに店内から手を振ったが、めぐみは健作に気づくことはなく、さっさと歩いて行ってしまった。
カフェを出て、街をあてもなくさまよい歩きながら賢介は頭の中を整理する。めぐみは上昇志向の強い女性で、仕事が一番。結婚など念頭にないタイプだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。しかし、カフェではその勢いと迫力に圧倒されていたが、もしかしたらあれは彼女なりの強がりなのかもしれない。だって普通、彼氏の新しい彼女と会って話してみたいなんて思うか?男女の違いかもしれないが、逆の立場だった場合、賢介は相手の新しい恋人と話してみたいとはまったく思わない。
ビルの大きな看板、学生の頃好きだった映画の続編がきている。今日は特に何もすることがない。賢介は映画館に入ることにした。運よく二十分ほど待てば次の上映だったので、チケットを買い、映画館のロビーのソファで開演を待った。
由里と、結婚を前提に付き合う。…本当にそれでいいのか?離婚歴は気にならないのか?彼女は万代の元彼女だぞ?初恋の感情こそ強いが、俺は由里の何を知っている?
めぐみと蜜月だった期間は一年ほどだが、今日の彼女は賢介の知らないめぐみだった。由里も、実際付き合ってみればとんでもない女かもしれない…。
由里は賢介と同い年の三十二歳。女性の三十二と男性の三十二は感覚が違う。おそらく由里は交際期間もほどほどに早く結婚したいことだろう。現段階ではかわいく、おとなしく振舞っているが、実際一緒に暮らしてみると、おかしなところがいくつもあるのかもしれないのではないか。急に不安になってきた。
結婚して一年後に別居。深見由里にもきっと問題があるのだ。
「おっ…」
着信音を消していた携帯が、ズボンのポケットの中で震えた。画面表示は深見由里。一瞬で不安が消し飛ぶ。ということは、やはり掛け値なしに彼女のことが好きだということだ。めぐみと別れたことを報告しよう。そして、言いづらいけれど、めぐみと三人で会うということも言わなければならない。
「もしもーし、由里」
「市来くん、大変」
その緊迫感ある声に、一瞬で頭の中があいつの顔に占領された。
「今ニュース見た?サンパウロで日本人が死んだって…」
「は?サンパウロ?いや、知らない。今外なんだ」
「昨日ね、日本時間の夜中に、建築資材の下敷きになって日本人の現場監督が死んだの。その人の名前が陣内雅弘…これって陣内くんのことだよね…?」
陣内はブラジルに橋を造りに行っている。今、あいつはどこにいる…?
@Susquach
リオにいます。今こっちは冬で寒いんだけど、人々の陽気と活気でいつも晴れやか!カーニバルの時期じゃないけど、普段から街は賑やかで、毎日お祭り騒ぎって感じです!
ブラジルにいるじゃないか。
開演時間になり、賢介は呆然としたまま映画館の中に入った。が、長いCMと予告編の途中で、自分が映画など楽しめる気分ではないことに気づいた。しかし賢介は退席することなく、半ば意地で、ほどなくして始まった映画を観続けた。当然内容など頭に入ってこない。
陣内雅弘は飼育係だった。他の飼育係の半村と石井は既に死んでいる。資材の下敷き?それって単なる事故じゃないのか?しかしこんなにタイムリーに、あの頃の仲間がバタバタ死んでいくのはおかしい。やはりあいつが関与しているのか…?
地図で見る限り、リオデジャネイロとサンパウロは五百キロほど離れている。ただ、あいつがリオに行く前にどこにいたかは、誰も知らないのだ。
結局賢介は最後まで映画を観てから外に出た。映画館にいる間に夕立が降ったらしく、アスファルトからムッとする匂いが立ち上っていた。
映画を観ている間にメールが届いていた。珍しく万代から。件名は、『みんなへ』。複数人にまとめて送信したのだろう。きっと陣内に関することだと思い、賢介はそれを開いた。
『俺が終わらせる』
一行、たったそれだけ。終わらせる?意味がわからず首をひねっていると、手の上の携帯が振動した。ヨシノリから電話だ。
「おーヨシノリ、今万代からのメール見たけど…」
「け、賢介っ、ば、万代が…」
「どうした落ち着け」
そう言いながら、賢介は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「ば、万代が…首吊って、死んだ」
権田久雄 死亡
陣内雅弘 死亡
万代真也 死亡
➎
万代が自殺した。
日中、自宅のウォークインクローゼット内。万代は電気コードを首に巻き、コート掛けに縛りつけて首を吊ったらしい。突発的な自殺だったらしく、家の中には家族もいたが、気づいた時には既にこと切れていた。
警察の見立ては完全に自殺。ヨシノリの電話を受けた時点では、自殺に見せかけた巧妙な他殺を想像した賢介だったが、仲間内に送られたメール、さらにクローゼット内に置かれていた遺書から、自殺ということは確実なようだった。
『俺が終わらせる』。
中学時代の悪質ないじめ、その責任を負って、安斉に続いてナンバー2の地位にあった万代は、自らの死によって、この最悪な連鎖の阻止を図った、と見るのが妥当だった。
そして、遺書の内容。万代の奥さんから話を聞いたヨシノリによると、自ら命を絶つことに対しての家族への謝罪と、妻と娘への愛が綴られていたという。そして、最期はこう締めくくられていたそうだ。
『Sへ これで許してくれ』。
三日後、賢介は宇都宮駅にいた。ロータリーで待っている賢介の前に、大型の外国製セダンが停まった。
「乗って」
開かれた窓の奥、由里が運転している。
「ウソだろ?こないだの軽だと思ってたよ」
「これは父の。私の軽はぶつけちゃって、今修理中」
「お父さんマフィア?」
「やめてよ、こんな時に冗談」
それぐらい由里には似つかわしくない車だった。
「ごめん。…大丈夫か、由里」
「大丈夫、と言いたいところだけど、ごめん、やっぱりかなりショックかも」
それはそうだろう。死んだ万代は仮にも由里の元恋人なのだ。
「でもね…でもね…、なんか、変なところでホッとしてる。万代くんとは小学生のときから仲良くって、その頃はね、本当に仲間思いのガキ大将って感じだったの。でも中学入って安斉君とつるみ始めてから、ただの乱暴者みたいになっちゃって…私、あの頃すごく嫌だったの。安斉君には逆らえないっていうのはわかってたんだけど…」
不釣り合いな車を運転しながら由里は言った。唇が震えている。
「そうだったんだ」
あの万代が、昔は仲間思いの熱い奴だったとは。賢介にとって万代は、単なる安斉のイエスマンだった。
「だから、今回のことは…とても悲しいけど、昔の万代くんに戻ったんだ、って思うようにしてる。仲間を助けるために、あいつを止めるために、自分で…」
嗚咽が漏れた。賢介は由里に一旦車を停めるよう提案し、由里は近くにあるドラッグストアの駐車場に入った。
「ごめん市来くん。嫌だよね、昔の彼氏の話なんて」
「中学の時のことだ、気にしないさ」
「その中学の頃のことをずっと根に持って、私たちの命を狙ってる人もいるんだよ」
あいつ、佐橋雪男。由里はもう、完全にあいつが犯人だと決めつけているようだった。もっとも、それは賢介とて同じだが。
「陣内くんがブラジルで死んだ。事故に見せかけて殺されたのよっ」
由里は嗚咽混じりにそう言った。
「…そのことだけど」
賢介は助手席から運転席に向けて半身になった。
「あいつは引退後、世界を回るとか言って旅行してるらしい。俺、あいつのSNS見てるんだ」
「知ってる。私も見てた」
きっとみんな見ているのだろう。
「あいつ今、リオデジャネイロにいるでしょ?」
「ああ」
「あいつはきっと、お金で工事現場の人を買収して、陣内くんを殺させたのよ。現地の警察も買収して、事故ってことで処理した。きっとそうよ、そうなのよ」
「…かもな」
賢介はうなずく。直接手を下さなくとも、誰かにやらせればいいのだ。そういう立場に、あいつはいる。
「安斉君だって、真相はどうかわかんないよ?市来くんは知らないかもしれないけど、あいつはもうこの街ではすっかり名士なの。二年前に宇都宮市の中心地に土地買って、市に公園をプレゼントしたの。それにサスカッチの子会社の人材派遣会社は栃木のサッカーチームのスポンサー。去年現職破って当選した味川って代議士はその会社の社長だった人だよ。市議会にも県議会にもあいつの息がかかった人間が何人もいる。前の選挙で無所属非公認だった人たちはみんな味川一派。警察だって、ちゃんと調べてるんだかどうだかわからないんだから。もう既に県警内部にも味川の息がかかったのがいるのかもしれない。私たちが過去を洗いざらい警察にしゃべったところで、どうなることか…」
賢介や由里、ヨシノリが騒いだところで、簡単にもみ消される。由里はそう思っているらしい。確かに黙っている方が利口なのかもしれない。
「警察から由里のところに何か話はあったか?」
由里は首を振った。
「…俺たちの仲間だった安斉、半村、石井、陣内が死んだ。それを受けて万代が意味深な遺書を残して死んだっていうのに、地元に住んでる由里やヨシノリたちに、警察から何も声がかからないのは確かに不自然だよな」
大きな力が動いているのか?ただ単に警察が無能なのか?あるいは賢介の考えすぎなのか?とにかく不気味だった。
「あいつが…誰かにやらせているのよ」
ポツリと由里が言った。
「半年ぐらい前、あいつが若隠居するとかいう記者会見、私観たの。あいつこんなこと言ってた。『やり残したことがある』って」
賢介も同じ番組を観た。皮肉なことに、めぐみと一緒に観た。あれは…街頭の大型ビジョンだ。そしてその後、ケンカをしたことを思い出す。
「俺も観たよ」
「やり残したこと、って、私たちへの復讐よ」
ハンドルを抱え込むようにして、由里はうなだれた。相当精神が参っているようだった。めぐみと会わせるのは当分先延ばしだな、と賢介はぼんやりと思った。
万代の葬式を終えた賢介は、由里、ヨシノリ、涼子と四人でコーヒーを飲んでいた。安斉の時に行った店は避け、チェーン店のコーヒーショップにした。
席に着いたが、みんな押し黙ったままだった。涼子のやつれようが特にひどい。ヨシノリの顔色も悪かった。
「偶然じゃ、もう済まされなくなったな…」
神妙な面持ちのヨシノリに、賢介は言った。
「ああ。少なくとも万代は、偶然とは見ていなかった」
「そうだな…なあみんな、これで終わると思うか」
訊いてみた。三人は目を伏せた。
「万代はスケープゴートになってくれた。もしかしたら、止まるかもしれないんじゃないかな、って俺は思ってる」
「すけーぷごーとって?」
「人身御供さ。万代は、自分の身を差し出すことによって、俺たちの身代わりになろうとした」
涼子に答え、由里、ヨシノリの顔を見る。
「お、お、俺たちは全員殺される。あいつからは逃げられない」
ヨシノリが顔を青くさせたまま言った。
「やめてっ!」
涼子が耳を塞いだ。目の下のクマがひどい。
「ヨシノリ変なことを言うな。なあみんな、俺思うんだ。死んだ人間には悪いけど、ここにいる四人には共通点がある。それは、当時少なからず罪の意識があったってことだよ。あいつを含めたペットだった人らに、裏では優しく接していた。違うか?」
そうなのだ。いじめを心の底から楽しんでいたわけではない。もちろん関与・加担していたことは事実だとしても。
「この四人が残っているのには理由がある。俺たちはもしかしたら、狙われないんじゃないか?特に女性二人。涼子ちゃんにしても、由里…深見さんにしても、あいつらに直接暴力を働いたことはないんだから」
涼子と由里はうつむいたままだった。
「高木が死んでたよ」
「は?」
高木。ヨシノリが口にしたその名が、ペットのメンバーだった〈豚まん〉であることを賢介は思い出した。
「…どういうことだよ」
「ひと月ほど前、車にひかれて死んだんだ。川崎で」
「川崎?神奈川の?」
「川崎の工場で働いてたらしい。仕事終わりに職場の人らと飲みに行ったらしいんだけど、その帰りにひかれたって話だ。ひき逃げで、まだ犯人は捕まってないって」
涼子が震え出した。由里がその背中に手を当てている。涼子は相当参っている様子だった。
「高木が…いや、というかちょっと待てよヨシノリ。それをなんでお前が知ってるんだ」
ヨシノリが顔を伏せた。
「ペットだった奴らが…何か、企んでるんじゃないかと思って、調べてみたんだ。もしかしたらあいつ以外の誰かなんじゃないかと思ってな」
「すごいな」
「無職だからな、ヒマなんだよ」
しかし、雪男以外の誰か、か。賢介は考えもしなかった。
「あいつは自分の会社を辞めるとき、《やり残したこと》があるって記者会見で言った。俺たちは、口には出さないけど、その模様を全員観たはずだ」
賢介はうなずいた。由里も小さくうなずいた。
「あいつがSNSをやっていることも俺たちは知ってて、安斉が死んでからはその動向にみんな注目してたはずだ。そうだよな?」
「…ああ、そうだよ。ずっと気になってチェックしてたよ」
ヨシノリは渋い顔をしてうなずいてから話を続けた。
「けど、SNSに投稿されるのは旅行先の写真ばっかりなんだ。陣内が死んだとき、あいつはたまたまブラジルにいたけど、安斉が死んだときや半村たちが死んだときは、あいつはカナダとアメリカにいたんだ。もしかしたらあいつは関係ないんじゃないか?もしも関係ないとしたら、その他のペットだった奴らが何かやってるのかも…って」
「ヨシノリ、それは違う。ペットたちの中でも序列があった。ホルスタインを除くと、ゲジゲジ→カビ→豚まん→サスカッチ。あいつは最下位だった。見ててわかってただろ?…人間はどんな状況下でもヒエラルキーを形成するんだ。弱いものはさらに弱いものを叩く。太古の昔から奴隷の中でも上下関係があった」
「そうなんだよ賢介。だからこそ、高木が車にひかれて死んでたって知ったとき、やっぱりあいつが犯人だって確信したんだ。高木の奴は俺たちの知らないところで、あいつをいじめていたんだろうな」
ヨシノリは意外に物事を冷静に分析している。昔からのんきでボーっとしているように見え、実は人一倍場の空気が読める男だった。安斉や万代に取り入るのも早かったのは、その才能のおかげだろう。
「で、他のペットだった奴らは?名前忘れちゃったけど、ゲジゲジと、あとホルスタインの代わりに陣内が連れてきたカビ」
「宇田川くんと和木くん」
由里が憶えていた。
「宇田川は私立の高校行ってから調理師専門学校に行って、今は神戸で板前やってるらしい。宇田川のおふくろさんから聞いたから間違いない」
「実家に電話したのか」
「ああ、今も神戸でがんばってるってよ。でも和木は何してるんだかわかんねえ。和木は両親がいなくて、婆ちゃんと二人暮らしだったんだ。あいつは高校に行かずに自衛隊に入ったってところまでは知ってるんだけど、今何やってんのかは知らねえ。昔住んでた家はもう取り壊されてないし、きっと婆ちゃんも、もう亡くなってんだろう」
和木。いじめに耐え切れず自殺した〈ホルスタイン〉六条の代えとして、飼育係の陣内が連れてきたペット。いつも薄汚れた制服を着ていてカビ臭かったから、安斉に〈カビ〉と呼ばれていた。しかしやはり安斉の一番のお気に入りペットは相変わらず〈サスカッチ〉のままだった。カビこと和木は、あまりイベントに呼ばれることはなく、印象が薄い。
「和木はこんなことはしないだろ」
「うん、そうなんだよな。和木は後から来たペットだし、俺の記憶が確かなら、〈人間ダーツ〉にも〈チェーンデスマッチ〉にも、〈写生大会〉にも〈水族館〉にも、一度も呼ばれてないはず。〈肩車〉は一回やらされてたかな」
ヨシノリは淡々とそう言った。
「早い話、安斉のお眼鏡にかなわなかった」
和木のセンは薄い。では、やはり一連の犯行は…
「じゃあ、やっぱりあいつなのね。あるいはあいつに雇われた何者か…」
そう言った由里に対し、ヨシノリがゆっくりとうなずく。
「いわゆる〈殺し屋〉みたいな人間を使ってるんだと思う。あいつは世界一周旅行しつつ、そいつに指示を出してるんだ。権田先生だってたぶん…」
「え!権田先生も?」
知らなかったらしい涼子が金切り声を上げた。
「どういうことヨシノリ君」
由里も続いた。
「言ってなかったな。権田先生も死んでたんだ。でも末期ガンだったし、病院で亡くなったから、あいつの仕業じゃないかもしれないんだけど、入院してた病院の理事長は味川と大学が同期で…」
ショックを受け動揺している涼子に説明するヨシノリの声を聞きながら賢介はぼんやりと考えた。
もう終わりでいいだろう。安斉、万代の顔役二人は既にこの世から去っている。賢介もヨシノリも、二人に比べれば小物だ。残党狩り?俺たちなんて殺しても、何の徳もないぞ。それに佐橋よ、もし一連の犯人がお前なのであれば、思い出して欲しい。俺は小学校時代、お前によくしてやったはずだ。その恩で、チャラにしてはくれまいか…
「謝りたい」
涼子が震える声でつぶやいた。由里が背中をさする。
「謝るって、佐橋くんに?」
由里を見て涼子がうなずいた。その疲れ切った目には涙がたまっている。
「私、本当にひどいことしてた。私は安斉君の隣で、それをずっと見てた。私はたぶん、みんなの中で唯一、安斉君の暴走を止めることができる立場だったかもしれないのに、それをしなかった。ただ、傍観してた」
由里が涼子の肩を抱く。
「私だって同じだよ涼子。万代くんもきっと同じ気持ちだった。私たち全員が、あの頃、おかしかったの」
コーヒーショップ、奥まった席。賢介たち四人はうつむいている。
「今朝のSNS見たか賢介」
ヨシノリが訊いてきた。
「いや、今日は見てない。更新されたのか」
「あいつ今、日本に帰って来た」
「マジかよ。だってまだブラジルに…」
「急遽帰国して、館山にいるようだ」
ヨシノリはスマートフォンを操作し、テーブルに置いてみんなに見せた。珍しく写真付きだった。館山駅、と書かれた駅舎をバックに、自転車にまたがったあいつが微笑んでいる画像。更新されたのは今朝の早い時間だった。
@Susquach
旅を一時中断、帰国しました。時差ボケ中にテレビをつけたら偶然世紀の瞬間を目撃!川村選手の金メダルに感動!おめでとう!
昨夜遅く、オリンピックの自転車競技で日本人選手が金メダルを獲った。それを意識した写真とコメントだった。
「戻って来てるのか…」
会いに行く、という考えが浮かんだ。
「どうする市来」
それを察したのか、ヨシノリが訊いてきた。
「どうする、だって?会いに行った方がいいとお前は思うのかヨシノリ」
ヨシノリは懇願するような目で賢介を見てこう言った。
「あいつとは小学校の頃仲良かったんだろ?お前から頼んでくれよ、こんなバカげた凶行はそろそろやめてくれって…」
誰が行くか。そもそも仲良くなんかない。
「バカ言うな」
そのとき、涼子が小さな声を上げた。
「更新された!」
震える指先で画面をスクロールする涼子。そこには新規に投稿された写真とコメントが映し出されていた。
@Susquach
館山最高!日本も捨てたもんじゃないね!二日間、ここに滞在します!
添えられた画像は、ホテルのテラスとおぼしき場所から海を望む風景だった。
「…のんきだな」
「本当に、この人が、安斉君たちを殺したの…?」
涼子の言葉を受け、賢介もわからなくなってきていた。しかし、あいつ以外に考えられないのだった。
夜遅くに自宅に帰りつくなり、賢介は仕事用のラップトップを立ち上げた。
賢介は仕事熱心ではないが、明日行われる大事な会議の用意を何もしていないことに気づいたのだ。嫌だが、中庸・平凡に生きていくにはそれなりに仕事もしなければならない。
なんとか資料を形にし終え、ざっとシャワーを浴びてベッドに入ったのは三時半だった。
あいつのことを考えなくていい分、仕事の方が楽かもしれない。そんなことをぼんやり思いながら、賢介は眠りについた。しかしその眠りは、電話の音で二時間後に遮られることになる。
「もしもし…」
由里からだ、というのはぼんやりとわかった。
「市来くん!涼子が死んじゃった…殺されたのよ!」
その切羽詰まったひとことにより、賢介は一瞬で目が覚めた。
高木和則 死亡
千野涼子 死亡
➏
会議に出ないわけにはいかない。由里の電話を受けてすぐに賢介は着替え、少し早めに出社した。警備員にオフィスを開けてもらい、資料をプリントアウトし、それらを会議に参加するメンバーのデスクに置いて回る。
早く来たからといって、会議が早く始まるわけではない。ただ、少しでも会議の時間が短縮されてくれればありがたい。会議が終わり次第すぐに、賢介は早引きして宇都宮に行こうと決めていた。
由里が錯乱していた。電話ではいまいち何を言っているのかわからなかったが、その口調は、涼子の殺され方が普通ではなかったことを物語っていた。
『次は私よ…!』
そう言って電話を切った由里の声が、耳に残っている。
由里を助けてあげたい。助けなければならない。ずっと想っていた人と、やっとその想いを共有できたのだ。賢介自身のためにも、由里を守ってやりたかった。
いつもは昼前に終わる会議は昼過ぎに終わり、賢介はイライラを募らせながら退社し、湘南新宿ラインに飛び乗った。電車の中で、由里とヨシノリとメールのやり取りをした後、賢介はぐっすりと眠ってしまった。目が覚めるとちょうど宇都宮で、賢介はこんな時でも眠れる自分が忌々しかった。
昨日と同様、由里が例の父親の大きな乗用車で宇都宮駅まで迎えに来てくれていた。駐車スペースに彼女の乗った車を認め、賢介はそれに乗り込む。乗るなり、由里が抱きついてきた。
「市来くん、私怖い…!」
「ああ、恐ろしいことだ。昨日一緒にいた人が…死ぬなんて」
賢介も、いまだに信じられなかった。昨日の夜、別れてから、まだ半日しか経っていないのだ。その間に、涼子は自宅で死んだ。
「…ヨシノリは?」
「まだ来てないみたい」
駅で待ち合わせていた。
「それで…殺されたっていうのは確かなの?」
由里がこくりとうなずく。
「どこで」
「それが…」
殺され方までは、電話では言ってくれなかった。
「言って。嫌だろうけど、知っておきたい」
由里は賢介から身体を離し、運転席に座りなおした。
「お風呂場で、素っ裸で、湯船にフタをされて…」
賢介は息を呑んだ。
「それって…」
由里はうなずいた。
「私と涼子は、〈重し〉だったから」
重し。そうだ。涼子と由里は、いじめには直接加担していないと思っていたが、唯一、直接かかわったいじめがあった。それは、旧校舎にあった大きなガラス製水槽に水を貯め、ペットだった人間を入れるという、安斉が〈水族館〉と呼んでいたいじめだった。
あれは人一人が寝そべって、やっと入れるぐらいの水槽だった。分厚いガラス製で、おそらく熱帯魚用。そこになみなみと水を入れ、裸にしたペットを入れる。それを安斉はじめ、みんなが鑑賞するのだ。
ただ水を入れた容器に人を入れても、出ようと思えば出ることができる。そこで木のフタが用意された。そして、そのフタの〈重し〉として乗っていたのが、涼子と由里だった…
「私も涼子も、充分恨まれる要素があった」
「けど、それは…」
水槽に入れられたペットには、呼吸用としてゴムホースが与えられる。口にくわえ、木のフタの隙間から出されたホースはしかし、安斉の手にゆだねられている。悪魔のような彼は握ったその先を時折指で塞いだり、あるいはタバコの煙を吹き入れたりする。そのたびにペットは水中で苦しそうにもがくのだった。
『ハハハ!見ろよあの顔、サイコーだぜ』
その様子を見て安斉は心底愉快そうに笑う。そして、このいじめにおいてもやはり、彼の一番のお気に入りはあいつだったのである。
『やっぱりサスカッチは一番反応がいいぜ!なあ万代』
相槌を打つ万代。愛想笑いをする取り巻き。ヨシノリ、そして賢介も…
「私たち、どこかで楽しんでた」
由里は小刻みに震えながらそう言った。
「もういい。そんなこと言うな」
「ううん、本当のこと。最初は嫌だった。でも不思議なことに、安斉君や万代くんたちと一緒にいると、慣れてくるっていうか、罪悪感がどんどん薄れていったのは確かで…」
集団催眠効果のようなものだろう。カルト宗教に似ている。
「板の上に座って、下から突き上げられる衝動や、水中でもがく音を聞いて興奮してた。最低よね、私も」
「やめろって」
懺悔など聞きたくない。
「涼子の次は私…」
涼子は自宅の風呂場で死んだ。
「とにかく、まだ殺されたって決まったわけじゃないだろ?」
「湯船にフタして溺れ死んでたんだよ?どう説明するの?」
現時点では自殺、事故、他殺の三つで調べが進んでいる、とのことだった。殺害だとした場合、真っ先に疑われるのは涼子の旦那だと思われ、ヨシノリの話では現に今、涼子の夫は事情聴取されているらしい。事故と考えるのは不自然である。溺れ死ぬにしても、自分でフタをするのはおかしい。
「誰かが殺したと?」
「ヨシノリ君も言ってたじゃない。あいつはプロの殺し屋を雇ってるのよ。ああ、私も殺されるんだ…」
身を乗り出し、由里の肩を抱いた。
「大丈夫だ。…なあ由里、いっそこのまま館山に行かないか」
とっさに浮かんだ考えだ。
「館山って」
「ああ、あいつがいる。昨日ヨシノリに言われたときは冗談じゃないって思ったけど、そうも言ってられない。次は俺かもしれない。その前にあいつに会って、謝るんだ。一緒に行こう」
その時、プップッとクラクションの音が聞こえた。ヨシノリの車が背後にいた。
「三人で、乗り込むんだ」
しばらく賢介を見つめた後、由里は小さくうなずいた。
「飛んで火にいる夏の虫だぜ、そんなの!」
嫌がるヨシノリを乗せ、由里の車が発進した。
「みすみす殺されに行く気か市来、正気じゃねえぞ」
「昨日はその気だったじゃないか」
「昨日は昨日だ」
「正気じゃない相手には正気で立ち向かっても無駄だろ。先手を打って、とにかく謝るんだよ」
ハンドルを握るのは賢介だった。
「あいつは館山にいる。二日間滞在するって話だ」
SNSはその後更新されていない。画像のホテル、あそこを探すのだ。
「とにかく二人はあいつの泊まってそうなホテルを探してくれ。ホテルのホームページに風景写真があるはずだ、あいつが投稿した写真に近い画像がきっとある」
館山はリゾート地だが、あいつが泊まるホテルとなるとそれなりに高級な宿であるはずだ。後部座席で由里が、助手席では渋々ヨシノリが、スマートフォンでホテルを探している。
「二人とも、そのまま聞いてくれ」
賢介は二人に言っておきたいことがあった。
「俺、あいつが嫌いだった。小学校で初めて会ったときから、中学の時も、そして今も。ずっとあいつのことが嫌いだ」
ヨシノリの視線を助手席から感じる。
「安斉にいじめられることになったとき、心の中ですっきりしてた。もっとやってくれ安斉、って、いつも思ってた。オモチャにされてズタボロになってるあいつを見て、いい気味だった」
二人とも何も言わない。軽蔑されても構わない、これが賢介の本心だった。
「それでもあいつは、ニコニコして俺に近づいてくるんだ。毎日のように安斉にいじめられても、放課後になると俺に会いに旧校舎までのこのこやって来る」
「…あいつだけだったよな、すすんでスタンバイしてるのは…」
ペットたちは、飼育係が管理する決まりになっていた。半村を筆頭に、陣内、石井がペットたちを連れてくるのだ。そんな中、あいつだけはいつも、誰よりも早く旧校舎に来ているのだった。
『市来くん、遊んでよ』
耳から離れないあのセリフ。遊びたきゃ遊んでやるよ。中学に入ってもまとわりついてくるあいつを、賢介は安斉のオモチャにしてやったのだった。
「俺はそんなあいつが不気味だった。安斉にオモチャにされてるときは苦悶の表情を浮かべてるくせに、あくる日になるとケロッとした顔で俺に近づいてくる。正直、気味悪かったよ」
安斉のサディスティックないじめに、一度も屈することなく耐え抜いたあいつ。
「ふと考えるんだ。おかしいと思われるかもしれないけど…悪いのは安斉じゃなくってあいつなんじゃないか、って」
「どういう意味だ?」
ヨシノリを一度見てから、賢介は話を続けた。
「安斉は確かに異常な奴だったよ。暴力を好むサディストだった。でも、安斉をエスカレートさせたのは、あいつだとも言える。中学入学したての頃の安斉は、そこまで異常じゃなかったんだ。そうだろう?」
助手席でヨシノリがうなった。
「それは…確かにそうかもしれないけど…市来くんの勝手な解釈よね?」
後部座席から由里の声。
「うん、俺の勝手な考えだ。でも安斉が、どんないじめにも耐えて、呼ばれなくても顔を出すあいつに、喜びつつもビビってたのは確かだ。ヨシノリは聞いたことがあるだろ、『俺、サスカッチが怖えよ』って何度か安斉が言ってた」
「聞いたことはあるけど、あれは冗談だろ」
「冗談かもしれないけど、冗談でも安斉が誰か他人を怖いって言ったことはなかっただろ?あれは、今考えてみると本音なんだよ。恫喝と腕っぷしで人を従わせる人間が一番苦手なのは誰だと思う?恫喝と腕っぷしが通用しない相手さ」
賢介たち三人を乗せた車は東北自動車道を南下し、首都高の中央環状線に入った。平日の二時、高速はどこも渋滞していない。
「アクアライン通れってナビは言ってるけど、どうなんだ?」
カーナビを見ながらヨシノリに尋ねる。
「いや、湾岸でディスニーの方行って、京葉道路から館山自動車道の方がすいてる」
賢介はその通りにすることにした。ヨシノリは以前、宅配便のドライバーをしていたので、首都圏近郊都市の道路事情に詳しいのだ。
「まあ、安いってのもあるんだけどな」
「そういう理由か」
そのとき、由里が後ろから身を乗り出してきた。
「ねえ、ここじゃない?」
ヨシノリにスマートフォンの画面を見せる由里。
「おー、そうだ、絶対ここだ!」
「わかったの?なんてホテル?」
バックミラー越しに由里の顔を見る。
「えっとね、『平砂浦オーシャンホテル』ってところ。すごいね、部屋の中に露天風呂がある」
「ヨシノリ、ナビに打ち込んでくれ」
場所はわかった。待ってろサスカッチ、直接対決だ。
「でもあいつ、一人で泊まってるわけないよな」
「友だちとか、取り巻きとか、会社の人とか…?」
なるほど。仮にも大会社の社長だった男だ。単独で宿泊しているわけはない。もしかしたら、家族と一緒とか?
「あるいは家族旅行…なあヨシノリ、あいつって家族はいないのか?」
「それなんだけど、ネットで調べてもあいつが既婚なのか、子供がいるのか、そういうことは一切載ってないんだよな。SNSはそれなりの頻度で更新するんだけど、プライベートは隠すタイプ」
普通に考えたら、結婚して子供がいてもおかしくない年齢。SNSに投稿されている画像には家族が写ったものは見当たらないから独身だと決めつけていたが、実際はどうなのだろうか。
「結婚してないと思ってた」
由里が言った。
「俺もそう思ってたよ。でも家族がいるのかも。だってあいつはついこの前まで南米にいたんだぜ。急に戻って来るってことは、何かあったってことだろ」
「なるほどな。仕事でトラブルがあったか、あるいは家族に会いたくなったか」
しかし、そんなことはどうでもいい。直接会って、一度話してみなければならない。そして、謝罪しなくてはいけない。
あいつに頭を下げるなんてごめんだ。俺はあいつのことが大嫌いなのだ。でも、自分が今後も平穏に生きていたいのだから仕方がない、謝罪で済むのならいくらでも頭は下げるつもりだった。
車は富津館山道路に入った。
「なあ深見さん、タバコ吸ってもいいかな」
「駄目。これ父の車なの」
「ちっ、しょうがねえな。しかしいい車だな。BMの7シリーズっていくらぐらいするんだ?」
「知らないわよ」
「一千万はしそうだなあ。深見んち、金持ちだったんだな」
由里の父親が何をしているかは知らない。が、もし今後結婚するとしたら、裕福な家庭の方が心配がないと思った。
「はあ…。俺たち、何やってんだろうな」
助手席からぼやくような声。賢介はそれに答えてやる。
「カッコつけて言うなら、過去を清算しに向かってるってとこかな」
「市来よ、清算って言うな。俺たち三人が死んで初めてチャラになるんだからよ」
「やめてよ…怖くなるじゃない」
由里が顔を覆って泣き出した。車内の空気が一瞬にして冷たくなる。安斉と、その恋人だった涼子が死んだ。万代は自ら死を選び、そして万代の元恋人、由里はまだ生きている…
「大丈夫だ、俺が守るよ」
バックミラー越しに由里を見た。後部座席に縮こまり、由里はまだ顔を覆っていた。
冨浦料金所を過ぎ、右手に海を望みながら進む。
『市来くん、遊んでよ』
遊んでやるよ、サスカッチ。
➐
あいつの泊まっているホテルの前に車を停めた。
「どうすんだよ市来」
車を降りるなりタバコに火をつけたヨシノリが訊いてきた。
「ノープランだよ。とにかくロビーに入ろう」
「いきなり突撃かよ?」
「いや。コーヒーを飲む。ちょっと疲れたよ」
お前と違ってこっちは午前中に仕事して来て、その上休みなしで房総半島の先っちょまで運転して来たんだ。
「コーヒーかよ。のんきだな市来」
どっちがのんきだ。
「帰りの運転はお前がやれよヨシノリ。俺は途中で降ろしてくれて構わないけど、深見さんをちゃんと送り届けてやれよ」
「ああ。…無事に解決したらな」
三人でロビーに入った。小さな売店を兼ねた喫茶店が脇にあり、そこに入ってコーヒーを注文する。ヨシノリはアイスコーヒー、由里はアイスティを頼んだ。
「さて、どうしようか」
声を潜めて二人の顔を見る。
「とりあえずフロントに言って、あいつを呼び出してもらうか、あいつの部屋を教えてもらうか」
「わかんねえよ。どうすりゃいいんだよ」
ヨシノリは頭を抱えた。
「深見さんはどう思う」
「そうね、待ってても仕方ないし…やっぱりホテルの人に訊くべきよね。だいいちこのホテルにいるかどうかもまだわかんないんだし」
確かに。写真で判断しただけなのだ。
「じゃあ訊いて来よう」
飲み物がテーブルに置かれた。
「私が行く」
「いいよ、俺が行く。このコーヒーが飲み終わったら」
「ううん、私が。こういうのは女の方が訊き出しやすいのよ」
飲み物に口もつけずに由里が立ち上がった。止める間もなく、小走りにカウンターへと向かって行く由里。
「おいおい、深見の奴行っちゃったぜ市来」
賢介は由里の後ろ姿を見守った。程よい肉付きだが、ウエストも足首もキュッと引き締まっている。この件が終わったら、めぐみときっちり別れて彼女と一緒になろう。そう心に決めた。めぐみに会わす必要なんてない。二人のことだ、他人にお伺いを立てることなどないのだ。
「お前ら、デキてんのか」
ヨシノリの言葉にドキッとした。
「そんな、別にそんなんじゃねえよ」
「デキてんだろ。隠すなよ、俺は場の空気を読むのが得意なんだよ。お前らの間に流れてるのは、恋人同士のそれだ。それぐらいわかるさ。出る台と出ない台は見極められねえけど」
バカにする様子もなく、ヨシノリはそう言った。
「市来、お前が深見のことばかり気にしてたのは、昔から知ってた」
「えっ」
誰にも気づかれていないと思ってたのに。
「ヨシノリお前はそういうところ鋭いよな」
「あれ、知らなかった?俺ってば意外と勘が働く男なんだぜ」
それには気づいていた。バカでお調子者を演じるのがうまい奴だとは思っていた。
「安斉は出しゃばりが嫌いだ。出しゃばった奴は淘汰されてきた。俺も、そして市来お前も、空気を読むのがうまいんだよな。余計なことは言わないで、必要とされたときだけ意見する。安斉の近くには自然とそういうイエスマンだけが残った。俺やお前、そして万代だ」
確かに。
「でも…一番多感な時期にそういう生き方を憶えちまうと、一生そのままなんだよな。大人になってから弊害が出まくりだぜ」
ここにも安斉の被害者が一人いたわけだ。
「ま、お前も深見も独身なんだ。何も障害はねえじゃん。応援するぜ」
ヨシノリはニヤリと笑って賢介の肩を叩いた。が、その顔を真顔にしてこう続けた。
「安斉もいねえ、元カレの万代もいねえ。お前と深見を邪魔する人間は…もう誰もいねえんだ」
由里が戻って来た。
「あいつはいるって?」
「うん。やっぱり最上階のスイートに夫婦で滞在してるみたい。お友だちのご家族はその隣に」
結婚していたか。
「それで、今部屋にいるのか?」
ヨシノリが訊く。由里は首を振った。
「出かけてるって。晩ご飯の時間には戻って来る。七時に席を取っているみたいだから」
賢介は時計を見た。もうじき六時になるところだった。
「ここで待つか?」
「どうすればいいかな。奥さんやお連れさんがいるみたいだし…本当はサシで話したいよね」
由里が言った。確かにその通りだ。
「じゃあ、車の中で待機だな。で、あいつが戻って来たらフロントに頼んで部屋に電話してもらって、ロビーに呼び出してもらおう。…でもとりあえず、俺はゆっくりコーヒーを飲む」
賢介は喫茶店のソファに深く腰掛けた。コーヒーはただ苦いだけでまずかったが、やはり昨夜もあまり寝ていないため、身体が疲れていたのだろう、ソファに身をゆだねると心地よかった。
ただ、気は張り詰めたままだ。
「なあ市来。あいつになんて言う?」
「…とにかく、俺は謝る。昔のことを詫びる。いじめがあったのは事実だし、俺が関与していたことに間違いはないんだから」
ヨシノリに答える。
「俺、あいつが怖えよ」
「俺だって怖いよ。でも謝りに来た奴をその場で刺し殺したりはしないだろ。あいつが別の奴にやらせてるのは確かなんだし、この場で直接何かをしてくるとは考えにくい」
「私は心を込めて謝る。殺されたくないもん」
「お、俺だって謝るさ」
ヨシノリが由里に言う。三人で頭を下げて誠心誠意詫びよう。
「さて、出るか」
ホテルを出て由里の車に乗り込む。ホテルの正面入り口が見える場所まで車を移動させ、そこであいつが戻って来るのを待った。
「なあお二人さん。ちょっと聞いてくれ…俺はこの三人の中でも一番の悪党かもしれない」
車の中、沈黙を破ったのはヨシノリだった。
「何だよ急に」
助手席をチラリと見やりながら賢介は言った。
「いや、もしかしたら安斉なんかよりもよっぽど悪党かもしれねえな」
「どういうことだよ」
「六条のことだ。俺は六条を殺した」
「は?」
ホルスタインこと六条は、中二から中三に上がる春休み中に自殺した。
「殺したってどういうことだよ。あいつは自殺だろうが」
ヨシノリは青い顔で首を振った。
「忘れもしねえ…六条が死ぬ三日前のことだ。六条本人が家に来たんだ。夜の九時ぐらいだったかな、俺を訪ねて来た。びっくりしたけど、近所の公園で、あいつからの話を聞いた」
六条が、死ぬ前にヨシノリと…?
「言ってなかったけど、六条と俺は同じ小学校でさ。ああ、深見さんも一緒だったよな。六条とは特に仲良くはなかったけど、俺の家は知ってたんだな、あいつ」
「殺した…って?」
賢介の問いかけは無視し、ヨシノリは話を進めた。
「六条はこう言ったんだ。『堂本くんたちも苦しそうだね』って。そしてこう続けた『安斉のヤロウを、ぼくが葬り去ってあげるよ』って」
ヨシノリはうつむいていた。
「俺は意味がわからなくって、六条に訊いたんだ。そしたらニヤニヤ笑いながらこう言ったんだ『ぼくが自殺して、今まで安斉がやってきたことが書かれた文書が出てきたら、どうなる?』って。六条は安斉の蛮行を、自らの死によって暴こうとしてたわけだ」
「…文書、って。六条は遺書めいたものは遺してないはずだろ」
「ああ。俺が機転を利かせた。自殺なんかするな、とにかく生きろ、なんて説得しつつ、六条が既に書き上げているという遺書を、読ませてくれないか、俺も安斉が憎いんだ、なんて味方のふりして。見せてもらった」
ヨシノリはお調子者でいい加減な男というイメージが定着しているが、実はけっこう頭がキレる男だ。努力家ではないから勉強こそからっきしだが、地頭はそれなりにいい。
「俺は六条をなだめて、奴が書いた遺書を見せてもらったんだ。それは遺書なんてもんじゃなかった。これまで安斉を中心に行われてきたいじめの数々が書かれた日記だったんだ。六条はそれを俺に見せながら満足げにこう言った。『遺書よりもリアルだろう?ぼくはこれを抱いて飛ぶんだ。安斉のヤロウをとっちめるには、これしか方法はないからね。ざまあみろだ!』なんてな。…けれども俺は、その日記が気に食わなかった。俺の名前こそ出ちゃいないけど、あんなのが明るみに出た日にゃあ、安斉だけじゃなくって俺らもとんでもない目に合う。そうだろう?」
ヨシノリは賢介に同意を求めた。
「俺はその日記を見てないから何とも言えないけど、でも読んだお前がそう判断したんだからそうなんだろうな。…で、お前はその日記を六条から取り上げたのか?」
「ああ。俺もどうかしてたんだろうな。安斉や他のメンバーを守るってわけじゃなくて、自分を守りたかった。警察沙汰になって、いじめに関与してたってことがバレるのが怖かった」
後ろの席から由里のため息が聞こえた。
「俺は最低だろう?六条の奴を説得するふりしつつ、邪魔な奴だ、って思った。だからあの晩、跨道橋に呼び出して、あいつから日記を奪い…橋の上から突き落とした」
ヨシノリの独白に賢介は息を呑みつつも、頭の中にはひとつの疑問が浮かんだ。
「ちょっと待てヨシノリ。橋の上から突き落としたって…六条はホルスタインって呼ばれてたぐらいなんだぜ、百キロはある巨体だったはずだ。お前ひとりで…」
と、そこまで言って後悔した。ヨシノリの顔がしわくちゃになっていた。
「万代くんよ」
突然、由里の震えた声が後部座席から聴こえた。
「私、万代くんから聞いた…」
その声に、ヨシノリが苦悶の表情を浮かべたままうなずく。
「俺は六条のことを万代に報告したんだ。あいつがいじめの詳細の書かれた日記を持ってるってことも。…あの日、万代は陣内と一緒にやって来た。陣内は高木を呼び出した。四人で嫌がる六条を担ぎ上げ、橋の上から下に投げ落としたんだ」
息を呑んだ。と同時に、賢介はペットである高木こと豚まんも死んでいたことに納得がいった。高木も事故で死んだわけではなく、復讐されたのだ。
「あいつは…六条は、トラックにはねられて…反対車線に転がって、さらに別のトラックに轢かれて…」
ヨシノリは頭を抱えた。思い出したくないのに、脳裏にこびりついているビジョンなのだろう。
「日記はその後、四人で燃やした」
ホテル前の駐車場、車内は重苦しい空気に包まれていた。賢介は今の今まで六条は完全に自殺だと思っていたから、その真相に驚いていた。何より、由里がそれを知ってずっと黙っていたことに、少し当惑している。
「悪ィ。ちょっとタバコ吸ってくるわ」
「おい、もうじき…」
「わかってる。一服したらすぐ戻るよ」
ヨシノリが車から降りて行った。そろそろあいつが戻って来てもおかしくない時間だったが、ヨシノリを引き留めることが賢介にはできなかった。彼もずっと罪の意識にさいなまれ続けていたのだろう。
「…あいつは中学時代の恨みを着実にはらしているわけだ」
同じペットとして無念の死を遂げた六条の分の仇も、あいつは代わりに討っている…
「私に幻滅したでしょ市来くん」
由里が言った。賢介は何も答えられない。
「人殺しの万代くんと、その後も平気で付き合い続けてた。あの頃は、おかしいな、とか、間違ってる、とか、そういうことを思わないようにしてた。だから平気だったの」
リンチを正当化する異常な集団心理が、あの頃の安斉グループには確かにあった。言いたいことも言えず、ただ安斉の顔色を窺って物事を進めていくという狂った心理が。こうするより仕方ないのだ、と自分に言い聞かせながら日々を消化していた。そう、自分自身がそうだったように…
「私は中学時代が憎い。何もできなかった自分が汚らわしい」
みんな、あの時代を悔いている。
「あれ以来、自分の本当の気持ちを押し殺すことがクセになってる気がするの。離婚したのも私に問題があったからかもしれない」
その気持ちはわかる。賢介自身、あの時期の呪縛が解けていない。
「私がいじめに関わったことは事実で、殺害にも間接的にかかわってる。だから私も、殺されても文句言えない」
由里が力なくそう言った。
「…いや。そんなことが許されていいわけがない。あの頃俺たちは子供だったけど、もういい大人なんだぜ?もちろん悪いとは思ってるけど、当時の復讐なんて間違っ」
「市来くん、前!」
ホテル前の車寄せに一台のミニバンが停車した。そこから降りて来たのは…
「あいつだ」
ロビーから漏れる光に映し出された顔。少し長めの髪に丸眼鏡、ピンク色のポロシャツ。SNSで見るのと同じ佐橋雪男だ。ジムに通っているせいか、昔は締まりのなかった身体は見事に引き締まっている。
「笑ってる…」
知り合いの家族だろうか、ホテルの正面入り口に立った雪男は連れの男性と談笑していた。そばに若い女性が二人。ひとりは雪男に寄り添っている。暗くて顔まではわからないが、彼の奥さんなのだろう。その周りを小さな子供がふざけて走り回っている。男の子を抱え上げ、ちょっと乱暴に振り回す雪男。男の子は嬉しそうにはしゃぎ声を上げる。彼の子供かもしれない。
「家族、ってこと?」
「SNSではプライベートなことは一切明かしてないからな…」
雪男にまとわりつく子供。雪男は屈託のない笑みを浮かべながら、その相手をしている。とても…人を殺めるような人間には見えない
「本当に彼が?」
由里がつぶやいた。確かに、本当に雪男の仕業なのか?という疑問が湧いてくるが、彼以外に安斉グループを次々に処刑するような人物はいないのだ。
「ねえ市来くん、私はもう、完全に彼の仕業だと決めつけてたんだけど…やっぱり全部、みんなが死んだのって偶然なのかな…」
そう思いたいのはわかる。今、こうして繰り広げられている光景を目の当たりにすると、雪男はすこぶるいい人にしか見えないのだ。
「いや…由里の言いたいことはわかるけど、あまりにも不自然だよ。安斉、涼子ちゃん、半村、石井、陣内、それに高木。権田先生と万代を省いても、俺らの仲間が次々と死んでるのは異常だ」
絶対偶然なんかじゃない。こんな偶然あってたまるか。
「俺、行く」
「ちょっと市来くん?まだヨシノリ君が」
「あいつは戻って来ないよ。一服がこんなに長いわけない」
バックミラー越しに見えていたヨシノリの姿が、いつの間にか見えなくなっていたことには気づいていた。
「行ってくるよ。由里はここで待ってて。雪男と話をしてくる」
「市来くん、私も」
その声を制し、賢介はドアを開けて外に出てから、後部座席の由里の顔を見る。
「なあ由里。これが終わったら…」
「…うん、わかってる」
うまく解決すれば、の話だが。ホテルへの道中、一旦立ち止まった賢介は、大きく深呼吸し、顔を両手でバチンと叩いた。
あいつと対峙する。
➑
どういうことだ。
「えっと、どちら様でしたっけ」
すべてが勝手な思い込みだったのか?
