61 / 71
61
しおりを挟む「わあ……!」
初めて目にするカデナの街並みに目を奪われた私は、思わず声を漏らしていた。
馬車の小窓からも見た、大勢の人が行き交う通り。
そこには様々な店がごちゃごちゃと建ち並び、店先で呼び込みをする店員の声があちこちで響いている。
「ここはいつもすごい人出なんだ」
殿下から声をかけられて我に返る。
いくら珍しい光景だからといって、淑女の作法も忘れて浮かれてしまった。
恥ずかしくて、上目遣いに殿下を見ると、彼は穏やかに微笑んでいた。
「さあ、行こうか」
そういって殿下は手を差し出した。
さっきは馬車の中だったから、躊躇わずその手を取ったけど、ここは外だ。
人前で男性と手を繋ぐなんて、貴族の令嬢がそんなことをしてもいいのだろうか。
戸惑う私に殿下は顔を曇らせる。
「私と手を繋ぐのは嫌か?」
「いえ、決してそんなことは!」
軽率なことをしたら、殿下に迷惑がかかるのではないかと心配なのだ。
きっと殿下は気にするなと言うのだろうけれど。
「ルツィエル、この姿で私が皇太子だとわかるか?」
どうだ?というような顔で殿下は言う。
カツラのおかげで、広く世間に知られている殿下の特徴、長い銀の髪は短く切り揃えられた栗色に変わり、紫水晶の瞳はわざと長めにしてあるのだろう前髪に隠れて目立たない。
確かに別人なのだが、元々の造りの良さは隠しようがない。
造形だけでなく、高い背丈に均整の取れた身体も……
つまり、色を変えても美しさは変わらないから、とにかく目立つのだ。
万が一誰かに気づかれて、皇太子が国の大事を放って遊んでいたなんて噂が流れたらと思うと怖い。
「ルツィエルは心配性だな。じゃあこれならどうかな?ラデク、あれを」
殿下が差し出した手のひらに、ラデク様がのせたのは眼鏡。
金縁の丸眼鏡が、栗色の髪の毛によく似合う。
不思議なのだが、殿下がさっきよりも街並みに溶け込んだように見えた。
「あとは君だけを見ていれば、この瞳の色がばれることもないだろう」
「……はい」
遠慮がちに触れた私の手を、殿下はしっかりと握り返した。
ふたり並んでカデナの街を歩く。
香辛料の独特な香り、揚げ物やパンの焼けるなんとも香ばしい匂いがどこからともなく流れてくる。
すれ違う人たちは皆、気になる店の前で無造作に足を止め、家族や恋人と楽しそうに会話しながら買い物を楽しんでいる。
──ここにいる人々は、誰も私たちのことを知らない
そう思うと、自然と肩の力が抜けて、身体も心も羽が生えたように軽くなった。
(なんて楽しいんだろう)
大好きな人と、なにをするわけでもなくぶらぶらと街を歩く。
たったそれだけのことが、こんなにも心を浮きたたせてくれる。
目に映るすべてのものが新鮮で、殿下が私に歩調を合わせてくれていることにも気付かなかった。
「君のそんな顔は初めて見る」
「えっ?」
殿下のことをそっちのけで、夢中で景色に見入っていた自分が恥ずかしい。
けれど殿下はそんな私に穏やかな笑みを向けている。
「ここ数年、気が張った表情しか見ていなかったから、新鮮だ」
「私が……ですか?」
殿下は黙ったまま頷く。
自分では意識したことがなかったが、そうなのだろうか。
殿下の側にいたい、殿下にふさわしい女性でありたいと強く願うあまり、知らずのうちに力が入りすぎていたのかも。
けれどそんなことよりも、殿下が私を見ていてくれたことが嬉しい。
いつも、どんな時も大勢の人に囲まれていた殿下が。
「私といることで、君から笑顔が消えるのは嫌だ」
「殿下……」
「私の側にいるためにはこうでなければならない、などという思い込みは捨てて欲しい」
「ですが──」
「私たちはただお互いに恋をしただけだ。そしてこれからは愛し合い、支え合って生きていく。皇太子妃だのなんだのというのはただのおまけだ。一番大切なのは君の人生であり、幸せだ」
「ですがそれでは周囲が納得しません」
民だけでなく、この国を支える者たちも、皇太子妃となる者に多くのものを求めるだろう。
「この国を導くのは私の役割だ。皇太子妃となることで、君には窮屈な思いをさせるだろうが、気負う必要などない。君はもうすでに、十分すぎるほど皇太子妃にふさわしい資質を有しているよ」
まだまだ未熟な私が皇太子妃にふさわしいなんて、本当だろうか。
自信がない。
けれど、優しく細められた殿下の瞳を見る限り、彼が嘘をついているとは思えない。
皇太子妃という重責を“ただのおまけ”なんて到底思うことはできないが、殿下のその言葉はとても心強かった。
「ルツィエル、ここに寄ろう」
殿下が足を止めたのは、通りの中でも珍しいモダンな建物。
しかし他の店のように店内の様子が窺えるようなガラス窓はなく、よく磨かれた真鍮の表札には、控えめな字体で店名だけが刻まれていた。
「ここは……なにを取り扱っているお店なのですか?」
「入ればわかる」
開かれた扉の先に足を踏み入れると、そこには所狭しとガラスのショーケースが並んでいた。
ケースの中には一目で高価だとわかる光り輝く宝石の数々。
それらに目を奪われていると、店の奥から店主と思しき男性が出てきた。
