もう、追いかけない

クマ三郎@書籍発売中

文字の大きさ
上 下
56 / 71

56

しおりを挟む




 初めて重ねた唇は、私よりも少しだけ温度が低く、やわらかい。
 どうしたらいいのかわからなくて、でも気持ちよくて。
 足元からふわふわと宙に浮いているような、不思議な感覚。
 まるで、唇を通じてエミル殿下と溶け合っていくようだった。
 不意に唇が離されて目を開けると、背の高いエミル殿下は少し屈むようにして私の顔を覗き込んだ。

 「……嫌じゃなかった?」

 さっきまで触れ合っていた私の唇を指でなぞりながら、エミル殿下ははにかむように微笑んだ。
 美しすぎて、とても同じ人間とは思えない。

 「嫌だなんて、そんなこと……!」

 私の長年の想いを知っているエミル殿下なら、聞かなくてもわかっているはず。
 嫌などころかむしろ、離れた唇が淋しいとさえ思っているのに。
 けれどそんな気持ち、恥ずかしくて口にできるはずもない。
 (どうしたら伝わるだろう)
 戸惑う私に、エミル殿下は再び唇を重ね合わせた。
 私の様子を窺うようにしながら、何度も何度も触れるだけの口づけを落としていく。
 まるで、美味しそうに餌を啄む小鳥のよう。
 そんなことを考えていたら、エミル殿下は突然、私の唇をパクリとんだ。

 「!?」

 驚いて目を見張ると、エミル殿下はたまらないとばかりに吹き出した。

 「はははっ」

 「エ、エミル殿下!」

 「ああルツィエル、なんて可愛いんだ」

 腰に回された腕に力が加わり、長い指が髪を梳くように滑り込む。
 大きな手が後頭部を包むと、唇が深く重なった。
 唇を割って入ろうとするぬるりとしたなにかに驚いて、慌てて顔を引く。
 すると、切なげに細められた瞳を縁取る銀色の長いまつげが目に入った。

 「逃げないで」

 熱い吐息と共に伝えられた言葉が、魔法のように私の身体に沁み込んで、囚われてしまったかのように動けなくなる。
 薄く開けられたエミル殿下の唇に誘われて、私も同じようにして彼を迎え入れた。
 差し入れられた舌は、エミル殿下の肌のように滑らかだった。
 それは奥へと逃げようとする私の舌を絡めとり、優しく吸い上げる。
 喜びとともに、甘い疼きが背中に走った。
 婚約が内定したとき、いつかこんな風に触れてもらえる日が来るのだと想像して、心臓がおかしくなりそうだった。
 けれど同時に、それはエミル殿下にとって義務なのだからと、理性が自分を戒めた。
 (でも、これは義務なんかじゃない)
 逃がさないとでもいうように腰に回る腕が、唇が離れないように頭を支える手が、私を求めるエミル殿下の意思を如実に表している気がした。
 重ねられた唇が熱くて、蕩けてしまいそう。
 どうやって呼吸をしたらいいのかわからなくて、とても苦しいのに、唇を離したくない。
 私の限界を悟ったように、エミル殿下はタイミングよく唇を離した。
 そして、息を継ぐ私の背を撫でながら、甘い声で囁いたのだ。

 「ルツィエル、今夜私を君のベッドに入れてくれる……?」

 突然の申し出に心臓が跳ねる。
 (それは……いつかそういうことはするのだろうと思っていたけれど……って、あれ……?)
 てっきりこの先へのお誘いかと思ったのだが、どうも様子がおかしい。
 エミル殿下は私にもたれかかるようにして『悔しいが、もう限界だ』と呟いた。

 「エミル殿下?大丈夫ですか?」

 「このまま君とひとつになりたい……けど駄目だ……こんな状態では抱けない。いや、抱きたくない」

 私は寄りかかってくる殿下を慌てて支えた。
 どうやらひどく疲れているようだ。
 だがしかしそれも当たり前だ。
 おそらく暗殺されかけた日から今日まで、休息もろくに取ることができなかったに違いない。

 「エミル殿下、こちらです」

 私はエミル殿下の身体を支えながら、寝室に案内した。

 「もう少しです、頑張って」

 やっとの思いで寝台の上に横たえると、慣れないながらもマントや剣を丁寧に外し、ベッドサイドチェストの上に置いた。
 エミル殿下はもう薄い寝息を立てている。
 私は隣に腰掛け、彼の顔にかかる銀の髪を優しく払った。
 今にも倒れる寸前なほど疲れているのに、私のもとへきてくれた。
 嬉しくて、眦に熱いものが込み上げる。

 「ここまできてくださって……私に会いにきてくださって、ありがとうございます」

 初めて目にする美しい寝顔に向かって呟くと、寝ているはずの殿下の腕が、私に向かって伸びてきた。

 「きゃっ!」

 あっという間に広い胸の中に閉じ込められてしまった。
 (このまま一緒に寝ろってこと……?)
 身じろぎできないほど、しっかり抱き込まれている。
 (とても眠れそうにないわ……)
 私は殿下の匂いに包まれながら、目を閉じて、しばらく彼の規則正しい心臓の音を聞いていた。
 



しおりを挟む
感想 265

あなたにおすすめの小説

出世のために結婚した夫から「好きな人ができたから別れてほしい」と言われたのですが~その好きな人って変装したわたしでは?