「確かにぼくは佐橋雪男ですけど」
安斉は本当に不慮の事故で死んだのか?半村と石井は、単に二人の間のいざこざで果し合いをしたのか?陣内は?涼子は?
「宮田小?宮田中学?ええ、ぼくの出身校だけど」
賢介は雪男の正面に立ち、その目を見た。
「佐橋…。俺は、市来賢介だ。憶えてるだろう?」
「いちき…」
雪男の顔がパッと明るくなった。
「市来くん?ウソでしょ、えっ、なんでここにいるの?館山に住んでるの?」
「いや…そういうわけじゃない」
わからない。本当にこいつは無関係だったのか?
「ユキオさん、先行ってますよ」
「あ、うん。じゃあ晩ご飯で、また」
雪男の友人らしき夫婦がホテル内へと消えて行った。子供もついて行ったから、あの子は雪男の息子ではないのだろう。
雪男は改めて賢介に向き直り、その手を差し伸べて来た。賢介はされるがまま、その手を握った。
「いやあ、何年ぶりだろうね!すごくひさしぶり!市来くんも旅行?家族旅行?ぼくはねえ、遊びに来てる。さっきの人たちと、妻とね。ぼく結婚したんだよ!」
「ああ、そうみたいだな、知らなかったよ」
「ちょっと前まで新婚旅行で世界中を回ってたんだ。まだ途中なんだけどね、ちょっと急用でこっちに戻って来て」
そういうことだったのか。
「市来くんは?まだ独身?」
「ああ」
「でもお付き合いしてる人はいるんでしょ?」
「ああ、まあ、うん」
「結婚した方がいいよ、結婚って素敵だよ!人生バラ色さ!素晴らしきかな人生!」
屈託のない笑み。ピュアなまなざし。曇りのない瞳はキラキラと輝いている。こいつ、やっぱり無関係かもしれない。雪男は賢介に顔を近づけ、小声で話し始めた。
「…お恥ずかしい話、三十過ぎまで女性経験ゼロだったんだよぼく。笑っちゃうでしょ?」
答えに困る。
「ずっとさ、寝る間も惜しんで仕事してたっていうのかなあ、ホント、駄目人間だったんだよぼく。朝から晩まで仕事漬けの日々で、そんな余裕もなかったっていうのもあるけど、ハンサムでもないから自分には縁のないものだと思ってたんだ、女性なんて。こんな顔だしさ、近づいてくるのはお金目当てだろうって決めつけて、相手にしてこなかったしさ。でもレイコと出会ってからすべてが変わった。ぼくにとって彼女は女神であり、マドンナであり、マーメイドであり、クイーンさ!愛って素晴らしいんだよ」
歯の浮くような言葉を臆面なく言い放つ雪男。
「ぼくはねえ、今失業中」
「知ってるよ。実は佐橋のSNS、時々のぞかせてもらってる。すっかり有名人だな。日本人で《サスカッチ》を知らない人間はいないんじゃないか。すごいよ、大成功だな」
「知ってたの?なあんだ、いつでも連絡くれればよかったのに。DMちょうだいよ。ぼくだって市来くんには感謝してるんだ。小学校の頃、ダメな奴だったぼくの面倒見てくれたし、中学の時だっていっぱい遊んでくれたし。サスカッチっていう社名も、元々市来くんがつけてくれたあだ名から取ってるんだし」
背筋が冷たくなる感覚。こいつは…本気で、中学時代のアレを遊びだと思っているのだろうか。雪男は時計を見た。
「このあとみんなで食事するからちょっとしか時間ないけど、立ち話もなんだし、そこの喫茶店で話そうよ」
雪男はロビー脇にある、さきほど賢介たちが入った喫茶店を指さした。
「ああ…そうだな。俺も、雪男に言わなきゃならないことがある」
「言わなきゃならないことって?」
言葉遣いや仕草が子供みたいだ。これが半年前まで世界的な企業のトップに立っていた男とは到底思えない。
「うん。喫茶店で話そう。と、その前に…」
「何?」
「もう一人、呼んでもいいかな」
由里も一緒に謝ろう。
「呼ぶって?誰を?」
「憶えてないかもしれないけど、すぐ連れて行くよ。喫茶店で待っててくれ」
賢介は由里の待つ車へ駆け戻る。何事か、と不安げな表情を浮かべ、由里が車から降りて来た。
「どうだった?」
賢介は首をひねりながら由里に答える。
「それが…よくわかんない。あいつにとっては、どうでもいいことなのかも」
「え?じゃあ、一連の出来事は、やっぱり彼の仕業じゃないってこと?」
賢介は斜めにうなずく。確証はないが、あの態度は演技でできるものではないと感じている。
「まだわからないけど、話した感じじゃ、まったく関係なさそうだ。どうだろう由里、さっきの喫茶店で今、あいつに待ってもらってる。少しの時間しかないけど、中学時代のことを二人で謝ろう」
由里は口を真横に引っ張ってから、賢介を見て大きくうなずいた。
「そうね。うん、謝りたい」
賢介は由里を伴い、ホテルへと向かった。こんな時なのに、海から吹きつける潮風が奇妙なほど心地よかった。
「え?市来くんの…恋人ですか?」
由里を連れて行くと、雪男が訊いてきた。
「いや、彼女は深見由里さん。憶えてないかな」
「深見…いやあ、ごめん。思い出せないな」
中学時代の、あの凄惨な記憶は、彼には残っていないのだろうか。
「万代くんって憶えてる?中学の頃の」
由里が上目づかいに尋ねる。
「バンダイ…えっと、時々遊んでもらった気がするけど、どんな人だったっけ。ごめん、当時のことあまり憶えてないんだよね、ぼく」
雪男はあっけらかんとそう言うと、白い液体を口にした。どうやらミルクのようだ。
「ぼくってあの頃ホラ、発達障害っていうか、早い話知恵遅れだったんだよね。お医者さん曰く、脳みその発育が十年ほど遅れていたらしいの。だから子供の頃の記憶って、どこかあやふやで…ごめんね、憶えてなくて」
嘘をついている気配はないのだった。
「それで市来くんと深見さんは恋人同士なの?」
「あ、いや、そういうわけじゃ…」
由里と顔を見合わせる。彼女の頬がスッと赤らむ。
「なんだあ、二人とも好き同士って感じだよ、結婚しちゃえば?ぼく、結婚してよかったなあって思ってるよ。相手がホラ、有名な人だから、まだ堂々と公表できないんだけど、結婚してよかったと思ってるよ」
「有名人?ご結婚された方って、どなたなんですか?」
由里が丁寧な言葉で雪男に訊いた。
「どうしよう。二人には言ってもいいかな。恩田レイコってご存知かな、コマーシャルに出てもらったのが縁で知り合ったんだ。本名は中嶋玲子って言うんだけどね」
「恩田レイコって、モデルで女優さんの?」
由里が驚いていた。
恩田レイコ。賢介も知っている女優だった。数々の連続ドラマや映画に出演し、コマーシャルでもよく目にする人気女優だ。半年ほど前、しばらく休業すると宣言したことは知っていたが、まさか結婚するためだったとは…しかも、佐橋雪男と。
「すごいな。あ、さっき隣にいた人がそうだったのか」
賢介は、ついさっきロビー前で雪男に声をかけたとき、隣にいた背の高い女性を思い出した。スタイルの美しい女性だ。大きな麦わら帽をかぶっていたため、顔つきまではわからなかったが、あれが恩田レイコだったのか…
「一緒にここに泊まってるのはレイコのモデル時代の友だちとその旦那さん。たまたま時間が合ったから来てもらったんだ」
「いやあ、すごいな」
学生時代に会社を立ち上げ、十年ほどで有名企業にし、それを惜しげもなく売り払って隠居、さらに人気女優と結婚と、誰もがうらやむ人生を謳歌している…
「結婚はいいよー、市来くん、深見さん。どうなの、二人はそういう関係なんでしょう?」
由里と顔を見合わせた。
「うん。そういう関係になりたいと思ってるよ」
「ほうらね。深見さんはどうなの?市来くんのこと」
「うん、えっと、まあ、そう思ってるけど」
「けど?」
「私ね、バツイチなの」
「えっ、そうなんだ。色々あるよね生きてるとさ。でもどうなの市来くん、そういうの気になる?別に離婚歴があろうがなかろうが…」
「いやいや、そういう話じゃなくて…ちょっと待ってくれ雪男」
変な展開だ。違う、そんなことを話しに来たわけじゃない。賢介はいつの間にかテーブルに置かれていたコーヒーを一口飲んでから雪男に向き直った。
「あのな雪男。俺たちは今日、お前に謝罪しに来たんだ」
「謝罪?えっ、何の?」
ピュアな瞳が賢介を貫く。胸がグッと痛んだ。
「…本当に何も憶えていないのか?」
「だから、何の話?」
雪男が時計を見た。友人を待たせているのを気にしているのかもしれない。
「安斉が死んだんだ。陣内、半村、石井も死んだ。千野涼子も死んだし、万代も死んじゃったんだ」
「安斉…」
雪男の顔が曇った。
「それって、中学の頃の人の名前だよね」
「そうだ。憶えてないのか?」
「安斉君…は、うん、なんとなく憶えてるなあ。みんな市来くんの友だちだよね?いつも一緒に遊んでくれてたなあ、ってぼんやりは憶えてるんだけどさ…でもみんな、なんとなくしか憶えてないんだよな。だってぼくホラ、さっきも言ったけど、お恥ずかしい話、十歳分知能の発達が遅れてたんだ。だから中学の頃っていうと、みんなが十四歳だとしたらぼくは四歳くらいだったわけ。…けど、みんな死んだってどういうこと?本当の話?」
賢介はうなずいた。この男、本当に憶えていないようだ。そしていじめられていた過去を、遊んでもらっていたと勘違いしている。
「ごめんね市来くん。小学校も中学校も記憶が曖昧なんだよ。でも、いつもそばに市来くんがいた。それだけでぼくは安心で、ホッとすることができた。それだけはしっかりと憶えているんだけど」
雪男はうっすらと笑みを浮かべながらそう言うのだった。そしてその顔を再び曇らせ、賢介に訊いてきた。
「でもどういうこと?みんな死んじゃったって?なんで?」
その『なんで?』を探してここまで来たのだ。
「あのね佐橋くん。私たち…あなたにとてもひどいことをしてきた、って過去を思い出して悔いているの。だから、今日、こうして謝りに来たの」
由里が声を詰まらせながら言った。
「謝る?ぼくに?みんなが死んじゃったのとぼくに謝るのと、何の関係があるの?」
由里、賢介を交互に見ながら目を泳がせる雪男。
「みんなが死んだことは事実として…そうだろうがそうでなかろうが、それよりも私たちは、あなたにひどいことをしてきた。早い話、いじめていたの。安斉君、万代くんを中心に行われていたことだけれど、私たちはそれを止めるどころか一緒になっていじめていたから…。心の底から悪いと思ってる。たとえあなたがそれらを忘れていても、当時の記憶にないとしても、私たちがいじめをしたという過去は事実で。だから…勝手かもしれないけど、あの頃のこと、許してちょうだい」
由里が頭を下げた。賢介も同じく、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。すまなかった、雪男」
テーブルに頭を擦り付ける。本当に、俺たちのしたことはこんな言葉の謝罪では済ませられない行為だった。
「ちょっとやめてよ二人とも。許すとか、許さないとか、そういう…」
「謝りたいんだ雪男。本当に済まないと思ってる」
「あらら…」
頭を下げる賢介の上から、当惑する雪男の声が聞こえる。
「いや、そんな。ねえ二人とも頭を上げてよ。ぼくはそんな…」
「勝手だと思うだろうけど、気が済まないんだ」
賢介は椅子から降り、床に土下座して謝った。由里もそれに続いた。
「えっ、やめてよ!とにかく頭を上げて」
しばらくの沈黙の後、賢介は立ち上がった。由里も顔を上げ、立った。雪男は困った顔をしている。
「ぼくはこれからディナーでね、みんなを待たせているから、そろそろ上のレストランに行かなきゃならない。君たちの真意はよくつかめないんだけど、別にぼくには二人から頭を下げてもらう心当たりなんかないよ。わざわざこんな房総の端っこまで来るほどの…」
「ごめんなさい、お話し中失礼します」
真横から女性の声。
「わっ…」
恩田レイコだ。彼女は笑顔で賢介と由里に会釈をしたあと、雪男の後ろに回ると、その肩にそっと手を置いた。
「この方たちは?」
それまでの周囲の空気が、一瞬にして総入れ替えになったほど、爆発的なオーラを放っている。
「ねえあなた、紹介してくださらない?」
優雅で気品がある。肌なんか透き通って輝いている。歯も真っ白だ。
「ああ、えっとね、中学の頃の友人。市来賢介君と、その未来の奥さん、深見さん」
「いえ、まだそんな」
「そうなんですか、すっごくお似合いですね!」
いい香りが漂ってくる。賢介も由里も、なぜか照れてしまい、彼女の顔を直視できない。顔もスタイルも整いすぎて、確かに雪男が言うとおり、クイーンのような女性だった。
「妻の玲子です。恩田レイコって名前で芸能…」
「存じ上げてます」
由里が即答した。
「今は佐橋玲子です。芸能のお仕事は、今はちょっと休んでおりますけれど、また再開する予定です」
前で手を揃え、たおやかに会釈をする恩田レイコ。指先が細くて美しい。
「すごく…お綺麗ですね、当たり前だけど。ごめんなさい失礼ですよねっ!あっ、去年の《怪しい捜査官》観ました、あれシリーズ化しないんですか?とても面白かった!」
由里が舞い上がっている。女性でも、美しすぎる女性を目の前にすると緊張してしまうものなのだろう。
「ありがとう。シリーズ化の話は出ているんですけど、私も結婚しちゃったし、どうなるかわからないの。あ、そうそう、まだ結婚してることは言わないでくださいね。なんか色々…彼の方はいいんですけど、CMとかの関係で、公表するのは控えなきゃならなくて」
「ええ、ええ、もちろん言いません、誰にも」
よくわからなかったが、彼女は確か栄養ドリンクのCMに出ている。バリバリ働くキャリアウーマンの役をやっていたから、結婚でそのイメージが崩れてしまうのをスポンサーが好まないのかもしれない。
「ごめんね市来くん、ぼくからもお願いするよ。彼女、今後もまだお仕事続けたいみたいだからさ。イメージが大事な稼業みたい。イメージが」
「わかってるさ、一切口外しない」
この世にこんな女性がいていいのだろうかと思うほど、恩田レイコは美しかった。しかしそれはあまりにも人間離れしており、美術館に飾られている彫刻を思わせる美ではあったが。
「あなた」
雪男は立ち上がり、賢介たちに背中を向けて妻のレイコと小声で何やら話し合っている。彼女は夫である雪男を迎えに来た。友人に夕食を待たせているのだ、早めに切り上げねばならない。
「市来くん、深見さん、ちょっと待ってて」
「失礼しますね」
雪男は妻を伴って喫茶店を出て行くと、二人でフロントへ向かった。喫茶店からフロントロビーはガラス張りになっていて、カウンター前に立った雪男たちがホテルの人と何やら会話を交わしている。
「綺麗な人…」
「ああ。すごい美人だ。欠点がまったく見当たらない。俺よりも背が高いんじゃないか?それなのに顔が小さい」
「九頭身よね。目も大きいし…同じ生き物とは思えない。なんだか自分が嫌になっちゃう、ふふふ」
由里は恩田レイコにすっかり魅了されている。
「すごいな、雪男のやつ」
地位、名声、金、そして美しい女性。彼は賢介と同い年にして、望むものすべてを手に入れている。それだけ努力をしてきたということだ。
「でも佐橋くん…本当に何も覚えてなさそうだね」
「うん。考えてみると、確かにあの頃のあいつは、まだ自我ってものが確立されていなかったのかもしれない。俺たちだって、例えば四歳五歳の幼稚園の頃の記憶なんかあやふやなように」
当時の雪男が、同年代と比べて脳の成熟が遅かったことは事実だ。もっとも、その後覚醒した頭脳は常人離れしていたようで、今となってははるかに頭脳明晰なのだろう。
「あの頃のことは、あいつにとって半分夢の中のできごとなのかもしれないな」
頭を下げて謝罪する賢介たちに対し、雪男はあきらかに当惑しており、それが演技には見えないのだった。
雪男が小走りで戻って来た。恩田レイコの姿はない。先に戻って行ったのだろう。
「ごめんごめん。いやあ、妻に言われてね、二人のために部屋を取ろうと思ったんだけど、このホテルにはもう空きがないんだって。レイコが今、近くの空いてるホテル押さえてくれたよ」
「いやいや、そんなのいいよ雪男。俺たちはもう帰るよ。明日も仕事だし」
隣で由里がうなずく。
「そんなこと言わずに。せっかく館山まで来たんだから泊まっていきなよ。日本の人は働きすぎ!今は夏だよ、バカンスしなきゃ。ハイこれ、そのホテルのパンフレット。海沿いに行けば車で十分ぐらいだって」
パンフレットを渡された。リゾートホテルのようだった。
「繁忙期だから、あいにくひと部屋しか空きがなかったようだけど、二人はそういう関係みたいだしいいよね。広い部屋らしいよ」
由里と顔を見合わせた。少し照れた目線がかわいらしい。
「支払いはぼくにつけるようにしといたから、気兼ねしないでくつろいで」
「いや、雪男それは」
「それぐらいさせてよ。友だちじゃないか」
友だち…。賢介は顔だけ上げて雪男を見た。そこには屈託のない笑顔があった。
「…お言葉に甘えさせてもらうよ雪男。時間取らせて悪かったな、奥さんたちも待たせちゃって」
「ううん、いいさいいさ」
賢介は立ち上がり、今一度深々と頭を下げた。
「今までのこと…本当に済まなかった」
由里も立ち上がり、賢介に倣った。
「…もうやめてよ二人とも。なんかよくわかんないけど、頭なんか下げられても困るよ。変だよ二人とも。心当たりないこと謝られても困るでしょ」
彼には本当にいじめられていたという自覚がないのだ。顔を上げると、雪男は気味の悪いものを見るような目でこちらを見ていた。
「とにかく、今夜はゆっくりして行って」
「ああ、ありがとう」
「じゃあまた…SNSからでも連絡してよ」
雪男はそう言い残すと、足早に喫茶店から立ち去り、エレベーターに乗って姿を消してしまった。
➒
「何だったんだろうな」
「うん」
テーブルに残ったコーヒーをすする。殺される覚悟で首を洗って行ったのに、肩すかしを食らった。もちろん、殺されなくて良かったのだが。
「てことはだよ、由里。あいつが…俺たちを恨んでいないとすると、じゃあいったいどこのどいつが、この一連の事件を企てたんだ?」
由里は答えない。わからないのだ。賢介だってわからない。
「ヨシノリ君が言ったみたいに、ペットだった残りの誰かの仕業ってこと?」
由里が言った。〈ホルスタイン〉と呼ばれていた六条は中学時代に死んだ、というか殺されている。〈豚まん〉高木も死んだという。あとは〈ゲジゲジ〉宇田川と〈カビ〉和木だが…
「ゲジゲジとカビは、さほど恨みを抱いてないと思うんだよな」
「えっと…宇田川くんと和木くんね。そうなんだよね…佐橋くんや六条くんと比べたら、ぜんぜん」
宇田川と和木には安斉グループを恨む気持ちはあるだろうが、雪男や六条のように、ダーツの標的にされて針を刺されたり、タバコの火を背中に押し付けられたりはしていない。この二名は、変な言い方だが『いじめ甲斐がなかった』。安斉の『ペットは四匹』という命令に従い、人数合わせでかき集められたのだ。賢介の憶えている限り、彼ら二人がサスカッチやホルスタインのような強烈ないじめを受けたことはないし、むしろ、中学三年頃にはペットというよりも飼育係に近い働きをしていた。ペットの中にも序列があったのだ。
「殺してやりたいほどの恨みがあるのは、雪男を除外すると、六条。でもあいつは死んでいるから…」
由里の顔を見た。
「六条くんの家族」
「自殺…自殺じゃないけど、高速に飛び降りて死んだ息子。ご両親は学校や警察にいじめがあったんじゃないか、って訊いただろうな。でも、いじめの事実はなかった。安斉に弱みを握られていた権田先生が隠ぺいしたから。六条の日記はヨシノリが処分した。教育委員会も警察も、当時はそれほど追求しなかったんだろう。けど六条が日記に書いていたことを、家族の誰かが知っていたとしたら?」
息子の唐突な死を、不審に思っていたはず。
「あのね」
由里が口を開いた。
「こんなこと言ったら失礼なんだけど…六条くんのご両親って、子供ひとりひとりに愛情を注いで育ててるようなタイプじゃなかった。あそこ確か兄弟たくさんいて、確か彼は四人兄弟の長男」
六条の家庭事情を言いにくそうに話し始める由里。
「私とヨシノリ君は小学校が同じだったから、家とかも知ってるんだよね。その、長屋みたいなところで、汚くて臭い犬がいつもつながれてておっかないの。お父さんはいつも作業服でウロウロして、昼間からお酒の匂いを…あ、こんなこと言っちゃだめよね」
「いや、由里の言いたいことわかるよ、ヨシノリからもどんな親かは聞いてる。六条の親御さんは、訴えを起こしたり、死んだ息子のために何かするようなタイプじゃないってな。息子を平気で殴る父親だってことも聞いたことがある」
言葉は悪いが、六条家はアカデミックではなかった。長男の仇を討つべく三人の弟たちが立ち上がり、安斉グループ全体への復讐を企てた、という熱い兄弟愛のリベンジストーリーは有り得るかもしれないが、それは空想の域を出ることはない。
「やっぱりどう考えても、一番しっくりくるのは、あいつなんだよな…」
しかしあいつは昔のことをちっとも憶えていない。そもそも過去なんて見ていないのだ。前しか向いていない。たとえいじめられたことを憶えていたとしても、もはやあいつの中ではちっぽけな出来事になっているのだろう。今となっては俺たちのことなんて…
「あの人は…きっと私たちのことなんて、眼中にない」
由里が賢介の思いを口に出した。
「ああ。そんな感じだった。住む世界が違うんだ」
コーヒーを飲みほし、賢介と由里はホテルを後にした。外に出ると海からの風が生暖かった。
車まで戻り、運転席に座った。助手席で由里が電話をかけている。
「駄目だヨシノリ君つながらない」
電源を切っているらしく、つながらないようだった。彼がいなくなって一時間以上経つ。
「電車で帰ったんだろうな。まったく、怖気づきやがって」
「どうする?」
「放っといていいでしょ」
ふと、妙な考えが賢介の頭をかすめた。…今、生き残っている人間。安斉グループにどっぷり属していた人間は、賢介を含めて三人。ヨシノリと由里だ。この二人のうちのどちらかが、この一連の騒動を巻き起こしているとしたら?ヨシノリ?由里?それまで考えもしなかった疑惑だった。が…
いやいや、何を言ってるんだ。動機がない。
「どうしたの市来くん、行かないの?」
「ああ、うん」
由里に促され、エンジンをかける。…意味も理由も動機もない。例えばヨシノリ。彼が安斉ほか、グループのメンバーを殺害する理由は?恨みがあったか?多少なり憎しみはあったかもしれないが、ヨシノリは上手く立ち回っていた。安斉個人に対して腹立たしいことはあったかもしれないが、その他のメンバーを殺して回る理由が見つからない。カムフラージュとしてグループの人間を殺害して回った?そんな面倒なことをするだろうか。由里にしたってそうだ。こちらはヨシノリよりも薄い。なぜ昔の友人を殺す?まったく理由が思い浮かばない。
あるいは…ヨシノリと由里、二人だとしたらどうか。この二人には共通点がある。それは、孤独だ。
「市来くん?」
「ああ、ここ出て、左に折れてまっすぐだったね」
車を発進させた。
そもそも人を殺すのに理由など必要ないのかもしれない。近年は理由なき殺害事件が増えている。『腹が立ったから』『イラっとしたから』でバットを振り上げ、『誰でもよかった』『魔が差した』でナイフを振り回す時代。安斉以下数名の殺害も、単なる《苛立ち》が原因なのではないか…?
ヨシノリは独身で実家暮らしだ。仕事も上手くいかず、家には病気のご両親がいる。好きなギャンブルに使える金は自己破産のせいで限られており、さぞかし不満は募っていることだろう。三十を過ぎ、同世代は結婚し、それぞれ家庭を持っている。自分の現状と比較して逆恨みしてしまうのは、想像に難しくない。自分がうまくいかないことを、人のせいにしたり、過去のせいにしたりするのは、誰だってあるはずだ。諸悪の根源ともいうべき安斉、そして万代がそれぞれ順風満帆な人生を築き上げていることに苛立ちを覚えたこともあるだろう。
由里にしたってそうだ。三十過ぎの出戻りで、肩身の狭い思いをしている。同世代の結婚や出産、子育ての情報だけが嫌でも耳に入ってきて、心中穏やかではないはずだ。
さりとて、こんな意味のない殺戮をして、何になる?
ウィンカーの音が鳴っている。
「何考えてるの?」
「えっ、いや」
由里が賢介を見ている。
「もしかしてヨシノリ君を疑ってる?」
「…そんな」
「それとも…私かな?」
賢介は由里を見た。目が笑っている。
「わかるよ。佐橋くんじゃないとしたら、いったい誰が?って思うよね普通。私もついさっき、市来くんのこと疑ったから」
「えっ、俺を?」
なぜ俺を。賢介は心外だった。
「だってさ、今まで十年以上宇都宮に来なかった市来くんが、安斉君のお葬式には来たんだよ。私あの時、単純に驚いたし、あれっ、来たんだ、って不思議に思ったもん。きっとみんなもそう思ってたはず」
「マジかよ…参ったな」
由里が笑ってうなずいた。そう言われてみると、確かに賢介の登場は不自然で、他の人たちからすれば意外だったかもしれない。
「確かに、ストレンジャーの俺が一番疑わしい」
賢介は頭を掻いた。
「でも…動機がないもんね。得もないし、恨みもそれほど。ヨシノリ君だってそう。ちなみに私もね、あしからず~」
そうなのだ。動機が希薄だ。中学時代は不快な思い出となって賢介の脳裏に焼き付いてはいるが、安斉たちを殺して回ったところでその記憶が消せるわけでもない。
海沿いの道路に車を走らせる。
「ごめん由里。俺、少しだけ由里のこと疑った」
「いいよ別に、お互い様。まだ私たち、お互いのこと知らないんだし。これから私という人間がなんとなくわかってきたら、私が人殺しなんてする人間じゃないってわかってもらえるはず」
「えっ、付き合ってくれるの?」
「もちろん。こっちから頭下げてお願いしたいぐらい。でもその前に、彼女サンときっちり別れてね。バツイチが偉そうに言っちゃうけど、そういうややこしいことしてる時間ないの私。正直、焦ってる。恥も外聞もないの」
「わかってる。待ってて」
考えるのはやめだ。もしかしたら本当に、安斉グループのメンバーをはじめ、その周囲で立て続けに死が訪れた出来事は、単なる偶然だったのかもしれないと思い始めている。なぜなら、それしか説明できないのだ。
たまたま、安斉がトイレで転んで死んだ。
石井と半村が仲違いをして決闘し、死んだ。
そのタイミングで、権田先生が病死した。
海外で陣内が事故死した。
六条殺害の手助けをした豚まんこと高木も死んでいた。
それらを受け、勘違いした万代が、自殺してしまった。
涼子は心労がたたって睡眠薬に頼り、風呂場で溺れ死んだ。
全部曖昧なのだ。確証がないし、警察の調べも済んでいる。ツッコミどころは随所にあるが、異論を唱えようがない状況。
「結局、奇妙な偶然が重なっただけか」
「うん…だってそうでしょ?佐橋くんを見て思わなかった?あの人、過去なんて見てない。っていうか、私たちのことなんてアリぐらいにしか見えてない」
「うん」
そうだ、アリだ。目では笑っていたし、柔和な顔つきを絶やさなかった雪男だったが、目の奥に暖かさは感じられなかった。友人の子供と遊んでいるときの目とは違ったのだ。最後の別れ際なんて、確かにあれは、由里の言うとおり、アリを見る目だった。ホテル取ってやったから、一晩泊ってとっとと帰れ。そう言われているような気がした。きっと奥さんにアドバイスされたのだ。彼女は芸能人、イメージを大事にする稼業。一般人に優しく接し、自己評価を上げるのはお手の物だろう。
「まあでも…腹は立つけど、あいつはめちゃくちゃ頑張ったんだもんな。俺たちのことがアリに見えるのは当然か」
「そうよね。《日本が世界に誇る十人》の一人だもんね」
「…はは、由里もちゃっかりチェックしてるんだな」
「そりゃ、まあね」
ぐうう、とその時由里の腹が鳴った。
「あれ?おなか減っちゃった?」
「お恥ずかしい。でもおなかペコペコなんです。何か食べない?」
その意見には賛成だった。賢介は車を走らせながらレストランを探した。何でもいい、どこでもいい。雪男に謝ったことで、どこか身体が軽くなっている自分がいた。
ファミリーレストランを探したが、結局見つからなかったので、個人でやっている定食屋のような店に入った。そば、うどん、カツ丼や天丼、その他各種定食など、メニューは豊富だ。
八時を回っていたが、店内はサラリーマンや作業服を着た中年客でそれなりに賑わっており、地元民だけが知る人気店といったところだろうか、びんビールを手酌で飲んでいる客が多く、半分居酒屋のような様相を呈している。
「悪いね、こんな店で」
「ううん、私こういう店好きよ」
店内の角、天井付近には赤い旧式のブラウン管テレビが置かれており、無音でオリンピック関連の映像が垂れ流されている。
「何にしようかな、どれもおいしそう」
「姉ちゃん、ここは魚だ。魚の定食頼みな」
横に座っていた工員風の男が、赤ら顔で教えてくれた。
「ありがとう。魚だって。どうしようかな」
かっぽう着姿の店員を呼び、二人それぞれ違う魚の定食を注文してから、賢介はおしぼりで顔を拭いた。その仕草を見て由里が笑った。
「何?おっさんみたい?」
「うん」
「おっさんだよ、もう」
少しだけ、ホッとしている。
「勝手なことだけど…肩の荷が下りたような気がする」
短い溜息をついた後、賢介は由里に言った。
「謝罪したから?」
「うん。やっぱりずっと…気になってたんだ、あいつをあんな目に遭わせてたこと」
「それは私も。安斉君が怖くて言えなかった。こんなことは間違ってる、って言えなかったあの頃の雰囲気」
「おかしいよな。俺たち安斉の恐怖政治にビビりまくってた」
いつもまとわりついて来る雪男のことは、嫌で嫌で仕方なかったが、あそこまでひどい目に遭わすつもりは、当初はなかったのだ。安斉の異常性は日に日に増していき、賢介たちはそのエスカレートするいじめについていけなくなっていた。けれども、無理をしてついていった。自分がいじめられないために。
「いいわけだよな」
「うん、私たちはひどいことをしてた。この罪は消えないと思う」
確かに由里の言うとおりだ。謝ったことによって多少は気が楽になったが、一度犯した罪は消えない。
食事が届けられ、賢介と由里はしばらく無言で箸をつついた。おなかが空いていたせいか、さほど期待していなかったせいか、料理はかなりおいしく、繁盛している理由がなんとなくわかった気がした。
「サバはどう?」
「おいしいよ。アジフライは?」
「うまい」
後ろに座った男が吸うタバコの煙が、由里の方へ流れてくる。
「席変わろうか?」
「ううん、平気。でも早くホテルでシャワー浴びたいかも。汗もかいちゃったし。なんかベタベタする、潮風のせいかな」
上気した顔を手で仰ぐ由里。
「確かに。早くシャワー浴びたいね」
寝るのはまだ別々だ。賢介がめぐみと別れてくれなければ付き合うことはない、と由里は言ったが、賢介は少しだけ期待した。
「旅行かい」
魚を頼め、と教えてくれた工員風の男が、くわえ楊枝で唐突に訊いてきた。
「ええ、まあ」
「どこに泊まるんだい」
「ええと…」
雪男からもらったパンフレットを取り出し、ホテル名を言った。
「おお、そこなら俺もやったところだ」
「やった、とは」
「配管。俺、配管工。バブルの頃に建てられたんだけどな、経営失敗して、しばらく手つかずのまま放置されてたのよ。十年ぐらいかな。んで、最近になって買い手がついて、リノベーションっつーの?耐震補強やら何やらすべて手ぇ加えてな。俺は配管やった」
「へえ、そうなんですか」
「ああ、でもあれだな、こないだまで内装やってたけど、もうオープンしたんだな。ま、元々夏前にオープンする予定だったんだけど、工事が長引いてて、秋頃って話だったけどな。ちなみに俺は配管をやった」
「そうですか」
賢介と由里は顔を見合わせて苦笑いした。おじさんは、少し酔っている。
「まあでも、あそこは絶景だよ。この辺りじゃ一番の…」
その時、店内がざわついた。
「この先の?」
「ゴルフ場に行く道だ」
常連だろう、知り合いに熱く語っている。
「パトカーが数台いてさ」
「人が倒れてたのか」
事件があったらしい。
「ひき逃げじゃねえのかい」
「いやいや、首から上がねえんだと」
由里と目が合う。
「…まさかね」
由里は笑った。
「ああ…じゃないさ」
現場は館山カントリーに続く一本道。この近くらしい。口にこそ出さなかったが、賢介も由里も、その遺体がヨシノリのような気がしたわけだ。もちろん、そうでないことを祈ってはいたが。
➓
雪男が手配してくれたホテルの駐車場に車を停め、由里と二人でフロントに向かう。地中海風の豪華なホテルで、内装もとびきりセンスがいい。素晴らしいリゾートホテルなのだが、二人とも口が重かった。色々考えているのだ。
奇妙な偶然が連続した、という結論で締めくくりたい。雪男が犯人だとは思えなかった。
フロントには長身の男が一人いるだけで、ロビーにも客の姿は見えなかった。時計を見るともう十一時を回っている。定食屋でゆっくりし過ぎたようだ。
「市来様、深見様…はい、グランドスイートのお部屋でございますね」
グランドスイート!驚いた。聞けばこのホテル最高の部屋なのだという。フロントの男性は部屋まで案内してくれた。
部屋に入った。開放的で、大きなソファが二つ。天井の高い大きな窓にはカーテンこそかかっていたが、おそらく日中は海が一望できるのだろう。寝室は別にあり、キングサイズのベッドが二つ並んでいる。
「うわー、素敵。こんな部屋、こんなベッドで寝たことない…」
由里が感動していた。確かに、ここまでいい部屋は賢介は泊ったことはない。
「参ったな。こんないい部屋。ラブホテルとかで充分なのにな」
冗談のつもりで言ったのだが、由里に目を細めて睨まれてしまった。
「冗談冗談。でも豪華すぎるよ。ロータリーに停まってた車見た?ロールスロイスのゴーストってやつだった。ここ、かなり高級なリゾートホテルだよ。パンフレットに書かれてる宿泊費もけっこうなお値段だし…雪男に悪いからさ、一般の客室が空いてるならそっちに移らないか?」
「えー、せっかく素敵なお部屋なのに」
由里はこの部屋が気に入っているらしい。さっきまで難しい顔をして考え込んでいたのに、部屋に入った途端心配はどこかへ吹き飛んしまったかのようだった。
「そうだけど、身の丈に合わないよ。このホテルなら一般客室でもきっと充分ラグジュアリーさ。このパンフレットの写真見てみ」
「せっかくの機会なのに…うーん、でも確かにそうね。佐橋くんがいくらお金持ちだからって、さすがにタダでスイートに泊まっちゃうのは失礼かも…」
パンフレットに載っている他の客室の写真も、それなりに高級感がある。
「フロントに電話してみるよ」
しかし、電話はなぜかつながらなかった。呼び出し音は鳴るのだが、誰も出る気配がない。
「電話より直接言った方が話が早そうね。私行ってくる、少しは働かなきゃね。市来くんずっと運転してたんだからちょっと休んでて」
由里は部屋を出て行ってしまった。賢介は大きなソファに端にちょこんと座り、これまた大きな画面のテレビをつける。先刻定食屋で耳にした殺人事件の情報を知りたかったのだ。ちょうどチバテレビでニュース番組をやっていて、現場からのリポートをしているところだった。
「首なし遺体、か」
ショッキングな殺人事件だ。ワイドショーが飛びつくことだろう。
「遺体の上半身は裸…青いジーパン…鎖のついた財布…黒いスニーカー」
ジーパン…。
ヨシノリの今日の服装を思い返してみる。人の記憶は曖昧だ、ジーンズをはいていたかどうかもうろ覚えだった。上は黒っぽいポロシャツを着ていたような気がするのだが…。ただ、鎖のついた財布。彼はウォレットチェーンをしていたような気がする。助手席に座っていたヨシノリが動くたびにジャラジャラと音がしていたのだ。でもそれがチェーンの音なのか、キーホルダーの音なのか、しっかり見たわけではないから定かではない。靴も黒かったかどうか。
他人であってくれ、と願っている。大型のテレビ、真っ暗な現場で深刻な表情を浮かべながら同じ内容文をリピートする記者が映し出されている。そこに、続報が舞い込んできた。
「『続報です。警察からの発表によりますと、遺体の背中にはタバコの火を押し付けたようなやけどの跡が複数見つかっているとのことです。繰り返します、頭部を切除された状態で発見された遺体の背中部分に、タバコの火を押し付けてできたとみられる複数のやけど痕が確認されました。現場からは以上です』」
タバコの跡…。
賢介はゾッとした。安斉や万代、そしてヨシノリが、雪男や六条の背中にタバコを押し付けて模様を描いていたことを思い出す。賢介はタバコを吸わなかったからそれに参加することはなかったが、肉の焼ける匂いと悶絶する二人の顔は、記憶にしっかりと刻み込まれており…
この首なし遺体がヨシノリであった場合…これは復讐に確定だ。安斉の凶行を知る何者かの仕業に違いない。雪男ではないと思いたいが、六条は死んでいるわけで…
突然ドアが開かれた。ソファの上、賢介は身体を飛び上がらせて振り返ったが、それは当然由里だった。
「市来くん、説明が面倒くさいから、ホテルの人に来てもらっちゃった」
先ほど部屋を案内してくれたボーイが由里の隣に立っていた。
「失礼します、お部屋の変更をされるということを伺いまして…」
「あ、ちょっと待ってくださいね。由里、ちょっと…」
由里を手招きし、ボーイに背中を向け、彼女の耳元で小声で言った。
「あのさ、もう泊まらずに帰らないか?なんだかとても悪い予感がする」
背筋がずっとぞくぞくしていた。
「帰る?今から?もう十一時過ぎてるよ」
「ああ…だからその、このホテルはあいつに知られてるから」
「あいつって、佐橋くん?私はあの人は本当に何もしてないと思うことにしたけど」
「そうなんだけど…ヨシノリが」
「えっ!…ヨシノリ君だったの?」
由里が大声をあげた。
「いや、まだわかってないけど」
「だったらそんなこと言わないでよ、縁起悪い」
咳払いに続いて、ボーイが声をかけてきた。
「あのう、申し訳ございません、何かお部屋に不具合がございましたでしょうか。あいにくお部屋の変更をご希望なされても、グランドスイートはこのお部屋限りですし、一般客室は満室、このお部屋よりも多少ランクの劣るセミスイートならばすぐにご用意できますが」
「あ、じゃあそちらでいいです。キャンセル、セミスイートに替えて。ね、それならいいでしょ?市来くん」
「ん…ああ、じゃあ」
「かしこまりました、ではそのように手配させていただきます。しばらくお待ちくださいませ」
由里はちゃっかりセミスイートを押さえてしまった。賢介は一抹の不安を憶え「あ、ちょっと」と立ち去ろうとするボーイを呼び止めた。
「すみません。勝手なお願いついでに、もうひとつ勝手なお願いをしていいですか」
「はい…それはどのようなご用件でしょうか」
「部屋を他に移ったことを、あまり多くの人に知られたくないんです」
ボーイは小首を傾げたが、すぐに笑みを浮かべ、小さくうなずいた。真意を測りかねているが、お客様のご要望にできるだけ添おうと思ったのだろう。
「ええ、かしこまりました。では…わたくし以外知らないようにさせていただきますが、何かの用事を申し付ける際やルームサービスをお頼みになられる際は、わたくし個人のPHSにお電話ください。これがわたくしの名刺でございます、お気軽に」
ルームサービスなど頼む予定はなかったが、賢介はボーイの名刺を受け取り礼を言った。沢田郁夫という名前と、電話番号が書かれている。
「ありがとう沢田さん」
「では、しばらくこのままお待ちください。お部屋にはすぐに移れるよう手配いたします」
部屋に二人きりになると、すぐに由里が訊いてきた。
「そんなに警戒する?」
「するさ。本当はすぐにでもここから逃げ出したいぐらいビビってる」
首なしの死体。ヨシノリではないように祈っている。あれがヨシノリであるとすれば、まだ雪男のセンは残っているのだ。
「私たちがここに泊まることは、誰にも知られてないでしょ」
「…あいつは知ってる」
「あいつあいつって、市来くんあのねえ、私原点に戻って考えてみたの。佐橋くんが犯人である場合、私たちに恨みがあるんだったら、もっと早い段階で復讐してると思わない?さっき会った時だって、やろうと思えばやれたでしょ?そもそも、あの人は私たちを見てびっくりしてたんだよ?」
「演技かもしれない」
「疑い出したらキリがないよ。全部単なる偶然が連続しただけだって、さっきそういうことになったじゃん」
「そういうことになったって言われても…」
由里はスマートフォンを取り出した。
「…ホラ、見てこれ。私もちょっと調べたの。〈遺体の年齢は四十代後半〉って書いてある。ヨシノリ君じゃないでしょ?まだ三十代前半なんだから」
地元民が利用するネット掲示板。確かにそう書かれてはいたが、そんな情報源は眉唾ものだ。というか、由里も気になって調べていたわけだ。賢介はスマートフォンを由里に返しながら謝った。
「まあ、でも確かに由里の言うとおりだな。その気になればあいつは俺一人の時にいつでも殺せたはずだな」
チャンスはいくらでもあった。プロの殺し屋なら、スタンガンを持った程度の相手など屁の河童だろう。
「神経質になりすぎてた」
「そうだよ。私もそうだけど、疲れてるんだよ。でも考えすぎて、不安になって、精神削ったあげく過去の亡霊にやられちゃうのは私は嫌!」
涼子や万代のように、自分を追い込むのは間違っている。由里はそう言いたいのかもしれない。
「お時間かかってしまって申し訳ございません。お部屋にご案内いたします」
沢田が現れて、賢介と由里を階下にあるセミスイートなる部屋に案内してくれた。
「充分だよ」
グランドスイートには劣るものの、居室と寝室に分かれており、広さも内装も素敵な部屋だった。由里も満足そうだ。
「それでは、何かございましたらわたくし沢田まで」
深々と頭を下げる沢田。胸に光る金バッジには、チーフコンシェルジュ沢田と刻まれていた。なるほど、万事そつのない応対だと思ったら、そういうことだったのか。
賢介と由里は大きな布張りのソファに並んで腰を下ろした。
「さ、市来くん。今夜はもう妙なことを勘繰るのはやめましょ。すべてが偶然で、最悪の事態が連続しただけなのよ」
「そうだな。俺も、ちょっと考えすぎだった」
なんだか、とても疲れている。
「私、シャワー浴びて来るね」
「ああ、どうぞ」
由里が立ち上がった。
「そうだ…市来くん、彼女サンとはどうなの?」
今その話か。
「ああ…うん。その、話はしたよ」
「なんて?めぐみさんだっけ」
「いやその、別れてはくれるんだけどさ…条件を突き付けられて」
「条件?」
賢介は頭を掻きながら由里を見た。
「驚かないでよ。めぐみは由里に会って話してみたいって言うんだ」
「私に?」
賢介はうなずいた。
「おかしいよな。ちょっと普通じゃないんだよ」
「えー、なんでだろう。どういう心理」
首を傾げる由里。
「曰く、どんな人が自分の彼氏のハートを射止めたか見定めて、それを今後の教訓に生かしたいんだと」
由里は眉根を下げて変な顔で笑った。
「意味わかんない。けど、向上心がすごい人ね」
「向上心は、確かに人一倍強いかも。転んでもただじゃ起きないんだよ、あの人は」
腕を組み、由里は真顔でしばらく考えた後、数回うなずいた。
「わかった。いいよ。伝えておいて、私は平気」
「すごいね。絶対断られると思ってた」
「そうねえ、負けるのが嫌い。私こう見えて、負けん気だけは強いの。泥棒猫と言われようがなんと言われようが上等よ、返り討ちにしてやるわよ」
こぶしを突き上げる由里。そうか。今でこそ丸くなってはいるが、こう見えて彼女は肝っ玉の据わった元ヤンキー娘なのだ。おかしな展開になってきた。
「ははは、そう伝えておくよ」
「いつでもそちらさんの都合のいいときにお会いしますって伝えて。今すぐ」
「え、今?」
「そう今。私、挑まれると燃えてくるタイプ。…そうよね、欲しいものは力ずくで手に入れなきゃね」
欲しいもの。俺のことか。ちょっと嬉しかった。
「じゃあ市来くん、私がシャワー浴びてる間に日時と場所を決めといて」
有無を言わせぬ態度でそう言った後、由里はシャワールームへ消えてしまった。
@Susquach
愛は人を変えます。ぼくは愛を手にしました。愛によって、わかることがあるんです。愛は偉大なのです。
黙っているつもりはなかったんですが、実は結婚しました。
ぼくにとって、やり残したこと。それは愛を手にすることでした。
二十代は仕事に突っ走ったぼくですが、しかしどこかで虚無を憶えていたのです。一旦仕事から離れて、愛する人と待っ正面から向かい合い、愛を育むことの大切さを学びました。愛なき世は無です。地位や名声、お金なんて二の次だったのです。
これからは、愛を優先して生きていくつもりです。
佐橋雪男、セカンドステージ突入です!
