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秘密の家族
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▽
こうして“家族”たちを喰らい始めてから、どれほどの時が経つだろう…?
肉が腐り落ち、もはや骨となり果てた、憐れな家族たち…。
弔うため…。
悲しみや怒りを共にするため…。
そして…。
生きるため…。
その小さく、脆い骨を噛み砕く。
あぁ…。
主様、我はいつまでここに居れば良い…?
いつになったら、“リウ”を探しに行ける…?
あぁ…。
リウ…。
▽
空を隠す程に生い茂る葉に体を分散させながらも、それでもまだ大粒の雨が、頭上から叩きつけてくる。
もはや風雨を防ぐことすらまともに出来なくなりつつあるマントを、気休め程度に羽織り直す。
かれこれコハブを出発して三日、マントだけでなく、腰から下げたポーチ、そして、何より身心もぼろぼろになってきている。
だというのに、目的地は着かないどころか、見つかってすらいない。
…全く嫌になる。
ぐちゃぐちゃと粘度を増し、歩き辛くなった、道とも呼べぬ泥濘みをひたすら歩く。
雨故、何処かで休憩したい気持ちもあるのだが、今更雨が降り止むのを待つ余裕もないし、必要性もない。
もはや地図があるとて、こんな“山奥”ではおおよその位置すら掴めはしないのだから。
俺がこの山奥、というよりも、この山しかない国、“ハル”へと来た理由は、他でもない、プレシエンツァの兄貴から、珍しく命令があったからだ。
“彼の故郷が見つかった。ここを調べて欲しい”
もはや、報酬の話さえなく命令されることに、怒りを通り越し笑いすらその時には出て来たものだが、今更ながら、あのスカした顔面に一撃食らわせておけば良かったと後悔している。
それにしても、まさかこんな山しかないハルへ来ることになるとは思わなかった。
およそ三年前のあの計画後、ガルやアトゥはそれぞれの望む生活を手に入れたようだが、リウの奴はまた姿を消した。
まぁ、あの可愛いチビ助を置いていったのだから、すぐ近くにいるはずだ、放っておいても、その内に帰ってくる。
そう伝えたのだが、相変わらず小さい弟には甘々な兄と姉は、それぞれに奴のことを追いかけ始めたようだった。
もっとも、彼らが焦る理由も分かる。
あらゆる魔物の血液、すなわち、“命”を集め続けているが、やはりどうも人のそれとは違うらしい。
血肉にはなれど、“核”にはならなかった。
正直、苦労して手に入れたあのヨルムンガンドの血ですら、他の魔物たちのもの同じだったのはショックだった。
…あの鱗を破るための酸を作るのはかなり苦労したんだがな。
となれば、やはり人の“命”を吸い取り、ある程度ながら利用できるリウの存在は不可欠ということだ。
結果、姉はリウ同様すぐに姿を消し、兄はその独自の情報網で捜索を続けた。
そして、故郷”がこのハルで見つかった。
といっても、木の葉を隠すなら森の中とはよく言うが、実際、こんな山奥では、言葉通りの意味で、その“故郷”を見つけるのは一苦労だ。
本当にこんな山奥に“故郷”があるのかね…?
マント内の水分が飽和し、行き場を無くした水滴が、その下の服を濡らし始めた頃、ようやくリウの“故郷”らしき建物を見つけた。
…なるほど、そっくりだな。
まるで隠れる様に、人里離れたこんな山奥に建てられているあたり、到底誰かの別荘とは思えない。
それに、十年以上の歳月を経て、周囲の自然に呑み込まれつつも、その原型だけは失わぬこの大きな屋敷には見覚えがある。
だが、心は深い感慨にも浸らず、濡れない場所を第一に所望していた。
似ているというだけで、別に良い思い出がある訳でもないのだ。
軒下となっている玄関へと駆け込み、水没したマントを脱ぎ、濡れていない場所へと腰を下ろすと、久しぶりの運動に悲鳴を上げる足腰を労いつつ、ポーチから地図を取り出す。
もはや、こんな山だらけの地で、緑に塗りたくられただけの地図が何の意味も持たないことは分かっている。
しかし、おおよその感覚ながら、ここがどの辺りなのかを調べる必要性はある。
…逃げられなくはないか。
正しいか分からぬが、おそらく、ここはテールとの国境からそう離れてはいない、かつ、シエルからもそう遠くない場所のはずだ。
ハルとシエルは接してこそいないが、間にテールの微かな領土があるだけで、距離としてはそう遠く離れてはいない。
テールとシエルの国境付近からここまで逃げてくるのは、そう難しいことではないのかもしれない。
…まぁ、今更どちらでも良いが。
無意味な地図を折り畳み、ポーチへと仕舞うと、太腿あたりに喝を入れながら立ち上がる。
そして、触ることを躊躇う程の感触となったマントを玄関の外れかかったドアノブへと掛け、片方の扉を開く。
「うっ…」
扉を開きかけた瞬間、異常な匂いが鼻を突いた。
何の匂いとも形容し難いその匂いは、まるで意思を持ったかの様に鼻を通り抜け、脳や胃の気分を悪くする。
仕方なく、ポーチから手拭を取り出し、簡単に眼鏡に付着していた水滴を拭き取った後、口や鼻を覆う様に顔へと巻く。
もっとも、それでも匂いを完全に遮断することは出来ない。
…これなら、まだ雨に濡れている方がマシだ。
振り返り、新鮮な空気で肺や鼻腔、脳などを洗うと、意を決して屋敷の中へと踏み込む。
全ての窓はカーテンが閉められているらしく、屋敷の中はひどく暗い。
微かな光源は、そのカーテンが劣化し、穴や切れた部分から入ってくる、外の光だけだ。
これではまともに“探し物”も出来ない、そう考え、近くにあった燭台を取り、火を灯す。
温かな光が、陰鬱で異質な空気に満たされた屋敷の中を照らしてくれる。
玄関ホールを見渡す限り、どうやら構造自体はあの“屋敷”と変わらないらしい。
となれば、一階から順に調べ行き、最後に二階か…。
異臭を少しでも抜き、出口である玄関ホールが分かりやすいように、玄関の扉を開けたまま、一階の通路を見やる。
「落書きのない心霊スポットはごめんなんだかな…」
何も出ないことを神にでも祈りながら、屋敷の探索を開始した。
▽
荒んだ絨毯や壁、割れた窓から紛れ込んだらしい枯葉、そして、この気分の悪くなる気に入らない異臭は屋敷中同じだ。
また、どの部屋においても、故意に荒らされた形跡が見当たらない。
机に乗っていたであろう紙やペンなどが散乱している部屋もあるのだが、机の引き出しや書棚など、通常ならば最も怪しまれる箇所は全て整っており、埃が山の様に綺麗に積もっている。
もう一つ不自然なのは、明らかに血溜まりだったであろう汚れの傍に、その血液の落とし主が居ないことだ。
この屋敷において、何が起こったのかは知らないが、多くの者たちが命を落としたことは、何となく察せられる。
しかし、至る所に赤黒い大きな島を浮かべているにも関わらず、島の持ち主の亡骸は全く見当たらない。
“持ち去られた”?
…いや、それはない。
もしもここに居た者たちの亡骸を全て回収するだけの脳があるのなら、各部屋の資料がこうも綺麗に残っているはずはない。
亡骸と共に処分されているはずだ。
では、この血痕の主は何処へ…?
本来の目的である“探し物”を隈なく探しつつも、二度とこんな屋敷に御使いに出されないために、兄が気にかけそうなことは徹底的に調べていく。
フェンガリの時の様に、雑な調査では許されない。
…そういえば、あの時期から、あからさまという程ではないが、ビルゴの態度が悪くなっている。
プレシエンツァの兄貴が何か余計な事を言ったのか、あるいは“ラミア”の一件がバレたのか。
はっきりとした理由は分からないが、こちらへの警戒心と、微かな殺意を滲ませているのは確かだ。
もっとも、いずれは殺される覚悟で、告げねばならない事ではある。
怖がるだけ無意味か…。
しかし、思えば、ガルもアトゥも目的があるにせよ、それなりに自分たちの望んだ生活を送っている。
目的を重視している兄には悪いが、この一件が終わったら、ビルゴとの仲を保つためにも、一度研究を休止させても良いかもしれない。
家族か…。
友か…。
俺は二つとも取らせてもらうさ。
屋敷の一階をぐるりと一周し、再び玄関ホールへと戻って来る事が出来た。
目的の物は見つからなかったが、いくつか収穫はあった。
鼻も完全に馬鹿になり、異臭を特に気にせず残る二階へと上がろうと、玄関扉真正面にある階段へと向かう。
階段は手に持つ燭台の微かな明かりにのみ照らされている。
…何故だ?
