しらぬがまもの

夕奥真田

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優しさと復讐心

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…おかしい。

ワイバーンやドレイクはもちろん、ワームやリザードマンなどの、小型な者たちの力も借りながら、例の“白髪”たちを探しているが、その行方はなかなかに掴めない。

仕方なくも、最初に目星をつけておいた、コハブの街の領主をまず捕らえるべく、魔王の命令通り、確実な日の出を待ってやって来たは良いが、何故か領主の館は焼け焦げ、当の領主本人の姿も既に無かった。

市民たちは三年前がなんだと、騒いでいたが、私としては正直どうでも良い。

人間が同じ人間を恨み、罵倒し、殺そうとも、知ったことではないのだ。

私が求めているのは、人と魔物の共生ではなく、強いて挙げるならば、私の様な悲しみを魔物が背負うことのない世の中だ。

その過程において、人が共に繁栄することを否定していないだけで、彼らの数が減り、最終的にこの世界から消え失せようとも、構いはしない。

しかし、だからこそ、あの“白髪”の者たちだけは、私怨も込めて殺さねばならない。

魔物の繁栄を阻害しない人間であれば、無理に殺す必要性はないが、侵略戦争において私の娘を討ち、ほぼ無傷でコハブ防衛戦を成功させたらしい“彼ら”の驚異的な力はおそらく、後に魔物にとって大いなる災厄となる。

昨夜、彼らのことを意図的に“勇者”と呼んだのも、決して他の者たちの心を動揺させるためだけではない。

それほどまでに、私は彼らの力を恐れているのだ。

だが、恐れてばかりでは、私の様に、家族や友人を失い、ひどい悲しみを背負う魔物たちがまた出てきてしまうかもしれない。

それだけは避けたかった。

「長…!」

コハブの街から暫し離れた位置に立ち、街に出入りする者全てを観察していると、上空から二体の竜たちが舞い降りて来た。

「ウィルムと…久しぶりだな、クエレブレ」

「おぉ!ほんとに長じゃねぇか!?一体どうしたん…ですか?」

口をもごもごとさせ、慌てて取って付けた様な敬語口調になるクエレブレに自然、笑みが溢れる。

…変わっていないな。

娘と共に、魔王に連れられ人間界へと渡ってしまった彼だが、その愛嬌とも呼ぶべき、抜けた感じは健在らしい。

未だに二つ以上の命令を覚えてはいられないのだろうか…?

