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第三章 髪切り
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九、
居間に布団が敷かれ、太助が寝ている。
頬の傷は、血が止まっている。
太助の傍らにお沙が座り、寝顔を見つめている。
――与四郎がお京を殺した
〝殺されてしまった〟と言った。
どうして与四郎が。
だが、与四郎が犯人だったとすると、辻褄が合ってしまう。
血にまみれたあの姿。
床に落ちていた幾房の髪。
そして、太助を手にかけようとした。
与四郎はなにがしたいのだろう――
なぜ、髪に執着するのか。
この後、どうすればよいのか。
与四郎を作業場に残してきたため、夫がいまどうしているのかは判らない。
どこかへ行ったのか、それともまだあの薄暗がりにいるのか、お沙にはそれすら考えられない。
江戸の町は、もう夕暮れのなかだった。
橙色に町が染まってゆく。
お沙には、もうなにをする気も起きない。
そこへ、戸口を叩く者があった。
音のするほうへ眼を向けるも、お沙は動こうとしない。
再び戸口は叩かれ、
「お沙、居るかい」
女の声がした。
聴き慣れた忍の声であった。
忍の声と判っても、お沙は動かない。
しばらくの間、忍の声がして、戸口を開ける音が響く。
忍が家のなかへ入ってきた。風呂敷包みを抱えている。
「お沙?」
居間に忍がやってきた。
呆然と座るお沙と、寝ている子ども。
「お沙、どうしたの――」
ようやく、お沙は忍を見た。
ゆっくりと見あげる。
「その子は?」
忍は、すっかり元気になっていた。
「―――」
反対に、お沙の生気が失くなっている。
「これ、返しに来たのだけれど――」
忍は、お沙に借りた着物を持ってきたのだ。
しばらく忍を見つめ、お沙はゆっくりと太助に視線を戻す。
「ねぇ、どうしたのよ」
お沙の隣に座り、顔を覗き込む。
「――忍さん」
「なに?」
「もう、だめかもしれない‥‥」
「なにがあったのよ」
「どうして、こんなことに‥‥」
消え入りそうなお沙の声。
「どうしたの。話して」
「――聞いてくれる?」
「ただ泣かれても困るのよ、話せるなら話してちょうだい」
言って、忍はお沙の背中をさする。
「ありがとう、忍さん‥‥」
床に臥せている太助を起こすといけないと思い、声をひそめながらも大粒の涙をこぼし、お沙は忍に話し始めた。
吉井の死により、筆づくりの材料が入手困難になってしまったこと。
人の髪の毛で筆をつくろうと思ったこと。
良吉の店を手伝いながら髪を得ていたこと。
お京と吉原へ行ったこと。
そして、吉原の火事、遊女の死、お京の死――
お沙の知っていることすべてを、忍に話した。
話が進むにつれ、忍の顔が険しくなってゆく。
与四郎が人を殺してしまったかもしれないということを話し終えた時には、忍はお沙を睨んでいた。
お沙は忍の表情に怯えながらも、ついさっき起きた太助のことを話した。
忍は拳を握りしめ、いままでよりも、きつくお沙を睨んでいる。
「‥‥忍さん?」
「お前のせいだ!」
突然、お沙を怒鳴りつけた。
その形相と声は、吉井の屋敷で病んでいた時と同じものだった。
忍はお沙を押し倒し、馬乗りになって頸を絞める。
お沙の細い頸に、忍の骨張った指が喰い込む。
「お前がいけないんだ! お前のせいだ! 全部お前のせいだ!」
お沙は、自分の頸を絞めている手をつかんで引き剥がそうとするが、忍の力のほうが強い。
息ができなくなって、忍の手を引っ掻きながら眼を剥くお沙。
忍も眼を剥いて、頸を絞める手に力を込める。
「お前のせいだ! お前でなくて、このわたしだったら!」
お沙に、抵抗する力が失くなってきた。
忍の手を引っ掻いていたお沙の手は、だらりと床に落ちる。
薄れてゆく意識。
忍の罵声は、お沙の耳に入るが、音だけしか判らない。言葉の意味は判らない。
「どうしてお前が!」
