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しおりを挟む男はフードを目深にかぶり、口元を布で覆っている。
体格もそうだが、なにより彼が醸し出すその独特な雰囲気には覚えがある。
探していたあの男に間違いない。
「こ、ここでなにをしているの!?」
男は周りを気にしたあと、私に向かって“大きな声を出すな”とでも言うように、口のあたりに人差し指をあてた。
彼のように裏の世界で暗躍する人間が姿を現すのは任務を遂行する時だけ。
ということは……
「まさか、私の命を狙いに?」
しかしこれに男は大きく首を振る。
(じゃあなんなの?)
訳が分からず困惑していると、男は一瞬躊躇うような素振りを見せたあと、弾みをつけ、勢いよくバルコニーに飛び移ってきた。
思わず悲鳴を上げそうになる私の目の前で、男は慌てて両手を上げた。
おそらく何もしないという意思表示だろう。
「あなた……あの日私を助けてくれた人……よね?」
私の問いかけに、男は黙って頷いた。
「どうしてここに?」
しかし彼は俯くばかりでなにも答えてくれない。
なんだかあの日とは随分様子が違う。
(そうだ、お礼を言わなくちゃ)
「あの……あの時は頭に血が上っていて言えななかったけど、助けてくれてありがとう。それと──」
彼は亡くなった騎士たちをコートニー侯爵邸へ送り届けると約束した。
そして宿屋の店主夫妻の弔いも。
ちゃんとその通りにしてくれたのだろうか。
「騎士たちの遺体はコートニー侯爵邸送り届けて貰えたのでしょうか。それと宿屋の店主夫妻の弔いは……」
「……ああ。すべて約束通りにしたから安心しろ」
あの時とは違う、穏やかな声。
顔を覆う厚手の布地のせいで本当の声はよくわからないが、妙に耳障りの良い声だ。
(それに……どこかで聞いたような……)
けれど彼と私に接点などあるはずもない。
「あの、帝都に行ったなら知ってるかしら。皇太子殿下が偽物だったという噂が流れていると聞いたのだけれど」
すると、これに男はすぐ反応した。
「それは本当の話だ」
男は、皇宮で起こった騒ぎについて、おおまかに説明してくれた。
落石事故は仕組まれたものであったこと。
エミル殿下の偽物が、貴族たちの目を欺くために、記憶喪失のふりをしていたことなど。
エミル殿下が大怪我を負っていたことも聞き、思わず涙がこぼれた。
生きていて下さってよかった。
(なんてすごい人なの……)
窮地に陥れられたにもかかわらず、自分自信の力で、奪われた座を取り戻すなんて。
「本物のエミル殿下は今どうされているの?」
「皇宮に戻り、偽物を捕らえたと聞いている」
領内で噂が流れたのは少し前のことだ。
離れた帝都の噂が広まるまでには当然時間差がある。
(ということは、エミル殿下が帰還したのは私が領地に着いたすぐあと……)
けれど私にはなんの知らせも届かなかった。
領地が閉鎖されているとはいえ、皇宮からの知らせなら、すぐ手元に届くはずだ。
わかっている。
今、エミル殿下がそれどころではないことくらい十分承知している。
けれど、やはり私はエミル殿下にとって後回しにされてしかるべき存在なのだと、卑屈な考えが湧き上がるのを止められない。
これからどうしよう。
ヤノシュ伯爵令嬢は、エミル殿下となんの関係もなかった。
それならこれまで通り、エミル殿下の背中を追いかけ続ける……?
(もう、できないかもしれない)
エミル殿下に愛されたい、女性として求められたいという自分の本当の望みを知ってしまった今、これまで通り、彼の愛を欲しがらずただ想い続けることなんてできやしない。
「もっと聞きたいことはないのか」
「え……?」
「以前お前が口にした“大切に想う男”とは、そのエミル殿下なのだろう?」
「どうしてそれを……」
もしかして、顔に出ていたのだろうか。
「名門であるコートニー侯爵家の令嬢が、滅多に会うことのない高貴な人間と言えば、帝国広しといえど皇太子くらいしかいないだろう」
言われてみれば、確かにその通りだ。
それに、エミル殿下が臨席される場では、いつもその姿を目で追っていた。
私が気づいていないだけで、この想いはとっくに周囲の知るところだったのかもしれない。
「嬉しくないのか。心変わりがどうとか言っていたが、それも偽物のしでかしたことなのだろう?」
確かに、他の女性に心変わりされたわけじゃなかったのは嬉しい。
けれど、だからといって、私がエミル殿下に愛されているわけではないのだ。
「……もし本当に、エミル殿下がヤノシュ伯爵令嬢を愛されていたのなら、そのほうがよかったのかもしれません……」
私の呟きと同時に、男が手を置いていたバルコニーの手すりがミシミシと軋んだ音を立てた。
(だから、今の話のなにがそんなに気に入らないのかしら!?)
眉間に皺を寄せる私に気づいた男は、慌てて手すりから手を離した。
「なぜだ」
「え?」
「惚れた男が他の女にうつつを抜かしてもいいのか」
「エミル殿下に限ってうつつを抜かすなんて……あの方はそんないい加減な気持ちで誰かを側に置いたりなんてしません」
「なら他の女と結婚した方がお前は幸せだとでも言うのか」
「……そう……なのかも。殿下が心から愛せる方がいるのならその方が……」
「なぜだ?理解できない」
男は少しだけ声を荒げた。
(もしかして、彼は皇室の関係者なのかしら)
殿下の話になると途端にむきになるところを見る限り、そうとしか思えない。
私の予想が当たりなら、この話はエミル殿下に伝わってしまうだろうか。
「……だって、殿下は私を愛しているわけじゃないんだもの」
婚約に関しても、エミル殿下から直接申し込まれたわけじゃない。
「偽物のエミル殿下が、ヤノシュ伯爵令嬢を愛おしむ姿を間近で見て、羨ましいと思ったわ……私はあんな風に、熱のこもった目で殿下に見つめられたことなんて一度もない」
エミル殿下が幼い私に向けてくれた優しい瞳。
それは私が成人してもなにも変わらず、熱を孕むことはなかった。
きっと、大切にしてくれるだろう。
でも、もしいつかエミル殿下に愛する人ができてしまったら?
重婚が認められている以上、その可能性は十分にある。
殿下が私以外の女性に愛を向ける姿を見るなんて、これ以上の地獄があるだろうか。
「愛する人のいる人生は幸せだわ。けれど、愛する人から愛されない人生は……つらく、苦しい。子どもだった私にはそれがわからなかったから、エミル殿下を想い続け、ひたすらに追いかけることができたの」
「それがもうできないと?」
「……自信がないの……」
こんなにも愛しているからこそ、これまで通りでいられる自信がなかった。
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