神殺しの英雄

淡語モイロウ

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第二章

#36

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 夜が明けて訪れた朝の空気は、清々しさに満たされていた。
 だが、そんな心洗われるような爽気も今の憂鬱な気分を追い払うには足りない。

「はあ・・・」

 ため息が漏れる。
 沈んだ気持ちが身の内に収まりきらずに溢れて出たような吐息だった。
 住宅地の間を流れる川ーーーその上に架かる橋の上でソムはひとり、水面に映る自分の沈んだ面持ちを見つめていた。
 この町で唯一の刻印師であるリセト。口数が少なく、少々愛想にかけるものの誰からも頼りにされ、信頼される父親は、ソムにとって何よりの自慢であり、尊敬してやまない存在である。
 いつも忙しそうで、一緒にいられる時間は少なかったが、誰かのために一生懸命仕事に打ち込む姿に憧憬を抱いていれば、寂しさなんて感じることはなかった。
 いつか、父さんのような立派な刻印師になりたい。
 偉大な父親を持つ子供にとって、それは夢見て当然の理想。
 けど、それはまだ、ずっと先の話だ。今はただ憧れるばかりの日々がしばらくは続くと、それでいいのだと平穏な日常に満足していたのだが・・・
 半年前、あの男が町にやって来てから、全てが変わってしまった。

「この町だけでなく、訪れる人々や周囲の村々のために、是非とも貴方のお力を貸して下さい」

 穏やかな口調、丁寧な言葉で口上を述べた身なりのいい男。
 一見すると柔和な笑みを浮かべているように見えるその顔が、何故か酷く薄気味悪いように思えて、ソムは父親の背中に隠れてしまったことを覚えている。
 見た瞬間に凄く変だと、ちぐはぐに感じたのだ。
 子供の表現では上手く説明できないが、とにかく違和感しか感じられない男であった。
 そう感じたのはソムだけでなく、父も同じだったのだろう。
 いや、リセトはその慧眼で男の本性を即座に見抜いていたはずだ。
 何せ全てを聞き終えないうちに「断る」の一言を言い放ち、追い払ってしまったのだから。
 刻印師はすべからく、持てる技術を人々のために広く使うべしーーー
 常に刻印師としての信条を掲げるリセトにとって、男が提示した条件と理想は決して聞き入れられるものではなかったのだ。
 追い出された男が扉を閉める前に見せた顔ーーー今思い出してもソムは怖気が立つ。
 柔和な笑みで取り繕っていた下に隠されていたのは、鋭く冷酷な眼光と残忍さを滲ませる笑みだった。
 見た瞬間に、何か嫌なことが起こるような気がしたーーーそれは的中し、次の日から立て続けに二人を襲った。
 最初は家の周りや外壁が少々壊される程度だったが、日が経つにつれて段々と酷くなり、火をつけられるような嫌がらせが始まる。
 しばらくして治まったと思いきや、今度はならず者たちが因縁をつけてくるようになり、しかも被害に遭うのはリセトではなく刻印の処置を依頼した相手が狙われることが立て続けに起きた。
 こんなことが起きれば、以前のようにリセトへ依頼する者が減るのは当然である。しかし、深い付き合いの者たちはこっそりと依頼をすることで、何とかやっては来れたのだが・・・
 ある日、リセトが何よりも大事に保管してあった刻印証が忽然と消えてしまった。
 二人揃って、家を留守にした時である。
 物取りの仕業かと思ったが、それにしては家の中は荒らされた痕跡が一切ない。まるで刻印証のみを狙ったかのような手口は、犯人を明確に定めるには充分すぎたが証拠は一切なく、泣き寝入りする以外の方法はなかった。
 刻印証がなければ刻印師としての仕事は出来ない。
 それを誰よりも理解していながら、リセトは屈することも諦めることもせずに、刻印師であり続けた。
 もしバレたら、とんでもなく重い罪を科される。
 重罪を犯していることを重々承知の上で、それでも必要としてくれている人々のために、その腕を振るい続けた。
 しばらくは、そうやって人目につかずにやって来たのだが・・・
 遂に決定的なことが起きたのが、先日のこと。
 腕を折られたリセトは、これが最終警告なのだと言っていた。
 次はおそらく、刻印証を持っていないことを白日の下にさらされることになるだろう、と。
 リセトは刻印師を辞める決断を下した。
 息子であるソムをひとりきりにしないために。
 その想いでソムは、父からどれだけ愛されているか思い知ると同時に、語り尽くせないほどの無念も感じ取っていた。
 刻印師でなくても、二人くらいなら食っていける仕事ならいくらでもあると無理に笑って言うが、そうではない。
 ソムは、父であるリセトに刻印師であって欲しかった。いつの日か、自分がその跡を継ぐその時まで。
 水面に映るのは今にも泣き出しそうな、自分の顔。
 堪えきれない涙が一つ、こぼれて水面に落ちた時である。

「どうしたの?」

 すぐ間近、耳元から突然聞こえた声にはっと振り返るとーーー

「うわっ!?」

 すごい至近距離にあった顔に驚いて、ソムは思わず後方に飛び退いていた。
 その弾みで手すりを乗り越えて、川に落下しそうになった手を捕まえる、手。

「大丈夫?」

 小さな手、細い腕だというのに、思いも寄らぬ力強さでソムを引き戻す人物を、まじまじと見つめた。
 見たことのない、紅い髪の少女だった。この町の住人でないことは一目で知れた。
 年齢はソムよりも二つか三つくらい年上だろうか。まだ、決して大人と言えない年頃である。
 ーーー可愛い子だな。
 色恋にまだそれほどの興味のないソムでさえ、思わず見惚れてしまうくらい、その少女は魅力的だった。
 頬を染めて見つめてくるソムに、少女はにっこりと微笑み返す。

「どうして泣いているの? 何か、あったの?」

 小首を傾げながら問われて、ソムは慌てて目元を拭う。

「あ、いや、これは・・・」

 しどろもどろになるソムを覗き込むように、少女が顔を寄せてくる。
 端正な顔が視界いっぱいに映り込み、ソムは先程以上に顔を赤くして狼狽えていたが・・・
 その大きな瞳。磨き上げられた黒玉のような輝きの中にとめどない気遣いと優しさを見出した瞬間ーーー
 ソムは胸の内に仕舞い込んでいた想いの全てを、吐露していた。
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