忍がそう叫んだ時、与四郎が顔を出した。
太助の飴の籠を抱えていた。
太助にしてしまったことを反省し、謝罪も兼ねて太助の様子を見に来たのである。
「なにをしてる!」
妻の頸を絞める忍の姿。
与四郎は、籠を放り出して忍につかみかかる。
さまざまな動物や鳥たちに形づくられた飴が畳に散らばる。
さすがの忍も、与四郎の力には敵わず、その場に転げる。
「大丈夫か、お沙!」
与四郎はお沙を抱き起こす。
お沙は咳き込み、返事ができない。
すぐに与四郎は忍に詰め寄り、その肩を激しく揺らした。
「忍! ここでなにをしている! どうしてここにいる!」
忍は、荒く呼吸をくり返すばかりで答えない。
「お沙になにをしていた!」
「‥‥っ」
「お前はお沙に感謝するべきじゃないのか。吉井が死んで、気を病んだお前の世話していたのはお沙だぞ!」
「それは、あなたの優しさでしょう?」
忍はようやく声を発した。
呼吸はまだ乱れている。
「優しさ? なにを言っている」
忍はちらりと、お沙を見た。
お沙は、まだ横になり咳き込んでいる。
「あなたが、お沙をわたしのところへ遣よこしたのでしょう?」
「それは、そうだが――」
「だから、あなたの優しさじゃない」
「なにを言っているんだ」
「照れなくたっていいじゃない」
そう言って、忍は小さく嗤い始めた。
その嗤いが、次第に大きくなり、高嗤いとなった。
「なにが可笑しい」
与四郎が訊く。与四郎は、忍の身体から手を離していた。
「与四郎さん、知ってた?」
嗤いながら言う。
「な、なにをだ」
「与四郎さんにお沙を紹介したのはわたしだけど、与四郎さんのことを心から慕っていたのは、お沙じゃなくてわたしなのよ」
「―――」
「そりゃあ、お沙だって与四郎さんのことを慕っていたかもしれない。でもね、想いはわたしのほうが、うんと強いのよ」
「冗談はよせ――」
「冗談じゃないのよ。本当よ。本当に心から――」
言いながら、今度は忍が与四郎に詰め寄る。
忍の骨張った手が、与四郎の顎をなぞる。
「わたしはあなたに恋していた。吉井と一緒になった時も、あなたがお沙と一緒になった時も、苦しくてつらくて胸が張り裂けそうだった。でも、あなたの幸せをいちばんに考えた」
「―――」
「あなたがお沙を選んだのだったら、わたしはそれを甘んじて受け入れようと心に決めた。わたしも、お沙なら、きっと良い妻になると思った。でも‥‥でも! いつまで経っても生活は豊かにならないし、子どもはできない! やっぱりだめだった! お沙じゃだめだったのよ! やっぱり、わたしが与四郎さんの妻になるべきだった!」
忍は与四郎にぎゅっと抱きつき、
「ねぇ与四郎さん! いまからでも遅くない、わたしと夫婦になりましょう?」
嘆願した。
「わたしなら、あなたを苦労させたりしない! わたしなら!」
与四郎は、忍を無理矢理引き剥がした。
「やめてくれ、忍。おれはお沙を選んだ。お沙もおれを受け入れてくれた――悪いが、おれはお前のことを、そういう眼で見たことはない」
静かに言った。
それを聞いた忍は、狂ったように叫びながら、倒れているお沙につかみかかった。
弱々しく結われたお沙の髪を乱暴につかむ。
「やっぱりお前がいけないんだ! あの時、あの茶屋で出会わなければ! 全部お前がいけないんだ!」
忍は、ぐったりとしているお沙の頬を平手で打とうとした。それを与四郎が急いで止める。
「忍! やめろ!」
忍の手首をつかみ、お沙から離す。
その弾みで、忍を押し倒すかたちに床へ倒れた。
運悪く、行燈の上に倒れてしまい、行燈の木枠が忍の後頭部に直撃した。
「うっ」
小さく呻き、行燈に張られている和紙に鮮血が飛ぶ。
「忍!」
「うっ‥‥うぅ‥‥」
忍は顔を顰め、痛みに耐えている。
虚ろな眼で与四郎を見つめる。
忍のその眼を見た瞬間、与四郎は吉原の火事の晩のことを思い出した。
――お京
「うわああああああああああ」
与四郎は絶叫して、忍の頸を両の手でがっちりとつかんだ。