一瞬気がつかなかったが、いつの間にか、玄関の扉が閉まっている。
それ故、先ほどまではよく見えていたはずの階段が、燭台の光によってのみ、朧げに照らされているのだ。
じわりと、気色の悪い冷や汗が、額や背に滲む。
風か何かで閉まったのだろうか…?
周囲の暗闇に五感を研ぎ澄ませながら、扉へと近づき、ドアノブに手を掛ける。
…回らない。
「まじかよ…」
あまりのショックで、その場にさっとしゃがみ込む。
その瞬間、ほんの一瞬前まで自身の首があったあたりを、鋭く尖った風が音を連れ回す程の速度で過ぎ去った。
「曲がった鼻が、更に捩じ切れそうな匂いだ…」
ポーチに入れておいた試験管を真後ろへと放り投げる。
すると、ぱりんという、試験管が弾ける音と共に、屋敷を揺らす程の獣の様な甲高い叫び声が上がった。
「いつからか、この匂いが強くなった気がしたんでね。用心しておいたんだが…。どうやら、正解だったらしい」
そっと、立ち上がり、いつの間にか背後に回っていた者の姿を燭台で照らす。
「…ひどいな」
率直な感想ではあるが、それ以上に適切な言葉が見つからなかった。
いつの間にか背後に立っていた“少女”は、両腿あたりから生えた蜘蛛の様な細長い八本の脚を器用に使い、後退する。
そして、ヨルムンガンドの鱗をも溶かす酸を浴びたらしい、背中から生えた、人の物とは明らかに違う、四本の内の一本の手を絨毯や床へと擦り付けている。
多くの人や魔物たちを診てきたが、ここまで嫌悪感がこみ上げて来る姿形をした者たちはいなかった。
「…お前は誰だ?人間か?それとも魔物か?」
おそらく本体であろう、血塗れの布切れで必要最低限の部位だけを隠し、口周りと白髪に赤黒く固まった物をつけた“少女”へと尋ねる。
だが、その口からまた、獣の様な甲高い叫び声を上げて、“少女”はこちらへと向かって来た。
背中に生えた四本の腕は、鱗に覆われるもの、毛に覆われるもの、植物の根で創り上げられたもの、瓦礫の様な物で創り上げられたものがあり、それぞれがこちらの体を引き裂き、叩き潰そうと攻撃を仕掛けてくる。
“少女”の体から生える人の手よりも、二回り以上も大きなその腕たちは、互いにぶつかり合うこともなく、壁や朽ちかけた装飾など破壊しながら、間髪無く振り回され、どんなに距離を取っても、その蜘蛛の脚で追いかけて来る。
「全く、厄か…うぉっ!?」
少女の攻撃を飛び退きながら回避し、相手の特徴をより観察していたのだが、暗がりの中を足元も見ずに後退したせいか、突然何かに躓いた。
その瞬間、背中に生えていた腕よりも早く、蜘蛛の様な細長い脚が腰に下げたポーチの紐を、ぷつりと切り裂き、奪い取る。
「おいおい、まじかよ…!」
躓いた時に落とした燭台などその場に捨て置き、慌てて通路を逃げ出す。
あれを取られてはもはやどうすることも出来ない。
こちらは戦うよりも、後方支援が専らの役職なのだ。
ある程度暗闇に慣れた目で通路を走り、目に入った部屋へと飛び込む。
幸運にもあの“少女”は追いかけては来なかった。
だが、逃げて来た通路の先からは、ぱりん、ぱりん、と大事な数少ない武器たちが壊されている音が聞こえる。
…完全に読みが外れた。
人らしい声や態度すら取れぬ、醜い獣か何かと思っていたが、決してそうでは無いらしい。
明らかに、奴はあのポーチを狙っていた。
あれに武器となる物が入っていることを学習したのか、あるいはただ単に検討をつけたのかまでは分からないが、こちらを攻撃するよりも優先して、意図的にポーチを奪い取ったのは確かだ。
「人は見かけによらないな…」
もっとも、人とも呼べないが…。
しかし、どうしたものか?
そもそもあんな化け物相手に、正面切って戦えるものではない。
仮に殺すことを考えるのならば、不意打ちによる攻撃でなくてはならない。
しかし、手持ちに武器らしい武器はない。
屋敷の中を探せばあるかもしれないが、少なくとも一階にはそれらしい物が無いのは、先ほどの探索で承知済みだ。
そうなると、選択肢はかなり絞られてくる。
二階などの行っていない箇所を探索、武器を見つけ出し、奴と再び対峙する。
あるいは、奴とは対峙せず、“捜し物”だけを探し出し、さっさとここから逃げ出す。
または、何もせず、ここから逃げ出す。
およそ、この三つだろう。
だが、この三つの選択肢を選ぶ前に、一度あの“少女”について、落ち着いて考える必要もある。
何故なら、あの“少女”の様に、人と魔物が入り混じった存在を、ターイナの奴が創っているのを思い出したからだ。
しかし、ここまで醜悪なものが出来上がったところを見たことはないし、皆、それなりに話せ、命を救ってくれたターイナに感謝し、共に生活することが出来る程には友好的であったとも記憶している。
ともすると、あの“少女”はターイナの創り上げたものの一つではなく、ターイナ以外の誰かが創り上げたものと考えた方が良いかもしれない。
だが、ターイナ以外にあんなものを創ることが出来る奴などいるだろうか…?
…思い当たる節はある。
「ま~た、あんたかぁ…?」
てへぺろ、と悪意ある笑みと、小さく舌を出した姉の顔が脳裏に浮かぶ。
全く、三年前の蹶起といい、今回といい、余計なことばかりをしてくれるものだ…。
姉に責任を被せると、一気に疲労感が全身を襲い、立っていることさえ馬鹿らしくなってしまう。
音を立てぬよう、扉に背を預けながら腰を下ろす。
廊下からは何の音も聞こえない。
あの“少女”からそれなりに離れた位置に隠れたとはいえ、廊下くらいは追いかけて来るとも思ったが、それらしい足音もない。
まだあのポーチの中を掻き回しているのだろうか?
ならば、姉のせいで疲労感が一気に表に出てきた体を休ませながら、再び先ほどの選択肢についてゆっくり考えさせてもらおう。
武器を探し、戦う場合と、“捜し物”を探し出し、逃げる場合だが、どちらの場合でも、まずは二階に上がらねばならない。
しかし、その二階に上がるためには、少なくとも先ほど探索した限りでは、ホールのもの以外、使えそうな階段はなかった。
つまり、あの“少女”に襲われたホールに再び戻らなくてはならないということだ。
…もう却下したい選択肢だ。
だが、このまま逃げ出したとして、安全な場所まで逃げ果せるとも限らない。
微かに揺れるカーテンの隙間から、外の様子を眺めると、空を暗い雲が覆い、かつ生い茂る葉のせいで、外は既に暗くなりつつある。
時計もあのポーチと共に置きざりにしたため、正確な時刻まで分からないが、人の目が効かなくなるまでそう時間はかからないはずだ。
この屋敷の異臭を強く放っていることから、おそらく“少女”はこの屋敷を根城にしている可能性が高い。
しかし、だからといって山の中を追いかけて来ない保証はどこにもないし、暗く足元の悪い山道を、あの“少女”から無事逃げ切れるとは正直思えない。
自然、逃げ出す選択肢が消える。
…ほんと、どうしたものか?
薄汚れた壁や天井を見つめながら、ぼんやりと考える。
すると、背後の廊下から微かな気配、そしてあの異臭が漂って来ていることに気がついた。
そっと、物音を立てぬよう、体勢を変え、扉へと耳を近づける。
だが、おかしなことに物音は何一つしない。
あの嗅覚を殺す様な異臭と、何かが動き、それと共に淀んだ空気が動く微かな流れは感じるが、歩く音は全く聞こえない。
尚且つ、その異臭と気配は、止まることもなくひたすらにこちらへと近づいて来る。
通路には、この部屋以外にも多くの部屋が並んでいる。
虱潰しにこちらを探し、扉を開ける音を立てるばなら分かるが、何故他の部屋の扉を開けず、こちらへと近づいて来る…?
それとも、ただ通路を徘徊しているだけなのか…?
