徒花の彼

砂詠 飛来

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裏庭の彼

九、

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 天罰なのか判らないけれど、ぼくはあの裏庭の件の夜、急に熱を出して一週間も寝込んでしまった。

 携帯電話には、原瀬くんからの着信やメールでパンクしそうだった。たぶん、須堂先生から聞いたんだろう。個人情報なんてあったもんじゃない。

 震える携帯の音を耳に、呆けながらずっと天井を眺めていた。いまでも、どうして結城にキスなんかしてしまったんだろうと思い耽る。後悔は、していない。

 でもあのとき、どうしてもしてみたくなったのだ。嫌われてもいい、もう会えなくてもいいから、いまのこの一瞬を結城に捧げたい――あのときどう思っていたか自分でも判らないけれど、いま落ち着いて考えるとそんな心境だったんじゃないかと思う。

 ぐるぐると想いをめぐらせていたら、幾度も幾度も涙が出てきて、ただでさえ視力が悪いのに天井はずっとぼやけて色しか判らないままだった。

 結城に会ったらまずあの雨の日のことを謝らなきゃ、そして恨み節のひとつやふたつ言ってやらなきゃ、たくさんたくさん毎日考えていたのに、僕は自分で台無しにしてしまった。

 きっともう、修復できないくらい結城に嫌われた。僕のせいで彼はもう学校には来ないかもしれない。

 すっかりくなり、登校すると教師やクラスメイトがやたら声をかけてきた。こんな僕なんかのこと心配しなくたっていいのに。構わなくていいのに。

 溜まっていたプリントやテストは、須堂先生が預かっていた。放課後を目いっぱい使って、須堂先生監督のもと溜まったテストを受ける。いつもの、生活係の教室。

「ねぇ。橋本、居たんでしょ」

 最後のテストがおわり、ペンを置いたところで先生に訊かれた。

「え」

「原瀬が言ってた」

「は」

 いきなりすぎてわけが判らない。

「君が休む前だよ。橋本と一緒に居る君を見たって原瀬くんが。あ、そういえばホチキス壊しちゃったんだって? 生徒会が原瀬くんを叱ってたよ」

 それは、悪いことをした。――だけど、なにがどうなっているんだ。

「結城が居たって、いつの話ですか」

「君がホチキスを壊した日」

 あのときのことを言っているのか。それを、原瀬くんが言っていた? ということは、あの裏庭でのことを、見られていたのか?

「なんとか委員会だけでも顔出してくれないかな~。どうせ作業してるんだし」

「作業? 結城が?」

「鯉のエサやりと草むしりは彼の仕事だもの。そのためだけに登校してるからね」

「え。先生、結城が学校に来てること知ってるんですか」

 原瀬くんもそんなことを言っていたっけ。

「知ってるよ。だって顧問だからね」

「なんで、僕に言ってくれなかったんですか」

「えー‥‥失念していたなぁ」

「それに、結城が毎日エサやりに来てるって、僕だって当番の日があったのに」

「ああ、それね。橋本はそれ把握してたよきっと」

 先生がそう言った瞬間、教室に原瀬くんが入ってきた。それと入れ替わるように須堂先生が立ちあがった。

「採点しとくね。それじゃ、あとはお若いふたりで」

「あ、ちょっと‥‥!」

 薄汚れた白衣の背に声をかけたが、さらりと出て行かれてしまった。また、彼とふたりきりだ。

「潤一さん! もう平気なんですか?」

 どうして君は、そんなに優しい声で僕を心配できるの。

「携帯に電話してもメールしても連絡くれないから、心配してたんですよ」

「原瀬くん、悪かったね‥‥生徒会に怒られたんだって?」

「そんなのはどうでもいいんです。橋本結城と、なにかあったんですか?」

「えっ」

 やっぱり、原瀬くんは裏庭に居たのか。どこからどこまで見られていた?

「橋本結城なんですね、潤一さんの好きな人って」

「――もう終わったよ、それも」

「それは潤一さんが一方的に終わらせただけなんじゃないんですか」

 終わったもなにも、まだなにも始まっていなかったのに。僕は強引に結城への想いを消して、無かったことにしようとしている。

「ちょうどいいや、原瀬くん。君、もう判ったんでしょ。だったら、僕のことを諦めてくれないかな」

「どうしてですか。あいつは――橋本結城は、潤一さんの気持ちをなにも判っていないんですよ。そんな奴を想ったって、苦しいだけじゃないですか」

「‥‥なに、結城となにか話したの?」

「俺のほうが、潤一さんを笑顔にできます。そんなツラい顔はさせません」

 僕はそんなに苦しそうな顔をしているの? いつから笑ってないんだ?

