嘘つきな獣

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プロローグ

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 「ねえシャロン様。もうセシル様を自由にしてあげて?あなたがいる限り、彼はいつまでたっても自由に生きられないのよ」

 そう言って目の前に座る女性──アイリーンは紅茶を一口含み、困ったように微笑んだ。
 しかし口元とは対照的に、その目はシャロンを睥睨へいげいしている。

 「私にどうしろとおっしゃるのです」

 【戦利品】としてこのエドナに連れてこられたシャロンに自由はない。
 そんなことは彼女だって百も承知のことだろうに。

 「うふふ。どうしろだなんて、そんな」

 シャロンは、蛇のように絡みつくアイリーンの視線から逃れるように、自分の前に置かれたカップに視線を移した。
 祖国とはおもむきの違う、細やかな花模様の描かれた茶器からは、湯気とともに華やかな香りが立ち上っている。
 けれど今は、呑気にお茶を楽しむ気にはとてもなれない。

 「いいお天気ですわね。バルコニーに出ましょうか。シャロン様も、部屋に籠もりきりでは気が滅入るでしょう?」

 アイリーンは立ち上がり、バルコニーに通じる大窓の前に立った。

 「シャロン様……」

 シャロンがこの国に連れ去られてから、身の回りの世話をしてくれている侍女エイミーが、不安げな声を漏らした。
 エイミーは、捕虜の身であるシャロンを蔑むことなく、慣れない地での暮らしに不自由がないようにと心を尽くしてくれた優しい子だ。
 彼女の側にはアイリーンが連れてきた屈強そうな護衛が二人立っている。

 「心配ならあなたもいらっしゃいな。さあ」

 アイリーンは、エイミーも一緒に来るように促すと、先にバルコニーへと足を踏み入れた。
 アイリーンの後に続きバルコニーへ出ると、湿り気を帯びた海風が頬を撫でる。
 手すりの先にはエメラルドグリーンに輝く広大な海。
 シャロンはゆっくりと歩を進め、手すりの側に立つアイリーンより数歩手前で足を止めた。

 「あら、どうしたんです?この美しい景色を一緒に見ましょうよ。さあ」

 本能が“行くな”と頭の中で警鐘を鳴らす。
 アイリーンは苛立った様子でシャロンの背後に立つ護衛に視線でなにか合図した。
 後ろを振り返ると、アイリーンの護衛の一人が、エイミーの背後で剣の柄に手を添えていた。
 言うことを聞かなければ、彼女を人質に取るつもりなのだろう。

 「お願いですからあの者に手を出すのはおやめください」

 「あら、まるで私が彼女をどうにかするような言いぐさですわね」

 (なんて白々しい)
 実際、そのつもりなのだろうに。
 だが、いくらシャロンが懇願したところで、これから起こる出来事を目撃してしまえば、アイリーンがエイミーを生かしておくはずもない。

 「彼女は無関係です。このまま部屋から出し、その足で実家に帰らせてやってください。そうしていただけるのなら、素直にあなたの望みどおりにいたしましょう」

 アイリーンはふん、と鼻を鳴らしたあと僅かに逡巡し、エイミーを部屋から出すよう護衛に指示した。

 「シャロン様!!」

 部屋を出される直前、エイミーがこちらを振り返り叫んだ。
 彼女がいたから、ここでの生活にも耐えられた。
 決して巻き込んではいけない。
 シャロンは『大丈夫』と言い聞かせるように笑顔を作って見せた。
 そして『……今までありがとう』と、心の中で呟く。
 エイミーが部屋の外に出たのを見届けると、アイリーンの顔から笑みが消えた。
 そして護衛を一人扉の前に立たせると、もう一人がシャロンのすぐ側までやってきた。

 「色々考えたのだけれど、これが一番いい方法なの。ちゃんと弔って差し上げるから、恨まないでくださいね」

 護衛がシャロンの腕を掴み、身体を抱えようとした。
 おそらく投身自殺と見せかけ、バルコニーから落とすつもりなのだ。

 「触らないで!」

 咄嗟に振り払った護衛の手にシャロンの爪がかすり、薄く血がにじむ。

 「……ごめんなさい。けれど、自分でできますから」

 自分を殺そうとしている相手になにを謝っているのかと、思わず自嘲してしまう。
 シャロンはおもむろに履いていた靴を脱ぎ、揃えて置いた。
 そして前へ進むと、バルコニーの手すりに手をかけた。
 目の前に広がるのは雲一つない青空と、日の光を受けて輝く凪いだ海。
 海のない国に育ったシャロンにとって、この景色を初めて目にしたときは衝撃だった。
 世の中には、こんなにも美しい光景があったのかと。

 死ぬのは怖い。

 けれど、果たして今の自分は『生きている』と言えるのだろうか。
 心の中で自身に問いかけるシャロンの目に、白い翼を広げ、青い海の上を悠々と飛ぶ海鳥の姿が映った。

(自由になりたい)

 何も選ぶことのできない人生だった。
 もしも生まれ変わることができるのなら、あの海鳥のように、どうか、自由に。
 ありったけの力をこめて、手すりから身を乗り出そうとしたその時──

 「シャロン!!」

 背後から聞こえた声に身体が固まる。

 「セシル殿下……」

 恐る恐る振り向いた先には、息を切らし、こちらに向かってくる青年の姿が。

 「来ないでください」

 シャロンが発した言葉に青年の足が止まる。
 そして青年は揃えて置かれたシャロンの靴を見て表情を険しくした。

 「今すぐそこから離れてこっちへ来い」

 「いやです」

 はっきりと返した拒絶の言葉。
 青年は驚いたように目を瞠る。

 「私がいなくなったほうがいいのでしょう。あなたも、アイリーン様も」

 「なにを言っている」

 「閉じ込めて、詰って、弄んで……もう十分満足したでしょう?」

 そこまで言うとシャロンの顔はくしゃりと歪み、涙が頬を伝い落ちた。
 それを見た青年の表情が一変する。
 さっきまでの強気な態度は消え、明らかに動揺が見て取れる。
 愛する人がいる身で散々好き勝手しておいて、今さらになって良心が痛むとでもいうのだろうか。
 なんて身勝手な人たちなのだろう。
 これまでは、祖国の民になにかあったらと、その一心で耐えてきた。
 けれど──
 (これ以上無理だ)
 きっともう、ずっと前から自分の心は限界だった。
 そのことに気づき、なにかがぷつりと切れた。
 シャロンはありったけの力を込めて手すりから身を乗り出す。

 「やめろ!!」

 青ざめた顔で手を伸ばし、こちらへ向かってくる青年に微笑んで、シャロンは青い海へと身を投げた。


 




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