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 アンジェロは長椅子の上にルクレツィアを座らせると、少し待っているようにと言い残して続き部屋の奥へ向かった。
 シルヴィオ以外、初めて入る男性の部屋。
 けれどシルヴィオの部屋みたいに甘ったるい香りはしない。洗いたてのシーツのような、清潔感のある香りだ。
 しばらくするとアンジェロは木箱を手に戻ってきた。そしてルクレツィアの前に跪き、捻った足を優しく持ち上げて自身の手のひらにのせた。

 「ア、アンジェロ殿下!?」

 「大丈夫。僕、こう見えて意外と器用なんだ」

 「そ、そ、そういうことではなくて……!」

 さっき転んだせいで汚れているだろうし、それに男性に足を触らせるなんて、未婚の女性にあるまじき行為だ。
 父が知ったら間違いなく憤死する。

 「どうか侍女をお呼びください。このようなお見苦しいものを殿下にはとてもお見せできません」

 言外に、恥ずかしいから足に触らないで欲しいとやんわり拒否したつもりなのだが、アンジェロには伝わらなかったようだ。
 アンジェロは木箱の中から小さな瓶を取り出した。銀色の蓋を開けると中にはつるりとした透明な軟膏のようなものが入っていて、彼はそれを人差し指でひと掬いすると、ルクレツィアの足首に塗った。すると塗られた箇所が、途端にスース―と冷えだした。

 「きゃっ!!」

 冷たさに驚いて思わず声が出た。ルクレツィアの素直な反応を見てアンジェロは微笑む。

 「最初はびっくりするけど我慢してね。これからだんだん熱を持ってくると思うけど、これを塗っておけば腫れが早く引くから」

 アンジェロは器用な手つきで捻った足首を固定するようにくるくると包帯を巻いていく。
 こんなに近くでアンジェロの顔を見るのは初めてかもしれない。
 アンジェロの持つ色味は次兄のシルヴィオと同じだが、顔立ちや雰囲気はぜんぜん違う。
 滑らかできめの細かい肌は毛穴一つ見えない。アクアマリンの瞳の周りを長く柔らかそうな睫毛が縁取って、なんとも幻想的な魅力がある。大人の一歩手前の年頃が醸し出す、危ういような美しさだ。
 
 「さあ、これでもう大丈夫」

 丁寧に、そして均等に巻かれた包帯のおかげで、頼りなかった足首はしっかりと固定されていた。
 
 「すごいわ……こんなこと、いったいどこで覚えられたのですか?」

 「ん?これ?これはその……ちょっと前から剣術にはまっててね。生傷が絶えないもんだから自然とうまくなっちゃって」

 「剣術?アンジェロ殿下が?」

 「そんなに驚くこと?」

 「だって、殿下にはたくさんの護衛がいらっしゃるのに……」

 「確かにそうだね。でも、いざという時自分の身を守れるのはやっぱり自分だけだから」

 ルクレツィアが知らないだけで、これまでに命を狙われるようなことがあったのだろうか。王族ともなれば常に命の危険と隣り合わせだ。
 護身術程度のことは一通り習うのだろうが、それ以上となると彼の私的な時間を割くことになる。ただでさえ少ない貴重な時間を。

 「王族としての仕事もおありになるのに、すごいですアンジェロ殿下……それに比べて……」

 シルヴィオときたら、私的な時間を浮気に費やすなんて。
 言葉には出さなかった。アンジェロは気にしないだろうが、それでも彼の兄を悪し様に言うのは憚られたから。けれどアンジェロは気遣うようにこちらを見ている。ルクレツィアの気持ちを汲み取ってくれたのかもしれない。

 「……ねえ、ルクレツィア。これは僕の持論だけど、こういう問題において、世の中にはニ種類の人間しかいないと思うんだ。一つは“やる”人間。もう一つは“やらない”人間」

 「浮気を“する”人間と“しない”人間しかいないと言うことですか……?」

 「そう。咎められたから後悔し、そして改心しましたとか、もう二度とやらないとか、口ではそう言うけどそれはただ単にほとぼりが冷めるまで大人しくしてるだけ。一度でもやった奴はその後も何度だってやる。反対にやらない奴というのは、それによって失うものの大きさがどれほどのものか正しく理解している人間だ。理性的なだけじゃない。命を懸けられるほどの愛をその身に宿してるんだ。だから一生浮気なんかしない。僕は後者の人間だよルクレツィア」

 「はあ……」

 「だからね……僕なんかどうだろう?」

 「なにがですか?」

 「シルヴィオ兄上じゃなくて、僕と結婚しようよ。ね、ルクレツィア!」

 「は?」

 結婚?まだシルヴィオとこれからどうするのかも決めていないのに?

 「なにをおっしゃっているのですかアンジェロ殿下!?」

 「だって兄上とはもう婚約破棄一択でしょう?」

 「それは……」

 「僕は……初めて会った時から……この身体を捧げるのは君しかいないと思ってた」

 「え……?」

 捧げる?捧げるってなによ。殿下の身体を捧げられちゃうの?私が?それでどうぞ美味しく召し上がれって?私が殿下を?
 ルクレツィアの頭の中に、裸で台の上にのせられ喜色満面で運ばれてくるアンジェロの姿が浮かぶ。

 「ルクレツィアは、僕のこと嫌い?」

 ルクレツィアの前に跪いたままのアンジェロは、両手をルクレツィアの脇に置き、その美しい瞳を潤ませて、上目遣いで見てきた。
 ──あ、あざといわ……!
 
 「ねえ、さっき僕のこと見てたでしょ」

 しかも綺麗な顔に見とれていたことに気づかれている。

 「生まれ持った色は同じだけど、僕は兄上とは違うよルクレツィア。こんなに美しい僕を欲しくないかい?ただ一言“欲しい”とさえ言ってくれれば、僕は一生君だけのものだ」

 アンジェロはルクレツィアの手を取った。そしてルクレツィアの目を見つめたまま柔らかな手のひらに口づけた。まるで見せつけるようにして。
 色んなことがいっぺんに起こりすぎてパニックを起こしたルクレツィアは

 「……き、今日はもう帰らせてください……」

 蚊の鳴くような声でそう告げるのが精一杯だった……

 

 



 

    
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