「クエレブレ、君はここ、コハブに住んでいるらしいな?」

「えっ…?あぁ、一応ですがね。塒にしてる洞窟自体は別にありますが、基本はここらを飛んでますよ」

「なるほど…。ならば、聞くが、ここの領主が何処へ行ったかは知らないか?」

「領主?領主ならあの、家…じゃなくて、でかい、その…」

「屋敷?」

「そうそれ!そこにいるじゃない…ですか?」

クエレブレはこちらを指していた指を静かに下げ、ぎこちなく笑う。

なるほど、未だ屋敷を指すあたり、彼はまだシエルの現状を知らないらしい。

少なくとも、人よりもずっと視野の広い彼ならば何か知っているかとも思ったのだが、少々当てが外れた様だ。

「いや、それが不在らしいのだ。急ぎの用でやって来たのだがな…」

「ふ~ん、そうでしたか…。まぁ、そういう日もありますよ!元気出してください、長!」

底抜けの明るい彼を連れて来たウィルムが深いため息を吐く。

「申し訳ありません。こんな役立たずを連れて来てしまって…」

「おい!役立たずってのは、俺のことか!?」

「他に誰がいる?この鳥頭」

「俺は鳥じゃねぇ!」

「分かった、分かった…。こちらこそすまなかった、クエレブレ。お前の貴重な時間を取ってしまって」

今にもどちらかが、相手の首目掛けて牙を伸ばそうとするのを見かね、二匹の頬を軽く尾で叩く。

仕方ないとばかりに、何とも嫌そうな表情を浮かべながらも、引き下がるウィルムを待って、私は頭を下げた。

彼が何も知らないのならば、悠長に話をしている場合ではない。

領主や、その他の白髪たちの行方を追わなくては。

しかし、手掛かりらしい手掛かりはもはやない。

一度各地に向かわせた竜たちを呼び戻し、新たな情報を得たどうか確認すべきだろうか…。

「あっ、そういえば…」

手詰まりとなった現状を打破するため、思案に耽っていると、不意にクエレブレが何か思い出したかの様に、ぽつりと呟く。

「あいつもここ最近留守にしてるんだっけ…」

「あいつ?」

「あいつだよ、あの、えっと…名前は…何だっけ?長ったらしいから、何とか先生って呼ばれてる、白髪の…」

「白髪…!?」

私よりも先にウィルムが聞き返す。

若いだけあり、反応速度は私などよりも早いらしい。

「ん?そう、白髪、領主とおんなじ」

「…なるほど、白髪の人間が領主以外にもこの街にはいるんだな?」

「いるぜ?あと、二人。でも、名前が思い出せないんだよ…。片っぽは医者かなんかしてて、俺も診てもらったことあるから、知ってるはずなんだけど…」

二人、領主以外にも“白髪”の者がこの街にいる。

領主という大きな位に位置する者がいるだけに、その者にばかり目が奪われていたが、確かに、仲間がいるとするなら近くにいると考えるのが普通か。

下手に捜索範囲を広げるよりも、三年前の防衛戦において、再度のその姿が確認された、このコハブをまずは集中的に捜索するべきだったらしい。

それにしても、領主以外にも二人か…。

確認された“白髪”の者たちは合わせて“六人”。

その内の三人、つまり、総戦力の半分がこの街に結集しているということになる。

それを幸と見るか不幸と見るか…。

…どちらにしても、一度部下たちを呼び戻した方が賢明だろうな。

「…ならば、その領主以外の“白髪”たちの行方は知っているのか?」

「だからぁ、名前を思い出せない一人はずっと留守なんだって…!」

「そうか…。もう一人は?」

「もう一人は良く知らね。見かけたことがあるってだけだから…ですから…」

なるほど、領主と、その名前を忘れてしまったらしい男は不在、或いは、 少なくとも街の人目には付かない場所にいるらしい。

だとすると、狙い目はもう一人の方か。

しかし、例え相手が一人だけの可能性があるにせよ、純然たる竜の姿を持つ者が街の中にいる人間一点を狙うのは不可能に近い。

魔王が言っていた様に、今我々が浅はかなことをするのは、人間たちの印象を悪くし、魔物優位な現状を壊す恐れがある。

ましてや、ここはシエルという我々魔物を最初に引き入れた国、そういったことに関しては、他国以上に、神経を使わねばならないのも確かだ。

「ウィルム、近くにいる竜族の中でも、人とあまり大きさの変わらない者を呼び寄せてくれ。街の中にいる竜族と合流させ、共に“白髪”の捜索に当たらせる」

「分かりました、すぐに…!」

力強く頷くと、ウィルムはまた空へと飛び上がる。

そして、竜族にしか聞こえぬ特別な音域の鳴き声を上げ、私の伝えたことをそのままに、周囲の竜たちに伝播していく。

「…そういや、何かあったんですか?“白髪”の奴なんか探して?」

上空のウィルムをぼんやりと見上げながら、クエレブレが不思議そうに小首を傾げる。

多くの竜族の力を借りているが、思えば彼には協力を要請していない。

…彼は少し純粋無垢過ぎる。

「いや…大したことではない。お前は気にしなくていい」

「そうか?なら、別にいんだ…ですけど。…なんだ、フェンリルとかベヒモスまでこんなとこに来るから、何かあったのかと思ったんだけどなぁ」

「フェンリル、ベヒモスがこの街に?」

「ん?あぁ、ついさっきなんだけどな。街からあっちに向かって走って行ったぜ?」

クエレブレは丘陵地帯の遥か彼方に見える山々を指差す。

何故彼らがこの街へ…?

