神殺しの英雄

淡語モイロウ

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第一章

#15

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 エリックは自身のことを、正義感が強いとは思っていない。
 誰かのために積極的に行動するような殊勝さを持ち合わせているわけでもなく。弱者を虐げる悪を許せない等の綺麗事を言うほどのお人好しでもない。
 ましてや自分を犠牲にしてまで誰かを救おうという、自己犠牲を良しとするような、善人の鑑ともいえるほど出来た人間ではないことをはっきりと自覚している。
 そんな自分が今、起こしている行動について理由付けをするならば・・・
 ただ単に、ムカついているから。その一言に尽きる。
 エリックを駆り立てているのは、他の何でもない怒りの念だった。
 先程出会った娘のことを思い出す。
 拐かされ、ケダモノの如き性根の下衆野郎に襲われて、声も出せないほど怯え、震えて泣いていた。
 幼気いたいけな娘をそんな目にあわせた奴に対して怒りを抱くのは当然であろう。
 そう思わない奴がいたら、それはこのふざけた催しを開いた人間と同等か、それ以下の屑野郎でしかない。
 とにかく、一発ぶん殴る。
 それが今、エリックが最大の目的とするところだった。
 相手が領主であろうが関係ない・・・いや、あんな奴、もう領主と呼ぶ必要もない。
 ここに来る前に立ち寄った領主の居城で、使用人たちが言っていたのを倣い、豚野郎で充分だ。
 喪うものも、おそれるものもなくなった今、何ら躊躇する気持ちはなかった。
 もしかすると、少女を追ってあの町を出た瞬間から、自分でも気付かない内に心を決めていたのかもしれない。
 だから、絶対に逃がさない・・・!
 執念の追跡者となり、もはや領主とは呼ぶ気もない豚野郎を追いかける。
 その後ろ姿は、駆ければ駆けるだけ、見る見るうちに近づいていく。
 そこではたと、エリックは一つの事実に気付いた。
 この豚野郎・・・驚くほどの鈍足だった。
 いや、見た目からして鈍重そうだとは思っていたが、その足の遅さは想像を超えていた。
 ぜーはーぜーはー。まだそれほどの距離も駆けていないというのに、荒すぎる呼吸を繰り返しながら贅肉を揺らして走る姿は滑稽の極みである。
 本人は必死も必死なのだろうが、その努力に対してあまりにも結果が伴っていない様は、ちょっと哀れですらあった。
 これならばむしろ、その球体のような体型を活かして転がった方が速いのではないだろうか・・・
 そんな感想を抱きつつ、徐々に二人の距離は縮まっていく。
 やがて、あと少しーーー手を伸ばせば届くまでに近づいたところで・・・
 短足をもつれさせて、鈍足な逃走者がすっ転んだ。

「おっ、わっ、ぎえっ!」

 何ともみっともない声を上げて転倒・・・のみならず、走っていた勢いを体型に乗せて、その場からゴロゴロと転がっていく。
 エリックが想像していた通り、走るよりそちらの方が断然速かった。
 転がる勢いが失せて、ようやく止まったところで痛みに小さく呻きながら体を起こそうとした時である。
 グルル・・・
 獰猛さを押し殺したかのような、低い唸り声が聞こえた。
 反射的に音がした方へと向けた視線は、茂みを揺らしながら現れた姿を見つける。
 それは闇夜を獣の形に切り取ったようであった。
 狼ーーーそれも真っ黒い毛並みの。一見するとそう目に映ったが、よくよく見れば、それは狼などではない。
 爛々と光る紅い目。大きく鋭すぎる牙と爪。体を覆うのは漆黒の毛並みーーーのように見えるが、実際は硬質な鱗。
 狼に酷似していることから、その名で呼ばれるが、実際は狼とは全く別物ーーー

「へ・・・?」

 思わず気の抜けたような声を漏らした相手を獲物と見なし、狼型の魔物と呼ばれるそれは襲いかかった。

「ひ、ひっきえええええええ!」

 人間が上げる悲鳴として、これ以上滑稽なものがあるだろうか・・・そう思わずにはいられないほど情けない声が響き渡る。
 圧しかかり、喉笛を食い千切ろうと迫る牙から逃れようと、無意識のうちに懐にしまってあった本を引っ張り出す。
 ただの紙の集合体ではあるものの、重厚な装丁はとりあえず身を守る盾としては役に立った。
 突如現れた狼型の魔物に追跡相手が襲われるという展開。
 エリックはしばし呆気に取られていたが、はたと我に返り全力で駆けて距離を詰める。
 天罰が下ったとも思えなくない展開だが、あんな豚野郎でも生きたまま食われて死んでいく様を見て溜飲を下げるほど、エリックは悪趣味ではない。
 自らの振るう剣戟圏内にまで接近したところで、言霊を発動する。

<言霊を以て命ずる。硬度と切れ味の強化>

 短く、簡素な、その言葉の組み合わせは、エリックが愛剣に言霊の力を付加させる際、もっともよく用いるものだった。
 刃の中心に彫られた刻印が、ぼうっと淡い光を放つ。
 使い手であるエリックが命じた通り、硬度と切れ味を増した双剣の一振りは、硬い鱗をいとも簡単に切り裂き、魔物の体を首と胴体の二カ所に分けて寸断した。
 断末魔の叫びを上げることもなく、夥しい血と共に切り分けられた魔物が、地面にぶちまけられる。
 時間が経過すれば、この世界から淘汰されるように消えていく魔物も、しばらくは生々しい生物の成れの果てーーー死骸としてその場に形を残していた。
 ゆっくりと構えた双剣を下ろしながら、エリックは生きたまま食い殺されるところだった相手を見る。
 明確な殺意を以て襲いかかってきた脅威が、突然物言わぬ肉塊と化した。急すぎる事態の展開に思考が追いつかず、茫然自失の体でその場に座り込んでいる。

「・・・」

 この場合、どう声をかければいいのだろう。
 成り行き上、助けてしまった相手に対しての言葉に迷い、エリックは黙ったまま呆けたその顔を見つめた。
 ・・・とりあえず、捕まえておくか。
 そう思い立ち、双剣を手に持ったまま近付いて行く。
 今の今まで圧倒的恐怖にさらされていた精神は、目に映る光景を歪んだものへと変換してしまう。
 両手にぎらつく刃を携え、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるエリックの姿は命を刈り取らんとする新たな脅威にしか見えなかった。

「ひ、ひいいいいいい! 来るな、来るなああああ!」

 錯乱した叫びを上げながら、座り込んだまま後退しつつ、手に持っていた本を振り上げる。
 その瞬間、本に巻かれていた緊縛の布がはらりと解けるが、当然、気付く余裕など有りはしない。
 力任せの投擲は、狙いもへったくれもない。エリックの頭上を通り越して、そのまま飛んでいく。
 やがて勢いを減じて着地した先にあったのは、魔物の死骸。
 その上で一度跳ね上がってから地面に見開かれた状態で落ちた本ーーーその頁が、風もないのにぱらぱらと動いた。
 静かに、確実に、誰に気付かれることもなく、異変はひっそりと生じ始める。
 見開かれた本から音もなくあふれ出たのは無数の、黒い帯状の物体。
 それが魔物の死骸に巻き付き、徐々に覆っていく。
 肉が脈打つような音。骨が軋みを上げるような音。
 姿が見えないほど覆い尽くされた下から不気味な音が響く。徐々にその体積は増して、新たな姿を形成していく。
 背後で起きている異常な気配に気付き、エリックが振り返った時には既に、異変は実体を伴い、その場に顕現していた。
 巨大にして異様・・・その姿は、そう称する他になかった。
 狼型の魔物ーーー紅い目に黒い鱗に覆われた特徴から、そのことは理解できた。
 だが、そこにいる個体は、通常の狼型の魔物に比べると優に五倍以上の巨体であり、全身が歪に膨れ上がっていた。
 それはまるで、本来その大きさになり得ないものを、何らかの手段で無理矢理に巨大化させたような・・・見る者にそんな印象を抱かせる、異様極まりない姿であった。
 これまで数多くの魔物を屠ってきたエリックも初めて見る、まさに怪物と言い表すしかない存在。
 しかもこの怪物級の魔物は、どうゆうことか先ほど倒した狼型の魔物が蘇り、姿を変えたようである。
 確かに息の根を止めたはずの死骸があった場所に、突如現れたこと。首と胴体部分を無理矢理接合したかのような痕が残っていることから、その推測はおそらく間違っていないだろう。・・・何故そんなことになったのかは全く謎ではあるが。
 驚愕と混乱で半ば空白と化した思考の中、はたと気付けば眼前にその巨体が迫っていた。
 頭上に振り上げられたのは、凶悪なまでに鋭い爪の生え揃った巨大な前足。
 考えるより先んじて、体が勝手に動いた。
 命に関わるほどの危機を察する能力ーーー幼い頃から女に近付くだけで散々な目に遭ってきたエリックが修得したそのスキルは、相手が女でなくとも十二分に発揮されることが今日、この瞬間に実証された。
 危機一髪、横に大きく飛び退いて回避したが、たった今まで自分が立っていた場所を見るなり、エリックの背筋に戦慄が走る。
 エリックの代わりに一撃を受けた地面は、地表を叩き割られて、深く抉ったような痕を刻んでいた。
 あの威力を生身の人間がまともに受けようものならば、即死どころかばらばらの肉塊と化すだろう。
 有り得ない事態。有り得ない現象。
 目の前で起こっている光景は、狭量で脆弱な精神が常識として許容できる程度を既に越えていた。
 気を失い、後ろに倒れ込んだ肥満体には目もくれずに、怪物級の魔物はエリックに向き返る。
 のそりとした動作だったが、襲いかかってきた時の動きは、その巨体からは信じられないほど速かった。
 油断ならない敵であることを再認識しながら、エリックは身構える。
 両手の双剣は、未だに言霊の力を宿したままだ。
 ひたと見据える視線の先・・・怪物級の魔物は、強襲を仕掛けてくる様子はない。
 まるでエリックの実力など知れたと言わんばかりに、悠然とした足取りで近付いてくる。
 エリックから仕掛けるか。怪物級の魔物から仕掛けるか。
 一触即発の緊張感に、空気が張り詰める。
 それを破ったのは、睨み合う双方、どちらでもなかった。
 突如として発した、耳をつんざかんばかりの爆音。
 その正体は、強く打ち叩くことで生じた打撃音だ。
 ただし、その威力があまりにも凄まじく、もはや打撃ではなく爆音と称する他にない音量で、その場に轟いただけである。
 爆音の発生源は怪物級の魔物・・・そこに充分な距離からの加速を味方に付けた跳び蹴りが決まったことであった。
 あれだけの巨体が軽々と吹き飛び、目の前から忽然と消える。
 その光景をすぐ間近で目の当たりにしたエリックは、唖然とするあまり開いた口が塞がらなかった。
 硬直するエリックの前で、怪物級の魔物を蹴り飛ばした張本人は、実に優雅に軽やかに地上に着地する。一拍遅れて、宙を舞っていた紅い髪がふわりと背を覆った。

「やあ、大丈夫だった?」

 にこやかに、まるで何事もなかったかのように話しかけてきたその顔を見て、エリックは思わず呟くように訊いた。

「お前、本当に何者だよ・・・」

 訝る視線を向けても、少女はにこにこと笑うだけで何も答えない。
 無理に問い質すまでもなく、この少女が見た目通りの、ただの人間ではないこともはや明白であった。
 ため息を吐いてからエリックは怪物級の魔物が吹っ飛んでいった方向に視線を向ける。
 木々を何本もへし折りながら、相当遠くまで飛んでいったのだろう。

「何だったんだ、あれは・・・」

 双剣に纏わせていた言霊の力を消し、鞘に収めながら独り言のように呟く。
 おそらく、今の一撃で決着ケリは既についただろうと、そう思っていたのだが・・・
 遠くから聞こえてきたのは、空気を震わせる咆哮と、地面を振動させながら近付いてくる重い足音。
 まだ事態は一向に収束していないことを、不穏な気配の接近と共に悟る他なかった。
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