おそらくあの“少女”であろう気配が通り過ぎることを期待しつつ、扉から耳を離さずにじっと息を殺す。
…止まった。
微かな希望を打ち砕かんばかりに、異臭と気配は扉の前で止まった。
静かに立ち上がろうと、床へ手をつく。
ぴちゃり…。
湿った絨毯は、冷たく、気色の悪い感触と共に小さな音を立てる。
見ると、床の絨毯にくっきりと足跡が付き、座っていた箇所には小島が出来ていた。
そういうことか…。
納得した瞬間、目の前にあった扉を突き破り、あの鱗に覆われた拳が飛んできた。
慌てて防御の構えるが、相殺出来るような威力ではなく、吹き飛ばされた体は窓ガラスを突き破り、外へと放り出される。
「ぐっ…!」
薄暗くなりつつあるが、未だ冷たい雨が打ちつける外の、泥濘んだ地面の感触が気持ち悪い。
すぐにでも立ち上がり、その場から逃げたかったが、あの攻撃はかなり重い一撃だったらしく、情け無くも、上手く体に力が入らない。
辛うじて動かせそうな顔だけを屋敷の方へと向ける。
すると、そこには、窓枠を乗り越えようとする“少女”の姿があった。
…恨むぞ、馬鹿兄貴と馬鹿姉貴。
「ま~た、そうやって服汚してぇ…。だ~れが洗濯すると思ってるの、もぉ…!」
容赦なく打ちつける雨と、泥濘みを増していく地に身を任せていると、聞き覚えのある苛立たしい声と、いくつかの足音が聞こえてきた。
再び顔だけを動かし、声のした方を見つめる。
そこには、姿形の全く変わらない姉と、多少顔つきの変わったリウ、そして、その二人に隠れる様にしてこちらの様子を伺う、紅色の髪の如何にも貴族らしい格好をした女が立っていた。
「…どうして此処が?」
「う~ん、話せば長くなるから、その話は後にして?ねぇ、それよりアルちゃん、あれ、彼女ちゃん…?」
姉の指差す先など見ず、動かせる範囲で、精一杯首を横に振る。
すると、姉はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「良かった~。リウちゃんに続いて、アルちゃんまで変化球投げてきたら、お姉ちゃん心臓麻痺起こしちゃう…」
相変わらず呑気なことを言っている姉に、微かな苛立ちが募るものの、心地よい安心感が身心を包み込んでくれた。
「…まぁ、そういうことらしいから~。リウちゃん頑張れ~!」
泥だらけの俺を姉が立ち上がらせると、自然、窓枠を乗り越え、こちらの様子を伺っていた“少女”の前にリウが立ち塞がる。
その異形な姿には何の反応も示さず、リウは静かに戦闘の構えを取る。
背中には杖らしき物が背負われているが、それを使う気はないらしく、あくまでも拳や蹴りなどという原始的な攻撃で戦う気のようだ。
あの“少女”に素手で挑むことは無謀だ…!
それを伝えようと、息を大きく吸い込んだ時だ。
「リウ…?リウなのか…?」
雨に紛れてしまいそうなほど小さく、か細い声が確かに聞こえた。
見ると、リウと相対する“少女”の顔が驚きと困惑、そして、喜色の入り混じったものへと変わり、その動きは明らかに辿々しいものとなっている。
「リウのことを知っているのか…?」
「う~ん…。でも、リウちゃんは覚えは無いみたいよ?」
確かに、覚束ない足取りでこちらへと近づいて来る“少女”に対して、リウは構えを解こうとはしない。
…余計に話が複雑化し、分からなくなってくる。
「…というより、姉貴の工作物じゃないのか?」
「私の?どうして?」
「あの手足は明らかに魔物のものだ…。そんな物をあんな風に継ぎ接ぎ出来るのは、姉貴とターイナくらいだろ?」
「う~ん…。それもそうねぇ…。でも、私があんな可愛い子に、あんな酷い手足付けると思う?」
「なら、誰が…?」
姉が創ったものではないとしたら、ターイナが創ったということだろうか?
しかし、だとしたら、何故こんな場所にいる?
姉に肩を借りたまま、ぼんやりする頭で考えるが、疑問は解消されない。
「まぁ、それも本人から聞けば良いんじゃないかしら?ということで、リウちゃん、説得よろしく!」
姉はお気楽そうに手を振る。
リウは尚も構えを解こうとはしないが、“少女”が明らかにその拳などが届く範囲に入っても、攻撃を仕掛けようとはしなかった。
「リウ…。本当にリウか…?」
「…」
何の反応も返さぬリウの目の前まで来ると、“少女”はか細い人の手を静かに背へと回し、リウへと体を寄せる。
「良かった…。あぁ…本当に良かった…!」
そして、屋敷内で聞いた、あの到底人のものとは思えぬ咆哮とは打って変わり、“少女”はリウの胸の中で、声を殺した様に小さく泣き出した。
▽
「最っ悪…!吐きそうなんだけど!」
屋敷内、二階のとある一室の窓際に立ち、新鮮な空気を独り占めする、フーという名の女が、鼻をつまみながら、例の異臭に顔を顰める。
こちらは相当、鼻が馬鹿になったのか、一度外に出たとはいえ、さして気になる程ではなくなっていた。
…もっとも、例の“少女”、スクレから漂う異臭はまだきつく感じる。
「まぁ、推測が正しければ、十年以上は経っているからね~…。酷い匂いも仕方ないのかもしれないわね~…」
部屋の中の物を物色しつつ、姉は特に匂いを気にする仕草もなく告げる。
…なるほど、姉が何処でこの場所のことを知ったのかは分からないが、この屋敷に偶然来たという訳ではないらしい。
「…それで、まずあんたは何者なんだ?」
軽く埃を払った簡素な椅子に腰掛け、片時もリウの傍を離れようとしないスクレに尋ねる。
スクレはそっと、壁に寄りかかり、話だけは聞いているであろう、目を瞑るリウの方を一度見やると、小さな声で返事をする。
「我の名はスクレ、リウを守るため、主様が救い出してくれた存在だ。スクレと言う名も主様が名付けてくれた」
「…救い出しくれた存在ってのはどういう意味だ?」
「我は元々ここで使われていた研究材料に過ぎなかった…。そして、もはや不要と捨てられたところを主様が拾って下さったのだ」
「…ということは、その手足をくっつけたのは、その主様じゃないってことか?」
「そうだ。この手足を付けたのは、別の男であり、捨てるよう命じたのもそいつだ。だから、主様は我の存在を皆から隠してくれた」
「なるほど。…じゃあ、リウを守るってのは、誰から守るんだ?」
「詳しくは教えてはもらえなかった…。おそらくは、幼かったリウの様子を共に見守ってほしいという意味だったのではないかと、我は思う…。その時の主様は、動くことも難しい程の怪我を負っていたからな…」
悲しげな声で告げるスクレから目を逸らし、静かに姉の方を見やる。
姉は物色に夢中なのか、あるいは、それで気を紛らわせているのか、こちらを見ようとはしなかった。
「そうかい…。それで、ここで暮らしてた連中はどうしたんだ?お引越しか?」
「…主様も含め、皆殺されてしまった」
「殺された…」
…なるほど。
少々、予想外ではあったが、ある程度合点はいった。
まずこのスクレは、人や魔物ではなく、俺たちと“同類”、あるいはそれに近しい存在らしい。
そして、今更ながらに、姉やターイナ以外でも、こういったことの出来そうな人物を一人だけ思い出した。
いや、正確に言うならば、“彼女”のことを忘れたことはないが、まさか、自分たち以外の“工作物”がまだ存在するとは思ってもいなかった。
あの手足をくっつけたのは違う男らしいが、おそらく“彼女”が力を貸したのだろう。
しかし、まだ腑に落ちない部分が多くある。
「殺した連中は何者か分かるのか?」
「分からない…。その時、主様が我とリウを地下に隠してしまったから…」
「…その後は?」
「その後…。その後は…リウがいつの間にか消えてしまうまでは共に地下で暮らしていた…」
「消える?」
「あぁ…。日付などは分からなかったが、上から足音が聞こえ無くなって暫く経った頃だったはずだ…」
スクレを含め、全員がちらりとリウの方を見つめる。
しかし、リウはそんな視線が鬱陶しいのか、険しい顔を更に険しくし、首を横に振る。
「…その主様を含めて、全員が殺されたのは、いつくらいなんだ?」
「詳しくは分からない…。我を主様が拾ってくれて数ヶ月が過ぎで…。リウがまだこのくらいだった頃だ」
そう言うと、スクレはリウの太腿あたりを蜘蛛の脚で指す。
まぁ、それならリウが覚えていないのも無理はない。
そして、そのくらいということは、“あれ”からそう時間が経たぬうちに、襲撃があったということか。
…それにしても、一体何処の誰が?
