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其のいち・青鬼の井戸、生き肝の眼薬
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一、
「これで、すべてが終わりか」
ひとつ、ぽつりと呟いて、その僧は井戸のなかを落ちていった。
爽やかな風が吹き抜ける、穏やかな昼下がりのことである。
僧──竹葉は、深く暗い穴のなかを落ちながら、いままでの出来事を想い出す。
村には、もう秋の風が吹きはじめている。
竹葉の身体を取り込んだ井戸は、静かにそこにある。
跳ねる飛沫しぶきや流水がかけてゆく音が、こだまとなって、竹葉の耳許で聴こえる。
竹葉は眼をつむる。
水の音が、一層、強く感じられる。
――すべての始まりは、あの女であった
岩で造られた壁をこすり、あちこちにぶつかりながら落ちる竹葉の身体は、冷たい水へと落とされた。
二、
江戸の華やかな町から、すこし外れたとある村。
田園が広がる、静かで小さな村である。
その村には一軒の豪農があった。
その豪農には、ひとり娘があり、村に住まう百姓の男たちは、その娘の婿になろうと必死であった。
娘は美しく、見る者すべてを惹きつけた。
娘はいつも屋敷に引き籠り、どの男の相手もしなかった。唯一、幼馴染の男とは交流があったが、娘の父親が決して屋敷にはあげなかった。
それでも男たちは諦めない。
娘が十七歳になった年、屋敷で婚礼の儀が執り行われた。娘が、とある百姓の男と夫婦になったのである。
なかなか相手を決めない娘に、父親は困り果て、村の男をひとり連れて来て強引に夫にしたのだ。
父親の命じた相手なら仕方ない、と娘は折れた。
しかし、この男がなかなかの二枚目で、仕事もよくこなす。
男のことを、娘もすっかり気に入ってしまった。
そのうちに、男の子をひとり授かった。
赤ん坊が立って歩くようになった頃、夫は病で死んでしまった。
働き過ぎたのである。
夫が亡くなると、娘の父親も同じ病でこの世を去ってしまった。
娘も同じように病で死んでしまうのではないかと噂されたが、赤ん坊とふたりで生き抜いた。
この娘に新たに夫を、という声があがったが、娘はそれをしなかった。
赤ん坊が成長し、八歳にもなろうかという頃、とある少年が屋敷を出入りするようになっていた。
この少年は、娘の夫の家から奉公に出されたということだった。
娘の子どもより、幾つか歳上の少年である。
娘――おしづは、我が子と同じようにこの少年を可愛がった。
娘の子の辰五郎と、奉公の竹七は、すくすくと成長していった。
兄弟のように、友人のように親しい仲であったが、互いの身分の差はつきまとった。
三、
「竹七、ちょっといいかい」
おしづが、屋敷の軒下から庭へ声をかける。
十九歳になった竹七は、庭で薪を割っていた。
竹七は、薪を割っていた手を止めて、おしづのもとへゆく。
「奥さま、竹七です。御用でしょうか」
おしづの髪には白いものが混じり、顔にもすこし皺が刻まれている。
「竹七、頼まれてくれるかい」
「はい、なんでもお申しつけを」
「今晩、村で集まりがあるんだがねぇ、それに辰五郎が出ることになっているんだが‥‥」
おしづは、白々しく困ったようなそぶりをする。
「なんでしょう」
竹七はおしづを見つめる。
「辰五郎の代わりに、お前が行って来てくれないかい」
「でも、おれが行って平気なんですか? もし、大切な集まりだったら‥‥」
「辰五郎はちょっと具合が悪くてねぇ。集まりにはわたしが行って来てもいいが、若い衆の集まりにこんな年増が顔を出すのも気が引ける。それに、わたしは看病をしてやらないと」
「はぁ──」
「だから、お前が行ってきとくれ。いいね?」
「──承知しました」
竹七は素直に頷いた。
家の奥へと消えるおしづの背を見つめながら、竹七はいろいろと考えていた。
──辰五郎は仮病だ。奥さまはおれに厭がらせをしているんだ。
これは、事実であった。竹七の思い込みなどではない。