「そんな眼でおれを見るなぁ! やめろ!」
つかんだ頸を大きく揺らす。
行燈の木枠に、忍の後頭部が何度も打ちつけられる。
初めのうちは、忍は咽の奥で呻いていたのだが、いつのまに静かになった。
幾度も打ちつけるうち、行燈が壊れてしまった。
飛び散る血。
こびりつく肉片。
与四郎の眼に、忍の顔はお京の顔と重なって見えたのだ。
骨肉のぶつかる音が止まない。
与四郎は絶えず、忍の頸をつかんで打ちつける。
そのうち、忍の頸の肉が、壊れた行燈の破片によって削がれ、首がおかしな方角を向いた。
与四郎は、ようやくそこで止まった。
「―――」
眼の前の光景に絶句した。
飛び散る血。
こびりつく肉片。
血の海に広がる黒髪。
ぐったりと横たわる女。
「しの、ぶ――」
与四郎は怖くなって後退る。
ふいに、後方からの視線に気がつき、振り向く。
「太助‥‥!」
太助が見ていた。
いつのまにか眼を覚ましていたのである。
「お前‥‥いつから見ていた」
「あ、あああ‥‥」
太助の表情が恐怖で引きつる。
声が出ない。
身体全体が震える。
立っていることもままならず、その場にへたり込んでしまう。
太助の着物は濡れていた。
恐怖のあまり、失禁したのだ。
与四郎は太助につかみかかり、問い詰めた。
「お前、どこから見ていた! おれが殺すのを見ていたのか!」
太助は眼を見開いて戦慄き、小刻みに震えている。
小さく呻いていたのが、次第に、悲鳴へと変わってゆく。
「あ、あ、あ‥‥ああああああ!」
子ども甲高い声が響く。
与四郎の耳に鋭く突き刺さる。
「やめろ! うるさい! 黙れ!」
与四郎は、足元に転がっていた飴細工をおもむろにつかみ、太助の小さな口へ突っ込んだ。
飴はうさぎの形をしていた。
「黙れ!」
「あがっ」
与四郎は飴を咽の奥へ、ぐりぐりと押し込む。押し込んでは抜き取り、再び突っ込む。それをくり返す。
太助の身体は、びくりびくりと痙攣する。
与四郎が夢中になって飴を押し込み、ひとつ大きく力を入れると、厭な音と感触が与四郎の手に伝わる。
その感触に驚いて、小さな太助の身体を放った。
しばらく間、太助の身体は不規則にびくり、と痙攣していたが、やがてゆっくりと動かなくなった。
太助の口からは、飴細工の木の棒が突き出、血が噴き出していた。
お沙が眼を覚ますと、二つの屍が眼前に転がっていた。
忍と太助の身体が血の海に横たわっていた。
変わり果てた、ふたりの姿。
「―――」
お沙は言葉を失う。
そして、あることに気がつき、愕然とした。
忍と太助の髪が切り取られていたのである。
――与四郎の、仕業だ
ふと部屋を見渡すと、血の足跡を見つけた。
それをおそるおそる辿ってゆくと、勝手口に与四郎がうずくまっていた。こちらに背を向けて座っている。
「――与四郎さん」
恐怖もあったが、お沙はそっと声をかける。
びく、と与四郎の肩が揺れ、ゆっくりとお沙に振り返った。
顔も着物も手も、血で染まった夫。
血にまみれた与四郎を見るのは、これで二度目だった。
「なにが、あったの――」
優しく訊ねる。
「‥‥お沙」
掠れた声。いまにも泣きそうな顔。
「お沙、これで、これで筆がつくれるぞ」
急に表情を変え、ぱぁっと明るく笑む。
「‥‥!」
与四郎は両の手になにかを持っている。
それを、お沙によく見えるように掲げた。
右手には短い髪と、左手には重く長い髪。それぞれの髪から血が滴っている。
「それ、まさか――」
「そうだ。忍と太助のものだ」
「どうして‥‥」
「どうして? だって、忍は吉井の家の人間だろう?」
「それがどうしたというの」
「おれに筆の材料を用意するのが吉井の役目だ。だから、忍にも協力してもらったんだ。吉井が居ないいま、妻のお前が役目を果たすべきじゃないのかってね」
与四郎は、くくっ、と子どものように笑う。
「それに――」
与四郎の声音が変わる。ひどく落ち着いた、低い声。
「忍はお前を殺そうとした。こんなにも可愛いお前を――」