めぐみはワンコール目で電話に出た。
「元気?」
やけに声が明るい。
「ああ、元気と言えば元気かな。めぐみも元気そうだ」
「その後どう?新しい彼女は私と会ってくれそう?」
しっかり憶えている。勢いで言ったわけではなさそうだった。
「ああ…そのことだけど、彼女も会って話してみたいって」
「ほー。やるじゃない。なかなか肝据わってる子ねえ」
めぐみは嬉しそうにそう言った。由里も由里だが、めぐみも変わっている。
「で、いつ?」
「めぐみの都合のいいときで構わないらしい。彼女、実家暮らしでバイトだから、いつでもいいみたい」
「あらそう。ヒマな女なのね」
しばらく間があって、ノートをめくるような音がした。スケジュール帳を見ているのだろう。
「土曜日の十時は?」
「朝の?」
「朝に決まってるじゃない。夜の十時だったら二十二時って言うわよ」
バカにするような口調。こういうのが苦手なんだよな。
「わかった。伝えておく。場所は?」
「賢介の部屋」
「えっ、外じゃないのかよ」
「お店で金切り声上げられたら恥ずかしいでしょ?私はそんなことしないけど、その子が」
修羅場になることを想定しているようだ。
「…わかったよ。それでいいよ」
「よろしくー。なんだか楽しくなってきた!」
ケラケラと笑ってから、めぐみは電話を切った。
部屋を見渡す。グランドより劣っているのは広さぐらいで、セミスイートも造りや内装は豪奢だった。念入りにリノベーションしたのだろう、カーテン、絨毯、ドアやドアノブ、細部にわたっていちいち手の込んだホテルだった。
「ふう…」
なんとなくすべてがひと段落つきそうだった。中学時代の仲間がバタバタ死んだ。もちろん悲しいことだが、彼らの死が賢介の今後の人生に変化をもたらすことはなさそうだし、むしろ隠したい過去だったから、結果的には知る人が減って良かったとも考えられる。
心の奥底に長い間引っかかっていた、佐橋雪男への罪悪感も、直接会って謝罪したことにより、いくらかマシになっている。
さらに賢介にとっての幸運は、深見由里と再会し、彼女と親密な関係になれたことだ。すっかりあきらめていた中学時代の淡い恋。それがこのようにごく自然な形でリスタートできるのは、文字通り不幸中の幸いかもしれない。
もちろん由里とゴールインするには、めぐみという障壁をクリアしなければならないが、それも時間の問題だろう。めぐみが由里と直接対決したいのは、自分の負けを認めたくないだけなのだ。
「完全にスッキリとはしないけれど…」
どの問題も、完全に解決していないし、結論も出ていない。しかし…
「とりあえず、八割方終わった」
シャワールームから水の音が消え、しばらくして由里が出てきた。バスローブを羽織り、髪にはタオルを巻いている。
「あー、さっぱりした!」
その姿に、単純にかわいい、と思った。
「何もかも揃ってるよ、クレンジングから化粧水、乳液、保湿クリーム。パックもあるよ。いいのばっかりだから持って帰っちゃお」
顔をタッピングしながらこちらに向かってくる由里は、唇の色が薄くなっている以外はすっぴんでもさほど変化がない。中学時代から気づいていた。彼女は化粧などしない方が美しいのだ。
「やだ、あまり見ないでよ。お先でした、どうぞ入って」
「ああ、そうさせてもらうよ」
促されるままシャワーを浴びつつ、今夜はどうするべきなのか賢介は考えている。由里次第だが、賢介は今、彼女を抱きたい気持ちが溢れている。それは性欲ではあったが、愛おしさを多く含んでいた。この後シャワーから出るなり抱きしめ、ベッドに押し倒してもきっと由里は抵抗しないだろう。先ほどの表情から察するに、彼女は今、ホテルのムードにやられて恍惚感に包まれている。
「…よし」
そっと抱きしめて、反応を見てみよう。
シャワールームを出て身体を拭き、バスローブに着替える。髪を適当にドライヤーで乾かしてから、メインルームに入った。
由里はソファの背もたれに寄りかかってうたた寝をしているようだった、少し斜めにもたれかかったその後ろ姿に、賢介はそっと近づく。後ろから抱きしめるつもりだった。
「由里」
肩に手を触れた。反応はない。
「由里?」
両手で肩を持ち、揺さぶる。背後から顔をのぞき込む。由里の目が半開きだった。一瞬にして、賢介の全身から血の気が引いた。…まさか!
「由里、おい由里っ!」
室内に、ケラケラケラ、と由里の笑い声が響いた。
「…よしてくれよ、悪い冗談だ」
語気を強めて怒った。たくさん人が死んでる。涼子だって亡くなった直後だ。これは悪趣味な悪ふざけだ。
「ごめんごめん。怒った?」
「怒るさ。今はそんな状況じゃない」
由里は立ち上がり、賢介に近づいた。そして正面に立つと、下を向いたまま賢介の胸におでこを押し付けてきた。
「な、なんだよ」
由里の腕が、賢介の腰に回る。…これって、いいのか?
「ごめんね。怒らないで。不謹慎だったね、許して」
上目で謝る由里。
「いや、いいんだよ、わかれば」
腰に回った由里の手が賢介の背中で交差された。抱きしめていいのだろうか。
「由里…俺」
「めぐみさんは?」
誘っておいて、今さらそれはないだろう。
「今週、土曜の十時なら都合がいいって」
「夜十時ね」
「違うよ午前十時」
「えー、普通夜でしょ」
由里と俺は気が合うようだ。賢介はそっと彼女の身体に手を回した。ぴくん、とその体が反応した。
「止められないよ俺」
「フライングだけど、いいよ」
熱い吐息。
「既成事実作っといた方が、めぐみさんと対等に闘えるじゃん」
「…由里」
肩を抱いた。強く抱いた。それからは止まらなかった。引きずるようにベッドルームに連れて行き、激しく愛し合った。
薄暗い室内、ベッドの上。二人並んで天井を見上げている。
「ねえ」
「うん?」
「すごく激しかったけど…」
「ごめん」
「もしかして、恩田レイコを見て興奮してた?」
誤解だ。賢介は顔を横に向け由里を見た。
「そうじゃないよ。単純に、由里に興奮したんだ」
「ふーん。恩田レイコさんのこと見る目が普通じゃなかったから」
「そんなことないよ。彼女は確かに美しいと思ったけど、それは美術品を見て感動するような感覚だよ。そもそも俺はモデル体型には欲情しない」
「あー、何。それって失礼だよ」
賢介は笑って由里の身体を抱いた。
「これぐらいの肉感が、俺は好きなんだ」
「もう…」
その時チャイムが鳴った。由里と顔を見合わせる。
「何か頼んだ?」
首を振る由里。賢介はベッド脇の時計を見た。夜中の一時を少し回っている。こんな時間に何事だ。
「…行ってくるよ。ここで待ってて」
賢介はバスローブを着てドアに向かった。
「はい」
「客室係の沢田でございます」
さっきのボーイだ。チーフコンシェルジュの沢田。
「何か」
ドアを開けずに訊き返す。
「市来様にお荷物が届いておりました」
「荷物?誰から」
「佐橋雪男様、という方からでございます」
雪男。賢介はしばらく考えてからドアを開けた。沢田が白い箱が乗ったサービスワゴンの脇に立っている。
「お休みのところ、大変失礼いたします」
沢田が頭を下げた。
「佐橋雪男がこれを持ってきたのか?」
賢介は沢田に疑いの目を向けた。沢田はしかし、柔和な表情を崩さぬまま答えた。
「わたくしは応対しておりませんのでわかりかねますが、係の者からそう伝え聞いております。こちら、市来様がこのお部屋に移られた直後、フロントに届けられたそうです。他の客室係がグランドスイートまで届けに行ったのですが、当然ながら市来様は不在でして、しばらくフロントの方でお預かりしていたようです。こちらに移られたことはわたくししか知らなかったので、わたくしが荷物に気づいた時にはこのような時間になってしまいまして。生ものだということで、わたくしもどうしようか悩んだのでございますが…失礼を承知でお届けすることにいたしました。こんな時刻になってしまったこと、誠に申し訳ございません」
受け取りたくないが、受け取らないわけにはいかない。
「ああ、別にまだ寝ていなかったからいいですよ」
沢田は箱の乗ったワゴンを押し、室内に運び入れた。
「メッセージカードも添えられております」
封筒が箱の脇に添えられてある。
「それでは、わたくしはこれで。おやすみなさいませ」
沢田は頭を下げて帰って行った。賢介はドアにロックをかけた。
「なんだったの?」
メッセージカードの中を見る。
『お似合いの二人へ 君たちは一緒になるべき!結婚はいいよ! 佐橋雪男』
小学校時代から進歩していない、雪男の下手くそな文字だった。それを由里にも見せる。
「…変なの」
「ああ、変だよな。やっぱおかしいんだよあいつは」
「ケーキね」
「ああ」
「食べちゃおう」
「ホールを二人で?」
由里が箱に手をかけた。テープをはがし、上蓋を開ける。賢介は冷蔵庫に向かった。小さなキッチンスペースがあり、そこにお皿やフォークがある。紅茶でも淹れようと、ポットに水を入れた。小さな棚にはドリップ式のインスタントコーヒー、そして紅茶のティーバッグが何種類か置かれている。賢介はアプリコットティーを選んだ。
「ギャー!」
何事か、と由里の元に向かう。彼女はワゴンの横で転倒していた。
「箱、箱」
立ち上がり、賢介にすがりついてくる由里。見開かれた目線の先、箱の中には…
「うっ!」
首。人間の首だ。
「ウソだろ…」
「市来くん!市来くんっ!」
服を引っ張られる。由里もパニックだが、賢介もそれ以上にパニックだ。少しクセのある前髪、細く整えられた眉、その生首は、ヨシノリだったのだ。
「ヨシ…ノリの」
「やだっ、やだっ、市来くん!」
半狂乱の由里。
どういうことだ。やはりあいつが?
考えがまとまらないが、次に狙われているのは間違いなく…
「逃げよう」
由里の腕を掴んで一歩踏み出したそのとき。部屋のすべての照明が落ちた。
「きゃああ!」
由里の絶叫。停電?
「落ち着こう、ドアはこの先だ」
しかしそのとき、それとは別の方向からドアが開かれる音がした。漆黒の暗闇の中、背後に人が近づく気配を感じたときにはすでに遅く、賢介は何か硬いもので後頭部を叩かれ膝から崩れ落ち、そのまま気を失ってしまった。
堂本義則 死亡
⓫
ズン。腕、手首。ちぎれそうな痛みが走った。
「あらら」
ゆらゆらと、自分の身体が空中で揺れている。
「やりすぎよ柳」
「申し訳ございません、手加減したつもりだったのですが」
「あなたって加減がわからないのね」
「人間は壊れやすい」
男女が話す声が聴こえる。
「何これ、オシッコ?」
「失禁しましたね」
「どっちが」
「二人ともです」
「嫌だわあ、ようやく内装が終わったっていうのに、床に染みないかしら」
「ブルーシートで養生してありますので」
「あとできれいにしといてよ?わかってる?」
「もちろん。三日後のオープンに支障をきたすわけにはいきません」
「わかってるのならいいのよ」
夢でも見ているのだろうか。いや、腕と手首に走るこの痛みは本物だ。
「これ以上オープンを先延ばしにするわけにはいきませんよね」
「わかってるじゃない。…バブル時代の遺産を買い取ってリノベーションし、高級リゾートとして復活させた。あの人のお金でこれから私は好きなことを何でもできる。夢だったのよ、ホテルのオーナー。そしてあの人と一緒にペントハウスに暮らすの」
「素敵なホテルだと思います」
男女ともに聞き覚えのある声だった。視界が徐々に確かなものに変わっていく。しかしとにかく、両手が、ちぎれるほど痛い。
「ホテル経営なんてコスパが悪い、ってあの人は呆れてたけど、私思うの。これからはちゃんとした実体のあるビジネスで、地に足つけて商売するべきなのよ」
場所は…さっきと同じホテルの部屋だ。しかし視点の高さが違う。そして視界はゆらゆらと揺れていた。ぼんやりとした視野に、男女の姿が浮かび上がる。
「そういう時代にシフトしていく。あの人お得意のネット関連ビジネスも、そろそろ頭打ちで出尽くした感があるでしょう?元々詐欺まがいが横行していた業界だし、ビットコインの終焉で不信感だけが残っちゃって。だから足を洗わせたの」
「ご結婚を機に?」
「あの人が今まで稼いだお金は、今後もっと実体のある事業に投資していくべきなの。モノを作って、動かして、売らないと、経済なんて回っていかないんだから」
「さすがですね」
「あの人はもう私のトリコ。私の言うことなら何でも聞いてくれるわ」
「わたくしのように」
「そうね。柳、あなたも同じね」
「わたくしはあなた様の完全なる奴隷です」
「気分がいいわ柳」
男女はよくわからない会話をしている。
「柳、あなたには申し訳ないと思っているのよ。こんなことばかりさせちゃって」
「いえ。わたくしはあなた様のためになることをするのが至上の悦びでございますゆえ」
何の話だろう。賢介は体をひねり、会話する男女の方へ顔を向けた。
「あの人もそう言ってくれたわ。ただ、ごめんね柳。私は本気であの人に惚れてしまったみたいなの」
「…それは」
「こんなことは今までなかった。だから、あの人のためになることをやってあげようと思って。ごめんね」
「いえ。わたくしは、女王恩田レイコ様の奴隷です。奴隷に情けなど無用でございます」
恩田レイコ。
「奴隷が恋愛対象になれるはずがございません。対等な立場ではございませんし、結婚など考えたこともございません。…わが国でも指折りの実業家である佐橋雪男氏を手玉に取り、その庇護と寵愛を受けておられるレイコ様は、もはやリアル・クイーンの立場を揺ぎ無いものにされておいでです。わたくしはそのクイーンのお傍にいられるだけで幸福なのでございます」
「クイーン。そうね。そしてあの人はキング。私はキングにはキングらしく振舞って欲しい。心の底からそう願ってる」
「御意」
賢介は男女の顔を見た。恩田レイコと、着ているものこそ先ほどとは違えど、コンシェルジュの沢田がそこに立っていた。
「あら、お目覚めのようね」
レイコが賢介の見開かれた目に気づいた。
「私の愛する夫を貶め、卑しめ、傷つけた張本人、市来賢介。キングを思うままにコントロールできるのは、クイーンだけ。過去のことだとは言え、夫を凌辱し続けたという罪は消えない」
「あんただったのか…」
恩田レイコ。佐橋雪男の妻。
「雪男はどこだ」
しかし恩田レイコはそれには答えなかった。
「夫の身体には無数の傷がある。背中なんて特にひどい。…市来さん私はね、サドなの」
「…は?」
何を言ってるんだこの女は。
「そして夫、佐橋雪男はね、真性マゾなの。初めて会ったときから私たちは惹かれ合ってたわ」
「うう…」
とにかく腕が限界だった。縛られた縄が手首に食い込み、ちぎれそうに痛いのだ。とにかく降ろして欲しかった。
「手が痛そうね。縄が手首に食い込んで血が出ているわ」
「降ろせ」
「ふふ。足元をご覧になって」
賢介はレイコに言われるまま足元を見た。そして驚愕した。一面に青いシートが敷き詰められた部屋、吊るされた賢介の足元に、濡れて横たわっている女がいた。
「…!由里っ!」
笑い声。レイコが口に手を当てて笑っていた。
「市来さんが考案したんでしょう?〈肩車〉でしたっけ。夫は憶えていなかったけれど、他の方から聞きました」
他の方?
「宇田川さんと和木さんって方。夫は当時のことはうろ覚えでね、だから彼らを捕まえて事情聴取をしたの」
「宇田川と和木…」
「お二人とも、もうこの世にいないけど」
なんてことだ。
「あの二人は…無関係で、むしろ被害者だ」
「どうかしら。安斎がペットと呼んでいた数人の中にも序列があったみたいじゃない。弱者はより弱者を痛ぶる。もしかしたら彼らが一番最低な人種なのかもしれない」
「…だからって、殺したのか」
「どうなの柳」
柳が無表情のままうなずいた。
どうやら一連の殺害はこの女、恩田レイコの手によるものらしい。雪男は…関与していない?
「〈肩車〉〈人間ダーツ〉〈水族館〉〈デスマッチ〉〈写生大会〉…安斉の飽くなきサディズムに応えるべく、あなたが考案した数々の拷問。なかなかのアイデアマンよね」
俺が?賢介は首を振った。足元に転がっているのは由里の動かぬ身体。ブルーシートの上、それは無残な姿をさらしている。
「くそう…!」
体をばたつかせたが、さらに腕にロープが食い込んだだけだった。
「憶えてないのかしら」
肩車…。そういえば、そんな催しを企画したおぼえがある。旧校舎の天井、梁の部分にロープをくくりつけ、両手を縛られた状態のペットを一人吊るす。吊るされたままだと全体重が手首のロープに掛かり、今の賢介のように手がちぎれそうになるわけで、それを回避するべく、もう一人のペットが下で肩車をしてあげるのだが…
「由里に、下をやらせたのか!」
レイコに怒鳴った。
「仕方ないじゃない。深見さんしかいなかったんだから。堂本さんは逃げちゃったし。ていうか、本来あなた方には然るべき罪を、然るべき時と場所で遂行する予定だったのよ。なのにこんなところまで乗り込んできて…困るわ、このホテル、もうじきオープン控えてるのに。汚れ落ちるかしら」
「大丈夫です。シートを敷いてありますから」
沢田、いや柳が答えた。
「私はね、愛する夫が凌辱されていたことが許せない。もう本当に、怒り心頭。この気持ちを味あわせたくて、あなたの恋人のめぐみさん?でしたっけ。彼女にも同じ気持ちを味あわせるつもりだったのよ。数日後に中野のあなたのお部屋でね、お二人で死んでもらおうと思って、その計画も立ててたのに。ねえ柳」
柳は小さくうなずいた。
「なのにあなたはこの深見って女と、堂本って男と、ノコノコ館山に現れた。予想外のことよ」
レイコの傍らに身じろぎひとつせず立つ柳。鋭い目つきが不気味だった。
「お前ら、由里を…殺したのか」
足元の由里はピクリとも動かない。
「その女?どうかしら。生きていたとしても虫の息ね」
「なんてことを…!」
「下品でいやらしくて汚らわしい女。女というよりもはや雌犬ね。いずれ千野涼子と同じように〈水族館〉してもらうつもりだったけれど、あなたたちがそういう関係だったとはさすがに気付かなかったし、まさかこんなところまで来るとは思ってなかったから。それで急遽計画変更、彼女には肩車の下台をやってもらうことにしました」
「由里?おい由里っ、起きてくれ!」
ぎりり、手首にロープが食い込む。賢介の肘から上腕にかけて、擦り切れた箇所から流れた血が伝い落ちている。由里の反応はなかった。
「ふふふ。彼女なりにがんばってたのよ?あなたを助けようとしてた。柳に何度もお腹を殴られても、あなたを守るために必死で立ち続けてた。さすが元ヤンキーね、根性がある。でも柳がはりきり過ぎちゃって、ナイフで背中とかツンツン刺しちゃったのよね…」
「申し訳ございません」
レイコは乾いた声でひとしきり笑ったあと、急に表情を硬くさせて賢介をにらみつけた。
「市来賢介。あなたは安斉グループの中で、もっとも罪深い人」
賢介は負けじとレイコをにらみつける。
「よくも…よくも由里を」
「今すぐ救急車を呼べば助かるかもしれないわよ。もっとも、それはかなわぬ願いだけど」
「呼べよ、救急車を!」
再びカラカラと笑うレイコ。
「呼ぶと思う?私は夫に代わって復讐をしている立場なのよ?あなたの足元に寝転がってるその女は、私の大事な人をひどい目に遭わせた。然るべき代償を払うべきでしょう。それは死以外にあり得ない」
「頼む、助けてあげてくれ。彼女は何も悪いことはしていない」
「嘘。ペットの方たちから聞いたわ、一緒になっていじめてたって」
「それはだから、仕方なく」
「あなたもそうなの?市来さん」
切れ長の目をさらに鋭くさせ、レイコはギロリと賢介を見た。
「夫のことを好きにしていいのは、この世で私だけでいいのよっ!」
狂ってる。
「ふう。…柳、市来さんを降ろして頂戴」
軽くうなずいた柳はブルーシートの上に足を踏み入れ、ガサガサと音を立てながら賢介に近づいて来た。手にはランボーが持っているようなサバイバルナイフが握られている。吊るされた賢介を一べつすると、脚立に乗り、天井から吊ってあるロープを切った。
どさり、とシートの上に落ちる賢介。ちょうど横たわる由里と、顔が向かい合わせになる。
「由里…」
反応はない。が、かすかに息をしている。と、次の瞬間脇腹を思いっきり蹴られた。呼吸が、できない。
「柳。その二人は一緒に包んで、市来さんの恋人のおうちに届けるっていうのはどうかしら」
「いい考えですね」
「…おまえら…!」
賢介は縛られた足のまま、柳の足元を蹴った。しかしそれは、ちょっとかすっただけに終わった。柳が、そしてレイコが嘲笑した。
「窮鼠猫を噛む、とはいかなかったようね」
「許さないぞ」
「アラ怖い。けどご自身の状況見て言って下さらない?」
ガサガサと音を立て、シートの上を歩く柳。しゃがみこみ、ナイフを賢介の顔に近づけてくる。冷徹な目だった。
「あなたはここで死ぬの、柳に殺されちゃうの。オシッコまみれになって、その女と二人一緒に包まれちゃうの。それは確定してるわ」
柳のナイフの切っ先が、賢介の目のわずか五センチの距離にあった。
「あ、ちゃんと説明しとかないと。ちょっと待って柳、一時停止」
そう言われた途端、ロボットのように柳はパッと立ち上がった。
「諸悪の根源、影の支配者、市来賢介!」
芝居がかった声色。
「これより己に罰を与える!」
柳が手首に巻かれたロープを引っ張り、賢介を無理やり立たせた。
「死を持って償ってもらうわね」
目の前、サバイバルナイフ。そこに映っていたのは、自身のおののく顔。
なんでこんなことに。
「…待ってくれ!俺は謝った!しっかりと罪を認め、雪男に謝ったんだ。心の底から謝罪した。そして雪男は許してくれたんだ!」
「見苦しいわよ市来さん。あの人が許しても、私が許してないじゃない」
レイコがブルーシート上に足を踏み入れた。
「雪男を呼んでくれ、あいつは俺を恨んでないはずだ。俺は雪男には友だちだと思われてる」
「確かにそう言ってたわね…けど夫はね、当時のことをあまりよく憶えていないのよ、ご存じ?」
「でも本人が」
手のひらを向けられ、口を制された。
「私の夫は、あなたとその仲間たちによって、中学時代に恒常的にひどい暴行を受けていた。夫はよく憶えていないみたいだけど、夫の背中にある無数の傷がそれを物語っているし、宇田川くんや和木くんからの証言でそれは裏が取れているわ」
カサ、ガサ。紫のエナメル靴、そのヒールがシートの上に鋭い谷間を作る。
「彼ら二人はこうも言ったわ。安斉誠はリーダー格には違いないし、イカレた男だったけれど、いじめのバリエーションを考案し、いじめられている佐橋雪男を眺めて心底楽しんでいたのは市来賢介だって」
俺が…?確かにいくつかのアイデアは出したかもしれないが、それは大きな誤解だ。例えば〈肩車〉にしたって、考案者はヨシノリだったはず。というか、安斉に命令されいじめのバリエーションを考え出していたのは賢介だったかもしれないが、それをより残忍な形にしたのはヨシノリだったのだ。
「誤解だ」
レイコはかぶりを振った。
「私は柳に頼んで、あなたという人間を調べました。安斉グループの中ではあなたが最も賢く、さらにしたたかさも兼ね持っている人間だと位置づけている。出身大学や現在お勤めの会社、社会的地位もダントツでトップ。安斉誠や万代真也、ましてや堂本義則には、とてもそんな才気はないのよ。堂本さんなんて、自己破産経験してらっしゃるんですって?」
待ってくれ。ヨシノリなんだ。あいつは低学歴でギャンブル狂いだけど、実は地の頭は良くて…
「あなたは優秀。これは褒めているのよ市来さん。安斉が上杉景勝だとしたら、あなたはさしずめ直江兼続。違うかしら」
「違うんだ…俺じゃない」
「見苦しいわよ、観念なさい」
何を言っても無駄なのか。
「そうねえ、じゃあ最後に私が何でこんなことをするのか、それだけ教えてあげる」
レイコが腕時計をチラリと見てから言った。
「復讐だろ」
「ちょっと違うのよね。あなたに理解できるかしら。柳、ちょっとストップ」
賢介に向けられていたナイフが下げられた。柳はしかし、その不気味なほど冷静な一重の目で、じっと賢介を見上げたままだ。
「夫である佐橋雪男が中学時代に受けた暴行、その恨みを晴らすために、いじめグループを狙った、と。そう思っているわけね市来さんは」
「違うのか」
レイコは芝居がかった仕草でクスッと笑った。
「私はねえ市来さん、真性のサディストなの」
ガサ、ガサ、とシートの音。
「夫、佐橋雪男は私が手に入れた最高のオモチャであり、最高のペット。あ、でも誤解しないで、雪男ちゃんとはそれだけの関係じゃなく、対人間としても愛し合っているのよ、それは本当。ごめんね柳」
柳は微動だにしない。柳とは、それだけの関係性ということが言いたいのか。
「あなたには理解できないようね。じゃあこういうたとえはどうかしら。…あなたは素敵な車を手に入れた。どの角度から見ても自分好みの、まるで自分のために作られたかのような車。乗ってみても最高で、エンジンの音色が自分の鼓動とシンクロするような、自分にピッタリの車よ。けれど、その新車の目立たない部分には無数の傷があったの。許せないわよねえ」
許せないわよねえ、の部分は野太い声色だった。
「でもね、傷モノだったのが許せないんじゃないのよ。初めて傷をつけるのは、私であるべきなの!雪男ちゃんは私の所有物で、私だけのペットであるべきだった。だから誰かが私に先んじてそれをしたことが許せない」
レイコの唇は震えていた。異常だ。異常者なのだ。
「雪男ちゃんはねえ、私に踏まれると大喜びするのよ。太い針で背中を刺されると、射精するの。雪男ちゃんは真性のマゾヒストなの。けれど、私の前にあなた方のペットだった。その過去はどうしても消したい。私だけのオモチャであるべきなの!」
柳が少しうなだれたような気がしたが、硬い表情に変化はなかった。
「あんたは狂ってる」
賢介が今の状況でできることは、シートの上に這いつくばり、この女を罵倒することだけだった。
「異常者だ。変態だ。キチガイ女め」
しかし賢介の乏しい語彙は、それで打ち止めだった。レイコは勝ち誇ったよう少し微笑んだあと、ガサガサ音を立てて柳に近づいた。
携帯電話が鳴った。レイコのものらしい。
「アラ」
画面を見て、レイコは相好を崩した。
「おしゃべりが過ぎたみたい。もう戻らないと、雪男ちゃんが心配してる。今夜もたっぷり《遊んで》あげる約束だから」
レイコは携帯電話をポケットにしまい、代わりにホテルのキーを取り出してくるくると回した。
「私たちは愛し合っているの」
キーを口で咥えるレイコ。
「…待ってくれ、殺さないでくれ」
しかしレイコは賢介に耳を貸すことなく、柳のそばに立つとその肩をそっと手を置き、耳元で妖艶に囁いた。
「柳、あとお願いね」
「御意」
無表情を決め込んだ柳は賢介の横にしゃがみ込んだ。逆手に持ったナイフがギラリと煌めく。
「じゃあね市来さん」
レイコは出て行った。部屋の中に、柳と二人きり。賢介の左側、横たわっている由里は、もはや息をしている形跡はない。…俺も、このまま死ぬのか。
「すまないですね」
柳は憐れむような目でそう言った。かすかな感情の変化を見て取った賢介は、情に訴えるしかなかった。
「助けてはくれないですか」
「いや、それは無理な相談ですな」
スッと、元の無表情に戻った。
「…安斎たちは、全部あなたが?」
「他に誰がやると?」
「じゃあ…ブラジルにも行ったんですか」
柳はこともなげにうなずく。
「わたくしは、あのお方の仰せのままに働くことに至上の悦びを得ておりますので」
ナイフを眺めながら柳はそう言った。
「でもあなたは、あの女の愛を手にしていない」
「…」
「あの女は何でも言うことを聞いてくれる、長年連れ添ったあなたよりも、金持ちの雪男を選んだ」
ナイフをじっと見つめる柳。何を考えているかは賢介にはわからない。
「悔しくないんですか」
「悔しくなんかないですよ。わたくしは、あのお方のお側に仕えさせていただけるだけで幸せですので」
この男が普通ではないことはわかっている。
「あなた、いいように使われてるんだ」
「かもしれませんね」
「一生あの人の言いなりでいいんですか」
「レイコ様の言いなりでいいんですよ。わたくしは十年以上前からあのお方の奴隷ですからね、そういうふうに調教されております」
「そんな人生でいいんですか」
「そんな感じで使われることこそ、わたくしにとって至福のご褒美ですので」
薄い唇を引きつらせるようにして、柳はニヤリと笑った。どうも、何を言われてもへっちゃらなようだった。
賢介は諦めた。
「さてと、では」
柳は手に持っていたナイフを脇に置いた。そして部屋の隅に移動すると、シートを丸め始めた。血や汚れが気になるのだろう。
「刺すと、どうしても血が出てしまうのでね…」
次に賢介の視界に入って来た柳は、手にロープを持っていた。
「レイコ様は殺し方には注文をお付けにならなかったので、これで」
ロープが首を一周した。続いて、力が加わった。首を絞めて殺害するつもりだ。両手両足を縛られている賢介に、抵抗する術はなかった。
「ウウウッ」
ただ、じたばたすることしかできない。
「ウーッ!」
その時。柳の締め付ける力が緩まった。そしてそれは、徐々にゼロになっていった。何かが起きた。頭を振り、首に掛かったロープを振り落とす。ゴロンと寝返りを打つと、ブルーシートに突っ伏した柳の後頭部が見えた。
「由里…」
柳の後方、ものすごい形相をした由里が、両手でナイフを掴んで立っていた。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ!」
血と汗でぐしゃぐしゃになった顔の中、目が見開かれていた。由里はナイフを柳の背中に何度も何度も突き立てた。声にならない声を口から漏らしながら。
「由里!もういい…」
「…市来くん」
ナイフを落とし、へたり込む由里。
「由里、ここから逃げよう」
手と足のロープをナイフで切り、賢介は由里と一緒にその忌々しい部屋を出た。誰もいない廊下を、二人で身体を支えながら通り抜ける。エレベーターに乗り、ロビーへ向かった。
「あいつは…雪男は無関係だった」
エレベーターの中、二人を映し込む大きな鏡。由里も賢介もひどい有様だった。
「恩田レイコ」
「ああ。彼女の暴走だ」
「市来くんは許せる?」
「え」
鏡越しに由里の顔を見る。
「私は許せない。あの女は私たちの仲間を全員殺したんだよ」
「…」
「涼子には子供がいた。安斎くんだって万代くんだって、他の人にも家族がいたんだよ。こんなこと許せない」
だからって。エレベーターが一階に着いた。
「あの女がどこにいるかはわかってるじゃない」
顔にまとわりついた髪を手で払いのけながら、由里は力強くそう言った。
「由里、本気で?」
「私はいつだって本気。舐めてもらっちゃ困るわよ」
元ヤンキーの血が、完全に覚醒していた。
泊まっていた部屋に戻り、タオルで汚れた身体を拭いてから着替えた。由里も賢介もその間終始無言だった。あるいはこの時間で冷静さを取り戻してくれるかとも思ったが、それは無理だったようだ。由里の怒りは収まるどころか増幅しているように見える。とはいえ賢介にしても恩田レイコへの怒りは消すことができない。あんなイカレた女にいいようにされたこと、そしてクズだらけとは言え、仲間を死に追いやったことは許されざることなのだ。
だが、怒りに任せて復讐しに行くというのはどうか。ここは一旦引いて、日を改めて…という冷静さも、賢介には少なからずあったのだが。
「行くわよ」
「…ああ、行こう」
由里の怒りは止められなかった。
車に乗り込み、雪男たちの宿泊しているホテルを目指す。賢介も由里も、柳から複数の切り傷を受けており、着替えたシャツにはすでに血が滲み始めていた。ただ、怒りが痛みを凌駕しているのだろう、賢介も、そして由里も痛いとは思わなかった。運転席、ハンドルを握る由里の腕は力強かった。そしてそれを受け、賢介も不思議と一旦は完全に折れていた気持ちが復活している。
今叩いておかなければ、次のチャンスはない。
復讐というよりは、やられっぱなしでいられるか、という負けず嫌いな感情。そしてそれはただ一点、恩田レイコに向けられている。あの女がヨシノリを、そしてみんなを死に追いやった元凶なのだ。
安斎の元で、賢介たちが償いようのない罪をいくつも犯したことは事実だ。ホルスタインこと六条を手にかけたことも事実。しかし、だからと言って、それにかかわったメンバーを殺害していいものではない。そもそも恩田玲子は直接の被害を受けたわけではないのだ。
「計画は」
「ない。泊まってる部屋はわかってる」
「どうやって」
「あの女がキーを振り回してたのを見た」
あの状況で、よく。
「雪男には…」
「わかってる。佐橋くんに手を出すつもりはないよ。私が許せないのは…」
「恩田レイコ」
由里は大きくうなずいた。目の前、ホテルの灯りが見えてきた。
宇田川浩平 死亡
和木勇作 死亡
⓬
復讐は、次の復讐を生む。
そんなワードをぼんやりと思い出しながら、しかし賢介はやはり恩田レイコという女を赦すことはできなかった。憎さもあるが、それよりも…
由里の言う通り、殺された、あるいは死に追いやられた人たちには遺された家族がいる。中学時代の過ちは深く受け止めなければならないが、その代償としてはあまりにも過料なのだ。
その差を、あの女の死によって埋め合わせなければならない。これから賢介が由里と共に行うことは、いわば均衡を保つための補填行為だ。そう自分に言い聞かせ、賢介は由里と並んでホテルに乗り込んだ。
正面は、さすがに避けた。カウンターに女性従業員が立っていたからである。裏に回り込み、柵を乗り越え、機械室のようなドアを手当たり次第に押してみる。ひとつ、一センチほど開かれたドアがあって、そこから光が漏れていた。由里と顔を見合わせ、その中に入った。
そこは大きなボイラーが置かれた蒸し暑い部屋だった。人の気配を避けながら二人で奥へと進んだ。由里の背中を追う形。賢介と違い、由里は怒りに我を忘れている様子だった。あの女にいいようにされた自分に腹が立つのだろう。賢介は、その傷だらけの背中を追いかけた。
通り抜けた先はランドリールームだった。そこから従業員用の階段を昇って、十五階まで登った。
「最上階よ」
肩で息をしながら由梨が言った。
「部屋は」
「1501。右の部屋」
怒りに支配された由里は賢介を見るでもなくそう言った。
「どうやって開ける?」
「チャイムを押す」
由里は無謀にもチャイムを押した。それからのぞき穴を指で塞いだ。
「柳のフリして」
「え」
「『レイコ様』って。ホラ」
出て来ないのでもう一度チャイムを押す由里。中でかすかに物音がして、それからドアの向こうに人の気配がやって来た。
「柳なの?」
「レイコ様、柳です」
できるだけあの男に声を近づけて答える。
「何か問題?失敗でも?」
「いえ。問題はないのですが、ちょっと…」
横を見る。由里がうなずいた。ドアチェーンを外す音、続いてロックを解除する音。由里がサバイバルナイフを取り出した。
「(羽交い絞めにして)」
賢介は由里にうなずいた。
「いったい何よ…」
出てきたレイコの背中に回り込み、羽交い絞めにした。驚いたことに、レイコは一糸もまとわぬ姿だった。
「なんて格好。頭おかしいんじゃない?」
由里がそれを見て、蔑んだように言った。
「あなたたち…!」
「どっちが下品よ」
由里はまったくためらいもなく、そしてまるで迷いのない手つきでナイフをレイコの腹に深々と突き刺した。ズン、という衝撃が、背後にいる賢介にまで伝わって来た。
「あっ…」
レイコの身体から力が抜けていくのがわかる。
「ハイ、おしまーい」
抵抗する力を失ったレイコは廊下に倒れた。傷口はかなり深く、そこからレイコの血がとめどなく流れ出ていた。
「死ね」
由里はそうするのが当然のように、倒れた恩田レイコに向けてペッと唾を吐いた。
「行こう市来くん」
「あ、ああ」
再び階段で降りて、元来た通路を戻り、外に出る。由里の父親の車に乗り込んで、海沿いの房総半島を北上した。背後から昇って来る朝日。助手席、由里は昏倒していた。彼女を起こさぬよう、賢介はまっすぐに宇都宮に向かったのだった。
宇都宮駅のロータリーで、由里と別れた。
「じゃあ」
「うん」
由里は賢介を見ることなくうなずいた。
それから数日間は震えながら過ごした。有休を使い、テレビやネットのニュースをくまなくチェックした。が、不思議なことに一連の事件が表沙汰になることはなかったのである。
何度か由里に電話をかけようかと思ったが、忌々しい出来事を共有すると、お互いを避けようとする感情が働く。あんなに恋焦がれていた由里のことを、うっとうしく思ってしまう自分が嫌だったが、きっと由里も賢介と同じ感覚だったのだと思う。由里からも連絡はなかったのだ。
佐橋雪男のSNSも、あの日以来更新されることはなかった。
◇ ◇ ◇
「来ないじゃない」
「うん」
朝の十時。めぐみとひさしぶりに顔を合わせていた。
「私に臆したのかしら?」
「そうじゃないと思うけど、たぶん来ないよ」
宇都宮で別れてから、由里とは連絡を取っていなかった。
「何よそれ!わざわざ時間作ってるっていうのに!」
「ごめん」
「ごめんって、何よ、二人の間に何かあったわけ?」
「うーん、たぶん彼女は…もう、俺のことが嫌というか、会いたくなくなっちゃったのかも」
「はあ?ふざけないでよ!」
きっとそうなのだ。俺と同じ感情。憤慨するめぐみを前に、賢介は納得する。一応約束をしたから、もしかしたら来るのではないかと思っていたが、たぶんおれの顔を見るのも嫌になってしまったのかもしれない。
「なあめぐみ」
「何よ」
腕時計を気にしながら、めぐみは賢介を見た。
「俺たち、やり直せないかな」
「何言ってんの、あっちがダメならこっちに戻るっていうわけ?都合よすぎ」
「うん、わかってる。けどそこを何とか。もうどうにもならないのかな」
「ふん。勝手ね。けどそれはこれからの賢ちゃん次第でしょ」
つまらなさそうに飲み物を口にするめぐみ。ちょっと可能性が残っている。
「俺、今日から生まれ変わったつもりで、めぐみに尽くすから」
「何それ。そういうのを求めてるわけじゃない」
「結婚してくれないか」
「はあ?唐突過ぎ」
由里への恋心が消え去ってしまった今、だからといってめぐみに戻るというのも勝手だということは充分わかっている。ただ、賢介はあの極限状態の時に思ったのだ。
恩田レイコはめぐみをも毒牙にかけるところだった。それを阻止できたと知った時、賢介は心の底からホッとしている自分に気づいていた。賢介にとって、めぐみは思い通りにならない分、特別な存在だったのである。
「今日から、新たに」
「何それ」
「結婚を前提に」
「賢ちゃんそれ本気?」
「うん。今まで俺はいい加減だった」
めぐみは胸の前で腕を組んだ。
「そこまで言うんなら、別にいいよ。私もさ、ちょっと口悪いところあるし。実はこう見えて反省してたりもする」
よかった。まんざらでもなさそうだ。
「すみません」
そこにウェイトレスがやって来た。
「市来様と槇原様ですか?」
「え、ああ、そうだけど」
ウェイトレスは脇に抱えていた箱をテーブルの上に置いた。ケーキの箱だった。
「こちら、お二人にプレゼントだそうです」
「え」
頭を下げ、下がっていくウェイトレス。賢介はテーブルの上の箱に目を移した。
「どゆこと?賢ちゃん今日誕生日?」
「違うよ」
その四角い箱に、賢介は見覚えがあった。背筋が下から凍り付いていく。
「…開けるなめぐみ。開けちゃだめだ」
@Susquach
若隠居撤回のお知らせ
今日よりわたくし佐橋雪男は、サスカッチのCEOとして復帰いたします。
今まで平和主義でやってきましたが、
わたくしは、わたくし個人を攻撃するいかなる外敵に対しても、
一歩もひるむことなく対処していく所存でございます。
深見由里 死亡
市来賢介 元グループ員 電機メーカー勤務。独身。
安斉誠 グループの元リーダー 運送会社経営。既婚。
万代真也 グループの元副リーダー 工務店勤務。既婚。
堂本義則 元グループ員 現在は無職。ギャンブル狂、独身。
半村和樹 元グループ員 半村歯科医院経営。既婚。
石井守 元グループ員 石井どうぶつ病院経営。既婚。
陣内雅弘 元グループ員 建設会社社員。独身。
千野涼子 安斉の元交際相手 既婚 現在田内涼子 現在は三児の母。
深見由里 万代の元交際相手 離婚歴あり。実家暮らし。
佐橋雪男 元ペット サスカッチ。IT長者だが現在は無職、独身。
六条保志 元ペット ホルスタイン。自殺。
高木悠 元ペット 豚まん。
宇田川浩平 元ペット ゲジゲジ。
和木勇作 元ペット カビ。
権田新造 元中学校教諭 生活指導。
槇原めぐみ 賢介の交際相手 商社勤務。
サスカッチ
「サスカッチの社長だ」
あれは去年の暮れだった。師走でざわめく街をめぐみと一緒に歩いていたとき、駅前の大型ビジョンでそのニュースを知った。
「辞任だって」
臨時ニュースだった。
『やり残したことがあるのを思い出して。とりあえずそっちに集中しないとまずいと思いまして。新しいこと始めるとしたら、その後』
日本を代表する巨大IT企業のトップである男。まだ若く、その年齢は三十二歳。出身地は栃木県宇都宮市。
『これまで、ずっと休憩なしで突っ走ってきたのでね。ちょっと疲れたっていうのもあるかもしれませんけど、まあ、若隠居ってことで』
俺は、この男をよく知っている。
「辞めるって言っても《サスカッチ》の代表を辞めるだけで、事実上は院政でしょ?緊急ニュースで流すほどのことじゃないわよねえ」
市来賢介の横、槇原めぐみが鼻で笑った。
「…ああ、そうだね」
「でもこの人は本当すごいよね。世界相手に立ち回ってる」
「うん」
「【世界の百人】にも選ばれてた」
知ってる。
「実は私、この人のSNSフォローしてんの。滅多に更新しないけど、短いひとことが印象的で、なんか気になっちゃうのよね」
「…へえ、そうなんだ」
賢介は一瞬嫉妬したが、すぐにかなう相手ではないと思い直してうなずいた。あいつはがすごい奴であることは事実で、張り合うことすらままならないほど遠い場所にいる。
「賢ちゃん見たことある?この人のSNS」
「いや」
知らないふりをしたが、実は賢介も、彼のSNSはチェックしていた。
「まだ三十二かー。あれ、てことは賢ちゃんと同い年?」
「うん」
「うわー。この人賢ちゃんの何倍稼ぐんだろうね!」
「知らないよ」
「数万倍?数億倍?あはは、なーんてね、次元が違うよね」
イライラしていた。早くこの話は終わって欲しい。記者会見のライブ映像。彼のプロフィールがテロップで流れている。
「あれ…出身宇都宮だって。そういや賢ちゃん宇都宮出身って言ってなかった?」
「うん。実家はもうないけどね」
「もしかして、彼のこと知ってたりする?」
「いや、知らない」
嘘をついた。
「こんなすごい人なのに、地元で有名じゃなかったのかな。ホラ、神童みたいな」
「…うるせえな」
「えっ?」
「ゴチャゴチャうるさいよ。行こう」
背中を向けて歩き出した。
「ちょっと、何その態度!」
「…うるせえからうるせえって言ってんだ」
彼のことは知っている。だから余計腹が立つんだ。
「ひどい、何なのあんた。せっかく時間空けて会ってあげてるのに。この年末の忙しいときに!」
「ああ?何だよその言い方っ」
「もう帰る」
めぐみとは、それきり半年以上会っていない。
@Susquach
お騒がせしております。ニュースで流れた通り、ぼくは若隠居させていただきます。常に前進、新しいことに挑戦するというモットーは変わりません。でもちょっと、その前にやらないといけないこと思い出したんで、ネクストステージはそれが済んでから!乞うご期待。
日曜日。
電話の音で目が覚めた。まだ九時だ。携帯画面上には登録されていない電話番号。無視しようかと思ったが、仕事関係の人だとしたらまずいと思い直し、気を奮い立たせて電話に出た。
「市来か」
「どちらさまですか」
「堂本だ。堂本義則」
ヨシノリ。昔の友人だった。いや、もはや友人とは呼べない面倒な奴。
「…おお、どうしたヨシノリ。ひさしぶりだな」
布団の上に起き直る。懐かしさはあるが、喜びはない。
「ひさしぶり、悪いな突然。今電話平気か」
「休みだから寝てたけど…何だ、金なら貸さねえぞ」
「金の話じゃない」
一瞬、間が空いたあと、ヨシノリはこう告げた。
「…あのな市来。安斉が死んだ」
「えっ」
驚いていた。安斉というのは手っ取り早く言うと、中学時代の番長みたいな奴だ。
「あの安斉が…?」
安斉誠。中学卒業以来、ひさしぶりに耳にする名前だったが、その名は脳の奥深くにしっかりと刻み付けられている。大きな体に浅黒い肌、健康・屈強・頑丈を体現しているような奴で、殺しても死なないようなタイプだったのだが…
「死んだって、何か病気で?」
「いや、事故死だ」
「事故。そういや、親父さんのあと継いで運送屋やってたって聞いたな。交通事故か」
「いや、交通事故じゃない。自宅で事故死」
「は?自分の家で事故死ってどういうことだよ」
「知らねえよ。警察の発表だ。自宅の事務所で倒れて死んでたんだと。足滑らしたかなんかで、打ちどころが悪かったとか」