おしづは、竹七に朝陽が昇るずいぶんと前から仕事をさせ、朝食、昼食を作らせる。掃除や洗濯もすべて竹七の仕事で、夜も食事を作らせたら遅くまで働かせる。
おしづがやるべき家事も、辰五郎がやるべき仕事も、すべて竹七がやっている。
おしづの夫と父が病で亡くなってから、稼ぎが半分になってしまい、あまり裕福な暮らしができなくなってしまった。それでも、村のなかではいちばんの豪農である。
父と夫を亡くしたおしづは、息子の辰五郎も同じように亡くしたくないという想いがある。ゆえに、辰五郎にはあまり働かせないのである。
辰五郎を可愛がるあまり、竹七につらくあたってしまう。
再び薪割りに戻った竹七に、声をかける者があった。
「竹七‥‥」
屋敷の裏の玄関から、辰五郎が出てきて、声をかけたのである。
「辰五郎さん」
小奇麗な格好をして、手には小さな土産を持っている。
「竹七、ふたりで居るときにその呼び方は無しと、そう言っているだろう」
「あ──申し訳ありません」
「敬語も禁止!」
「‥‥判ったよ、辰。でも、いつどこで奥さまが聴いているか判らないからさ」
「母さんのことは気にするなよ」
辰五郎はそう言って、竹七の肩をぽんぽんと叩く。
辰五郎の肌は白い。
外での仕事をやらないため、日に焼けないのだ。
反対に、竹七はよく日に焼けている。ただ真っ黒なのではなく、健康的な肌の色である。
「実はな、竹七──」
辰五郎はあたりを見まわし、この場に自分たち以外、誰も居ないことを確認して、
「今夜、集まりがあるんだが、おれは野暮用があって出られないんだ。だから、その──」
「代わりに、おれに出てくれってことだろ」
「そう、そうなんだよ。いいか?」
「あぁ。辰の頼みとあっちゃ、出るしかあるまい」
「すまんな、竹七」
竹七は、辰五郎が持っている土産を見て、
「お松さんに逢いにゆくのか」
と言った。
「えっ」
辰五郎は驚いて、土産を背にまわして隠す。
「隠すことはないだろう」
「あ、あぁ──」
「早いとこ嫁に来てもらって、奥さまを安心させてやれよ」
竹七は、軽く頬を緩ませた。
四、
陽も暮れ、あたりは夕闇に包まれている。
竹七は提灯をひとつ灯し、畦道をひとり歩いている。
おしづのために夕飯を作り、それから家を出た。いつ帰ってくるか判らない辰五郎の分も作ってきた。
──まるで意味がない
竹七は、ぼんやりとこのようなことを考えながら歩いていた。
「辰め、せっかく奥さまがうまい具合に口実を設けたのに」
歩みを進めるうち、あちこちにぼんやりと灯りが浮いて見える。
竹七と同じように提灯を持って村びとたちが歩いてくるのだ。
村の中心には、古い小さな井戸がある。
この井戸には言い伝えがあり、青鬼が棲んでいるという。
その昔、この村に疫病が流行したとき、青鬼たちが件の井戸水から薬を生成し、村を救ったという。それからは、この青鬼たちが村を守るために、井戸に棲んでいると伝えられている。
村びとたちは、この井戸の近くに小さな祠ほこらを作って青鬼を祀っているという。
さらに、この祠の傍に小さな納屋を作り、村の集会所としている。
集会所には、男ばかりが集まっていた。
「やあ、竹七っつあんかい」
「どうも」
ひとりの男が竹七に声をかけた。
この集まりのなかでは年長の男である。
この男の声で、集まったひとびとは提灯の灯りを頼りに竹七を見る。
「辰っつあんは?」
声をかけてきた男が訊いた。男の名は安兵衛といった。
「え──あぁ‥‥」
具合が悪くて
野暮用で
どちらを言おうか迷っていると、その男が、
「西屋のお松さんとでも逢瀬かい?」
「あの、どうしてそれを」
「いや、先刻、見かけたのさ。山向こうの茶屋にふたりで居たんだ」
「はぁ‥‥」
「竹七っつあんも大変だねぇ。おめぇんとこのおかみさん、てめぇの息子が可愛いもんだから、面倒なことはほとんど竹七っつあんに押しつけちまう」
──この男はどうしてこんなことまで知っているのか。おしづがこの集まりに来たくないと言った理由はこの男だ。
「あ、いや、良いんですよ」
竹七は繕うように笑む。