当時はまだ、魔王とも繋がりが無かった時期のはず…。
…随分ときな臭い話になってきた。
「…リウちゃんがいなくなった後、スクレちゃんはどうしたの?リウちゃんを探そうとはしなかったの?」
あたりの物色が終わったのか、フーが立つ隣の窓際に腰掛けた姉が問い掛ける。
「もちろん探した…。だが、屋敷の全てを探しても、リウはいなかった…」
「外は?」
「そ、外には出なかった…。主様はもちろん、他の“家族”たちを“弔う”必要があったから…」
「弔うねぇ…。まぁ、どんな信条があるにせよ。後でアルちゃんに診てもらった方が良いのは確かね~」
ちらりと姉がこちらを見やる。
「…別に診るのは構わないが、まずは風呂に入ってくれないか?」
「んもぉ!そういうデリカシーの無いことばっかり言ってるから、結婚も彼女ちゃんも出来ないのよ!」
「人の事言えないだろ…。むしろ、歳上なんだから、あんたの方がそろそろ…」
「はぁ~い!この話お終い!お姉ちゃんの傷つく話は禁止!」
姉は大袈裟に両手を振り、話を遮る。
…どうやら、スクレなりの“弔い方”に、余計な詮索をするつもりはないらしい。
「分かった、分かった…。なら、次は此処で何が行われていたのかを、屋敷を案内しながら教えてくれないか?」
「…」
再びちらりとリウの方を見た後、スクレは静かに頷き、部屋を出るための扉を開けて廊下へと出る。
その後に続こうとした時、窓際に立ち、夜風を浴びていたフーが慌てた様子で声を上げた。
「ちょ、ちょっと…!まだ何かするの!?もうこんな真っ暗なのよ!?」
「別にお外には出ないわよ?」
「外じゃなくたって、この部屋に来るまで真っ暗だったじゃない!それに、こんな薄汚い廃墟を歩いてたら、服が汚れちゃうし、匂いだってつくでしょ!?」
「今更だろ」
「な、何よりも、私はもう疲れたのよ!これ以上歩けないんだから!」
「…」
付き合い切れないとばかりに、リウはさっさと廊下へと出て行ってしまう。
…お前が連れて来た女じゃないのか。
ため息を吐きながら、姉と顔を見合わせる。
「じゃあ、フーちゃんは此処で待ってたらどう?たぶん、一時間くらいしたら、帰って来ると思うけど…」
「な、なら、リウを置いていってよ…!」
「それはだ~め。リウちゃんのために此処へ来たんだから、リウちゃんが見て回らなきゃ意味ないでしょ?」
「見るところなんか無いじゃない!こんなごみだらけの屋敷!それに、もうこんなに暗いのに、泊まるところはどうするのよ!?」
「えっ?此処に泊まればいいじゃない?」
「ふざけないでよ!?」
苛立たしさを少しでも発散するためか、フーは地団駄を踏む。
その度に、燭台の微かな明かりしかない部屋にも関わらず、大量の埃や塵が舞っているのが見える。
まぁ、彼女の言い分は分からないではない。
何故ついて来たのかは聞かされてはいないが、こんな廃屋敷に興味がある人間など、その手の愛好家か、俺たちの様に、この屋敷に縁のある者たちだけだろう。
それ以外の者たちからしたら、ただ薄汚れた、不気味な屋敷に過ぎないはずだ。
もっとも、こちらは縁があるだけに、本気で探索しなくてはならない。
故に、邪魔をするならば、最悪は…。
紐を切られ、使い勝手悪くなったポーチの中を探る。
だが、姉はそんな俺の腕を掴んだ。
「う~ん…。じゃあ、これで良い?」
そして、静かに指を鳴らす。
すると、フーの立っていた近くの窓から、大量の夜風が部屋へと舞い込み、部屋の中をぐるぐると何周か回ると、再び外へと出て行った。
「もう!何なのよ!今の風…あれ?」
ぐしゃぐしゃになってしまった髪に手を当てていたフーが、不意に部屋の中を見渡し、あたりの匂いを嗅ぐ。
「あれ?変な匂いがしない…。それに、埃も…」
確かに、部屋からあの異臭が消えている。
更に不思議なのは、あれだけの突風にも関わらず、燭台に灯った火はまるで消えず、棚などに置かれた雑貨類も床には落ちていない。
「んふふ。これなら、暫く此処に居ても良いでしょ?椅子もベッドもあるし、少しくらい待っていられる?」
「…わ、分かったわよ。で、でも、すぐに帰って来るのよ!?」
「はぁ~い」
のんびりとした返事をすると、姉はこちらを引っ張る様に部屋を出る。
「…では行くぞ?」
既にリウと共にこちらを待っていたスクレが、また足音もなく通路を進んでいく。
その後を追いかけながら、そっと姉を小突き、その耳に顔を寄せる。
「何故、あんな女を連れて来たんだ?知られて良いことなんざ何にも無いはずだ。お互い、百害あって一利なしだぜ?」
「う~ん、まぁ、何となく?」
「何となくで、無関係な人間を巻き込むなよ…」
「でも、せっかくリウちゃんが仲良くしてる子だし、このまま縁を切ったら勿体無いかなって…。それに、あの子、きっとリウちゃんにホの字だし!」
「理由になってない気もするだが…。それと、リウとあんな女が付き合って欲しいのか?」
「ん~ん、やだ」
「矛盾し過ぎだろ…」
「んふふ!まぁ、あの子のことはどうでも良いじゃない?これでリウちゃんが少しでも真実を知って、私たちのことを思い出してくれれば、それで…」
スクレの隣を無言で歩き続けるリウの後ろ姿を見つめる。
もちろん、リウが俺たちのことを思い出し、“協力”さえしてくれれば、あの女がいようといまいと、さして関係はないのも確かだ。
しかし、余計なことを知られ、こちらの不利になる可能性があるのなら、そんな危険は犯さないことが一番のはずだ。
「それにしても~。アルちゃんはどうして此処へ~?リウちゃん探し?」
「兄貴からの命令さ。リウの“故郷”が見つかったから、探索して来てくれとよ」
「ふ~ん…。それだけ?」
「…研究が行き詰まったんでね。何かそれらしい資料を探しに行って来いとよ」
「なるほどねぇ~。リウちゃんがいたってことは、“彼女”がいたってことだもんねぇ~」
「まぁ、まさか、あんな奴がいるとは思ってもみなかったがな。それに、どうやら俺たちの知らないこともあるみたいだからな。よ~く、探索させてもらうさ」
「んふふ!頑張ってね~!」
姉は満面の笑みでこちらの頭を撫でると、リウたちと少し開いた距離を埋めるため、さっさと先を歩いて行ってしまう。
…やはり、食えたものではない。
兄もそうだが、この姉もまた何を考えているのか読めたものではない。
リウをここへ連れて来た理由もいまいち分からないし、あの女を同行させた理由も読めない。
そもそも、姉が何のために行動しているのか、そこが既に分からない。
…注意するに越したことはないな。
「此処が主様の部屋だ…」
屋敷の二階端の部屋へと俺たちを通したスクレは、少し切なげに告げた。
他の部屋よりも幾分か広々とした部屋には、大きめのベッドとその近くに机と椅子、そして、クローゼットがあるだけで、それ以外の家具は見当たらない。
あれほど読書好きだったにも関わらず、本棚は無かった。
「…主様はどんな人だったの?」
無言でベッドを見つめていた姉が、顔を向けず尋ねる。
「…お優しい人だった。こんな形の我を、リウと同じく“家族”と呼んでくださり、よく抱きしめてくださった」
「…そう。他には?」
「他に…。あぁ…そうだ。時折ではあるが、ひどく悲しげな表情を浮かべる時があった。訳を聞いても教えてはくれなかったのだが、我とリウが寝入った頃、誰かの名前を呼ぶことがあったのだ…。確か…」
「プレシエンツァ…。ペルメル…。アル・ハイル・ミッテル…。ガルディエーヌ…。ターイナ…。アトゥ…。違う?」
少し寂しげな笑みを浮かべる姉とは裏腹に、スクレは嬉しげに、何度も頷く。
「そう、そうだ…!確か、そんな名前だった…!だが、何故その名を…?」
スクレは不思議そうな顔を姉へと向ける。
姉はちらりとリウの方を見やるも、リウは何も言わずに壁へと寄りかかっていた。
そんなリウの反応が面白いのか、姉はくすくすと笑い、再びスクレの方へと顔を向けた。
「それはね、私がペルメル、だから…」
▽
リウと再会したこともあるのだろうが、それ以上に、よほどリウ以外の“家族”がいたことが嬉しかったのか、初めこそ困惑していたスクレだったが、姉が創り出した風呂に共に入るなど、既に懐き始めている。
また、そんなスクレの素直な性分が可愛いのか、姉もそのお節介を焼き続けている。
…ただ、正直な話、急に正体を明らかにした時は、心臓に悪かった。
幼子だったリウはともかく、明らかに“彼女”のことを記憶し、未だ愛しているスクレが、その“仇”を討たんと襲いかかって来る可能性もあったからだ。
だが、そんな不安は杞憂に終わった…。
それはつまり、“彼女”がリウやスクレに、俺たちへの恨み言を告げなかったということだろう…。
育ての恩を仇で返し、死ななかったとはいえ、重傷を負わせた俺たちのことを…。
…全く、おかしな人だ。
もっとも、だからといって、“彼女”に対するこちらの罪が消えた訳でも、許された訳でもない。
だからこそ、この亡骸と死臭に塗れた地下室から探し出さねばならない。
創り出した者に、偽りのない“命”を吹き込む方法を。
こうして“家族”たちを喰らい始めてから、どれほどの時が経つだろう…?