「…マジかよ」
単純に驚いていた。本当に、殺しても死なないような奴だったのだ。にわかには受け入れがたかった。
「葬式が明後日にある。来れるか」
「ああ…」
溜まりに溜まっている有休を使うきっかけができた。最近は有給取得率を上げろ、と上司がうるさい。本当は休まれると困るくせに、裏腹なことを言う。
「来るのか、来ないのか」
「行くよ」
ヨシノリが車で駅まで迎えに来てくれるという。時間を決めてから電話を切った。
安斉誠が死んだ。
中学の三年間、市来は安斉のグループに属していた。当時の絶対的リーダー安斉誠。周囲の人間からは、安斉を中心とするグループは仲が良さそうに見えたかもしれない。しかしそれは、安斉、そしてその相棒である万代の二名による絶対的な支配だった。彼らは仲間に対しても意見することを許さなかった。昨日までの仲間が丸裸にされ、タバコの火を押し付けられている姿を賢介は何度も目にしてきた。
その点、彼らに上手く取り入った賢介は、参謀的なポジションを得ることができ、三年間を安斉らの擁護の傘の元で難なく過ごすことができたのだが…我ながら、情けない生き方だったと今になって思う。中学の三年間を無駄に使ったような気がするのは、心の底から楽しかったという思い出がないからだ。
その安斉が死んだ。
しかしそれを聞いた賢介の胸には、空虚こそあるものの、悲しみや哀悼、それに準ずる気持ちがこれっぽっちも去来しないのだった。中学卒業以来十数年会っていない、というのもあるかもしれないが、つまりはこういうことだ。
元々、中学時代から賢介は、安斉に対し友情を抱いたことがなかったのだ。彼のグループに属していた理由はただ一つ、《自分がいじめられたくないから》。
安斉誠 死亡
➊
「溺死?」
ヨシノリはうなずいた。彼の運転する車、その助手席に賢介はいた。
「酒に酔ってトイレで転んで、便器で頭を打ったのが原因で気を失って、便器の中の水に顔突っ込んだまま溺れた、らしい」
「便器に顔を突っ込んで溺死」
「ああ」
「それって…」
賢介の脳裏に安斉がトイレに突っ伏している絵が浮かんだ。それは、賢介にとって既視感のある映像だった。
「嫌なこと思い出すよな」
ヨシノリの声に賢介はゆっくりとうなずいた。
「…でも、事故なんだよな?」
「警察がそう言ってるんだからそうなんだろ。不自然な点は見当たらないってテレビのニュースで言ってた。ただの偶然だ」
そうだよな。あいつが仕返しに来るなんてことは有り得ない。
「テレビで流れたのか」
「ああ、地元の新聞にも大きく載ってた。田舎はニュースに乏しいからな。トラックたった四台の運送屋とはいえ、安斉は一応会社社長だし、奇妙な死に方だったから話題性があったんだろ」
あの頑強な男が、転んで死ぬとは思いもしなかった。
「安斉の自宅は一階が事務所、二階部分が住居になってたみたいでさ。安斉の奥さんが夜中に下に降りてみると、トイレで安斉が倒れてた。一階も二階も鍵はかけられていた。だから家族以外の誰かが侵入して殺したってことは考えられない」
「警察の調べでは完全に事故なんだな?」
「だからそう言ってるだろ。酒に酔ってトイレで転んで気絶、便器の水で溺死。不審な点は無いってよ。わかるよ市来、お前は…あいつを疑ってるんだろ」
返事をせずにヨシノリを見た。
「俺も最初はちょっとそう思ったけど、あいつがわざわざ仕返しに来るわけがない」
「だよな」
そうなんだ。あいつ。あいつはもう、雲の上の存在。
「何ヶ月か前、テレビ見てたら急にあいつ出てきて…」
「去年の暮れだ。ニュース速報だろ。若隠居」
あいつが口にした〈若隠居〉、というワードが、巷で頻繁に使われるようになって久しい。流行語大賞にもノミネートされかけたほどだった。
「しっかし差がついたよな。方や頂点極めた億万長者、方やギャンブル依存の自己破産。共通点は無職ってとこだ」
ヨシノリが自虐的に言った。
「まだやってんのか、パチンコ」
「いや、もうやってない」
「無職って、宅配便の仕事やってなかったっけ」
「宅配便は辞めて、ちょっと前まで営業やってたんだ。けどうまくいかなくてな。今は前向きにハローワーカーズ」
中学卒業後、パチンコにはまった彼は、あらゆる金融会社から借金を重ね、最終的に自己破産したという話だった。借金地獄の頃は賢介のところにも何度か電話があり、あしらうのが非常に面倒だったことを憶えている。
「俺が必死で仕事探してんのに、あいつはもう仕事辞めてんだぜ。同じ無職でも質がまったく違う。笑っちゃうよな」
「…ああ、すご過ぎるよあいつは」
あいつ。
『賢介くんにはかなわないなあ』
電車に乗って、小学校と中学時代を過ごしたここ宇都宮へ向かう道中、賢介は死んだ安斉のことではなく、あいつのことばかり考えていたのだった。
「賢介くんにはかなわないなあ」
小学四年生のあいつ。分厚い眼鏡の奥、細く小さな目がニヤリと笑う。矯正器具が装着された歯が剥き出しになる。
「やっぱり賢介くんにはかなわないや」
あの頃賢介は、あいつの隣にいなくてはいけないことが苦痛だった。担任教師に頼まれたから渋々引き受けただけで、本音は心の底から嫌で嫌でたまらなかった。
小学生の頃、賢介はなぜか勉強がよくできた。学校での態度もよく、先生たちからの評判も良かった賢介は、学期の変わり目を機に、あいつ…佐橋雪男の隣の席に座ってもらえないか、と担任の先生より直々にお願いされたのだった。
「じゃあ市来くん、佐橋くんのことよろしく頼んだわね」
賢介は、その日より佐橋雪男の〈お世話係〉になった。要するにその若い女教師は、面倒を賢介に押しつけたのである。
佐橋雪男は、ひとことで言うと落ち着きのない子だった。授業中に突然奇声を上げる、教室をうろうろ歩き回る、体育の時間も先生の指示に従わず、ひとり砂場で遊んでいる。子供ながらにみんな、なぜ佐橋くんは好き勝手なことをしているのに怒られないのだろう、と思っていたはずだ。これは当時母親から聞いたことだが、いわゆる特別学級に籍を置くことを、佐橋の両親が反対しているようだった。
《落ち着きのない子》として片付けられていた佐橋雪男だが、今思えば彼はADHDに区分される子だった。佐橋は授業中にしばしば奇声を発し、教室内をうろつき、時には暴れたりするときもある。クラスメイト達は「また佐橋か」という感じで半分無視、担任教師もお手上げ状態で、勝手気ままな佐橋を注意せずに放置するのが日常となっていた。小学四年生にして、佐橋雪男はクラスのお荷物だったのだ。
ただ、さすがにその状況は異常だ。思うに、他の生徒や、その親たちからの苦情があったのだろう。そこで、佐橋のお守り役として、模範的生徒だった市来賢介に白羽の矢が立った。賢介は困惑した。賢介にしたって佐橋の存在は邪魔で鬱陶しい。できれば教室から排除して欲しいと思っていたが、学校としてはそうもいかないのは子供心にも理解できる。だからと言って、自分に何ができる?どうすれば佐橋を落ち着かせることができるのだろうか。
この歳になってようやく、あの若い先生に対して同情できるようになったが、賢介は当時、厄介事を丸投げしたその女教師を心底恨んだものだ。
翌日から賢介は佐橋雪男の席の隣に移った。
小学生の賢介に、佐橋のために特に何かをしてやることはなかった。が、意思の疎通などできないだろうと思われていた彼と、意外にも普通に会話ができたことには驚いた。時々エキセントリックな挙動をすることを除けば、佐橋はただの小学四年生だったのだ。
佐橋はそれからも奇行を繰り返したが、その頻度は確実に減少していった。それが賢介のおかげなのか、佐橋自身が成長とともに落ち着いてきたせいなのかはわからない。が、味をしめた教師陣の思惑により、結局五、六年生までの三年間、賢介は佐橋と同じクラスになり、最後まで横並びの席に座らされた。六年の終わりには、佐橋は落ち着いて授業を受けられるようになっていた。多少は奇行もするが、もはや〈手の焼けるどうしようもない子〉ではなく、〈少し問題のある子〉になっていた。
佐橋雪男とは、クラスこそ違えど中学の三年間も一緒だった。後に彼のことを知るのは十五年後、賢介が二十八になったときだ。
自身のサクセスストーリーを、自信のみなぎった顔つきで澱みなく語る男。テレビ番組に出演した『佐橋雪男』は、自身が学生時代に起こしたIT関連事業会社、《サスカッチ》のトップに君臨していた。そして、それから数年後。彼は自分の会社を惜しげもなく後進に譲り、大勢のマスコミを呼んで引退宣言をした。去年の暮のことである。
『やり残したことがあるのを思い出して。だから若隠居して、とりあえずそっちに集中しないと。新しいこと始めるとしたら、その後』
そう言い放った彼は、白く並びのいい白い歯を見せつけ、快活に笑ったのだった。
「…サスカッチ、か」
会社名である《サスカッチ》は、中学時代彼につけられたあだ名である。〈雪男〉を〈ゆきお〉ではなく〈ゆきおとこ〉とし、その外国名である〈サスカッチ〉に変換したわけだ。それを自分の会社名にするとは…
『あいつ、時々暴れて手が付けられなくなるんだ』
『じゃあバケモンだな』
賢介は彼がサスカッチと呼ばれるに至った由来を思い出すのだった。中学時代の佐橋雪男が壮絶かつ猛烈なイジメに合うことになったのは、賢介がきっかけだった。
中学時代。
安斉誠は血の気の多い奴だった。凶暴で凶悪、上級生や近隣中学の不良たちを暴力によってひと通りまとめあげた彼には、目的がなくなった。
周りに敵がいなくなると、安斉は仲間に暴力を振るうようになった。それはヨシノリや賢介に、さらには腹心であるはずの万代や自分の彼女にまで及んだ。気まぐれで殴られてはたまったものじゃない。そこで賢介は、安斉にオモチャを与えることにした。賢介の言うことを素直に聞き入れる従順な人間、それが佐橋雪男だった。
変に擦れていないピュアな雪男は痛めつけ甲斐があったようで、安斉は彼をお気に入りのペットのようにいつでもそばに置き、ほぼ拷問と言えるような、想像を絶するいじめが繰り返されたのだが…
「あいつ、かわいそうだったよな」
「ああ…悪いことしたと思ってるよ」
賢介は運転席のヨシノリにうなずいた。雪男は完全に安斉のフラストレーションのはけ口になった。定期的に打ち込まれる安斉のボディブローのせいで、常に服の下は痣だらけだった。背中はタバコの火を押し付けられ火傷だらけ。トイレの便器に顔を突っ込まれた状態で水を流される。大勢が集まった教卓の上で、余興と称して雪男に自慰行為をさせたこともあった。
「そんなこと言って、ヨシノリお前がいろんないじめを提案してたんだろうが」
「仕方ねえだろ。安斉に殴られるのは嫌だからな。安斉はあいつをいじめているときは終始ご機嫌だったから」
今でこそ、それらを悪いことだと思うものの、実のところ当時、賢介は、その状況を楽しんでいた…
いい気味だと思っていたのだ。小学校の頃の不満と鬱憤が解消されていくような気がしていた。
「でも俺は憶えてるぜ市来。あいつを連れて来て、安斎に与えたのはお前だ」
「…ああ」
果たして、安斉の死は事故なのか?それとも雪男が…?と賢介やヨシノリが思うのは、そういう過去の経緯があったからである。
「お前は中学卒業後、さっさと俺らを捨てて神奈川の高校に行きやがった」
「それは、家庭の事情ってやつだ。不可抗力だろ」
中学卒業を機に、この街からの脱出に成功した。エスカレートする一方の安斉のイカレ具合に、付き合いきれなくなっていた時期だった。賢介はクズたちとの付き合いに辟易としていた。
「高校時代の俺らはただの弱い者いじめグループに成り下がっちまったよ」
ヨシノリは安斉グループの主だった者たちと同じく、地元の高校へ進学した。安斉と違う高校へ行くことは許されないような空気が出来上がっていたのだろう、そういう意味では、安斉の恐怖による支配は完璧だったといえる。
ところで賢介は別に、わざわざ神奈川の高校を受験したわけではない。賢介の父親が転勤になってしまったのだから仕方がない。とは言いつつ、三年の冬に父親からそのことを告げられた時にはホッとしたことを憶えている。
『賢介が地元の高校に進みたきゃ、父さんだけ単身赴任してもいいと思ってるが、どうだ?』と父親は言ってくれたが、家族揃っての引っ越しを選んだのは、安斉たちから離れる絶好のチャンスを捨てたくなかったからだ。不可抗力というのはウソであり、父親の転勤は、賢介にとってまさに渡りに船だったのである。
「市来、お前には残された俺たちの苦難はわからねえよ」
「知るか。謝らねえぞ」
「高校時代は最悪だったよ。力だけで支配できないから、安斉はずっとイライラしてた。あいつももういないから、鬱憤晴らしは俺らに向けられてさ」
とことんいじめ抜かれていた雪男が、安斉たちと同じ高校に進学するはずがない。そもそも雪男は中学卒業後、高校には進学しなかった。今でこそ成功者だが、その後の彼の苦労は尋常ではなかったことだろう。プロフィールによると、大検を取り、工業大学に進み、在学中に今の会社を起業したという話だが、あいつはきっと、血の滲むような努力をしてきたはずだ。
大きな交差点、信号は赤。
「まあ、過ぎたことを愚痴っても仕方ねえな。…それよりも俺は、よく来たな、って思ってるよ」
ヨシノリが賢介を見た。
「よく来た、とは?」
「安斉の葬式。石井や半村にも電話して報せたんだけど、断ってきたよ」
石井と半村。二人ともグループの中心人物だった。
「石井は千葉にいるからともかく、半村なんて地元で歯医者やってんのに来ねえんだぜ。ひでえよな。…ま、お前も来ないと思ってたけど」
みんな、安斉にはうんざりしていたということだろう。
「心外だけど、本音を言うと、確かに安斉に友情を感じたことはない。でも仲間だった、ということには嘘はないぞ。それに同世代がこんなに若くして死ぬなんてショックだし、安斉って殺しても死なないような頑丈な奴だったし…信じられない、っていう部分もある」
信号が青に変わり、ヨシノリがアクセルを踏んだ。
「それだけか?」
「…あいつのことも、もちろん確認したかったけど」
「ふん。やっぱりそれが気になってたんだな。でも警察の調べじゃ事故なんだ。あいつとは関係ない」
「うん。でも、もしかしたら、と思ったんだ。あいつは今や億万長者だぜ。その気になれば何でもできるんじゃないかと」
ヨシノリは何も答えなかった。彼も事故だとは思いつつも、どこかで疑っているのだ。
「ま、安斉とは色々あったけど、知ってる人間が死んだことは残念だし悲しい。ちゃんと弔ってやりたい」
賢介はヨシノリにそう言った。ヨシノリはタバコを咥え、火をつけようとしていた。
「吸うのか」
「ああ。誰に断る必要がある。俺の車だ」
ヨシノリが煙を吐いた。佐橋雪男の輪郭が、煙の中にぼんやりと浮かんだ。
葬儀場の駐車場に車を停め、ヨシノリと共に歩いていると、背後から声をかけられた。
「市来くん?」
おれがこの街に来た理由。それはヨシノリにも言ったように、やはり安斉を弔う気持ちが一番だ。しかしそれ以外に二つ理由があった。ひとつは、サスカッチこと佐橋雪男がこの件に関与しているのでは、という疑惑を払拭し、無関係だという確信を得て安心したいため。それと、もうひとつは…
「深見さん」
不純な理由だ。
「ヨシノリ君どーもー。市来くん、超ひさしぶり。すっかり大人になっちゃったね」
「深見さんは…あまり変わらないね」
「またまたー。そんなことないよ」
深見由里。彼女は中学時代に万代と交際していたのだが、十数年経った今は既に万代とは無関係であろう。というのも、賢介は由里が二十四歳の時に別の男性と結婚したことを知っているし、さらにその男性とうまくいかず、離婚したことまで知っている。誰から聞いたかと言うと、他ならぬヨシノリだ。彼は借金まみれで首が回らなくなっていた時、賢介のアパートに押しかけて来たりしていたのだが、その頃に色々地元のゴシップを聞かされていたのだった。
深見由里は以後フリーだ。あわよくば、という気持ちがないといえばウソになる。が、中学時代、万代の目を盗みながらさりげなくモーションをかけていたにもかかわらず、いつもスカされていた日々を忘れたわけではない。あまり期待はしていないのだが、お互い三十を過ぎ、あの頃とは価値観も変わっているわけで…
「なんか、ザ・サラリーマンって感じ」
賢介の髪型を見ながら由里は言った。
「否定はしないよ。絵に描いたようなサラリーマン暮らしだからね」
ヨシノリに続いて、賢介も記帳し、香典を渡した。
「葛西に住んでるんだっけ」
「あー、前はね。今は中野。満員電車で通勤するのが嫌だから、職場まで歩いて通えるマンションに引っ越したんだ」
「へえ、そうなんだ。すっかり東京の人だ」
昔から物怖じしないタイプだったが、十二年ぶりに会ったというのに、彼女が普通に話しかけてくれるのはありがたかった。
「最後に会ったのは中学のクラス会だっけ」
「うん。二十歳になったときの夏だったと思うよ」
由里とは中一と中三が同じクラスだった。中学三年時のクラス会をするから集まろう、という誘いを由里からもらった。行きたかったが、まだ万代と付き合っていることを知って行くかどうか迷った末に、結局顔だけ出しに行ったことを思い出す。
「あれから干支が一周したってことになるね」
「そうだねー。やだやだ。私、色々ありすぎた」
斎場に設置された椅子に、ヨシノリ、賢介、由里の順に腰かける。
「知ってるんでしょ?」
ヨシノリと顔を見合わせる。
「…まあ、大体は」
賢介の答えに、由里は自嘲気味に笑った。その顔には隠しきれない小じわが刻まれている。無理もない、彼女も三十二歳なのだ。しかし賢介はそれを見ないよう思い出のフィルターをかける。
「結婚と離婚を経験してるだけ、俺よりも大人だよ」
万代と別れた由里は、二十四のときに職場の上司と結婚、しかし一年も経たずに別居し、数年前に離婚が成立したそうだ。
「大人かぁ。褒めてるのか、けなしてるのか、よくわからない言い方ねー」
「褒めてるんだ」
ヨシノリに腕を小突かれた。
「おい。前に万代と千野がいるぞ」
彼の目線の先、三列前に千野涼子と万代真也の後ろ姿があった。賢介は由里を見た。しかし彼女は賢介とヨシノリに向けて笑みを見せた。
「別に気にしないでいいよ。万代くんとはときどきスーパーとかで会うし。奥さんとお子さん連れて、いい家族なんだよ。もう私たち、普通に昔の知り合いって感じ」
葬儀を終えた斎場の出口付近で、賢介たちはなんとなく中学時代の仲間と一緒に集まった。
万代、千野、ヨシノリ、由里、そして賢介。立ち話もなんだし、喫茶店に行こうと言い出したのは万代だった。…昔よく一緒にいた面子。ここに安斉を加えた六人が、言ってみれば『いじめグループ』だった…
「安斉が死んじまったなんてな」
大きな体に似合わない小さな声で、万代がポツリと言った。ヨシノリの話では、今は地元ではそれなりに名の知られた工務店に勤めているという。数年前に結婚し、三歳になる娘がいるそうだ。中学時代の鋭かった目つきは嘘のように垂れ下がり、少し肥えたことも相まって、パッと見で彼が元不良少年だと思う人は皆無だろう。
「ホント。バイクにはねられても骨折しなかったのにね…」
安斉の中学時代の恋人、千野涼子も遠い目をしながらそう言った。涼子は二十歳になる前に地元の消防士と結婚し、今では家庭の主婦におさまっている。今は田内涼子というそうだ。茶髪に厚化粧と、絵に描いたようなヤンママだが、三人の子供を育てており、上の子はもう六年生。
「バイク?」
賢介は涼子に尋ねた。
「うん。高校一年の時、よその学校と揉めたことがあってね。恨みを買って、帰り道にそいつにバイクではねられたの。原チャリじゃないよ、400だよ。私一緒にいたんだけどさ、超怖かったよ。安斉君はね飛ばされて農具小屋に叩きつけられたんだけど、かすり傷一つなかった。この人、ちょっとやそっとじゃ絶対死なないな、ってそのとき思ったんだけど…」
賢介は中学卒業後、家族で厚木市に引っ越してしまったため、高校時代の彼らを知らない。だから安斉にベタ惚れだった涼子がなぜ別れたのか、それが不思議だったが、色々あったのだろう、ともかく今はそれを訊く時ではない。
「安斉君、自分の家で転んで死んだ、って。…ねえみんな、本当だと思う?」
小さな声で由里が訊いた。
「警察がそう言ってるんだから、そうなんだろ」
自分自身に言い聞かせるようにヨシノリが答えた。
「安斉とは…高校卒業後はあまり会わなくなってな。俺は現場仕事で不規則だったしさ、あいつも親父さんの運送屋手伝うようになってから忙しくなって、ヤンチャしてる暇がなくなったっつーか。お互い結婚してからは、あんまし会わなくなっちまってさ。けど、年に二回ぐらいは会ってたんだぜ。なあヨシノリ」
賢介の横に座ったヨシノリがうなずいた。
「うん。安斉は、確かに中学、高校とメチャクチャだったけど、ここ数年は、すっかりいいお父さんっていうイメージだったな」
「そうなんだよ。…奥さんのミチヨちゃん、それに双子のユウタくんとショウタくん。俺もそうだけど、家族がいるっていうのは人間を落ち着かせるっつーか、丸くさせるのかもな」
万代がうつむきながら言った。
「奥さん、かわいそう。双子ちゃんも…」
涼子が涙ぐんでいた。元恋人とはいうものの、十代の頃のことであり、確執などは無いのだろう。それよりも突然旦那に死なれた妻に対し同情している。家族がいるからこその感情なのかもしれない。
「ずっと泣いてたね、奥さん」
由里も目を潤ませている。
「…マジで気の毒だぜ」
万代がタバコを吸い始めた。それを皮切りに、ヨシノリ、そして涼子も続いた。
「涼子タバコ吸うの?いつから?」
由里が涼子に尋ねた。
「そんなにびっくりしないでよ。子供がいるとね、色々ストレスたまるの。旦那の親もうるさいしさあ。だから外に出たときだけ吸うことにしてるの」
そう答えながら、涼子はおいしそうに煙を吐いた。その煙の先を見つめながら、万代が口を開いた。
「安斉は…うん、相棒だった俺が言うのも変だけど、高校まではイカれてるところはあったよな、確かに。けど、仕事初めてからマシになったし、結婚してさらに落ち着いたし、子供ができてからはかなり真面目になって、さらに親父さんが脳梗塞で倒れて、会社任されるようになってからは、少しもイカれたところなんてなくなってた。むしろ立派な社長だったんだぜ。そりゃキレると取引先の人間でもぶん殴っちまうこともあったらしけど、キレる回数は確実に減った」
守るべきものができ、大人になったということだろう。
「俺から言わせてもらうと、みんなずいぶん変わったよ」
賢介は四人を見ながら言った。歳を重ねるということは、それなりの苦労を重ねるということなのかもしれない。
「市来、お前は変わらねえな」
万代がつぶやくように言った。涼子がそれに続く。
「昔から飄々としてたよねー」
そうかもしれない。東京の平均的なサラリーマンと言える賢介は、これまで大した苦労もなく、平々凡々な日々を送っている。結婚は、まだしていないし今のところする気もない。
恋人は、めぐみと会うまでに四人と付き合ったことがあるが、それらは全員相手からの告白で付き合ったものであり、自分から動いたわけではない。二十代半ば頃からだろうか、付き合いが長くなってくると、女性は〈結婚〉の二文字をちらつかせてくる。その兆しが見え始めると興覚めだった。早々に見限り、別れ話を切り出すのがパターンだった。結婚というものに必要性を感じないし、希望も感じない。そもそも責任を負うのが苦手なのだ。めぐみとケンカして半年が経つが、しばらく女性そのものから距離を置いているという状況であり、今はずっと独身でも構わないかな、とさえ思ったりもする。
「俺はみんなと比べると子供だよ」
万代や涼子のように、結婚して子供がいるわけでもない。ヨシノリのように、借金地獄を経験したわけでもない。由里のように離婚を経験しているわけでもない。三十二になる今まで、無責任を貫いて生きてきたわけだ。
派手な着信音。ヨシノリの携帯が鳴った。ヨシノリはその画面を見て「誰だろ、この番号」と言って首をかしげたあと、立ち上がって外へ向かいながら電話に出た。その様子を、賢介をはじめ四人は何の気なしに眺めている。
「はい。はい。ええ、そうですが。…ええっ?」
喫茶店のドアの手前でヨシノリの歩みが止まった。
「和樹くんが?…それ本当ですか?…いえ、お葬式には来ていませんよ」
テーブル席の賢介たちをさっと見渡してから、ヨシノリは喫茶店の外へ出て行った。
「和樹って言ってたな。半村のことか?」
万代が誰ともなしに訊いた。
「半村は葬式には来ないってヨシノリが言ってた」
賢介は万代に言った。ほどなくして戻って来たヨシノリはしきりに首をかしげている。
「半村くんの奥さんから?」
由里が尋ねる。
「うん。半村の奴、どうしたんだろ。おとといから連絡なしに家帰ってなくて、昨日、今日と休診にしてるんだと。携帯もつながらないらしい…」
ヨシノリがうつむきがちに答える。半村は実家を継いで歯科医になっていた。
「それって…行方不明ってこと?」
「由里は昔から大袈裟なんだよ。たった二日家に帰ってねえってだけだろ」
万代がタバコをもみ消しながら言った。不穏な顔つきのままヨシノリが口を開く。
「でも、おとといって月曜だ、俺が安斉の葬式があるって連絡した日」
「安斉君のことと関係があるの?」
涼子が眉をひそめた。
「とにかく、半村の奥さん、今から警察に通報するってさ」
「旦那が二、三日帰って来ないだけで通報かよ、ハッ!」
万代は勢いよく笑い飛ばしたが、本音では心配していることがみんなには伝わった。
テーブル席の五人はしばらく押し黙った。賢介は自分を含めた五人が何を考え、どんな想像をし、何を危惧してているのかがわかる。みんなの頭の中に、ある一人の男の名が浮かんでいる…
「俺、今から半村歯科に行ってくるよ」
ヨシノリがそう言った。半村和樹とヨシノリは、小学校からの付き合いだ。ヨシノリや賢介と同じく、中学では安斉や万代が怖いから付き従っていたタイプで、根っからの不良ではなかった。
「そうか。じゃあヨシノリ、みんなを代表して行ってきてくれや。まったく半村の奴、いい歳してフラフラしやがって。困った奴だぜ」
万代が声を明るくして言ったが、場の空気は沈んだままだった。
もしかしたら、あいつが…?
➋
あいつ。
サスカッチこと佐橋雪男は、安斉グループのオモチャだった。そして、それを提供したのは他ならぬ賢介だった。
当時の安斉は教師たちが手を焼くほどの不良だった。その悪名が近隣他校にまで轟くほど、凶暴を絵に描いたような男だったのである。しかしそれと同時に、彼は残忍な男だった。サディストというのだろうか、趣向を凝らした様々な〈いじめ〉を好んだ。例えば、〈人間ダーツ〉。
素っ裸にされ、手足を縛られた身動きの取れない雪男を立たせ、腹にマジックで的を描く。ティッシュと消しゴム、そして画鋲で作った矢を、数人で投げて点数を競うのだ。画鋲だから、刺さったところで浅いのだが、それが延々と続くと、雪男の白い肌は真っ赤に腫れあがっていく。声が出ないよう、ガムテープで口を塞がれた雪男の悶絶がかすかに聞こえる。それを、安斉は心底愉快そうに楽しむのだった。
「ダーツはひどかったよね…」
由里の声に顔を上げる。運転席、由里の表情は冴えなかった。
「俺も今、同じこと思い出してた」
由里の車に乗っていた。ヨシノリが橋本の家に行ってしまったので、彼女が代わりに駅まで送ってくれることになったのだ。
「市来くんはどう思う?安斉君、本当に事故だと思う?」
由里の横顔を見る。
「事故なんだろ。他殺だったら、家族とか従業員以外の指紋とか足跡が出てくるんだろうし。安斉が死んですぐ警察がそう発表したんだから、怪しい点は一個もなかったってことでしょ」
「そうよね」
ただ、雪男は現在社長職を辞したとはいえ、やはり今を時めく青年実業家だ。IT関連のビジネスで大成功を収めた彼の元会社、サスカッチ及び連結子会社の売り上げ高の合計は1000億円を超えているらしい。彼の力をもってすれば、人間一人を証拠なく消し去ることなど簡単なのではないか。あるいは、警察を買収し、捜査結果を書き換えさせることだって…
「半村くんのことも、どうなんだろ」
「偶然だろ」
「偶然よね」
賢介はそう言ったが、実のところ、佐橋雪男を疑っていた。安斉のことを恨んでいる奴は大勢いるが、その中で群を抜いての筆頭が雪男であることは誰に聞いても同じだろう。それほど、雪男は安斉に〈かわいがられて〉いたのだ。
雪男が安斉を殺した。そうされてもおかしくないことを安斉は雪男にしていた。ヨシノリから電話で「安斉が死んだ」と聞いたとき、賢介の頭の中にはすぐに雪男の顔が浮かんだのだから。
「…半村くん、〈飼育係〉のリーダーだったじゃない」
「ああ」
飼育係とは、安斉が「今日はサスカッチで遊ぶか!」と言うと、速やかに雪男を連れてくる係だ。安斉のオモチャにされていた人間は他にも〈豚まん〉や〈ゲジゲジ〉、〈ホルスタイン〉等がいたが、一番のお気に入りはサスカッチこと雪男だったのだ。
飼育係は放課後になると彼らを集め、いつ安斉に言われても対応できるように準備しておくのだった。余談だが、不思議なもので、彼ら〈ペット〉は言われてもいないのに、放課後になると半村の元に集まって来る。もちろんそれは来なかった場合の制裁を恐れているからなのだが、半村はそういった意味で良い調教師だった。
「飼育係、か」
「…嫌だね。私たちって。嫌な過去…」
本当にその通りだ。賢介は安斉に逆らえなかった。万代も同じで、その彼女だった由里も同じ気持ちだったのだろう。
「飼育係、他にもいたよな」
「陣内くんと石井くんね。陣内くんは土建屋さん、石井くんは獣医さんになってるよ」
「えっ?石井が獣医?」
「うん。北海道の大学行ってね、そこで奥さんと出会って、今は奥さんの実家の近くで獣医さんやってる。千葉の習志野だって。去年の年賀状で、開業したって書いてあった」
飼育係だった石井が獣医とはな、と皮肉を言いたくなったがそれはやめておいた。
「そうか。みんな立派にやってんだな」
俺は…と思う。ごく普通のサラリーマン。さほど出世欲もなく、ただ平々凡々と日々を過ごしている気がする。それなりの給料にそれなりの住居、あとはそれなりの奥さんを見つけて、それなりの家庭を築けばコンプリートなのだが…それもどうも、面倒くさい。例えばめぐみと結婚するなんて、想像もできない。
「みんな立派。安斉君だって昔の狂犬ぶりがウソみたいにいい家庭のパパやってたし、万代くんもそうだし、涼子だってすごくいいママだし、市来くんは生き馬の目を抜く東京でがんばってる。ダメなのは私だけかも」
「そんなことないさ。東京なんて、行こうと思えば誰でも行けるし」
「ううん、大変だよ。生活するっていうのは大変。いい会社に勤めてるってことだもん」
いい会社か。確かに賢介の勤める会社は世界的に名の通った企業であることは確かだが、賢介自身はその中で小さな歯車をやっているに過ぎない。
「どうなんだろ。近頃、よくわかんなくなってるよ。周りはビルとマンションだらけ、どこを見回しても人の群れ。みんな疲れた顔しててさ、土、日にはまるで義務感みたいに金を使うんだ。あれが流行ってる、とかこれがイケてるらしい、とか、そういうネットの情報に振り回されて。今の平均よりちょっと上、の都会暮らしを、みんな無理して手に入れようとしてるんだ。下らないよ」
「何それ。世間を憂いてるの?」
「自虐だよ、自虐。俺も知らず知らず、そんな生活を送ってるんだ。都内在住、三十二歳独身男性、中の上。気づいたらそこにはまろうとしてるんだ。いや、既にはまって脱け出せなくなってるのかも」
由里が小さく笑った。
「変わってないね市来くんは。昔からニヒリスト」
中学の頃から、この手の話が通じるのは深見由里だけだった気がする。他の連中は、その時その時が楽しければいい、というタイプで、賢介は彼らに合わせていたきらいがあったが、由里だけは例外で、唯一手加減なくしゃべることができる相手だったかもしれない。
「…深見さんはさ、どうして再婚しないの」
なんとなく訊いてしまった。
「それ訊いちゃう?」
「まずかった?…というか、今彼氏とかいないの?」
「いないいない。ダメだよねー」
そうは思えないから訊いたのだ。賢介と同い年の由里だが、まだ魅力的だった。バツイチとはいえ子供はいないし、男性は放っておかないと思うのだが。
「それは単純に出会いがないだけでしょ」
「出会いは…確かにないけどさ。今ね、親の知り合いのお茶の工場で週に三回アルバイトしてるんだけど、出戻りってことは知れ渡ってるからね。なんだかんだ言っても宇都宮は田舎だしさ、よっぽどもの好きじゃないと私に声かけてくれないってわけ」
「そんなわけないでしょ。世の男性は放っておかないと思うんだけどなあ」
「そりゃ、ゼロってわけじゃないけど。軽い気持ちで近づいてこられても、こっちは遊びで付き合ってる時間ないし」
「…てことは、再婚したくないわけじゃないんだ」
「そりゃそうよう。いい人に巡り合えたらすぐにでも」
賢介の胸の中、中学時代に由里に対して抱いていた感情がむくむくと揺り起こされてくる。『だったら、俺なんてどう?』。いやいや、現実的ではない。そもそも由里は、賢介のような男性はタイプではない。万代にしても、結婚していた元旦那さんにしても(写真で見ただけだが)、背が高くてガッチリとした体形の男だった。少なくとも賢介みたいなヒョロガリではないのだ。ただ、話が合う、気が合う異性。昔からそういう相手だっただけで。
「ヨシノリなんてどうなの」
ヨシノリも身体つきだけは無駄にいい。
「は?」
驚いた顔で助手席の賢介を見る由里。続いて、吹き出すように笑った。
「ないないない。自己破産するような人はちょっとゴメンナサイ」
ヨシノリは怪しげな金融会社で金を借りたことがきっかけで追い詰められ、十年前に自己破産した過去を持つ。
「もうパチンコやめたって言ってたよ。真面目に職探ししてるって」
「どーだか。前に涼子から聞いたけど、機械メーカーに勤めてたらしいんだけど、クビになった理由知ってる?営業の外回り中に、会社の車でパチンコ行ってたんだって」
「あいつ…」
やめたと言っていたのに。行きの車の中では、ずいぶん落ち着いたな、と思ったのだが、それは単に経年変化によって、顔つきが大人びただけのことかもしれない。
「ダメな奴だな、ヨシノリは」
「ふふ、うん、ダメなの。…でもそうだなー、出戻りで、実家に寄生してフリーターやってる私には、ヨシノリ君ぐらいのがちょうどいいのかもね」
由里はそう言うとケラケラ笑った。
「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないよ」
「ううん、わかってる。でもホント、選り好みしてる場合じゃないんだよね。三十二のバツイチ女が余裕ぶってんじゃないよって感じ」
それは賢介にも言えることだ。だが、確かに男と女では感覚が違う。車窓、宇都宮の駅が近づいていた。
「あのさ、深見さん」
「ん?」
「暇なとき、気晴らしで東京に遊びにおいでよ。観たいとこ案内するよ」
「えっ?いいの?」
「いつでもいいよ」
「私一人で行ったらマズいでしょ」
「マズくないさ」
「え、マズいよ。だって彼女とかいるでしょ市来くん」
彼女は、確かにいることはいる。めぐみとは付き合って二年ぐらい経つが、ケンカして以来半年会っていないし、連絡すら取っていない。こっちから別れよう、というのがシャクだから、今は相手からの別れ話を待っているような状況だった。
「ホラ、いるんだ」
由里がにらむような視線をぶつけてくる。
「まあ、一応」
「いいよ、私を心配してくれてるんだね。私なら平気、いざとなったらお茶屋さんの若旦那と結婚すんの。四十三歳の超肥満体のオッサン。私の親がくっつけようとしてるんだ」
そんなのはやめた方がいい、と言える立場ではない。車は宇都宮駅のロータリーに入り、停車した。
「まあ、気が向いたら来てよ」
「うん、ありがと。じゃあ」
由里の車から降りる。ドアを閉める前に、ひとことだけ言っておきたいことがあった。
「あのさ深見さん。もしかしたら、ってことがあるから…気をつけて」
一瞬目を泳がせた後、由里はゆっくりと大きくうなずいた。その言葉の意味を理解したのだ。
「うん、わかってる。市来くんも気をつけて、あいつに」
あいつ。
湘南新宿ライン、その車窓に映る自分自身を見つめていた。
深見由里の言ったその人物が、佐橋雪男を指すのは明らかだ。安斉が不自然な死に方をした。万代も、涼子も、ヨシノリも、そして賢介自身も、もしかしたらあいつの仕業かも、と密かに恐れているのだ。続いて、〈飼育係〉半村の失踪。タイミングが良すぎるではないか。
「でも、まさかな」
あいつは億万長者だ。マンガみたいな話だが、中学卒業後、学力が足りずに高校に進学できなかったあいつは、どこでどう目覚めたか、とにかく眠っていた才気が開眼したのだ。それまでの遅れを取り戻すように勉学に励み、大検を取って工業大学に進んだ。在学中にインターネットサービスを軸としたIT関連ビジネスを立ち上げたあいつは、現在国内のネットショッピングではシェア三位を誇るまでになっている。その経営は多岐に及び、保険や証券、人材派遣、金融に不動産まで手掛けている。あいつの会社が具体的に何の会社なのかを説明できる人間は少ないかもしれないが、『サスカッチ』を知らない人間はいない。そんな企業のトップにいた男、それが佐橋雪男なのだ。
@Susquach
エクアドルのキトに着きました!南米は初めて。この後コロンビア、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチンと回る予定。北米と違って、人間は、南半球の方が猛烈だ。ここではちゃんと、人間が息づいている。ぼくは今、情熱の真っ只中にいる。
「次元が違うんだ」
あいつのSNSを、賢介は時々見ている。更新頻度は気まぐれで、文章も短いが、トップオブトップに君臨する人間特有の、前と上しか見ていないポジティブな文面が簡潔に綴られている。それは、中学時代に奴隷以下の仕打ちを受けていたのと同じ人間のコメントとはとても思えない、夢と希望と挑戦にあふれた内容の連続である。
そんな住む世界の違う男が、わざわざ身の危険を冒して、十七年前の仕返しをするものだろうか。
安斉は、確かに恨まれても仕方ないようなひどい行為を雪男に対し執拗に続けた。ダーツもそうだし、足をロープでくくりつけての屋上からの宙づりもそうだし、水の張った水槽に閉じ込めたりもした。ペット同士の腕を縛り、お互いを殴らせ合うボクシング大会もひどかった。また、女子の面前で自慰行為をさせたりもしていた。これらはすべて、安斉の指示で執り行われた《いじめ》だ。安斉が恨まれるのは当然…
「だからって」
雪男本人が直接手を下すにしろ、誰か人を雇って安斉を殺すにしろ、リスクが大きすぎる。もしバレた場合、佐橋雪男はこれまでの成功をすべて捨てなくてはならなくなるのだ。
仮に、雪男の現在が冴えない男だったとする。定職に就かず、引きこもっているような三十二歳だった場合だ。それならば仕返しという行動に出ることは理解できるのだ。『こんな自分になったのは、安斉のせいだ』、『安斉は幸せそうに日々を過ごしているのに自分は…』、『安斉が憎い!』。
しかし佐橋雪男は、今や誰もが知る富豪で、誰もがうらやむ大成功を手にしている身なのだ。それは有り得ない。
やはりヨシノリが言ったように、安斉の死はただの事故。便器に顔を突っ込むようにして溺死していたから、過去のいじめを連想してしまっただけで、本当に足を滑らせ、転んだ先がたまたま便器だっただけの話。要はよくできた偶然なのだ。
駅で降り、改札を抜けると同時に賢介は頭を切り替えた。あいつに気をつけて、と由里は言ったが、そもそもそんなことはない。すべて偶然、たまたまだ。雪男は賢介など比べ物にならないほど忙しい身なのだ、過去を振り返り、はらわたを煮えくり返している暇があったら金儲けの仕組みを考えているはず。きっと今だって、前だけを見ている。安斉や万代のことなんてすっかり忘れているはず。賢介のことなんて、記憶にも残っていないかもしれない。もはやあいつは、それほど別世界の住人なのだ。
コンビニで適当な夜食を買い、自宅マンションに向かっていると電話が鳴った。ヨシノリからだった。
「おう、今日はお疲れさん。半村の奥さんどうだった?」
「賢介、そのことだけど…」
歯切れが悪い。
「どうした」
「さっき、見つかったらしい、遺体で」
「イタイ?」
背筋が凍りついた。
「冗談やめろヨシノリ、そんな…」
「冗談じゃねえんだ!にゅ、ニュース速報で今やってんだ。い、い、石井と一緒だった」
「石井?あいつは千葉で獣医やってんだろ?」
「げ、現場は宇都宮じゃねえ。テ、テレビ観ろよ、なぜか半村と一緒に、し、死んでたんだ」
興奮すると言葉に詰まるのがヨシノリのクセだったことを思い出した。
「ちょっとヨシノリ落ち着け、何言ってるかわからねえよ」
「だから、は、半村と、い、石井が、こ、殺されたんだ」
ヨシノリの声が震えていた。
家に帰り、テレビをつける。NHKでちょうどニュース番組が始まったところだった。スマートフォンで最新ニュースを検索しながら、ほどなくして始まった現場からの中継を観た。
それは戦慄の内容だった。賢介にとって、そして、あいつに関わった者たちにとって。
シャワーを浴びながら、テレビやニュースサイトで得た情報、そしてヨシノリからの電話を頭の中でまとめる。
千葉と栃木の県境の山奥で、両手を繋がれた男性二名の遺体が発見された。二人は一本の木に縛りつけたロープの両端をそれぞれ左手にくくりつけられており、両者の間には争った形跡が見られた。付近にはバットが落ちており、お互いがお互いを殴り合ったことが死因とみられる。
「〈デスマッチ〉だ…」
安斉がペットたちにやらせた、ロープにつないでの決闘。
賢介たちの中学には、旧校舎の一角に使われていない教室があった。教室の天井の中央付近に、ストーブの煙突を取り付けるための金具が吊るされている。そこにロープを通し、両端にペット二名の腕をくくりつけるのだ。
『やれ』
安斉の声がゴングだ。ペット二人はビクビクしている。
『どうした、やれよ。勝った方は一週間自由だぞ』
両者は渋々近づき、お互いを殴り合う。初めは軽く、しかしそれは、徐々にエスカレートしていくのだった。時には道具が投げ込まれる。それは棒の切れ端だったり、ホウキだったりする。武器を手にした者は、持っていない方を猛烈に攻撃する。奴隷が、自由をかけて、奴隷同士傷つけ合う。
『カスがカス殴ってるぞ』
弱者たちが見せる、殺意の表情。本来安斉たちに向けられるはずのそれは捻じ曲げられ、互いに向けられる…
『見ろよ市来あの顔!超絶おもれーわ』
賢介は安斉にうなずく。〈デスマッチ〉は安斉のサディズムを満たすには充分なイベントだった。
安斉ご指名のペットを旧校舎の教室に連れて来るのは〈飼育係〉の仕事だった。その係をやっていたのが、半村であり、石井だった…
「とにかく」
シャワーを止め、ガラスに全裸の自分を映し込む。
「やはりそういうことなのか」
間違いない。安斉の件は事故として処理されたが、半村と石井の件は、何者かが仕組んだとみるべきだ。その何者とは誰か。
「佐橋雪男」
賢介はシャワーで充分に温まったはずの身体が急速に冷えていく感覚をおぼえた。そして、裸のままで玄関に向かい、ロックされていることを確認した後、普段はかけないドアチェーンを下ろした。
半村和樹 死亡
石井守 死亡
➌
@Susquach
オリンピック開幕!面白いからついつい観てしまって寝不足です。日本人メダル第一号、田中栞選手おめでとう!自国の選手が活躍するのは素直に喜ばしいけれど、同時に他国の選手が自国の選手を追い詰めてくると腹が立ってくる。これってある種のヘイトなのかなあ。グローバルに生きているつもりなんだけど、こればかりはえこひいきしてしまいます。
歯科医と獣医。
縛り付けられた男二人が、お互いをバットで殴り殺すという不可解な事件は、その奇怪さと異常性から数日間世間を賑わせたが、その直後に開幕したオリンピックの話題により、すっかり塗り替えられてしまった。
事件発生から二週間が過ぎた今では、そのような猟奇事件が起こったことすらほとんどの人が忘れてしまっている。しかし、テレビでの報道頻度こそ減ったものの、ネットニュースで調べれば続報は出てくる。今のところ、中学時代から因縁のあった両者が決着をつけるために決闘をした、という結論にまとまりそうだった。
マスコミは二人の間に確執があったことを突き止めた。動物病院開業時、石井は半村から金を借りていた。機材を導入するときに手持ちがなく、一時的に、という約束で百二十万円を工面してもらったのだという。その返済がまだ終わっていないということらしかった。それが中学時代からの友情にヒビを入れたのか?賢介が読んだニュースサイトの記事はそう締めくくっていた。…違うだろ。そんなんじゃない。賢介はその記事を否定した。百二十万の貸し借りがあったにせよ、なぜ決闘に至る?