フェンリルは分からないではない。

魔王の側近でもある彼が、あの“白髪”連中と何の接点もなかったはずはない。

それに、昨夜の様子を見ていれば、密告の可能性は十分に考えられる。

だが、ベヒモスは何故だ?

数多くの部下を従え、この世界の情報をより多く入手しているとはいえ、彼は私同様、昨日この人間界へとやって来た身。

“白髪”たちに肩入れする義理はないはず。

単なるフェンリルのお供…?

それとも、あの“白髪”たちを庇うに足ると判断出来るだけの情報を持っているのか…?

…いや、そもそもフェンリルが此処へ来た理由が分からない以上、憶測の域を出ない。

しかし、調べる必要性はあるな。







クエレブレからフェンリルの名を聞いた時から、どこか頭の片隅で予想していたが、やはり、コハブの街に“白髪”の者たちは、一人としていなかった。

どうやらフェンリルたちが此処へ来たのは、決して偶々ではないらしい。

しかし、不思議なことに、領主の館といい、クエレブレが言っていた、後に調べがついた診療所と、ただの一軒家といい、“白髪”が居ない以上に、何故かひどく荒された形跡があった。

逃げる準備をする段階で慌てていたのか…。

いや、いくらその場から離れるとはいえ、余計な目を引くであろう火事まで起こす必要はないはずだ。

それに、診療所と、一軒家で見つかった血痕なども不可解な点だ。

“白髪”たちは何者かに襲われた…?

それならば、火事になったのも、血痕があったのも合点がいく。

だが、しかし、一体誰に…?

フェンリル、ベヒモス…?

…分からない。

実際にこの目で見ている訳ではなく、部下たちの話を聞いているに過ぎないおかげもあって、尚の事頭が上手く回らず、何の手掛かりも得られそうにない。

「長、失礼ながら、新たな情報が入りました」

「どうした?」

他の竜たちの事などすっかり忘れ、ひたすらに頭の中で、手に入った事実を繋ぎ合わせていると、他の方面からの情報に耳を傾けていたウィルムがこちらに駆け寄ってくる。

「他の“白髪”たちの目撃情報が手に入りました。ヤムと、ヴァルカンです」

「ヤムとヴァルカン…」

名前こそ一応は知っているが、詳しい場所や特色などは聞いた記憶がない。

他の長たちは、暮らす場所の気候や特性、そして特色などを部下たちから聞き、その地にあった魔物たちを向かわせているのだろうが、私はその様なことはしてこなかった。

というのも、竜族は皆大抵が硬く厚い鱗で身を守っているために、暑さ寒さはもちろん、風雨や砂嵐さえも問題としないからだ。

結果、私は人間界にあまり詳しくないのだ。

「ここからその国々へは遠いか?」

「そうですね…。距離がありますから、それなりの時間が掛かると思われます」

「そうか…。では、その目撃情報というのはどういったものだ?」

「ヤムの方は、ちらりとその“白髪”らしき人物を、今朝早くに見かけたというもので、ヴァルカンの方では、一昨日まで闘技場にほぼ毎日出場していたとのことです」

なるほど…。

どちらもひどく有力な情報だ。

しかし、問題は、全ての箇所を安全に探るだけの頭数がこちらには揃っていないということだ。

これもまた実際にこの目で見た訳ではないが、侵略戦争時やコハブ防衛戦における“白髪”の異常な力については、それに恐れ慄く者や、逆に羨望の眼差しを向ける者などからよく聞いている。

それ故、彼らとの遭遇に備え、常に連携の取れる数で集まり、単独で挑む様なことは避けたいと考えているのだが、その結果として、捜索する者たちが不足してきているのだ。

…どうしたものか。

複雑に乱れる頭を整理するため、一度深く息を吸い込み、吐き出す。

まずはここ、コハブについてだ。

この街に“白髪”たちが居たのは確からしい。

だが、今はその姿が一つとしてない。

ここでまず最初の選択だ。

“白髪”たちが今は居ないにせよ、奴らの内の一人でも帰ってくると踏んで、部下たちを数匹街に置いておくべきか、或いは、もはや帰ってこないものと諦め、他の場所、現状ではヤムとヴァルカンの捜索の応援に向かわせるべきか。