言いながら、与四郎はお沙の頬に手を添わせる。赤く染まった手。
「いや!」
お沙は与四郎の手から逃げる。
「どうして逃げる?」
「‥‥太助ちゃんは?」
「子どもの髪でもいけるんじゃないかと思ってね。試しにだよ。ほら、この鋏を使って切ったんだよ」
与四郎は、自分の傍に置いてあった鋏を持って見せた。
茶色く錆び、血に染まっている。
「さすがは髪結い床の鋏だ。こんなに汚れて錆びても、切れ味は変わらない」
「‥‥‥」
お沙にはもう、与四郎にかけてやる言葉が出てこない。
「――そんな顔をしないでおくれ。すべて、お前のためにやったことなんだよ」
「わたしの、ため‥‥?」
「すべて、お前が愛おしくてやったことなんだよ」
「でも、人を殺すなんて‥‥」
「忍はお前を殺そうとした。だから、おれが殺した」
「忍さんは昔からの友達でしょう‥‥どうして‥‥」
「おれにはお沙のほうが大切だ」
「――すべて、わたしのせいなの?」
「せい、ではない。お沙のため、だ」
お沙の眼から涙がこぼれる。
頬を伝う。
その涙を、与四郎がそっと拭う。
お沙の頬が、血で汚れた。
「お前のためなんだよ」
ぽつりと言った。
「では‥‥わたしのためを想うなら、もうやめましょう」
お沙は、血に染まった与四郎の手を優しく包む。
「わたしのために、もうやめてください」
「‥‥だめだ」
「もうやめましょう」
「その言葉、何度お前に言われたかな」
与四郎は嘲笑する。そして、続ける。
「吉井が死に、観月さんを死なせ、お京ちゃんを殺し、忍も太助も殺してしまった――」
「―――」
「おれは疫病神だなぁ。――でも、おれは筆をつくりたいんだ。つくり続けてゆきたいんだ」
「人を殺してまで?」
「そうだ。お沙のためだ」
与四郎の揺るがない想い。その想いに、お沙も決心した。
決心というよりも、なにかいままで保たれてきたものが音をたてて爆ぜたようだった。
「――なら、わたしも命を懸けて絵を入れなくてはね」
涙と血に濡れた女は、ふっと笑んだ。
江戸の町はもう、夕闇に染まっていた。
居間に布団が敷かれ、太助が寝ている。
頬の傷は、血が止まっている。
太助の傍らにお沙が座り、寝顔を見つめている。
――与四郎がお京を殺した
〝殺されてしまった〟と言った。
どうして与四郎が。
だが、与四郎が犯人だったとすると、辻褄が合ってしまう。
血にまみれたあの姿。
床に落ちていた幾房の髪。
そして、太助を手にかけようとした。
与四郎はなにがしたいのだろう――
なぜ、髪に執着するのか。
この後、どうすればよいのか。
与四郎を作業場に残してきたため、夫がいまどうしているのかは判らない。
どこかへ行ったのか、それともまだあの薄暗がりにいるのか、お沙にはそれすら考えられない。
江戸の町は、もう夕暮れのなかだった。
橙色に町が染まってゆく。
お沙には、もうなにをする気も起きない。
そこへ、戸口を叩く者があった。
音のするほうへ眼を向けるも、お沙は動こうとしない。
再び戸口は叩かれ、
「お沙、居るかい」
女の声がした。
聴き慣れた忍の声であった。
忍の声と判っても、お沙は動かない。
しばらくの間、忍の声がして、戸口を開ける音が響く。
忍が家のなかへ入ってきた。風呂敷包みを抱えている。
「お沙?」
居間に忍がやってきた。
呆然と座るお沙と、寝ている子ども。
「お沙、どうしたの――」
ようやく、お沙は忍を見た。
ゆっくりと見あげる。
「その子は?」
忍は、すっかり元気になっていた。
「―――」
反対に、お沙の生気が失くなっている。
「これ、返しに来たのだけれど――」
忍は、お沙に借りた着物を持ってきたのだ。
しばらく忍を見つめ、お沙はゆっくりと太助に視線を戻す。
「ねぇ、どうしたのよ」
お沙の隣に座り、顔を覗き込む。
「――忍さん」
「なに?」
「もう、だめかもしれない‥‥」
「なにがあったのよ」
「どうして、こんなことに‥‥」
消え入りそうなお沙の声。
「どうしたの。話して」