そもそも、親の後を継いで歯科医となっている半村はそれなりの収入もあり、百二十万など彼にとって大した額ではないのだ。友人である石井に貸したことは事実かもしれないが、おそらく『いつでもいいよ』という貸し方だったはず。それを裏付けるように、両者の妻が口を揃えてこう言った。「金銭トラブルなどはなかった、旦那同士は離れて暮らしていても、互いの家を行き来し合うほど仲が良かった」と。
「決闘って」
あの二人が決闘?ありえない。気が弱く、いじめのターゲットにされるのが嫌だから飼育係を買って出たような二人だ。大人になった今でも家族ぐるみの付き合いをしていたとは意外だが、似た者同士の二人だ、気が合ったのだろう。
「決闘、させられたんだ。何者かに、無理矢理」
それは何者か。賢介の頭には一人の人間の顔しか浮かばない。
賢介は報道を信じない。事件の翌日、会社帰りに防犯専門店に立ち寄り、スタンガンを入手した。もちろん護身用である。購入時、住所と氏名、身分証明書のコピーを要求され、面倒を感じたが、背に腹は代えられない。今日も賢介は鞄にスタンガンを忍ばせて通勤した。寝るときは、枕の下に置いている。
「半村、石井…」
次、もし狙われるとしたら誰か。彼らと同じ飼育係だった陣内か。ヨシノリの話だと、陣内雅弘は中堅の建設会社に勤務しており、ブラジルに橋を造りに行っているらしい。長期海外出張というやつだ。
仕事中に由里からメールが来た。
「おお?」
今度の土曜、東京に遊びに来るという。完全に避けられたと思っていたのだが、まさかの脈ありメールだった。こんな状況なのに、賢介の胸は躍った。
「新宿はすごいね、人だらけ」
土曜の昼下がり、南口で待ち合わせた。以前よりも髪の色が明るくなっている。この前会ったときは喪服だったから年相応に見えたが、今日の服装は若々しく、メイクもばっちりだったので、三十を過ぎているようにはとても見えない。
「東京にはあまり来ない?」
「最近は滅多に来ないなー。なんか東京って疲れちゃって。でも湘南新宿ラインのおかげで一本で行けるから楽になったよね」
「赤羽あたりで乗り換えれば一時間で着くのもあるよ」
「面倒くさいの嫌いなの。座れた方がいいし」
乗り換えなしで一時間半から二時間。それを近いと思うか思わないかは人それぞれだろう。
「で、どうだった、お葬式」
半村の葬式に言ったことは聞いていた。賢介はどちらの葬式にも行かず、香典だけ届けてもらった。
「どうって、そりゃあもう悲惨だったよ。ご家族がね…」
想像はつく。泣きじゃくる奥さん、親御さん。
「万代とかヨシノリもいた?」
「うん。涼子もいたよ。安斉君の時と同じ斎場。…一応顔なじみで集まったけど、もうね、みんな特に何も話すことなく帰った」
口を開くと、あいつの名前が出そうで、みんな怖いのだろう。
「涼子もヨシノリ君も顔色悪かった。万代くんは普段通り。あの人はいつだって能天気なんだよね」
「そっか」
「それがいいところであり、悪いところでもあったんだけどさ」
由里の口から万代の話が出るのが気に食わない自分に賢介は気づいている。
「市来くんはどう?別に変わりなさそうだね」
「変わりは…ないかな。普段通りの生活してるよ」
「怖くない?」
「家に引きこもってるわけにはいかないし。働かないと。働くには出かけないと」
スタンガンを持ち歩いていることは言わなかった。
「そっかあ。…私は、一人で居るとちょっと怖いかな。狙われてるんじゃないか、見られてるんじゃないかって」
「深見さんや涼子ちゃんは大丈夫でしょ。何も悪いことしてない」
「どうかな。知ってる?いじめがあったのに、それを見て見ぬふりしてるのも同罪なんだって」
あいつの名前を出さずに、二人であいつの話をしている。
「お昼食べた?」
「ううん、まだ」
「何か食べに行こう」
少し歩いたところにある雰囲気のいいカフェに連れて行った。めぐみに教えてもらった店だった。
「お洒落なお店!…こういうお店、誰と来るわけ?一人じゃ来ないよねえ」
由里が目を細めて訊いてくる。
「…そりゃ、俺も、色々ありましたから」
「ははは、冗談。そうだよね、市来くんだって色々あるよね。私が万代くんと別れて、他の人と結婚して、離婚してるんだもん。色々あって然るべきですな!」
冗談めかす由里。
「俺のはそんな波乱万丈じゃないけど、まあそれなりに」
「で?彼女さん、名前なんていうの?」
「…めぐみ」
「めぐみさんはどんな人?いくつ?」
「歳は二十八。商社で働いてるけど、忙しい人だね」
「へー、キャリアウーマンって感じ?バリキャリ?」
質問攻めだ。
「うーん、バリバリっていう感じじゃないけど仕事人間だね。仕事が楽しいんだと思う。結婚する気はなさそうだな」
そうなのだ。めぐみはこれまで賢介が付き合ってきた女性と少し違う。ベタベタ甘えてくることもなく、結婚の二文字をちらつかせてくることもない。付き合い始めた当初はそれが新鮮だったが、あまりにも素っ気なさすぎるのもどうかと思うのだ。
「そうなんだ。なんだか私とは真逆の人っぽいね。市来くんは結婚する気あるの?」
「結婚は、いつかしたいと思ってるけど、それはめぐみではないのかな、と思う」
「何それ。付き合ってるんでしょう?」
「どうなんだろ。めぐみに悪いところはないよ、そりゃ確かに忙しい人だけど。なんだか、今は、そんな感じだ」
「へー。付き合ってるか付き合ってないのかわからない感じ?」
「一番最新で会ったのは、去年のクリスマスイブ。その時ケンカしてね、それきり会ってない」
「えー、じゃあ半年も会ってないの?」
「ああ」
めぐみとは、自然消滅するような気がしている。
「好きじゃなくなっちゃったって感じ?」
「よくわかんないよ」
「ひどーい」
「半年の空白が空いても平気なんだから、どうでもいい存在なんじゃないかってね。なんていうか、めぐみも結局、初恋のインパクトに勝てなかった」
「初恋のインパクト?」
そこでお互いが注文した料理がテーブルに置かれた。由里は小エビのパスタ、賢介はオムライス。
「おいしそう」
「食べよう」
初恋のインパクト。それは中学一年のとき。相手は他ならぬ深見由里。そのとき既に、由里は万代と付き合っていたから、賢介は何もできなかったのだ。あれから十八年、こうして再会し、二人きりでデートらしきことをしているなんて夢のようだった。
「深見さんは旦那さんと別れた後、どうしてたの」
「え?こないだも言ったじゃん、実家に戻って寄生虫生活」
「本当に誰もいないの?」
「男の人のこと?…だから、親はお茶屋の若旦那とくっつけたがってるけど、私はその気ないって言ったでしょ」
「深見さん自身が、いいなって思ったりしてる人はいないの?」
「だからホントに出会いがないのよ。バツイチっていう負い目があるからかもしれないけど、自分から誰かを好きになっちゃいけない立場だって思ってる。だから離婚後はひっそり暮らすようになったのかも。そもそもお茶屋の仕事って言っても、お茶っ葉くさい工場と事務所と薄暗い倉庫にいるだけだし、新しい出会いはないの」
フォークにパスタを必要以上に巻きつけながら由里は言った。
「よくない考え方だな」
「え?」
「よくないよ深見さん。待ってるだけじゃ」
「だって、普通そうでしょ。三十過ぎのバツイチ女と好きこのんで付き合いたくないでしょ。私だってもう失敗したくないから、男性を見る目も昔とは違うし。こんな気持ち市来くんにはわからないよ」
「…そうかな」
「そうだよ」
巻きつけすぎたパスタを、由里は大口を開けて放り込み、賢介に向けて笑った。その仕草は昔とちっとも変わらずお茶目だった。
「じゃあ、俺が、立候補してもいいかな」
「は?」
咀嚼しながら由里が賢介を見た。
「結婚相手に、俺はどうだろう」
「…え」
言ってしまった。この前言えなかったことを。そして、長きに渡って諦めきれずに持ち続けていた気持ちを。
「もちろんめぐみとは別れる。何なら今この場で電話をする」
「え、待って、そういうことじゃなくて」
「俺が深見さんのタイプじゃないのはわかってる。でも俺、ずっと好きだったんだ」
自分の鼓動が激しく高鳴っているのがわかる。言った。言ってしまった。もう後戻りはできない。
「私は…うん、正直に言うと、今私、市来くんのこと素敵だなって思ってる。でもね、ダメでしょ。冷静になって考えて、私は離婚歴があるんだよ」
「そんなの知ってる」
由里は口を閉じたままうつむいて黙っている。
「初恋のインパクト。…俺の、どうしても消せない人なんだよ、深見由里って女性は」
「え…そう、だったの?」
賢介は必要以上にゆっくりと、大きくうなずいた。これは照れ隠しだ。
「それって…いつから?」
「中一」
「ウソ!気がつかなかった…市来くんまったくそんなこと言わなかったじゃん!」
「そりゃそうだよ、気づかれないようにしてたからね。万代だっていたしさ」
「むしろ私みたいな女は嫌いだと思ってた」
「そんなことない。当時は言えなかっただけだよ。万代にはかないっこないし」
必死で恋心を隠し通した中学時代。少しでもバレたら、いじめの対象になっていたはず。
「俺、いつでも行くから。湘南新宿ラインで」
由里は下を向いた。迷っているのだろうか。やはり俺を恋愛対象として見られないのだろうか。
「いいの?」
「え」
顔を上げる由里。その目が潤んでいた。
「私で本当にいいの?」
「いい。俺はずっと、深見由里がいいんだ」
彼女の右目からポロリと涙がこぼれた。続いて、左目からも。
「あっ、ごめん」
「ううん、嬉しくて。こないだ…安斉君のときに、ひさしぶりに会ったじゃない。素敵だなあ、って思ったんだ。今日もね、別に大した用事じゃなかったけど、来てみたの。会えたらいいな、って。こんな気持ちになったのって、どれぐらいぶりだろ」
ハンカチで涙を拭う仕草。照れ笑い。なんてかわいいんだろうか。
「深見さん…」
「宇都宮じゃなくて、私がこっちに通うよ」
ドキドキする。泊まることとかを考えると、確かに由里が賢介の部屋に来た方がいいに決まってる。彼女は実家暮らしだし、宇都宮には人の目があるし。
「でも、これだけはお願い。ちゃんと、してね」
「え?」
「めぐみさんとのこと。私、ちゃんとしてくれなきゃ、嫌かな」
もっともだ。
「もちろん区切りはつける。めぐみにはちゃんと話して納得してもらう。なんなら今この場で電話するってば」
「それは、ダメ。ちゃんと会ってお話してください。知ってる?男女はくっつくよりも離れる方が大変なんだよ。ワタクシ、経験則から申しております」
そう言うと、由里はちょっと偉そうにふんぞり返った。
「ふふ、うん。わかったよ、ちゃんとする」
「そうしてください。なんて、偉そうだね私」
「いや、当然だよ」
賢介は今日にでもめぐみに電話しようと思った。
新宿の街を歩いた。どこか店に入るでもなく、都庁の方まで。
「私、市来くんのこと誤解してたかも」
横並びで歩きながら、由里はつぶやくように言った。
「誤解って?」
「あの頃…中学時代、市来くんってみんなと一緒になってバカやりながらも、どこか溶け込んでない雰囲気があって。それってきっと、安斉君とか万代くんに無理して合わせてるんだろうなって思ってた。だからその彼女だった私にも、なんとなく無理して合わせてたんだと思って」
前半は、確かにその通りだ。しかし後半は間違ってる。
「俺は本当に安斉たちにビビってたよ。でも彼らに取り入らないと、あの学校じゃまともに生きていくのは無理だったし。いいわけかもしれないけど」
「確かに。私も少なからずそういう部分はあったかな。万代くんとは同じ小学校で、なんとなくいつも一緒にいたけど、中学入って安斉君と仲良くなってからは、ちょっと感じが変わっちゃって。私もそれにつられて変わらざるを得ないっていうか。これもいいわけだね」
俺たちはきっと、安斉以外みんな、ほぼ同じ感情を抱いていたのかもしれない。クレイジーな安斉に、みんなが付和雷同していたのだ。ビル群の谷間、赤信号で賢介は立ち止まった。
「深見さん。俺は弱い人間だよ。本当に情けない」
いじめられるのが怖かったから、いじめる側に回った。
「私だって同じだよ。誰だって自分がかわいいし」
でも俺は、今も同じような生き方をしている気がする。事なかれ主義で、寄らば大樹の陰。出る杭が打たれるのは知っているから、目立たぬよう、長いものに巻かれ、主流に乗り、中道に生きている…。
時折賢介は自分が情けなくなることがある。そして、自分がそういう人間になってしまったのは、あの中学時代のずる賢い生き方のツケだと思うのだ。ああいう生き方は、クセになる。人をダメにする。
「私ね、だからびっくりしたんだよね。中学の頃、市来くん頭も良かったじゃない。無理にみんなと合わせてるんだろうな、って。そう思って見てたし、実際高校で離れ離れになってからは、成人式の後の同窓会だけだよね。それがこないだ、安斉君のお葬式に来てたから、意外だったんだ。そういうの来るタイプじゃないと思ってたから」
意外、か。そうかもしれない。確かに安斉の死だけでは、賢介が宇都宮に赴くことはなかっただろう。あいつへの疑惑もあったものの、不謹慎かもしれないが、葬式にかこつけて、離婚したという由里にひと目会いたかった。それが理由の筆頭かもしれない。
「深見さんの言うとおり…俺は、安斉や万代に友情を感じたことはなかったよ。ヨシノリにだって半村にだって、涼子ちゃんや陣内や石井にも、一度も。ひどい奴だよな」
「やっぱりね」
「でも一人だけ例外があって、それが深見由里って子だったわけ」
信号が青に変わり、歩行者が渡り始める。
「ははは、やだ」
「変な感じだけど、そうだったんだ。深見さんはずっと、あの陰鬱な中学時代、俺の支えだった。どんなに悪いことをしても、どんなに胸の痛むことをしても、深見さんと仲間でいられるなら構わないって。そう自分に言い聞かせながら日々過ごしてた気がする」
立ち止まったままの賢介と由里を、次々と歩行者が追い越していく。
「歩こ」
「ああ」
この先にある公園に向かった。
「あのさ。…市来くんどう思う?仕返しをしているのって、やっぱりあいつなのかな」
「俺も、どうしてもそう考えてしまう」
「石井くんと半村くんが、本当にいがみ合ってたってことはないかなあ」
そうであって欲しいという願望が言葉に含まれている。
「もし報道されてるみたいに、二人の間に確執があったとしても、あんな決闘の方法を選ぶと思う?」
「…だよね」
由里もずっと不安なのだ。
「半村くんのお葬式の後にね、少しみんなで集まったって言ったじゃない。ちょっとだけしゃべって別れたんだけど、その時にね、涼子が言ったの。『警察に昔のこと話してみる?』って」
賢介は由里の横顔を見た。
「…それで、みんなは?」
「万代くんは、そんなの駄目だって。ヨシノリ君も」
「そうなるよな。深見さんはどう思う?」
「私も、できれば言いたくないけど…でも、涼子の怖い気持ちはわかるから」
警察に言う、ということは、あの頃いじめに関わったすべての人間に影響が出てくるということ。安斉が布いた恐怖政治のせいで従わざるを得なかったというのは言い訳だ。東条英機だけがA級戦犯ではないように。
「みんな、今がある。今のささやかな生活を守りたいのさ」
由里はうなずいた。賢介だって、今さら過去をほじくられたくはない。
「勝手だけど、中学生なんて子供だ。子供時代の悪さで、今を失いたくない」
「そうだけど…でも。私たちは、悪ふざけでは済まされないことをした」
うつむきながらつぶやく由里。
「…六条のことを気にしてるの?」
その名に、由里は身体を一瞬震わせた。誰もが思い出したくない名前だろう。
「わかんない。でも、それを蒸し返されるるのが、みんないちばん怖いんだろうな」
「だよな。俺もだよ」
六条保志。雪男と共にペットだった男だ。〈ホルスタイン〉六条保志と〈サスカッチ〉佐橋雪男は、安斉お気に入りのツートップだったのである。
六条保志は中学二年から三年に上がる春休みに、幹線道路上で大型トラックにはねられて死んだ。高さ八メートルほどの跨道橋から道路上に飛び降り、トラックにはねられたあと、走っていた車に次々と轢かれたという。遺書などは無かったが、自殺として処理された。
なぜ自殺をしたのか明確な理由は不明だったが、当然ながらいじめを苦にした自殺では、との声が上がった。
教育委員会の審査が入ったが、学校側はいじめの事実は無かったという結論を出した。六条保志は事故死。当時の賢介たちは無理にそう思うことにした。ちなみに、六条の死を知った安斉は、特に何の変化も見られなかったことは言うまでもない。実際、賢介は当時、安斉にこう言われたのだ。『お前とヨシノリで代わり補充しとけ。ペットは常に四匹はいねえとなあ』。
いじめ甲斐のあるやつが一人死んだ。それは安斉にとって、四匹いたペットのうち一匹が減ったということであり、電球が一個切れちゃったから替えといて、程度のことにしか過ぎない。その当時の安斉誠はそういう男だったのである。
「ともかく…深見さんが狙われることはないよ」
「なんでそんなこと言えるの」
「だって深見さんも涼子ちゃんも、直接あいつらには何もしてないから」
二人は安斉、万代それぞれの彼女としてそばにいただけだ。
「言ったでしょ、見て見ぬふりも同罪だよ…私は万代くんの横で、色々見てきたわけだし」
見てきた、か。
賢介の頭に印象的で強烈なワンシーンが浮かんでいた。雪男、内田、そして高木というペット三人が、いつもの教室に集められ、裸にされていた。ふんぞり返って座った安斉が、『やれ』と低い声を出す。脇にいたヨシノリが小さくうなずき、三人の前に立った。
『それでは三人、いいですか?…よーい、ドン!』
ヨシノリのふざけた声を皮切りに、三人は困惑しつつも自らの性器を握りしめ、しごき始めた。雪男のそれは固くなっており、他の二人はしおれたままで、なかなか大きくならないようだった。
『この状況でビンビンだぜ』
安斉が雪男に舌を巻く。確かに、雪男のそれは見事だった。
『サスカッチ、さすがっち、でございま~す!』
ヨシノリの実況が冴える。こういう時の司会はお調子者のヨシノリと決まっていた。
『おーっと豚まん、ちょっとデカくなってきたぞー!』
『ちっ、ゲジゲジの野郎、全然ダメだな』
万代が舌打ちをする。三人の内、誰が一番早く射精できるか。これが賭けの対象になっていた。教室では安斉グループの他に、十数人の生徒も賭けに参加している。確か、一口千円だった。
『さて、誰が一番早くイケるかな~?』
最低な催しだ。が、中学生が一番盛り上がるのはこんなことだ。
『いけ!サスカッチ!』
『豚まん、まくれまくれ!』
壮絶な光景。しかも、安斉の横には涼子、万代の隣には由里が座らされていた。二人とも、さすがに顔を逸らしていたが、涼子は安斉に頭を掴まれ、強引に見させられていた。
『おーっと、ここでサスカッチがフィニッシュ!…サスカッチに賭けたのは…安斉君と陣内と小嶋、吉岡。おめでとうございま~す』
外れ掛け金を、勝った四人で分ける。
『サスカッチには四日間自由の権利が与えられま~す』
『二日だ』
金を受け取りながら安斉がヨシノリを睨みつけた。
『間違えました、二日の自由です』
異常だった。イカレた中学時代だった。
「そんなこと言ったら、あの学校にいた全員が殺されても文句言えないってことになるぜ」
ベンチに腰掛けながら賢介は由里に言った。
「安斉の開催するイベントには、生徒会長も呼ばれてたし、ブラバンの部長と副部長、野球部やサッカー部の奴ら、バスケ部、柔道部もいたんだ。あれは安斉なりの接待だったんだから。あいつらだって同罪だ」
「それはそうかもだけど…その人たちは、安斉君の強引な誘いに仕方なく連れて来られただけで」
「それを言ったら涼子ちゃんも由里ちゃんも一緒だよ。二人とも彼氏の横でやむなく、って状況だったし」
由里は少し考えてからうなだれた。
「万が一、あいつだとしても、女の子は狙わないさ。それは逆恨みというもんだ」
賢介は力強くそう言った。本気でそう思っている。由里、涼子は殺されることはない。
そして、多分、俺も。
「市来くん」
「何?」
ベンチの横に由里が座った。
「さっき、私のこと名前で呼んだね」
「え…そうだった?」
「由里ちゃん、って」
「あ、ごめん」
「いいの。ちょっと嬉しかった。そう呼んでくれていいよ」
➍
深見由里を新宿駅まで送り、家まで歩いた。
由里にずっと好きだったことを伝えた。由里との結婚。あれほど嫌悪し回避してきた結婚という二文字が、今はすっきりと受け入れることができる。
「結局、ずっと由里を忘れられなかったんだな、俺は」
由里の気が変わらないうちに、一刻も早くめぐみと別れなければならない。めぐみとは半年も会っていないのだ、お互いの気持ちは冷めているわけで、あっさりと別れられそうな気もするが、めぐみは気の強い女だ。一方的に別れを告げたりすると、ヒステリーを起こしかねない。気持ちを逆なでしないよう、慎重に話を切り出さなくてはいけなかった。明日は日曜、めぐみは暇だろうか。帰ったらすぐに電話をしてみよう。
背後から駆け寄って来る足音。思わず肩掛けのバッグに手を突っ込み、ゆっくり振り返る。その人は賢介の横を走り抜けて行った。ランニングウェアにスポーツシューズ、ただのジョギングだ。バッグの中、賢介はスタンガンから手を放す。
…安斉、そして半村、石井。彼らの死が雪男の手によるものであった場合。由里にも言ったように、女性である由里と涼子に危害が及ぶことはないと賢介は思っている。復讐に燃えているにしろ、女子は許してやるに決まっている。
そもそも、犯行自体が浅はかすぎる。
はたしてこの一連の死は、雪男がやったものなのだろうか?仮にそうであった場合、彼は今や圧倒的な経済力、そして権力を手にしているのだ。昔自分をいじめた相手を一人ずつ殺していくよりも、社会的な制裁を与えた方がダメージが大きいとは考えなかったのだろうか。やり口が、あまりにもストレートすぎるのだ。せめて本丸である安斉は、じわじわと追い詰め、最後に殺害するべきではないのか?少なくとも賢介が雪男だったとしたらそうする。
自宅マンションに着く手前で電話が鳴った。相手はヨシノリ。妙な胸騒ぎを憶えつつ、賢介は電話に出る。
「市来か。…ちょっと時間いいか」
「ああ、どうした」
「実は気になることがあってな」
誰かがまた…というわけではないらしいので、少し安心する。
「一週間前に、権田先生が亡くなったらしい」
「権田…生活指導の権田先生か?」
事なかれ主義の教師の中において、一人指導熱心だった教師だが、ある時を境に安斉グループには干渉してこなくなった。こいつらには何を言っても無駄だ、と匙を投げたのだろうと当時は思っていた。
「それってあいつ…」
「いやいや、病院で死んでるんだ。ずっと入院してたらしい。だから関係ないと思うんだけど…」
「助からない病気だったのか?」
「胃ガンだって。上毛新聞のお悔やみ欄にはそう書いてあった。俺もさ、さっき後輩から聞いたんだよ。中学の時の先生死んじゃいましたね、って。それで知ったから」
電話から聞こえるヨシノリの声はしかし、不安そうだった。
「それこそたまたまだろ。ガンだろ?病気は避けられない」
「だよな」
「気にしすぎだヨシノリ」
「ああ。でも…そうか、市来は知らないのか」
「何を」
早く帰ってシャワーを浴びたいのだ。半日由里と歩いたから、汗をいっぱいかいている。
「あのな、権田先生、安斉に弱味握られてたんだ」
「は?なんだそれ」
弱味とは?
「菊池サンって覚えてるか。安斉の先輩の」
菊池…そういえば、時々先輩風を吹かせに来る高校生がいた。二学年上の先輩で、入学したての安斉にボコボコにされてから、安斉の言いなりになった男だ。安斉には媚びへつらうが、賢介たちには偉そうにしていた嫌な奴。
「そいつがどうした」
「菊池サン、安斉に気に入られようとして、権田先生の弱味を作ったんだ」
「だから弱味ってなんだよ」
そんな話聞いたことがない。
「菊池サン、同じ高校の女友だちを使って、権田を引っ掛けたんだ。いや、別に権田先生がその女に何かしたってわけじゃねえんだぜ、ただ一緒に歩いてるところを写真に撮って、あとは女を騒がせた。『あのおじさんと援助交際してます』ってな感じよ。菊池はその情報を安斉にプレゼントした。安斉はその写真と女の証言で権田先生を黙らせてたってわけ」
賢介の疑問が一つ解けた。いつも口やかましく安斉グループを叱りつけていた権田先生が、中二の二学期頃から急に何も言わなくなったのだ。しかし当時は、熱血漢の権田先生もついに疲れて諦めたか、と思ったものだったが、それにしてもパッタリと関わらなくなってきたから、奇妙に感じていたのだった。
「そういうことだったのか」
「ああ。それをネタに権田先生を黙らせていたんだ。旧校舎に自由に出入りできるようになったり、屋上のカギのコピーを持てるようになったのは菊池サンの暗躍のおかげだったわけ。あの中学、うるせえ教師は権田先生だけだったからな、そこを押さえちまった安斉は、校内において向かうところ敵なしになった」
ということは…権田先生も、あいつに恨まれる要素はあったわけだ。しかし権田先生は末期ガンで入院中だったのだ、病魔にやられたと考えるのが普通だろう。
「…そんなことがあったのは知らなかったな。それって安斉とお前しか知らないことか?」
「あと万代」
「そうだったのか。…けど、権田先生は病死なんだろ」
そうに決まってる。あいつに殺されたわけではない。
「病死だ」
「さすがに病気は操れないだろうが」
「だけど…人為的な治療ミスとかさ」
「考えすぎるなヨシノリ。切るぞ」
「…ああ。なあ市来」
「なんだ」
「…いや、おやすみ」
電話を切った。安斉、半村、石井。あまりにも雪男にした仕打ちと似ているから殺されたと思ってしまうが、もしかしたら本当に偶然なのかもしれない。賢介はそう思おうとした。しかし、やはりそれには無理があるのだった。
自宅に帰り、電気をつける。部屋の中はいつもよりきれいに片付いている。なぜかというと、もしかしたら由里が来るかもしれない、と考えたから。そして、あわよくば泊まっていけば…とやましい考えもあった。が、もちろんそんなことは起きず、昨日の夜きれいに掃除をした部屋は、空しく輝いている。賢介はソファに身を投げ出した。早くシャワーを浴びよう。でもその前に…
「めぐみに電話だ」
嫌なことを後回しにしてはいけない。
翌日の日曜、賢介は中目黒の駅にいた。約束の時間の五分前、めぐみはまだ来ていない。
昨夜の電話口での、めぐみの反応は意外だった。「ひさしぶりだね」と言った彼女の声は、暖かく優しかった。一瞬揺るぎそうになった気持ちを奮い立たせ、心を鬼にして別れ話を切り出したのだが、その途端めぐみが金切り声に近い大声を放った。電話越しになだめ、面と向かって話をしようということで今日に至る。
「ひさしぶり」
ゆっくり歩いて来ためぐみに声をかける。彼女の顔つきは能面のようだった。かなり怒っている。
「暑いね、どこか入ろう」
そう言った賢介に対しても反応は薄かった。とにかく近くのカフェに入り、飲み物を注文する。店員に冷たいカフェオレ二つ、と頼んだ賢介に、めぐみは「あったかいのにして」とぶっきらぼうに言い放った。
「それで?私と別れたいって?」
イスにもたれかかり、腕を組んで賢介を見据えるめぐみ。彼女は賢介より四つ年下だが、顔の造りが濃いから少し老けて見える。
「別れたいというか、俺たちここ半年ろくに会ってもいなかっただろ」
「それは私の仕事が忙しいから仕方ないでしょ。賢ちゃんだって去年は出張が多くてずっと会えない時期あったでしょ、お互い様じゃない」
「でも電話もメールも…」
「特に用もなかったし、連絡する必要もないでしょうが」
「でも」
「今何してるー?ちょっとおしゃべりしよー?って?アホな女子大生じゃないんだから、そんなヒマあるわけないでしょ」
怖い。賢介は目の前のめぐみに対し迫力を感じている。由里とはタイプ的に真逆だ。めぐみはどちらかと言うと釣り目で、キリリとした美人タイプで、その見た目どおり、めぐみは攻撃的で角ばっている。対する由里は年齢より幼く見え、垂れ目で優しげな雰囲気。性格もおっとり、ふんわりしている。
「じゃあめぐみは、今のままでいいと思ってたのか?半年も音沙汰…」
「いいとは思ってなかったわよ。けど仕事も大事でしょ。おとといまでインドネシア行ってたの。お湯が二分で出なくなるホテルに三週間も泊ってたんだから。でも結果出してきたわ、賢ちゃんはのんびりしてるみたいだけど、私は同期の誰にも負けたくないのっ!」
上昇志向が強い。めぐみは気が強く、負けず嫌いで努力家だ。そういうところは心底尊敬しているし、彼女に惚れたのはそういう一本気なところだった。が、賢介は改めて思っている。めぐみは家庭向きの女性ではないのだ。結婚するなら、やはり由里のようなおっとりしたタイプが…
「あーあ、そっか。結婚しても、賢ちゃんみたいなタイプだったらうまくいきそうだな、って。そう思ってたのになあ」
その声は意外だった。
「賢ちゃんって私を束縛しないし。私が忙しいのを慮ってくれてるんだとばかり思ってた。そりゃ、電話もメールもおざなりだったことは悪かったって思ってるけど、賢ちゃんとはなんとなく気が合うと思ってたし」
半年以上会ってないのに、恋人も何もない。
「めぐみのことを嫌いになったわけじゃないよ。ただ、そういう行き違いがあったんだね。俺は、自分の彼女とはできれば毎週会いたいし、仕事優先じゃなく、俺のペースに合わせて欲しかった」
「ふうん…別れる気満々ね。そのセリフ用意してきたんだ」
めぐみは不敵に口角を上げ、テーブルに置かれたカフェオレを見つめた。
「そういうわけじゃないよ。ただ、一応付き合ってるんだし、もっとデートとか…」
「素直に他に好きな人ができたって言えば?」
言葉に詰まった。
「これかあ。飲みにくいのよねえ」
めぐみのカフェオレは、取っ手のついていないカップに入っている。それを両手で持ち、めぐみは一口すすった。
「小洒落たカフェに行くと、こんな容器で出てくる。でもこれって誰が得するの?犬じゃないんだから普通のカップで出して欲しいわっ」
苛立つめぐみ。
「で?他に好きな人できたんでしょ?」
「いや、だからその、俺も三十二だし、そろそろ結婚を考える年齢で…」
「私は賢ちゃんの結婚相手ではないわけね」
「時代にそぐわないかもしれないけど、俺は家庭に入ってくれる人が理想で」
「それ本気で言ってんの?」
上目づかいで睨まれた。
「東京で結婚して共働きじゃないなんて無理よ。都内のマンションの相場いくらか知ってる?子供が欲しいならなおさらのこと、最低でも六十万は必要よ。賢ちゃん一人でそんなに稼げてる?せいぜい五十ぐらいでしょ。葛西からの通勤が億劫で中野に引っ越した賢ちゃんが、千葉埼玉の田舎に家買って、満員電車に揺られて通えんの?そもそも私、仕事辞める気ないし」
これまた意外だった。そこまで考えていたなんて。
「ごめん。だからそういう、価値観の違いがあるんだよね」
「ウソつき」
大きなため息。賢介は恐る恐るめぐみの顔を見る。
「賢ちゃんって本音を言わないよね。はっきり言えばいいのに、他に好きな人ができたから別れたいって。そうなんでしょ?物事の核心をずらしたプレゼンで、いい結果は得られないよ。それって何、私に気を遣ってんの?」
傷つけたくないというのもあるが、それよりも…
「違うみたいね。賢ちゃんはいつも、自分が悪者になりたくないだけ。そういうスタンスで生きてる。ずるいんだよね」
後頭部をガンと叩かれたように、モロに図星だった。
「まあいいわ、大物にはなれないタイプだとはわかってた。けど、そこが良かったんだけどなあ。…ふう」
めぐみは立ち上がった。
「いいよ、別れたげる。その代わり、一回相手の人と会わせて。三人で食事したいから」
「えっ」
想定外の回答に動揺する。
「相手の人が私とどう違うのか、私に持っていない何を持っているのか、何が賢ちゃんの心を捉えたのか、今後のためにそれを見ておきたいの。それぐらいしてもいいでしょ?」
ちょっと変わっているとは思っていたけれど、めぐみは相当な変わり者だったのかもしれない。
「私だってもうじき二十九で、そろそろ結婚したいって思ってんのよ。そう考えると次付き合う人で失敗したくないじゃない。だから後学のために相手の女性を見ておきたいわけ。ね、だから会わせて。それが別れる条件。じゃ、二週間以内に連絡すること。来月になったら私またジャカルタ行かなきゃなんないから」
めぐみはそう言うと、自分の分の代金をテーブルに置いてカフェから出て行った。去って行くめぐみに、窓越しに店内から手を振ったが、めぐみは健作に気づくことはなく、さっさと歩いて行ってしまった。
カフェを出て、街をあてもなくさまよい歩きながら賢介は頭の中を整理する。めぐみは上昇志向の強い女性で、仕事が一番。結婚など念頭にないタイプだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。しかし、カフェではその勢いと迫力に圧倒されていたが、もしかしたらあれは彼女なりの強がりなのかもしれない。だって普通、彼氏の新しい彼女と会って話してみたいなんて思うか?男女の違いかもしれないが、逆の立場だった場合、賢介は相手の新しい恋人と話してみたいとはまったく思わない。
ビルの大きな看板、学生の頃好きだった映画の続編がきている。今日は特に何もすることがない。賢介は映画館に入ることにした。運よく二十分ほど待てば次の上映だったので、チケットを買い、映画館のロビーのソファで開演を待った。
由里と、結婚を前提に付き合う。…本当にそれでいいのか?離婚歴は気にならないのか?彼女は万代の元彼女だぞ?初恋の感情こそ強いが、俺は由里の何を知っている?