「そうかい? じゃあ、秋の奉納祭についての話をするかい」
安兵衛は言った。
「これで、すべてが終わりか」
ひとつ、ぽつりと呟いて、その僧は井戸のなかを落ちていった。
爽やかな風が吹き抜ける、穏やかな昼下がりのことである。
僧──竹葉は、深く暗い穴のなかを落ちながら、いままでの出来事を想い出す。
村には、もう秋の風が吹きはじめている。
竹葉の身体を取り込んだ井戸は、静かにそこにある。
跳ねる飛沫しぶきや流水がかけてゆく音が、こだまとなって、竹葉の耳許で聴こえる。
竹葉は眼をつむる。
水の音が、一層、強く感じられる。
――すべての始まりは、あの女であった
岩で造られた壁をこすり、あちこちにぶつかりながら落ちる竹葉の身体は、冷たい水へと落とされた。
二、
江戸の華やかな町から、すこし外れたとある村。
田園が広がる、静かで小さな村である。
その村には一軒の豪農があった。
その豪農には、ひとり娘があり、村に住まう百姓の男たちは、その娘の婿になろうと必死であった。
娘は美しく、見る者すべてを惹きつけた。
娘はいつも屋敷に引き籠り、どの男の相手もしなかった。唯一、幼馴染の男とは交流があったが、娘の父親が決して屋敷にはあげなかった。
それでも男たちは諦めない。
娘が十七歳になった年、屋敷で婚礼の儀が執り行われた。娘が、とある百姓の男と夫婦になったのである。
なかなか相手を決めない娘に、父親は困り果て、村の男をひとり連れて来て強引に夫にしたのだ。
父親の命じた相手なら仕方ない、と娘は折れた。
しかし、この男がなかなかの二枚目で、仕事もよくこなす。
男のことを、娘もすっかり気に入ってしまった。
そのうちに、男の子をひとり授かった。
赤ん坊が立って歩くようになった頃、夫は病で死んでしまった。
働き過ぎたのである。
夫が亡くなると、娘の父親も同じ病でこの世を去ってしまった。
娘も同じように病で死んでしまうのではないかと噂されたが、赤ん坊とふたりで生き抜いた。
この娘に新たに夫を、という声があがったが、娘はそれをしなかった。
赤ん坊が成長し、八歳にもなろうかという頃、とある少年が屋敷を出入りするようになっていた。
この少年は、娘の夫の家から奉公に出されたということだった。
娘の子どもより、幾つか歳上の少年である。
娘――おしづは、我が子と同じようにこの少年を可愛がった。
娘の子の辰五郎と、奉公の竹七は、すくすくと成長していった。
兄弟のように、友人のように親しい仲であったが、互いの身分の差はつきまとった。
三、
「竹七、ちょっといいかい」
おしづが、屋敷の軒下から庭へ声をかける。
十九歳になった竹七は、庭で薪を割っていた。
竹七は、薪を割っていた手を止めて、おしづのもとへゆく。
「奥さま、竹七です。御用でしょうか」
おしづの髪には白いものが混じり、顔にもすこし皺が刻まれている。
「竹七、頼まれてくれるかい」
「はい、なんでもお申しつけを」
「今晩、村で集まりがあるんだがねぇ、それに辰五郎が出ることになっているんだが‥‥」
おしづは、白々しく困ったようなそぶりをする。
「なんでしょう」
竹七はおしづを見つめる。
「辰五郎の代わりに、お前が行って来てくれないかい」
「でも、おれが行って平気なんですか? もし、大切な集まりだったら‥‥」
「辰五郎はちょっと具合が悪くてねぇ。集まりにはわたしが行って来てもいいが、若い衆の集まりにこんな年増が顔を出すのも気が引ける。それに、わたしは看病をしてやらないと」
「はぁ──」
「だから、お前が行ってきとくれ。いいね?」
「──承知しました」
竹七は素直に頷いた。
家の奥へと消えるおしづの背を見つめながら、竹七はいろいろと考えていた。
──辰五郎は仮病だ。奥さまはおれに厭がらせをしているんだ。
これは、事実であった。竹七の思い込みなどではない。
おしづは、竹七に朝陽が昇るずいぶんと前から仕事をさせ、朝食、昼食を作らせる。掃除や洗濯もすべて竹七の仕事で、夜も食事を作らせたら遅くまで働かせる。
おしづがやるべき家事も、辰五郎がやるべき仕事も、すべて竹七がやっている。
