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しおりを挟む“草”という言葉にカインもアベルも身構えた。
草は指令さえ無ければ一般人と何ら変わりはないが、一度命を受ければ瞬時に優秀な諜報員にも残忍な殺人者にも姿を変える。
目の前の侍女は年の頃は四十半ばといったところだろうか。特徴のない焦げ茶色の髪と瞳の穏やかそうな女性だった。
「一体…どういう事なの?」
事態が飲み込めないのはシルフィーラだけではない。
カインもアベルも眉間に皺を寄せ、お互いの顔を見るだけだ。
「彼女の名前はアルマ……私が生まれる前からこの家で働いています。」
フェリクスの声は少しの緊張と、困惑が入り混じっていた。
邸内に草がいると勘付いた時から覚悟はしていたはずだったが、いざその顔を目の前にすると動揺してしまう。子供の頃から見知った顔であるから尚更だ。
「彼女だと確信するまで真実を話す事が出来ませんでした。でもこれでやっと言える。アルマ、お前自身の事と……お前が命じられた事をすべて話してくれ。」
アルマはソファに座る面々にゆっくりと視線を巡らし、ルシールで止めた。
「私の名はアルマ……本当の名はもうずっと前に捨てました。」
アルマの父親は、仕事中に負った怪我が原因で職を失い、毎日酒浸りの日々を送っていた。
母親は朝から晩まで働き家計を支え、幼いアルマもまた、家事や炊事、そして母親の内職を手伝い健気に頑張っていた。
しかし暮らしは楽になるどころか、稼いだ日銭はすべて父親の酒代に消えて行く。
思い通りに動かない身体に苛立つ父は、ついには母親に手を上げるようになって行った。
顔を合わせれば殴られ、金を渡さなければまた殴られる。日毎に増していく暴力に、母親もアルマも限界だった。
ある日の事。いつものように母親に暴力を振るう父。しかしそれがいつまでたっても止む気配がしない。
聞こえてくる母親の悲鳴。
炊事場の隅で縮こまるようにして身を潜めていたアルマは、小さな両手で耳を塞ぎながら震えていた。
気付くと母親の声が聞こえない。
恐る恐る部屋を覗いたアルマの目に映ったのは床に倒れ動かない母親。
その胸は上下していなかった。
それからの事は朧げだ。
気付けば目の前には血だらけの父親。
アルマの手には、母親から使い方を教えて貰ったばかりの調理用のナイフが握られていた。
何時間、何日そうしていたのだろう。
アルマは二人の死体の前で膝を抱え、泣くでもない、ただ“死”を眺めていた。
不審に思った近所の人が、アルマの家の惨状を見つけた。
捕まって牢にでも入れられるのだろうと、どこか他人事にぼんやりと考えていた。
しかしアルマが連れて行かれたのは、まったく想像もしない“施設”だった。
そこで暮らしていたのは大勢の子供達。赤子もいた。
ここは“草”の養成施設だった。
アルマは組織に選ばれてしまったのだ。
「……そこで訓練と洗脳を終えた私は、このベルクールの土地に根を下ろしました。」
ベルクールは重要な土地だ。
指令が下れば自分は命を落とす事になるだろう。そう思っていたのに。
「下された指令は“フェリクス・ベルクールのシルフィーラ・アルヴィアへの接触を見張る事”でした。」
正直拍子抜けした。そして同時に安堵も。
これならばベルクール邸の侍女である自分には容易い任務。
それならもう少しだけ一緒にいられるかもしれない。夫と子供と。
アルマは神に感謝した。
「草は任務が成功すれば……正体がバレなければそのままそこに暮らし続けます。下手に始末をすると足元を掬われる可能性もあるからです。そして草はまた、いつ来るかも知れぬ任務を待つのです。」
ポールが怪しい動きをしているのは知っていた。しかし自分には関係ないだろう。
何せアルマは王家の草。素性に関しては完璧だ。どう調べたところで塵一つ出て来ない。
この地に根を張る中で出来てしまった大切な存在。一人娘はもうすぐ好きな男の元へと嫁ぐ予定だ。これならば無事花嫁姿を見届ける事が出来るだろう。