「――聞いてくれる?」
「ただ泣かれても困るのよ、話せるなら話してちょうだい」
言って、忍はお沙の背中をさする。
「ありがとう、忍さん‥‥」
床に臥せている太助を起こすといけないと思い、声をひそめながらも大粒の涙をこぼし、お沙は忍に話し始めた。
吉井の死により、筆づくりの材料が入手困難になってしまったこと。
人の髪の毛で筆をつくろうと思ったこと。
良吉の店を手伝いながら髪を得ていたこと。
お京と吉原へ行ったこと。
そして、吉原の火事、遊女の死、お京の死――
お沙の知っていることすべてを、忍に話した。
話が進むにつれ、忍の顔が険しくなってゆく。
与四郎が人を殺してしまったかもしれないということを話し終えた時には、忍はお沙を睨んでいた。
お沙は忍の表情に怯えながらも、ついさっき起きた太助のことを話した。
忍は拳を握りしめ、いままでよりも、きつくお沙を睨んでいる。
「‥‥忍さん?」
「お前のせいだ!」
突然、お沙を怒鳴りつけた。
その形相と声は、吉井の屋敷で病んでいた時と同じものだった。
忍はお沙を押し倒し、馬乗りになって頸を絞める。
お沙の細い頸に、忍の骨張った指が喰い込む。
「お前がいけないんだ! お前のせいだ! 全部お前のせいだ!」
お沙は、自分の頸を絞めている手をつかんで引き剥がそうとするが、忍の力のほうが強い。
息ができなくなって、忍の手を引っ掻きながら眼を剥くお沙。
忍も眼を剥いて、頸を絞める手に力を込める。
「お前のせいだ! お前でなくて、このわたしだったら!」
お沙に、抵抗する力が失くなってきた。
忍の手を引っ掻いていたお沙の手は、だらりと床に落ちる。
薄れてゆく意識。
忍の罵声は、お沙の耳に入るが、音だけしか判らない。言葉の意味は判らない。
「どうしてお前が!」
忍がそう叫んだ時、与四郎が顔を出した。
太助の飴の籠を抱えていた。
太助にしてしまったことを反省し、謝罪も兼ねて太助の様子を見に来たのである。
「なにをしてる!」
妻の頸を絞める忍の姿。
与四郎は、籠を放り出して忍につかみかかる。
さまざまな動物や鳥たちに形づくられた飴が畳に散らばる。
さすがの忍も、与四郎の力には敵わず、その場に転げる。
「大丈夫か、お沙!」
与四郎はお沙を抱き起こす。
お沙は咳き込み、返事ができない。
すぐに与四郎は忍に詰め寄り、その肩を激しく揺らした。
「忍! ここでなにをしている! どうしてここにいる!」
忍は、荒く呼吸をくり返すばかりで答えない。
「お沙になにをしていた!」
「‥‥っ」
「お前はお沙に感謝するべきじゃないのか。吉井が死んで、気を病んだお前の世話していたのはお沙だぞ!」
「それは、あなたの優しさでしょう?」
忍はようやく声を発した。
呼吸はまだ乱れている。
「優しさ? なにを言っている」
忍はちらりと、お沙を見た。
お沙は、まだ横になり咳き込んでいる。
「あなたが、お沙をわたしのところへ遣よこしたのでしょう?」
「それは、そうだが――」
「だから、あなたの優しさじゃない」
「なにを言っているんだ」
「照れなくたっていいじゃない」
そう言って、忍は小さく嗤い始めた。
その嗤いが、次第に大きくなり、高嗤いとなった。
「なにが可笑しい」
与四郎が訊く。与四郎は、忍の身体から手を離していた。
「与四郎さん、知ってた?」
嗤いながら言う。
「な、なにをだ」
「与四郎さんにお沙を紹介したのはわたしだけど、与四郎さんのことを心から慕っていたのは、お沙じゃなくてわたしなのよ」
「―――」
「そりゃあ、お沙だって与四郎さんのことを慕っていたかもしれない。でもね、想いはわたしのほうが、うんと強いのよ」
「冗談はよせ――」
「冗談じゃないのよ。本当よ。本当に心から――」
言いながら、今度は忍が与四郎に詰め寄る。
忍の骨張った手が、与四郎の顎をなぞる。
「わたしはあなたに恋していた。吉井と一緒になった時も、あなたがお沙と一緒になった時も、苦しくてつらくて胸が張り裂けそうだった。でも、あなたの幸せをいちばんに考えた」