どちらも一長一短な選択肢だが、殊にコハブでの現状を鑑みるに、奴らはこの街を捨てた可能性が高いと見える。

だとすると、この街に頭数を割くのは効率が悪いかもしれない。

しかし、クエレブレの話から推測するに、領主の館が火事となったのは、つい数時間前の事なのだろうが、診療所を営んでいたらしい“白髪”はそれ以前から留守にしているとのこと。

つまり、残りの一人については予測も立てられぬが、領主たる“白髪”が居なくなる以前から留守にしていた診療所の“白髪”は、何も知らずに戻ってくる可能性がないとは言えないのだ。

だが、そうなると、診療所と、もう一方の一軒家の荒された形跡と、発見された血痕に矛盾が生じる。

留守にしていたはずの診療所が何故荒されたのか。

獣の様に優秀な嗅覚を持っていれば、血痕が誰のものなのかも分かり、推察は深まるのだろうが、生憎と竜族にそれだけのものは備わっていない。

…何にしても、このコハブには不可解な点が未だ多い。

ヤムとヴァルカン、どちらも情報としてはとても新しく、“白髪”の足跡を追うには適しているのだろうが、距離という面から、一度そちらに行っている部下たちをこちらに呼び戻し、コハブの調査に当たらせた方が、何か別の証拠を掴むか、或いは、のこのこと帰って来た“白髪”の一人を捕まえられるかもしれない。

「ウィルム、ヤムやヴァルカンなど、離れた場所を捜索している者たちを此処に呼び戻してくれ。そして、数日間、コハブに待機し、“白髪”たちを待ち伏せるよう伝えてくれ」

簡単にウィルムに指示を与えると、私はその場で脚を動かしたり、翼を大きく広げたりし、思考の様に凝り固まった体を解していく。

「分かりました。しかし、長は…?」

「私はクエレブレが教えてくれた、フェンリルとベヒモスが向かったという場所を探ってみる。彼らの動きも不穏なのでな…」

小型の竜族を幾匹か背に乗せ、上空へと飛び上がると、クエレブレが指差していた方向を見つめ直す。

空からでも、ただの山々が朧げに見えるきりで、大したものは見当たらない。

一体彼らは何を目指して駆けて行ったのか…?

背に乗せた者たちを落とさぬ様を気をつけながら、次なる大きな疑問である、フェンリルとベヒモスについて思考を巡らす。

彼らがコハブへやって来た理由、それがなんであるかは、彼らへの手掛かりが何もない今、推し量ることはひどく難しいが、もし仮に“白髪”に関することであるとすると、それはなんだ…?

我々の襲撃を事前に“白髪”に密告するため。

普通に考えれば、これが最もしっくりくる。

しかし、領主の館に診療所、一軒家の様子からは、逆に我々よりも先に彼らを襲うためやって来たとも考えられる。

前者ならば、彼らの行いは魔王の意思に反するものであると訴えれば済む話だが、後者では、その意図が全く読めない。

我々に“白髪”を殺されては困り、自身の手で殺さなくてはならない理由でもあるのだろうか。

我々の面子を奪い、更なる権力を得るため?

いや、一匹狼であるフェンリルと、既に長たるベヒモスに限ってその理由は考え難い。

だとすると、我々には知らされぬ魔王からの命令か何か?

その可能性がない…とは言えない。

何故なら現魔王は我々竜族に信用を置いていないからだ。

理由こそ定かではないが、魔界における統治の復活、人間界への進行の際、私が同行を許されず、フェンリルなどを側近に加えたことからも、その気配は伺えた。

妬み嫉みの念が無かったと言えば、嘘になるが、これまでは特段その事で魔王に詰め寄ろうという気も無かった。

しかし、あくまで、故意に竜族を蔑ろにするというのなら、こちらも何か手立てを考えねばならない。







大地と共に生きる、優しくなだらかな地から、人も魔物も、その隆々と立つ木々によって呑み込まんと欲する、深い山と谷が支配する地へ入ってすぐのこと、フェンリルたちが向かっていたかどうかは定かでは無いが、一際目を引く箇所を発見した。

濃さの違いこそあれど、一面を深緑に塗りたくられた山の中で、まるで虫食いにでもあったかの様に、周囲の木々が倒れ、地面の色を露出させた箇所だ。

もっとも、山の緑に穴が開くこと自体は不思議なことでは無い。

落雷による小規模な火事、木々を糧とする人間や魔物による伐採に食害、或いは単に風雨に負ける程の耐久力や寿命など、可能性は幾らでもある。

しかし、その穴はどの可能性にも当てはまりそうにない、歪な形だった。

「…どうなってるんですか?こりゃあ?」

背中から飛び降り、地面へと降り立ったリザードマンなどが地面へと倒れ込んだ木に触れながら、不思議そうに観察する。

地を隠すことを辞めた木々は、その幹回りを見るどれも成木だ。

二龍松ではないので、詳しい樹齢までは分からぬが、特別この箇所の陽当たりが良いと言えるものでも無い為に、周りの聳える木とそう違わないことだろう。

そんな木々がこうも一遍に倒れるとなると、強風や寿命などのものが原因とは思えない。

地が泥濘むあたり、近く雨が降ったようだが、木々に雷の落ちた焦げ目などは見当たらず、また周囲からそれらしい匂いも漂ってはこない。

むしろ、木々の折れ目は根元近くであり、そこは鋭い棘の凹凸となっている。

魔物に食い荒らされた、或いは、人間が何かに利用するために木を切り倒したにしては、あまりに荒々しい。

まるで、何か大きな、それこそ、私の様な竜族などが降り立った時、自然と倒してしまったかの様だ。

だが、身軽なフェンリルやベヒモスが木々を踏み潰してまで着地するとは思えない。

ふと、折られた木々から視線を外し、晴れ渡った空に目を向ける。

手を伸ばせば手が届きそうな程の空を鳥たちが、異変を知らせる様に飛び回っているばかりで、それ以外のこれといった影は見当たらない。

どうやら近くに飛行が可能な竜族はいないらしい。

いれば、この状況について尋ねたかったのだが。

いや、そもそもこの辺り一帯を調べるよう、私は命令しただろうか…?

“白髪”の行方を捜索するよう命令したのは確かだが、思惑としては、人間の溶け込み安い各街やその街道沿いの捜索であり、こんな辺鄙な場所を探させるつもりはなかった。

上手く命令が伝わらなかった、或いは、ただ単に、この木々を踏み倒したのは何も知らぬ、この一帯に住む竜族か。

それにしても、何故こんな場所に降り立ったのだろうか…?

折れた木々から目を離し、周囲を見渡す。

すると、すぐ目の前に、木々に囲まれ、上空からはその姿を隠していた、元は人の住処だったであろう建物が目に入った。

古い建物らしく、外壁には蔦などが絡まり、その上、二階の一室には大きな穴まで開いている。

もはやその佇まいから、決して生活に適うものでないことは容易に察せられるが、その建物は人は疎か、生物の息遣いすら感じさせぬ異様な空気を放っていた。

「なんだ?こんな場所に住んでる人間が…」

「待て…」

同様に建物の存在に気がついたらしい部下の一人が、折れた木々からそちらへ向かって歩き出そうとする。

私はそれを慌てて制止した。

何故なら、目の前の泥濘んだ地面には、見覚えのある大きな肉球が特徴的な足跡が残っていたからだ。

フェンリル…。

その足裏をじっくり眺めたことはないが、この大きさと形の足跡はおそらく彼のものだろう。

どうやらクエレブレが言っていた通り、フェンリルたちは此処へ来ていたらしい。

そして、その足跡は建物の方へと向かって…。

最も近くにある足跡を、順に目で追いかけるが、その視線はすぐに行き場を無くした。

足跡が消えている。

建物に近づく気配のあった足跡がとある地点を境に忽然とその跡を消しているのだ。

慌てて近くを見渡し、足跡を一から追いかけるが、やはり同じ場所で迷ってしまう。

一体どういうことか…?

余計な足跡を増やさぬよう、足はそのままに、首だけを伸ばし、足跡をよく観察する。

最後の足跡とその前の足跡に大きな違いは見られない。

どうやら、建物へと跳躍した訳ではないようだ。

だとすると、“跳んだ”?

フェンリルを最強たらしめる所以でもある、その瞬間移動の能力により、この場から消えたというのか。

…あり得ない話ではない、が、その可能性は低いと考えられる。

フェンリルのものと思しき足跡にばかり気を取られていたが、その横には、他にもいくつかの足跡があった。

どれも人型の足跡であり、一つはおそらくベヒモスのものだと推測され、残りの極めて小さなものと、それよりは大きい二つの足跡の主は分からないのだが、フェンリルのもの同様、それらの足跡も、ある地点を境に消えていたからだ。

フェンリルがおそらく三人は居たであろう者たち全員と共に“跳ぶ”となると、残っている最後の足跡はフェンリル近くにあるのが自然だ。

しかし、足跡はばらばらに位置し、近くとは言い難い。

それに、よく見ると、全ての足跡はまるで線引きがされた様に、建物からある一定の距離離れた位置にしか残っていない。

つまり、建物近くの一定範囲に足跡が残っていないのだ。

…不可解だ。

意図的にフェンリルたちが足跡を残さぬよう何かしらの手立てを講じたのか、或いは、後から足跡を消したのか。

何にせよ、自然と出来上がるものではない。

「…長、もう動いてもよろしいですか?」

「ん?あっ、あぁ…。もう大丈夫だ」

石の様にその場で硬直していたリザードマンが、微かにその体を震わせながら、尋ねてくる。

思えば、足跡を調べる為、制止させたままだった。

足跡に謎は残るが、部下たちをこのまま止まらせておくのも、非効率的だ。

ここは一度、建物を調べさせるべきか。

「すまないが、お前たちはあの建物を調べてくれ。私はもう暫くこの周辺を探ってみる」

「「了解!」」

部下たちはぴしりと背筋を伸ばすと、足跡など気にせず建物へと駆けて行く。

私はそんな彼らの背中を見送った。

…こうやって見ると、彼らも案外可愛いものだな。

もっとも、こんな風に思うのも、彼らがまだまだ自身の手足の様に、思うがままに動いてくれているからなのだろう。

もし彼らが少しでも反抗的な態度を見せたりしたら、その小さな命を嘲笑いながら奪う、昔の残忍で、ひどく竜族的な私に戻るのかもしれない。

…いいや、もうそんな気力もない。

私は決して良い魔物ではない。

今更如何なる償いをしたとしても、心の底から慕われることはないのだと自負している。

昔はそれでも構わないと思っていた。

むしろ、それでこそ、竜族なのだと誇りすら感じていた。

…娘がいてくれたから。

いつ、どんな時でも、私などを庇い、味方してくれた、最愛の宝もの。

だが、その娘が殺されたと聞いた時から、私は自分自身のことは勿論、全ての事がひどくどうでも良くなってしまった。

魔王たちを筆頭に、ほぼ全ての魔物たちが魔界復興に向けて、日夜邁進していることすら、気にも止めない程に。

故に、今更ながら、努めて優しくしているつもりもないのだ。

ただ、彼らに、同じ悲しみを味わせたくないという想いと、娘を殺した“白髪”たちへの復讐心だけが、今の私を動かしているのだろう。

「…すまない、トゥバン。私は情け無い父親だな。いつまで経っても、お前の死を受け入れられない」

微かに頬を撫でる風に、何処かで眠る娘への言伝を残していると、ばたばたと、騒々しい足音が建物の方から聞こえてくる。

「長っ…!長っ!」

霞んだ視界を拭い、建物から出てきた部下たちにすぐに駆け寄る。

「どうした!?」

「そ、それが…!」

建物の入り口を方面を指差す部下に従い、そちらに目をやる。

そこには、何の衣服も身につけぬ“白髪”の男が、覚束ない足取りで立っていた。










「初めまして…。僕の名は、ヘルト…。“勇者”を創る者…」

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