だがしかし、その考えが甘かった事をアルマは知る事になる。
「ルシール殿下は最初から私を生かしておくつもりは無かったようです。」
アルマは唇を震わせながらルシールを睨め上げた。
「フェリクス様が私を見張らせてくれていなければ、今頃私の死体が庭園に転がっていた事でしょう。」
そこで控えていた兵士がシルフィーラ達に向かって口を開いた。
「私はアシル、フェリクス様の部下です。私とここにいるロイは、フェリクス様の命を受け、アルマを見張っておりました。」
『アルマですか?』
主に見張れと言われた人物の名に、アシルもロイも首を傾げた。
アルマの経歴には何の不審点も見当たらない。長年ベルクール邸に勤めている事から、二人共顔見知りだ。
『完璧すぎるんだ。経歴も、受け答えも。』
そしてこれだけ長い間勤めているにも関わらず、侍女長などの目立つ位置には決して就こうとはしない。
ポールの調書にひと通り目を通したが、どうしてもアルマだけ妙に引っ掛かる。
『草は決して口を割らない。だがあの男が自分に関わった人間を生かしておくとは到底思えない。』
ルシールの狡猾さは肌で感じた。
あの男なら例え僅かな痕跡も残さないだろう。
アルマには夫と、結婚を控えた娘がいる。
間に合うかどうかはわからない。けれど自分の命が狙われたとわかれば考えを変えてくれるかもしれない。任務が成功したにも関わらず命を取られるとしたら、それは自分に関わるものを根絶やしにされるかもしれないと。
そしてフェリクスの狙い通り、ルシールはそれを自分の到着に合わせて実行しようとした。
ついさっきの事だった。
『ジーナ』
捨てたはずの名を呼ばれ背筋が一瞬で凍る。
振り向けばそこにはあの施設で出会った男。
自分の前に姿を現した王家の影にアルマは恐怖した。
父をこの手にかけた時すら何も感じなかった。それなのに、失いたくないものが出来てしまったアルマは、知らず自分の命を惜しんでいたのだ。
振り下ろされた刀身を必死で避ける。
『どういう事です!?』
『あの方からのご命令だ。恨むな。』
その瞬間アルマは死を覚悟した。
しかし、死神がアルマを連れて行く事は無かった。
「アシルとロイが私を救ってくれました。」
突然現れた二人が影に応戦したのだ。
しかし屈強な兵士である二人に劣勢を強いられた影は、躊躇わずにその喉元に自らの刃をあて、一気に引いた。
「ルシール殿下の命を受けたと思われる者は自ら命を断ちました。申し訳ありません。」
アシルとロイは悔しそうに唇を噛む。
「いや、良くやってくれた。」
フェリクスは既にバジュー男爵を通じてゲルン民族に金が渡った事を掴んでいた。おそらくその金の出どころはルシールに違いない。
まさか自分を引きずり下ろすためにそこまでするのかと信じられない気持ちだったが、今となっては何も不思議ではない。
おそらくルシールの命を受け暗躍していたのはアシルとロイが追い詰めたその影だろう。
本人の証言は得られなくとも、その男の遺体を見せればバジュー男爵も白状するはずだ。
そしてフェリクスはルシールに顔を向ける。
「殿下、ご自分のした事を皆さんに説明して下さい。」
「何を言ってるのかわからないね。」
ルシールは口元を歪めて笑う。
「そもそもその女の証言にどれだけの信憑性があると思ってるの?どうせ君の手の者で、僕を嵌めるために嘘をつかせているんだろ?」
「いいえ。」
アルマは即座にそれを否定した。
「私は決して嘘などついておりません。それを今から証明させて頂きます。」
そう言ってアルマが胸元から出したのは一通の白い封筒。
「待って……あれは……!」
アルマが見せた赤い封蝋に押された印を見てシルフィーラが声を上げた。
そこに押されていたのはアルヴィア公爵家の印だったからだ。
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