めぐみと蜜月だった期間は一年ほどだが、今日の彼女は賢介の知らないめぐみだった。由里も、実際付き合ってみればとんでもない女かもしれない…。
由里は賢介と同い年の三十二歳。女性の三十二と男性の三十二は感覚が違う。おそらく由里は交際期間もほどほどに早く結婚したいことだろう。現段階ではかわいく、おとなしく振舞っているが、実際一緒に暮らしてみると、おかしなところがいくつもあるのかもしれないのではないか。急に不安になってきた。
結婚して一年後に別居。深見由里にもきっと問題があるのだ。
「おっ…」
着信音を消していた携帯が、ズボンのポケットの中で震えた。画面表示は深見由里。一瞬で不安が消し飛ぶ。ということは、やはり掛け値なしに彼女のことが好きだということだ。めぐみと別れたことを報告しよう。そして、言いづらいけれど、めぐみと三人で会うということも言わなければならない。
「もしもーし、由里」
「市来くん、大変」
その緊迫感ある声に、一瞬で頭の中があいつの顔に占領された。
「今ニュース見た?サンパウロで日本人が死んだって…」
「は?サンパウロ?いや、知らない。今外なんだ」
「昨日ね、日本時間の夜中に、建築資材の下敷きになって日本人の現場監督が死んだの。その人の名前が陣内雅弘…これって陣内くんのことだよね…?」
陣内はブラジルに橋を造りに行っている。今、あいつはどこにいる…?
@Susquach
リオにいます。今こっちは冬で寒いんだけど、人々の陽気と活気でいつも晴れやか!カーニバルの時期じゃないけど、普段から街は賑やかで、毎日お祭り騒ぎって感じです!
ブラジルにいるじゃないか。
開演時間になり、賢介は呆然としたまま映画館の中に入った。が、長いCMと予告編の途中で、自分が映画など楽しめる気分ではないことに気づいた。しかし賢介は退席することなく、半ば意地で、ほどなくして始まった映画を観続けた。当然内容など頭に入ってこない。
陣内雅弘は飼育係だった。他の飼育係の半村と石井は既に死んでいる。資材の下敷き?それって単なる事故じゃないのか?しかしこんなにタイムリーに、あの頃の仲間がバタバタ死んでいくのはおかしい。やはりあいつが関与しているのか…?
地図で見る限り、リオデジャネイロとサンパウロは五百キロほど離れている。ただ、あいつがリオに行く前にどこにいたかは、誰も知らないのだ。
結局賢介は最後まで映画を観てから外に出た。映画館にいる間に夕立が降ったらしく、アスファルトからムッとする匂いが立ち上っていた。
映画を観ている間にメールが届いていた。珍しく万代から。件名は、『みんなへ』。複数人にまとめて送信したのだろう。きっと陣内に関することだと思い、賢介はそれを開いた。
『俺が終わらせる』
一行、たったそれだけ。終わらせる?意味がわからず首をひねっていると、手の上の携帯が振動した。ヨシノリから電話だ。
「おーヨシノリ、今万代からのメール見たけど…」
「け、賢介っ、ば、万代が…」
「どうした落ち着け」
そう言いながら、賢介は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「ば、万代が…首吊って、死んだ」
権田久雄 死亡
陣内雅弘 死亡
万代真也 死亡
➎
万代が自殺した。
日中、自宅のウォークインクローゼット内。万代は電気コードを首に巻き、コート掛けに縛りつけて首を吊ったらしい。突発的な自殺だったらしく、家の中には家族もいたが、気づいた時には既にこと切れていた。
警察の見立ては完全に自殺。ヨシノリの電話を受けた時点では、自殺に見せかけた巧妙な他殺を想像した賢介だったが、仲間内に送られたメール、さらにクローゼット内に置かれていた遺書から、自殺ということは確実なようだった。
『俺が終わらせる』。
中学時代の悪質ないじめ、その責任を負って、安斉に続いてナンバー2の地位にあった万代は、自らの死によって、この最悪な連鎖の阻止を図った、と見るのが妥当だった。
そして、遺書の内容。万代の奥さんから話を聞いたヨシノリによると、自ら命を絶つことに対しての家族への謝罪と、妻と娘への愛が綴られていたという。そして、最期はこう締めくくられていたそうだ。
『Sへ これで許してくれ』。
三日後、賢介は宇都宮駅にいた。ロータリーで待っている賢介の前に、大型の外国製セダンが停まった。
「乗って」
開かれた窓の奥、由里が運転している。
「ウソだろ?こないだの軽だと思ってたよ」
「これは父の。私の軽はぶつけちゃって、今修理中」
「お父さんマフィア?」
「やめてよ、こんな時に冗談」
それぐらい由里には似つかわしくない車だった。
「ごめん。…大丈夫か、由里」
「大丈夫、と言いたいところだけど、ごめん、やっぱりかなりショックかも」
それはそうだろう。死んだ万代は仮にも由里の元恋人なのだ。
「でもね…でもね…、なんか、変なところでホッとしてる。万代くんとは小学生のときから仲良くって、その頃はね、本当に仲間思いのガキ大将って感じだったの。でも中学入って安斉君とつるみ始めてから、ただの乱暴者みたいになっちゃって…私、あの頃すごく嫌だったの。安斉君には逆らえないっていうのはわかってたんだけど…」
不釣り合いな車を運転しながら由里は言った。唇が震えている。
「そうだったんだ」
あの万代が、昔は仲間思いの熱い奴だったとは。賢介にとって万代は、単なる安斉のイエスマンだった。
「だから、今回のことは…とても悲しいけど、昔の万代くんに戻ったんだ、って思うようにしてる。仲間を助けるために、あいつを止めるために、自分で…」
嗚咽が漏れた。賢介は由里に一旦車を停めるよう提案し、由里は近くにあるドラッグストアの駐車場に入った。
「ごめん市来くん。嫌だよね、昔の彼氏の話なんて」
「中学の時のことだ、気にしないさ」
「その中学の頃のことをずっと根に持って、私たちの命を狙ってる人もいるんだよ」
あいつ、佐橋雪男。由里はもう、完全にあいつが犯人だと決めつけているようだった。もっとも、それは賢介とて同じだが。
「陣内くんがブラジルで死んだ。事故に見せかけて殺されたのよっ」
由里は嗚咽混じりにそう言った。
「…そのことだけど」
賢介は助手席から運転席に向けて半身になった。
「あいつは引退後、世界を回るとか言って旅行してるらしい。俺、あいつのSNS見てるんだ」
「知ってる。私も見てた」
きっとみんな見ているのだろう。
「あいつ今、リオデジャネイロにいるでしょ?」
「ああ」
「あいつはきっと、お金で工事現場の人を買収して、陣内くんを殺させたのよ。現地の警察も買収して、事故ってことで処理した。きっとそうよ、そうなのよ」
「…かもな」
賢介はうなずく。直接手を下さなくとも、誰かにやらせればいいのだ。そういう立場に、あいつはいる。
「安斉君だって、真相はどうかわかんないよ?市来くんは知らないかもしれないけど、あいつはもうこの街ではすっかり名士なの。二年前に宇都宮市の中心地に土地買って、市に公園をプレゼントしたの。それにサスカッチの子会社の人材派遣会社は栃木のサッカーチームのスポンサー。去年現職破って当選した味川って代議士はその会社の社長だった人だよ。市議会にも県議会にもあいつの息がかかった人間が何人もいる。前の選挙で無所属非公認だった人たちはみんな味川一派。警察だって、ちゃんと調べてるんだかどうだかわからないんだから。もう既に県警内部にも味川の息がかかったのがいるのかもしれない。私たちが過去を洗いざらい警察にしゃべったところで、どうなることか…」
賢介や由里、ヨシノリが騒いだところで、簡単にもみ消される。由里はそう思っているらしい。確かに黙っている方が利口なのかもしれない。
「警察から由里のところに何か話はあったか?」
由里は首を振った。
「…俺たちの仲間だった安斉、半村、石井、陣内が死んだ。それを受けて万代が意味深な遺書を残して死んだっていうのに、地元に住んでる由里やヨシノリたちに、警察から何も声がかからないのは確かに不自然だよな」
大きな力が動いているのか?ただ単に警察が無能なのか?あるいは賢介の考えすぎなのか?とにかく不気味だった。
「あいつが…誰かにやらせているのよ」
ポツリと由里が言った。
「半年ぐらい前、あいつが若隠居するとかいう記者会見、私観たの。あいつこんなこと言ってた。『やり残したことがある』って」
賢介も同じ番組を観た。皮肉なことに、めぐみと一緒に観た。あれは…街頭の大型ビジョンだ。そしてその後、ケンカをしたことを思い出す。
「俺も観たよ」
「やり残したこと、って、私たちへの復讐よ」
ハンドルを抱え込むようにして、由里はうなだれた。相当精神が参っているようだった。めぐみと会わせるのは当分先延ばしだな、と賢介はぼんやりと思った。
万代の葬式を終えた賢介は、由里、ヨシノリ、涼子と四人でコーヒーを飲んでいた。安斉の時に行った店は避け、チェーン店のコーヒーショップにした。
席に着いたが、みんな押し黙ったままだった。涼子のやつれようが特にひどい。ヨシノリの顔色も悪かった。
「偶然じゃ、もう済まされなくなったな…」
神妙な面持ちのヨシノリに、賢介は言った。
「ああ。少なくとも万代は、偶然とは見ていなかった」
「そうだな…なあみんな、これで終わると思うか」
訊いてみた。三人は目を伏せた。
「万代はスケープゴートになってくれた。もしかしたら、止まるかもしれないんじゃないかな、って俺は思ってる」
「すけーぷごーとって?」
「人身御供さ。万代は、自分の身を差し出すことによって、俺たちの身代わりになろうとした」
涼子に答え、由里、ヨシノリの顔を見る。
「お、お、俺たちは全員殺される。あいつからは逃げられない」
ヨシノリが顔を青くさせたまま言った。
「やめてっ!」
涼子が耳を塞いだ。目の下のクマがひどい。
「ヨシノリ変なことを言うな。なあみんな、俺思うんだ。死んだ人間には悪いけど、ここにいる四人には共通点がある。それは、当時少なからず罪の意識があったってことだよ。あいつを含めたペットだった人らに、裏では優しく接していた。違うか?」
そうなのだ。いじめを心の底から楽しんでいたわけではない。もちろん関与・加担していたことは事実だとしても。
「この四人が残っているのには理由がある。俺たちはもしかしたら、狙われないんじゃないか?特に女性二人。涼子ちゃんにしても、由里…深見さんにしても、あいつらに直接暴力を働いたことはないんだから」
涼子と由里はうつむいたままだった。
「高木が死んでたよ」
「は?」
高木。ヨシノリが口にしたその名が、ペットのメンバーだった〈豚まん〉であることを賢介は思い出した。
「…どういうことだよ」
「ひと月ほど前、車にひかれて死んだんだ。川崎で」
「川崎?神奈川の?」
「川崎の工場で働いてたらしい。仕事終わりに職場の人らと飲みに行ったらしいんだけど、その帰りにひかれたって話だ。ひき逃げで、まだ犯人は捕まってないって」
涼子が震え出した。由里がその背中に手を当てている。涼子は相当参っている様子だった。
「高木が…いや、というかちょっと待てよヨシノリ。それをなんでお前が知ってるんだ」
ヨシノリが顔を伏せた。
「ペットだった奴らが…何か、企んでるんじゃないかと思って、調べてみたんだ。もしかしたらあいつ以外の誰かなんじゃないかと思ってな」
「すごいな」
「無職だからな、ヒマなんだよ」
しかし、雪男以外の誰か、か。賢介は考えもしなかった。
「あいつは自分の会社を辞めるとき、《やり残したこと》があるって記者会見で言った。俺たちは、口には出さないけど、その模様を全員観たはずだ」
賢介はうなずいた。由里も小さくうなずいた。
「あいつがSNSをやっていることも俺たちは知ってて、安斉が死んでからはその動向にみんな注目してたはずだ。そうだよな?」
「…ああ、そうだよ。ずっと気になってチェックしてたよ」
ヨシノリは渋い顔をしてうなずいてから話を続けた。
「けど、SNSに投稿されるのは旅行先の写真ばっかりなんだ。陣内が死んだとき、あいつはたまたまブラジルにいたけど、安斉が死んだときや半村たちが死んだときは、あいつはカナダとアメリカにいたんだ。もしかしたらあいつは関係ないんじゃないか?もしも関係ないとしたら、その他のペットだった奴らが何かやってるのかも…って」
「ヨシノリ、それは違う。ペットたちの中でも序列があった。ホルスタインを除くと、ゲジゲジ→カビ→豚まん→サスカッチ。あいつは最下位だった。見ててわかってただろ?…人間はどんな状況下でもヒエラルキーを形成するんだ。弱いものはさらに弱いものを叩く。太古の昔から奴隷の中でも上下関係があった」
「そうなんだよ賢介。だからこそ、高木が車にひかれて死んでたって知ったとき、やっぱりあいつが犯人だって確信したんだ。高木の奴は俺たちの知らないところで、あいつをいじめていたんだろうな」
ヨシノリは意外に物事を冷静に分析している。昔からのんきでボーっとしているように見え、実は人一倍場の空気が読める男だった。安斉や万代に取り入るのも早かったのは、その才能のおかげだろう。
「で、他のペットだった奴らは?名前忘れちゃったけど、ゲジゲジと、あとホルスタインの代わりに陣内が連れてきたカビ」
「宇田川くんと和木くん」
由里が憶えていた。
「宇田川は私立の高校行ってから調理師専門学校に行って、今は神戸で板前やってるらしい。宇田川のおふくろさんから聞いたから間違いない」
「実家に電話したのか」
「ああ、今も神戸でがんばってるってよ。でも和木は何してるんだかわかんねえ。和木は両親がいなくて、婆ちゃんと二人暮らしだったんだ。あいつは高校に行かずに自衛隊に入ったってところまでは知ってるんだけど、今何やってんのかは知らねえ。昔住んでた家はもう取り壊されてないし、きっと婆ちゃんも、もう亡くなってんだろう」
和木。いじめに耐え切れず自殺した〈ホルスタイン〉六条の代えとして、飼育係の陣内が連れてきたペット。いつも薄汚れた制服を着ていてカビ臭かったから、安斉に〈カビ〉と呼ばれていた。しかしやはり安斉の一番のお気に入りペットは相変わらず〈サスカッチ〉のままだった。カビこと和木は、あまりイベントに呼ばれることはなく、印象が薄い。
「和木はこんなことはしないだろ」
「うん、そうなんだよな。和木は後から来たペットだし、俺の記憶が確かなら、〈人間ダーツ〉にも〈チェーンデスマッチ〉にも、〈写生大会〉にも〈水族館〉にも、一度も呼ばれてないはず。〈肩車〉は一回やらされてたかな」
ヨシノリは淡々とそう言った。
「早い話、安斉のお眼鏡にかなわなかった」
和木のセンは薄い。では、やはり一連の犯行は…
「じゃあ、やっぱりあいつなのね。あるいはあいつに雇われた何者か…」
そう言った由里に対し、ヨシノリがゆっくりとうなずく。
「いわゆる〈殺し屋〉みたいな人間を使ってるんだと思う。あいつは世界一周旅行しつつ、そいつに指示を出してるんだ。権田先生だってたぶん…」
「え!権田先生も?」
知らなかったらしい涼子が金切り声を上げた。
「どういうことヨシノリ君」
由里も続いた。
「言ってなかったな。権田先生も死んでたんだ。でも末期ガンだったし、病院で亡くなったから、あいつの仕業じゃないかもしれないんだけど、入院してた病院の理事長は味川と大学が同期で…」
ショックを受け動揺している涼子に説明するヨシノリの声を聞きながら賢介はぼんやりと考えた。
もう終わりでいいだろう。安斉、万代の顔役二人は既にこの世から去っている。賢介もヨシノリも、二人に比べれば小物だ。残党狩り?俺たちなんて殺しても、何の徳もないぞ。それに佐橋よ、もし一連の犯人がお前なのであれば、思い出して欲しい。俺は小学校時代、お前によくしてやったはずだ。その恩で、チャラにしてはくれまいか…
「謝りたい」
涼子が震える声でつぶやいた。由里が背中をさする。
「謝るって、佐橋くんに?」
由里を見て涼子がうなずいた。その疲れ切った目には涙がたまっている。
「私、本当にひどいことしてた。私は安斉君の隣で、それをずっと見てた。私はたぶん、みんなの中で唯一、安斉君の暴走を止めることができる立場だったかもしれないのに、それをしなかった。ただ、傍観してた」
由里が涼子の肩を抱く。
「私だって同じだよ涼子。万代くんもきっと同じ気持ちだった。私たち全員が、あの頃、おかしかったの」
コーヒーショップ、奥まった席。賢介たち四人はうつむいている。
「今朝のSNS見たか賢介」
ヨシノリが訊いてきた。
「いや、今日は見てない。更新されたのか」
「あいつ今、日本に帰って来た」
「マジかよ。だってまだブラジルに…」
「急遽帰国して、館山にいるようだ」
ヨシノリはスマートフォンを操作し、テーブルに置いてみんなに見せた。珍しく写真付きだった。館山駅、と書かれた駅舎をバックに、自転車にまたがったあいつが微笑んでいる画像。更新されたのは今朝の早い時間だった。
@Susquach
旅を一時中断、帰国しました。時差ボケ中にテレビをつけたら偶然世紀の瞬間を目撃!川村選手の金メダルに感動!おめでとう!
昨夜遅く、オリンピックの自転車競技で日本人選手が金メダルを獲った。それを意識した写真とコメントだった。
「戻って来てるのか…」
会いに行く、という考えが浮かんだ。
「どうする市来」
それを察したのか、ヨシノリが訊いてきた。
「どうする、だって?会いに行った方がいいとお前は思うのかヨシノリ」
ヨシノリは懇願するような目で賢介を見てこう言った。
「あいつとは小学校の頃仲良かったんだろ?お前から頼んでくれよ、こんなバカげた凶行はそろそろやめてくれって…」
誰が行くか。そもそも仲良くなんかない。
「バカ言うな」
そのとき、涼子が小さな声を上げた。
「更新された!」
震える指先で画面をスクロールする涼子。そこには新規に投稿された写真とコメントが映し出されていた。
@Susquach
館山最高!日本も捨てたもんじゃないね!二日間、ここに滞在します!
添えられた画像は、ホテルのテラスとおぼしき場所から海を望む風景だった。
「…のんきだな」
「本当に、この人が、安斉君たちを殺したの…?」
涼子の言葉を受け、賢介もわからなくなってきていた。しかし、あいつ以外に考えられないのだった。
夜遅くに自宅に帰りつくなり、賢介は仕事用のラップトップを立ち上げた。
賢介は仕事熱心ではないが、明日行われる大事な会議の用意を何もしていないことに気づいたのだ。嫌だが、中庸・平凡に生きていくにはそれなりに仕事もしなければならない。
なんとか資料を形にし終え、ざっとシャワーを浴びてベッドに入ったのは三時半だった。
あいつのことを考えなくていい分、仕事の方が楽かもしれない。そんなことをぼんやり思いながら、賢介は眠りについた。しかしその眠りは、電話の音で二時間後に遮られることになる。
「もしもし…」
由里からだ、というのはぼんやりとわかった。
「市来くん!涼子が死んじゃった…殺されたのよ!」
その切羽詰まったひとことにより、賢介は一瞬で目が覚めた。
高木和則 死亡
千野涼子 死亡
➏
会議に出ないわけにはいかない。由里の電話を受けてすぐに賢介は着替え、少し早めに出社した。警備員にオフィスを開けてもらい、資料をプリントアウトし、それらを会議に参加するメンバーのデスクに置いて回る。
早く来たからといって、会議が早く始まるわけではない。ただ、少しでも会議の時間が短縮されてくれればありがたい。会議が終わり次第すぐに、賢介は早引きして宇都宮に行こうと決めていた。
由里が錯乱していた。電話ではいまいち何を言っているのかわからなかったが、その口調は、涼子の殺され方が普通ではなかったことを物語っていた。
『次は私よ…!』
そう言って電話を切った由里の声が、耳に残っている。
由里を助けてあげたい。助けなければならない。ずっと想っていた人と、やっとその想いを共有できたのだ。賢介自身のためにも、由里を守ってやりたかった。
いつもは昼前に終わる会議は昼過ぎに終わり、賢介はイライラを募らせながら退社し、湘南新宿ラインに飛び乗った。電車の中で、由里とヨシノリとメールのやり取りをした後、賢介はぐっすりと眠ってしまった。目が覚めるとちょうど宇都宮で、賢介はこんな時でも眠れる自分が忌々しかった。
昨日と同様、由里が例の父親の大きな乗用車で宇都宮駅まで迎えに来てくれていた。駐車スペースに彼女の乗った車を認め、賢介はそれに乗り込む。乗るなり、由里が抱きついてきた。
「市来くん、私怖い…!」
「ああ、恐ろしいことだ。昨日一緒にいた人が…死ぬなんて」
賢介も、いまだに信じられなかった。昨日の夜、別れてから、まだ半日しか経っていないのだ。その間に、涼子は自宅で死んだ。
「…ヨシノリは?」
「まだ来てないみたい」
駅で待ち合わせていた。
「それで…殺されたっていうのは確かなの?」
由里がこくりとうなずく。
「どこで」
「それが…」
殺され方までは、電話では言ってくれなかった。
「言って。嫌だろうけど、知っておきたい」
由里は賢介から身体を離し、運転席に座りなおした。
「お風呂場で、素っ裸で、湯船にフタをされて…」
賢介は息を呑んだ。
「それって…」
由里はうなずいた。
「私と涼子は、〈重し〉だったから」
重し。そうだ。涼子と由里は、いじめには直接加担していないと思っていたが、唯一、直接かかわったいじめがあった。それは、旧校舎にあった大きなガラス製水槽に水を貯め、ペットだった人間を入れるという、安斉が〈水族館〉と呼んでいたいじめだった。
あれは人一人が寝そべって、やっと入れるぐらいの水槽だった。分厚いガラス製で、おそらく熱帯魚用。そこになみなみと水を入れ、裸にしたペットを入れる。それを安斉はじめ、みんなが鑑賞するのだ。
ただ水を入れた容器に人を入れても、出ようと思えば出ることができる。そこで木のフタが用意された。そして、そのフタの〈重し〉として乗っていたのが、涼子と由里だった…
「私も涼子も、充分恨まれる要素があった」
「けど、それは…」
水槽に入れられたペットには、呼吸用としてゴムホースが与えられる。口にくわえ、木のフタの隙間から出されたホースはしかし、安斉の手にゆだねられている。悪魔のような彼は握ったその先を時折指で塞いだり、あるいはタバコの煙を吹き入れたりする。そのたびにペットは水中で苦しそうにもがくのだった。
『ハハハ!見ろよあの顔、サイコーだぜ』
その様子を見て安斉は心底愉快そうに笑う。そして、このいじめにおいてもやはり、彼の一番のお気に入りはあいつだったのである。
『やっぱりサスカッチは一番反応がいいぜ!なあ万代』
相槌を打つ万代。愛想笑いをする取り巻き。ヨシノリ、そして賢介も…
「私たち、どこかで楽しんでた」
由里は小刻みに震えながらそう言った。
「もういい。そんなこと言うな」
「ううん、本当のこと。最初は嫌だった。でも不思議なことに、安斉君や万代くんたちと一緒にいると、慣れてくるっていうか、罪悪感がどんどん薄れていったのは確かで…」
集団催眠効果のようなものだろう。カルト宗教に似ている。
「板の上に座って、下から突き上げられる衝動や、水中でもがく音を聞いて興奮してた。最低よね、私も」
「やめろって」
懺悔など聞きたくない。
「涼子の次は私…」
涼子は自宅の風呂場で死んだ。
「とにかく、まだ殺されたって決まったわけじゃないだろ?」
「湯船にフタして溺れ死んでたんだよ?どう説明するの?」
現時点では自殺、事故、他殺の三つで調べが進んでいる、とのことだった。殺害だとした場合、真っ先に疑われるのは涼子の旦那だと思われ、ヨシノリの話では現に今、涼子の夫は事情聴取されているらしい。事故と考えるのは不自然である。溺れ死ぬにしても、自分でフタをするのはおかしい。
「誰かが殺したと?」
「ヨシノリ君も言ってたじゃない。あいつはプロの殺し屋を雇ってるのよ。ああ、私も殺されるんだ…」
身を乗り出し、由里の肩を抱いた。
「大丈夫だ。…なあ由里、いっそこのまま館山に行かないか」
とっさに浮かんだ考えだ。
「館山って」
「ああ、あいつがいる。昨日ヨシノリに言われたときは冗談じゃないって思ったけど、そうも言ってられない。次は俺かもしれない。その前にあいつに会って、謝るんだ。一緒に行こう」
その時、プップッとクラクションの音が聞こえた。ヨシノリの車が背後にいた。
「三人で、乗り込むんだ」
しばらく賢介を見つめた後、由里は小さくうなずいた。
「飛んで火にいる夏の虫だぜ、そんなの!」
嫌がるヨシノリを乗せ、由里の車が発進した。
「みすみす殺されに行く気か市来、正気じゃねえぞ」
「昨日はその気だったじゃないか」
「昨日は昨日だ」
「正気じゃない相手には正気で立ち向かっても無駄だろ。先手を打って、とにかく謝るんだよ」
ハンドルを握るのは賢介だった。
「あいつは館山にいる。二日間滞在するって話だ」
SNSはその後更新されていない。画像のホテル、あそこを探すのだ。
「とにかく二人はあいつの泊まってそうなホテルを探してくれ。ホテルのホームページに風景写真があるはずだ、あいつが投稿した写真に近い画像がきっとある」
館山はリゾート地だが、あいつが泊まるホテルとなるとそれなりに高級な宿であるはずだ。後部座席で由里が、助手席では渋々ヨシノリが、スマートフォンでホテルを探している。
「二人とも、そのまま聞いてくれ」
賢介は二人に言っておきたいことがあった。
「俺、あいつが嫌いだった。小学校で初めて会ったときから、中学の時も、そして今も。ずっとあいつのことが嫌いだ」
ヨシノリの視線を助手席から感じる。
「安斉にいじめられることになったとき、心の中ですっきりしてた。もっとやってくれ安斉、って、いつも思ってた。オモチャにされてズタボロになってるあいつを見て、いい気味だった」
二人とも何も言わない。軽蔑されても構わない、これが賢介の本心だった。
「それでもあいつは、ニコニコして俺に近づいてくるんだ。毎日のように安斉にいじめられても、放課後になると俺に会いに旧校舎までのこのこやって来る」
「…あいつだけだったよな、すすんでスタンバイしてるのは…」
ペットたちは、飼育係が管理する決まりになっていた。半村を筆頭に、陣内、石井がペットたちを連れてくるのだ。そんな中、あいつだけはいつも、誰よりも早く旧校舎に来ているのだった。
『市来くん、遊んでよ』
耳から離れないあのセリフ。遊びたきゃ遊んでやるよ。中学に入ってもまとわりついてくるあいつを、賢介は安斉のオモチャにしてやったのだった。
「俺はそんなあいつが不気味だった。安斉にオモチャにされてるときは苦悶の表情を浮かべてるくせに、あくる日になるとケロッとした顔で俺に近づいてくる。正直、気味悪かったよ」
安斉のサディスティックないじめに、一度も屈することなく耐え抜いたあいつ。
「ふと考えるんだ。おかしいと思われるかもしれないけど…悪いのは安斉じゃなくってあいつなんじゃないか、って」
「どういう意味だ?」
ヨシノリを一度見てから、賢介は話を続けた。
「安斉は確かに異常な奴だったよ。暴力を好むサディストだった。でも、安斉をエスカレートさせたのは、あいつだとも言える。中学入学したての頃の安斉は、そこまで異常じゃなかったんだ。そうだろう?」
助手席でヨシノリがうなった。
「それは…確かにそうかもしれないけど…市来くんの勝手な解釈よね?」
後部座席から由里の声。
「うん、俺の勝手な考えだ。でも安斉が、どんないじめにも耐えて、呼ばれなくても顔を出すあいつに、喜びつつもビビってたのは確かだ。ヨシノリは聞いたことがあるだろ、『俺、サスカッチが怖えよ』って何度か安斉が言ってた」
「聞いたことはあるけど、あれは冗談だろ」
「冗談かもしれないけど、冗談でも安斉が誰か他人を怖いって言ったことはなかっただろ?あれは、今考えてみると本音なんだよ。恫喝と腕っぷしで人を従わせる人間が一番苦手なのは誰だと思う?恫喝と腕っぷしが通用しない相手さ」
賢介たち三人を乗せた車は東北自動車道を南下し、首都高の中央環状線に入った。平日の二時、高速はどこも渋滞していない。
「アクアライン通れってナビは言ってるけど、どうなんだ?」
カーナビを見ながらヨシノリに尋ねる。
「いや、湾岸でディスニーの方行って、京葉道路から館山自動車道の方がすいてる」
賢介はその通りにすることにした。ヨシノリは以前、宅配便のドライバーをしていたので、首都圏近郊都市の道路事情に詳しいのだ。
「まあ、安いってのもあるんだけどな」
「そういう理由か」
そのとき、由里が後ろから身を乗り出してきた。
「ねえ、ここじゃない?」
ヨシノリにスマートフォンの画面を見せる由里。
「おー、そうだ、絶対ここだ!」
「わかったの?なんてホテル?」
バックミラー越しに由里の顔を見る。
「えっとね、『平砂浦オーシャンホテル』ってところ。すごいね、部屋の中に露天風呂がある」
「ヨシノリ、ナビに打ち込んでくれ」
場所はわかった。待ってろサスカッチ、直接対決だ。
「でもあいつ、一人で泊まってるわけないよな」
「友だちとか、取り巻きとか、会社の人とか…?」
なるほど。仮にも大会社の社長だった男だ。単独で宿泊しているわけはない。もしかしたら、家族と一緒とか?
「あるいは家族旅行…なあヨシノリ、あいつって家族はいないのか?」
「それなんだけど、ネットで調べてもあいつが既婚なのか、子供がいるのか、そういうことは一切載ってないんだよな。SNSはそれなりの頻度で更新するんだけど、プライベートは隠すタイプ」
普通に考えたら、結婚して子供がいてもおかしくない年齢。SNSに投稿されている画像には家族が写ったものは見当たらないから独身だと決めつけていたが、実際はどうなのだろうか。
「結婚してないと思ってた」
由里が言った。
「俺もそう思ってたよ。でも家族がいるのかも。だってあいつはついこの前まで南米にいたんだぜ。急に戻って来るってことは、何かあったってことだろ」
「なるほどな。仕事でトラブルがあったか、あるいは家族に会いたくなったか」
しかし、そんなことはどうでもいい。直接会って、一度話してみなければならない。そして、謝罪しなくてはいけない。
あいつに頭を下げるなんてごめんだ。俺はあいつのことが大嫌いなのだ。でも、自分が今後も平穏に生きていたいのだから仕方がない、謝罪で済むのならいくらでも頭は下げるつもりだった。
車は富津館山道路に入った。
「なあ深見さん、タバコ吸ってもいいかな」
「駄目。これ父の車なの」
「ちっ、しょうがねえな。しかしいい車だな。BMの7シリーズっていくらぐらいするんだ?」
「知らないわよ」
「一千万はしそうだなあ。深見んち、金持ちだったんだな」
由里の父親が何をしているかは知らない。が、もし今後結婚するとしたら、裕福な家庭の方が心配がないと思った。
「はあ…。俺たち、何やってんだろうな」
助手席からぼやくような声。賢介はそれに答えてやる。
「カッコつけて言うなら、過去を清算しに向かってるってとこかな」
「市来よ、清算って言うな。俺たち三人が死んで初めてチャラになるんだからよ」
「やめてよ…怖くなるじゃない」
由里が顔を覆って泣き出した。車内の空気が一瞬にして冷たくなる。安斉と、その恋人だった涼子が死んだ。万代は自ら死を選び、そして万代の元恋人、由里はまだ生きている…
「大丈夫だ、俺が守るよ」
バックミラー越しに由里を見た。後部座席に縮こまり、由里はまだ顔を覆っていた。
冨浦料金所を過ぎ、右手に海を望みながら進む。
『市来くん、遊んでよ』
遊んでやるよ、サスカッチ。
➐
あいつの泊まっているホテルの前に車を停めた。
「どうすんだよ市来」
車を降りるなりタバコに火をつけたヨシノリが訊いてきた。
「ノープランだよ。とにかくロビーに入ろう」
「いきなり突撃かよ?」
「いや。コーヒーを飲む。ちょっと疲れたよ」
お前と違ってこっちは午前中に仕事して来て、その上休みなしで房総半島の先っちょまで運転して来たんだ。
「コーヒーかよ。のんきだな市来」
どっちがのんきだ。
「帰りの運転はお前がやれよヨシノリ。俺は途中で降ろしてくれて構わないけど、深見さんをちゃんと送り届けてやれよ」
「ああ。…無事に解決したらな」
三人でロビーに入った。小さな売店を兼ねた喫茶店が脇にあり、そこに入ってコーヒーを注文する。ヨシノリはアイスコーヒー、由里はアイスティを頼んだ。
「さて、どうしようか」
声を潜めて二人の顔を見る。
「とりあえずフロントに言って、あいつを呼び出してもらうか、あいつの部屋を教えてもらうか」
「わかんねえよ。どうすりゃいいんだよ」
ヨシノリは頭を抱えた。
「深見さんはどう思う」
「そうね、待ってても仕方ないし…やっぱりホテルの人に訊くべきよね。だいいちこのホテルにいるかどうかもまだわかんないんだし」
確かに。写真で判断しただけなのだ。
「じゃあ訊いて来よう」
飲み物がテーブルに置かれた。
「私が行く」
「いいよ、俺が行く。このコーヒーが飲み終わったら」
「ううん、私が。こういうのは女の方が訊き出しやすいのよ」
飲み物に口もつけずに由里が立ち上がった。止める間もなく、小走りにカウンターへと向かって行く由里。
「おいおい、深見の奴行っちゃったぜ市来」
賢介は由里の後ろ姿を見守った。程よい肉付きだが、ウエストも足首もキュッと引き締まっている。この件が終わったら、めぐみときっちり別れて彼女と一緒になろう。そう心に決めた。めぐみに会わす必要なんてない。二人のことだ、他人にお伺いを立てることなどないのだ。
「お前ら、デキてんのか」
ヨシノリの言葉にドキッとした。
「そんな、別にそんなんじゃねえよ」
「デキてんだろ。隠すなよ、俺は場の空気を読むのが得意なんだよ。お前らの間に流れてるのは、恋人同士のそれだ。それぐらいわかるさ。出る台と出ない台は見極められねえけど」
バカにする様子もなく、ヨシノリはそう言った。
「市来、お前が深見のことばかり気にしてたのは、昔から知ってた」
「えっ」
誰にも気づかれていないと思ってたのに。
「ヨシノリお前はそういうところ鋭いよな」
「あれ、知らなかった?俺ってば意外と勘が働く男なんだぜ」
それには気づいていた。バカでお調子者を演じるのがうまい奴だとは思っていた。
「安斉は出しゃばりが嫌いだ。出しゃばった奴は淘汰されてきた。俺も、そして市来お前も、空気を読むのがうまいんだよな。余計なことは言わないで、必要とされたときだけ意見する。安斉の近くには自然とそういうイエスマンだけが残った。俺やお前、そして万代だ」
確かに。
「でも…一番多感な時期にそういう生き方を憶えちまうと、一生そのままなんだよな。大人になってから弊害が出まくりだぜ」
ここにも安斉の被害者が一人いたわけだ。
「ま、お前も深見も独身なんだ。何も障害はねえじゃん。応援するぜ」
ヨシノリはニヤリと笑って賢介の肩を叩いた。が、その顔を真顔にしてこう続けた。
「安斉もいねえ、元カレの万代もいねえ。お前と深見を邪魔する人間は…もう誰もいねえんだ」
由里が戻って来た。
「あいつはいるって?」
「うん。やっぱり最上階のスイートに夫婦で滞在してるみたい。お友だちのご家族はその隣に」
結婚していたか。
「それで、今部屋にいるのか?」
ヨシノリが訊く。由里は首を振った。
「出かけてるって。晩ご飯の時間には戻って来る。七時に席を取っているみたいだから」
賢介は時計を見た。もうじき六時になるところだった。
「ここで待つか?」
「どうすればいいかな。奥さんやお連れさんがいるみたいだし…本当はサシで話したいよね」
由里が言った。確かにその通りだ。
「じゃあ、車の中で待機だな。で、あいつが戻って来たらフロントに頼んで部屋に電話してもらって、ロビーに呼び出してもらおう。…でもとりあえず、俺はゆっくりコーヒーを飲む」
賢介は喫茶店のソファに深く腰掛けた。コーヒーはただ苦いだけでまずかったが、やはり昨夜もあまり寝ていないため、身体が疲れていたのだろう、ソファに身をゆだねると心地よかった。
ただ、気は張り詰めたままだ。
「なあ市来。あいつになんて言う?」
「…とにかく、俺は謝る。昔のことを詫びる。いじめがあったのは事実だし、俺が関与していたことに間違いはないんだから」
ヨシノリに答える。
「俺、あいつが怖えよ」
「俺だって怖いよ。でも謝りに来た奴をその場で刺し殺したりはしないだろ。あいつが別の奴にやらせてるのは確かなんだし、この場で直接何かをしてくるとは考えにくい」
「私は心を込めて謝る。殺されたくないもん」
「お、俺だって謝るさ」
ヨシノリが由里に言う。三人で頭を下げて誠心誠意詫びよう。
「さて、出るか」
ホテルを出て由里の車に乗り込む。ホテルの正面入り口が見える場所まで車を移動させ、そこであいつが戻って来るのを待った。
「なあお二人さん。ちょっと聞いてくれ…俺はこの三人の中でも一番の悪党かもしれない」
車の中、沈黙を破ったのはヨシノリだった。
「何だよ急に」
助手席をチラリと見やりながら賢介は言った。
「いや、もしかしたら安斉なんかよりもよっぽど悪党かもしれねえな」
「どういうことだよ」
「六条のことだ。俺は六条を殺した」
「は?」
ホルスタインこと六条は、中二から中三に上がる春休み中に自殺した。
「殺したってどういうことだよ。あいつは自殺だろうが」
ヨシノリは青い顔で首を振った。
「忘れもしねえ…六条が死ぬ三日前のことだ。六条本人が家に来たんだ。夜の九時ぐらいだったかな、俺を訪ねて来た。びっくりしたけど、近所の公園で、あいつからの話を聞いた」
六条が、死ぬ前にヨシノリと…?
「言ってなかったけど、六条と俺は同じ小学校でさ。ああ、深見さんも一緒だったよな。六条とは特に仲良くはなかったけど、俺の家は知ってたんだな、あいつ」
「殺した…って?」
賢介の問いかけは無視し、ヨシノリは話を進めた。
「六条はこう言ったんだ。『堂本くんたちも苦しそうだね』って。そしてこう続けた『安斉のヤロウを、ぼくが葬り去ってあげるよ』って」
ヨシノリはうつむいていた。
「俺は意味がわからなくって、六条に訊いたんだ。そしたらニヤニヤ笑いながらこう言ったんだ『ぼくが自殺して、今まで安斉がやってきたことが書かれた文書が出てきたら、どうなる?』って。六条は安斉の蛮行を、自らの死によって暴こうとしてたわけだ」
「…文書、って。六条は遺書めいたものは遺してないはずだろ」
「ああ。俺が機転を利かせた。自殺なんかするな、とにかく生きろ、なんて説得しつつ、六条が既に書き上げているという遺書を、読ませてくれないか、俺も安斉が憎いんだ、なんて味方のふりして。見せてもらった」
ヨシノリはお調子者でいい加減な男というイメージが定着しているが、実はけっこう頭がキレる男だ。努力家ではないから勉強こそからっきしだが、地頭はそれなりにいい。
「俺は六条をなだめて、奴が書いた遺書を見せてもらったんだ。それは遺書なんてもんじゃなかった。これまで安斉を中心に行われてきたいじめの数々が書かれた日記だったんだ。六条はそれを俺に見せながら満足げにこう言った。『遺書よりもリアルだろう?ぼくはこれを抱いて飛ぶんだ。安斉のヤロウをとっちめるには、これしか方法はないからね。ざまあみろだ!』なんてな。…けれども俺は、その日記が気に食わなかった。俺の名前こそ出ちゃいないけど、あんなのが明るみに出た日にゃあ、安斉だけじゃなくって俺らもとんでもない目に合う。そうだろう?」
ヨシノリは賢介に同意を求めた。
「俺はその日記を見てないから何とも言えないけど、でも読んだお前がそう判断したんだからそうなんだろうな。…で、お前はその日記を六条から取り上げたのか?」
「ああ。俺もどうかしてたんだろうな。安斉や他のメンバーを守るってわけじゃなくて、自分を守りたかった。警察沙汰になって、いじめに関与してたってことがバレるのが怖かった」
後ろの席から由里のため息が聞こえた。
「俺は最低だろう?六条の奴を説得するふりしつつ、邪魔な奴だ、って思った。だからあの晩、跨道橋に呼び出して、あいつから日記を奪い…橋の上から突き落とした」
ヨシノリの独白に賢介は息を呑みつつも、頭の中にはひとつの疑問が浮かんだ。
「ちょっと待てヨシノリ。橋の上から突き落としたって…六条はホルスタインって呼ばれてたぐらいなんだぜ、百キロはある巨体だったはずだ。お前ひとりで…」
と、そこまで言って後悔した。ヨシノリの顔がしわくちゃになっていた。
「万代くんよ」
突然、由里の震えた声が後部座席から聴こえた。
「私、万代くんから聞いた…」
その声に、ヨシノリが苦悶の表情を浮かべたままうなずく。
「俺は六条のことを万代に報告したんだ。あいつがいじめの詳細の書かれた日記を持ってるってことも。…あの日、万代は陣内と一緒にやって来た。陣内は高木を呼び出した。四人で嫌がる六条を担ぎ上げ、橋の上から下に投げ落としたんだ」
息を呑んだ。と同時に、賢介はペットである高木こと豚まんも死んでいたことに納得がいった。高木も事故で死んだわけではなく、復讐されたのだ。
「あいつは…六条は、トラックにはねられて…反対車線に転がって、さらに別のトラックに轢かれて…」
ヨシノリは頭を抱えた。思い出したくないのに、脳裏にこびりついているビジョンなのだろう。
「日記はその後、四人で燃やした」
ホテル前の駐車場、車内は重苦しい空気に包まれていた。賢介は今の今まで六条は完全に自殺だと思っていたから、その真相に驚いていた。何より、由里がそれを知ってずっと黙っていたことに、少し当惑している。
「悪ィ。ちょっとタバコ吸ってくるわ」
「おい、もうじき…」
「わかってる。一服したらすぐ戻るよ」
ヨシノリが車から降りて行った。そろそろあいつが戻って来てもおかしくない時間だったが、ヨシノリを引き留めることが賢介にはできなかった。彼もずっと罪の意識にさいなまれ続けていたのだろう。
「…あいつは中学時代の恨みを着実にはらしているわけだ」
同じペットとして無念の死を遂げた六条の分の仇も、あいつは代わりに討っている…
「私に幻滅したでしょ市来くん」
由里が言った。賢介は何も答えられない。
「人殺しの万代くんと、その後も平気で付き合い続けてた。あの頃は、おかしいな、とか、間違ってる、とか、そういうことを思わないようにしてた。だから平気だったの」
リンチを正当化する異常な集団心理が、あの頃の安斉グループには確かにあった。言いたいことも言えず、ただ安斉の顔色を窺って物事を進めていくという狂った心理が。こうするより仕方ないのだ、と自分に言い聞かせながら日々を消化していた。そう、自分自身がそうだったように…
「私は中学時代が憎い。何もできなかった自分が汚らわしい」
みんな、あの時代を悔いている。
「あれ以来、自分の本当の気持ちを押し殺すことがクセになってる気がするの。離婚したのも私に問題があったからかもしれない」
その気持ちはわかる。賢介自身、あの時期の呪縛が解けていない。
「私がいじめに関わったことは事実で、殺害にも間接的にかかわってる。だから私も、殺されても文句言えない」
由里が力なくそう言った。
「…いや。そんなことが許されていいわけがない。あの頃俺たちは子供だったけど、もういい大人なんだぜ?もちろん悪いとは思ってるけど、当時の復讐なんて間違っ」
「市来くん、前!」
ホテル前の車寄せに一台のミニバンが停車した。そこから降りて来たのは…
「あいつだ」
ロビーから漏れる光に映し出された顔。少し長めの髪に丸眼鏡、ピンク色のポロシャツ。SNSで見るのと同じ佐橋雪男だ。ジムに通っているせいか、昔は締まりのなかった身体は見事に引き締まっている。
「笑ってる…」
知り合いの家族だろうか、ホテルの正面入り口に立った雪男は連れの男性と談笑していた。そばに若い女性が二人。ひとりは雪男に寄り添っている。暗くて顔まではわからないが、彼の奥さんなのだろう。その周りを小さな子供がふざけて走り回っている。男の子を抱え上げ、ちょっと乱暴に振り回す雪男。男の子は嬉しそうにはしゃぎ声を上げる。彼の子供かもしれない。
「家族、ってこと?」
「SNSではプライベートなことは一切明かしてないからな…」
雪男にまとわりつく子供。雪男は屈託のない笑みを浮かべながら、その相手をしている。とても…人を殺めるような人間には見えない
「本当に彼が?」
由里がつぶやいた。確かに、本当に雪男の仕業なのか?という疑問が湧いてくるが、彼以外に安斉グループを次々に処刑するような人物はいないのだ。
「ねえ市来くん、私はもう、完全に彼の仕業だと決めつけてたんだけど…やっぱり全部、みんなが死んだのって偶然なのかな…」
そう思いたいのはわかる。今、こうして繰り広げられている光景を目の当たりにすると、雪男はすこぶるいい人にしか見えないのだ。
「いや…由里の言いたいことはわかるけど、あまりにも不自然だよ。安斉、涼子ちゃん、半村、石井、陣内、それに高木。権田先生と万代を省いても、俺らの仲間が次々と死んでるのは異常だ」
絶対偶然なんかじゃない。こんな偶然あってたまるか。
「俺、行く」
「ちょっと市来くん?まだヨシノリ君が」
「あいつは戻って来ないよ。一服がこんなに長いわけない」
バックミラー越しに見えていたヨシノリの姿が、いつの間にか見えなくなっていたことには気づいていた。
「行ってくるよ。由里はここで待ってて。雪男と話をしてくる」
「市来くん、私も」
その声を制し、賢介はドアを開けて外に出てから、後部座席の由里の顔を見る。
「なあ由里。これが終わったら…」
「…うん、わかってる」
うまく解決すれば、の話だが。ホテルへの道中、一旦立ち止まった賢介は、大きく深呼吸し、顔を両手でバチンと叩いた。
あいつと対峙する。
➑
どういうことだ。
「えっと、どちら様でしたっけ」
すべてが勝手な思い込みだったのか?