「―――」
「あなたがお沙を選んだのだったら、わたしはそれを甘んじて受け入れようと心に決めた。わたしも、お沙なら、きっと良い妻になると思った。でも‥‥でも! いつまで経っても生活は豊かにならないし、子どもはできない! やっぱりだめだった! お沙じゃだめだったのよ! やっぱり、わたしが与四郎さんの妻になるべきだった!」
忍は与四郎にぎゅっと抱きつき、
「ねぇ与四郎さん! いまからでも遅くない、わたしと夫婦になりましょう?」
嘆願した。
「わたしなら、あなたを苦労させたりしない! わたしなら!」
与四郎は、忍を無理矢理引き剥がした。
「やめてくれ、忍。おれはお沙を選んだ。お沙もおれを受け入れてくれた――悪いが、おれはお前のことを、そういう眼で見たことはない」
静かに言った。
それを聞いた忍は、狂ったように叫びながら、倒れているお沙につかみかかった。
弱々しく結われたお沙の髪を乱暴につかむ。
「やっぱりお前がいけないんだ! あの時、あの茶屋で出会わなければ! 全部お前がいけないんだ!」
忍は、ぐったりとしているお沙の頬を平手で打とうとした。それを与四郎が急いで止める。
「忍! やめろ!」
忍の手首をつかみ、お沙から離す。
その弾みで、忍を押し倒すかたちに床へ倒れた。
運悪く、行燈の上に倒れてしまい、行燈の木枠が忍の後頭部に直撃した。
「うっ」
小さく呻き、行燈に張られている和紙に鮮血が飛ぶ。
「忍!」
「うっ‥‥うぅ‥‥」
忍は顔を顰め、痛みに耐えている。
虚ろな眼で与四郎を見つめる。
忍のその眼を見た瞬間、与四郎は吉原の火事の晩のことを思い出した。
――お京
「うわああああああああああ」
与四郎は絶叫して、忍の頸を両の手でがっちりとつかんだ。
「そんな眼でおれを見るなぁ! やめろ!」
つかんだ頸を大きく揺らす。
行燈の木枠に、忍の後頭部が何度も打ちつけられる。
初めのうちは、忍は咽の奥で呻いていたのだが、いつのまに静かになった。
幾度も打ちつけるうち、行燈が壊れてしまった。
飛び散る血。
こびりつく肉片。
与四郎の眼に、忍の顔はお京の顔と重なって見えたのだ。
骨肉のぶつかる音が止まない。
与四郎は絶えず、忍の頸をつかんで打ちつける。
そのうち、忍の頸の肉が、壊れた行燈の破片によって削がれ、首がおかしな方角を向いた。
与四郎は、ようやくそこで止まった。
「―――」
眼の前の光景に絶句した。
飛び散る血。
こびりつく肉片。
血の海に広がる黒髪。
ぐったりと横たわる女。
「しの、ぶ――」
与四郎は怖くなって後退る。
ふいに、後方からの視線に気がつき、振り向く。
「太助‥‥!」
太助が見ていた。
いつのまにか眼を覚ましていたのである。
「お前‥‥いつから見ていた」
「あ、あああ‥‥」
太助の表情が恐怖で引きつる。
声が出ない。
身体全体が震える。
立っていることもままならず、その場にへたり込んでしまう。
太助の着物は濡れていた。
恐怖のあまり、失禁したのだ。
与四郎は太助につかみかかり、問い詰めた。
「お前、どこから見ていた! おれが殺すのを見ていたのか!」
太助は眼を見開いて戦慄き、小刻みに震えている。
小さく呻いていたのが、次第に、悲鳴へと変わってゆく。
「あ、あ、あ‥‥ああああああ!」
子ども甲高い声が響く。
与四郎の耳に鋭く突き刺さる。
「やめろ! うるさい! 黙れ!」
与四郎は、足元に転がっていた飴細工をおもむろにつかみ、太助の小さな口へ突っ込んだ。
飴はうさぎの形をしていた。
「黙れ!」
「あがっ」
与四郎は飴を咽の奥へ、ぐりぐりと押し込む。押し込んでは抜き取り、再び突っ込む。それをくり返す。
太助の身体は、びくりびくりと痙攣する。
与四郎が夢中になって飴を押し込み、ひとつ大きく力を入れると、厭な音と感触が与四郎の手に伝わる。
その感触に驚いて、小さな太助の身体を放った。
しばらく間、太助の身体は不規則にびくり、と痙攣していたが、やがてゆっくりと動かなくなった。