「これはこれは、エミル殿下ではありませんか!ようこそおいでくださいました」
「突然ですまないな、シモン。今日は奥の部屋を使いたいのだが」
“奥の部屋”
そう聞いた男性──シモンは、少し驚いたように眉を上げ、殿下の後ろに立つ私に視線を移した。
(なにかしら……)
しかしシモンはすぐに元の表情に戻り、店の奥へと私たちを案内した。
通されたのは、豪奢な家具が設えられた一室。
上客専用の個室なのだろう。
ソファに張られた布地一つとっても、皇宮で採用されている一級品となんら遜色がない。
殿下は店主と顔なじみのようだった。
(ということは、殿下はこれまでにも、誰かに宝石を贈ったりしたことがあるのかしら……)
「ルツィエル?」
「あ、ついぼうっとしてしまって……申し訳ありません」
「大丈夫か?」
「はい」
私たちは応接用に置かれたソファに並んで腰を下ろした。
殿下はもう二十八歳だ。
女性に贈り物の一つや二つくらい、経験があってもおかしくはない。
今でこそ私を大切にしてくれてはいるが、以前はこの場所が誰かのものだったかもしれない。
(私、なにを考えているの)
たとえそうだとしても、殿下はなにも悪くない。
(それに、今は私だけを大切にしてくれているのだから……)
心はもやもやとしていたが、雰囲気を悪くしたくなくて、なるべく自然に見えるよう笑顔を作った。
「殿下……もしかしてこちらのご令嬢が?」
シモンは遠慮がちに私を見た。
「ああ、そうだ。出来上がっているか?」
「はい。今お持ちいたします」
シモンは恭しく礼をして部屋を出た。
『出来上がっているか』とはいったいなんのことだろう。
しばらくして戻ってきたシモンは、大きなビロードの箱をやや緊張した面持ちで抱えてきた。
そしてそれを慎重にテーブルの上に置き、白い手袋をはめた手でゆっくりと開いてみせた。
「わぁ……!」
現れたのは、なんとティアラだった。
あまりの美しさに思わず感嘆の声が漏れる。
ティアラは円形で、見たこともない大きさのアメジストが等間隔で並び、周りには無数のダイヤモンドが散りばめられている。
(まるで、殿下の瞳を見つめているようだわ)
「君のだよ」
「私の……?」
「このカデナには、その昔鉱山があってね。今はもう採掘は行われなくなったが、宝石の研磨技術は受け継がれてきた」
「書物で読みました。その研磨技術を求め、各地から商人が集まってくると」
「ああ。ティアラは皇族のみに着用が許されている。生まれながら皇家に属するものは、成人を機に製作されるが、君は私の妻になる日に必要となるから……シモンに頼んで作らせておいたんだ」
49
お気に入りに追加
3,572
あなたにおすすめの小説
出世のために結婚した夫から「好きな人ができたから別れてほしい」と言われたのですが~その好きな人って変装したわたしでは?
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
古代魔法を専門とする魔法研究者のアンヌッカは、家族と研究所を守るために軍人のライオネルと結婚をする。
ライオネルもまた昇進のために結婚をしなければならず、国王からの命令ということもあり結婚を渋々と引き受ける。
しかし、愛のない結婚をした二人は結婚式当日すら顔を合わせることなく、そのまま離れて暮らすこととなった。
ある日、アンヌッカの父が所長を務める魔法研究所に軍から古代文字で書かれた魔導書の解読依頼が届く。
それは禁帯本で持ち出し不可のため、軍施設に研究者を派遣してほしいという依頼だ。
この依頼に対応できるのは研究所のなかでもアンヌッカしかいない。
しかし軍人の妻が軍に派遣されて働くというのは体裁が悪いし何よりも会ったことのない夫が反対するかもしれない。
そう思ったアンヌッカたちは、アンヌッカを親戚の娘のカタリーナとして軍に送り込んだ――。
素性を隠したまま働く妻に、知らぬ間に惹かれていく(恋愛にはぽんこつ)夫とのラブコメディ。
〈完結〉「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です
ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」
「では、契約結婚といたしましょう」
そうして今の夫と結婚したシドローネ。
夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。
彼には愛するひとがいる。
それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
『まて』をやめました【完結】
かみい
恋愛
私、クラウディアという名前らしい。
朧気にある記憶は、ニホンジンという意識だけ。でも名前もな~んにも憶えていない。でもここはニホンじゃないよね。記憶がない私に周りは優しく、なくなった記憶なら新しく作ればいい。なんてポジティブな家族。そ~ねそ~よねと過ごしているうちに見たクラウディアが以前に付けていた日記。
時代錯誤な傲慢な婚約者に我慢ばかりを強いられていた生活。え~っ、そんな最低男のどこがよかったの?顔?顔なの?
