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しおりを挟むそれからしばらく、部屋の中からはユスティーナ嬢の悲痛な叫び声が響いてきた。
『なんで』
『どうして今さら』
吐き出される言葉のすべてが最もすぎて、聞いていて胸が痛かった。
けれど、決して殿下の肩を持つわけではないが、そんなに抵抗するのなら、なぜユスティーナ嬢は今日、危険を冒してここまできたのだ。
彼女の行いこそが、嘘偽りのない本心ではないのか。
私はすぐさま殿下の宮への立ち入りを禁じ、出入りする侍女も信用のおける者に限定した。
一番頭が痛かったのはプラーシル公爵への報告だが、これには私よりも適任がいた。
陛下だ。
こんな事をしてしまった以上、殿下の肚も決まっているはず。
今さら陛下に報告したところで、理不尽に叱られたりはしないだろう。
私は急ぎ陛下の執務室へと走った。
やはりというか、報告を聞いた陛下は上機嫌な様子で、プラーシル公爵の事は任せろとおっしゃった。
(とんでもないことになってしまった)
帰り道、私は心の中でひとりごちた。
どうして長い間殿下は、ユスティーナ嬢を避け続けていたのだろう。
こんな事になるのなら、陛下とプラーシル公爵が殿下とユスティーナ嬢との婚約を口にしたあの日、素直に頷いておけばよかったのに。
──けれど、人の心は矛盾だらけだ
その心は殿下にしか……いや、もしかしたら殿下自身もわからないのかもしれない。
ユスティーナ嬢を迎えることにより、皇帝派は酷い拒否反応を示すだろう。
最悪殿下は、自身の治世において、彼らの支持を失うかもしれない。
貴族派が台頭することの危険性は、誰よりも殿下が一番よくわかっている。
だがきっと、どんなに頭でわかっていても、駄目だったのだ。
最初は恋や愛といったものではなく、いとけなく純粋な幼女を可愛く思うような、そんな気持ちだったはず。
けれど殿下がそう思えるような存在がいた事自体奇跡のようなもので。
だからそれを周囲に悟られないように、これまで自分の気持ちを押し殺していたのだろう。
自分のためというよりは、彼女のために。
それなのに彼女はそんな殿下の気も知らず、自らの意思でやってきた。
殿下だって男だ。
そんなことをされたら、これ以上気持ちを抑えるなんて無理な話だ。
殿下は肚が据わるというより開き直ったのか、翌日から自身の仕事をすべて陛下に押し付けて、堂々と執務をサボった。
時折私を呼びつけては飲み物や軽食を用意させ、最終的には浴槽も自室に設置させた。
部屋の前に控える私の耳に聞こえてくるのは、別人のように甘さを含んだ殿下の声。
信じられないことに、あの傲岸不遜な皇子様は、ユスティーナ嬢の身の回りの世話をすべて、自らの手で行っているようだった。
寝室はもちろんのこと、時には浴槽からも、鼻にかかった甘い声が波打つ湯の音と共に聞こえてくる。
どうやら殿下はユスティーナ嬢と時間をかけて向き合い、その心を解すことに成功したようだった。
それは本来とてもめでたいことなのだろうが、独身の私と嫁入り前の侍女たちが目の当たりにするのは、もはや拷問に近かった。
私は現実逃避のため、空を流れる雲を見つめるようになった。
そして、もしかしたら殿下が園遊会に決して出席しなかったのは、ユスティーナ嬢が訪ねてくるのを待っていたからなのだろうかと、ぼんやり考えていた。
一週間が経ち、憑き物が取れたような顔をして執務室に顔を出した殿下。
二人にとってそれはそれは最高の時間だったのだろうが、その裏で散々苦労した私たちは若干恨めしい思いで出迎えた。
その後も結局、殿下はユスティーナ嬢を公爵家に帰さなかった。
それはおそらく、今回のことが原因で貴族の嫉妬がユスティーナ嬢に集中するのを危惧したのではないかと思われる。
万が一そんなことになれば、命を狙われる可能性だってある。
そして案の定、この件が露呈すると、殿下を狙っていた令嬢たちはこぞってユスティーナ嬢のことを『殿下の宮に忍び込み、身体を使って籠絡した悪女だ』とあちこちで噂を流した。
だが予想外にその噂が収まるのも早かった。
なぜなら殿下が令嬢たちとの交流を絶やさなかったからだ。
ユスティーナ嬢と結ばれてからというもの、殿下は男の私から見ても胸がざわつくほど、妖しいほどに美しさを増した。
令嬢たちはこれまで以上に殿下の虜になり、ユスティーナ嬢の一件に関しても『殿下も男盛りだから仕方ない』と態度を軟化させた。
そしてユスティーナ嬢の身に起きたことが、いつか自分にも……と妙に奮起するというまさかの展開に。
殿下はそんな女性たちを見ながら、内心『なんでこんな事をしなければならないんだ』と散々悪態をついていたに違いない。
けれどそれもこれも、殿下なりの方法でユスティーナ嬢を守るためにしていたのだろう。
あちこちで浮名を流しつつも、殿下は決してどの令嬢にも手を出すことはなかった。
その裏でユスティーナ嬢は公爵家に帰したという体にして、あの日からずっと自宮に住まわせていた。
それはまるで、彼女の耳に余計な雑音を入れないように。
二人きりの世界に閉じ込めてしまうように。
紆余曲折あったが、しばらくして二人は婚約・結婚し、皇太子妃となったユスティーナ妃殿下の身体には新たな命が宿った。
妃殿下の腹の膨らみが目立ち始めた頃、プラーシル公爵率いる貴族派による政策への口出しが増え、殿下の苦労も倍増した。
執務を終えると深夜になることも多く、妃殿下は必ず起きて待っているため、出産の日まで殿下は寝室を分けることにした。
そして早く執務が終わる日は、妃殿下の元へと足を運ぶ日々。
その日、殿下が執務を終えると外はもう真夜中だった。
『今夜もユスティーナに会えなかったな』
殿下は疲れた顔でそう呟くと、自室へと足を向けた。
部屋の扉が見えてくると、そこには客人が。
妃殿下のもとで働く侍女だった。
彼女は妃殿下が一番可愛がっている侍女で、名をソーニャといい、殿下も私もよく顔を合わせていた。
彼女は殿下の許可を得ると、手に持っていた酒器の載ったサルヴァを恭しく差し出した。
『ユスティーナ妃殿下より差し入れでございます』
酒器の中身は薬酒だという。
『あのまずい酒か』
殿下は匂いを嗅いですぐに顔を顰め、苦笑した。
聞くと、妃殿下の部屋で何度か飲んだことがあるそうだ。
毎日毎日、自分の父親のせいで苦労している殿下のために、妃殿下がわざわざ取り寄せたのだという。
近くに寄ると確かに、形容しがたい不思議な香りがする。
『杯が二つあるが?』
『はい。妃殿下が、ミロシュ殿下だけでなく、マクシム様にも飲んでいただくようにとおっしゃいまして』
今度はその侍女が苦笑した。
妃殿下から、私たちが杯を空けるまでちゃんと見てくるように言われたのだとか。
『まったく、仕方がないな』
曇りひとつない、磨きあげられた銀の酒器に殿下は手を伸ばす。
『マクシム様もどうぞ』
『……うっ!!』
間近で嗅ぐと毒々しさが更に増す。
私は覚悟を決め、一気に飲み干した。
まさかこの薬酒が、殿下の人生を狂わせることになるなんて思いもせずに。
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