太助の口からは、飴細工の木の棒が突き出、血が噴き出していた。
お沙が眼を覚ますと、二つの屍が眼前に転がっていた。
忍と太助の身体が血の海に横たわっていた。
変わり果てた、ふたりの姿。
「―――」
お沙は言葉を失う。
そして、あることに気がつき、愕然とした。
忍と太助の髪が切り取られていたのである。
――与四郎の、仕業だ
ふと部屋を見渡すと、血の足跡を見つけた。
それをおそるおそる辿ってゆくと、勝手口に与四郎がうずくまっていた。こちらに背を向けて座っている。
「――与四郎さん」
恐怖もあったが、お沙はそっと声をかける。
びく、と与四郎の肩が揺れ、ゆっくりとお沙に振り返った。
顔も着物も手も、血で染まった夫。
血にまみれた与四郎を見るのは、これで二度目だった。
「なにが、あったの――」
優しく訊ねる。
「‥‥お沙」
掠れた声。いまにも泣きそうな顔。
「お沙、これで、これで筆がつくれるぞ」
急に表情を変え、ぱぁっと明るく笑む。
「‥‥!」
与四郎は両の手になにかを持っている。
それを、お沙によく見えるように掲げた。
右手には短い髪と、左手には重く長い髪。それぞれの髪から血が滴っている。
「それ、まさか――」
「そうだ。忍と太助のものだ」
「どうして‥‥」
「どうして? だって、忍は吉井の家の人間だろう?」
「それがどうしたというの」
「おれに筆の材料を用意するのが吉井の役目だ。だから、忍にも協力してもらったんだ。吉井が居ないいま、妻のお前が役目を果たすべきじゃないのかってね」
与四郎は、くくっ、と子どものように笑う。
「それに――」
与四郎の声音が変わる。ひどく落ち着いた、低い声。
「忍はお前を殺そうとした。こんなにも可愛いお前を――」
言いながら、与四郎はお沙の頬に手を添わせる。赤く染まった手。
「いや!」
お沙は与四郎の手から逃げる。
「どうして逃げる?」
「‥‥太助ちゃんは?」
「子どもの髪でもいけるんじゃないかと思ってね。試しにだよ。ほら、この鋏を使って切ったんだよ」
与四郎は、自分の傍に置いてあった鋏を持って見せた。
茶色く錆び、血に染まっている。
「さすがは髪結い床の鋏だ。こんなに汚れて錆びても、切れ味は変わらない」
「‥‥‥」
お沙にはもう、与四郎にかけてやる言葉が出てこない。
「――そんな顔をしないでおくれ。すべて、お前のためにやったことなんだよ」
「わたしの、ため‥‥?」
「すべて、お前が愛おしくてやったことなんだよ」
「でも、人を殺すなんて‥‥」
「忍はお前を殺そうとした。だから、おれが殺した」
「忍さんは昔からの友達でしょう‥‥どうして‥‥」
「おれにはお沙のほうが大切だ」
「――すべて、わたしのせいなの?」
「せい、ではない。お沙のため、だ」
お沙の眼から涙がこぼれる。
頬を伝う。
その涙を、与四郎がそっと拭う。
お沙の頬が、血で汚れた。
「お前のためなんだよ」
ぽつりと言った。
「では‥‥わたしのためを想うなら、もうやめましょう」
お沙は、血に染まった与四郎の手を優しく包む。
「わたしのために、もうやめてください」
「‥‥だめだ」
「もうやめましょう」
「その言葉、何度お前に言われたかな」
与四郎は嘲笑する。そして、続ける。
「吉井が死に、観月さんを死なせ、お京ちゃんを殺し、忍も太助も殺してしまった――」
「―――」
「おれは疫病神だなぁ。――でも、おれは筆をつくりたいんだ。つくり続けてゆきたいんだ」
「人を殺してまで?」
「そうだ。お沙のためだ」
与四郎の揺るがない想い。その想いに、お沙も決心した。
決心というよりも、なにかいままで保たれてきたものが音をたてて爆ぜたようだった。
「――なら、わたしも命を懸けて絵を入れなくてはね」
涙と血に濡れた女は、ふっと笑んだ。
江戸の町はもう、夕闇に染まっていた。
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