おしづの夫と父が病で亡くなってから、稼ぎが半分になってしまい、あまり裕福な暮らしができなくなってしまった。それでも、村のなかではいちばんの豪農である。
父と夫を亡くしたおしづは、息子の辰五郎も同じように亡くしたくないという想いがある。ゆえに、辰五郎にはあまり働かせないのである。
辰五郎を可愛がるあまり、竹七につらくあたってしまう。
再び薪割りに戻った竹七に、声をかける者があった。
「竹七‥‥」
屋敷の裏の玄関から、辰五郎が出てきて、声をかけたのである。
「辰五郎さん」
小奇麗な格好をして、手には小さな土産を持っている。
「竹七、ふたりで居るときにその呼び方は無しと、そう言っているだろう」
「あ──申し訳ありません」
「敬語も禁止!」
「‥‥判ったよ、辰。でも、いつどこで奥さまが聴いているか判らないからさ」
「母さんのことは気にするなよ」
辰五郎はそう言って、竹七の肩をぽんぽんと叩く。
辰五郎の肌は白い。
外での仕事をやらないため、日に焼けないのだ。
反対に、竹七はよく日に焼けている。ただ真っ黒なのではなく、健康的な肌の色である。
「実はな、竹七──」
辰五郎はあたりを見まわし、この場に自分たち以外、誰も居ないことを確認して、
「今夜、集まりがあるんだが、おれは野暮用があって出られないんだ。だから、その──」
「代わりに、おれに出てくれってことだろ」
「そう、そうなんだよ。いいか?」
「あぁ。辰の頼みとあっちゃ、出るしかあるまい」
「すまんな、竹七」
竹七は、辰五郎が持っている土産を見て、
「お松さんに逢いにゆくのか」
と言った。
「えっ」
辰五郎は驚いて、土産を背にまわして隠す。
「隠すことはないだろう」
「あ、あぁ──」
「早いとこ嫁に来てもらって、奥さまを安心させてやれよ」
竹七は、軽く頬を緩ませた。
四、
陽も暮れ、あたりは夕闇に包まれている。
竹七は提灯をひとつ灯し、畦道をひとり歩いている。
おしづのために夕飯を作り、それから家を出た。いつ帰ってくるか判らない辰五郎の分も作ってきた。
──まるで意味がない
竹七は、ぼんやりとこのようなことを考えながら歩いていた。
「辰め、せっかく奥さまがうまい具合に口実を設けたのに」
歩みを進めるうち、あちこちにぼんやりと灯りが浮いて見える。
竹七と同じように提灯を持って村びとたちが歩いてくるのだ。
村の中心には、古い小さな井戸がある。
この井戸には言い伝えがあり、青鬼が棲んでいるという。
その昔、この村に疫病が流行したとき、青鬼たちが件の井戸水から薬を生成し、村を救ったという。それからは、この青鬼たちが村を守るために、井戸に棲んでいると伝えられている。
村びとたちは、この井戸の近くに小さな祠ほこらを作って青鬼を祀っているという。
さらに、この祠の傍に小さな納屋を作り、村の集会所としている。
集会所には、男ばかりが集まっていた。
「やあ、竹七っつあんかい」
「どうも」
ひとりの男が竹七に声をかけた。
この集まりのなかでは年長の男である。
この男の声で、集まったひとびとは提灯の灯りを頼りに竹七を見る。
「辰っつあんは?」
声をかけてきた男が訊いた。男の名は安兵衛といった。
「え──あぁ‥‥」
具合が悪くて
野暮用で
どちらを言おうか迷っていると、その男が、
「西屋のお松さんとでも逢瀬かい?」
「あの、どうしてそれを」
「いや、先刻、見かけたのさ。山向こうの茶屋にふたりで居たんだ」
「はぁ‥‥」
「竹七っつあんも大変だねぇ。おめぇんとこのおかみさん、てめぇの息子が可愛いもんだから、面倒なことはほとんど竹七っつあんに押しつけちまう」
──この男はどうしてこんなことまで知っているのか。おしづがこの集まりに来たくないと言った理由はこの男だ。
「あ、いや、良いんですよ」
竹七は繕うように笑む。
「そうかい? じゃあ、秋の奉納祭についての話をするかい」
安兵衛は言った。
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