超絶美形婚約者からの『まて』はもう嫌!
恋心も忘れてしまった私は、新しい人生を歩みます。
貴方以上の美人と出会って、私の今、充実、幸せです。
だから、もう縋って来ないでね。
本編、番外編含め完結しました。ありがとうございます
※小説になろうさんにも、別名で載せています
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】記憶喪失になってから、あなたの本当の気持ちを知りました
Rohdea
恋愛
誰かが、自分を呼ぶ声で目が覚めた。
必死に“私”を呼んでいたのは見知らぬ男性だった。
──目を覚まして気付く。
私は誰なの? ここはどこ。 あなたは誰?
“私”は馬車に轢かれそうになり頭を打って気絶し、起きたら記憶喪失になっていた。
こうして私……リリアはこれまでの記憶を失くしてしまった。
だけど、なぜか目覚めた時に傍らで私を必死に呼んでいた男性──ロベルトが私の元に毎日のようにやって来る。
彼はただの幼馴染らしいのに、なんで!?
そんな彼に私はどんどん惹かれていくのだけど……
夫が「愛していると言ってくれ」とうるさいのですが、残念ながら結婚した記憶がございません
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
【完結しました】
王立騎士団団長を務めるランスロットと事務官であるシャーリーの結婚式。
しかしその結婚式で、ランスロットに恨みを持つ賊が襲い掛かり、彼を庇ったシャーリーは階段から落ちて気を失ってしまった。
「君は俺と結婚したんだ」
「『愛している』と、言ってくれないだろうか……」
目を覚ましたシャーリーには、目の前の男と結婚した記憶が無かった。
どうやら、今から二年前までの記憶を失ってしまったらしい――。
大好きなあなたを忘れる方法
山田ランチ
恋愛
あらすじ
王子と婚約関係にある侯爵令嬢のメリベルは、訳あってずっと秘密の婚約者のままにされていた。学園へ入学してすぐ、メリベルの魔廻が(魔術を使う為の魔素を貯めておく器官)が限界を向かえようとしている事に気が付いた大魔術師は、魔廻を小さくする事を提案する。その方法は、魔素が好むという悲しい記憶を失くしていくものだった。悲しい記憶を引っ張り出しては消していくという日々を過ごすうち、徐々に王子との記憶を失くしていくメリベル。そんな中、魔廻を奪う謎の者達に大魔術師とメリベルが襲われてしまう。
魔廻を奪おうとする者達は何者なのか。王子との婚約が隠されている訳と、重大な秘密を抱える大魔術師の正体が、メリベルの記憶に導かれ、やがて世界の始まりへと繋がっていく。
登場人物
・メリベル・アークトュラス 17歳、アークトゥラス侯爵の一人娘。ジャスパーの婚約者。
・ジャスパー・オリオン 17歳、第一王子。メリベルの婚約者。
・イーライ 学園の園芸員。
クレイシー・クレリック 17歳、クレリック侯爵の一人娘。
・リーヴァイ・ブルーマー 18歳、ブルーマー子爵家の嫡男でジャスパーの側近。
・アイザック・スチュアート 17歳、スチュアート侯爵の嫡男でジャスパーの側近。
・ノア・ワード 18歳、ワード騎士団長の息子でジャスパーの従騎士。
・シア・ガイザー 17歳、ガイザー男爵の娘でメリベルの友人。
・マイロ 17歳、メリベルの友人。
魔素→世界に漂っている物質。触れれば精神を侵され、生き物は主に凶暴化し魔獣となる。
魔廻→体内にある魔廻(まかい)と呼ばれる器官、魔素を取り込み貯める事が出来る。魔術師はこの器官がある事が必須。
ソル神とルナ神→太陽と月の男女神が魔素で満ちた混沌の大地に現れ、世界を二つに分けて浄化した。ソル神は昼間を、ルナ神は夜を受け持った。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる