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第一章
#06
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「ふーん、そんな子に会ったのかー」
穏やかな昼下がり。本日は馬に乗り、自警団本部のある町から離れて巡回である。
馬の背に揺られながら、昨日あった出来事の話を聞き終えたキースの反応は、何とも淡白なものあった。
「・・・」
別に賛同して欲しかったわけでもなく、気の利いた言葉を求めていたわけでもない。
しかし、結構詳細に話してやったというのに、そんな気のない感想で済まされしまい、思わずしかめっ面を浮かべてしまう。
そんなエリックの表情を見て、苦笑しながら「変わった子だな」と、一言を付け加えた。
変わった子・・・
話を聞いただけのキースなら、その言い方で片付けられるかもしれないが、実際に会っているエリックからすれば、そんな可愛らしいものではない。
馬が歩を進める度に、右わき腹に鈍い痛みを感じながら、エリックは昨日自身に起きた出来事を、今一度振り返ってみた。
何の前触れむなく、衝撃に次ぐ衝撃で突然意識を失ったエリックだったが、呼び掛ける声と揺り動かす振動により、その後に目を覚ました。
エリックを起こしたのは、頭上から降ってきたあの男。何でも屋根の修復作業中に足を滑らしてしまったらしい。
だが男は、何事もなかったかのように無傷だった。当然エリックは何もしてない。
その理由を、未だに信じられないというような様子で男が話してくれた。
あの時、ただ落下するまま地面に叩きつけられると、覚悟した男を不意に包み込んだのは、誰かに受け止められる感触。
何が起きたか分からずに呆気にとられた男は、顔を上げて驚きのあまり言葉を失った。
そこにあったのは、愛くるしいまでの笑顔。
男を助けたのは、エリックに全く引けを取らない駆け勝負を繰り広げていた、あの紅い髪の少女だという。
何も知らない者が聞いたら、可笑しな冗談だと鼻で笑い飛ばされて終わりになるだろうが、直前に信じ難い現象を目の当たりにしていたエリックには、そんな心情など生まれはしなかった。
それはそうと、何故自分は裏路地の突き当りにある壁際で、短い間とはいえ気を失っていたのだろうか。
唯一真相を知っているであろう少女は、既に立ち去った後であり、結局お互い怪我がなくてよかった、という形でその場は収まった。
どうにも腑に落ちないまま、宿舎へ戻ったエリックだったが、妙に右のわき腹が痛むことに気付いて服を脱いでみるとーーー
そこには小さめの、人の足裏の形がまるで描いたかのように、くっきりはっきりと痕になって残っていた。
見た瞬間にエリックは理解した。
こんな如何にも「蹴りました」と言わんばかりの痕を見れば、理解するしかなかった。
今日、あの時、あの瞬間ーーー
自分はあの少女に、思い切り蹴り飛ばされたのだ。
普通に考えれば、小柄な少女に蹴り飛ばされて吹き飛ぶことなんてあり得ない。
しかし、あの少女はエリックと同等級の俊足を誇り、大の男を軽々と受け止めるような腕力の持ち主である。
もはや、その後に人一人を軽々と蹴っ飛ばしたという事実が伴ったとしても、驚くどころかもう納得するしかなかった。
その事に思い至ったエリックだったが、不思議と怒りは沸いてこなかった。
ーーー否。怒りよりも先にふと思ったのが、
「痣ってこんな綺麗にのこるもんだな」
そんな意外な発見と驚きの念だった。
むしろ怒りは、あの少女の所業よりも、そんな暢気な感想を真っ先に考えてしまった己に対して、一日経った今現在抱いている。
「はあ・・・」
回想から我に返ると、ため息が漏れた。
何だかここ最近・・・一昨日くらいから前にも増してため息か多くなった気がする。
とりあえず、あの少女には二度と会いたくない。金輪際関わり合いたくない。
そんなことを考えながら、ふと顔を上げると、隣にいたはずのキースと馬の姿が消えている。
振り返れば後方で立ち止まり、手にした望遠鏡をのぞき込んで、遠方を見ていた。
あの望遠鏡は普通に使うにも申し分ないが、言霊の力を使えば更に遠くまで見通せることが可能な刻印が刻まれている。
何か見つけたのかと、声を掛けようとした時。
「エリック、行くぞ」
唐突に言うなり、馬を走らせて先に行ってしまった。
何の説明もなく、突然動き出したキースに一瞬呆気に取られるも、とりあえずその後を追うためにエリックも馬を走らせた。
馬を早駆けさせてキースとエリックがたどり着いたのは、小さな集落だった。
「二手に分かれて捜索するぞ。俺はこっち、お前はあっちだ」
馬を下りるなり、てきぱきと指示を出すキースは、いつもの気の緩んだ、眠たそうな顔はどこへやら。別人のようにきりりと引き締まった表情となっていた。
成る程。ここに出世の種になるかもしれない要素を見つけたということか。
相棒のやる気に満ちた表情を見つめながら、エリックは納得する。
「いいか、何かあったらすぐに知らせろよ」
これを使えとばかりに、筒状の笛を渡すというか押しつけられて、思わず苦笑と共にからかいの言葉を口にした。
「何だ、心配してくれているのか?」
「いや、違う」
間髪入れずに否定の言葉が返ってきた。
その後に続く言葉は、想像に違わぬものである。
「俺の出世のためだ」
「・・・」
こうまできっぱりと言い切られると、もはや清々しい。
言うことは言ったとばかりに、キースは自分が調べると決めた方向へとさっさと歩いて行ってしまった。
一人その場に残されたエリックも、仕方ないという様子で、キースとは反対の方向へと歩き出す。
入り口に立った時から予想はしていたが、集落の中は空っぽだった。
ここで生活をしていただろう住人たちの姿は一人も見当たらず、残されているのは石造りの家屋だけ。
賊か、魔物による襲撃。天災や疫病。はたまたエリックには想像もつかない理由で、住人たちは住居を捨てて立ち去ったのだろう。
それでも、ここまで歩いてきた道中に死体が転がっているようなことはなかったので、そこまで血生臭い理由ではないはずだ。
舗装されていない道を進み、何件かの家屋を通り過ぎ、あっという間に集落の突き当りに到着した。
ただでさえ小さな集落だ。それを二手に分かれて捜索するには半刻もかからない。
来た道を引き返そうとしたところで、ふとエリックの目に何かが留まる。
扉が壊れて開けっ放しになっている一軒の家屋の前に、それは打ち捨てられたかのように落ちていた。
近付いて拾い上げる。その時になってようやく、エリックはそれが本であると理解した。
色褪せ、泥に汚れてしまい、もはや題名すら読み取れない有様から、この場所より人が失せた歳月を窺わせる。
「誰もいない、か」
そんな独り言を呟いたエリックに対して、意外なことに返答があった。
「うん、誰もいないみたいだねー」
その瞬間、エリックの意識は臨戦態勢のそれに移り変わった。
素早く周囲を見回すも・・・誰の姿も見えない。
しかし、聞こえてきた声は空耳などでは決してありえないほど明瞭なものだった。
「おーい、こっちこっちー」
再び声がする方へと視線を向けて、思わず小さな驚きと共に呆気に取られる。
上方に向けた視線の先ーーー屋根の上に声の主は立っていた。
無邪気な笑みを浮かべるその顔は、出来れば二度と関わり合いたくないと先刻にエリックが願った人物のもの。
あの、紅い髪の少女がそこにいた。
何故、どうして、と問いかけるよりも早くに、少女は屋根から飛び降りる。
着地予想は・・・すぐ目の前であると推測した瞬間にエリックは大きく後ろに飛び退いていた。
トン、小さな足音を伴い、少女は舞い降りるかのように華麗な着地を見せる。
「やあ」
まるで親しい友人に会ったかのように、片手を挙げて少女はエリックに微笑みかけた。
もう二度と会いたくなかった。関わり合いたくなかった。
しかし、もう一度会うようなことがあったら、絶対に言ってやろうと思っていたことがある。
ーーー謝れ。まず謝れ。一昨日ぶん殴ったことは勿論、昨日蹴り飛ばしたことも含めて、誠心誠意謝りやがれ!
だが、悲しいかな。人間とはあまりにも苛立ちが募りすぎると言葉が出なくなるという事を、エリックは今日、身を以て知った。
その代わりのように、ぎりぎりと渾身の力を手に込めたところで、ふと、手に持っている本の存在を思い出す。
はたと我に返って見下ろすと、エリックが思い切り力を込めて握った所の汚れが拭き取られている。
そこに見える群青の色彩は、記憶を僅かに揺さぶるものであった。
表紙を広げ、頁を捲る。
中も泥水を吸って文章や絵は滲み、汚れ、酷い有様である。頁同士がくっついてしまい、ほとんど読めないような状態だった。
しかし、奇跡的に一頁のみ、無事な箇所があった。
見開きで描かれたその絵をエリックは知っていた。
その本の題名を、知り及んでいた。
『神様を倒した英雄』
それが、今、エリックが手にしている一冊の絵本の題名だった。
懐かしい記憶が蘇り、エリックの思考を過去の追想へと誘う。
元々は、親が子供に寝物語として語り聞かせるような内容だが、この本を読んだことのある少年たちを夢中にしたのは、そこに描かれている英雄の姿である。
深紅の鎧を身に纏い、強大な言霊を宿した一対の剣を携えて、たった一人で魔物の軍勢に立ち向かったその勇姿に、エリックも含めた多くの少年たちは羨望と憧憬の念を抱いていた。
いつか、この英雄のようになりたいと、少年たちの誰しもが一度は抱き、そして成長と共に忘れていく、子供らしい幼稚な夢と理想。
エリックも漏れ無く、その一人である・・・はずなのだが、もしかしたら本人は忘れていたつもりでも、少年時代に強く心に刻まれた記憶は、ずっと胸の内に有り続けたのかもしれない。
かつて憧れたあの英雄を倣うように、自警団員として扱う武器に双剣を選んだのにも、そんな理由が影響していたのだろうか。
だとしたら、とんだお笑い草だ。とても人に堂々と話せる内容ではないが、照れはあっても恥は感じない。
何より、理由はどうあれちゃんと扱えているのだから、問題はないだろうがっ! というのがエリックの主張である。
知らずうちに、その口元には笑みが浮かんでいた。
静かに本を閉じて、胸の内を満たす懐かしさにしばし耽っていたが、はたと我に返り思い出す。
あの少女のことを、すっかり忘れていたことに。
慌てて顔を上げるものの、そこにいたはずの少女の姿はない。
それほど夢中になっていたわけでもないはずだが、足音は勿論気配すら感じさせずに立ち去ったというのだろうか。
「何なんだ、あいつは・・・」
突然現れては突然消える。
その神出鬼没さに少々薄気味悪さを感じながらも、関わり合いたくないと願っているのだから、いなくなってくれるのは有難い。
それに、酷い目にあった昨日一昨日のことを考えれば、今日は不運に見舞われなかっただけ良しとしよう。
そう、結論付けてエリックは現状ーーー自警団としての任務に意識を戻す。
キースからは何も知らせがないところをみると、あちらも異常なしということだろう。
こういった廃墟と化した集落などは魔物や山賊一味などの塒になっている場合があるのだが、キースの目論見ーーー手柄を立てて出世の点数稼ぎは、ものの見事に外れたようである。
きっと落ち込んでいるだろう相棒の顔を想像しながら、立ち去ろうとして、エリックは手にしている本をどうしたものかと考えた。
既に持ち主から遺棄されたとはいえ、このまま持ち去るわけにもいかない。
かといって、道端に転がしておくのも何だか気が引ける。
既に本としての役割は全うできないような状態だが、これ以上酷いことにならないようにと、せめてもの思いやりの気持ちが働いた。
近くにあった家屋の一軒に立ち入り、雨漏りなどをしていないことを確認した上で、そっと床の上に置いてきた。
手を離す時、一瞬だけ躊躇うような気持ちが生まれたが、引き留めるほどの引力はなく。
屈めていた身を起こすと、踵を返してエリックはその場を立ち去った。
穏やかな昼下がり。本日は馬に乗り、自警団本部のある町から離れて巡回である。
馬の背に揺られながら、昨日あった出来事の話を聞き終えたキースの反応は、何とも淡白なものあった。
「・・・」
別に賛同して欲しかったわけでもなく、気の利いた言葉を求めていたわけでもない。
しかし、結構詳細に話してやったというのに、そんな気のない感想で済まされしまい、思わずしかめっ面を浮かべてしまう。
そんなエリックの表情を見て、苦笑しながら「変わった子だな」と、一言を付け加えた。
変わった子・・・
話を聞いただけのキースなら、その言い方で片付けられるかもしれないが、実際に会っているエリックからすれば、そんな可愛らしいものではない。
馬が歩を進める度に、右わき腹に鈍い痛みを感じながら、エリックは昨日自身に起きた出来事を、今一度振り返ってみた。
何の前触れむなく、衝撃に次ぐ衝撃で突然意識を失ったエリックだったが、呼び掛ける声と揺り動かす振動により、その後に目を覚ました。
エリックを起こしたのは、頭上から降ってきたあの男。何でも屋根の修復作業中に足を滑らしてしまったらしい。
だが男は、何事もなかったかのように無傷だった。当然エリックは何もしてない。
その理由を、未だに信じられないというような様子で男が話してくれた。
あの時、ただ落下するまま地面に叩きつけられると、覚悟した男を不意に包み込んだのは、誰かに受け止められる感触。
何が起きたか分からずに呆気にとられた男は、顔を上げて驚きのあまり言葉を失った。
そこにあったのは、愛くるしいまでの笑顔。
男を助けたのは、エリックに全く引けを取らない駆け勝負を繰り広げていた、あの紅い髪の少女だという。
何も知らない者が聞いたら、可笑しな冗談だと鼻で笑い飛ばされて終わりになるだろうが、直前に信じ難い現象を目の当たりにしていたエリックには、そんな心情など生まれはしなかった。
それはそうと、何故自分は裏路地の突き当りにある壁際で、短い間とはいえ気を失っていたのだろうか。
唯一真相を知っているであろう少女は、既に立ち去った後であり、結局お互い怪我がなくてよかった、という形でその場は収まった。
どうにも腑に落ちないまま、宿舎へ戻ったエリックだったが、妙に右のわき腹が痛むことに気付いて服を脱いでみるとーーー
そこには小さめの、人の足裏の形がまるで描いたかのように、くっきりはっきりと痕になって残っていた。
見た瞬間にエリックは理解した。
こんな如何にも「蹴りました」と言わんばかりの痕を見れば、理解するしかなかった。
今日、あの時、あの瞬間ーーー
自分はあの少女に、思い切り蹴り飛ばされたのだ。
普通に考えれば、小柄な少女に蹴り飛ばされて吹き飛ぶことなんてあり得ない。
しかし、あの少女はエリックと同等級の俊足を誇り、大の男を軽々と受け止めるような腕力の持ち主である。
もはや、その後に人一人を軽々と蹴っ飛ばしたという事実が伴ったとしても、驚くどころかもう納得するしかなかった。
その事に思い至ったエリックだったが、不思議と怒りは沸いてこなかった。
ーーー否。怒りよりも先にふと思ったのが、
「痣ってこんな綺麗にのこるもんだな」
そんな意外な発見と驚きの念だった。
むしろ怒りは、あの少女の所業よりも、そんな暢気な感想を真っ先に考えてしまった己に対して、一日経った今現在抱いている。
「はあ・・・」
回想から我に返ると、ため息が漏れた。
何だかここ最近・・・一昨日くらいから前にも増してため息か多くなった気がする。
とりあえず、あの少女には二度と会いたくない。金輪際関わり合いたくない。
そんなことを考えながら、ふと顔を上げると、隣にいたはずのキースと馬の姿が消えている。
振り返れば後方で立ち止まり、手にした望遠鏡をのぞき込んで、遠方を見ていた。
あの望遠鏡は普通に使うにも申し分ないが、言霊の力を使えば更に遠くまで見通せることが可能な刻印が刻まれている。
何か見つけたのかと、声を掛けようとした時。
「エリック、行くぞ」
唐突に言うなり、馬を走らせて先に行ってしまった。
何の説明もなく、突然動き出したキースに一瞬呆気に取られるも、とりあえずその後を追うためにエリックも馬を走らせた。
馬を早駆けさせてキースとエリックがたどり着いたのは、小さな集落だった。
「二手に分かれて捜索するぞ。俺はこっち、お前はあっちだ」
馬を下りるなり、てきぱきと指示を出すキースは、いつもの気の緩んだ、眠たそうな顔はどこへやら。別人のようにきりりと引き締まった表情となっていた。
成る程。ここに出世の種になるかもしれない要素を見つけたということか。
相棒のやる気に満ちた表情を見つめながら、エリックは納得する。
「いいか、何かあったらすぐに知らせろよ」
これを使えとばかりに、筒状の笛を渡すというか押しつけられて、思わず苦笑と共にからかいの言葉を口にした。
「何だ、心配してくれているのか?」
「いや、違う」
間髪入れずに否定の言葉が返ってきた。
その後に続く言葉は、想像に違わぬものである。
「俺の出世のためだ」
「・・・」
こうまできっぱりと言い切られると、もはや清々しい。
言うことは言ったとばかりに、キースは自分が調べると決めた方向へとさっさと歩いて行ってしまった。
一人その場に残されたエリックも、仕方ないという様子で、キースとは反対の方向へと歩き出す。
入り口に立った時から予想はしていたが、集落の中は空っぽだった。
ここで生活をしていただろう住人たちの姿は一人も見当たらず、残されているのは石造りの家屋だけ。
賊か、魔物による襲撃。天災や疫病。はたまたエリックには想像もつかない理由で、住人たちは住居を捨てて立ち去ったのだろう。
それでも、ここまで歩いてきた道中に死体が転がっているようなことはなかったので、そこまで血生臭い理由ではないはずだ。
舗装されていない道を進み、何件かの家屋を通り過ぎ、あっという間に集落の突き当りに到着した。
ただでさえ小さな集落だ。それを二手に分かれて捜索するには半刻もかからない。
来た道を引き返そうとしたところで、ふとエリックの目に何かが留まる。
扉が壊れて開けっ放しになっている一軒の家屋の前に、それは打ち捨てられたかのように落ちていた。
近付いて拾い上げる。その時になってようやく、エリックはそれが本であると理解した。
色褪せ、泥に汚れてしまい、もはや題名すら読み取れない有様から、この場所より人が失せた歳月を窺わせる。
「誰もいない、か」
そんな独り言を呟いたエリックに対して、意外なことに返答があった。
「うん、誰もいないみたいだねー」
その瞬間、エリックの意識は臨戦態勢のそれに移り変わった。
素早く周囲を見回すも・・・誰の姿も見えない。
しかし、聞こえてきた声は空耳などでは決してありえないほど明瞭なものだった。
「おーい、こっちこっちー」
再び声がする方へと視線を向けて、思わず小さな驚きと共に呆気に取られる。
上方に向けた視線の先ーーー屋根の上に声の主は立っていた。
無邪気な笑みを浮かべるその顔は、出来れば二度と関わり合いたくないと先刻にエリックが願った人物のもの。
あの、紅い髪の少女がそこにいた。
何故、どうして、と問いかけるよりも早くに、少女は屋根から飛び降りる。
着地予想は・・・すぐ目の前であると推測した瞬間にエリックは大きく後ろに飛び退いていた。
トン、小さな足音を伴い、少女は舞い降りるかのように華麗な着地を見せる。
「やあ」
まるで親しい友人に会ったかのように、片手を挙げて少女はエリックに微笑みかけた。
もう二度と会いたくなかった。関わり合いたくなかった。
しかし、もう一度会うようなことがあったら、絶対に言ってやろうと思っていたことがある。
ーーー謝れ。まず謝れ。一昨日ぶん殴ったことは勿論、昨日蹴り飛ばしたことも含めて、誠心誠意謝りやがれ!
だが、悲しいかな。人間とはあまりにも苛立ちが募りすぎると言葉が出なくなるという事を、エリックは今日、身を以て知った。
その代わりのように、ぎりぎりと渾身の力を手に込めたところで、ふと、手に持っている本の存在を思い出す。
はたと我に返って見下ろすと、エリックが思い切り力を込めて握った所の汚れが拭き取られている。
そこに見える群青の色彩は、記憶を僅かに揺さぶるものであった。
表紙を広げ、頁を捲る。
中も泥水を吸って文章や絵は滲み、汚れ、酷い有様である。頁同士がくっついてしまい、ほとんど読めないような状態だった。
しかし、奇跡的に一頁のみ、無事な箇所があった。
見開きで描かれたその絵をエリックは知っていた。
その本の題名を、知り及んでいた。
『神様を倒した英雄』
それが、今、エリックが手にしている一冊の絵本の題名だった。
懐かしい記憶が蘇り、エリックの思考を過去の追想へと誘う。
元々は、親が子供に寝物語として語り聞かせるような内容だが、この本を読んだことのある少年たちを夢中にしたのは、そこに描かれている英雄の姿である。
深紅の鎧を身に纏い、強大な言霊を宿した一対の剣を携えて、たった一人で魔物の軍勢に立ち向かったその勇姿に、エリックも含めた多くの少年たちは羨望と憧憬の念を抱いていた。
いつか、この英雄のようになりたいと、少年たちの誰しもが一度は抱き、そして成長と共に忘れていく、子供らしい幼稚な夢と理想。
エリックも漏れ無く、その一人である・・・はずなのだが、もしかしたら本人は忘れていたつもりでも、少年時代に強く心に刻まれた記憶は、ずっと胸の内に有り続けたのかもしれない。
かつて憧れたあの英雄を倣うように、自警団員として扱う武器に双剣を選んだのにも、そんな理由が影響していたのだろうか。
だとしたら、とんだお笑い草だ。とても人に堂々と話せる内容ではないが、照れはあっても恥は感じない。
何より、理由はどうあれちゃんと扱えているのだから、問題はないだろうがっ! というのがエリックの主張である。
知らずうちに、その口元には笑みが浮かんでいた。
静かに本を閉じて、胸の内を満たす懐かしさにしばし耽っていたが、はたと我に返り思い出す。
あの少女のことを、すっかり忘れていたことに。
慌てて顔を上げるものの、そこにいたはずの少女の姿はない。
それほど夢中になっていたわけでもないはずだが、足音は勿論気配すら感じさせずに立ち去ったというのだろうか。
「何なんだ、あいつは・・・」
突然現れては突然消える。
その神出鬼没さに少々薄気味悪さを感じながらも、関わり合いたくないと願っているのだから、いなくなってくれるのは有難い。
それに、酷い目にあった昨日一昨日のことを考えれば、今日は不運に見舞われなかっただけ良しとしよう。
そう、結論付けてエリックは現状ーーー自警団としての任務に意識を戻す。
キースからは何も知らせがないところをみると、あちらも異常なしということだろう。
こういった廃墟と化した集落などは魔物や山賊一味などの塒になっている場合があるのだが、キースの目論見ーーー手柄を立てて出世の点数稼ぎは、ものの見事に外れたようである。
きっと落ち込んでいるだろう相棒の顔を想像しながら、立ち去ろうとして、エリックは手にしている本をどうしたものかと考えた。
既に持ち主から遺棄されたとはいえ、このまま持ち去るわけにもいかない。
かといって、道端に転がしておくのも何だか気が引ける。
既に本としての役割は全うできないような状態だが、これ以上酷いことにならないようにと、せめてもの思いやりの気持ちが働いた。
近くにあった家屋の一軒に立ち入り、雨漏りなどをしていないことを確認した上で、そっと床の上に置いてきた。
手を離す時、一瞬だけ躊躇うような気持ちが生まれたが、引き留めるほどの引力はなく。
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