「潤一さん」

 原瀬くんは、いつぞやの告白のときみたいに、椅子に座る僕の前に膝立ちして、おもむろに抱きしめてきた。

 わずかに早くなった呼吸、鼓動、震えている腕。どれだけの勇気を振り絞って僕なんかを抱きしめているんだろう。彼に身体を預けるだけで、抱き返しもしないし、抵抗もしない。

「原瀬くん。結城がダメだったからって、代わりに君を選ぶことはできないよ」

「あいつがダメかどうか、本人に訊いたんですか」

「ううん。訊いてない。でも、君なら判るでしょ。男が男を好きになるっていうこと」

「―――」

「結城が女の子だったら変わらず好きになっていたかって問われると、たぶん僕は素直に頷けないと思うんだ。結城が男だから、好きになったんだよ。原瀬くんはどうなの。僕が男だから? それとも、性別なんて関係ない?」

 こんな質問されても困るだろうな。

「俺は‥‥いままで誰かを好きになったことなんてないから、判りません。潤一さんが初めての人なんです」

「あらら。君の大切な初めてが僕で良かったの?」

「良いとか悪いとかも、判りません。ただ、あの日、ぶつかってしまった俺に親切にしてくれた潤一さんの笑った顔がとても可愛くて放っておけなくて、気がついたら好きになってました」

 原瀬くんは本当にすごい。思ったことを素直に口にできていると思う。僕とはちがう。原瀬くんみたいに、怒ったり飾ったりしない言葉で、結城に気持ちを伝えたかった。

「だから、潤一さん‥‥」

 原瀬くんの手が、僕のベルトに触れた。耳許で感じていた息遣いが、熱を帯びてきているのが判ってしまった。

「ちょっと待って原瀬くん、君なにしようと」

「俺のほうが良い、って判らせたいんです」

 原瀬くんは僕を椅子から引きずりおろし、硬くて冷たい床に押し倒した。震えている手で僕のベルトの金具を外しいてる様を、なぜか静かに見守ってしまう。原瀬くんの手がファスナーにかかったとき、彼は動きを止めて僕を見た。

「厭じゃ、ないんですか」

「厭だって言ったらやめてくれるの」

「判りません」

 なんだそれ。僕をどうしたいんだろう。男とのやり方とか、知ってるのかな。僕もそんなに知らないけれど。――須堂先生ならなんとなく熟知していそうだな、なんて、ふと思った。

「わっ」

 原瀬くんは僕の顔から眼鏡を外した。色と、輪郭しか判らない世界。僕の上から降ってくる声。ずし、と身体に重みが加わったのが判った。汗ばんだ手のひらが僕の頬を包み、早い呼吸が聴覚を刺激する。

「俺を、あいつの代わりにすればいい。俺は潤一さんに触れられるし、潤一さんは俺を橋本結城だと思って身を委ねればいい。そんな関係じゃ、ダメですか」

 ふいに頬から手が離れ、ズボンがすこしだけ脱がされたのが判った。今日はどんな下着だったっけ。

「やめてよ、原瀬くん」

 僕は半身を起こし、原瀬くんの手から逃れようとした。彼はそれを許さぬというように、僕のカーディガンの前を開け、ワイシャツの襟をぐっと掴んで引き寄せた。

 原瀬くんの顔が近づき、キスされる――そう思ってぎゅっと目をつぶった瞬間、怒号が降ってきた。

「鍵くらいかけとけよ」

 驚いて声のほうを見るが、誰かが教室に入ってきたのが判るくらいで、誰なのかが判らない。

「あんた‥‥」

 原瀬くんが僕を解放してくれたので、傍に置かれていた眼鏡に手を伸ばした。

「どけよ」

 視界がクリアになった瞬間、原瀬くんが蹴り飛ばされるのが見えた。蹴ったのは――結城だった。

「ゆうき、なんで――」

 僕の問いには答えず、結城は原瀬くんの胸倉をつかんで馬乗りになった。

「おいガキ。ここはホテルじゃねぇ。いや、別に誰がどこでなにしようとどうでもいいけど、鍵くらいかけとけや。まわりに迷惑だろ」

「‥‥っ。いつもは教室に来ないくせに、なにしに来たんですか」

「このあいだお前、俺に偉そうに説教しやがったろ。それのお返しに来たんだよ」

 原瀬くんは口を切ったのか、唇から血が流れていた。

「ちょっと、結城。原瀬くん怪我してるから‥‥」

 僕はにじり寄って、結城の手を触った。もめごとにしたくない。

「潤一、お前も厭だったらもうすこし抵抗しろ」

「え?」

 結城は原瀬くんの胸倉をつかんだまま立ちあがり、いま一度、彼を床に叩きつけた。

「うっ」

 そのまま結城は僕に向いて言った。

「それ、直せ」

「は?」

「ズボンだよ」

「あ、ああ‥‥」

 ベルトをきっちり閉めおわるまで待っていた結城は、

「ちょっと来い」

 と、僕の手首をつかんで、教室の外に連れ出す。怪我をした原瀬くんのことも、結城と原瀬くんの会話も、結城が教室に来たことも、気になることがありすぎる。だけど、結城の手を振り払うことはできなかった。
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