紺青の鬼

砂詠 飛来

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其のに・青鬼の面、鬼堂の大杉

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      一、

 冷たい風が吹いている。

 その風で、杉の枝が揺れる。

 薄暗い夕方のことである。

 飛行機の音。

 鳥の鳴き声。

 雲が高いところで流れている。

 ひとりの少年が、その杉の前に立っている。

 古い小さな寺の境内に立つ大杉である。

 キャラクターもののシャツを着たその少年は、そっと杉の木に近づき、幹に手を添わせた。

 少年の手のひらに、どくんどくん、と脈打つのが伝わる。

 ほのかに温かい。

 手を添わせたまま、その大杉を見あげる。

「──」

 どくんどくん、と脈打つ。

 冷たい風が吹く。

 枝が揺れる。

 飛行機。

 鳥。

 少年は、幹からそっと手を離す。

 その小さな手のひらに、赤く温かいものがべっとりと付いていた。

 血であった。

 少年は、血に濡れた手をぎゅっと握りしめた。

 再び、杉の木を見あげる。

 枝からも葉からも幹からも、血が付いていたり、流れ出ているようすはない。

 しかし、幹に触れた小さな手は、血に濡れている。

 血は、幹の表面の皮、わずかな裂け目から滲み出ているのだった。

 黒い風がどっと吹く。

 枝が大きく揺れる。

「──」

 なにかを呟いた少年の声は、ざわめく枝の音にかき消された。



      二、

「おうめちゃん、裏の庭を掃いてきてくれるかい」

 住職の妻、かさねが箒を差し出して言った。

 かさねは、ふくよかな優しい女であった。

 十七歳のお梅は、村の外れにある小さな寺に世話になっていた。

 眼が視えない祖母のために、当時十歳だったお梅は自らを犠牲にした。

 村の中心にある井戸で首をくくったのだ。

 冷たくなってゆく我が子を見て、お梅の両親は気がふれてしまった。

 発狂したのである。

 両親は、お梅が死んだと思い込んでしまったのだが、お梅は、強く気を失っていただけだった。

 しかし、精神的に衝撃を受け、記憶に齟齬が生じてしまった。

 両親のことを覚えていないのである。

 祖母のことも、もちろん、双子の兄がいたことも。

 独りとなったお梅を救ったのは安兵衛やすべえであった。

 安兵衛が、この寺へ預けたのである。

 かさねから箒を受け取り、お梅は本堂の裏へ向かう。

 この裏庭には、小さなお堂が建てられている。木々が生い茂り、たいへん薄暗い。

 その木々から枯れて落ちた葉が、庭を埋め尽くす。

 お梅は、その葉を掃き集めてゆく。

 枯れ葉の山をふたつみっつ作った頃、お梅に声をかける者があった。

「すこし、休みませんか」

 この寺の住職の息子、陽成ようぜいであった。

 お梅と同じ、十七歳である。

「陽成さん。お疲れさまです」

「ぼくも、ひと息ついたので」

 陽成は、きれいになった庭を見まわし、

「お梅さんがいつもきれいにしてくれるので、たいへん気持ちがよいです」

「わたしには、これくらいしかできませんから」

 お梅は控えめに笑う。

「それでも、助かっていますよ。寺のほかの者はお梅さんに甘えてしまって」

「でも、こんなにきれいにしても、また明日になれば元のように枯れ葉でいっぱいになってしまいます」

 すこし寂しそうな表情をしたお梅に、陽成は、

「それでよいのではありませんか」

 優しく言った。

「え?」

「それが世の常なのです。枯れるものは枯れ、落ちるものは落ちるのです。あの葉のように」

 はらはらと舞い落ちる枯れ葉を見ながら陽成は続ける。

「その落ちゆくものを、ぼくたちは止めることができない」

「そう、なのですか」

「ひとも同じことです。ひとは生まれ、そして果てる。そしてまた生まれる。それを止めることは、ぼくたちにはできません」

 陽成のことばに、お梅は首を傾げる。

 七年前に頸に喰い込んだ縄の跡は、もう薄れている。

「難しいのですね」

 お梅は言った。

「僧侶とは、こういうことをずっと考えている生き物なのですよ」

 陽成の手首の数珠が、かちり、と鳴った。

「お梅さん」

 ふいに陽成が名を呼んだ。

「はい」

 お梅が、どきりとしながら返事をすると、陽成はにっこりと微笑んで、

「ちょっと、呼んでみただけですよ」

 眼を細めて言った。

「はぁ──」

「ぼくは、もうすこししたら遠くの立派な大師さまのもとで修行しなければなりません」

「えぇ」

 小さく頷きながら、お梅の心はわずかに痛んだ。

「ぼくは僧です。父のように立派にならなければいけません。俗世と自らを切り離し、心を無にするのです。ですが‥‥」

 陽成は小さく眉をひそめ、ことばを切った。そしてお梅を見た。

「完全に俗世から切り離されてしまう前に、ぼくは、あなたに言いたいことがあります」

 陽成の眼は真剣である。

「──なんでしょう」

 お梅には、陽成の言いたいことの察しがついていた。

 だが、陽成の口から、陽成のことばで聴きたかった。

 陽成は、大きく呼吸をくり返し、口を開いた。

「ぼくは、あなたのことをお慕いしております。この想いだけ、あなたに伝えておこうと──」

 陽成は眼を伏せた。

 お梅は黙っている。

「この想いを抱えたまま修行にゆくことは、とてもできません。あなたの想いは求めません。ただ、ぼくの想いを伝えておきたかったのです‥‥勝手な男で、申しわけありません」

 陽成の声は落ち着き、どこか晴れ晴れとしていた。

「それでは、わたしの──わたしの気持ちはどうなるのですか」

「え」

「わたしの想いはどうなるのですか」

「それは、どういうことでしょう──」

 お梅は、いったん俯いてから、

「わたしも、あなたをお慕いしているのです」

「なんと──」

 陽成は、ことばが出ない。

「あなたの修行の邪魔になってはいけないと思い、このことは胸の奥に秘めておくつもりでした。でも、‥‥今日、あなたの想いを聴いて、秘めておくことはできませんでした」

 胸に手をあて、苦しそうに言うお梅。

「では、ぼくは、どうしたら」

 嬉しい気持ちと、困惑の気持ちと、どこへ気をやっていいのかが判らない。

「やっぱり、わたしは、口にするべきではなかったのでしょうか‥‥」

「いえ、決してそんなことは‥‥!」

「わたしの想いは、迷惑ではありませんか?」

「迷惑だなんて! そんなことはありません! 嬉しいのですよ」

「本当でしょうか」

 陽成の声に、お梅はほんのすこし表情を明るくする。

「わたし、待ちます。陽成さんの修行が終わるまで、ここで待っています」

「どれほどかかるか判りませんよ」

「はい。どれほどかかっても待ちます」

「──」

 陽成は、静かに頷いた。
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