肉が腐り落ち、もはや骨となり果てた、憐れな家族たち…。
弔うため…。
悲しみや怒りを共にするため…。
そして…。
生きるため…。
その小さく、脆い骨を噛み砕く。
あぁ…。
主様、我はいつまでここに居れば良い…?
いつになったら、“リウ”を探しに行ける…?
あぁ…。
リウ…。
▽
空を隠す程に生い茂る葉に体を分散させながらも、それでもまだ大粒の雨が、頭上から叩きつけてくる。
もはや風雨を防ぐことすらまともに出来なくなりつつあるマントを、気休め程度に羽織り直す。
かれこれコハブを出発して三日、マントだけでなく、腰から下げたポーチ、そして、何より身心もぼろぼろになってきている。
だというのに、目的地は着かないどころか、見つかってすらいない。
…全く嫌になる。
ぐちゃぐちゃと粘度を増し、歩き辛くなった、道とも呼べぬ泥濘みをひたすら歩く。
雨故、何処かで休憩したい気持ちもあるのだが、今更雨が降り止むのを待つ余裕もないし、必要性もない。
もはや地図があるとて、こんな“山奥”ではおおよその位置すら掴めはしないのだから。
俺がこの山奥、というよりも、この山しかない国、“ハル”へと来た理由は、他でもない、プレシエンツァの兄貴から、珍しく命令があったからだ。
“彼の故郷が見つかった。ここを調べて欲しい”
もはや、報酬の話さえなく命令されることに、怒りを通り越し笑いすらその時には出て来たものだが、今更ながら、あのスカした顔面に一撃食らわせておけば良かったと後悔している。
それにしても、まさかこんな山しかないハルへ来ることになるとは思わなかった。
およそ三年前のあの計画後、ガルやアトゥはそれぞれの望む生活を手に入れたようだが、リウの奴はまた姿を消した。
まぁ、あの可愛いチビ助を置いていったのだから、すぐ近くにいるはずだ、放っておいても、その内に帰ってくる。
そう伝えたのだが、相変わらず小さい弟には甘々な兄と姉は、それぞれに奴のことを追いかけ始めたようだった。
もっとも、彼らが焦る理由も分かる。
あらゆる魔物の血液、すなわち、“命”を集め続けているが、やはりどうも人のそれとは違うらしい。
血肉にはなれど、“核”にはならなかった。
正直、苦労して手に入れたあのヨルムンガンドの血ですら、他の魔物たちのもの同じだったのはショックだった。
…あの鱗を破るための酸を作るのはかなり苦労したんだがな。
となれば、やはり人の“命”を吸い取り、ある程度ながら利用できるリウの存在は不可欠ということだ。
結果、姉はリウ同様すぐに姿を消し、兄はその独自の情報網で捜索を続けた。
そして、故郷”がこのハルで見つかった。
といっても、木の葉を隠すなら森の中とはよく言うが、実際、こんな山奥では、言葉通りの意味で、その“故郷”を見つけるのは一苦労だ。
本当にこんな山奥に“故郷”があるのかね…?
マント内の水分が飽和し、行き場を無くした水滴が、その下の服を濡らし始めた頃、ようやくリウの“故郷”らしき建物を見つけた。
…なるほど、そっくりだな。
まるで隠れる様に、人里離れたこんな山奥に建てられているあたり、到底誰かの別荘とは思えない。
それに、十年以上の歳月を経て、周囲の自然に呑み込まれつつも、その原型だけは失わぬこの大きな屋敷には見覚えがある。
だが、心は深い感慨にも浸らず、濡れない場所を第一に所望していた。
似ているというだけで、別に良い思い出がある訳でもないのだ。
軒下となっている玄関へと駆け込み、水没したマントを脱ぎ、濡れていない場所へと腰を下ろすと、久しぶりの運動に悲鳴を上げる足腰を労いつつ、ポーチから地図を取り出す。
もはや、こんな山だらけの地で、緑に塗りたくられただけの地図が何の意味も持たないことは分かっている。
しかし、おおよその感覚ながら、ここがどの辺りなのかを調べる必要性はある。
…逃げられなくはないか。
正しいか分からぬが、おそらく、ここはテールとの国境からそう離れてはいない、かつ、シエルからもそう遠くない場所のはずだ。
ハルとシエルは接してこそいないが、間にテールの微かな領土があるだけで、距離としてはそう遠く離れてはいない。
テールとシエルの国境付近からここまで逃げてくるのは、そう難しいことではないのかもしれない。
…まぁ、今更どちらでも良いが。
無意味な地図を折り畳み、ポーチへと仕舞うと、太腿あたりに喝を入れながら立ち上がる。
そして、触ることを躊躇う程の感触となったマントを玄関の外れかかったドアノブへと掛け、片方の扉を開く。
「うっ…」
扉を開きかけた瞬間、異常な匂いが鼻を突いた。
何の匂いとも形容し難いその匂いは、まるで意思を持ったかの様に鼻を通り抜け、脳や胃の気分を悪くする。
仕方なく、ポーチから手拭を取り出し、簡単に眼鏡に付着していた水滴を拭き取った後、口や鼻を覆う様に顔へと巻く。
もっとも、それでも匂いを完全に遮断することは出来ない。
…これなら、まだ雨に濡れている方がマシだ。
振り返り、新鮮な空気で肺や鼻腔、脳などを洗うと、意を決して屋敷の中へと踏み込む。
全ての窓はカーテンが閉められているらしく、屋敷の中はひどく暗い。
微かな光源は、そのカーテンが劣化し、穴や切れた部分から入ってくる、外の光だけだ。
これではまともに“探し物”も出来ない、そう考え、近くにあった燭台を取り、火を灯す。
温かな光が、陰鬱で異質な空気に満たされた屋敷の中を照らしてくれる。
玄関ホールを見渡す限り、どうやら構造自体はあの“屋敷”と変わらないらしい。
となれば、一階から順に調べ行き、最後に二階か…。
異臭を少しでも抜き、出口である玄関ホールが分かりやすいように、玄関の扉を開けたまま、一階の通路を見やる。
「落書きのない心霊スポットはごめんなんだかな…」
何も出ないことを神にでも祈りながら、屋敷の探索を開始した。
▽
荒んだ絨毯や壁、割れた窓から紛れ込んだらしい枯葉、そして、この気分の悪くなる気に入らない異臭は屋敷中同じだ。
また、どの部屋においても、故意に荒らされた形跡が見当たらない。
机に乗っていたであろう紙やペンなどが散乱している部屋もあるのだが、机の引き出しや書棚など、通常ならば最も怪しまれる箇所は全て整っており、埃が山の様に綺麗に積もっている。
もう一つ不自然なのは、明らかに血溜まりだったであろう汚れの傍に、その血液の落とし主が居ないことだ。
この屋敷において、何が起こったのかは知らないが、多くの者たちが命を落としたことは、何となく察せられる。
しかし、至る所に赤黒い大きな島を浮かべているにも関わらず、島の持ち主の亡骸は全く見当たらない。
“持ち去られた”?
…いや、それはない。
もしもここに居た者たちの亡骸を全て回収するだけの脳があるのなら、各部屋の資料がこうも綺麗に残っているはずはない。
亡骸と共に処分されているはずだ。
では、この血痕の主は何処へ…?
本来の目的である“探し物”を隈なく探しつつも、二度とこんな屋敷に御使いに出されないために、兄が気にかけそうなことは徹底的に調べていく。
フェンガリの時の様に、雑な調査では許されない。
…そういえば、あの時期から、あからさまという程ではないが、ビルゴの態度が悪くなっている。
プレシエンツァの兄貴が何か余計な事を言ったのか、あるいは“ラミア”の一件がバレたのか。
はっきりとした理由は分からないが、こちらへの警戒心と、微かな殺意を滲ませているのは確かだ。
もっとも、いずれは殺される覚悟で、告げねばならない事ではある。
怖がるだけ無意味か…。
しかし、思えば、ガルもアトゥも目的があるにせよ、それなりに自分たちの望んだ生活を送っている。
目的を重視している兄には悪いが、この一件が終わったら、ビルゴとの仲を保つためにも、一度研究を休止させても良いかもしれない。
家族か…。
友か…。
俺は二つとも取らせてもらうさ。
屋敷の一階をぐるりと一周し、再び玄関ホールへと戻って来る事が出来た。
目的の物は見つからなかったが、いくつか収穫はあった。
鼻も完全に馬鹿になり、異臭を特に気にせず残る二階へと上がろうと、玄関扉真正面にある階段へと向かう。
階段は手に持つ燭台の微かな明かりにのみ照らされている。
…何故だ?