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
古代魔法を専門とする魔法研究者のアンヌッカは、家族と研究所を守るために軍人のライオネルと結婚をする。 ライオネルもまた昇進のために結婚をしなければならず、国王からの命令ということもあり結婚を渋々と引き受ける。 しかし、愛のない結婚をした二人は結婚式当日すら顔を合わせることなく、そのまま離れて暮らすこととなった。 ある日、アンヌッカの父が所長を務める魔法研究所に軍から古代文字で書かれた魔導書の解読依頼が届く。 それは禁帯本で持ち出し不可のため、軍施設に研究者を派遣してほしいという依頼だ。 この依頼に対応できるのは研究所のなかでもアンヌッカしかいない。 しかし軍人の妻が軍に派遣されて働くというのは体裁が悪いし何よりも会ったことのない夫が反対するかもしれない。 そう思ったアンヌッカたちは、アンヌッカを親戚の娘のカタリーナとして軍に送り込んだ――。 素性を隠したまま働く妻に、知らぬ間に惹かれていく(恋愛にはぽんこつ)夫とのラブコメディ。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。

ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。 ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。 対面した婚約者は、 「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」 ……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。 「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」 今の私はあなたを愛していません。 気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。 ☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。 ☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

〈完結〉「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

「いなくても困らない」と言われたから、他国の皇帝妃になってやりました

ネコ
恋愛
「お前はいなくても困らない」。そう告げられた瞬間、私の心は凍りついた。王国一の高貴な婚約者を得たはずなのに、彼の裏切りはあまりにも身勝手だった。かくなる上は、誰もが恐れ多いと敬う帝国の皇帝のもとへ嫁ぐまで。失意の底で誓った決意が、私の運命を大きく変えていく。

【完結】記憶喪失になってから、あなたの本当の気持ちを知りました

Rohdea
恋愛
誰かが、自分を呼ぶ声で目が覚めた。 必死に“私”を呼んでいたのは見知らぬ男性だった。 ──目を覚まして気付く。 私は誰なの? ここはどこ。 あなたは誰? “私”は馬車に轢かれそうになり頭を打って気絶し、起きたら記憶喪失になっていた。 こうして私……リリアはこれまでの記憶を失くしてしまった。 だけど、なぜか目覚めた時に傍らで私を必死に呼んでいた男性──ロベルトが私の元に毎日のようにやって来る。 彼はただの幼馴染らしいのに、なんで!? そんな彼に私はどんどん惹かれていくのだけど……

大好きなあなたを忘れる方法

山田ランチ
恋愛
あらすじ  王子と婚約関係にある侯爵令嬢のメリベルは、訳あってずっと秘密の婚約者のままにされていた。学園へ入学してすぐ、メリベルの魔廻が(魔術を使う為の魔素を貯めておく器官)が限界を向かえようとしている事に気が付いた大魔術師は、魔廻を小さくする事を提案する。その方法は、魔素が好むという悲しい記憶を失くしていくものだった。悲しい記憶を引っ張り出しては消していくという日々を過ごすうち、徐々に王子との記憶を失くしていくメリベル。そんな中、魔廻を奪う謎の者達に大魔術師とメリベルが襲われてしまう。  魔廻を奪おうとする者達は何者なのか。王子との婚約が隠されている訳と、重大な秘密を抱える大魔術師の正体が、メリベルの記憶に導かれ、やがて世界の始まりへと繋がっていく。 登場人物 ・メリベル・アークトュラス 17歳、アークトゥラス侯爵の一人娘。ジャスパーの婚約者。 ・ジャスパー・オリオン 17歳、第一王子。メリベルの婚約者。 ・イーライ 学園の園芸員。 クレイシー・クレリック 17歳、クレリック侯爵の一人娘。 ・リーヴァイ・ブルーマー 18歳、ブルーマー子爵家の嫡男でジャスパーの側近。 ・アイザック・スチュアート 17歳、スチュアート侯爵の嫡男でジャスパーの側近。 ・ノア・ワード 18歳、ワード騎士団長の息子でジャスパーの従騎士。 ・シア・ガイザー 17歳、ガイザー男爵の娘でメリベルの友人。 ・マイロ 17歳、メリベルの友人。 魔素→世界に漂っている物質。触れれば精神を侵され、生き物は主に凶暴化し魔獣となる。 魔廻→体内にある魔廻(まかい)と呼ばれる器官、魔素を取り込み貯める事が出来る。魔術師はこの器官がある事が必須。 ソル神とルナ神→太陽と月の男女神が魔素で満ちた混沌の大地に現れ、世界を二つに分けて浄化した。ソル神は昼間を、ルナ神は夜を受け持った。

処理中です...