「確かにぼくは佐橋雪男ですけど」
安斉は本当に不慮の事故で死んだのか?半村と石井は、単に二人の間のいざこざで果し合いをしたのか?陣内は?涼子は?
「宮田小?宮田中学?ええ、ぼくの出身校だけど」
賢介は雪男の正面に立ち、その目を見た。
「佐橋…。俺は、市来賢介だ。憶えてるだろう?」
「いちき…」
雪男の顔がパッと明るくなった。
「市来くん?ウソでしょ、えっ、なんでここにいるの?館山に住んでるの?」
「いや…そういうわけじゃない」
わからない。本当にこいつは無関係だったのか?
「ユキオさん、先行ってますよ」
「あ、うん。じゃあ晩ご飯で、また」
雪男の友人らしき夫婦がホテル内へと消えて行った。子供もついて行ったから、あの子は雪男の息子ではないのだろう。
雪男は改めて賢介に向き直り、その手を差し伸べて来た。賢介はされるがまま、その手を握った。
「いやあ、何年ぶりだろうね!すごくひさしぶり!市来くんも旅行?家族旅行?ぼくはねえ、遊びに来てる。さっきの人たちと、妻とね。ぼく結婚したんだよ!」
「ああ、そうみたいだな、知らなかったよ」
「ちょっと前まで新婚旅行で世界中を回ってたんだ。まだ途中なんだけどね、ちょっと急用でこっちに戻って来て」
そういうことだったのか。
「市来くんは?まだ独身?」
「ああ」
「でもお付き合いしてる人はいるんでしょ?」
「ああ、まあ、うん」
「結婚した方がいいよ、結婚って素敵だよ!人生バラ色さ!素晴らしきかな人生!」
屈託のない笑み。ピュアなまなざし。曇りのない瞳はキラキラと輝いている。こいつ、やっぱり無関係かもしれない。雪男は賢介に顔を近づけ、小声で話し始めた。
「…お恥ずかしい話、三十過ぎまで女性経験ゼロだったんだよぼく。笑っちゃうでしょ?」
答えに困る。
「ずっとさ、寝る間も惜しんで仕事してたっていうのかなあ、ホント、駄目人間だったんだよぼく。朝から晩まで仕事漬けの日々で、そんな余裕もなかったっていうのもあるけど、ハンサムでもないから自分には縁のないものだと思ってたんだ、女性なんて。こんな顔だしさ、近づいてくるのはお金目当てだろうって決めつけて、相手にしてこなかったしさ。でもレイコと出会ってからすべてが変わった。ぼくにとって彼女は女神であり、マドンナであり、マーメイドであり、クイーンさ!愛って素晴らしいんだよ」
歯の浮くような言葉を臆面なく言い放つ雪男。
「ぼくはねえ、今失業中」
「知ってるよ。実は佐橋のSNS、時々のぞかせてもらってる。すっかり有名人だな。日本人で《サスカッチ》を知らない人間はいないんじゃないか。すごいよ、大成功だな」
「知ってたの?なあんだ、いつでも連絡くれればよかったのに。DMちょうだいよ。ぼくだって市来くんには感謝してるんだ。小学校の頃、ダメな奴だったぼくの面倒見てくれたし、中学の時だっていっぱい遊んでくれたし。サスカッチっていう社名も、元々市来くんがつけてくれたあだ名から取ってるんだし」
背筋が冷たくなる感覚。こいつは…本気で、中学時代のアレを遊びだと思っているのだろうか。雪男は時計を見た。
「このあとみんなで食事するからちょっとしか時間ないけど、立ち話もなんだし、そこの喫茶店で話そうよ」
雪男はロビー脇にある、さきほど賢介たちが入った喫茶店を指さした。
「ああ…そうだな。俺も、雪男に言わなきゃならないことがある」
「言わなきゃならないことって?」
言葉遣いや仕草が子供みたいだ。これが半年前まで世界的な企業のトップに立っていた男とは到底思えない。
「うん。喫茶店で話そう。と、その前に…」
「何?」
「もう一人、呼んでもいいかな」
由里も一緒に謝ろう。
「呼ぶって?誰を?」
「憶えてないかもしれないけど、すぐ連れて行くよ。喫茶店で待っててくれ」
賢介は由里の待つ車へ駆け戻る。何事か、と不安げな表情を浮かべ、由里が車から降りて来た。
「どうだった?」
賢介は首をひねりながら由里に答える。
「それが…よくわかんない。あいつにとっては、どうでもいいことなのかも」
「え?じゃあ、一連の出来事は、やっぱり彼の仕業じゃないってこと?」
賢介は斜めにうなずく。確証はないが、あの態度は演技でできるものではないと感じている。
「まだわからないけど、話した感じじゃ、まったく関係なさそうだ。どうだろう由里、さっきの喫茶店で今、あいつに待ってもらってる。少しの時間しかないけど、中学時代のことを二人で謝ろう」
由里は口を真横に引っ張ってから、賢介を見て大きくうなずいた。
「そうね。うん、謝りたい」
賢介は由里を伴い、ホテルへと向かった。こんな時なのに、海から吹きつける潮風が奇妙なほど心地よかった。
「え?市来くんの…恋人ですか?」
由里を連れて行くと、雪男が訊いてきた。
「いや、彼女は深見由里さん。憶えてないかな」
「深見…いやあ、ごめん。思い出せないな」
中学時代の、あの凄惨な記憶は、彼には残っていないのだろうか。
「万代くんって憶えてる?中学の頃の」
由里が上目づかいに尋ねる。
「バンダイ…えっと、時々遊んでもらった気がするけど、どんな人だったっけ。ごめん、当時のことあまり憶えてないんだよね、ぼく」
雪男はあっけらかんとそう言うと、白い液体を口にした。どうやらミルクのようだ。
「ぼくってあの頃ホラ、発達障害っていうか、早い話知恵遅れだったんだよね。お医者さん曰く、脳みその発育が十年ほど遅れていたらしいの。だから子供の頃の記憶って、どこかあやふやで…ごめんね、憶えてなくて」
嘘をついている気配はないのだった。
「それで市来くんと深見さんは恋人同士なの?」
「あ、いや、そういうわけじゃ…」
由里と顔を見合わせる。彼女の頬がスッと赤らむ。
「なんだあ、二人とも好き同士って感じだよ、結婚しちゃえば?ぼく、結婚してよかったなあって思ってるよ。相手がホラ、有名な人だから、まだ堂々と公表できないんだけど、結婚してよかったと思ってるよ」
「有名人?ご結婚された方って、どなたなんですか?」
由里が丁寧な言葉で雪男に訊いた。
「どうしよう。二人には言ってもいいかな。恩田レイコってご存知かな、コマーシャルに出てもらったのが縁で知り合ったんだ。本名は中嶋玲子って言うんだけどね」
「恩田レイコって、モデルで女優さんの?」
由里が驚いていた。
恩田レイコ。賢介も知っている女優だった。数々の連続ドラマや映画に出演し、コマーシャルでもよく目にする人気女優だ。半年ほど前、しばらく休業すると宣言したことは知っていたが、まさか結婚するためだったとは…しかも、佐橋雪男と。
「すごいな。あ、さっき隣にいた人がそうだったのか」
賢介は、ついさっきロビー前で雪男に声をかけたとき、隣にいた背の高い女性を思い出した。スタイルの美しい女性だ。大きな麦わら帽をかぶっていたため、顔つきまではわからなかったが、あれが恩田レイコだったのか…
「一緒にここに泊まってるのはレイコのモデル時代の友だちとその旦那さん。たまたま時間が合ったから来てもらったんだ」
「いやあ、すごいな」
学生時代に会社を立ち上げ、十年ほどで有名企業にし、それを惜しげもなく売り払って隠居、さらに人気女優と結婚と、誰もがうらやむ人生を謳歌している…
「結婚はいいよー、市来くん、深見さん。どうなの、二人はそういう関係なんでしょう?」
由里と顔を見合わせた。
「うん。そういう関係になりたいと思ってるよ」
「ほうらね。深見さんはどうなの?市来くんのこと」
「うん、えっと、まあ、そう思ってるけど」
「けど?」
「私ね、バツイチなの」
「えっ、そうなんだ。色々あるよね生きてるとさ。でもどうなの市来くん、そういうの気になる?別に離婚歴があろうがなかろうが…」
「いやいや、そういう話じゃなくて…ちょっと待ってくれ雪男」
変な展開だ。違う、そんなことを話しに来たわけじゃない。賢介はいつの間にかテーブルに置かれていたコーヒーを一口飲んでから雪男に向き直った。
「あのな雪男。俺たちは今日、お前に謝罪しに来たんだ」
「謝罪?えっ、何の?」
ピュアな瞳が賢介を貫く。胸がグッと痛んだ。
「…本当に何も憶えていないのか?」
「だから、何の話?」
雪男が時計を見た。友人を待たせているのを気にしているのかもしれない。
「安斉が死んだんだ。陣内、半村、石井も死んだ。千野涼子も死んだし、万代も死んじゃったんだ」
「安斉…」
雪男の顔が曇った。
「それって、中学の頃の人の名前だよね」
「そうだ。憶えてないのか?」
「安斉君…は、うん、なんとなく憶えてるなあ。みんな市来くんの友だちだよね?いつも一緒に遊んでくれてたなあ、ってぼんやりは憶えてるんだけどさ…でもみんな、なんとなくしか憶えてないんだよな。だってぼくホラ、さっきも言ったけど、お恥ずかしい話、十歳分知能の発達が遅れてたんだ。だから中学の頃っていうと、みんなが十四歳だとしたらぼくは四歳くらいだったわけ。…けど、みんな死んだってどういうこと?本当の話?」
賢介はうなずいた。この男、本当に憶えていないようだ。そしていじめられていた過去を、遊んでもらっていたと勘違いしている。
「ごめんね市来くん。小学校も中学校も記憶が曖昧なんだよ。でも、いつもそばに市来くんがいた。それだけでぼくは安心で、ホッとすることができた。それだけはしっかりと憶えているんだけど」
雪男はうっすらと笑みを浮かべながらそう言うのだった。そしてその顔を再び曇らせ、賢介に訊いてきた。
「でもどういうこと?みんな死んじゃったって?なんで?」
その『なんで?』を探してここまで来たのだ。
「あのね佐橋くん。私たち…あなたにとてもひどいことをしてきた、って過去を思い出して悔いているの。だから、今日、こうして謝りに来たの」
由里が声を詰まらせながら言った。
「謝る?ぼくに?みんなが死んじゃったのとぼくに謝るのと、何の関係があるの?」
由里、賢介を交互に見ながら目を泳がせる雪男。
「みんなが死んだことは事実として…そうだろうがそうでなかろうが、それよりも私たちは、あなたにひどいことをしてきた。早い話、いじめていたの。安斉君、万代くんを中心に行われていたことだけれど、私たちはそれを止めるどころか一緒になっていじめていたから…。心の底から悪いと思ってる。たとえあなたがそれらを忘れていても、当時の記憶にないとしても、私たちがいじめをしたという過去は事実で。だから…勝手かもしれないけど、あの頃のこと、許してちょうだい」
由里が頭を下げた。賢介も同じく、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。すまなかった、雪男」
テーブルに頭を擦り付ける。本当に、俺たちのしたことはこんな言葉の謝罪では済ませられない行為だった。
「ちょっとやめてよ二人とも。許すとか、許さないとか、そういう…」
「謝りたいんだ雪男。本当に済まないと思ってる」
「あらら…」
頭を下げる賢介の上から、当惑する雪男の声が聞こえる。
「いや、そんな。ねえ二人とも頭を上げてよ。ぼくはそんな…」
「勝手だと思うだろうけど、気が済まないんだ」
賢介は椅子から降り、床に土下座して謝った。由里もそれに続いた。
「えっ、やめてよ!とにかく頭を上げて」
しばらくの沈黙の後、賢介は立ち上がった。由里も顔を上げ、立った。雪男は困った顔をしている。
「ぼくはこれからディナーでね、みんなを待たせているから、そろそろ上のレストランに行かなきゃならない。君たちの真意はよくつかめないんだけど、別にぼくには二人から頭を下げてもらう心当たりなんかないよ。わざわざこんな房総の端っこまで来るほどの…」
「ごめんなさい、お話し中失礼します」
真横から女性の声。
「わっ…」
恩田レイコだ。彼女は笑顔で賢介と由里に会釈をしたあと、雪男の後ろに回ると、その肩にそっと手を置いた。
「この方たちは?」
それまでの周囲の空気が、一瞬にして総入れ替えになったほど、爆発的なオーラを放っている。
「ねえあなた、紹介してくださらない?」
優雅で気品がある。肌なんか透き通って輝いている。歯も真っ白だ。
「ああ、えっとね、中学の頃の友人。市来賢介君と、その未来の奥さん、深見さん」
「いえ、まだそんな」
「そうなんですか、すっごくお似合いですね!」
いい香りが漂ってくる。賢介も由里も、なぜか照れてしまい、彼女の顔を直視できない。顔もスタイルも整いすぎて、確かに雪男が言うとおり、クイーンのような女性だった。
「妻の玲子です。恩田レイコって名前で芸能…」
「存じ上げてます」
由里が即答した。
「今は佐橋玲子です。芸能のお仕事は、今はちょっと休んでおりますけれど、また再開する予定です」
前で手を揃え、たおやかに会釈をする恩田レイコ。指先が細くて美しい。
「すごく…お綺麗ですね、当たり前だけど。ごめんなさい失礼ですよねっ!あっ、去年の《怪しい捜査官》観ました、あれシリーズ化しないんですか?とても面白かった!」
由里が舞い上がっている。女性でも、美しすぎる女性を目の前にすると緊張してしまうものなのだろう。
「ありがとう。シリーズ化の話は出ているんですけど、私も結婚しちゃったし、どうなるかわからないの。あ、そうそう、まだ結婚してることは言わないでくださいね。なんか色々…彼の方はいいんですけど、CMとかの関係で、公表するのは控えなきゃならなくて」
「ええ、ええ、もちろん言いません、誰にも」
よくわからなかったが、彼女は確か栄養ドリンクのCMに出ている。バリバリ働くキャリアウーマンの役をやっていたから、結婚でそのイメージが崩れてしまうのをスポンサーが好まないのかもしれない。
「ごめんね市来くん、ぼくからもお願いするよ。彼女、今後もまだお仕事続けたいみたいだからさ。イメージが大事な稼業みたい。イメージが」
「わかってるさ、一切口外しない」
この世にこんな女性がいていいのだろうかと思うほど、恩田レイコは美しかった。しかしそれはあまりにも人間離れしており、美術館に飾られている彫刻を思わせる美ではあったが。
「あなた」
雪男は立ち上がり、賢介たちに背中を向けて妻のレイコと小声で何やら話し合っている。彼女は夫である雪男を迎えに来た。友人に夕食を待たせているのだ、早めに切り上げねばならない。
「市来くん、深見さん、ちょっと待ってて」
「失礼しますね」
雪男は妻を伴って喫茶店を出て行くと、二人でフロントへ向かった。喫茶店からフロントロビーはガラス張りになっていて、カウンター前に立った雪男たちがホテルの人と何やら会話を交わしている。
「綺麗な人…」
「ああ。すごい美人だ。欠点がまったく見当たらない。俺よりも背が高いんじゃないか?それなのに顔が小さい」
「九頭身よね。目も大きいし…同じ生き物とは思えない。なんだか自分が嫌になっちゃう、ふふふ」
由里は恩田レイコにすっかり魅了されている。
「すごいな、雪男のやつ」
地位、名声、金、そして美しい女性。彼は賢介と同い年にして、望むものすべてを手に入れている。それだけ努力をしてきたということだ。
「でも佐橋くん…本当に何も覚えてなさそうだね」
「うん。考えてみると、確かにあの頃のあいつは、まだ自我ってものが確立されていなかったのかもしれない。俺たちだって、例えば四歳五歳の幼稚園の頃の記憶なんかあやふやなように」
当時の雪男が、同年代と比べて脳の成熟が遅かったことは事実だ。もっとも、その後覚醒した頭脳は常人離れしていたようで、今となってははるかに頭脳明晰なのだろう。
「あの頃のことは、あいつにとって半分夢の中のできごとなのかもしれないな」
頭を下げて謝罪する賢介たちに対し、雪男はあきらかに当惑しており、それが演技には見えないのだった。
雪男が小走りで戻って来た。恩田レイコの姿はない。先に戻って行ったのだろう。
「ごめんごめん。いやあ、妻に言われてね、二人のために部屋を取ろうと思ったんだけど、このホテルにはもう空きがないんだって。レイコが今、近くの空いてるホテル押さえてくれたよ」
「いやいや、そんなのいいよ雪男。俺たちはもう帰るよ。明日も仕事だし」
隣で由里がうなずく。
「そんなこと言わずに。せっかく館山まで来たんだから泊まっていきなよ。日本の人は働きすぎ!今は夏だよ、バカンスしなきゃ。ハイこれ、そのホテルのパンフレット。海沿いに行けば車で十分ぐらいだって」
パンフレットを渡された。リゾートホテルのようだった。
「繁忙期だから、あいにくひと部屋しか空きがなかったようだけど、二人はそういう関係みたいだしいいよね。広い部屋らしいよ」
由里と顔を見合わせた。少し照れた目線がかわいらしい。
「支払いはぼくにつけるようにしといたから、気兼ねしないでくつろいで」
「いや、雪男それは」
「それぐらいさせてよ。友だちじゃないか」
友だち…。賢介は顔だけ上げて雪男を見た。そこには屈託のない笑顔があった。
「…お言葉に甘えさせてもらうよ雪男。時間取らせて悪かったな、奥さんたちも待たせちゃって」
「ううん、いいさいいさ」
賢介は立ち上がり、今一度深々と頭を下げた。
「今までのこと…本当に済まなかった」
由里も立ち上がり、賢介に倣った。
「…もうやめてよ二人とも。なんかよくわかんないけど、頭なんか下げられても困るよ。変だよ二人とも。心当たりないこと謝られても困るでしょ」
彼には本当にいじめられていたという自覚がないのだ。顔を上げると、雪男は気味の悪いものを見るような目でこちらを見ていた。
「とにかく、今夜はゆっくりして行って」
「ああ、ありがとう」
「じゃあまた…SNSからでも連絡してよ」
雪男はそう言い残すと、足早に喫茶店から立ち去り、エレベーターに乗って姿を消してしまった。
➒
「何だったんだろうな」
「うん」
テーブルに残ったコーヒーをすする。殺される覚悟で首を洗って行ったのに、肩すかしを食らった。もちろん、殺されなくて良かったのだが。
「てことはだよ、由里。あいつが…俺たちを恨んでいないとすると、じゃあいったいどこのどいつが、この一連の事件を企てたんだ?」
由里は答えない。わからないのだ。賢介だってわからない。
「ヨシノリ君が言ったみたいに、ペットだった残りの誰かの仕業ってこと?」
由里が言った。〈ホルスタイン〉と呼ばれていた六条は中学時代に死んだ、というか殺されている。〈豚まん〉高木も死んだという。あとは〈ゲジゲジ〉宇田川と〈カビ〉和木だが…
「ゲジゲジとカビは、さほど恨みを抱いてないと思うんだよな」
「えっと…宇田川くんと和木くんね。そうなんだよね…佐橋くんや六条くんと比べたら、ぜんぜん」
宇田川と和木には安斉グループを恨む気持ちはあるだろうが、雪男や六条のように、ダーツの標的にされて針を刺されたり、タバコの火を背中に押し付けられたりはしていない。この二名は、変な言い方だが『いじめ甲斐がなかった』。安斉の『ペットは四匹』という命令に従い、人数合わせでかき集められたのだ。賢介の憶えている限り、彼ら二人がサスカッチやホルスタインのような強烈ないじめを受けたことはないし、むしろ、中学三年頃にはペットというよりも飼育係に近い働きをしていた。ペットの中にも序列があったのだ。
「殺してやりたいほどの恨みがあるのは、雪男を除外すると、六条。でもあいつは死んでいるから…」
由里の顔を見た。
「六条くんの家族」
「自殺…自殺じゃないけど、高速に飛び降りて死んだ息子。ご両親は学校や警察にいじめがあったんじゃないか、って訊いただろうな。でも、いじめの事実はなかった。安斉に弱みを握られていた権田先生が隠ぺいしたから。六条の日記はヨシノリが処分した。教育委員会も警察も、当時はそれほど追求しなかったんだろう。けど六条が日記に書いていたことを、家族の誰かが知っていたとしたら?」
息子の唐突な死を、不審に思っていたはず。
「あのね」
由里が口を開いた。
「こんなこと言ったら失礼なんだけど…六条くんのご両親って、子供ひとりひとりに愛情を注いで育ててるようなタイプじゃなかった。あそこ確か兄弟たくさんいて、確か彼は四人兄弟の長男」
六条の家庭事情を言いにくそうに話し始める由里。
「私とヨシノリ君は小学校が同じだったから、家とかも知ってるんだよね。その、長屋みたいなところで、汚くて臭い犬がいつもつながれてておっかないの。お父さんはいつも作業服でウロウロして、昼間からお酒の匂いを…あ、こんなこと言っちゃだめよね」
「いや、由里の言いたいことわかるよ、ヨシノリからもどんな親かは聞いてる。六条の親御さんは、訴えを起こしたり、死んだ息子のために何かするようなタイプじゃないってな。息子を平気で殴る父親だってことも聞いたことがある」
言葉は悪いが、六条家はアカデミックではなかった。長男の仇を討つべく三人の弟たちが立ち上がり、安斉グループ全体への復讐を企てた、という熱い兄弟愛のリベンジストーリーは有り得るかもしれないが、それは空想の域を出ることはない。
「やっぱりどう考えても、一番しっくりくるのは、あいつなんだよな…」
しかしあいつは昔のことをちっとも憶えていない。そもそも過去なんて見ていないのだ。前しか向いていない。たとえいじめられたことを憶えていたとしても、もはやあいつの中ではちっぽけな出来事になっているのだろう。今となっては俺たちのことなんて…
「あの人は…きっと私たちのことなんて、眼中にない」
由里が賢介の思いを口に出した。
「ああ。そんな感じだった。住む世界が違うんだ」
コーヒーを飲みほし、賢介と由里はホテルを後にした。外に出ると海からの風が生暖かった。
車まで戻り、運転席に座った。助手席で由里が電話をかけている。
「駄目だヨシノリ君つながらない」
電源を切っているらしく、つながらないようだった。彼がいなくなって一時間以上経つ。
「電車で帰ったんだろうな。まったく、怖気づきやがって」
「どうする?」
「放っといていいでしょ」
ふと、妙な考えが賢介の頭をかすめた。…今、生き残っている人間。安斉グループにどっぷり属していた人間は、賢介を含めて三人。ヨシノリと由里だ。この二人のうちのどちらかが、この一連の騒動を巻き起こしているとしたら?ヨシノリ?由里?それまで考えもしなかった疑惑だった。が…
いやいや、何を言ってるんだ。動機がない。
「どうしたの市来くん、行かないの?」
「ああ、うん」
由里に促され、エンジンをかける。…意味も理由も動機もない。例えばヨシノリ。彼が安斉ほか、グループのメンバーを殺害する理由は?恨みがあったか?多少なり憎しみはあったかもしれないが、ヨシノリは上手く立ち回っていた。安斉個人に対して腹立たしいことはあったかもしれないが、その他のメンバーを殺して回る理由が見つからない。カムフラージュとしてグループの人間を殺害して回った?そんな面倒なことをするだろうか。由里にしたってそうだ。こちらはヨシノリよりも薄い。なぜ昔の友人を殺す?まったく理由が思い浮かばない。
あるいは…ヨシノリと由里、二人だとしたらどうか。この二人には共通点がある。それは、孤独だ。
「市来くん?」
「ああ、ここ出て、左に折れてまっすぐだったね」
車を発進させた。
そもそも人を殺すのに理由など必要ないのかもしれない。近年は理由なき殺害事件が増えている。『腹が立ったから』『イラっとしたから』でバットを振り上げ、『誰でもよかった』『魔が差した』でナイフを振り回す時代。安斉以下数名の殺害も、単なる《苛立ち》が原因なのではないか…?
ヨシノリは独身で実家暮らしだ。仕事も上手くいかず、家には病気のご両親がいる。好きなギャンブルに使える金は自己破産のせいで限られており、さぞかし不満は募っていることだろう。三十を過ぎ、同世代は結婚し、それぞれ家庭を持っている。自分の現状と比較して逆恨みしてしまうのは、想像に難しくない。自分がうまくいかないことを、人のせいにしたり、過去のせいにしたりするのは、誰だってあるはずだ。諸悪の根源ともいうべき安斉、そして万代がそれぞれ順風満帆な人生を築き上げていることに苛立ちを覚えたこともあるだろう。
由里にしたってそうだ。三十過ぎの出戻りで、肩身の狭い思いをしている。同世代の結婚や出産、子育ての情報だけが嫌でも耳に入ってきて、心中穏やかではないはずだ。
さりとて、こんな意味のない殺戮をして、何になる?
ウィンカーの音が鳴っている。
「何考えてるの?」
「えっ、いや」
由里が賢介を見ている。
「もしかしてヨシノリ君を疑ってる?」
「…そんな」
「それとも…私かな?」
賢介は由里を見た。目が笑っている。
「わかるよ。佐橋くんじゃないとしたら、いったい誰が?って思うよね普通。私もついさっき、市来くんのこと疑ったから」
「えっ、俺を?」
なぜ俺を。賢介は心外だった。
「だってさ、今まで十年以上宇都宮に来なかった市来くんが、安斉君のお葬式には来たんだよ。私あの時、単純に驚いたし、あれっ、来たんだ、って不思議に思ったもん。きっとみんなもそう思ってたはず」
「マジかよ…参ったな」
由里が笑ってうなずいた。そう言われてみると、確かに賢介の登場は不自然で、他の人たちからすれば意外だったかもしれない。
「確かに、ストレンジャーの俺が一番疑わしい」
賢介は頭を掻いた。
「でも…動機がないもんね。得もないし、恨みもそれほど。ヨシノリ君だってそう。ちなみに私もね、あしからず~」
そうなのだ。動機が希薄だ。中学時代は不快な思い出となって賢介の脳裏に焼き付いてはいるが、安斉たちを殺して回ったところでその記憶が消せるわけでもない。
海沿いの道路に車を走らせる。
「ごめん由里。俺、少しだけ由里のこと疑った」
「いいよ別に、お互い様。まだ私たち、お互いのこと知らないんだし。これから私という人間がなんとなくわかってきたら、私が人殺しなんてする人間じゃないってわかってもらえるはず」
「えっ、付き合ってくれるの?」
「もちろん。こっちから頭下げてお願いしたいぐらい。でもその前に、彼女サンときっちり別れてね。バツイチが偉そうに言っちゃうけど、そういうややこしいことしてる時間ないの私。正直、焦ってる。恥も外聞もないの」
「わかってる。待ってて」
考えるのはやめだ。もしかしたら本当に、安斉グループのメンバーをはじめ、その周囲で立て続けに死が訪れた出来事は、単なる偶然だったのかもしれないと思い始めている。なぜなら、それしか説明できないのだ。
たまたま、安斉がトイレで転んで死んだ。
石井と半村が仲違いをして決闘し、死んだ。
そのタイミングで、権田先生が病死した。
海外で陣内が事故死した。
六条殺害の手助けをした豚まんこと高木も死んでいた。
それらを受け、勘違いした万代が、自殺してしまった。
涼子は心労がたたって睡眠薬に頼り、風呂場で溺れ死んだ。
全部曖昧なのだ。確証がないし、警察の調べも済んでいる。ツッコミどころは随所にあるが、異論を唱えようがない状況。
「結局、奇妙な偶然が重なっただけか」
「うん…だってそうでしょ?佐橋くんを見て思わなかった?あの人、過去なんて見てない。っていうか、私たちのことなんてアリぐらいにしか見えてない」
「うん」
そうだ、アリだ。目では笑っていたし、柔和な顔つきを絶やさなかった雪男だったが、目の奥に暖かさは感じられなかった。友人の子供と遊んでいるときの目とは違ったのだ。最後の別れ際なんて、確かにあれは、由里の言うとおり、アリを見る目だった。ホテル取ってやったから、一晩泊ってとっとと帰れ。そう言われているような気がした。きっと奥さんにアドバイスされたのだ。彼女は芸能人、イメージを大事にする稼業。一般人に優しく接し、自己評価を上げるのはお手の物だろう。
「まあでも…腹は立つけど、あいつはめちゃくちゃ頑張ったんだもんな。俺たちのことがアリに見えるのは当然か」
「そうよね。《日本が世界に誇る十人》の一人だもんね」
「…はは、由里もちゃっかりチェックしてるんだな」
「そりゃ、まあね」
ぐうう、とその時由里の腹が鳴った。
「あれ?おなか減っちゃった?」
「お恥ずかしい。でもおなかペコペコなんです。何か食べない?」
その意見には賛成だった。賢介は車を走らせながらレストランを探した。何でもいい、どこでもいい。雪男に謝ったことで、どこか身体が軽くなっている自分がいた。
ファミリーレストランを探したが、結局見つからなかったので、個人でやっている定食屋のような店に入った。そば、うどん、カツ丼や天丼、その他各種定食など、メニューは豊富だ。
八時を回っていたが、店内はサラリーマンや作業服を着た中年客でそれなりに賑わっており、地元民だけが知る人気店といったところだろうか、びんビールを手酌で飲んでいる客が多く、半分居酒屋のような様相を呈している。
「悪いね、こんな店で」
「ううん、私こういう店好きよ」
店内の角、天井付近には赤い旧式のブラウン管テレビが置かれており、無音でオリンピック関連の映像が垂れ流されている。
「何にしようかな、どれもおいしそう」
「姉ちゃん、ここは魚だ。魚の定食頼みな」
横に座っていた工員風の男が、赤ら顔で教えてくれた。
「ありがとう。魚だって。どうしようかな」
かっぽう着姿の店員を呼び、二人それぞれ違う魚の定食を注文してから、賢介はおしぼりで顔を拭いた。その仕草を見て由里が笑った。
「何?おっさんみたい?」
「うん」
「おっさんだよ、もう」
少しだけ、ホッとしている。
「勝手なことだけど…肩の荷が下りたような気がする」
短い溜息をついた後、賢介は由里に言った。
「謝罪したから?」
「うん。やっぱりずっと…気になってたんだ、あいつをあんな目に遭わせてたこと」
「それは私も。安斉君が怖くて言えなかった。こんなことは間違ってる、って言えなかったあの頃の雰囲気」
「おかしいよな。俺たち安斉の恐怖政治にビビりまくってた」
いつもまとわりついて来る雪男のことは、嫌で嫌で仕方なかったが、あそこまでひどい目に遭わすつもりは、当初はなかったのだ。安斉の異常性は日に日に増していき、賢介たちはそのエスカレートするいじめについていけなくなっていた。けれども、無理をしてついていった。自分がいじめられないために。
「いいわけだよな」
「うん、私たちはひどいことをしてた。この罪は消えないと思う」
確かに由里の言うとおりだ。謝ったことによって多少は気が楽になったが、一度犯した罪は消えない。
食事が届けられ、賢介と由里はしばらく無言で箸をつついた。おなかが空いていたせいか、さほど期待していなかったせいか、料理はかなりおいしく、繁盛している理由がなんとなくわかった気がした。
「サバはどう?」
「おいしいよ。アジフライは?」
「うまい」
後ろに座った男が吸うタバコの煙が、由里の方へ流れてくる。
「席変わろうか?」
「ううん、平気。でも早くホテルでシャワー浴びたいかも。汗もかいちゃったし。なんかベタベタする、潮風のせいかな」
上気した顔を手で仰ぐ由里。
「確かに。早くシャワー浴びたいね」
寝るのはまだ別々だ。賢介がめぐみと別れてくれなければ付き合うことはない、と由里は言ったが、賢介は少しだけ期待した。
「旅行かい」
魚を頼め、と教えてくれた工員風の男が、くわえ楊枝で唐突に訊いてきた。
「ええ、まあ」
「どこに泊まるんだい」
「ええと…」
雪男からもらったパンフレットを取り出し、ホテル名を言った。
「おお、そこなら俺もやったところだ」
「やった、とは」
「配管。俺、配管工。バブルの頃に建てられたんだけどな、経営失敗して、しばらく手つかずのまま放置されてたのよ。十年ぐらいかな。んで、最近になって買い手がついて、リノベーションっつーの?耐震補強やら何やらすべて手ぇ加えてな。俺は配管やった」
「へえ、そうなんですか」
「ああ、でもあれだな、こないだまで内装やってたけど、もうオープンしたんだな。ま、元々夏前にオープンする予定だったんだけど、工事が長引いてて、秋頃って話だったけどな。ちなみに俺は配管をやった」
「そうですか」
賢介と由里は顔を見合わせて苦笑いした。おじさんは、少し酔っている。
「まあでも、あそこは絶景だよ。この辺りじゃ一番の…」
その時、店内がざわついた。
「この先の?」
「ゴルフ場に行く道だ」
常連だろう、知り合いに熱く語っている。
「パトカーが数台いてさ」
「人が倒れてたのか」
事件があったらしい。
「ひき逃げじゃねえのかい」
「いやいや、首から上がねえんだと」
由里と目が合う。
「…まさかね」
由里は笑った。
「ああ…じゃないさ」
現場は館山カントリーに続く一本道。この近くらしい。口にこそ出さなかったが、賢介も由里も、その遺体がヨシノリのような気がしたわけだ。もちろん、そうでないことを祈ってはいたが。
➓
雪男が手配してくれたホテルの駐車場に車を停め、由里と二人でフロントに向かう。地中海風の豪華なホテルで、内装もとびきりセンスがいい。素晴らしいリゾートホテルなのだが、二人とも口が重かった。色々考えているのだ。
奇妙な偶然が連続した、という結論で締めくくりたい。雪男が犯人だとは思えなかった。
フロントには長身の男が一人いるだけで、ロビーにも客の姿は見えなかった。時計を見るともう十一時を回っている。定食屋でゆっくりし過ぎたようだ。
「市来様、深見様…はい、グランドスイートのお部屋でございますね」
グランドスイート!驚いた。聞けばこのホテル最高の部屋なのだという。フロントの男性は部屋まで案内してくれた。
部屋に入った。開放的で、大きなソファが二つ。天井の高い大きな窓にはカーテンこそかかっていたが、おそらく日中は海が一望できるのだろう。寝室は別にあり、キングサイズのベッドが二つ並んでいる。
「うわー、素敵。こんな部屋、こんなベッドで寝たことない…」
由里が感動していた。確かに、ここまでいい部屋は賢介は泊ったことはない。
「参ったな。こんないい部屋。ラブホテルとかで充分なのにな」
冗談のつもりで言ったのだが、由里に目を細めて睨まれてしまった。
「冗談冗談。でも豪華すぎるよ。ロータリーに停まってた車見た?ロールスロイスのゴーストってやつだった。ここ、かなり高級なリゾートホテルだよ。パンフレットに書かれてる宿泊費もけっこうなお値段だし…雪男に悪いからさ、一般の客室が空いてるならそっちに移らないか?」
「えー、せっかく素敵なお部屋なのに」
由里はこの部屋が気に入っているらしい。さっきまで難しい顔をして考え込んでいたのに、部屋に入った途端心配はどこかへ吹き飛んしまったかのようだった。
「そうだけど、身の丈に合わないよ。このホテルなら一般客室でもきっと充分ラグジュアリーさ。このパンフレットの写真見てみ」
「せっかくの機会なのに…うーん、でも確かにそうね。佐橋くんがいくらお金持ちだからって、さすがにタダでスイートに泊まっちゃうのは失礼かも…」
パンフレットに載っている他の客室の写真も、それなりに高級感がある。
「フロントに電話してみるよ」
しかし、電話はなぜかつながらなかった。呼び出し音は鳴るのだが、誰も出る気配がない。
「電話より直接言った方が話が早そうね。私行ってくる、少しは働かなきゃね。市来くんずっと運転してたんだからちょっと休んでて」
由里は部屋を出て行ってしまった。賢介は大きなソファに端にちょこんと座り、これまた大きな画面のテレビをつける。先刻定食屋で耳にした殺人事件の情報を知りたかったのだ。ちょうどチバテレビでニュース番組をやっていて、現場からのリポートをしているところだった。
「首なし遺体、か」
ショッキングな殺人事件だ。ワイドショーが飛びつくことだろう。
「遺体の上半身は裸…青いジーパン…鎖のついた財布…黒いスニーカー」
ジーパン…。
ヨシノリの今日の服装を思い返してみる。人の記憶は曖昧だ、ジーンズをはいていたかどうかもうろ覚えだった。上は黒っぽいポロシャツを着ていたような気がするのだが…。ただ、鎖のついた財布。彼はウォレットチェーンをしていたような気がする。助手席に座っていたヨシノリが動くたびにジャラジャラと音がしていたのだ。でもそれがチェーンの音なのか、キーホルダーの音なのか、しっかり見たわけではないから定かではない。靴も黒かったかどうか。
他人であってくれ、と願っている。大型のテレビ、真っ暗な現場で深刻な表情を浮かべながら同じ内容文をリピートする記者が映し出されている。そこに、続報が舞い込んできた。
「『続報です。警察からの発表によりますと、遺体の背中にはタバコの火を押し付けたようなやけどの跡が複数見つかっているとのことです。繰り返します、頭部を切除された状態で発見された遺体の背中部分に、タバコの火を押し付けてできたとみられる複数のやけど痕が確認されました。現場からは以上です』」
タバコの跡…。
賢介はゾッとした。安斉や万代、そしてヨシノリが、雪男や六条の背中にタバコを押し付けて模様を描いていたことを思い出す。賢介はタバコを吸わなかったからそれに参加することはなかったが、肉の焼ける匂いと悶絶する二人の顔は、記憶にしっかりと刻み込まれており…
この首なし遺体がヨシノリであった場合…これは復讐に確定だ。安斉の凶行を知る何者かの仕業に違いない。雪男ではないと思いたいが、六条は死んでいるわけで…
突然ドアが開かれた。ソファの上、賢介は身体を飛び上がらせて振り返ったが、それは当然由里だった。
「市来くん、説明が面倒くさいから、ホテルの人に来てもらっちゃった」
先ほど部屋を案内してくれたボーイが由里の隣に立っていた。
「失礼します、お部屋の変更をされるということを伺いまして…」
「あ、ちょっと待ってくださいね。由里、ちょっと…」
由里を手招きし、ボーイに背中を向け、彼女の耳元で小声で言った。
「あのさ、もう泊まらずに帰らないか?なんだかとても悪い予感がする」
背筋がずっとぞくぞくしていた。
「帰る?今から?もう十一時過ぎてるよ」
「ああ…だからその、このホテルはあいつに知られてるから」
「あいつって、佐橋くん?私はあの人は本当に何もしてないと思うことにしたけど」
「そうなんだけど…ヨシノリが」
「えっ!…ヨシノリ君だったの?」
由里が大声をあげた。
「いや、まだわかってないけど」
「だったらそんなこと言わないでよ、縁起悪い」
咳払いに続いて、ボーイが声をかけてきた。
「あのう、申し訳ございません、何かお部屋に不具合がございましたでしょうか。あいにくお部屋の変更をご希望なされても、グランドスイートはこのお部屋限りですし、一般客室は満室、このお部屋よりも多少ランクの劣るセミスイートならばすぐにご用意できますが」
「あ、じゃあそちらでいいです。キャンセル、セミスイートに替えて。ね、それならいいでしょ?市来くん」
「ん…ああ、じゃあ」
「かしこまりました、ではそのように手配させていただきます。しばらくお待ちくださいませ」
由里はちゃっかりセミスイートを押さえてしまった。賢介は一抹の不安を憶え「あ、ちょっと」と立ち去ろうとするボーイを呼び止めた。
「すみません。勝手なお願いついでに、もうひとつ勝手なお願いをしていいですか」
「はい…それはどのようなご用件でしょうか」
「部屋を他に移ったことを、あまり多くの人に知られたくないんです」
ボーイは小首を傾げたが、すぐに笑みを浮かべ、小さくうなずいた。真意を測りかねているが、お客様のご要望にできるだけ添おうと思ったのだろう。
「ええ、かしこまりました。では…わたくし以外知らないようにさせていただきますが、何かの用事を申し付ける際やルームサービスをお頼みになられる際は、わたくし個人のPHSにお電話ください。これがわたくしの名刺でございます、お気軽に」
ルームサービスなど頼む予定はなかったが、賢介はボーイの名刺を受け取り礼を言った。沢田郁夫という名前と、電話番号が書かれている。
「ありがとう沢田さん」
「では、しばらくこのままお待ちください。お部屋にはすぐに移れるよう手配いたします」
部屋に二人きりになると、すぐに由里が訊いてきた。
「そんなに警戒する?」
「するさ。本当はすぐにでもここから逃げ出したいぐらいビビってる」
首なしの死体。ヨシノリではないように祈っている。あれがヨシノリであるとすれば、まだ雪男のセンは残っているのだ。
「私たちがここに泊まることは、誰にも知られてないでしょ」
「…あいつは知ってる」
「あいつあいつって、市来くんあのねえ、私原点に戻って考えてみたの。佐橋くんが犯人である場合、私たちに恨みがあるんだったら、もっと早い段階で復讐してると思わない?さっき会った時だって、やろうと思えばやれたでしょ?そもそも、あの人は私たちを見てびっくりしてたんだよ?」
「演技かもしれない」
「疑い出したらキリがないよ。全部単なる偶然が連続しただけだって、さっきそういうことになったじゃん」
「そういうことになったって言われても…」
由里はスマートフォンを取り出した。
「…ホラ、見てこれ。私もちょっと調べたの。〈遺体の年齢は四十代後半〉って書いてある。ヨシノリ君じゃないでしょ?まだ三十代前半なんだから」
地元民が利用するネット掲示板。確かにそう書かれてはいたが、そんな情報源は眉唾ものだ。というか、由里も気になって調べていたわけだ。賢介はスマートフォンを由里に返しながら謝った。
「まあ、でも確かに由里の言うとおりだな。その気になればあいつは俺一人の時にいつでも殺せたはずだな」
チャンスはいくらでもあった。プロの殺し屋なら、スタンガンを持った程度の相手など屁の河童だろう。
「神経質になりすぎてた」
「そうだよ。私もそうだけど、疲れてるんだよ。でも考えすぎて、不安になって、精神削ったあげく過去の亡霊にやられちゃうのは私は嫌!」
涼子や万代のように、自分を追い込むのは間違っている。由里はそう言いたいのかもしれない。
「お時間かかってしまって申し訳ございません。お部屋にご案内いたします」
沢田が現れて、賢介と由里を階下にあるセミスイートなる部屋に案内してくれた。
「充分だよ」
グランドスイートには劣るものの、居室と寝室に分かれており、広さも内装も素敵な部屋だった。由里も満足そうだ。
「それでは、何かございましたらわたくし沢田まで」
深々と頭を下げる沢田。胸に光る金バッジには、チーフコンシェルジュ沢田と刻まれていた。なるほど、万事そつのない応対だと思ったら、そういうことだったのか。
賢介と由里は大きな布張りのソファに並んで腰を下ろした。
「さ、市来くん。今夜はもう妙なことを勘繰るのはやめましょ。すべてが偶然で、最悪の事態が連続しただけなのよ」
「そうだな。俺も、ちょっと考えすぎだった」
なんだか、とても疲れている。
「私、シャワー浴びて来るね」
「ああ、どうぞ」
由里が立ち上がった。
「そうだ…市来くん、彼女サンとはどうなの?」
今その話か。
「ああ…うん。その、話はしたよ」
「なんて?めぐみさんだっけ」
「いやその、別れてはくれるんだけどさ…条件を突き付けられて」
「条件?」
賢介は頭を掻きながら由里を見た。
「驚かないでよ。めぐみは由里に会って話してみたいって言うんだ」
「私に?」
賢介はうなずいた。
「おかしいよな。ちょっと普通じゃないんだよ」
「えー、なんでだろう。どういう心理」
首を傾げる由里。
「曰く、どんな人が自分の彼氏のハートを射止めたか見定めて、それを今後の教訓に生かしたいんだと」
由里は眉根を下げて変な顔で笑った。
「意味わかんない。けど、向上心がすごい人ね」
「向上心は、確かに人一倍強いかも。転んでもただじゃ起きないんだよ、あの人は」
腕を組み、由里は真顔でしばらく考えた後、数回うなずいた。
「わかった。いいよ。伝えておいて、私は平気」
「すごいね。絶対断られると思ってた」
「そうねえ、負けるのが嫌い。私こう見えて、負けん気だけは強いの。泥棒猫と言われようがなんと言われようが上等よ、返り討ちにしてやるわよ」
こぶしを突き上げる由里。そうか。今でこそ丸くなってはいるが、こう見えて彼女は肝っ玉の据わった元ヤンキー娘なのだ。おかしな展開になってきた。
「ははは、そう伝えておくよ」
「いつでもそちらさんの都合のいいときにお会いしますって伝えて。今すぐ」
「え、今?」
「そう今。私、挑まれると燃えてくるタイプ。…そうよね、欲しいものは力ずくで手に入れなきゃね」
欲しいもの。俺のことか。ちょっと嬉しかった。
「じゃあ市来くん、私がシャワー浴びてる間に日時と場所を決めといて」
有無を言わせぬ態度でそう言った後、由里はシャワールームへ消えてしまった。
@Susquach
愛は人を変えます。ぼくは愛を手にしました。愛によって、わかることがあるんです。愛は偉大なのです。
黙っているつもりはなかったんですが、実は結婚しました。
ぼくにとって、やり残したこと。それは愛を手にすることでした。
二十代は仕事に突っ走ったぼくですが、しかしどこかで虚無を憶えていたのです。一旦仕事から離れて、愛する人と待っ正面から向かい合い、愛を育むことの大切さを学びました。愛なき世は無です。地位や名声、お金なんて二の次だったのです。
これからは、愛を優先して生きていくつもりです。
佐橋雪男、セカンドステージ突入です!
めぐみはワンコール目で電話に出た。
「元気?」
やけに声が明るい。
「ああ、元気と言えば元気かな。めぐみも元気そうだ」
「その後どう?新しい彼女は私と会ってくれそう?」
しっかり憶えている。勢いで言ったわけではなさそうだった。
「ああ…そのことだけど、彼女も会って話してみたいって」
「ほー。やるじゃない。なかなか肝据わってる子ねえ」
めぐみは嬉しそうにそう言った。由里も由里だが、めぐみも変わっている。
「で、いつ?」
「めぐみの都合のいいときで構わないらしい。彼女、実家暮らしでバイトだから、いつでもいいみたい」
「あらそう。ヒマな女なのね」
しばらく間があって、ノートをめくるような音がした。スケジュール帳を見ているのだろう。
「土曜日の十時は?」
「朝の?」
「朝に決まってるじゃない。夜の十時だったら二十二時って言うわよ」
バカにするような口調。こういうのが苦手なんだよな。
「わかった。伝えておく。場所は?」
「賢介の部屋」
「えっ、外じゃないのかよ」
「お店で金切り声上げられたら恥ずかしいでしょ?私はそんなことしないけど、その子が」
修羅場になることを想定しているようだ。
「…わかったよ。それでいいよ」
「よろしくー。なんだか楽しくなってきた!」
ケラケラと笑ってから、めぐみは電話を切った。
部屋を見渡す。グランドより劣っているのは広さぐらいで、セミスイートも造りや内装は豪奢だった。念入りにリノベーションしたのだろう、カーテン、絨毯、ドアやドアノブ、細部にわたっていちいち手の込んだホテルだった。
「ふう…」
なんとなくすべてがひと段落つきそうだった。中学時代の仲間がバタバタ死んだ。もちろん悲しいことだが、彼らの死が賢介の今後の人生に変化をもたらすことはなさそうだし、むしろ隠したい過去だったから、結果的には知る人が減って良かったとも考えられる。
心の奥底に長い間引っかかっていた、佐橋雪男への罪悪感も、直接会って謝罪したことにより、いくらかマシになっている。
さらに賢介にとっての幸運は、深見由里と再会し、彼女と親密な関係になれたことだ。すっかりあきらめていた中学時代の淡い恋。それがこのようにごく自然な形でリスタートできるのは、文字通り不幸中の幸いかもしれない。
もちろん由里とゴールインするには、めぐみという障壁をクリアしなければならないが、それも時間の問題だろう。めぐみが由里と直接対決したいのは、自分の負けを認めたくないだけなのだ。
「完全にスッキリとはしないけれど…」
どの問題も、完全に解決していないし、結論も出ていない。しかし…
「とりあえず、八割方終わった」
シャワールームから水の音が消え、しばらくして由里が出てきた。バスローブを羽織り、髪にはタオルを巻いている。
「あー、さっぱりした!」
その姿に、単純にかわいい、と思った。
「何もかも揃ってるよ、クレンジングから化粧水、乳液、保湿クリーム。パックもあるよ。いいのばっかりだから持って帰っちゃお」
顔をタッピングしながらこちらに向かってくる由里は、唇の色が薄くなっている以外はすっぴんでもさほど変化がない。中学時代から気づいていた。彼女は化粧などしない方が美しいのだ。
「やだ、あまり見ないでよ。お先でした、どうぞ入って」
「ああ、そうさせてもらうよ」
促されるままシャワーを浴びつつ、今夜はどうするべきなのか賢介は考えている。由里次第だが、賢介は今、彼女を抱きたい気持ちが溢れている。それは性欲ではあったが、愛おしさを多く含んでいた。この後シャワーから出るなり抱きしめ、ベッドに押し倒してもきっと由里は抵抗しないだろう。先ほどの表情から察するに、彼女は今、ホテルのムードにやられて恍惚感に包まれている。
「…よし」
そっと抱きしめて、反応を見てみよう。
シャワールームを出て身体を拭き、バスローブに着替える。髪を適当にドライヤーで乾かしてから、メインルームに入った。
由里はソファの背もたれに寄りかかってうたた寝をしているようだった、少し斜めにもたれかかったその後ろ姿に、賢介はそっと近づく。後ろから抱きしめるつもりだった。
「由里」
肩に手を触れた。反応はない。
「由里?」
両手で肩を持ち、揺さぶる。背後から顔をのぞき込む。由里の目が半開きだった。一瞬にして、賢介の全身から血の気が引いた。…まさか!
「由里、おい由里っ!」
室内に、ケラケラケラ、と由里の笑い声が響いた。
「…よしてくれよ、悪い冗談だ」
語気を強めて怒った。たくさん人が死んでる。涼子だって亡くなった直後だ。これは悪趣味な悪ふざけだ。
「ごめんごめん。怒った?」
「怒るさ。今はそんな状況じゃない」
由里は立ち上がり、賢介に近づいた。そして正面に立つと、下を向いたまま賢介の胸におでこを押し付けてきた。
「な、なんだよ」
由里の腕が、賢介の腰に回る。…これって、いいのか?
「ごめんね。怒らないで。不謹慎だったね、許して」
上目で謝る由里。
「いや、いいんだよ、わかれば」
腰に回った由里の手が賢介の背中で交差された。抱きしめていいのだろうか。
「由里…俺」
「めぐみさんは?」
誘っておいて、今さらそれはないだろう。
「今週、土曜の十時なら都合がいいって」
「夜十時ね」
「違うよ午前十時」
「えー、普通夜でしょ」
由里と俺は気が合うようだ。賢介はそっと彼女の身体に手を回した。ぴくん、とその体が反応した。
「止められないよ俺」
「フライングだけど、いいよ」
熱い吐息。
「既成事実作っといた方が、めぐみさんと対等に闘えるじゃん」
「…由里」
肩を抱いた。強く抱いた。それからは止まらなかった。引きずるようにベッドルームに連れて行き、激しく愛し合った。
薄暗い室内、ベッドの上。二人並んで天井を見上げている。
「ねえ」
「うん?」
「すごく激しかったけど…」
「ごめん」
「もしかして、恩田レイコを見て興奮してた?」
誤解だ。賢介は顔を横に向け由里を見た。
「そうじゃないよ。単純に、由里に興奮したんだ」
「ふーん。恩田レイコさんのこと見る目が普通じゃなかったから」
「そんなことないよ。彼女は確かに美しいと思ったけど、それは美術品を見て感動するような感覚だよ。そもそも俺はモデル体型には欲情しない」
「あー、何。それって失礼だよ」
賢介は笑って由里の身体を抱いた。
「これぐらいの肉感が、俺は好きなんだ」
「もう…」
その時チャイムが鳴った。由里と顔を見合わせる。
「何か頼んだ?」
首を振る由里。賢介はベッド脇の時計を見た。夜中の一時を少し回っている。こんな時間に何事だ。
「…行ってくるよ。ここで待ってて」
賢介はバスローブを着てドアに向かった。
「はい」
「客室係の沢田でございます」
さっきのボーイだ。チーフコンシェルジュの沢田。
「何か」
ドアを開けずに訊き返す。
「市来様にお荷物が届いておりました」
「荷物?誰から」
「佐橋雪男様、という方からでございます」
雪男。賢介はしばらく考えてからドアを開けた。沢田が白い箱が乗ったサービスワゴンの脇に立っている。
「お休みのところ、大変失礼いたします」
沢田が頭を下げた。
「佐橋雪男がこれを持ってきたのか?」
賢介は沢田に疑いの目を向けた。沢田はしかし、柔和な表情を崩さぬまま答えた。
「わたくしは応対しておりませんのでわかりかねますが、係の者からそう伝え聞いております。こちら、市来様がこのお部屋に移られた直後、フロントに届けられたそうです。他の客室係がグランドスイートまで届けに行ったのですが、当然ながら市来様は不在でして、しばらくフロントの方でお預かりしていたようです。こちらに移られたことはわたくししか知らなかったので、わたくしが荷物に気づいた時にはこのような時間になってしまいまして。生ものだということで、わたくしもどうしようか悩んだのでございますが…失礼を承知でお届けすることにいたしました。こんな時刻になってしまったこと、誠に申し訳ございません」
受け取りたくないが、受け取らないわけにはいかない。
「ああ、別にまだ寝ていなかったからいいですよ」
沢田は箱の乗ったワゴンを押し、室内に運び入れた。
「メッセージカードも添えられております」
封筒が箱の脇に添えられてある。
「それでは、わたくしはこれで。おやすみなさいませ」
沢田は頭を下げて帰って行った。賢介はドアにロックをかけた。
「なんだったの?」
メッセージカードの中を見る。
『お似合いの二人へ 君たちは一緒になるべき!結婚はいいよ! 佐橋雪男』
小学校時代から進歩していない、雪男の下手くそな文字だった。それを由里にも見せる。
「…変なの」
「ああ、変だよな。やっぱおかしいんだよあいつは」
「ケーキね」
「ああ」
「食べちゃおう」
「ホールを二人で?」
由里が箱に手をかけた。テープをはがし、上蓋を開ける。賢介は冷蔵庫に向かった。小さなキッチンスペースがあり、そこにお皿やフォークがある。紅茶でも淹れようと、ポットに水を入れた。小さな棚にはドリップ式のインスタントコーヒー、そして紅茶のティーバッグが何種類か置かれている。賢介はアプリコットティーを選んだ。
「ギャー!」
何事か、と由里の元に向かう。彼女はワゴンの横で転倒していた。
「箱、箱」
立ち上がり、賢介にすがりついてくる由里。見開かれた目線の先、箱の中には…
「うっ!」
首。人間の首だ。
「ウソだろ…」
「市来くん!市来くんっ!」
服を引っ張られる。由里もパニックだが、賢介もそれ以上にパニックだ。少しクセのある前髪、細く整えられた眉、その生首は、ヨシノリだったのだ。
「ヨシ…ノリの」
「やだっ、やだっ、市来くん!」
半狂乱の由里。
どういうことだ。やはりあいつが?
考えがまとまらないが、次に狙われているのは間違いなく…
「逃げよう」
由里の腕を掴んで一歩踏み出したそのとき。部屋のすべての照明が落ちた。
「きゃああ!」
由里の絶叫。停電?
「落ち着こう、ドアはこの先だ」
しかしそのとき、それとは別の方向からドアが開かれる音がした。漆黒の暗闇の中、背後に人が近づく気配を感じたときにはすでに遅く、賢介は何か硬いもので後頭部を叩かれ膝から崩れ落ち、そのまま気を失ってしまった。
堂本義則 死亡
⓫
ズン。腕、手首。ちぎれそうな痛みが走った。
「あらら」
ゆらゆらと、自分の身体が空中で揺れている。
「やりすぎよ柳」
「申し訳ございません、手加減したつもりだったのですが」
「あなたって加減がわからないのね」
「人間は壊れやすい」
男女が話す声が聴こえる。
「何これ、オシッコ?」
「失禁しましたね」
「どっちが」
「二人ともです」
「嫌だわあ、ようやく内装が終わったっていうのに、床に染みないかしら」
「ブルーシートで養生してありますので」
「あとできれいにしといてよ?わかってる?」
「もちろん。三日後のオープンに支障をきたすわけにはいきません」
「わかってるのならいいのよ」
夢でも見ているのだろうか。いや、腕と手首に走るこの痛みは本物だ。
「これ以上オープンを先延ばしにするわけにはいきませんよね」
「わかってるじゃない。…バブル時代の遺産を買い取ってリノベーションし、高級リゾートとして復活させた。あの人のお金でこれから私は好きなことを何でもできる。夢だったのよ、ホテルのオーナー。そしてあの人と一緒にペントハウスに暮らすの」
「素敵なホテルだと思います」
男女ともに聞き覚えのある声だった。視界が徐々に確かなものに変わっていく。しかしとにかく、両手が、ちぎれるほど痛い。
「ホテル経営なんてコスパが悪い、ってあの人は呆れてたけど、私思うの。これからはちゃんとした実体のあるビジネスで、地に足つけて商売するべきなのよ」
場所は…さっきと同じホテルの部屋だ。しかし視点の高さが違う。そして視界はゆらゆらと揺れていた。ぼんやりとした視野に、男女の姿が浮かび上がる。
「そういう時代にシフトしていく。あの人お得意のネット関連ビジネスも、そろそろ頭打ちで出尽くした感があるでしょう?元々詐欺まがいが横行していた業界だし、ビットコインの終焉で不信感だけが残っちゃって。だから足を洗わせたの」
「ご結婚を機に?」
「あの人が今まで稼いだお金は、今後もっと実体のある事業に投資していくべきなの。モノを作って、動かして、売らないと、経済なんて回っていかないんだから」
「さすがですね」
「あの人はもう私のトリコ。私の言うことなら何でも聞いてくれるわ」
「わたくしのように」
「そうね。柳、あなたも同じね」
「わたくしはあなた様の完全なる奴隷です」
「気分がいいわ柳」
男女はよくわからない会話をしている。
「柳、あなたには申し訳ないと思っているのよ。こんなことばかりさせちゃって」
「いえ。わたくしはあなた様のためになることをするのが至上の悦びでございますゆえ」
何の話だろう。賢介は体をひねり、会話する男女の方へ顔を向けた。
「あの人もそう言ってくれたわ。ただ、ごめんね柳。私は本気であの人に惚れてしまったみたいなの」
「…それは」
「こんなことは今までなかった。だから、あの人のためになることをやってあげようと思って。ごめんね」
「いえ。わたくしは、女王恩田レイコ様の奴隷です。奴隷に情けなど無用でございます」
恩田レイコ。
「奴隷が恋愛対象になれるはずがございません。対等な立場ではございませんし、結婚など考えたこともございません。…わが国でも指折りの実業家である佐橋雪男氏を手玉に取り、その庇護と寵愛を受けておられるレイコ様は、もはやリアル・クイーンの立場を揺ぎ無いものにされておいでです。わたくしはそのクイーンのお傍にいられるだけで幸福なのでございます」
「クイーン。そうね。そしてあの人はキング。私はキングにはキングらしく振舞って欲しい。心の底からそう願ってる」
「御意」
賢介は男女の顔を見た。恩田レイコと、着ているものこそ先ほどとは違えど、コンシェルジュの沢田がそこに立っていた。
「あら、お目覚めのようね」
レイコが賢介の見開かれた目に気づいた。
「私の愛する夫を貶め、卑しめ、傷つけた張本人、市来賢介。キングを思うままにコントロールできるのは、クイーンだけ。過去のことだとは言え、夫を凌辱し続けたという罪は消えない」
「あんただったのか…」
恩田レイコ。佐橋雪男の妻。
「雪男はどこだ」
しかし恩田レイコはそれには答えなかった。
「夫の身体には無数の傷がある。背中なんて特にひどい。…市来さん私はね、サドなの」
「…は?」
何を言ってるんだこの女は。
「そして夫、佐橋雪男はね、真性マゾなの。初めて会ったときから私たちは惹かれ合ってたわ」
「うう…」
とにかく腕が限界だった。縛られた縄が手首に食い込み、ちぎれそうに痛いのだ。とにかく降ろして欲しかった。
「手が痛そうね。縄が手首に食い込んで血が出ているわ」
「降ろせ」
「ふふ。足元をご覧になって」
賢介はレイコに言われるまま足元を見た。そして驚愕した。一面に青いシートが敷き詰められた部屋、吊るされた賢介の足元に、濡れて横たわっている女がいた。
「…!由里っ!」
笑い声。レイコが口に手を当てて笑っていた。
「市来さんが考案したんでしょう?〈肩車〉でしたっけ。夫は憶えていなかったけれど、他の方から聞きました」
他の方?
「宇田川さんと和木さんって方。夫は当時のことはうろ覚えでね、だから彼らを捕まえて事情聴取をしたの」
「宇田川と和木…」
「お二人とも、もうこの世にいないけど」
なんてことだ。
「あの二人は…無関係で、むしろ被害者だ」
「どうかしら。安斎がペットと呼んでいた数人の中にも序列があったみたいじゃない。弱者はより弱者を痛ぶる。もしかしたら彼らが一番最低な人種なのかもしれない」
「…だからって、殺したのか」
「どうなの柳」
柳が無表情のままうなずいた。
どうやら一連の殺害はこの女、恩田レイコの手によるものらしい。雪男は…関与していない?
「〈肩車〉〈人間ダーツ〉〈水族館〉〈デスマッチ〉〈写生大会〉…安斉の飽くなきサディズムに応えるべく、あなたが考案した数々の拷問。なかなかのアイデアマンよね」
俺が?賢介は首を振った。足元に転がっているのは由里の動かぬ身体。ブルーシートの上、それは無残な姿をさらしている。
「くそう…!」
体をばたつかせたが、さらに腕にロープが食い込んだだけだった。
「憶えてないのかしら」
肩車…。そういえば、そんな催しを企画したおぼえがある。旧校舎の天井、梁の部分にロープをくくりつけ、両手を縛られた状態のペットを一人吊るす。吊るされたままだと全体重が手首のロープに掛かり、今の賢介のように手がちぎれそうになるわけで、それを回避するべく、もう一人のペットが下で肩車をしてあげるのだが…
「由里に、下をやらせたのか!」
レイコに怒鳴った。
「仕方ないじゃない。深見さんしかいなかったんだから。堂本さんは逃げちゃったし。ていうか、本来あなた方には然るべき罪を、然るべき時と場所で遂行する予定だったのよ。なのにこんなところまで乗り込んできて…困るわ、このホテル、もうじきオープン控えてるのに。汚れ落ちるかしら」
「大丈夫です。シートを敷いてありますから」
沢田、いや柳が答えた。
「私はね、愛する夫が凌辱されていたことが許せない。もう本当に、怒り心頭。この気持ちを味あわせたくて、あなたの恋人のめぐみさん?でしたっけ。彼女にも同じ気持ちを味あわせるつもりだったのよ。数日後に中野のあなたのお部屋でね、お二人で死んでもらおうと思って、その計画も立ててたのに。ねえ柳」
柳は小さくうなずいた。
「なのにあなたはこの深見って女と、堂本って男と、ノコノコ館山に現れた。予想外のことよ」
レイコの傍らに身じろぎひとつせず立つ柳。鋭い目つきが不気味だった。
「お前ら、由里を…殺したのか」
足元の由里はピクリとも動かない。
「その女?どうかしら。生きていたとしても虫の息ね」
「なんてことを…!」
「下品でいやらしくて汚らわしい女。女というよりもはや雌犬ね。いずれ千野涼子と同じように〈水族館〉してもらうつもりだったけれど、あなたたちがそういう関係だったとはさすがに気付かなかったし、まさかこんなところまで来るとは思ってなかったから。それで急遽計画変更、彼女には肩車の下台をやってもらうことにしました」
「由里?おい由里っ、起きてくれ!」
ぎりり、手首にロープが食い込む。賢介の肘から上腕にかけて、擦り切れた箇所から流れた血が伝い落ちている。由里の反応はなかった。
「ふふふ。彼女なりにがんばってたのよ?あなたを助けようとしてた。柳に何度もお腹を殴られても、あなたを守るために必死で立ち続けてた。さすが元ヤンキーね、根性がある。でも柳がはりきり過ぎちゃって、ナイフで背中とかツンツン刺しちゃったのよね…」
「申し訳ございません」
レイコは乾いた声でひとしきり笑ったあと、急に表情を硬くさせて賢介をにらみつけた。
「市来賢介。あなたは安斉グループの中で、もっとも罪深い人」
賢介は負けじとレイコをにらみつける。
「よくも…よくも由里を」
「今すぐ救急車を呼べば助かるかもしれないわよ。もっとも、それはかなわぬ願いだけど」
「呼べよ、救急車を!」
再びカラカラと笑うレイコ。
「呼ぶと思う?私は夫に代わって復讐をしている立場なのよ?あなたの足元に寝転がってるその女は、私の大事な人をひどい目に遭わせた。然るべき代償を払うべきでしょう。それは死以外にあり得ない」
「頼む、助けてあげてくれ。彼女は何も悪いことはしていない」
「嘘。ペットの方たちから聞いたわ、一緒になっていじめてたって」
「それはだから、仕方なく」
「あなたもそうなの?市来さん」
切れ長の目をさらに鋭くさせ、レイコはギロリと賢介を見た。
「夫のことを好きにしていいのは、この世で私だけでいいのよっ!」
狂ってる。
「ふう。…柳、市来さんを降ろして頂戴」
軽くうなずいた柳はブルーシートの上に足を踏み入れ、ガサガサと音を立てながら賢介に近づいて来た。手にはランボーが持っているようなサバイバルナイフが握られている。吊るされた賢介を一べつすると、脚立に乗り、天井から吊ってあるロープを切った。
どさり、とシートの上に落ちる賢介。ちょうど横たわる由里と、顔が向かい合わせになる。
「由里…」
反応はない。が、かすかに息をしている。と、次の瞬間脇腹を思いっきり蹴られた。呼吸が、できない。
「柳。その二人は一緒に包んで、市来さんの恋人のおうちに届けるっていうのはどうかしら」
「いい考えですね」
「…おまえら…!」
賢介は縛られた足のまま、柳の足元を蹴った。しかしそれは、ちょっとかすっただけに終わった。柳が、そしてレイコが嘲笑した。
「窮鼠猫を噛む、とはいかなかったようね」
「許さないぞ」
「アラ怖い。けどご自身の状況見て言って下さらない?」
ガサガサと音を立て、シートの上を歩く柳。しゃがみこみ、ナイフを賢介の顔に近づけてくる。冷徹な目だった。
「あなたはここで死ぬの、柳に殺されちゃうの。オシッコまみれになって、その女と二人一緒に包まれちゃうの。それは確定してるわ」
柳のナイフの切っ先が、賢介の目のわずか五センチの距離にあった。
「あ、ちゃんと説明しとかないと。ちょっと待って柳、一時停止」
そう言われた途端、ロボットのように柳はパッと立ち上がった。
「諸悪の根源、影の支配者、市来賢介!」
芝居がかった声色。
「これより己に罰を与える!」
柳が手首に巻かれたロープを引っ張り、賢介を無理やり立たせた。
「死を持って償ってもらうわね」
目の前、サバイバルナイフ。そこに映っていたのは、自身のおののく顔。
なんでこんなことに。
「…待ってくれ!俺は謝った!しっかりと罪を認め、雪男に謝ったんだ。心の底から謝罪した。そして雪男は許してくれたんだ!」
「見苦しいわよ市来さん。あの人が許しても、私が許してないじゃない」
レイコがブルーシート上に足を踏み入れた。
「雪男を呼んでくれ、あいつは俺を恨んでないはずだ。俺は雪男には友だちだと思われてる」
「確かにそう言ってたわね…けど夫はね、当時のことをあまりよく憶えていないのよ、ご存じ?」
「でも本人が」
手のひらを向けられ、口を制された。
「私の夫は、あなたとその仲間たちによって、中学時代に恒常的にひどい暴行を受けていた。夫はよく憶えていないみたいだけど、夫の背中にある無数の傷がそれを物語っているし、宇田川くんや和木くんからの証言でそれは裏が取れているわ」
カサ、ガサ。紫のエナメル靴、そのヒールがシートの上に鋭い谷間を作る。
「彼ら二人はこうも言ったわ。安斉誠はリーダー格には違いないし、イカレた男だったけれど、いじめのバリエーションを考案し、いじめられている佐橋雪男を眺めて心底楽しんでいたのは市来賢介だって」
俺が…?確かにいくつかのアイデアは出したかもしれないが、それは大きな誤解だ。例えば〈肩車〉にしたって、考案者はヨシノリだったはず。というか、安斉に命令されいじめのバリエーションを考え出していたのは賢介だったかもしれないが、それをより残忍な形にしたのはヨシノリだったのだ。
「誤解だ」
レイコはかぶりを振った。
「私は柳に頼んで、あなたという人間を調べました。安斉グループの中ではあなたが最も賢く、さらにしたたかさも兼ね持っている人間だと位置づけている。出身大学や現在お勤めの会社、社会的地位もダントツでトップ。安斉誠や万代真也、ましてや堂本義則には、とてもそんな才気はないのよ。堂本さんなんて、自己破産経験してらっしゃるんですって?」
待ってくれ。ヨシノリなんだ。あいつは低学歴でギャンブル狂いだけど、実は地の頭は良くて…
「あなたは優秀。これは褒めているのよ市来さん。安斉が上杉景勝だとしたら、あなたはさしずめ直江兼続。違うかしら」
「違うんだ…俺じゃない」
「見苦しいわよ、観念なさい」
何を言っても無駄なのか。
「そうねえ、じゃあ最後に私が何でこんなことをするのか、それだけ教えてあげる」
レイコが腕時計をチラリと見てから言った。
「復讐だろ」
「ちょっと違うのよね。あなたに理解できるかしら。柳、ちょっとストップ」
賢介に向けられていたナイフが下げられた。柳はしかし、その不気味なほど冷静な一重の目で、じっと賢介を見上げたままだ。
「夫である佐橋雪男が中学時代に受けた暴行、その恨みを晴らすために、いじめグループを狙った、と。そう思っているわけね市来さんは」
「違うのか」
レイコは芝居がかった仕草でクスッと笑った。
「私はねえ市来さん、真性のサディストなの」
ガサ、ガサ、とシートの音。
「夫、佐橋雪男は私が手に入れた最高のオモチャであり、最高のペット。あ、でも誤解しないで、雪男ちゃんとはそれだけの関係じゃなく、対人間としても愛し合っているのよ、それは本当。ごめんね柳」
柳は微動だにしない。柳とは、それだけの関係性ということが言いたいのか。
「あなたには理解できないようね。じゃあこういうたとえはどうかしら。…あなたは素敵な車を手に入れた。どの角度から見ても自分好みの、まるで自分のために作られたかのような車。乗ってみても最高で、エンジンの音色が自分の鼓動とシンクロするような、自分にピッタリの車よ。けれど、その新車の目立たない部分には無数の傷があったの。許せないわよねえ」
許せないわよねえ、の部分は野太い声色だった。
「でもね、傷モノだったのが許せないんじゃないのよ。初めて傷をつけるのは、私であるべきなの!雪男ちゃんは私の所有物で、私だけのペットであるべきだった。だから誰かが私に先んじてそれをしたことが許せない」
レイコの唇は震えていた。異常だ。異常者なのだ。
「雪男ちゃんはねえ、私に踏まれると大喜びするのよ。太い針で背中を刺されると、射精するの。雪男ちゃんは真性のマゾヒストなの。けれど、私の前にあなた方のペットだった。その過去はどうしても消したい。私だけのオモチャであるべきなの!」
柳が少しうなだれたような気がしたが、硬い表情に変化はなかった。
「あんたは狂ってる」
賢介が今の状況でできることは、シートの上に這いつくばり、この女を罵倒することだけだった。
「異常者だ。変態だ。キチガイ女め」
しかし賢介の乏しい語彙は、それで打ち止めだった。レイコは勝ち誇ったよう少し微笑んだあと、ガサガサ音を立てて柳に近づいた。
携帯電話が鳴った。レイコのものらしい。
「アラ」
画面を見て、レイコは相好を崩した。
「おしゃべりが過ぎたみたい。もう戻らないと、雪男ちゃんが心配してる。今夜もたっぷり《遊んで》あげる約束だから」
レイコは携帯電話をポケットにしまい、代わりにホテルのキーを取り出してくるくると回した。
「私たちは愛し合っているの」
キーを口で咥えるレイコ。
「…待ってくれ、殺さないでくれ」
しかしレイコは賢介に耳を貸すことなく、柳のそばに立つとその肩をそっと手を置き、耳元で妖艶に囁いた。
「柳、あとお願いね」
「御意」
無表情を決め込んだ柳は賢介の横にしゃがみ込んだ。逆手に持ったナイフがギラリと煌めく。
「じゃあね市来さん」
レイコは出て行った。部屋の中に、柳と二人きり。賢介の左側、横たわっている由里は、もはや息をしている形跡はない。…俺も、このまま死ぬのか。
「すまないですね」
柳は憐れむような目でそう言った。かすかな感情の変化を見て取った賢介は、情に訴えるしかなかった。
「助けてはくれないですか」
「いや、それは無理な相談ですな」
スッと、元の無表情に戻った。
「…安斎たちは、全部あなたが?」
「他に誰がやると?」
「じゃあ…ブラジルにも行ったんですか」
柳はこともなげにうなずく。
「わたくしは、あのお方の仰せのままに働くことに至上の悦びを得ておりますので」
ナイフを眺めながら柳はそう言った。
「でもあなたは、あの女の愛を手にしていない」
「…」
「あの女は何でも言うことを聞いてくれる、長年連れ添ったあなたよりも、金持ちの雪男を選んだ」
ナイフをじっと見つめる柳。何を考えているかは賢介にはわからない。
「悔しくないんですか」
「悔しくなんかないですよ。わたくしは、あのお方のお側に仕えさせていただけるだけで幸せですので」
この男が普通ではないことはわかっている。
「あなた、いいように使われてるんだ」
「かもしれませんね」
「一生あの人の言いなりでいいんですか」
「レイコ様の言いなりでいいんですよ。わたくしは十年以上前からあのお方の奴隷ですからね、そういうふうに調教されております」
「そんな人生でいいんですか」
「そんな感じで使われることこそ、わたくしにとって至福のご褒美ですので」
薄い唇を引きつらせるようにして、柳はニヤリと笑った。どうも、何を言われてもへっちゃらなようだった。
賢介は諦めた。
「さてと、では」
柳は手に持っていたナイフを脇に置いた。そして部屋の隅に移動すると、シートを丸め始めた。血や汚れが気になるのだろう。
「刺すと、どうしても血が出てしまうのでね…」
次に賢介の視界に入って来た柳は、手にロープを持っていた。
「レイコ様は殺し方には注文をお付けにならなかったので、これで」
ロープが首を一周した。続いて、力が加わった。首を絞めて殺害するつもりだ。両手両足を縛られている賢介に、抵抗する術はなかった。
「ウウウッ」
ただ、じたばたすることしかできない。
「ウーッ!」
その時。柳の締め付ける力が緩まった。そしてそれは、徐々にゼロになっていった。何かが起きた。頭を振り、首に掛かったロープを振り落とす。ゴロンと寝返りを打つと、ブルーシートに突っ伏した柳の後頭部が見えた。
「由里…」
柳の後方、ものすごい形相をした由里が、両手でナイフを掴んで立っていた。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ!」
血と汗でぐしゃぐしゃになった顔の中、目が見開かれていた。由里はナイフを柳の背中に何度も何度も突き立てた。声にならない声を口から漏らしながら。
「由里!もういい…」
「…市来くん」
ナイフを落とし、へたり込む由里。
「由里、ここから逃げよう」
手と足のロープをナイフで切り、賢介は由里と一緒にその忌々しい部屋を出た。誰もいない廊下を、二人で身体を支えながら通り抜ける。エレベーターに乗り、ロビーへ向かった。
「あいつは…雪男は無関係だった」
エレベーターの中、二人を映し込む大きな鏡。由里も賢介もひどい有様だった。
「恩田レイコ」
「ああ。彼女の暴走だ」
「市来くんは許せる?」
「え」
鏡越しに由里の顔を見る。
「私は許せない。あの女は私たちの仲間を全員殺したんだよ」
「…」
「涼子には子供がいた。安斎くんだって万代くんだって、他の人にも家族がいたんだよ。こんなこと許せない」
だからって。エレベーターが一階に着いた。
「あの女がどこにいるかはわかってるじゃない」
顔にまとわりついた髪を手で払いのけながら、由里は力強くそう言った。
「由里、本気で?」
「私はいつだって本気。舐めてもらっちゃ困るわよ」
元ヤンキーの血が、完全に覚醒していた。
泊まっていた部屋に戻り、タオルで汚れた身体を拭いてから着替えた。由里も賢介もその間終始無言だった。あるいはこの時間で冷静さを取り戻してくれるかとも思ったが、それは無理だったようだ。由里の怒りは収まるどころか増幅しているように見える。とはいえ賢介にしても恩田レイコへの怒りは消すことができない。あんなイカレた女にいいようにされたこと、そしてクズだらけとは言え、仲間を死に追いやったことは許されざることなのだ。
だが、怒りに任せて復讐しに行くというのはどうか。ここは一旦引いて、日を改めて…という冷静さも、賢介には少なからずあったのだが。
「行くわよ」
「…ああ、行こう」
由里の怒りは止められなかった。
車に乗り込み、雪男たちの宿泊しているホテルを目指す。賢介も由里も、柳から複数の切り傷を受けており、着替えたシャツにはすでに血が滲み始めていた。ただ、怒りが痛みを凌駕しているのだろう、賢介も、そして由里も痛いとは思わなかった。運転席、ハンドルを握る由里の腕は力強かった。そしてそれを受け、賢介も不思議と一旦は完全に折れていた気持ちが復活している。
今叩いておかなければ、次のチャンスはない。
復讐というよりは、やられっぱなしでいられるか、という負けず嫌いな感情。そしてそれはただ一点、恩田レイコに向けられている。あの女がヨシノリを、そしてみんなを死に追いやった元凶なのだ。
安斎の元で、賢介たちが償いようのない罪をいくつも犯したことは事実だ。ホルスタインこと六条を手にかけたことも事実。しかし、だからと言って、それにかかわったメンバーを殺害していいものではない。そもそも恩田玲子は直接の被害を受けたわけではないのだ。
「計画は」
「ない。泊まってる部屋はわかってる」
「どうやって」
「あの女がキーを振り回してたのを見た」
あの状況で、よく。
「雪男には…」
「わかってる。佐橋くんに手を出すつもりはないよ。私が許せないのは…」
「恩田レイコ」
由里は大きくうなずいた。目の前、ホテルの灯りが見えてきた。
宇田川浩平 死亡
和木勇作 死亡
⓬
復讐は、次の復讐を生む。
そんなワードをぼんやりと思い出しながら、しかし賢介はやはり恩田レイコという女を赦すことはできなかった。憎さもあるが、それよりも…
由里の言う通り、殺された、あるいは死に追いやられた人たちには遺された家族がいる。中学時代の過ちは深く受け止めなければならないが、その代償としてはあまりにも過料なのだ。
その差を、あの女の死によって埋め合わせなければならない。これから賢介が由里と共に行うことは、いわば均衡を保つための補填行為だ。そう自分に言い聞かせ、賢介は由里と並んでホテルに乗り込んだ。
正面は、さすがに避けた。カウンターに女性従業員が立っていたからである。裏に回り込み、柵を乗り越え、機械室のようなドアを手当たり次第に押してみる。ひとつ、一センチほど開かれたドアがあって、そこから光が漏れていた。由里と顔を見合わせ、その中に入った。
そこは大きなボイラーが置かれた蒸し暑い部屋だった。人の気配を避けながら二人で奥へと進んだ。由里の背中を追う形。賢介と違い、由里は怒りに我を忘れている様子だった。あの女にいいようにされた自分に腹が立つのだろう。賢介は、その傷だらけの背中を追いかけた。
通り抜けた先はランドリールームだった。そこから従業員用の階段を昇って、十五階まで登った。
「最上階よ」
肩で息をしながら由梨が言った。
「部屋は」
「1501。右の部屋」
怒りに支配された由里は賢介を見るでもなくそう言った。
「どうやって開ける?」
「チャイムを押す」
由里は無謀にもチャイムを押した。それからのぞき穴を指で塞いだ。
「柳のフリして」
「え」
「『レイコ様』って。ホラ」
出て来ないのでもう一度チャイムを押す由里。中でかすかに物音がして、それからドアの向こうに人の気配がやって来た。
「柳なの?」
「レイコ様、柳です」
できるだけあの男に声を近づけて答える。
「何か問題?失敗でも?」
「いえ。問題はないのですが、ちょっと…」
横を見る。由里がうなずいた。ドアチェーンを外す音、続いてロックを解除する音。由里がサバイバルナイフを取り出した。
「(羽交い絞めにして)」
賢介は由里にうなずいた。
「いったい何よ…」
出てきたレイコの背中に回り込み、羽交い絞めにした。驚いたことに、レイコは一糸もまとわぬ姿だった。
「なんて格好。頭おかしいんじゃない?」
由里がそれを見て、蔑んだように言った。
「あなたたち…!」
「どっちが下品よ」
由里はまったくためらいもなく、そしてまるで迷いのない手つきでナイフをレイコの腹に深々と突き刺した。ズン、という衝撃が、背後にいる賢介にまで伝わって来た。
「あっ…」
レイコの身体から力が抜けていくのがわかる。
「ハイ、おしまーい」
抵抗する力を失ったレイコは廊下に倒れた。傷口はかなり深く、そこからレイコの血がとめどなく流れ出ていた。
「死ね」
由里はそうするのが当然のように、倒れた恩田レイコに向けてペッと唾を吐いた。
「行こう市来くん」
「あ、ああ」
再び階段で降りて、元来た通路を戻り、外に出る。由里の父親の車に乗り込んで、海沿いの房総半島を北上した。背後から昇って来る朝日。助手席、由里は昏倒していた。彼女を起こさぬよう、賢介はまっすぐに宇都宮に向かったのだった。
宇都宮駅のロータリーで、由里と別れた。
「じゃあ」
「うん」
由里は賢介を見ることなくうなずいた。
それから数日間は震えながら過ごした。有休を使い、テレビやネットのニュースをくまなくチェックした。が、不思議なことに一連の事件が表沙汰になることはなかったのである。
何度か由里に電話をかけようかと思ったが、忌々しい出来事を共有すると、お互いを避けようとする感情が働く。あんなに恋焦がれていた由里のことを、うっとうしく思ってしまう自分が嫌だったが、きっと由里も賢介と同じ感覚だったのだと思う。由里からも連絡はなかったのだ。
佐橋雪男のSNSも、あの日以来更新されることはなかった。
◇ ◇ ◇
「来ないじゃない」
「うん」
朝の十時。めぐみとひさしぶりに顔を合わせていた。
「私に臆したのかしら?」
「そうじゃないと思うけど、たぶん来ないよ」
宇都宮で別れてから、由里とは連絡を取っていなかった。
「何よそれ!わざわざ時間作ってるっていうのに!」
「ごめん」
「ごめんって、何よ、二人の間に何かあったわけ?」
「うーん、たぶん彼女は…もう、俺のことが嫌というか、会いたくなくなっちゃったのかも」
「はあ?ふざけないでよ!」
きっとそうなのだ。俺と同じ感情。憤慨するめぐみを前に、賢介は納得する。一応約束をしたから、もしかしたら来るのではないかと思っていたが、たぶんおれの顔を見るのも嫌になってしまったのかもしれない。
「なあめぐみ」
「何よ」
腕時計を気にしながら、めぐみは賢介を見た。
「俺たち、やり直せないかな」
「何言ってんの、あっちがダメならこっちに戻るっていうわけ?都合よすぎ」
「うん、わかってる。けどそこを何とか。もうどうにもならないのかな」
「ふん。勝手ね。けどそれはこれからの賢ちゃん次第でしょ」
つまらなさそうに飲み物を口にするめぐみ。ちょっと可能性が残っている。
「俺、今日から生まれ変わったつもりで、めぐみに尽くすから」
「何それ。そういうのを求めてるわけじゃない」
「結婚してくれないか」
「はあ?唐突過ぎ」
由里への恋心が消え去ってしまった今、だからといってめぐみに戻るというのも勝手だということは充分わかっている。ただ、賢介はあの極限状態の時に思ったのだ。
恩田レイコはめぐみをも毒牙にかけるところだった。それを阻止できたと知った時、賢介は心の底からホッとしている自分に気づいていた。賢介にとって、めぐみは思い通りにならない分、特別な存在だったのである。
「今日から、新たに」
「何それ」
「結婚を前提に」
「賢ちゃんそれ本気?」
「うん。今まで俺はいい加減だった」
めぐみは胸の前で腕を組んだ。
「そこまで言うんなら、別にいいよ。私もさ、ちょっと口悪いところあるし。実はこう見えて反省してたりもする」
よかった。まんざらでもなさそうだ。
「すみません」
そこにウェイトレスがやって来た。
「市来様と槇原様ですか?」
「え、ああ、そうだけど」
ウェイトレスは脇に抱えていた箱をテーブルの上に置いた。ケーキの箱だった。
「こちら、お二人にプレゼントだそうです」
「え」
頭を下げ、下がっていくウェイトレス。賢介はテーブルの上の箱に目を移した。
「どゆこと?賢ちゃん今日誕生日?」
「違うよ」
その四角い箱に、賢介は見覚えがあった。背筋が下から凍り付いていく。
「…開けるなめぐみ。開けちゃだめだ」
@Susquach
若隠居撤回のお知らせ
今日よりわたくし佐橋雪男は、サスカッチのCEOとして復帰いたします。
今まで平和主義でやってきましたが、
わたくしは、わたくし個人を攻撃するいかなる外敵に対しても、
一歩もひるむことなく対処していく所存でございます。
深見由里 死亡
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