一瞬気がつかなかったが、いつの間にか、玄関の扉が閉まっている。
それ故、先ほどまではよく見えていたはずの階段が、燭台の光によってのみ、朧げに照らされているのだ。
じわりと、気色の悪い冷や汗が、額や背に滲む。
風か何かで閉まったのだろうか…?
周囲の暗闇に五感を研ぎ澄ませながら、扉へと近づき、ドアノブに手を掛ける。
…回らない。
「まじかよ…」
あまりのショックで、その場にさっとしゃがみ込む。
その瞬間、ほんの一瞬前まで自身の首があったあたりを、鋭く尖った風が音を連れ回す程の速度で過ぎ去った。
「曲がった鼻が、更に捩じ切れそうな匂いだ…」
ポーチに入れておいた試験管を真後ろへと放り投げる。
すると、ぱりんという、試験管が弾ける音と共に、屋敷を揺らす程の獣の様な甲高い叫び声が上がった。
「いつからか、この匂いが強くなった気がしたんでね。用心しておいたんだが…。どうやら、正解だったらしい」
そっと、立ち上がり、いつの間にか背後に回っていた者の姿を燭台で照らす。
「…ひどいな」
率直な感想ではあるが、それ以上に適切な言葉が見つからなかった。
いつの間にか背後に立っていた“少女”は、両腿あたりから生えた蜘蛛の様な細長い八本の脚を器用に使い、後退する。
そして、ヨルムンガンドの鱗をも溶かす酸を浴びたらしい、背中から生えた、人の物とは明らかに違う、四本の内の一本の手を絨毯や床へと擦り付けている。
多くの人や魔物たちを診てきたが、ここまで嫌悪感がこみ上げて来る姿形をした者たちはいなかった。
「…お前は誰だ?人間か?それとも魔物か?」
おそらく本体であろう、血塗れの布切れで必要最低限の部位だけを隠し、口周りと白髪に赤黒く固まった物をつけた“少女”へと尋ねる。
だが、その口からまた、獣の様な甲高い叫び声を上げて、“少女”はこちらへと向かって来た。
背中に生えた四本の腕は、鱗に覆われるもの、毛に覆われるもの、植物の根で創り上げられたもの、瓦礫の様な物で創り上げられたものがあり、それぞれがこちらの体を引き裂き、叩き潰そうと攻撃を仕掛けてくる。
“少女”の体から生える人の手よりも、二回り以上も大きなその腕たちは、互いにぶつかり合うこともなく、壁や朽ちかけた装飾など破壊しながら、間髪無く振り回され、どんなに距離を取っても、その蜘蛛の脚で追いかけて来る。
「全く、厄か…うぉっ!?」
少女の攻撃を飛び退きながら回避し、相手の特徴をより観察していたのだが、暗がりの中を足元も見ずに後退したせいか、突然何かに躓いた。
その瞬間、背中に生えていた腕よりも早く、蜘蛛の様な細長い脚が腰に下げたポーチの紐を、ぷつりと切り裂き、奪い取る。
「おいおい、まじかよ…!」
躓いた時に落とした燭台などその場に捨て置き、慌てて通路を逃げ出す。
あれを取られてはもはやどうすることも出来ない。
こちらは戦うよりも、後方支援が専らの役職なのだ。
ある程度暗闇に慣れた目で通路を走り、目に入った部屋へと飛び込む。
幸運にもあの“少女”は追いかけては来なかった。
だが、逃げて来た通路の先からは、ぱりん、ぱりん、と大事な数少ない武器たちが壊されている音が聞こえる。
…完全に読みが外れた。
人らしい声や態度すら取れぬ、醜い獣か何かと思っていたが、決してそうでは無いらしい。
明らかに、奴はあのポーチを狙っていた。
あれに武器となる物が入っていることを学習したのか、あるいはただ単に検討をつけたのかまでは分からないが、こちらを攻撃するよりも優先して、意図的にポーチを奪い取ったのは確かだ。
「人は見かけによらないな…」
もっとも、人とも呼べないが…。
しかし、どうしたものか?
そもそもあんな化け物相手に、正面切って戦えるものではない。
仮に殺すことを考えるのならば、不意打ちによる攻撃でなくてはならない。
しかし、手持ちに武器らしい武器はない。
屋敷の中を探せばあるかもしれないが、少なくとも一階にはそれらしい物が無いのは、先ほどの探索で承知済みだ。
そうなると、選択肢はかなり絞られてくる。
二階などの行っていない箇所を探索、武器を見つけ出し、奴と再び対峙する。
あるいは、奴とは対峙せず、“捜し物”だけを探し出し、さっさとここから逃げ出す。
または、何もせず、ここから逃げ出す。
およそ、この三つだろう。
だが、この三つの選択肢を選ぶ前に、一度あの“少女”について、落ち着いて考える必要もある。
何故なら、あの“少女”の様に、人と魔物が入り混じった存在を、ターイナの奴が創っているのを思い出したからだ。
しかし、ここまで醜悪なものが出来上がったところを見たことはないし、皆、それなりに話せ、命を救ってくれたターイナに感謝し、共に生活することが出来る程には友好的であったとも記憶している。
ともすると、あの“少女”はターイナの創り上げたものの一つではなく、ターイナ以外の誰かが創り上げたものと考えた方が良いかもしれない。
だが、ターイナ以外にあんなものを創ることが出来る奴などいるだろうか…?
…思い当たる節はある。
「ま~た、あんたかぁ…?」
てへぺろ、と悪意ある笑みと、小さく舌を出した姉の顔が脳裏に浮かぶ。
全く、三年前の蹶起といい、今回といい、余計なことばかりをしてくれるものだ…。
姉に責任を被せると、一気に疲労感が全身を襲い、立っていることさえ馬鹿らしくなってしまう。
音を立てぬよう、扉に背を預けながら腰を下ろす。
廊下からは何の音も聞こえない。
あの“少女”からそれなりに離れた位置に隠れたとはいえ、廊下くらいは追いかけて来るとも思ったが、それらしい足音もない。
まだあのポーチの中を掻き回しているのだろうか?
ならば、姉のせいで疲労感が一気に表に出てきた体を休ませながら、再び先ほどの選択肢についてゆっくり考えさせてもらおう。
武器を探し、戦う場合と、“捜し物”を探し出し、逃げる場合だが、どちらの場合でも、まずは二階に上がらねばならない。
しかし、その二階に上がるためには、少なくとも先ほど探索した限りでは、ホールのもの以外、使えそうな階段はなかった。
つまり、あの“少女”に襲われたホールに再び戻らなくてはならないということだ。
…もう却下したい選択肢だ。
だが、このまま逃げ出したとして、安全な場所まで逃げ果せるとも限らない。
微かに揺れるカーテンの隙間から、外の様子を眺めると、空を暗い雲が覆い、かつ生い茂る葉のせいで、外は既に暗くなりつつある。
時計もあのポーチと共に置きざりにしたため、正確な時刻まで分からないが、人の目が効かなくなるまでそう時間はかからないはずだ。
この屋敷の異臭を強く放っていることから、おそらく“少女”はこの屋敷を根城にしている可能性が高い。
しかし、だからといって山の中を追いかけて来ない保証はどこにもないし、暗く足元の悪い山道を、あの“少女”から無事逃げ切れるとは正直思えない。
自然、逃げ出す選択肢が消える。
…ほんと、どうしたものか?
薄汚れた壁や天井を見つめながら、ぼんやりと考える。
すると、背後の廊下から微かな気配、そしてあの異臭が漂って来ていることに気がついた。
そっと、物音を立てぬよう、体勢を変え、扉へと耳を近づける。
だが、おかしなことに物音は何一つしない。
あの嗅覚を殺す様な異臭と、何かが動き、それと共に淀んだ空気が動く微かな流れは感じるが、歩く音は全く聞こえない。
尚且つ、その異臭と気配は、止まることもなくひたすらにこちらへと近づいて来る。
通路には、この部屋以外にも多くの部屋が並んでいる。
虱潰しにこちらを探し、扉を開ける音を立てるばなら分かるが、何故他の部屋の扉を開けず、こちらへと近づいて来る…?
それとも、ただ通路を徘徊しているだけなのか…?
おそらくあの“少女”であろう気配が通り過ぎることを期待しつつ、扉から耳を離さずにじっと息を殺す。
…止まった。
微かな希望を打ち砕かんばかりに、異臭と気配は扉の前で止まった。
静かに立ち上がろうと、床へ手をつく。
ぴちゃり…。
湿った絨毯は、冷たく、気色の悪い感触と共に小さな音を立てる。
見ると、床の絨毯にくっきりと足跡が付き、座っていた箇所には小島が出来ていた。
そういうことか…。
納得した瞬間、目の前にあった扉を突き破り、あの鱗に覆われた拳が飛んできた。
慌てて防御の構えるが、相殺出来るような威力ではなく、吹き飛ばされた体は窓ガラスを突き破り、外へと放り出される。
「ぐっ…!」
薄暗くなりつつあるが、未だ冷たい雨が打ちつける外の、泥濘んだ地面の感触が気持ち悪い。
すぐにでも立ち上がり、その場から逃げたかったが、あの攻撃はかなり重い一撃だったらしく、情け無くも、上手く体に力が入らない。
辛うじて動かせそうな顔だけを屋敷の方へと向ける。
すると、そこには、窓枠を乗り越えようとする“少女”の姿があった。
…恨むぞ、馬鹿兄貴と馬鹿姉貴。
「ま~た、そうやって服汚してぇ…。だ~れが洗濯すると思ってるの、もぉ…!」
容赦なく打ちつける雨と、泥濘みを増していく地に身を任せていると、聞き覚えのある苛立たしい声と、いくつかの足音が聞こえてきた。
再び顔だけを動かし、声のした方を見つめる。
そこには、姿形の全く変わらない姉と、多少顔つきの変わったリウ、そして、その二人に隠れる様にしてこちらの様子を伺う、紅色の髪の如何にも貴族らしい格好をした女が立っていた。
「…どうして此処が?」
「う~ん、話せば長くなるから、その話は後にして?ねぇ、それよりアルちゃん、あれ、彼女ちゃん…?」
姉の指差す先など見ず、動かせる範囲で、精一杯首を横に振る。
すると、姉はほっとしたように胸を撫で下ろした。
「良かった~。リウちゃんに続いて、アルちゃんまで変化球投げてきたら、お姉ちゃん心臓麻痺起こしちゃう…」
相変わらず呑気なことを言っている姉に、微かな苛立ちが募るものの、心地よい安心感が身心を包み込んでくれた。
「…まぁ、そういうことらしいから~。リウちゃん頑張れ~!」
泥だらけの俺を姉が立ち上がらせると、自然、窓枠を乗り越え、こちらの様子を伺っていた“少女”の前にリウが立ち塞がる。
その異形な姿には何の反応も示さず、リウは静かに戦闘の構えを取る。
背中には杖らしき物が背負われているが、それを使う気はないらしく、あくまでも拳や蹴りなどという原始的な攻撃で戦う気のようだ。
あの“少女”に素手で挑むことは無謀だ…!
それを伝えようと、息を大きく吸い込んだ時だ。
「リウ…?リウなのか…?」
雨に紛れてしまいそうなほど小さく、か細い声が確かに聞こえた。
見ると、リウと相対する“少女”の顔が驚きと困惑、そして、喜色の入り混じったものへと変わり、その動きは明らかに辿々しいものとなっている。
「リウのことを知っているのか…?」
「う~ん…。でも、リウちゃんは覚えは無いみたいよ?」
確かに、覚束ない足取りでこちらへと近づいて来る“少女”に対して、リウは構えを解こうとはしない。
…余計に話が複雑化し、分からなくなってくる。
「…というより、姉貴の工作物じゃないのか?」
「私の?どうして?」
「あの手足は明らかに魔物のものだ…。そんな物をあんな風に継ぎ接ぎ出来るのは、姉貴とターイナくらいだろ?」
「う~ん…。それもそうねぇ…。でも、私があんな可愛い子に、あんな酷い手足付けると思う?」
「なら、誰が…?」
姉が創ったものではないとしたら、ターイナが創ったということだろうか?
しかし、だとしたら、何故こんな場所にいる?
姉に肩を借りたまま、ぼんやりする頭で考えるが、疑問は解消されない。
「まぁ、それも本人から聞けば良いんじゃないかしら?ということで、リウちゃん、説得よろしく!」
姉はお気楽そうに手を振る。
リウは尚も構えを解こうとはしないが、“少女”が明らかにその拳などが届く範囲に入っても、攻撃を仕掛けようとはしなかった。
「リウ…。本当にリウか…?」
「…」
何の反応も返さぬリウの目の前まで来ると、“少女”はか細い人の手を静かに背へと回し、リウへと体を寄せる。
「良かった…。あぁ…本当に良かった…!」
そして、屋敷内で聞いた、あの到底人のものとは思えぬ咆哮とは打って変わり、“少女”はリウの胸の中で、声を殺した様に小さく泣き出した。
▽
「最っ悪…!吐きそうなんだけど!」
屋敷内、二階のとある一室の窓際に立ち、新鮮な空気を独り占めする、フーという名の女が、鼻をつまみながら、例の異臭に顔を顰める。
こちらは相当、鼻が馬鹿になったのか、一度外に出たとはいえ、さして気になる程ではなくなっていた。
…もっとも、例の“少女”、スクレから漂う異臭はまだきつく感じる。
「まぁ、推測が正しければ、十年以上は経っているからね~…。酷い匂いも仕方ないのかもしれないわね~…」
部屋の中の物を物色しつつ、姉は特に匂いを気にする仕草もなく告げる。
…なるほど、姉が何処でこの場所のことを知ったのかは分からないが、この屋敷に偶然来たという訳ではないらしい。
「…それで、まずあんたは何者なんだ?」
軽く埃を払った簡素な椅子に腰掛け、片時もリウの傍を離れようとしないスクレに尋ねる。
スクレはそっと、壁に寄りかかり、話だけは聞いているであろう、目を瞑るリウの方を一度見やると、小さな声で返事をする。
「我の名はスクレ、リウを守るため、主様が救い出してくれた存在だ。スクレと言う名も主様が名付けてくれた」
「…救い出しくれた存在ってのはどういう意味だ?」
「我は元々ここで使われていた研究材料に過ぎなかった…。そして、もはや不要と捨てられたところを主様が拾って下さったのだ」
「…ということは、その手足をくっつけたのは、その主様じゃないってことか?」
「そうだ。この手足を付けたのは、別の男であり、捨てるよう命じたのもそいつだ。だから、主様は我の存在を皆から隠してくれた」
「なるほど。…じゃあ、リウを守るってのは、誰から守るんだ?」
「詳しくは教えてはもらえなかった…。おそらくは、幼かったリウの様子を共に見守ってほしいという意味だったのではないかと、我は思う…。その時の主様は、動くことも難しい程の怪我を負っていたからな…」
悲しげな声で告げるスクレから目を逸らし、静かに姉の方を見やる。
姉は物色に夢中なのか、あるいは、それで気を紛らわせているのか、こちらを見ようとはしなかった。
「そうかい…。それで、ここで暮らしてた連中はどうしたんだ?お引越しか?」
「…主様も含め、皆殺されてしまった」
「殺された…」
…なるほど。
少々、予想外ではあったが、ある程度合点はいった。
まずこのスクレは、人や魔物ではなく、俺たちと“同類”、あるいはそれに近しい存在らしい。
そして、今更ながらに、姉やターイナ以外でも、こういったことの出来そうな人物を一人だけ思い出した。
いや、正確に言うならば、“彼女”のことを忘れたことはないが、まさか、自分たち以外の“工作物”がまだ存在するとは思ってもいなかった。
あの手足をくっつけたのは違う男らしいが、おそらく“彼女”が力を貸したのだろう。
しかし、まだ腑に落ちない部分が多くある。
「殺した連中は何者か分かるのか?」
「分からない…。その時、主様が我とリウを地下に隠してしまったから…」
「…その後は?」
「その後…。その後は…リウがいつの間にか消えてしまうまでは共に地下で暮らしていた…」
「消える?」
「あぁ…。日付などは分からなかったが、上から足音が聞こえ無くなって暫く経った頃だったはずだ…」
スクレを含め、全員がちらりとリウの方を見つめる。
しかし、リウはそんな視線が鬱陶しいのか、険しい顔を更に険しくし、首を横に振る。
「…その主様を含めて、全員が殺されたのは、いつくらいなんだ?」
「詳しくは分からない…。我を主様が拾ってくれて数ヶ月が過ぎで…。リウがまだこのくらいだった頃だ」
そう言うと、スクレはリウの太腿あたりを蜘蛛の脚で指す。
まぁ、それならリウが覚えていないのも無理はない。
そして、そのくらいということは、“あれ”からそう時間が経たぬうちに、襲撃があったということか。
…それにしても、一体何処の誰が?
当時はまだ、魔王とも繋がりが無かった時期のはず…。
…随分ときな臭い話になってきた。
「…リウちゃんがいなくなった後、スクレちゃんはどうしたの?リウちゃんを探そうとはしなかったの?」
あたりの物色が終わったのか、フーが立つ隣の窓際に腰掛けた姉が問い掛ける。
「もちろん探した…。だが、屋敷の全てを探しても、リウはいなかった…」
「外は?」
「そ、外には出なかった…。主様はもちろん、他の“家族”たちを“弔う”必要があったから…」
「弔うねぇ…。まぁ、どんな信条があるにせよ。後でアルちゃんに診てもらった方が良いのは確かね~」
ちらりと姉がこちらを見やる。
「…別に診るのは構わないが、まずは風呂に入ってくれないか?」
「んもぉ!そういうデリカシーの無いことばっかり言ってるから、結婚も彼女ちゃんも出来ないのよ!」
「人の事言えないだろ…。むしろ、歳上なんだから、あんたの方がそろそろ…」
「はぁ~い!この話お終い!お姉ちゃんの傷つく話は禁止!」
姉は大袈裟に両手を振り、話を遮る。
…どうやら、スクレなりの“弔い方”に、余計な詮索をするつもりはないらしい。
「分かった、分かった…。なら、次は此処で何が行われていたのかを、屋敷を案内しながら教えてくれないか?」
「…」
再びちらりとリウの方を見た後、スクレは静かに頷き、部屋を出るための扉を開けて廊下へと出る。
その後に続こうとした時、窓際に立ち、夜風を浴びていたフーが慌てた様子で声を上げた。
「ちょ、ちょっと…!まだ何かするの!?もうこんな真っ暗なのよ!?」
「別にお外には出ないわよ?」
「外じゃなくたって、この部屋に来るまで真っ暗だったじゃない!それに、こんな薄汚い廃墟を歩いてたら、服が汚れちゃうし、匂いだってつくでしょ!?」
「今更だろ」
「な、何よりも、私はもう疲れたのよ!これ以上歩けないんだから!」
「…」
付き合い切れないとばかりに、リウはさっさと廊下へと出て行ってしまう。
…お前が連れて来た女じゃないのか。
ため息を吐きながら、姉と顔を見合わせる。
「じゃあ、フーちゃんは此処で待ってたらどう?たぶん、一時間くらいしたら、帰って来ると思うけど…」
「な、なら、リウを置いていってよ…!」
「それはだ~め。リウちゃんのために此処へ来たんだから、リウちゃんが見て回らなきゃ意味ないでしょ?」
「見るところなんか無いじゃない!こんなごみだらけの屋敷!それに、もうこんなに暗いのに、泊まるところはどうするのよ!?」
「えっ?此処に泊まればいいじゃない?」
「ふざけないでよ!?」
苛立たしさを少しでも発散するためか、フーは地団駄を踏む。
その度に、燭台の微かな明かりしかない部屋にも関わらず、大量の埃や塵が舞っているのが見える。
まぁ、彼女の言い分は分からないではない。
何故ついて来たのかは聞かされてはいないが、こんな廃屋敷に興味がある人間など、その手の愛好家か、俺たちの様に、この屋敷に縁のある者たちだけだろう。
それ以外の者たちからしたら、ただ薄汚れた、不気味な屋敷に過ぎないはずだ。
もっとも、こちらは縁があるだけに、本気で探索しなくてはならない。
故に、邪魔をするならば、最悪は…。
紐を切られ、使い勝手悪くなったポーチの中を探る。
だが、姉はそんな俺の腕を掴んだ。
「う~ん…。じゃあ、これで良い?」
そして、静かに指を鳴らす。
すると、フーの立っていた近くの窓から、大量の夜風が部屋へと舞い込み、部屋の中をぐるぐると何周か回ると、再び外へと出て行った。
「もう!何なのよ!今の風…あれ?」
ぐしゃぐしゃになってしまった髪に手を当てていたフーが、不意に部屋の中を見渡し、あたりの匂いを嗅ぐ。
「あれ?変な匂いがしない…。それに、埃も…」
確かに、部屋からあの異臭が消えている。
更に不思議なのは、あれだけの突風にも関わらず、燭台に灯った火はまるで消えず、棚などに置かれた雑貨類も床には落ちていない。
「んふふ。これなら、暫く此処に居ても良いでしょ?椅子もベッドもあるし、少しくらい待っていられる?」
「…わ、分かったわよ。で、でも、すぐに帰って来るのよ!?」
「はぁ~い」
のんびりとした返事をすると、姉はこちらを引っ張る様に部屋を出る。
「…では行くぞ?」
既にリウと共にこちらを待っていたスクレが、また足音もなく通路を進んでいく。
その後を追いかけながら、そっと姉を小突き、その耳に顔を寄せる。
「何故、あんな女を連れて来たんだ?知られて良いことなんざ何にも無いはずだ。お互い、百害あって一利なしだぜ?」
「う~ん、まぁ、何となく?」
「何となくで、無関係な人間を巻き込むなよ…」
「でも、せっかくリウちゃんが仲良くしてる子だし、このまま縁を切ったら勿体無いかなって…。それに、あの子、きっとリウちゃんにホの字だし!」
「理由になってない気もするだが…。それと、リウとあんな女が付き合って欲しいのか?」
「ん~ん、やだ」
「矛盾し過ぎだろ…」
「んふふ!まぁ、あの子のことはどうでも良いじゃない?これでリウちゃんが少しでも真実を知って、私たちのことを思い出してくれれば、それで…」
スクレの隣を無言で歩き続けるリウの後ろ姿を見つめる。
もちろん、リウが俺たちのことを思い出し、“協力”さえしてくれれば、あの女がいようといまいと、さして関係はないのも確かだ。
しかし、余計なことを知られ、こちらの不利になる可能性があるのなら、そんな危険は犯さないことが一番のはずだ。
「それにしても~。アルちゃんはどうして此処へ~?リウちゃん探し?」
「兄貴からの命令さ。リウの“故郷”が見つかったから、探索して来てくれとよ」
「ふ~ん…。それだけ?」
「…研究が行き詰まったんでね。何かそれらしい資料を探しに行って来いとよ」
「なるほどねぇ~。リウちゃんがいたってことは、“彼女”がいたってことだもんねぇ~」
「まぁ、まさか、あんな奴がいるとは思ってもみなかったがな。それに、どうやら俺たちの知らないこともあるみたいだからな。よ~く、探索させてもらうさ」
「んふふ!頑張ってね~!」
姉は満面の笑みでこちらの頭を撫でると、リウたちと少し開いた距離を埋めるため、さっさと先を歩いて行ってしまう。
…やはり、食えたものではない。
兄もそうだが、この姉もまた何を考えているのか読めたものではない。
リウをここへ連れて来た理由もいまいち分からないし、あの女を同行させた理由も読めない。
そもそも、姉が何のために行動しているのか、そこが既に分からない。
…注意するに越したことはないな。
「此処が主様の部屋だ…」
屋敷の二階端の部屋へと俺たちを通したスクレは、少し切なげに告げた。
他の部屋よりも幾分か広々とした部屋には、大きめのベッドとその近くに机と椅子、そして、クローゼットがあるだけで、それ以外の家具は見当たらない。
あれほど読書好きだったにも関わらず、本棚は無かった。
「…主様はどんな人だったの?」
無言でベッドを見つめていた姉が、顔を向けず尋ねる。
「…お優しい人だった。こんな形の我を、リウと同じく“家族”と呼んでくださり、よく抱きしめてくださった」
「…そう。他には?」
「他に…。あぁ…そうだ。時折ではあるが、ひどく悲しげな表情を浮かべる時があった。訳を聞いても教えてはくれなかったのだが、我とリウが寝入った頃、誰かの名前を呼ぶことがあったのだ…。確か…」
「プレシエンツァ…。ペルメル…。アル・ハイル・ミッテル…。ガルディエーヌ…。ターイナ…。アトゥ…。違う?」
少し寂しげな笑みを浮かべる姉とは裏腹に、スクレは嬉しげに、何度も頷く。
「そう、そうだ…!確か、そんな名前だった…!だが、何故その名を…?」
スクレは不思議そうな顔を姉へと向ける。
姉はちらりとリウの方を見やるも、リウは何も言わずに壁へと寄りかかっていた。
そんなリウの反応が面白いのか、姉はくすくすと笑い、再びスクレの方へと顔を向けた。
「それはね、私がペルメル、だから…」
▽
リウと再会したこともあるのだろうが、それ以上に、よほどリウ以外の“家族”がいたことが嬉しかったのか、初めこそ困惑していたスクレだったが、姉が創り出した風呂に共に入るなど、既に懐き始めている。
また、そんなスクレの素直な性分が可愛いのか、姉もそのお節介を焼き続けている。
…ただ、正直な話、急に正体を明らかにした時は、心臓に悪かった。
幼子だったリウはともかく、明らかに“彼女”のことを記憶し、未だ愛しているスクレが、その“仇”を討たんと襲いかかって来る可能性もあったからだ。
だが、そんな不安は杞憂に終わった…。
それはつまり、“彼女”がリウやスクレに、俺たちへの恨み言を告げなかったということだろう…。
育ての恩を仇で返し、死ななかったとはいえ、重傷を負わせた俺たちのことを…。
…全く、おかしな人だ。
もっとも、だからといって、“彼女”に対するこちらの罪が消えた訳でも、許された訳でもない。
だからこそ、この亡骸と死臭に塗れた地下室から探し出さねばならない。
創り出した者に、偽りのない“命”を吹き込む方法を。
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